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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第76話:罪悪感という名の重たいコート 〜幸せは、受け取ったあとに重くなる〜

 雪は、音もなく薄くなっていた。


 ついこの間まで大地を覆い尽くしていた白い毛布は、街道の端から少しずつほどけ、ところどころに黒く湿った土を覗かせている。車窓の向こうでは、雪解け水が細い筋となって轍の跡を流れ、朝の光を受けて銀色にきらめいていた。


 風はまだ冷たい。

 けれど、その冷たさの奥には、ほんのわずかな柔らかさが混じっている。


 冬が、終わろうとしていた。


 魔導キャンピングカー、クイーン・アリス号は、早春の街道を低い駆動音とともに進んでいた。車体の下で青白い光が揺れ、雪の残る地面を撫でるたび、細かな氷の粒がふわりと舞い上がる。遠くの森では、枝に残った雪が朝日に照らされ、まるで無数の小さな鏡のように光っていた。


 その静かな景色とは対照的に、車内は今日も騒がしかった。


「だからさ、パンの耳っていうのは揚げるために生まれてきたんだよ!」


 リビングの中央で、瞬が力説していた。


 彼は片手に切り落とされたパンの耳を握りしめ、もう片方の手で空を切るように振っている。まるで世界の真理を語る賢者のような顔をしているが、語っている内容はパンの耳である。


「カリッと揚げて、砂糖をまぶす。これ以上の正解があるか? いや、ない!」


「あるわよ」


 アリスが紅茶のカップを置き、呆れたように鼻を鳴らした。


「パンの耳は、薄く焼いてラスクにするの。バターと砂糖を染み込ませて、上品に仕上げるのよ。揚げるなんて、油に魂を売り渡した食べ方じゃない」


「魂じゃなくて胃袋が喜ぶんだよ!」


「胃袋を甘やかすから、あなたはすぐ食べ物の話しかしなくなるのよ」


 アリスが扇子で瞬を指す。

 瞬は胸を張った。


「食べ物の話は世界平和に直結するだろ!」


「どの辺が?」


「腹が減ってるやつは機嫌が悪い。満腹のやつはだいたい話を聞く。つまり、揚げパンの耳は外交兵器だ」


「それを国王陛下の前で言わないでちょうだいね」


 ゼイクが、読みかけの本から顔を上げずに重々しく言った。


「そもそも、油で揚げるなど不健康だ。パンの耳はスープに浸し、柔らかくして食べるべきだ。消化に良く、胃腸への負担も少ない」


「ゼイクさん」


 エリーゼが静かに微笑んだ。


「それは食事ではなく、体調不良時の療養食ですわ」


「む……」


「しかも、パンの耳に対して失礼です」


「パンの耳にも尊厳があるのか?」


「ありますわ。少なくとも、瞬さんの雑な愛情と、アリス様の過剰な美意識と、ゼイクさんの病人食案に振り回される程度には」


 そのやり取りを聞いて、キッチンに立っていたメイが、困ったように笑った。


「あの……もう揚げちゃいました」


 全員の視線が、一斉にそちらへ向く。


 ボウルの中には、きつね色に揚がったパンの耳が山のように積まれていた。砂糖がまぶされ、熱で少し溶けた粒が表面にきらきらと張りついている。香ばしい匂いがふわりと広がり、リビングの空気を一瞬で甘くした。


「メイ!」


 瞬が両手を広げた。


「お前は天才だ!」


「えへへ……余ったらもったいないですし」


「ほら見ろアリス! 民意は揚げパンにある!」


「メイの優しさを勝手に政治利用しないで」


 車内に笑い声が広がった。


 窓際の席で本を開いていたアリアは、その光景を静かに眺めていた。膝の上の本は、もう何分も同じページで止まっている。文字は見えているのに、意味が頭に入ってこなかった。


 平和だった。


 信じられないほど、平和だった。


 外にはまだ雪が残り、空気は冷たい。けれど、この車内だけは春の陽だまりのように温かい。魔石ランプの橙色の光。焼けたパンの香り。紅茶の湯気。仲間たちの声。どれもが重なり合い、アリアの胸の奥に、柔らかな布のように降り積もっていく。


 昨夜、こたつの中で感じた温もりが、まだ足先に残っているようだった。

 あの時、彼女は確かに思ったのだ。


 ここにいてもいいのかもしれない、と。


「ほら、アリアも」


 不意に、目の前へ揚げパンの耳が差し出された。


 瞬だった。

 口元に砂糖をつけたまま、何の警戒もない笑顔を向けてくる。


「いらないわ。油っこそうだもの」


「一口だけ。甘いぞ。疲れた頭に効く」


「私は別に疲れていないわ」


「じゃあ、幸せな頭に効く」


「何よ、それ」


 呆れながらも、アリアは差し出された一本を受け取った。指先に残る熱。表面についた砂糖が、手の温度で少しだけ溶ける。


 小さくかじった。


 ザクッ、と乾いた音がした。

 思ったよりも軽い歯触りだった。油の香ばしさのあとに、砂糖の甘さが舌に広がる。上品ではない。繊細でもない。けれど、不思議ともう一口食べたくなる味だった。


「……悪くないわね」


「だろ!」


 瞬は、まるで自分が揚げたかのように胸を張った。


「俺の故郷では、こういうのが地味に強いんだよ。目立たないけど、出てくると嬉しいやつ」


 出てくると、嬉しい。


 その何気ない言葉が、アリアの胸に触れた。


 嬉しい。

 楽しい。

 美味しい。

 温かい。


 その感情が、最近の自分の中に増えている。以前なら、切り捨てていたはずのもの。弱さだと、無駄だと、醜い執着だと思っていたもの。


 けれど今は、それを感じてしまう。


 瞬が笑えば、胸が軽くなる。

 メイが手を握れば、安心する。

 アリスが呆れた声で騒げば、少しだけ楽しくなる。

 ゼイクが真面目すぎることを言えば、笑いそうになる。

 エリーゼが当然のように世話を焼いてくると、居場所があるような気がしてしまう。


 それが、怖かった。


 ザクリ、ともう一口かじった瞬間。

 胸の奥に、冷たい棘が刺さった。


 アリアの指が止まる。


 甘さが、急に重くなった。


 ――私、何をしているの?


 森の同胞たちは、まだ冬の冷たさの中にいる。

 厳しい掟を守り、外の種族を拒み、長い沈黙の中で春を待っている。


 なのに、自分は。


 人間たちに囲まれ、温かい車内で、揚げたパンの耳を食べている。

 しかも、それを美味しいと思ってしまった。


 喉の奥が詰まる。


 裏切り者。


 誰かの声がした気がした。

 それは森の長老の声にも、かつての自分自身の声にも似ていた。


 人間を汚らわしいと罵った。

 近づくなと叫んだ。

 メイに花瓶を投げた。

 瞬を睨み、アリスたちを警戒し、心の中で何度も見下した。


 そんな自分が、今さらこの輪の中で笑っていいのか。


 許されていいのか。


「……アリア?」


 瞬の声で、アリアは我に返った。


 彼が心配そうにこちらを見ている。

 それがまた苦しかった。


 そんな顔をしないで。

 優しくしないで。

 私は、あなたたちが思っているほど綺麗な存在じゃない。


「顔色、悪くね?」


「……別に」


 アリアは、残った揚げパンを皿に置いた。


「少し、車内の空気がこもっているだけよ」


「窓開けるか?」


「いい。冷えるでしょう」


 言いながら、自分でも分かっていた。

 これは空気のせいではない。


 幸せを感じた直後に襲ってくる、重たいもの。

 まるで濡れたコートを肩にかけられたように、体が沈んでいく。


 ここにいたい。

 だからこそ、ここにいる資格が欲しい。


 笑っているだけでは足りない。

 受け取っているだけでは駄目だ。

 何かを返さなければ。

 役に立たなければ。

 必要な存在でいなければ。


 そうでなければ、いつかきっと見捨てられる。


 アリアは、勢いよく本を閉じた。


「……結界を見直してくるわ」


「え?」


 瞬が瞬きをした。


「昨日もやってなかったか?」


「この辺りは山が近い。魔力の流れが乱れやすいのよ。感知範囲に穴があったら困るでしょう」


「いや、でもさ。今、そんな急ぎでやんなくても――」


「急ぎよ」


 思ったよりも強い声が出た。


 車内の空気が、ほんの少し止まる。


 アリアは、自分の声に驚いて唇を噛んだ。

 違う。怒りたいわけではない。瞬に当たりたいわけでもない。ただ、じっと座っていられなかった。


 この温かい場所で何もせずにいると、自分の存在がどんどん軽くなって、いつかふっと消えてしまいそうだった。


「……私の気が済まないの」


 それだけ言って、アリアはリビングを出た。


 背中に、瞬たちの視線を感じる。

 心配。困惑。呼び止めたい気配。


 でも、誰も強く止めなかった。


 それがありがたくて、同時に寂しかった。


 通路に出ると、車内の賑やかさが一枚壁の向こうへ遠ざかった。足元の床が、クイーン・アリス号の進行に合わせてかすかに震えている。壁に取り付けられた魔石ランプの光が、アリアの影を細く長く伸ばした。


 彼女は自分の個室に入り、扉を閉めた。


 鍵をかけるつもりはなかった。

 けれど、指が勝手に動き、カチリと小さな音がした。


 その音を聞いた瞬間、胸がさらに苦しくなった。


 閉じこもりたいわけではない。

 本当は、戻りたい。

 あの騒がしいリビングに戻って、何事もなかったように座りたい。瞬が差し出す揚げパンを、今度は最後まで食べたい。メイの隣で、くだらないことで笑ってみたい。


 けれど、足が動かなかった。


 アリアは扉に背を預け、そのままずるずると床に座り込んだ。


「……どうして」


 かすれた声が、狭い部屋に落ちた。


 どうして、温かいほど怖いのだろう。

 どうして、優しくされるほど苦しくなるのだろう。

 どうして、ここにいたいと思うほど、「いてはいけない」という声が大きくなるのだろう。


 膝を抱える。

 指先が冷えていた。さっきまでリビングはあんなに暖かかったのに、体の芯だけが冷え切っている。


 コンコン。


 控えめなノックの音がした。


 アリアの肩が、小さく跳ねる。


「……誰?」


「メイです。入っても、いいですか?」


 柔らかい声だった。


 アリアはしばらく答えられなかった。

 今、メイに会うのは怖い。あの子は優しすぎる。こちらが隠しているものまで、そっと掬い上げてしまいそうで。


 それでも、拒めなかった。


「……いいわ」


 鍵を開ける。


 扉の向こうに、メイが立っていた。

 両手で小さなお盆を持っている。その上には、湯気を立てるマグカップが一つ。甘い蜂蜜の香りが、ふわりと部屋へ入ってきた。


「顔色が悪かったので……ホットミルク、作ってきました」


 メイは、いつもの白いアイガードをつけたまま、少し不安そうに微笑んだ。


「……必要ないわ。私は平気よ」


「平気な人は、そんな顔をしません」


 メイは珍しく、引かなかった。


 アリアが言葉を失っている間に、メイはそっと部屋に入り、サイドテーブルにカップを置いた。そして、ためらいがちにアリアの手を取る。


「冷たいです」


 その小さな手は、温かかった。


「アリアさん、最近ずっと無理してます。夜中に起きて見回りをしたり、朝早くから車内の掃除をしたり。昨日だって、みんなが寝たあと、装備を磨いていましたよね」


「……見ていたの?」


「音がしましたから」


 メイは、少しだけ困ったように笑った。


「私、耳は普通ですけど……アリアさんが辛そうな音は、分かります」


 その言葉に、アリアの胸が詰まった。


 辛そうな音。

 そんなものまで、この子は拾ってしまうのか。


「私は、役に立たないといけないの」


 気づけば、言葉がこぼれていた。


「そうしないと……ここにいる理由がなくなる」


 メイの手に、少しだけ力が入った。


「理由がないと、いてはいけませんか?」


 アリアは答えられなかった。


 カップから立ち上る湯気が、二人の間をゆっくりと漂う。

 外の光が窓から差し込み、宙に浮いた細かな埃を淡く照らしていた。


 メイは、静かに言った。


「私は、アリアさんが笑っていると嬉しいです」


「……それだけ?」


「はい」


 あまりにも単純な答えだった。

 役割でも、能力でも、種族でもない。

 ただ、笑っていると嬉しい。


 それだけ。


 アリアは、カップを手に取った。

 温かさが、掌に染み込む。


 一口飲むと、蜂蜜の甘さが喉を通り、冷えていた胸の奥にゆっくり落ちていった。

 張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩む。


「……甘いわ」


「入れすぎましたか?」


「……いいえ」


 アリアはカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。


「今は、これくらいでいい」


 メイの顔が、ほっとしたように明るくなる。


「あ、そうだ。さっきアリスさんが地図を見て騒いでいました」


「また何か買い物でもする気?」


「違います。次の村に、温泉があるそうです」


 温泉。


 その言葉を聞いた瞬間、アリアは眉をひそめた。


「……同じ湯に入る、あれ?」


「はい。アリスさんが、『こういう時こそ裸の付き合いよ!』って」


「野蛮ね」


 即答した。


 けれど、その声は思ったほど冷たくならなかった。


 温かい湯気。

 肌を隠せない場所。

 役割も、飾りも、強がりも、全部脱いでしまう場所。


 怖いと思った。


 でも同時に、胸の奥の重たいコートが、少しだけ緩むような気もした。


 メイは、アリアの手を握ったまま、まっすぐに言った。


「一緒に入りませんか?」


 アリアは、すぐには答えられなかった。


 カップの水面に映る自分の顔は、困っていて、怯えていて――けれど、ほんの少しだけ、期待しているようにも見えた。


 アリアは、メイの手を見つめた。


 小さな手だった。

 瞬の手のように強引ではない。アリスのように逃げ道を塞ぐわけでもない。ゼイクのように正しさで支えるわけでも、エリーゼのように理屈で安心させるわけでもない。


 ただ、そこにある手だった。


 離そうと思えば、すぐに離せる。

 けれど、離したくないと思わせる温度があった。


「……あなたは」


 アリアは、ゆっくりと口を開いた。


「どうして、そんなに平気で人に近づけるの?」


 メイは首をかしげた。


「平気……ではないです」


「嘘よ。あなたはいつも、誰かのそばにいるじゃない。瞬の隣にも、アリスの隣にも、私のところにも……怖がらずに来る」


 言ってから、アリアは自分の声が少し震えていることに気づいた。


「私は、怖いわ。近づけば、いつか嫌われるかもしれない。優しくされた分だけ、失った時に痛い。だったら最初から距離を取った方が楽だって、そう思ってしまう」


 メイは、しばらく黙っていた。


 車体の低い駆動音が、床の下から伝わってくる。

 コトン、とどこかで食器が揺れる音がした。リビングからは、瞬とアリスがまだパンの耳について言い争っている声が、壁越しにぼんやり聞こえていた。


 その騒がしさが、今は少し遠い。


「私も、怖いです」


 メイは小さく言った。


「でも……怖いからって、ずっと一人でいたら、もっと怖くなりました」


 アリアは顔を上げた。


 メイは、いつもの白いアイガードの下で、少しだけうつむいていた。表情のすべては見えない。それでも、口元に浮かぶ笑みが、無理に作ったものではないことだけは分かった。


「瞬さんたちに出会う前は、誰かに嫌われる前に、私の方から隠れていました。迷惑をかけないように。見つからないように。声を出さないように。……でも、それって、誰にも嫌われない代わりに、誰にも見つけてもらえないんです」


 メイの指が、アリアの手を包み直す。


「だから今は、少し怖くても、近づいてみることにしています。嫌われるかもしれないけど……好きになってもらえるかもしれないから」


 アリアは、何も言えなかった。


 好きになってもらえるかもしれない。


 そんな可能性を、彼女はずっと見ないようにしてきた。

 嫌われる未来ばかりを先回りして、その痛みから逃げるために、自分から壁を作っていた。


 でも、目の前の少女は違った。


 傷ついたことがないから近づけるのではない。

 傷ついたことがあるから、それでも近づくことの温かさを知っているのだ。


「……あなたって」


 アリアは、小さく息を吐いた。


「見た目より、ずっと強いのね」


「えっ、そうですか?」


「ええ。少なくとも、私よりは」


 メイは慌てて首を振った。


「そんなことないです。私はすぐ泣きますし、怖がりですし……」


「それでも、手を伸ばせるでしょう」


 アリアは、握られた手を見つめた。


「それは、強いってことよ」


 メイは少し照れたように笑った。


 その笑顔を見ると、アリアの胸の中にあった重たいものが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。消えたわけではない。罪悪感も、不安も、まだそこにある。けれど、それはもう彼女一人を押し潰すだけの重さではなかった。


 誰かと持てば、少し軽くなる。

 そんな当たり前のことを、彼女はようやく知り始めていた。


 その時、部屋の外からドタドタと足音が近づいてきた。


「アリアー! メイー! 着くぞー!」


 瞬の声だった。


「温泉だぞ温泉! 硫黄の匂いがするぞ! 俺の中の旅行魂が暴れてる!」


 続いて、アリスの声が飛ぶ。


「ちょっと瞬! 車内で走らない! 揚げパンの砂糖をこぼしたら、あなたに床掃除させるわよ!」


「もうこぼした!」


「今すぐ拭きなさい!」


 その直後、鈍い音がして、瞬の「痛ってぇ!」という声が響いた。おそらく、アリスに蹴られたのだろう。


 メイが小さく吹き出した。


 アリアも、思わず口元を緩めた。


「……本当に、騒がしい人たち」


「はい」


「でも」


 アリアは、カップの残りを飲み干した。

 蜂蜜の甘さが、喉の奥にやさしく残る。


「嫌いじゃないわ」


 メイの顔が、ぱっと明るくなった。


 クイーン・アリス号は、やがて山あいの小さな村へと滑り込んだ。


 夕暮れが近づいていた。

 西の空は淡い茜色に染まり、山の稜線が黒く浮かび上がっている。村のあちこちから白い湯けむりが立ちのぼり、冷えた空気の中でゆっくりとほどけていく。鼻の奥をつんと刺激する独特の匂いが、風に乗って車内まで届いた。


「うわーっ! これこれ! 温泉の匂いだ!」


 瞬が車から飛び降りるなり、両腕を広げて叫んだ。


「硫黄! 湯気! 山! これは勝ち確だ!」


「何に勝つのよ」


 アリスが呆れながら降りてくる。

 深紅のコートの裾が、冷たい風にひらりと揺れた。


「いい? 今回は貸し切りにしたから、他のお客さんに迷惑をかける心配はないわ。つまり、思う存分だらけられるということよ」


「貸し切り……?」


 ゼイクが眉をひそめた。


「アリス嬢、また金貨を積んだのか?」


「必要経費よ」


「王家から任務を受けている最中に、温泉宿を貸し切る必要がどこにある」


「心の健康」


「反論しづらい言葉を選ぶな」


 エリーゼは湯けむりを見上げ、満足そうに頷いた。


「山間の湯治場ですか。これは期待できますわね。移動疲れと冷えに効きそうです」


「メイ、転ばないように気をつけろよ」


 瞬が声をかけると、メイは「はい」と元気よく返事をした。


 アリアは、その最後尾で車を降りた。


 足元の土は、雪解け水を含んで柔らかくなっていた。靴底が沈み、湿った音を立てる。冷たい山風が頬を撫でたが、不思議と嫌ではなかった。湯けむりの温かさが、風の中に混じっているからだろうか。


 村は静かだった。

 木造の宿が坂道に沿って並び、軒先の灯りが一つ、また一つと点っていく。石畳の隙間から湯気が漏れ、夕暮れの光を受けて薄桃色に染まっていた。


 美しい場所だった。


 なのに、胸の奥では、またあの声がした。


 ――お前だけが、こんなに温かい場所にいていいのか。


 アリアの足が止まりかける。


 森に帰れば、きっと責められるだろう。

 人間と笑い、人間と食事をし、人間の作った乗り物で旅をして、人間の村の温泉にまで入る。


 かつての自分なら、そんなエルフを軽蔑したに違いない。


 でも。


「アリアさん」


 メイが振り返った。


 白いアイガードをつけたまま、手を差し出してくる。

 ついさっきまで部屋で握っていた、あの小さな手。


「行きましょう」


 その一言が、アリアを過去から引き戻した。


 今ここにあるのは、森の声ではない。

 未来の裁きでもない。

 湯けむりの匂いと、仲間の笑い声と、差し出された手だ。


 アリアは、ゆっくりと息を吸った。


 湿った土の匂い。

 湯の匂い。

 山の冷たい風。

 そして、メイの手の温もり。


「……ええ」


 アリアはその手を取った。


「行くわ」


 宿の中へ入ると、木の床が足音をやさしく受け止めた。廊下には淡い灯りが並び、磨かれた柱には湯けむりの湿気が薄くまとわりついている。奥からは、流れる湯の音が絶え間なく聞こえていた。


 男女で別れる廊下の前で、瞬が振り返る。


「のぼせんなよー」


「それはこっちの台詞よ。あなた、どうせ限界まで浸かって倒れるんでしょう」


 アリスがすかさず返す。


「倒れない。俺は温泉に選ばれし男だ」


「湯あたりで運ばれる男の台詞ですわね」


 エリーゼがさらりと言う。

 ゼイクは真面目な顔で頷いた。


「入浴は時間管理が重要だ。十五分を目安に――」


「ゼイク、温泉でまで作戦会議みたいなこと言うなよ」


 瞬の声が男湯の暖簾の向こうへ消えていく。


 残された女性陣は、女湯の方へ向かった。

 脱衣所の前に立つと、アリアの胸が小さく鳴った。


 ここから先では、服を脱ぐ。

 身につけているものを、外す。

 役に立つ自分も、強がる自分も、平気なふりをする自分も、全部どこかへ置いていくような気がした。


 怖い。


 けれど、隣でメイが笑っている。


「アリアさん、大丈夫です。私、背中流しますから」


「……別に、子どもじゃないわ」


「でも、一緒の方が楽しいです」


 その言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。


 一緒の方が楽しい。


 かつての自分なら、鼻で笑っただろう。

 効率が悪い。意味がない。必要ない。

 そうやって切り捨てていただろう。


 でも今は、その言葉が胸に残った。


「……そうね」


 アリアは、小さく答えた。


「一緒なら、少しは悪くないかもしれないわ」


 メイが嬉しそうに笑う。

 アリスが後ろから二人の肩を押した。


「はいはい、しんみりするのは湯船の中でやりなさい。温泉は逃げないけど、いい場所は早い者勝ちよ!」


「温泉に場所取りの勝敗があるのですか?」


 エリーゼが首をかしげる。


「あるわ。月が綺麗に見える岩の横は、私がいただく」


「子どもですの?」


「貴族の戦いよ」


 そんなくだらない会話に包まれながら、アリアは脱衣所へ足を踏み入れた。


 木の扉が、静かに閉まる。


 湯けむりの向こうで、何かが変わろうとしていた。

 まだ見えていないもの。

 まだ触れていない真実。

 そして、アリア自身の中に残っている、最後の小さな偏見。


 それらが、温かい湯の中でほどけていく時間が、すぐそこまで近づいていた。

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