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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第74話:雪解けの予感と、過去からの刺客 〜昨日の光が眩しいほど、影は濃くなる〜

 祭りの熱が去った翌朝、ベル・マルシェの街は、まるで別の場所のように静まり返っていた。


 夜のあいだ街を満たしていた太鼓の音も、笑い声も、屋台の呼び込みも、今はどこにもない。石畳の上には踏み潰された紙飾りが散らばり、燃え残った薪の匂いが、冷たい朝の空気に薄く混じっていた。


 空は低かった。


 灰色の雲が街の屋根すれすれまで降りてきているようで、そこから細かな雪が音もなく舞い落ちていた。白い粒は、魔石灯の消えた街路樹の枝に触れ、すぐに溶ける。夜の華やかな光は失われ、濡れた石畳だけが鈍く朝を映していた。


 街外れに停泊しているクイーン・アリス号も、白く薄い雪をかぶっていた。


 銀色の車体は、昨夜の祭りから切り離されたように静かだった。窓の奥では、仲間たちがまだ眠っている。暖かな魔石灯の光が、厚い窓越しにぼんやりと滲み、外の寒さと中の温もりを分けていた。


 その一室で、アリアは冷たい汗をかいて目を覚ました。


「……っ、は……」


 息が荒い。


 喉が乾いている。


 胸の奥を、見えない手で握り潰されているようだった。


 夢を見ていた。


 エルフの森の夢だった。


 深い森。青白い霧。濡れた苔の匂い。何百年もそこに立ち続けている巨木たち。その根元に、同胞たちが立っていた。


 美しい顔。


 感情の読めない瞳。


 白い肌。


 長い耳。


 誰も叫ばない。誰も怒鳴らない。けれど、その沈黙は刃よりも鋭かった。


『人間と手を繋いだのか』


 声がした。


 誰の声か分からない。長老の声にも、母の声にも、自分自身の声にも聞こえた。


『赤いリボン。祭り。踊り。笑い声。……見苦しい』


 アリアは夢の中で、自分の髪に触れた。


 そこには赤いリボンが結ばれていた。


 昨夜、火祭りの光を受けて揺れていたもの。


 瞬に似合うと言われ、メイに可愛いと言われ、外せなくなってしまったもの。


 その小さな布切れが、夢の中では罪の印のように重かった。


『人間に飾られ、人間に笑いかけ、人間の食べ物を喜び、人間の手を握る。お前は何者だ』


 何者。


 その問いが、胸の奥に突き刺さった。


 エルフなのか。


 森の者なのか。


 それとも、人間たちの騒がしい車の中で、鍋を食べ、祭りに笑い、花火を美しいと思ってしまった何か別のものなのか。


『忘れたのか。お前は人間を蔑んでいた。汚らわしいと呼んだ。近づくなと叫んだ。施しなど受けないと拒んだ』


 声が増えていく。


 木々の間から。


 霧の奥から。


 自分の足元から。


『それなのに、救われたつもりか』


『許されたつもりか』


『人間たちは知らないだけだ。お前がどれほど冷たい目で彼らを見ていたかを』


『知られれば、きっと離れていく』


 瞬の笑顔が浮かんだ。


 メイの手の温もりが浮かんだ。


 アリスの強引な笑み。


 ゼイクの呆れたため息。


 エリーゼの優しい理屈。


 それらが、霧の中で遠ざかっていく。


 アリアは手を伸ばした。


 けれど届かない。


 足元から冷たい根が絡みつき、彼女を森の奥へ引き戻そうとしていた。


『戻ってこい』


『お前に似合うのは、静かな森だ』


『人間の温もりなど、お前には過ぎたものだ』


 その言葉で、目が覚めた。


 アリアはベッドの上で体を起こし、しばらく何もできなかった。


 車内は静かだった。


 どこか遠くで、魔導炉が低く唸っている。壁の向こうから、誰かの寝息がかすかに聞こえた。外では雪が窓を撫でている。小さな粒が硝子に当たり、溶けて、細い水の筋になって落ちていった。


 アリアは自分の髪に触れた。


 赤いリボンは、まだそこにあった。


 指先に柔らかな布の感触がある。


 その瞬間、胸が痛んだ。


 嬉しかったはずのものが、今は罪の重さを持っていた。


「……私は」


 声がかすれる。


 私は、ここにいていいのだろうか。


 その問いが、昨夜の花火の残像を塗りつぶしていく。


 美しかった。


 楽しかった。


 温かかった。


 だからこそ、怖い。


 幸せを知ってしまったから、それを失うのが怖い。


 笑ってしまったから、笑う資格がない自分に気づいてしまう。


 人間たちのそばにいたいと思ってしまったから、かつて人間を見下していた自分が許せなくなる。


 アリアは毛布を握りしめた。


 指が震えている。


「……違う」


 誰に言い聞かせるでもなく、呟いた。


 これは、間違いだ。


 自分だけが温かい車の中で眠り、温かい食事をもらい、優しい声をかけられ、祭りで笑う。


 そんなことが許されるはずがない。


 森に戻れば、きっと全てが分かる。自分がどれほど愚かだったか。人間の温もりにほだされたことが、どれほど恥ずべきことだったか。


 でも、戻るのも怖かった。


 森の静けさが。


 あの感情のない瞳が。


 人間と過ごした時間を、汚れだと断じられることが。


 どちらにも行けない。


 ここにいたい。


 でも、ここにいる資格がない。


 その二つの感情が、胸の中で絡まり、息をする場所を奪っていく。


 アリアは、震える手で机の上の紙を取った。


 ペン先が紙に触れる。


 何を書けばいいのか分からなかった。


 謝罪か。


 感謝か。


 別れの言葉か。


 しばらく迷った末、彼女は短く書いた。


 ――さようなら。探さないでください。


 あまりにも薄い言葉だった。


 これまで受け取ったものに比べて、あまりに足りない。


 それでも、それ以上書けば、きっと行けなくなる。


 アリアは紙を机の上に置き、荷物をまとめた。必要なものは少ない。外套、短剣、水袋、少しの食料。それだけあれば、森の近くまでは行けるはずだった。


 赤いリボンを外そうとして、手が止まった。


 外すべきだ。


 これは人間たちと過ごした時間の印だ。森へ戻るなら、持っていくべきではない。


 そう思ったのに、指は結び目をほどけなかった。


 アリアは唇を噛み、結局そのまま外套のフードを深く被った。


 部屋の扉を開ける。


 廊下は暗く、静まり返っていた。


 クイーン・アリス号の中は、眠っている家のようだった。昨日まで騒がしかったリビングも、今は灯りを落とされ、片付けられたカップや毛布が薄い影の中に沈んでいる。


 ソファの上で、瞬が眠っていた。


 片腕をだらしなく落とし、口を少し開けている。毛布は半分ずり落ちていた。いつものように隙だらけで、あまりにも無防備だった。


 アリアは足を止めた。


 昨夜、花火を見上げていた横顔が浮かんだ。


 すぐ消えるから、ちゃんと見る。


 そう言った声が、耳の奥に残っている。


 アリアは胸を押さえた。


 ここで引き返せば、きっとまた温かい場所へ戻ってしまう。


 戻ってしまえば、もう離れられなくなる。


「……さようなら」


 声にならないほど小さく呟いた。


 そして、出口へ向かった。


 扉を開けると、冷たい朝の空気が一気に流れ込んできた。


 頬を刺すような冷気。


 雪の匂い。


 遠くの街の、まだ眠っている静けさ。


 アリアはタラップを下り、雪の積もった地面へ足を置いた。


 ザクッ。


 その音が、胸に響いた。


 一歩。


 もう一歩。


 クイーン・アリス号から離れる。


 このまま行けばいい。


 誰も起きていない。


 誰にも迷惑をかけずに消えられる。


 そう思った時だった。


「お、アリアじゃん」


 頭上から、あまりにも明るい声が降ってきた。


 アリアの足が止まった。


 心臓が強く跳ねる。


 恐る恐る振り返ると、クイーン・アリス号の屋根の上に、瞬が座っていた。


 寝癖のついた髪。


 肩にかけた外套。


 手には、雪かき用の大きなスコップ。


 彼は白い息を吐きながら、いつもの調子で笑っていた。


「早起きだな」


 アリアは、言葉を失った。


 雪が静かに降っている。


 世界は白く、冷たく、音を失っていた。


 その中で、瞬の声だけが、どうしようもなく温かかった。


瞬は、屋根の上からアリアを見下ろしていた。


 雪は細かく、音もなく降っている。彼の肩にも、髪にも、白い粒がうっすらと積もっていた。スコップの先には、屋根から下ろした雪が固まりになって残っている。


 アリアは動けなかった。


 逃げ出すところを見られた。


 それだけで、胸の奥が凍りついた。


 責められる。

 問い詰められる。

 どうして勝手に出ていくのかと、怒られる。


 そう思った。


 けれど、瞬は何も言わなかった。


 彼は屋根の端から軽く飛び降りると、雪を踏んでアリアの前に立った。着地した足元で、白い雪がざくりと崩れる。朝の冷気の中、彼の吐く息だけが白く揺れた。


「屋根に雪が積もってたからさ」


 瞬は、何でもないことのように言った。


「ほっとくと、走る時にどさっと落ちるだろ。だから下ろしてた」


 アリアは何も答えられなかった。


 彼の視線が、アリアの背中の小さな荷物に落ちる。


 外套の下に隠したつもりだったが、見逃すはずがなかった。


 瞬は気づいている。


 それでも、すぐには触れなかった。


 その沈黙が、かえって痛かった。


「……私は」


 アリアは唇を開いた。


 だが、言葉が続かない。


 言い訳をすればいいのか。

 謝ればいいのか。

 突き放せばいいのか。


 自分でも分からなかった。


 瞬は少しだけ空を見上げた。灰色の雲の隙間から、わずかに朝の光が滲み始めている。雪の粒が、その薄い光を受けて一瞬だけ白く光った。


「なあ、アリア」


 彼は静かに言った。


「ちょっと歩かねぇか」


「……え?」


「寒いけど、朝の空気は悪くない」


 アリアは眉を寄せた。


「私は……」


「話したくなければ、話さなくていい」


 瞬はそう言って、先に歩き出した。


 雪を踏む音が、静かな朝に小さく響く。


 ざく。

 ざく。


 アリアはその背中を見つめた。


 行く必要はない。


 このまま逆方向へ走ればいい。


 瞬が何も問い詰めない今なら、まだ逃げられる。


 そう思ったのに、足は動かなかった。


 胸の奥で、別の声がしていた。


 行きたい。


 最後にもう少しだけ、この人の声を聞きたい。


 その願いを認めるのが怖くて、アリアは手袋の中で指を握りしめた。


「……少しだけよ」


 絞り出すように言うと、瞬は振り返らずに片手を上げた。


「おう」


 二人は、街外れの小道を歩いた。


 ベル・マルシェの朝は、まだ眠っていた。祭りの名残は通りのあちこちに残っている。枝から外れかけた布飾り。消えた魔石灯。雪に半分埋もれた紙吹雪。昨夜あれほど人で溢れていた街が、今は息を潜めている。


 その静けさが、アリアの胸に刺さった。


 楽しかった時間は、もう過ぎてしまった。


 花火も、踊りも、笑い声も、今は跡だけが残っている。


 残った跡があるから、昨夜が確かにあったと分かる。

 けれど、同時に、もう戻らないことも分かってしまう。


 アリアは髪の赤いリボンに触れた。


 冷たい指先に、柔らかな布の感触が伝わる。


「……外さなかったんだな」


 瞬が前を向いたまま言った。


 アリアは手を止めた。


「見ていたの」


「目立つからな。似合ってるし」


「……こんな時に、そういうことを言うのね」


「本当のことだからな」


 アリアは返事をしなかった。


 嬉しいと思ってしまう自分が、また嫌だった。


 やがて、二人は街を見下ろす小高い丘に着いた。


 丘の上は、雪が薄く積もっていた。草の先が白く凍り、朝の光を受けて細かく輝いている。遠くに見えるベル・マルシェの屋根は、淡い雪化粧をまとっていた。煙突からは細い煙が上がり、街が少しずつ目を覚まし始めている。


 雲の切れ間から、朝日が差した。


 灰色だった世界が、ゆっくりと薄桃色に染まっていく。


 屋根の雪が光を受けて輝き、通りの水たまりが小さな鏡のように空を映した。空気中の細かな氷の粒が、光の中で舞う。まるで、昨夜の花火が砕けて、朝の空気の中に残っているようだった。


 アリアは息を呑んだ。


 美しい。


 そう思った。


 けれど同時に、胸が痛んだ。


 こんなものを見て、美しいと思っていいのか。

 こんな朝を、瞬と並んで見ていていいのか。


 自分には、その資格がない気がした。


 瞬は懐から布包みを取り出した。


 湯気が、ほのかに立っている。


「食うか」


「……何?」


「温めたパン。中に肉が入ってるやつ。昨日、屋台で買った残り」


 彼はそれを二つに割り、大きい方をアリアに差し出した。


 アリアは受け取らなかった。


「……こんな時に、食べ物なの」


「寒い時は、温かいものを食ったほうがいい」


「あなたは本当に、いつも単純ね」


「単純なことほど効くんだよ」


 瞬は差し出したまま待っていた。


 アリアは少し迷い、やがて受け取った。


 布越しに、温かさが手のひらへ伝わる。


 それだけで、胸の奥が緩みそうになった。


 彼女はそれを見つめたまま、ぽつりと言った。


「……私は、逃げようとしていたのよ」


「うん」


 瞬は驚かなかった。


 アリアは顔を歪めた。


「分かっていたの」


「荷物持ってたしな」


「なら、なぜ止めないの」


「今、止まってるだろ」


「そういう意味じゃないわ」


 声が震えた。


 アリアは丘の下に広がる街を見つめた。朝の光に包まれたベル・マルシェは、静かで美しかった。昨夜の喧騒を知っているからこそ、その静けさが胸に迫る。


「私は……怖くなったの」


 言葉が、少しずつ零れていく。


「昨日、楽しかった。花火が綺麗だった。メイの手が温かかった。あなたたちといる時間が……嫌ではなかった」


 言うほどに、胸が痛む。


「でも、そう思った瞬間に、怖くなった。私は、人間を見下していたのよ。汚らわしいと叫んだ。近づくなと言った。あなたたちを、同じ命として見ようともしなかった」


 雪が降り続けている。


 小さな白い粒が、アリアの外套に落ちては溶けていく。


「そんな私が、あなたたちのそばで笑っていいはずがない。温かいものを食べて、リボンをつけて、祭りを綺麗だなんて思って……そんなの、都合がよすぎる」


 瞬は黙って聞いていた。


 何も挟まなかった。


 その沈黙に支えられるように、アリアは続けた。


「いつか、あなたたちは気づくわ。私がどれだけ冷たい目で人間を見ていたか。どれだけ醜い心を持っていたか。そうしたら、きっと離れていく」


 声が細くなる。


「だったら、その前に私から消えたほうがいいと思った」


 言い終えた瞬間、胸の奥が空っぽになった。


 風が吹いた。


 丘の草が雪を払い、さわさわと小さく鳴る。遠くで、朝を告げる鐘が一度だけ響いた。


 瞬は、しばらく黙っていた。


 それから、自分の分の温かいパンを一口かじった。


「今の話を聞いて思ったんだけどさ」


 アリアは身を固くした。


 何を言われるのか。


 軽蔑か。


 失望か。


 それとも、やっぱりそうだったのかという冷たい声か。


 瞬は、アリアを見た。


「それ、ちゃんと後悔してるってことだろ」


「……え?」


「昔の自分が嫌だって思えるくらい、今のお前は変わってるってことじゃん」


 アリアは言葉を失った。


 瞬は丘の下の街へ視線を戻した。


「俺は、お前が昔どんなふうに人間を見てたか、全部は知らない。森でどう教えられてきたかも、何があったのかも知らない」


 彼の声は穏やかだった。


「でも、昨日の祭りでメイの手を握ってたお前も、鍋を食って少し笑ってたお前も、赤いリボンを外せずにいるお前も、俺は見てる」


 アリアの喉が詰まった。


「私が……無理をしているだけかもしれないでしょう」


「無理してる部分もあるかもな」


 瞬はあっさり認めた。


「でも、全部が嘘なら、逃げる前にそんな顔しないだろ」


「……どんな顔よ」


「帰りたいけど、帰りたくない顔」


 胸の奥を、真っ直ぐ突かれた。


 アリアはうつむいた。


 見抜かれている。


 自分でも整理できない感情を、この男は乱暴な言葉で掴んでしまう。


「私は、冷たい生き物なのよ」


 アリアは絞り出した。


「森でそう教えられたわけじゃない。私自身がそうだった。人間の苦しみを見ても、当然だと思った。弱いから悪いのだと、汚れているから罰を受けるのだと、そう思っていた」


 頬を涙が伝った。


 雪よりも温かい涙だった。


「そんな私が、今さら温かい場所にいたいなんて……許されるの?」


 瞬は、少しだけ眉を下げた。


「許すとか許されないとか、俺は偉くないから分かんねぇよ」


 彼は、アリアの手にある温かいパンを指差した。


「でも、それ持ってる手、冷たくないだろ」


 アリアは自分の手を見た。


 布包みの熱が、手袋越しに伝わっている。


「顔も赤い。涙も出てる。昨日、笑ってた。今、ちゃんと苦しんでる」


 瞬は静かに言った。


「冷たいだけのやつは、そんなふうにならないんじゃねぇかな」


 アリアは息を止めた。


 涙が、さらに溢れた。


「過去のお前がどうだったかは、消せないかもしれない。でも、今のお前が全部それで決まるわけじゃないだろ」


 瞬は、朝日に照らされた街を見つめたまま続けた。


「人間もエルフも、たぶん毎日ちょっとずつ変わるんだよ。昨日食ったものとか、見た景色とか、誰かに言われた言葉とかでさ」


 彼は少し笑った。


「だから、昨日の花火を綺麗だって思ったお前は、もうその前のお前とは少し違うんじゃねぇの」


 アリアは、握っていたパンを胸元に引き寄せた。


 温かい。


 その熱が、手から腕へ、胸へと染み込んでいく。


 過去は消えない。


 自分が人間を見下していた事実も、汚い言葉を投げた事実も、消えない。


 けれど、それだけが自分のすべてではないのだと。


 そう言われた気がした。


「……ずるいわ」


 アリアは泣きながら呟いた。


「あなたは、いつも簡単に言う」


「難しく言えないだけだ」


「本当に、馬鹿ね」


「よく言われる」


「でも……」


 アリアは目元を拭った。


「少しだけ、救われる」


 瞬は何も言わず、ただ笑った。


 アリアは、手の中の温かいパンを小さくかじった。


 肉汁と、冷えた空気と、涙の塩気が混ざる。


 不格好な味だった。


 けれど、優しかった。


 しばらく二人は、黙って丘の上に立っていた。


 街が少しずつ目覚めていく。煙突の煙が増え、遠くで馬の鳴き声が聞こえた。雲の隙間から差す光は少しずつ強くなり、雪の白を淡い金色へ変えていく。


 やがて、瞬が言った。


「帰ろうぜ」


 アリアはその言葉に、胸が震えた。


 帰る。


 森ではない。


 今この瞬間、瞬が言っているのは、クイーン・アリス号へ戻ることだった。


 あの騒がしくて、温かくて、鍋の匂いが残る、銀色の走る家へ。


「……帰っても、いいの」


「当たり前だろ」


「置き手紙、書いたのよ」


「じゃあ回収しよう。読まれる前ならなかったことにできる」


「そんな雑でいいの?」


「俺たちの旅、大体そんな感じだろ」


 アリアは、涙の残った顔で少しだけ笑った。


「……そうね」


 瞬が手を差し出した。


 アリアはそれを見つめた。


 逃げ出すために握る手ではない。


 戻るために握る手。


 彼女はゆっくりと、その手を取った。


 温かかった。


 丘を下りる二人の足跡が、雪の上に並んで残っていく。


 来た時は、アリアの足跡が迷うように乱れていた。


 帰り道の足跡は、少しだけまっすぐだった。


 クイーン・アリス号が見えてくる。


 窓の奥に、灯りがともっていた。誰かが起きたのだろう。うっすらと湯気のような光が漏れ、雪の朝に温かい色を落としている。


 アリアの胸に、不安が戻る。


 メイに心配をかけたかもしれない。


 アリスに怒られるかもしれない。


 ゼイクに説教されるかもしれない。


 それでも、今は逃げるより戻りたかった。


 扉の前で、アリアは一度立ち止まった。


 髪の赤いリボンに触れる。


 まだ、そこにある。


「……ただいま」


 誰に向けた言葉でもない。


 けれど、確かにそう呟いた。


 瞬は隣で、小さく笑った。


「おかえり」


 その一言で、アリアの胸の奥に積もっていた雪が、ほんの少し溶けた。

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