第77話:湯けむりの向こう側 〜隠していたものは、責めるためでなく抱きしめるためにある〜
山あいの夕暮れは、思っていたよりも早く沈んでいった。
空の端に残っていた薄い茜色は、稜線の向こうへ吸い込まれるように消え、谷底の温泉村には、青みがかった夜の気配が静かに降りてきていた。石畳の隙間からは白い湯けむりが絶えず立ち上り、冷えた空気の中でゆっくりとほどけていく。
湯の匂いがした。
土と木と、温められた石の匂い。
風が吹くたび、軒先の行灯が小さく揺れ、濡れた路面に淡い光を落とした。遠くでは川の水が岩に当たり、さらさらと細い音を立てている。
アリアは、その景色の中に立ち尽くしていた。
クイーン・アリス号は宿の裏手に停められている。大きすぎる銀色の車体は、静かな湯治場の風景から明らかに浮いていた。けれど、もうその異物感に驚く者はいない。瞬たちの周囲では、常識の方がいつも後ろから息を切らして追いかけてくるのだ。
「いやぁ、いい匂いだな! 温泉に来たって感じがする!」
瞬が大きく伸びをした。
肩にかけた手拭いを、まるで勇者の旗のように振っている。
「瞬、お願いだから宿の前で叫ばないで。貸し切りにした意味がなくなるわ」
アリスが呆れた声で言った。
彼女は宿の帳場で金貨の袋を渡してきたばかりで、すでに勝者の顔をしている。
「貸し切りってすげぇよな。温泉を買ったみたいなもんだろ」
「買ってはいないわ。時間を借りただけよ」
「時間を金で買う女……」
「言い方」
アリスの扇子が、瞬の脇腹を容赦なく突いた。
瞬が「ぐえっ」と情けない声を上げる。
ゼイクはその横で、宿の木造りの柱や廊下をまじまじと見つめていた。
「古いが、手入れは行き届いている。床板の沈みも少ない。避難経路も二つ確認した。悪くない宿だ」
「温泉宿に来て、最初に見るのが避難経路なのね」
エリーゼが肩をすくめる。
「職業病だ」
「では私は湯質を確認しますわ。長距離移動で肌が乾いておりますもの」
「お前たち、誰一人として普通に楽しむ気がないのか?」
瞬が呆れたように言った。
「あなたが一番はしゃいでいるでしょう」
アリスが即座に返す。
くだらないやり取り。
けれど、そのくだらなさが、アリアには不思議と胸に染みた。
昨日までの彼女なら、こういう騒がしさに疲れて、少し離れた場所から冷ややかに見ていたかもしれない。今も疲れないわけではない。むしろ、騒がしい。かなり騒がしい。静かな森で育った耳には、瞬の声は鐘の音に近い。
それでも、嫌ではなかった。
あの声が遠ざかることを想像すると、胸が痛くなる。
それを自覚した瞬間、また罪悪感が胸の奥で重く沈んだ。
――私は、いつからこんなに欲張りになったのだろう。
誰かと食事をしたい。
誰かと笑いたい。
誰かの隣にいたい。
そんな願いを、自分が持つようになるなんて、以前のアリアなら考えもしなかった。
「アリアさん」
メイが隣に来た。
白いアイガードをつけたまま、彼女は小さな手を差し出してくる。
その仕草は、先ほどクイーン・アリス号の中でアリアを部屋から連れ出した時と同じだった。
「行きましょう」
アリアは、その手を見つめた。
小さくて、柔らかくて、けれど不思議なくらい強い手。
握れば温かい。
離せば、また寒くなる。
「……ええ」
アリアは手を取った。
それだけで、背中にかかっていた重たいコートが、ほんの少し軽くなった気がした。
***
男女で別れた廊下の奥に、女湯の暖簾がかかっていた。
紺色の布に、白い湯気の模様が縫い取られている。暖簾の向こうからは、流れる湯の音が聞こえた。絶え間なく、途切れることなく、石を撫で、湯船へ注がれていく音。その音だけで、体の力が抜けていきそうだった。
「一時間後に宴会場集合なー!」
反対側から、瞬の声が響いた。
「のぼせて倒れないでくださいね!」
メイが声を返す。
「俺は温泉に愛された男だから大丈夫!」
「その台詞、倒れる前の人間が言うやつよ」
アリスがぴしゃりと言い、女湯の暖簾をくぐった。
脱衣所には、木の香りと湿った熱気が満ちていた。床板は古いが丁寧に磨かれ、足を乗せると、ほんのりと温かい。棚には竹籠が並び、壁際には曇った鏡がある。湯気がここまで流れ込んできて、灯りをぼんやりと滲ませていた。
「んー、開放感!」
アリスは何のためらいもなくコートを脱ぎ、髪をほどいた。
金色の髪が肩に落ち、湿った空気の中で柔らかく広がる。
「やっぱり旅の疲れにはお風呂よね。汗も埃も、面倒ごとも洗い流すのが一番だわ」
「面倒ごとは洗っても落ちませんわよ」
エリーゼが上品にローブの紐を解きながら言った。
「でも、気分は落ちますわ。そこが大事です」
「それは同意ね」
二人は当たり前のように服を脱いでいく。
メイも、少し恥ずかしそうにしながら、きちんと畳んで籠に入れていた。
アリアだけが、少し離れた場所に立っていた。
服を脱ぐ。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに怖いのだろう。
エルフの里では、肌を晒すことは慎重であるべき行いだった。誰にでも見せるものではない。特に他種族の前で無防備になるなど、考えられないことだった。
でも、怖い理由はそれだけではなかった。
アリアが本当に恐れていたのは、体を見られることではない。
強がりを脱がされることだった。
誇り高いエルフ。
冷静な観察者。
役に立つ同行者。
迷惑をかけない存在。
そういう外側を一枚ずつ外した時、自分の中に何が残るのか。
弱くて、臆病で、幸せを受け取ることすら怖がっている惨めな自分が、そこに立っているのではないか。
それを見られるのが怖かった。
「アリアさん?」
メイが振り返った。
彼女はすでに浴衣を脱ぎ、肩に薄い湯浴み布をかけていた。
けれど、白いアイガードだけは、いつもと同じように顔に残っている。
その姿を見て、アリアの胸に小さな違和感が生まれた。
どうして、そこだけは外さないのだろう。
食事の時も。
眠る時も。
旅の間も。
今、この湯気の中でさえ。
その白い布だけが、メイと世界の間に薄い壁を作っているように見えた。
「……何でもないわ」
アリアは視線を逸らし、静かに服を脱ぎ始めた。
布が肌から離れるたび、冷えた空気が体に触れる。思わず肩が縮こまった。長い金髪をまとめ、湯浴み布をきつく巻く。自分の体を隠すように、胸元を押さえた。
「そんなに締めたら苦しいわよ」
アリスが笑った。
「落ち着かないのよ」
「まあ、最初はそんなものよ。温泉の前では、身分も種族も胸の大きさも関係ないわ」
「最後の一つは言わなくていいですわ」
エリーゼが冷静に突っ込む。
アリアは返事に困り、黙って浴室の扉へ向かった。
木の扉を開けた瞬間、白い湯気が溢れ出した。
視界が、一面の白に染まる。
温かい空気が頬を包み、冷えていた肌にまとわりついた。岩肌を流れる湯の音が近くなる。足元の石は濡れていて、踏むたびにぺたりと柔らかな音を立てた。
湯気の向こうに、広い露天風呂があった。
岩で囲まれた大きな湯船。
その中心に、静かに揺れる湯面。
頭上には屋根がなく、冬の夜空が高く開けていた。雲は薄く流れ、満月が湯けむり越しに淡く滲んでいる。月明かりは白く、けれど冷たすぎず、湯気の中で柔らかく砕けていた。
「わぁ……月が綺麗です」
メイが小さく声を上げた。
その声は、いつもより少し弾んでいた。
アリアは、そっと湯船に足を入れた。
「……っ」
熱い。
思わず息を呑む。足先からふくらはぎへ、じんわりと熱が上がってくる。冷えて固まっていた血が、ゆっくり流れ始めるようだった。
腰まで沈む。
肩まで浸かる。
全身が湯に包まれた瞬間、アリアの口から、ため息のような声が漏れた。
「……ふぅ」
聞かれたくなくて、すぐに口を閉じた。
けれど遅かった。
「気持ちいいでしょう?」
メイが嬉しそうに笑う。
「……悪くはないわ」
「それ、アリアさんの『すごくいい』ですよね」
「違うわ」
そう言い返しながら、アリアは湯面を見つめた。
湯の中では、境界が曖昧になる。
自分の肌も、湯の熱も、隣にいる誰かの気配も、すべてが同じ温度に溶けていくようだった。
罪悪感も、不安も、この湯気と一緒に空へ昇ってくれたらいい。
アリアは、そう思った。
少し離れた場所では、アリスが肩まで浸かり、完全に力を抜いていた。
「はぁぁ……これよこれ。文明は湯にたどり着くために進歩したのよ」
「ずいぶん大きく出ましたわね」
エリーゼが隣で髪をまとめながら言う。
「けれど、否定はしませんわ。体がほぐれると、心まで少し緩みますもの」
その言葉が、アリアの胸に残った。
心まで、緩む。
緩んでいいのだろうか。
まだ、すべてを許されたわけでもないのに。
まだ、自分の中に醜いものが残っているのに。
アリアは、湯面に映る自分の顔を見た。
湯気で輪郭がぼやけている。翠色の瞳も、尖った耳も、いつもより曖昧だ。
ふと、隣で水音がした。
メイが、髪を洗おうとしていた。
銀色の髪を肩の前へ流し、手桶で湯をすくう。
お湯が頭からかかり、細い髪が濡れて背中に張りついた。月明かりを受けて、その髪が淡く光る。
白いアイガードにも湯がかかる。
紐が、少し緩んだように見えた。
アリアは、なぜか目を離せなかった。
メイは気づいていない。
両手で顔を洗おうとして、そっと頬を拭う。
その瞬間。
するり、と。
濡れた紐がほどけた。
白いアイガードが、音もなくメイの顔から滑り落ちた。
湯気の中で、それは一枚の白い花びらのように揺れ、湯船の端へ浮かんだ。
アリアの呼吸が止まる。
月明かりが、メイの顔に落ちた。
隠されていた瞳が、露わになる。
片方は、見慣れた優しい黒。
そして、もう片方は――深い紫。
夜空に沈む宝石のような色だった。
湯気と月明かりを映し、静かに、けれど鮮烈に輝いている。
アリアの胸の奥で、何かが鋭く跳ねた。
紫。
その色を見た瞬間、アリアの体は、湯の温もりを忘れた。
ザバッ、と水音が跳ねた。
自分でも気づかないうちに、一歩、後ろへ退いていた。背中が岩肌に触れる。湯に温められていたはずの石なのに、その感触は冷たく、鋭く、肌の奥まで刺さった。
メイの右目。
白いアイガードの下に隠されていた瞳は、月明かりと湯気を受けて、静かに輝いていた。
それは、ただの紫ではなかった。
深い。
夜の底に沈んだ宝石のような色。
見つめれば、こちらの心の奥まで吸い込まれそうな、異質な光。
美しい。
そう思うより先に、アリアの全身を、古い恐怖が駆け抜けた。
紫の瞳。
厄災の印。
滅びを呼ぶ色。
古い戦乱の時代、国を焼き、森を枯らし、命を狂わせた者たちが宿していたとされる禁忌の証。
エルフの森だけではない。
人間の国でも、獣人の集落でも、ドワーフの鉱山でも、魔族の古い文献でさえも、その色は不吉なものとして語られる。
誰もが恐れ、誰もが忌み、誰もが目を逸らすべき色。
見つけたら、遠ざかれ。
関わるな。
情を移すな。
子どもの頃、アリアは何度もそう教えられた。
長老たちの低い声。
森の奥、冷えた石床の感触。
大人たちが紫という色を口にする時だけ、わずかに声を潜めるあの空気。
それが今、湯けむりの向こうで、メイの顔に宿っている。
「……メイ、その目……」
声が、震えた。
言ってから、アリアは自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。温泉の中にいるのに、口の中だけが砂のように乾いていた。
メイは、アリアの視線を受けて、あ、と小さく声を漏らした。
けれど、取り乱しはしなかった。
泣き出すことも、怯えて顔を隠すこともなかった。
彼女は湯に浮いた白いアイガードへ手を伸ばし、それをそっと拾い上げた。濡れた革から雫が落ち、湯面に小さな輪を作る。
「ごめんなさい、アリアさん」
メイは静かに言った。
「急に見えたら、驚きますよね。嫌なものを見せてしまったなら、すみません」
その声は、怯えではなかった。
アリアは、それにまず驚いた。
メイは、自分の瞳を見られたことに傷ついているわけではない。
自分の存在を否定されたように震えているわけでもない。
ただ、アリアを驚かせたことを申し訳なく思っている。
まるで、湯をはねさせてしまった時のように。
まるで、相手の服を少し濡らしてしまった時のように。
その落ち着きが、アリアの混乱をさらに深くした。
どうして。
なぜ、そんなふうに言えるの。
それは、世界中で忌み嫌われる印なのに。
隠していなければならないはずのものなのに。
見られたら、逃げ出されるはずのものなのに。
その時、湯をかき分ける音がした。
「メイ、こっち向いて」
アリスだった。
彼女は濡れた金髪を片手でかき上げながら、当然のようにメイの前に立った。
月明かりに照らされたメイの紫の瞳を見ても、表情は少しも変わらない。
叫ばない。
息を呑まない。
身構えない。
アリアは思わず、アリスの顔を見た。
見間違いではなかった。
アリスは、いつも通りだった。
「アイガード、完全に濡れちゃったわね。革が傷むから、あとでちゃんと乾かしましょう」
アリスはそう言って、メイの手から濡れたアイガードを受け取った。
「すみません、アリスさん」
「謝ることじゃないわよ。温泉なんだから、濡れるに決まってるでしょ。むしろ、それ付けたまま入ってる方が大変じゃない」
あまりにも普通だった。
アリアは、呼吸を忘れた。
アリスは知っている。
この世界の知識に疎い人間ではない。
ローゼンバーグ家の令嬢で、魔導具にも歴史にも詳しい。交渉で国王すら追い詰めるほど頭が回る。
その彼女が、紫の瞳の意味を知らないはずがない。
なのに。
なぜ、怖がらないの。
なぜ、距離を取らないの。
なぜ、そんなものを、ただ濡れた革製品の心配に置き換えられるの。
エリーゼも、湯面を揺らしながら近づいてきた。
彼女は魔法と薬学に詳しい。種族ごとの魔力の違いにも敏感だ。
ならば、なおさら知っているはずだ。
紫の瞳が何を意味すると言われてきたか。どれだけ多くの者が、その色を恐れてきたか。
アリアは、エリーゼが表情を硬くするのを待った。
ほんの少しでも眉をひそめるのを待った。
それが、世界の常識だからだ。
けれど。
「月明かりの下だと、色が柔らかく見えますわね」
エリーゼは、穏やかに言った。
「湯気で光が散るせいかしら。アメジストを薄い絹で包んだみたいで、とても綺麗ですわ」
綺麗。
その言葉が、アリアの胸の内側で大きく反響した。
綺麗?
厄災の印を?
全世界が忌み嫌うべき瞳を?
不吉の象徴を?
綺麗、と?
アリアは、メイの瞳を見た。
紫の光は、湯気の奥で静かに揺れている。
確かに、美しい。
それは否定できなかった。
けれど、美しいからこそ恐ろしいのだと教わってきた。美しさに惹かれる心そのものが危ういのだと。近づけば、災いに巻き込まれるのだと。
なのに、この人たちは。
何も、起きていないかのように振る舞っている。
いや、違う。
何も起きていないのだ。
アリアの外側では。
湯は変わらず岩肌を流れている。
月は変わらず夜空に浮かんでいる。
アリスはいつも通り偉そうで、エリーゼはいつも通り落ち着いていて、メイは少し申し訳なさそうに微笑んでいる。
世界は、壊れていない。
壊れているのは、アリアの中の常識だけだった。
その事実に、彼女は打ちのめされた。
喉が鳴る。
声にならない声が、胸の奥で行き場を失う。
アリアは、理解しようとした。
この人たちは知らないのだろうか。
いや、そんなはずはない。アリスもエリーゼも、知識のない人間ではない。
では、慣れているのだろうか。
メイと長く一緒にいるから、感覚が麻痺しているのだろうか。
違う。
アリアには分かってしまった。
これは、慣れではない。
麻痺でもない。
無知でもない。
彼女たちは、知った上で、普通にしているのだ。
紫の瞳が忌み嫌われることを知っていて。
世界がその色を恐れていることも知っていて。
それでも、目の前のメイを「厄災」ではなく「メイ」として見ている。
それが、アリアには信じられなかった。
信じられないほど、眩しかった。
エルフの森では、違うものは排除された。
穢れと呼ばれたものは、遠ざけられた。
不吉とされるものには、近づく前から名前を貼られた。
それが正しい世界の守り方だと、アリアは信じていた。
けれど、この湯けむりの中では、その正しさが通用しない。
アリスはメイのアイガードを畳んで岩の上に置き、何事もなかったように言った。
「ほら、メイ。顔を洗うなら今のうちよ。せっかく外れたんだから、ちゃんと洗いなさい。湯に浸かってるのに、その辺だけ中途半端だと気持ち悪いでしょ」
「はい」
メイは素直に頷き、手桶で湯をすくった。
紫の瞳を隠さないまま、顔を洗う。
ただ、それだけ。
その姿を、アリスもエリーゼも当然のように受け止めている。
アリアは、湯の中で拳を握りしめた。
なぜ。
なぜ、そんなに普通でいられるの。
世界中が忌み嫌うはずの色なのに。
見れば不幸になると恐れられてきた色なのに。
その印を持つ者は、遠ざけられて当然だと教わってきたのに。
なのに。
どうして、あなたたちは笑っていられるの。
どうして、メイの隣にいられるの。
どうして、私だけがこんなに震えているの。
その問いが、アリアの胸を何度も叩いた。
そして、その問いはやがて、別の形へ変わっていった。
本当に震えるべきなのは、メイの瞳なのか。
それとも。
何も確かめず、何も見ようとせず、古い言葉だけで誰かを怖がる、自分の心なのか。
アリアは、メイを見た。
メイは顔を洗い終え、濡れた銀髪を後ろへ払っていた。紫の瞳は、湯気の中で静かに光っている。そこには、災いを呼ぶ禍々しさなどなかった。
あるのは、いつものメイだった。
ホットミルクを持ってきてくれたメイ。
手を握ってくれたメイ。
困った時、そっと隣に来てくれるメイ。
みんなの食器を片付け、温かいお茶を淹れ、誰かの疲れにすぐ気づくメイ。
そのすべてを、アリアは知っている。
なのに、紫という色を見た瞬間、それらを一瞬で忘れた。
そのことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「……アリアさん?」
メイが、静かに名前を呼んだ。
その声に責める響きはない。
ただ、アリアの様子を心配しているだけだった。
その優しさが、余計に痛かった。
「気分、悪くなりましたか?」
メイが尋ねる。
アリアは首を振ろうとして、途中で止まった。
気分が悪い。
確かに、悪い。
けれど、それはメイの瞳のせいではない。
自分自身のせいだ。
「……違うわ」
アリアは、掠れた声で言った。
「あなたのせいじゃない」
湯の音が、岩の間で静かに響いていた。
アリアは、ゆっくりと息を吸う。
硫黄の匂いと、湿った木の香りと、夜風の冷たさが胸に入ってくる。
逃げてはいけない。
ここで曖昧に笑ってごまかせば、また同じことを繰り返す。
見たくないものを見ないまま、優しい場所に甘えてしまう。
それでは何も変わらない。
「私は……驚いた」
アリアは正直に言った。
「怖いとも思った。……それも、本当よ」
メイは黙って聞いていた。
アリスも、エリーゼも、口を挟まなかった。
「でも、あなたが怖かったんじゃない」
アリアは、メイの紫の瞳を見つめた。
今度は目を逸らさなかった。
「私が、昔から教えられてきた言葉を怖がっただけ。あなたを見ずに、その色に貼りつけられた意味だけを見た」
言葉にするたび、胸の奥が熱くなった。
「ごめんなさい」
メイは、少しだけ瞬きをした。
「アリアさんが謝ることじゃ……」
「謝らせて」
アリアは、静かに遮った。
「これは、私の問題だから」
湯けむりが流れ、月明かりがメイの瞳に落ちる。紫の中で、小さな光が揺れた。
「私は、あなたをちゃんと見ているつもりだった。人間への偏見も、少しずつ捨てられているつもりだった。けれど違った。私はまだ、見たことのないものに名前を貼って、怖がって、遠ざけようとしていた」
アリアの声は震えていた。
けれど、言葉は止まらなかった。
「さっき、アリスとエリーゼを見て分かったの。二人は、この瞳の意味を知らないわけじゃない。知っていて、それでも普通にしている。……それが、私には信じられなかった」
アリスが、静かにアリアを見た。
いつもの軽い笑みはない。
けれど、厳しい顔でもなかった。
「世界中が忌み嫌うはずの印なのに。誰もが遠ざけるはずの色なのに。どうしてそんなふうに普通でいられるのか、分からなかった」
アリアは唇を噛む。
「でも、分からない私の方が、ずっと小さな世界にいたのかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
それは、自分が信じてきたものが崩れる音だった。
痛い。
苦しい。
けれど、不思議と息はしやすくなった。
メイは、ゆっくりと微笑んだ。
「アリアさんは、今、ちゃんと見てくれています」
その声は、静かだった。
大きく揺れることも、涙に崩れることもない。
ただ、アリアの言葉を受け取ってくれている。
「さっき驚いたことより、今、ちゃんと見ようとしてくれていることの方が、私は嬉しいです」
アリアの胸が、きゅっと痛んだ。
メイは強い。
その瞳が平気だから強いのではない。
何も傷つかないから強いのでもない。
世界中から忌み嫌われる印を持ちながら、それでも自分を失わず、目の前の相手を気遣える。
自分に向けられた恐怖さえ、すぐに憎しみに変えない。
それが、アリアには眩しかった。
「……あなたは、すごいわね」
思わず、そう呟いた。
メイは困ったように笑う。
「私は、そんなにすごくないです」
「すごいわ」
アリアは首を振った。
「少なくとも、今の私よりずっと」
アリスが、そこでようやく口を開いた。
「アリア」
その声は、いつものように軽やかだったが、底に少しだけ真面目な響きがあった。
「世界中が嫌っているからって、私たちまで嫌う理由にはならないわ」
アリアはアリスを見る。
「もちろん、怖がる人がいるのは知ってる。噂も伝承も、嫌になるほどある。だけどね、私たちはもうメイを知ってるの」
アリスは、岩の上に置いた白いアイガードを指先でつついた。
「この子がどれだけ丁寧にお茶を淹れるか。誰かが疲れていたら、誰より先に気づくこと。泣き虫だけど、芯は意外と頑固なこと。そういうのを全部知ってる。だったら、目の色一つで評価をひっくり返す方が面倒じゃない」
「……面倒、なの?」
「そうよ。ちゃんと知ってる相手を、古い噂に合わせて嫌い直すなんて、手間がかかりすぎるわ」
あまりにもアリスらしい言い方だった。
でも、その言葉はアリアの胸に深く残った。
知っている相手を、嫌い直す。
そうだ。
アリアは、メイを知っていた。
それなのに、紫の瞳を見た瞬間、知っていたメイを一度捨てようとした。
エリーゼも続けた。
「伝承は、時に人を守ります。でも、時に人を縛りますわ。大切なのは、目の前の事実を見ることです。少なくとも、私が知るメイさんは、厄災どころか、毎朝きちんと薬草茶を淹れてくれるありがたい存在ですわ」
メイが少し照れた。
「エリーゼさん……」
「これは事実ですわ」
アリアは、湯の中で静かに目を閉じた。
世界中が忌み嫌う印。
そう教えられてきた。
けれど、この場所では違う。
この湯けむりの中では、その印よりも、メイが何をしてきたか、どう生きてきたか、誰としてここにいるかの方が重い。
そんな世界があるのだ。
アリアの知らない世界。
けれど、今、自分が足を踏み入れようとしている世界。
「……メイ」
アリアは、もう一度彼女を見た。
紫の瞳を、まっすぐに。
「あなたの目は、怖い色だと教わってきた」
メイは黙っている。
「でも今は……綺麗だと思う」
その言葉は、簡単には出なかった。
喉の奥で何度も引っかかった。
けれど、嘘ではなかった。
「夜の湖みたい。深くて、静かで……月を沈めたみたいな色」
メイは少しだけ目を丸くした。
そして、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
大げさな感動はない。
涙に崩れることもない。
ただ、静かに受け取る。
それが、メイらしかった。
アリアは、その反応に救われた。
許されたからではない。
自分の間違いをなかったことにされたからでもない。
メイが、自分の言葉を普通に受け取ってくれたからだ。
まるで、アリアもまた、やり直せると言われたような気がした。
その時、アリスが突然、両手で湯をすくった。
「はい、真面目な話ここまで」
「え?」
次の瞬間、アリアの顔に温かい湯が飛んできた。
「きゃっ……!」
思わず声が出た。
アリスがにやりと笑う。
「いい声出るじゃない」
「アリス!」
「難しい顔ばっかりしてると、せっかくの温泉がもったいないわ。ほら、顔の筋肉ほぐしなさい」
「子どもじゃないんだから、やめなさい」
「子どもじゃないなら反撃してみなさいよ」
その言葉に、アリアの眉がわずかに動いた。
「……後悔しても知らないわよ」
アリアは両手で湯をすくい、アリスに向かって思いきりかけ返した。
バシャッ!
「ちょっ、強い! エルフの水圧おかしい!」
「先に仕掛けたのはあなたでしょう」
「アリア、意外と負けず嫌いね!」
「意外ではないわ」
エリーゼが横から、控えめに湯をかける。
「湯船で暴れるのは危険ですわ。……けれど、血行促進にはなりますわね」
「エリーゼ、あなたも混ざってるじゃない!」
「観察ですわ」
メイも、くすくす笑いながら両手で少しだけ湯をすくった。
「……えい」
ぽちゃん。
アリアの腕に、ほんの少しだけ湯がかかる。
あまりに控えめな攻撃に、アリアは思わず笑ってしまった。
「メイ、それでは戦いにならないわ」
「じゃあ、もう少しだけ」
今度は少し勢いよく、湯が飛んだ。
水しぶきが月明かりを受け、細かな光の粒になって舞う。
湯けむりの中で、紫の瞳が笑っている。
アリアはそれを見つめた。
怖くない、と思った。
いや、違う。
怖さが完全に消えたわけではない。
古く染みついた恐れは、そんなに簡単には消えない。
けれど今は、その怖さよりも、目の前のメイを見たいと思う気持ちの方が強かった。
それだけで、十分だった。
湯けむりの向こう側にあったものは、厄災ではなかった。
世界中から忌み嫌われる印を持ちながら、それでも静かに笑う、一人の少女だった。
そして、その少女を当たり前に受け入れる、信じられないほどおかしな仲間たちだった。
アリアの中で、世界の形が少しだけ変わった。
月は、変わらず空にあった。
湯は、変わらず温かかった。
ただ、アリアの目に映るものだけが、さっきとは違っていた。




