第81話:今更すぎる疑問と、大爆笑の王女様 〜名前を知らなくても、心は先に近づいている〜
魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」のリビングには、珍しく重たい沈黙が落ちていた。
午後の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
淡い金色の線になった日差しは、テーブルの上に置かれたティーカップの縁を静かに照らし、湯気の残る紅茶の表面に、ゆらゆらと小さな揺らめきを作っていた。
いつもなら、この時間はもっと騒がしい。
瞬が余ったお菓子を当然のように自分の皿へ移し、アリスがそれを当然のように没収し、ゼイクが「食事は体を作る基礎だ」と真顔で説教を始め、メイが慌てておかわりを用意し、エリーゼがその隙に妙な薬草茶を混ぜようとして止められる。
そんな、どうしようもなく騒がしくて、けれど不思議と安心する日常が、この車内にはあった。
だが今は違う。
全員がテーブルを囲み、深刻な顔をしていた。
空調の低い音だけが、床の下からかすかに響いている。外では風が草を撫でているのか、車体の外板を細く擦るような音が、ときおり耳の奥に届いた。
メイは膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、心配そうに瞬を見ている。
ゼイクは腕を組み、眉間に深いしわを寄せている。
アリスは扇子を閉じたまま、珍しく口を挟まない。
エリーゼでさえ、グラスを傾ける手を止めていた。
アリアは、その空気に飲まれ、カップを持ったまま固まっていた。
何か、とんでもない事態が起きているのだろうか。
そう思ってしまうほど、皆の顔が真剣だった。
やがて、瞬がゆっくりと口を開いた。
「……なぁ、みんな」
その声は低かった。
いつもの軽さが、ほんの少しだけ消えている。
「俺たち、とんでもなく大事なことを忘れてる気がする」
テーブルの上に、さらに重たい沈黙が落ちた。
ゼイクが、ごくりと喉を鳴らした。
アリスの指が、閉じた扇子の骨をかすかに鳴らす。
メイが息を呑む。
「……実は俺も、薄々そうではないかと思っていた」
ゼイクが、重々しく頷いた。
「いや、正確には、考えないようにしていたのかもしれん」
「ちょっと待ちなさいよ」
アリスが目を細めた。
「それ、私も心当たりあるわ。だけど、あまりにも自然に一緒にいたから、誰も言い出さなかったのよね」
「何の話ですの?」
エリーゼが静かに尋ねる。
瞬は、少しだけ気まずそうに頬をかいた。
それから、テーブルの向こうに座るアリアへ視線を向ける。
「……アリア」
「な、何?」
突然名を呼ばれ、アリアの肩がわずかに跳ねた。
瞬は、ひどく申し訳なさそうな顔をした。
「俺たちさ。お前が何であんなにボロボロになってたのか、ちゃんと聞いてなかった」
その言葉が落ちた瞬間、車内の空気が変わった。
ふざけた話ではなかった。
軽く笑って流せることでもなかった。
地下牢。
冷たい石床。
鎖。
痩せ細った手首。
乾いた唇。
人を信じることを諦めかけた、あの緑の瞳。
瞬たちは、アリアと出会った。
そして助けた。
けれど、そのあと彼らは、彼女を質問責めにしなかった。
問い詰めなかった。
無理に過去を掘り返さなかった。
温かい食事を出し、服を用意し、風呂に入らせ、外の景色を見せ、くだらない会話の輪の中に、少しずつ彼女の居場所を作った。
その優しさは本物だった。
けれど同時に、あまりにも自然すぎた。
「俺たちは、お前が話したくなるまで待とうと思ってた」
瞬は続けた。
「でも……待つつもりでいたら、なんか普通に一緒に飯食って、普通に移動して、普通に喧嘩して、普通に笑って……気づいたら、肝心なことを聞かないままここまで来てた」
メイが、しゅんと肩を落とした。
「私も……すみません。アリアさんがつらそうだったから、聞いちゃいけない気がして……でも、本当は心配してました」
「私も不覚だ」
ゼイクが額に手を当てた。
「身元も、事情も、出自も確認せず、ただ『保護した相手』として接していた。元騎士として、あまりにも抜けている」
「まあ、ゼイクの場合は、途中から完全に『野菜を食べさせる相手』になってたわよね」
アリスが淡々と言った。
「うっ……」
ゼイクが胸を押さえた。
「それは……否定できん」
「私は研究対象として大変興味深く観察していましたけれど」
エリーゼが涼しい顔で言う。
「もちろん、無理に話させるつもりはありませんでしたわ。けれど、たしかに、私たちはアリアさんのことをあまりにも知らないまま、随分と親しくなってしまいましたわね」
それは、責める言葉ではなかった。
むしろ、皆がそれぞれの形で、アリアを気遣っていたのだとわかる言葉だった。
アリアは、何も言えなかった。
胸の奥に、奇妙な温かさが広がっていく。
同時に、少しだけおかしさも込み上げてきた。
この人たちは本当に変だ。
助けた相手の素性も知らず、危険かもしれないと疑うより先に食事を出す。
どこから来たかを問い詰めるより先に、服のサイズを気にする。
過去を暴こうとするより先に、温かい場所を用意する。
警戒心がないのか。
優しすぎるのか。
それとも、ただ抜けているだけなのか。
きっと全部だ。
アリアの指先から、カップの緊張が少しずつ抜けていく。
紅茶の表面に映っていた自分の顔が、小さく揺れた。
その顔は、思っていたよりも柔らかかった。
「……ふ」
小さな息が漏れた。
瞬が目を瞬かせる。
「アリア?」
「ふふっ……」
肩が震えた。
一度こぼれた笑いは、もう止まらなかった。
「ふふ……あは、あははははっ!」
アリアはとうとう、テーブルに片手をついて笑い出した。
大きな声で。
涙が滲むほど。
息が苦しくなるほど。
それは、これまでのアリアからは想像できない笑い方だった。
澄ましたエルフの姫君でも、傷ついた逃亡者でもない。
年相応の少女が、どうしようもなくおかしなものを見て、我慢できずに吹き出したような笑い方だった。
「ど、どうした!?」
瞬が本気で慌てた。
「急に爆発したぞ!?」
「笑い方の表現が失礼です、瞬さん!」
メイが慌てて止める。
アリアは目尻の涙を指で拭いながら、まだ笑いを噛み殺せずにいた。
「だって……だって、あなたたち、本当におかしいのよ」
「おかしい?」
「ええ。今更すぎるわ」
アリアは、深く息を吸った。
けれど口元には、まだ抑えきれない笑みが残っている。
「あなたたち、私のことを心配してくれていたのに……私が何者か、ほとんど知らないじゃない」
全員が固まった。
外を抜ける風が、車体を軽く撫でた。
カーテンがわずかに揺れ、光の筋がテーブルの上を横切る。
「私がエルフで、名前がアリア。それくらいでしょう?」
「……」
「……」
「……」
沈黙。
瞬が、ゆっくりとメイを見る。
メイが、困った顔でゼイクを見る。
ゼイクが、額に汗を浮かべてアリスを見る。
アリスが、扇子で口元を隠しながら視線を逸らす。
「……確かに」
四人の声が、妙に綺麗に重なった。
アリアはまた笑いそうになった。
この人たちは、私を肩書きで見なかった。
種族で測らなかった。
利用価値で判断しなかった。
ただ、目の前にいた傷ついた誰かを助けた。
そして、その誰かを、いつの間にか食卓の一員にしていた。
それがどれほどおかしなことか。
そして、どれほど救われることか。
アリアは、今になってようやく理解した。
「本当に……変な人たち」
呆れたように言ったつもりだった。
けれど、その声は思った以上に優しかった。
アリアはカップを置いた。
陶器が受け皿に触れ、カチリと小さな音を立てる。
その音を境に、彼女の空気が変わった。
笑みは消えない。
けれど背筋がすっと伸び、肩の線が整い、瞳の奥に静かな光が宿る。
今まで隠していたものを、もう隠さないと決めた顔だった。
「いい機会ね」
アリアは、ゆっくりと皆を見渡した。
「改めて、自己紹介をさせてもらうわ」
瞬たちが息を呑む。
リビングの中に、柔らかな午後の光が満ちている。
風の音が遠ざかり、空調の低い響きさえ消えたように感じられた。
アリアは、静かに告げた。
「私の本当の名は、アリア・シルフィード」
その声は澄んでいた。
森の朝に落ちる、一滴の露のように。
「エルフ族の氏族長の娘。あなたたちの言葉で言えば――エルフの王女よ」
時が止まった。
ほんの一瞬だけ、リビングの中から音という音が消えた。
カップの湯気が揺れる。
午後の光が、アリアの銀糸のような髪を淡く照らす。
窓の外を流れる風が、遠くで草を撫でているはずなのに、その音さえ誰の耳にも届いていなかった。
瞬は、口を開けたまま固まっていた。
アリスは扇子を持つ手を止め、青い瞳をまん丸にしている。
メイは瞬きを忘れたようにアリアを見つめ、ゼイクは椅子に座ったまま背筋を硬直させていた。
エリーゼのグラスの中で、赤い液体だけが静かに揺れている。
次の瞬間。
「「「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」」」」」
五人の叫び声が、見事なまでに重なった。
車内の空気が震え、テーブルの上のスプーンがカタカタと跳ねる。
メイは驚きのあまり椅子から半分ずり落ち、ゼイクは立ち上がろうとして膝をテーブルにぶつけた。
「お、おま、お前……王女様だったのか!?」
瞬が、椅子を蹴るように立ち上がった。
その顔には、戦場で魔物の群れを見た時よりもよほど純粋な驚愕が浮かんでいる。
「いや、待て待て待て! 俺たち、王女様を普通に連れ回してたのか!? 温泉入ったり、買い物したり、揚げパン食わせたりしてたのか!?」
「揚げパンは私も食べたわ」
アリアが涼しい顔で言う。
「そこじゃない!」
瞬が頭を抱えた。
アリスも、ようやく我に返ったように扇子を開いた。
だが、その手つきは少し震えている。
「ちょっと待ちなさいよ。エルフの氏族長の娘ってことは、実質、国家中枢の超重要人物じゃない。そんな相手を……私たち、コタツで蜜柑食べながら雑に扱ってなかった?」
「コタツで寝落ちしていたのは瞬よ」
「そこも問題なのよ!」
アリスが瞬を睨んだ。
瞬とアリスの驚きは、大きくはあるが、どこかまだ軽かった。
突然、友達が大企業の令嬢だと知ったような、現実感の追いつかない驚きだ。
だが、現地の常識を知る者たちの反応は、まったく違っていた。
「お……王女殿下……」
ゼイクの声が、かすれていた。
先ほどまで膝をぶつけて痛がっていた男の顔から、みるみる血の気が引いていく。
元騎士団長として、国家間の緊張も、王族という存在の重さも、彼は骨身に染みて知っている。
エルフ族の王女。
それも、敵国領内で地下牢に繋がれていた相手。
ただの保護対象ではない。
扱いを一歩間違えれば、国と国が燃えるどころでは済まない。
「私は……」
ゼイクはゆっくりと両手で顔を覆った。
「私は、王女殿下に向かって……野菜を残すなと説教を……」
「したわね」
アリアが静かに頷く。
「しかも、苦手なら細かく刻んでスープに入れるぞ、と……」
「言ってたわね」
「万死……」
ゼイクが、がくりと膝をついた。
「いや、万死でも足りん……。国家の威信に泥を塗った。騎士道以前の問題だ。外交事故だ。いや、これはもはや外交爆発だ……」
彼はそのまま床に両手をつき、魂が抜けたような顔で沈黙した。
エリーゼも平静ではなかった。
「……王女殿下」
その美しい顔が、珍しく引きつっている。
「私、王女殿下の髪の毛を、成分分析のために一本いただきましたわね」
「ええ。三本だったわ」
「三本」
エリーゼの手から、グラスが滑り落ちた。
パリン、と澄んだ音を立てて割れ、赤い液体が床に散る。
その色が妙に鮮やかで、車内の空気に不穏な緊張を混ぜ込んだ。
「王族の髪を無断で採取……いえ、半ば強引に採取……これは、研究者としても貴族としても完全に終わりですわ。処刑台の上で研究記録の続きを書くしかありませんわね」
「落ち着け、エリーゼ。処刑台に研究机はない」
瞬が言う。
「そこを心配している場合ではありませんわ!」
エリーゼが珍しく声を荒らげた。
メイに至っては、完全に混乱していた。
「あ、あの、あの、アリアさんが王女様で……王女様に私、お茶を出して……えっと、お砂糖を二つ入れて……でも、昨日はクッキーの端っこが少し欠けていて……あわわわわ……!」
メイは慌てて立ち上がり、深く頭を下げようとして、テーブルの角に額をぶつけた。
「いたっ!」
「メイ、大丈夫!?」
アリアが思わず身を乗り出す。
「だ、大丈夫です! 王女様に心配されるなんて、とんでもないです!」
「だから、そういうのはいいのよ」
アリアは苦笑した。
その様子を見て、胸の奥に小さな温もりが灯った。
彼らは混乱している。
驚いている。
恐れている者すらいる。
けれど、その根にあるのは、自分を利用しようという欲ではなかった。
もっと早く気づくべきだったという後悔。
失礼をしてしまったという申し訳なさ。
そして、それでも目の前にいるアリアを心配する優しさ。
アリアは、静かに目を細めた。
地下牢で見た人間たちは、違った。
彼女を疑い、縛り、壊れ物ではなく厄介な荷物のように扱った。
弱っている者を見ても、そこにある命ではなく、危険か価値かだけを測った。
だから、人間はそういうものだと思っていた。
だが、この人たちは違う。
愚かで、騒がしくて、抜けていて、たまに信じられないほど無神経で。
それなのに、どうしようもなく温かい。
「……ねえ」
アリアの声に、皆が一斉に動きを止めた。
彼女は椅子から立ち上がった。
午後の光がその横顔を照らし、長い耳の輪郭に淡い影を作る。
「そんな顔をしないで。私は、あなたたちに怒ってなんかいないわ」
「で、ですが、殿下……」
ゼイクが床に膝をついたまま言う。
「その呼び方はやめて」
アリアは、少しだけ強い声で遮った。
ゼイクがびくりと肩を震わせる。
アリアは慌てて表情を和らげた。
「ここでは、私はただのアリアでいたいの」
静かな言葉だった。
けれど、その一言には、彼女の胸の奥に積もっていた長い疲れが滲んでいた。
王女。
氏族長の娘。
森の希望。
守られるべき血筋。
責任を背負う者。
それらは、アリアにとって誇りでもあった。
けれど同時に、逃げ場のない重さでもあった。
地下牢で鎖に繋がれていた時も。
見知らぬ土地で飢えと寒さに震えていた時も。
彼女は、王女である自分を捨てられなかった。
だから余計に苦しかった。
誇りがあるのに、何もできない。
守るべき民がいるのに、そこへ帰る道もわからない。
生き延びたのに、生きている意味すら見失いそうだった。
そんな彼女に、瞬たちは肩書きを求めなかった。
王女だから助けたのではない。
価値があるから食卓に座らせたのではない。
ただ、そこにアリアがいたから、手を伸ばした。
「あなたたちは、私が何者か知らなかった」
アリアは続けた。
「でも、私にご飯をくれた。温かい場所をくれた。名前を呼んでくれた。……それが、私には嬉しかったの」
メイの瞳が潤んだ。
アリスは扇子で口元を隠し、少し視線を逸らした。
ゼイクは膝をついたまま、何かを堪えるように深く息を吐いた。
エリーゼは割れたグラスのことも忘れ、静かにアリアを見つめている。
瞬だけが、いつものように頭をかいた。
「いや、まあ……普通だろ。腹減ってるやつには飯出すし、寒そうなら毛布渡すし。名前知ってたら名前で呼ぶし」
「その普通が、私には普通じゃなかったのよ」
アリアの声が、わずかに震えた。
その震えに、瞬は何も言えなくなった。
車内に、やわらかな沈黙が落ちる。
さっきまでの騒がしさとは違う、温かい静けさだった。
窓の外では、草が風に撫でられ、葉と葉が乾いた音を立てて擦れ合っている。
その音が、遠い森の記憶のようにアリアの胸へ届いた。
「だから、お願い」
アリアは、皆を見渡した。
「私のことは、今まで通りアリアと呼んで。王女だからじゃなくて、ただの私として接してほしいの」
最初に頷いたのは、メイだった。
「はい。アリアさんは、アリアさんです」
その声は小さいけれど、まっすぐだった。
ゼイクはゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。
「承知した。……だが、敬意だけは持たせてほしい。それは王女殿下だからではなく、貴女が我々の大切な仲間だからだ」
「ゼイク……」
「野菜の件も、仲間として続ける」
「そこは続けるのね」
アリアが思わず笑った。
エリーゼは割れたグラスを魔法で片づけながら、優雅に微笑んだ。
「では、今後もアリアさんと呼ばせていただきますわ。もちろん、研究対象としてではなく、大切なお友達として」
「髪はもう取らないでね」
「努力しますわ」
「約束して」
「……約束しますわ」
アリスは扇子を閉じ、ふっと笑った。
「まあ、王女だろうが何だろうが、私のクイーン・アリス号の中では乗客よ。乗客は平等。働かざる者、食うべからず。食べた分はちゃんと楽しんでもらうわ」
「それ、平等なのか?」
瞬がぼそりと言う。
「うるさいわね」
アリスが睨む。
そして最後に、瞬がアリアを見た。
彼は、何か気の利いた言葉を探すように少しだけ視線を泳がせた。
けれど、すぐに諦めたように笑った。
「じゃあ、これからもよろしくな、アリア」
ただ、それだけだった。
けれど、その短い言葉が、アリアの胸にいちばん深く届いた。
王女としてではなく。
助けるべき可哀想な相手としてでもなく。
ただ、隣にいる仲間として。
よろしく、と言ってくれた。
「……ええ」
アリアは、静かに微笑んだ。
「よろしく、瞬。みんな」
その笑顔は、どんな宝石よりも柔らかく、どんな王冠よりも気高かった。
けれど、その奥には、まだ語られていない影がある。
なぜエルフの王女である彼女が、人間の領地の地下牢で鎖に繋がれていたのか。
なぜ、誇り高い森の姫が、あれほど傷つき、追い詰められていたのか。
瞬は、その影を見逃さなかった。
「アリア」
彼は、静かに言った。
「話せるところからでいい。……何があったのか、聞かせてくれ」
アリアは、すぐには答えなかった。
笑顔の余韻が、少しずつ薄れていく。
代わりに、彼女の瞳の奥へ、遠い森の色が戻ってきた。
風に揺れる枝。
焼ける葉の匂い。
赤く染まった空。
そして、二度と戻らない声。
それでも、今のアリアは一人ではなかった。
彼女はカップを両手で包み込み、残った紅茶の温もりを指先に感じながら、ゆっくりと頷いた。
「……ええ」
その声は小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
「今度は、私が話す番ね」
午後の光が、静かに傾いていく。
クイーン・アリス号のリビングには、先ほどまでの大騒ぎが嘘のような静けさが戻っていた。
けれど、それは冷たい沈黙ではない。
誰かの痛みを、皆で受け止めるための静けさだった。
アリアは深く息を吸った。
そして、自分がなぜ故郷を離れ、なぜ鎖に繋がれることになったのか。
その長く苦しい物語を、語り始めようとしていた。




