第75話:こたつと蜜柑と、今ここにある温もり 〜何もしない時間が、帰る場所になる〜
世界が白く閉ざされていた。
ベル・マルシェ郊外の野営地には、朝から雪が降り続いている。空は厚い雲に覆われ、太陽の輪郭すら見えない。遠くにあるはずの街の城壁も、低い丘も、枯れた街路樹も、すべてが白い帳の向こうにぼやけていた。
雪は、音を奪う。
風が吹いても、草の葉は鳴らない。凍りついた枝先に触れた雪だけが、さらさらと小さく落ちる。クイーン・アリス号の銀色の車体にも白い粉雪が薄く積もり、昨日まで陽を反射して輝いていた外装は、今は静かな獣の背中のように丸く沈んで見えた。
外の空気は、肌に触れるだけで痛い。
息を吐けば白く凍り、頬を刺す風が耳の先を痺れさせる。アリアの足跡と瞬の足跡は、雪の上に並んで残っていたが、それも降り続く白に少しずつ埋もれ始めていた。
けれど、扉を開けた瞬間。
クイーン・アリス号の中から、まるで別の季節が流れ出した。
ほわり、と温かい空気が頬を撫でる。
木と布の匂い。
甘い果実の香り。
煮出した茶の湯気。
そして、何か柔らかくて、人を奥まで溶かしてしまいそうな熱。
アリアは入口で立ち止まった。
外套についた雪が、足元にぽたぽたと溶け落ちる。赤いリボンの端にも小さな雪の粒がついていて、車内の温度に触れた途端、透明な雫になった。
「おかえりなさい」
最初に声をかけたのは、メイだった。
彼女はリビングの奥から立ち上がりかけて、しかし途中で何かを思い出したように、そっと座り直した。白いアイガードの下の表情は見えない。けれど、口元に浮かんだ安堵だけで、どれほど心配していたかは分かった。
アリアの胸が痛んだ。
「……ただいま」
さっき外で呟いた言葉を、今度は少しだけはっきりと言った。
声は小さかった。
けれど、メイは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。おかえりなさい」
それだけだった。
責めない。
どうして出ていこうとしたのかと聞かない。
勝手に心配したと泣きつかない。
ただ、帰ってきたことを受け取る。
その静かな優しさが、アリアの胸を深く揺らした。
リビングでは、妙な光景が広がっていた。
中央に、低い四角い卓が置かれている。その卓の周囲には、分厚い布団のようなものがかけられ、布の端が床まで垂れていた。卓の上には籠いっぱいの蜜柑が積まれ、湯気の立つ茶器、菓子、読みかけの本、謎の工具、アリスの書類、ゼイクの手入れ用の布まで雑多に散らばっている。
そして、その布団の中に、仲間たちが吸い込まれていた。
「……何、これ」
アリアは思わず呟いた。
その問いに答えたのは、布団の中に下半身を突っ込み、上半身だけを出して本を読んでいるゼイクだった。
「こたつ、というらしい」
彼の声は、いつもの厳格さを失っていた。
いや、失っているどころではない。完全にふやけていた。
ゼイクは本を持ったまま、肘をつき、肩の力を抜ききっている。背筋は曲がり、鎧は脱ぎ捨てられ、普段なら絶対に見せないほどだらしない姿勢になっていた。
「下に熱源があり、布団で熱を逃がさない構造だ。頭は涼しく、足元は温かい。合理的ではある。合理的ではあるのだが……」
彼は深く息を吐いた。
「これは、騎士の精神を鈍らせる」
「じゃあ出れば?」
布団の中から、瞬の声がした。
姿は見えない。
卓の向こう側で、彼は完全に布団へ潜り込んでいた。もぞもぞと動くたび、布団の山が奇妙に膨らむ。まるで巨大な芋虫が、ぬくもりの中で進化を諦めたようだった。
「出るべきだとは思っている」
ゼイクは真顔で言った。
「だが、足が出たがらない」
「分かる。俺も魂がここに定住届を出した」
「その届は却下よ」
アリスが蜜柑の皮を剥きながら言った。
彼女はこたつの一辺を陣取り、真剣そのものの表情で蜜柑に向き合っていた。皮を途切れさせずに、いかに長く螺旋状に剥けるか。そのためだけに、王宮交渉の時以上の集中力を発揮している。
「見て。今度こそ完璧な螺旋よ。芸術ね。これを王都の美術館に飾ってもいいくらい」
「蜜柑の皮を美術館に飾るな」
瞬が布団の中から即座に突っ込む。
「あなたには芸術を理解する心がないのね」
「理解したら負けな気がする」
アリスはふん、と鼻を鳴らし、剥いた蜜柑を自分の皿へ置こうとした。
その瞬間。
横から白い手が伸び、蜜柑をひょいと奪った。
「では、せっかくの芸術作品、味の面から鑑賞いたしますわ」
エリーゼだった。
彼女はこたつに入りながら、湯気の立つマグカップを片手に、優雅に蜜柑を口へ運ぶ。
「んん……甘酸っぱくて素晴らしいですわ。冬の果実は、冷たい季節に小さな太陽を閉じ込めたようですわね」
「私の作品を食べたわね!?」
「芸術は、味わわれてこそ完成しますの」
「屁理屈が優雅!」
アリスが悔しそうに叫ぶ。
メイはこたつの端に座り、両手で湯呑みを包んでいた。白い湯気が彼女の頬を撫で、口元を柔らかく緩ませている。
「アリアさんも、どうぞ」
メイは少し場所を空けた。
「ここ、温かいです」
アリアは、こたつを見下ろした。
温かい。
それは見れば分かる。
だが、あまりにも無防備だった。
足を布団の中へ入れる。動きにくくなる。立ち上がるのが遅れる。もし敵襲があれば、初動が遅れる。武器を取るにも不利だ。そもそも、こんな姿勢でくつろぐなど、エルフの森では考えられなかった。
合理的ではない。
危険だ。
だらしない。
そう判断する材料はいくらでもあった。
けれど、こたつの中にいる仲間たちの顔を見ると、その全てが少しだけ弱くなる。
ゼイクは危機感を持ちながら出られない。
瞬は完全に布団と同化している。
アリスは蜜柑の皮と戦っている。
エリーゼは温かい飲み物を飲みながら満足げに微笑んでいる。
メイは、アリアが座る場所を空けて待っている。
誰も戦っていない。
誰も役割を背負っていない。
誰もアリアに何かを求めていない。
そこにあるのは、ただ寒い日に温かい場所へ集まっているだけの時間だった。
「……私は」
アリアは小さく言った。
「別に、寒くはないわ」
「嘘つけ。鼻、赤いぞ」
布団の中から瞬の声が飛んできた。
アリアは反射的に鼻へ手を当てる。
「見えていないでしょう」
「たぶん赤い」
「適当なことを言わないで」
「じゃあ座って確認させろ」
「論理が飛躍しすぎよ」
アリスが蜜柑を剥きながら、にやりと笑った。
「アリア、怖がらなくても大丈夫よ。こたつは人を食べたりしないわ」
「食べはしないでしょうけど、魂を抜かれている人間がすでに二人いるわ」
「失礼な」
ゼイクが本から顔を上げる。
「私はまだ騎士としての矜持を保っている」
「布団の中で言っても説得力がないわ」
「ぐっ」
瞬が布団の中で笑った。
その笑い声に、こたつ布団がもぞもぞ揺れる。
アリアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それに気づいたメイが、嬉しそうにもう一度場所を空ける。
「アリアさん」
呼ばれて、アリアは逃げ道を失った。
いや、逃げ道はある。
この場から離れることもできる。自分の部屋へ戻ることもできる。誰も無理やり座らせはしない。
だからこそ、座るかどうかは自分で決めるしかなかった。
アリアは外套を脱いだ。
赤いリボンが、肩に落ちた金髪の中で小さく揺れる。
雪の雫が布地に吸い込まれ、赤が少しだけ深く見えた。
彼女は、メイの隣に腰を下ろした。
そして、恐る恐る足をこたつの中へ入れた。
「……っ」
息が止まった。
足先を包む熱。
ただ熱いのではない。刺すような熱でも、燃えるような熱でもない。じんわりと、皮膚の表面から奥へ、奥へと染み込んでくる温かさだった。
雪の上を歩いて冷えた足指が、ゆっくりほどけていく。固くなっていたふくらはぎの力が抜け、膝の奥に残っていた緊張まで溶けていく。体が勝手に、ふう、と息を吐いた。
アリアは慌てて背筋を伸ばした。
「……悪くは、ないわね」
瞬が布団の中から顔だけ出した。
「悪くない、いただきました」
「勝手に勝利宣言しないで」
「こたつ陣営の勝利だな」
「いつから戦争になったのよ」
「俺たちは常に、寒さと戦っている」
ゼイクが妙に真面目な声で頷いた。
「その点では同意する。寒冷地での体温維持は、生存戦略として極めて重要だ」
「ほら、ゼイクもこたつ陣営」
「私は合理性を認めただけだ。堕落を認めたわけではない」
そう言いながら、ゼイクの足はこたつの奥へさらに深く入っていった。
アリスが勝ち誇ったように蜜柑を掲げる。
「つまり、私の発明がまた世界を一つ救ったということね」
「救ったのは世界じゃなくてゼイクの足先だろ」
瞬が言う。
「足先を救う者は、やがて世界を救うのよ」
「規模の膨らませ方が詐欺師」
「商売人と言って」
こたつの周りに笑いが広がる。
アリアはその笑いの中で、手元に置かれた蜜柑を見た。
メイがそっと差し出したものだった。
小さく、丸く、鮮やかな橙色。
火祭りの光とも、雪の朝日とも違う、手のひらに収まる小さな太陽のようだった。
「剥き方、分かりますか?」
メイが尋ねる。
「蜜柑くらい、分かるわ」
アリアは少しむっとして答えた。
しかし、実際に親指を皮へ立てようとして、動きが止まった。
どこから剥くのが正しいのか。
森で食べる果実は、皮ごと食べるものや、ナイフで切るものが多かった。こんなふうに手で剥く小さな果実には慣れていない。
メイは笑わなかった。
ただ、自分の蜜柑を手に取り、ゆっくりと皮へ爪を入れて見せる。
「ここから、少しずつです」
「……見れば分かるわ」
アリアは真似をした。
皮が少し破れる。
そこから、甘酸っぱい香りがふわりと広がった。
冬の空気に閉じ込められていたような、明るい匂い。
アリアは指先で皮を剥きながら、ふと胸が詰まった。
こんなことを、教わる日が来るとは思わなかった。
蜜柑の剥き方。
こたつの入り方。
温かい場所で何もせずに座っていること。
どれも、生き延びるために必要な知識ではない。
だが今のアリアには、それがひどく大切なことのように思えた。
「アリアさん、上手です」
「……これで褒められても困るわ」
「でも、綺麗に剥けています」
メイが本当に嬉しそうに言うので、アリアは言い返せなかった。
剥き終えた蜜柑を一房取り、口へ運ぶ。
薄い膜が歯に触れ、ぷち、と弾けた。
甘酸っぱい果汁が、舌の上に広がる。
冷たくて、明るくて、少しだけ懐かしい味がした。
「……美味しい」
思わず呟く。
メイが笑った。
アリスが胸を張る。
「でしょう? 私が選んだ蜜柑よ」
「剥いただけじゃなかったのか」
瞬が言う。
「選定眼も才能のうちよ」
「じゃあエリーゼに盗られたのも才能?」
「それは事故よ!」
また笑いが起きる。
アリアは蜜柑をもう一房食べた。
こたつの温もりが足元から上がってくる。蜜柑の甘酸っぱさが口に残る。外では雪が降っている。窓の向こうは白く、冷たく、遠い。
けれど、ここは温かい。
誰もアリアに、役に立てとは言わない。
強くあれとも、正しくあれとも、エルフらしくあれとも言わない。
ただ、蜜柑を剥いて、食べて、笑っていればいい。
その事実が、胸の奥を柔らかく押した。
アリアは膝の上で手を重ねた。
罪悪感は、まだ消えていない。
過去の声も、完全には遠ざかっていない。
だが、その声は今、こたつの中の笑い声よりも小さかった。
そのことに気づいた瞬間、アリアは少しだけ目を伏せた。
怖いほど、温かかった。
こたつの中で、時間がゆっくりと溶けていった。
外では、雪が降り続いている。
窓の向こうは白い世界だった。時折、強い風が吹きつけると、粉雪が横殴りに流れ、視界をさらに曇らせる。銀色の車体を叩く風の音は、遠い海鳴りのように低く響いていた。
だが、車内にはその寒さが一切入ってこない。
魔石灯の橙色の光。
蜜柑の甘酸っぱい匂い。
湯気を立てる茶。
誰かが布団の中で足を動かす、もぞ、という小さな音。
笑い声。
ため息。
くだらない言い合い。
それらが、こたつの周りに柔らかく積もっていく。
アリアは、蜜柑の皮を膝の上の小皿に置いた。
剥いた皮は、思ったよりも不格好だった。途中で何度も切れ、アリスのような螺旋にはならない。小さな欠片がいくつも散らばり、まるで橙色の落ち葉のようだった。
「……うまく剥けないわね」
誰に言うでもなく呟く。
すると、布団の中から瞬が顔を出した。
「蜜柑の皮にうまいも下手もあるのか?」
「あるわよ。あなたは気にしなさすぎ」
「食えれば勝ちだろ」
「あなたの人生、だいたいその基準で進んでいそうね」
「否定できない」
瞬はそう言って、こたつの上の蜜柑を一つ取った。
彼の剥き方は、さらにひどかった。
皮は大きさも形もばらばらに裂け、白い筋が果肉に大量に残っている。アリアは眉をひそめた。
「雑」
「腹に入れば一緒だ」
「そういうところよ」
「じゃあアリアが剥いてくれ」
「なぜ私が」
「俺より上手そうだから」
アリアは一瞬、言葉を詰まらせた。
頼まれた。
それだけのことだった。
けれど、胸の奥が小さく揺れた。
役目ではない。命令でもない。エルフだから、長命種だから、魔法が使えるからでもない。
ただ、蜜柑を剥いてくれと言われただけ。
あまりにも小さくて、くだらない頼みごと。
だからこそ、断る理由を探せなかった。
「……仕方ないわね」
アリアは瞬の蜜柑を受け取り、親指を皮に入れた。
先ほどより少しだけ丁寧に。
白い筋を取りすぎないように。
果肉を潰さないように。
皮が裂ける音が、ぷつ、ぷつ、と小さく鳴る。橙色の香りが指先に移り、こたつの温もりと混ざった。
剥き終えた蜜柑を、アリアは瞬の前へ置いた。
「ほら」
「おお、綺麗」
瞬は素直に感心した。
「なんか、俺が剥いたやつと違う生き物みたいだ」
「蜜柑は生き物ではないわ」
「でも、これは上品な蜜柑だな」
「蜜柑に品格を求めないで」
瞬は笑いながら一房食べた。
「うまい。アリアが剥いたからか?」
「味は変わらないでしょう」
「いや、なんかうまい」
その言葉が、妙に胸に残った。
味は変わらない。
同じ蜜柑。
同じ果肉。
それなのに、誰かが剥いたから少し嬉しい。
その感覚を、以前のアリアなら馬鹿げていると切り捨てただろう。だが今は、少しだけ分かる気がした。
メイが隣で小さく笑っている。
「アリアさん、私のもお願いしていいですか?」
「あなたまで?」
「はい。アリアさんが剥いてくれた蜜柑、食べてみたいです」
その言い方はずるい。
断れば、まるで自分が冷たいようではないか。
アリアはため息をつき、けれど手はもう次の蜜柑へ伸びていた。
「……一つだけよ」
「ありがとうございます」
メイは嬉しそうに両手を合わせた。
アリアはメイの蜜柑も剥いた。
今度は、さらに丁寧に。
白い筋を少し取り、果肉を小皿に並べる。メイはそれを大切そうに受け取り、一房ずつゆっくり食べた。
「美味しいです」
「だから、味は変わらないわ」
「でも、嬉しいです」
アリアは何も言えなくなった。
嬉しい。
また、その言葉だ。
役に立つかどうかではなく、強いかどうかでもなく、正しいかどうかでもない。
ただ、嬉しい。
最近、アリアの周りには、その小さな言葉が増えていた。
赤いリボン。
猫の形のクッキー。
鍋の大根。
花火。
そして、蜜柑。
どれも大きな力は持たない。命を救う武器にもならない。森を守る盾にもならない。
けれど、心のどこかをほんの少し温める。
そういうものが、この世界にはあるのだと、アリアはようやく知り始めていた。
「では、わたくしの分もお願いしてよろしいですか?」
エリーゼが優雅に小皿を差し出した。
「……流れに便乗するのはやめなさい」
「まあ。アリアさんが剥いた蜜柑を味わえる機会など、逃すわけにはまいりませんわ」
「大げさよ」
「大げさではありませんわ。これは歴史的蜜柑です」
「蜜柑に歴史を背負わせないで」
アリスが身を乗り出す。
「じゃあ私の分も」
「あなたは自分で剥きなさい。さっきから芸術だ何だと言っていたでしょう」
「芸術家は、時に他者の作品から学ぶものよ」
「都合のいい芸術家ね」
ゼイクまで本を閉じ、真面目な顔で蜜柑を差し出した。
「アリア殿。私も頼めるだろうか」
「あなたまで?」
「観察したい。剥き方に無駄が少ない。指先の動きが正確だ」
「褒めているのか分析しているのか、どちらなの」
「両方だ」
アリアは深く息を吐いた。
そして、結局全員分の蜜柑を剥くことになった。
こたつの上には、アリアが剥いた蜜柑の小皿が並ぶ。
瞬は嬉しそうに食べる。
メイは大切そうに食べる。
アリスは「私の螺旋より実用的ね」と悔しそうに言う。
エリーゼは味を確かめるように目を細める。
ゼイクは「皮の処理が効率的だ」と真剣に頷く。
その一つ一つが、アリアには不思議だった。
大したことはしていない。
ただ蜜柑を剥いただけ。
それなのに、誰かが喜ぶ。
そのことが、胸の奥に柔らかな火を灯した。
彼女は、自分の手を見た。
かつてこの手は、人間を拒んだ。
近づくなと突き放した。
触れるなと叫んだ。
けれど今、その同じ手で蜜柑を剥き、仲間たちに渡している。
過去が消えたわけではない。
自分が言った言葉も、抱いていた蔑みも、なかったことにはならない。
それでも、この手は今、誰かを少しだけ喜ばせることができる。
その事実が、アリアには眩しかった。
「……ねえ」
アリアは、蜜柑の皮を小皿にまとめながら言った。
声が思ったより小さくなった。
それでも、こたつの周りにいた全員が自然にこちらを見た。
その視線に、アリアは少し緊張した。
「私は……ここにいて、何をすればいいのかしら」
静かな問いだった。
空気が少しだけ変わる。
先ほどまでの笑い声が、湯気の向こうで柔らかく遠ざかった。
「何って?」
瞬が首を傾げる。
「役目よ」
アリアは膝の上で指を重ねた。
「私はまだ完全に動けるわけではない。戦闘でも足手まといになるかもしれない。森へ案内する役目はあるけれど、今この瞬間、私はただここに座っているだけでしょう」
言葉にするほど、胸が痛んだ。
「食べ物をもらって、温かい場所を分けてもらって、守られている。それだけでは……いけない気がするの」
その不安は、ずっとあった。
王城の地下から助け出されて以来、アリアは受け取ってばかりだった。
水。
スープ。
リンゴ。
毛布。
リボン。
食事。
笑い声。
帰る場所。
どれも、返せていない。
何かを差し出さなければ、この場所にいる資格がない気がしていた。
沈黙が落ちた。
けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。
瞬は蜜柑を一房口に入れ、少し考えた。
そして、いつものように簡単に言った。
「別に、何もしなくていいんじゃね?」
アリアは顔を上げた。
「……何もしない?」
「おう」
瞬は頷く。
「寒い日にこたつ入って蜜柑食ってる時点で、十分仕事してるだろ」
「それは仕事ではないわ」
「じゃあ何だ?」
「怠惰よ」
「最高じゃん」
「最高ではないわ」
瞬は笑った。
けれど、その目は思ったより真剣だった。
「ずっと戦ったり、役に立ったり、正しくあろうとしたりしてたら疲れるだろ。たまには、ただ座ってるだけでもいいんだよ」
アリアは言葉を返せなかった。
「お前がここに座って、蜜柑剥いて、ちょっと文句言って、でも食ってる。それだけで、俺たちはけっこう嬉しい」
「そんなことで?」
「そんなことで」
瞬はあっさり言った。
メイが頷いた。
「私も嬉しいです。アリアさんが隣にいてくれるだけで」
エリーゼも微笑む。
「役に立つかどうかだけで居場所を決める必要はありませんわ。むしろ、何もしない時間を一緒に過ごせる相手こそ、本当に近い存在ですもの」
ゼイクが腕を組んだ。
「戦場では役割が必要だ。だが、常に戦場のつもりで生きる必要はない」
アリスが蜜柑の皮を指先でくるくる回す。
「ここは私のクイーン・アリス号よ。私がいいと言ったら、いいの。あなたはここに座って蜜柑を食べる権利があるわ」
「……権利?」
「ええ。こたつ権よ」
「何よ、それ」
「今作ったわ」
「雑ね」
「瞬くんに影響されたのかしら」
「俺のせいにすんな」
また笑いが戻った。
アリアは、その笑い声を聞きながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
何もしなくていい。
ただ座っていていい。
蜜柑を食べて、少し文句を言って、温かいと感じていい。
そんなことを許されたのは、初めてだった。
森では、常に何者かでなければならなかった。
誇り高きエルフ。
森を守る者。
人間を拒む者。
弱さを見せてはいけない者。
自分が何者であるかを、いつも証明し続けなければならなかった。
けれど、ここでは違う。
今このこたつの中では、アリアはただのアリアでいい。
それはあまりにも頼りなく、あまりにも温かい答えだった。
アリアは顔を伏せた。
涙が出そうになった。
でも、泣きたくはなかった。
泣いたら、きっと瞬が慌てる。アリスが茶化す。メイが心配する。ゼイクが真面目に布巾を差し出し、エリーゼが温かい飲み物を用意する。
その光景が浮かんでしまい、アリアは少しだけ笑った。
「……本当に、変な人たち」
「褒め言葉として受け取るわ」
アリスが即答する。
「褒めてはいないわ」
「でも嫌いではないでしょう?」
アリアは黙った。
こたつの中で、足先が温かい。
手には蜜柑の香りが残っている。
髪には赤いリボン。
隣にはメイ。
向かいには瞬。
その周りに、騒がしくて、無茶で、優しくて、どうしようもなく人間らしい仲間たちがいる。
嫌いではない。
その言葉は、もう足りなかった。
だが、それ以上の言葉を言うには、まだ胸がいっぱいすぎた。
「……そうね」
アリアは小さく言った。
「嫌いではないわ」
瞬がにやりと笑う。
「大進歩だな」
「調子に乗らないで」
「はい」
その時、車体が大きく揺れた。
外の吹雪が強くなったのか、クイーン・アリス号の防護結界に雪混じりの風がぶつかり、低い音が響く。
ゴォォォ……。
窓の外は、ほとんど真っ白だった。
世界から道が消えている。
地面も空も境目を失い、すべてが雪に塗り潰されていた。
その白さを見て、アリアは少し前の自分を思い出した。
どこにも行けないと思っていた。
森にも戻れず、人間のそばにもいられず、自分の居場所がどこにもないと思っていた。
だが今、外の世界がどれほど白く閉ざされても、この車内には灯りがある。
こたつがある。
蜜柑がある。
くだらない会話がある。
そして、自分のために場所を空けてくれる人たちがいる。
アリアは、窓の外から視線を戻した。
「……寒そうね」
そう呟くと、瞬がこたつ布団を少し持ち上げた。
「だから出るなよ。こっちはあったけぇぞ」
「言われなくても、出ないわ」
アリアはそう答えた。
自分でも驚くほど自然に。
それから、蜜柑を一房、口へ運ぶ。
甘酸っぱい果汁が弾ける。
こたつの熱が、足元から体を包む。
外の吹雪の音が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
アリアは、静かに目を閉じた。
過去は、まだ消えない。
森の声も、罪悪感も、恐怖も、きっと明日また胸を刺すだろう。
それでも今だけは。
このこたつの中で、蜜柑を食べて、仲間たちの声を聞いている今だけは。
自分はここにいていい。
そう思えた。
何者でもなくていい。
強くなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
ただ、温かいと感じている。
ただ、ここに座っている。
ただ、今を生きている。
そのことが、アリアの胸に深く、静かに染み込んでいった。
ふと、メイがアリアの肩にもたれた。
眠気に負けたのだろう。白いアイガードの下で、呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
アリアは驚いて固まった。
以前なら、すぐに身を引いていただろう。
今は、動かなかった。
メイの体温が肩越しに伝わる。
小さくて、柔らかくて、消えてしまいそうに温かい命。
アリアは、そっと自分の外套をメイの肩へかけた。
瞬がそれを見て、何も言わずに笑った。
アリスも、エリーゼも、ゼイクも、誰も茶化さなかった。
ただ、こたつの中の時間が、少しだけ深くなった。
外では吹雪が荒れている。
けれど、クイーン・アリス号は進んでいく。
白い世界を、銀色の車体が静かに切り開いていく。
その中で、アリアは初めて、明日が来ることを少しだけ怖がらずにいられた。
明日、また不安になるかもしれない。
明日、また過去に引き戻されるかもしれない。
それでも、今ここには温もりがある。
なら、今はそれを受け取っていい。
アリアは、蜜柑の香りが残る指先をそっと握りしめた。
髪の赤いリボンが、こたつの温かな空気の中で微かに揺れた。
その揺れは小さかった。
けれど、雪に閉ざされた世界の中で、確かに春を待つ芽のように見えた。




