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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第78話:炭火と本音のバーベキュー 〜普通は、誰かを閉じ込める言葉である〜

風呂上がりの夜風は、肌に残った湯の熱を、少しずつ外へ連れ出していった。


 宿の中庭には、石を円形に積んだ大きな焚き火台が用意されていた。赤く熾った炭が、夜の底で小さな命のように脈打ち、時折、パチン、と乾いた音を立てて火の粉を跳ね上げる。舞い上がった火の粉は、冬の澄んだ空気の中をゆっくり昇り、黒い空に散らばる星々の手前でふっと消えた。


 湯けむりの匂いは、まだ髪や肌に残っている。

 そこへ、炭火で焼ける肉の匂いが重なった。


 脂が網の下へ落ちるたび、ジュウッ、と甘く暴力的な音がする。白い煙が立ち上り、醤油に似た甘辛いタレの香りが夜風に乗って広がった。焦げた端の香ばしさ、肉汁の重たい匂い、焼けた野菜の青い香り。それらが混ざり合い、風呂上がりで緩んだ体に、容赦なく食欲を叩き込んでくる。


「肉だぁぁぁ!」


 瞬が、両手にトングを構えて叫んだ。


 その姿は、どう見ても英雄ではなく、焼き網の前に陣取る腹を空かせた獣だった。髪はまだ少し濡れており、首にかけた手拭いからは湯気が上がっている。


「俺はこの瞬間のために温泉に入ったと言っても過言ではない!」


「過言よ」


 アリスが即座に切り捨てた。


 彼女は厚手の羽織を肩にかけ、焼き網の前に仁王立ちしていた。手には菜箸。目つきは完全に戦場の指揮官である。


「いい? 肉は焼き加減が命なの。表面に焼き色をつけ、中は柔らかく。焦らず、待つ。これが文明人の食べ方よ」


「待てない。肉が俺を呼んでる」


「呼んでないわ。まだ赤いでしょうが」


 瞬のトングが、網の上の霜降り肉へ伸びる。


 その瞬間、アリスの菜箸が電光石火で飛んだ。


 カンッ!


「痛っ!」


「生焼けを食べようとした罪よ」


「くそっ、食卓の治安維持部隊かよ……!」


「治安を乱しているのはあなたよ」


 その横で、ゼイクは真面目な顔で野菜を並べていた。玉ねぎ、きのこ、山菜、厚切りの根菜。それらを几帳面に種類ごと、焼ける時間ごとに配置している。まるで軍の布陣表だった。


「瞬、肉ばかり食べるな。脂質に偏る。野菜も摂れ」


「ゼイク、お前はバーベキューにまで健康診断を持ち込むな」


「食事とは身体を作る基礎だ。浮かれて秩序を失えば、翌日の行軍に支障が出る」


「温泉宿の中庭で行軍の話するやつ、初めて見たわ」


 瞬が呆れると、エリーゼが葡萄ジュースの入った杯を優雅に揺らした。


「でも、ゼイクさんの言うことにも一理ありますわ。炭火焼きは香りが良い反面、焼きすぎると焦げが増えます。焦げはほどほどに。美味しさと健康の境界線を見極めるのが大切です」


「境界線とか言いながら、その皿の肉、私の分じゃない?」


 アリスが目を細める。


 エリーゼはにっこり笑った。


「早い者勝ちですわ」


「あなた、そういうところだけ瞬くんに似てきたわよ」


「失礼ですわ。私は瞬さんほど雑ではありません」


「おい、聞き捨てならねぇぞ」


 瞬が振り返ったその隙に、アリスが網の上の一番良い肉を自分の皿へ取る。


「ああああっ! 俺の肉!」


「戦場で目を離す方が悪いのよ」


「これは戦争だ! 焼肉戦争だ!」


「だからバーベキューで戦争を始めるな!」


 火の粉が舞い、笑い声が弾ける。


 メイはその少し横で、焼けた野菜を小皿に取り分けていた。白いアイガードは、もう乾いたものに替えられている。いつも通りの姿だった。いつも通り、誰かの皿が空になれば気づき、焦げそうな野菜があればそっと避難させ、瞬が肉だけを積み上げようとすると、黙ってそこにきのこを追加している。


「メイ、それは何だ」


「きのこです」


「俺の皿に森を作るな」


「お肉と一緒に食べると美味しいですよ」


「くっ……その言い方はずるい」


 瞬は結局、きのこごと肉を頬張った。


「……うまい」


 メイが嬉しそうに笑う。


 その光景は、何も変わっていないように見えた。


 温泉で起きた出来事など、まるでなかったかのように。

 紫の瞳など、最初から大した問題ではなかったかのように。


 それが、アリアには不思議でならなかった。


 彼女は輪の端に座り、小皿を膝の上に置いていた。皿の上には、焼きたての肉が一切れ乗っている。表面にはきれいな焼き色がつき、肉汁が薄く浮いて、火の光を受けてきらりと光っていた。


 美味しそうだった。


 けれど、喉が動かなかった。


 風呂上がりで体は温かい。

 炭火の熱も、膝元まで届いている。

 仲間たちの笑い声も、すぐそばにある。


 なのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 湯けむりの中で見た、あの紫。


 月明かりを沈めたような瞳。

 世界中で忌み嫌われる、厄災の印。


 そして、それを見たアリスとエリーゼの反応。


 ――濡れちゃったわね。あとで乾かしましょう。

 ――月明かりの下だと、とても綺麗ですわ。


 アリアの中で、その言葉が何度も繰り返されていた。


 おかしい。


 そう思った。


 メイの瞳が、ではない。

 あの二人の反応が、おかしい。


 紫の瞳は、ただの珍しい色ではない。

 不吉な噂程度のものでもない。

 古い伝承だけの話でもない。


 多くの国で忌まれ、避けられ、恐れられてきた印だ。

 見つかれば、祝福ではなく石が飛ぶ。

 驚きではなく剣が抜かれる。

 興味ではなく排除の言葉が向けられる。


 それが、この世界の普通のはずだった。


 なのに。


 アリスは普通にしていた。

 エリーゼも普通にしていた。

 瞬もきっと、普通に笑うだろう。

 ゼイクでさえ、今この場でメイの皿に焼けた玉ねぎを追加している。


 アリアは、その光景に息苦しさを覚えた。


 これは、優しさなのだろうか。

 それとも、異常なのだろうか。


 世界の方が正しいのか。

 それとも、この小さな焚き火の周りだけが、何かとんでもなく優しい間違いをしているのか。


 分からなかった。


 分からないことが、怖かった。


 自分が信じてきた常識が、仲間たちの何気ない仕草の前で、音を立てずに崩れていく。

 誰も大きな言葉で否定していない。

 誰も説得してこない。

 ただ、メイに肉を取り分け、濡れたアイガードを乾かし、紫の瞳を綺麗だと言い、いつも通りの夜を続けている。


 その普通さが、アリアの心を揺らしていた。


 もし、世界中が間違っているとしたら。


 そう考えかけて、アリアは胸の奥が冷えるのを感じた。


 世界中が間違っている。

 そんなことがあるのだろうか。


 でも、かつて自分は、人間は汚らわしいと信じていた。

 瞬たちと出会う前、それは疑いようのない事実だった。

 今はどうだろう。

 目の前で肉を奪い合い、きのこを押しつけられ、焦げた野菜をめぐって真剣に言い争うこの人たちを、まだ汚らわしいと呼べるだろうか。


 呼べない。


 アリアは、もう知ってしまった。

 この人たちの温かさを。

 この騒がしさの中にある、不器用な優しさを。


 ならば。


 紫の瞳についても、自分はまだ何かを知らないだけなのではないか。


 アリアの指先が、小皿の縁を握った。


 炭が、パチンと小さく爆ぜる。


 その音に背中を押されたように、アリアは顔を上げた。


「……ねえ」


 声は思ったよりも小さかった。


 けれど、焚き火を囲む輪の中で、確かに届いた。


 瞬が肉を頬張ったまま振り向く。アリスが菜箸を止める。ゼイクが焼き網から目を上げ、エリーゼが杯を膝の上に置く。メイも、取り皿を持ったままアリアを見た。


 アリアは、喉の奥に残った熱を飲み込んだ。


「メイの目のこと……」


 その一言で、空気が少しだけ変わった。


 風が、焚き火の炎を傾ける。

 赤い光が、皆の顔に揺れる影を落とした。


 アリアは、メイではなく、まずアリスとエリーゼを見た。

 そして、ゼイクと瞬を見た。


 聞きたいのは、メイを責めるためではない。


 自分の中にある、どうしようもない疑問を、もうこれ以上一人で抱えていられなかったのだ。


「みんな、知っているのね」


 誰もすぐには答えなかった。


 火の粉が一つ、夜空へ昇った。


 アリアは続けた。


「あれが、何と呼ばれているか。世界中で、どんなふうに扱われているか。……知っていて、それでも、そんなふうに普通にしているの?」


 その声は震えていた。


 責めているのではない。

 分からないのだ。


 なぜ、この人たちは逃げないのか。

 なぜ、態度を変えないのか。

 なぜ、目の前の少女を、厄災ではなく、ただのメイとして扱えるのか。


 アリアは、焚き火の赤い光の中で、初めて自分の疑問を外へ出した。


 それは、彼女が今まで信じてきた世界に、初めて自分の手で小さな穴を開ける行為だった。


炎が、パチンと爆ぜた。


 アリアの言葉が、焚き火を囲む輪の中に落ちる。


「メイの目のこと……みんな、知っているのね」


 一瞬だけ、風の音が大きく聞こえた。


 メイは取り皿を膝の上に置いたまま、少しだけ口元を引き結んだ。怯えているわけではない。ただ、自分のことで場の空気が重くなってしまったことを、申し訳なく思っているような顔だった。


 アリアは、まずアリスを見た。

 次にエリーゼを見た。

 そして、ゼイクと瞬を見た。


 聞きたいことは、責めるためのものではなかった。


 ただ、分からなかった。


 あれほど世界中で忌み嫌われる瞳を、なぜこの人たちは、あんなにも普通に受け止められるのか。


 すると。


「ん?」


 瞬が、肉を頬張ったまま、きょとんとした顔でこちらを見た。


「メイの目? ああ、紫のやつ?」


 そのあまりにも軽い言い方に、アリアの呼吸が止まった。


 紫のやつ。


 厄災の印を。

 滅びを呼ぶ色を。

 全世界で忌み嫌われるべき瞳を。


 まるで、「昨日食べた漬物の色」くらいの調子で言った。


 瞬は、しばらく考えるように首を傾げたあと、ぽん、と手を打った。


「あれ? そういえばアリアには言ってなかったっけ?」


 沈黙。


 次の瞬間、アリスの菜箸が空を切った。


 スパァン!


「痛っ!」


 瞬の手の甲に、見事な一撃が入った。


「何すんだよ!」


「何すんだよ、じゃないわよ!」


 アリスが目を吊り上げた。


「あなたねぇ! そういう大事なことを、どうしていつも雑に扱うのよ!」


 ゼイクも深々とため息をついた。


「瞬……貴様のそういうところは、本当にどうにかした方がいい。事案としては極めて繊細だぞ」


 エリーゼも、少し呆れたように頬に手を当てた。


「まさか、本当に説明していなかったとは思いませんでしたわ。アリアさんはエルフですのよ? 伝承や禁忌に敏感なのは当然ですわ」


「いや、だってさぁ」


 瞬は、叩かれた手をさすりながら、悪びれた様子もなく言った。


「どーでもいいことだったし、うっかりしてた」


 アリアは、耳を疑った。


 どーでもいいこと。


 世界が恐れ、忌み、避けてきた印。

 そのせいで石を投げられ、追われ、命を奪われる者さえいる瞳。


 それを、どーでもいいこと、と。


 瞬はさらに続けた。


「いや、メイが隠したいなら隠せばいいし、別に言いたくなったら言えばいいし。でも俺の中では、わざわざ紹介する項目じゃなかったんだよな」


「紹介する項目……?」


 アリアの声が掠れた。


「だってさ」


 瞬は、網の上で焼けている肉をひっくり返しながら言った。


「初対面の相手に、『こちらメイです。お茶が上手いです。料理も上手いです。あと目が紫です』って言うか? 言わねぇだろ、普通」


 アリアの中で、何かが音もなく崩れた。


 普通。


 今、瞬は普通と言った。


 世界中が異常だと叫ぶものを、彼は「わざわざ言わないのが普通」と言った。


 アリアには、その感覚が分からなかった。


 分からないのに、目が離せなかった。


 瞬は、何も考えていないように見える。

 けれど、その無造作な言葉は、アリアが長い時間をかけて積み上げてきた恐怖の壁に、ためらいなく穴を開けていた。


 アリスが呆れたように額を押さえる。


「もう少し言い方があるでしょうに」


「でも、事実だろ?」


 瞬は首を傾げた。


「メイはメイじゃん。目の色を説明し忘れたからって、何が変わるわけでもないし」


「変わるわよ!」


 アリアは、思わず声を上げていた。


 全員の視線が集まる。


 彼女自身も、自分の声の大きさに驚いた。

 けれど、もう止められなかった。


「変わるでしょう……! あれは、ただの珍しい色じゃない。紫の瞳は、厄災の印よ。世界中で忌み嫌われるものよ。人間の国でも、エルフの森でも、獣人の集落でも、ドワーフの鉱山でも……どこでも恐れられている」


 言葉が震える。


「見つかれば、石を投げられる。追い出される。捕まえられる。殺されることだってある。そんなものを、どうして……どうして、そんなに軽く言えるの?」


 焚き火の炎が、アリアの頬を赤く照らしていた。


 瞬は、少しだけ黙った。


 その顔から、ふざけた色が消える。


 けれど、深刻ぶるわけでもなかった。


「軽く言ってるんじゃねぇよ」


 瞬は静かに言った。


「重くしすぎたくないんだ」


 アリアは言葉を失った。


「世界中が勝手に重くしたんだろ。厄災だの、不吉だの、関わるなだの。そうやって、メイの目に、いろんなもんを勝手にぶら下げた」


 瞬は、炭火を見つめた。


「でもさ、俺たちまで同じように重くしたら、メイはどこで息すんだよ」


 アリアの胸が、強く震えた。


 メイは、静かに瞬を見ていた。

 その表情は穏やかだった。


 このやり取りに救われて泣き崩れるわけではない。

 きっと、瞬がそういう人間であることを、メイはもう知っているのだ。


 知らなかったのは、アリアだけだった。


 瞬は、今度はメイの皿に焼けた肉を一枚置いた。


「俺からしたら、メイの目より、こいつが遠慮して肉を取らない方が問題だ」


「瞬さん……」


「ほら、食え。風呂上がりは腹減るだろ」


 メイは少し困ったように笑い、「ありがとうございます」と言って肉を受け取った。


 その自然さに、アリアは再び打ちのめされた。


 紫の瞳。

 厄災の印。

 世界中が忌み嫌うもの。


 その話をしている最中に、瞬はメイの皿に肉を置いた。

 まるで、会話の中心にあるのは瞳ではなく、目の前のメイの空腹だと言わんばかりに。


 アリスが、少し肩をすくめた。


「瞬くんの言い方は雑だけど、考え方は分かるわ」


 彼女は濡れた髪を後ろへ払い、焚き火の光を受けながら言った。


「紫の瞳が忌み嫌われていることくらい、知っているわよ。古い本にも出てくるし、各地の迷信にも残っている。見つけたら遠ざかれ、関わるな、災いを呼ぶ。そんな言葉、いくらでもある」


「なら……」


 アリアは息を呑んだ。


「なら、どうして普通にしていられるの?」


「逆に聞くけど」


 アリスは、焼けた野菜を自分の皿へ移した。


「私たちは、もうメイを知っているのよ。朝に誰より早く起きてお茶を淹れること。瞬くんの食べすぎを心配して、こっそり野菜を増やすこと。誰かが疲れていたら、すぐに気づくこと。そういうメイを知っているの」


 アリスの声は、いつもより静かだった。


「それなのに、目の色を理由に『やっぱり厄災でした』って扱い直す方が、不自然じゃない?」


 アリアは、何も言えなかった。


 扱い直す。


 その言葉が胸に刺さった。


 自分は、温泉でメイの瞳を見た瞬間、まさにそれをしようとしたのではないか。


 ホットミルクを持ってきてくれたメイ。

 手を握ってくれたメイ。

 一緒に温泉へ行こうと言ってくれたメイ。


 そのすべてを一瞬で脇へ追いやり、「紫の瞳を持つ存在」として見直そうとした。


 アリアは、唇を噛んだ。


 ゼイクが口を開く。


「私も、最初に知った時は警戒した」


 その言葉に、アリアは顔を上げた。


 ゼイクは隠さなかった。


「王立騎士団の記録にも、紫の瞳についての記述はある。危険視せよ。必要に応じて監視せよ。場合によっては拘束も検討せよ、と」


 それは、アリアにとって聞き慣れた世界の反応だった。


 警戒。

 監視。

 拘束。


 そうでなければ、おかしい。


「だが、記録は記録だ。目の前の事実とは違う」


 ゼイクは、メイを見た。


「私が知るメイは、背後から襲ってくる存在ではない。疲れた者に茶を淹れ、怪我人に包帯を用意し、食卓で全員の皿を気にかける存在だ」


 彼は焼けた玉ねぎを、当たり前のようにメイの皿に置いた。


「少なくとも私は、騎士団の古い記録より、これまで共に旅をしてきた日々を信じる」


 メイが、少しだけ照れたように「ありがとうございます」と呟いた。


 アリアは、その光景を見つめていた。


 ゼイクは知っている。

 危険視する理由も、監視すべきという記録も。


 それでも、今ここにいるメイを優先している。


 エリーゼも続いた。


「私も確認はしましたわ」


「確認……?」


「もちろんです。メイさんの魔力の流れ、体調、感情が乱れた時の周囲への影響。本人に負担をかけない範囲で、できる限り丁寧に」


 エリーゼは淡々としていた。


「その結果、少なくとも私の見立てでは、瞳の色そのものが災いを呼ぶわけではありません。特殊な性質はあります。けれど、危険そのものではない」


「でも、世界では……」


「世界は、見たいものを見ますわ」


 エリーゼの声は静かだった。


「怖いと信じたい者は、怖い証拠だけを集める。厄災だと思いたい者は、都合の悪い出来事をすべてその色のせいにする。そうして噂は育ちます」


 炭火が、赤く揺れていた。


「ですが、目の前の人を知るには、噂では足りません」


 アリアの胸が痛んだ。


 噂では足りない。


 自分は、足りないものだけで誰かを見ようとしていたのだ。


 瞬が、焼けた肉を自分の皿に取りながら言った。


「そもそもさ」


 彼は肉をタレにつけ、アリアを見た。


「世界中が嫌ってるって言うけど、その世界中って、誰だよ」


「……誰?」


「昔の偉い人? 森の長老? 王様? 学者? 噂話を広めた誰か? 石を投げた村人?」


 瞬の声は、強くはなかった。


 けれど、一つひとつの言葉がアリアの胸に落ちていく。


「そいつら全員、今ここにいるメイのことを知ってんのか?」


 アリアは答えられなかった。


「メイがどんなふうに笑うか。どんなふうに飯を作るか。誰かが疲れてる時、どういう顔で近づくか。そういうの、知ってんのか?」


 炎が揺れる。


「知らねぇだろ」


 瞬は言った。


「だったら俺は、知らない誰かの言葉より、自分の目で見たメイを信じる」


 アリアの中で、何かが大きく揺れた。


 知らない誰かの言葉。

 自分の目で見たメイ。


 どちらを信じるのか。


 そんな問いを、彼女は今まで自分に向けたことがなかった。

 森で教わったことは正しい。

 長老たちの言葉は疑うものではない。

 種族に伝わる恐怖は、守るべき知恵だ。


 そう思ってきた。


 けれど、今、焚き火の向こうにいる瞬は、あまりにも簡単に言う。


 自分の目で見たものを信じる、と。


 その単純さが、アリアには眩しかった。


「……私は」


 アリアは、膝の上の皿を見つめた。


 肉は少し冷めていた。

 タレの表面に、焚き火の赤が小さく映っている。


「私は、怖かったのだと思う」


 誰も、口を挟まなかった。


「人間が怖かった。違う種族が怖かった。森の外が怖かった。知らないものが怖かった。だから、怖いものに名前をつけた。汚らわしい。下等。危険。不吉。厄災」


 言葉にするたび、胸の奥から古い棘が抜けていくようだった。

 痛い。

 けれど、抜かなければ膿んでしまうものだった。


「そう呼べば、近づかなくて済むから。見なくて済むから。自分が間違っているかもしれないと、考えずに済むから」


 アリアは、メイを見た。


「温泉で、あなたの瞳を見た時……私はまた同じことをした。あなたを見ずに、厄災という言葉を見た」


 メイは静かに聞いていた。


「ごめんなさい」


 アリアは、深く頭を下げた。


 焚き火の熱が、頬に触れている。

 夜風が、濡れた髪の先を冷やしていく。


「もう謝ってもらいました」


 メイは、穏やかに言った。


「でも、アリアさんがちゃんと話してくれて、私は嬉しいです」


 アリアは顔を上げた。


 メイは微笑んでいた。


 その笑顔は、弱くなかった。

 許すことで自分を守ろうとする笑顔でもなかった。

 ただ、アリアの言葉を受け取った上で、そこにいる笑顔だった。


「私は、この目のせいで嫌な思いをしたこともあります。怖がられたこともあります。だから、必要なら隠します。隠した方が安全な場所では、隠します」


 メイは、自分のアイガードに軽く触れた。


「でも、私はもう、この目があること自体を嫌いではありません。これも私ですから」


 アリアの胸が詰まった。


 これも私。


 その言葉を、メイは静かに言った。

 誰かに証明するためではなく、自分自身に根を張るように。


「それに」


 メイは、少しだけ笑った。


「私には、ちゃんと見てくれる人たちがいますから」


 アリアは、瞬たちを見た。


 肉を狙っている瞬。

 菜箸を構えるアリス。

 真面目に野菜を焼くゼイク。

 火加減を観察するエリーゼ。


 確かに、変な人たちだった。


 世界の常識から見れば、おかしいのかもしれない。

 危機感が足りないのかもしれない。

 雑で、騒がしくて、理屈に合わない。


 でも。


 そのおかしさが、メイを息苦しい世界から救っている。


 そして今、アリアのことも救おうとしている。


「……私も」


 アリアは、小さく言った。


「私も、ちゃんと見たい」


 メイがこちらを見る。


「厄災の印じゃなくて、メイを。噂じゃなくて、あなたを。……まだ怖さは少し残っているわ。正直に言えば、全部消えたわけじゃない」


 アリアは唇を噛んだ。


「でも、それでも、私はあなたを厄災とは呼びたくない」


 焚き火が揺れる。


 アリアは、はっきりと言った。


「あなたを、メイとして見たい」


 メイの口元が、柔らかく緩んだ。


「はい」


 それだけだった。


 けれど、その一言で十分だった。


 アリスが、焼けた肉をアリアの皿に置いた。


「はい、食べなさい」


「……今?」


「今よ。重い話をした後は、ちゃんと食べる。そうしないと、心まで冷えるわ」


 エリーゼが頷く。


「感情を整理するにも、タンパク質は必要ですわ」


「あなたたち、結局食べさせたいだけじゃない」


 アリアが呆れると、瞬がにやりと笑った。


「飯は世界を救うからな」


「救うかどうかは知らないけど」


 アリアは、皿の肉を見た。


 湯気が上がっている。

 甘辛い香りがした。


 彼女はそれを口に運んだ。


 熱い。

 肉汁が広がる。焦げた端の苦みと、タレの甘さが舌の上で混ざる。


 美味しかった。


 ようやく、味がした。


「……美味しい」


 アリアが呟くと、瞬が満足そうに笑った。


「だろ?」


「あなたが焼いたわけじゃないでしょう」


「俺が見守った」


「何もしてないじゃない」


 アリスが即座に突っ込む。


 いつもの騒がしさが戻ってくる。

 肉をめぐるくだらない争い。

 焦げた野菜を誰が食べるかの押しつけ合い。

 メイが全員の皿に少しずつ野菜を追加して、瞬が抗議する声。


 その全部が、さっきよりも少しだけ温かく感じられた。


 世界中が何と呼んでも。

 この小さな焚き火の輪の中では、メイはメイだった。


 そしてアリアは、その輪の中で初めて、目の前の誰かを本当に見るとはどういうことなのか、その重さと温かさを知り始めていた。

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