第73話:冬の夜の火祭り、消えゆく光を愛おしむ 〜消えてしまうからこそ、今この手を握りしめる〜
冬至の夜だった。
一年で、もっとも夜が長くなる日。
商業都市ベル・マルシェは、昼間とはまるで違う顔をしていた。
空は深い藍色に沈み、冷えきった空気は硝子のように澄んでいる。吐く息は白く、すぐに夜風へ溶けて消えた。石畳には薄く霜が降り、街路樹の枝先には小さな氷の粒がついている。魔石ランプの光を受けるたび、それらは星屑のように瞬いた。
通りの両側には、屋台がずらりと並んでいた。
焦げた砂糖の甘い匂い。
香辛料を混ぜた温かい果実酒の湯気。
炭火で焼かれる肉の脂が落ちる音。
油で揚げた菓子の香ばしさ。
それらが冷たい夜気に混ざり、街全体をひとつの大きな鍋のように温めていた。
今夜は、冬至の火祭り。
長い夜を越え、春へ向かう光を願う祭りだった。
街路樹には色とりどりの魔石灯が吊るされ、赤、青、金、緑の光が枝の間で揺れている。軒先には布飾りが垂れ、風に揺れるたび、かさかさと乾いた音を立てた。石畳の中央では子供たちが走り回り、笑い声が白い息と一緒に夜空へ跳ね上がっていく。
アリアは、その人混みの中で、少しだけ立ち尽くしていた。
「……すごい人の数ね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
以前なら、嫌悪だけが先に立ったはずだった。
うるさい。
臭い。
品がない。
短命な人間たちが、意味もなく騒いでいる。
そう切り捨てていたはずだった。
けれど今夜は、同じ言葉だけでは足りなかった。
うるさい。
けれど、その声はどこか温かい。
臭い。
けれど、その匂いの奥には食べ物と薪の火と、人々の生活がある。
品がない。
けれど、誰もが笑っていた。
アリアは、マントの襟を少しだけ寄せた。髪には、先日買った赤いリボンが結ばれている。冬の風に揺れるたび、耳の横で柔らかな感触がした。
今日だけ。
そう言ったはずなのに、結局ずっと外せなかった。
外す理由はいくらでもあった。目立つ。実用性がない。戦闘の邪魔になる。けれど、外そうとするたび、メイの嬉しそうな顔と、瞬の「似合ってる」という雑で真っ直ぐな声を思い出してしまう。
だから、今日も結んでいる。
その事実が、少し恥ずかしくて、少しだけ嬉しかった。
「アリアさん、こっちです」
小さな手が、アリアの左手を握った。
メイだった。
彼女は真っ赤な冬用の外套を着て、白い息を弾ませながら振り返る。白いアイガードはいつものように目元を隠しているが、口元は楽しそうに緩んでいた。
「今日はすごく人が多いので、はぐれないようにしてくださいね」
「……私は子供ではないわ」
「でも、はぐれたら心配です」
メイの手は冷たかった。
けれど、握り返す力は強かった。
アリアはその手を見下ろした。
人間の手。
小さく、柔らかく、簡単に壊れてしまいそうな手。
かつてなら振り払っていた。
今は、振り払えなかった。
むしろ、人混みの波の中で、その手があることに少し安心していた。
「……仕方ないわね」
アリアはそう言って、メイの手を握り返した。
メイが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、アリアは視線を逸らした。
「ほらほら、二人とも遅いわよ!」
前方からアリスの声が飛んできた。
彼女は深紅の外套を翻し、すでに片手に焼き菓子、もう片方に温かい飲み物を持っている。どうやって同時に買ったのかは分からない。財布の紐が緩いというより、紐そのものを最初から持っていないような勢いだった。
瞬はその横で、巨大な綿菓子を二つ抱えていた。
「見ろアリア! 雲だぞ、食える雲!」
「ただの砂糖でしょう」
「夢がないなぁ」
「砂糖の塊を夢と呼ぶのは、さすがに危険よ」
瞬は綿菓子を一口かじり、目を細めた。
「うわ、甘っ。口の中が祭りになった」
「その表現もよく分からないわ」
「食えば分かる」
「いらない」
「ほら」
「いらないと言ったでしょう」
断る前に、瞬は小さくちぎった綿菓子を差し出していた。
アリアは嫌そうに見た。
白く、ふわふわしている。
まるで雪を無理やり甘くしたような見た目だ。
「……一口だけよ」
「最近そればっかだな」
「黙りなさい」
アリアは綿菓子を指でつまみ、口に入れた。
触れた瞬間、ふわりと消えた。
甘さだけが舌に残る。
「……何これ」
「綿菓子」
「食べた気がしないわ」
「でも甘いだろ」
「甘いけど……消えたわ」
「そこがいいんだよ」
瞬は笑った。
「一瞬で消えるから、もう一口食べたくなる」
その言葉が、なぜかアリアの胸に引っかかった。
一瞬で消えるもの。
意味がないもの。
残らないもの。
それなのに、もう一度欲しくなるもの。
アリアは指先についた砂糖を見つめた。冷たい夜風にさらされると、すぐにべたつきが硬くなる。何の役にも立たない甘さ。けれど、少しだけ心が浮いた。
そこへ、後ろからゼイクの声がした。
「瞬、食べ歩きは行儀が悪い。それに、綿菓子を二つ同時に持つと視界が塞がる。衝突の危険が――むぐっ」
エリーゼが、焼き立てのパンをゼイクの口へ突っ込んでいた。
「ゼイクさん。お説教は胃に食べ物を入れてからになさい」
「んぐ……熱い。だが、うまい」
「感想が素直でよろしいですわ」
アリアは思わず目を細めた。
どこまでも騒がしい。
だが、誰も孤立していない。
誰かが喋り、誰かが止め、誰かが食べさせ、誰かが笑う。そのやり取りが、魔石灯の光のようにあちこちで瞬きながら、ひとつの流れになっていく。
一行は中央広場へ向かった。
広場の中心には、巨大な櫓が組まれていた。その上では、赤々とした炎が燃えている。薪が爆ぜるたび、火の粉が夜空へ舞い上がった。炎の熱が、広場を囲む人々の頬を橙色に染める。
太鼓の音が鳴っていた。
ドン、ドン、ドン。
低く、腹の底に響く音。
それに合わせて、人々が輪になって踊っている。老人も、子供も、商人も、旅人も、身分も出身も関係なく、手を取り合い、足を踏み鳴らし、炎の周りを回っていた。
「さあ、私たちも行くわよ!」
アリスが突然、瞬の手を掴んだ。
「え、俺? ダンスとか無理だぞ! 前の世界でも体育の創作ダンスで地獄を見た男だぞ!」
「大丈夫よ。ここに採点する教師はいないわ」
「それは救いなのか?」
「必要なのは技術じゃない。勢いよ!」
「その理論で俺はだいたい痛い目を見るんだけど!」
アリスは聞かなかった。
瞬を引きずるようにして輪の中へ飛び込んでいく。
瞬の動きはひどかった。
右へ行くべきところで左へ行き、足を上げるところで手を上げ、回るべきところでなぜか跳ねる。だが、本人は全力だった。周囲の人々がそれを見て笑い、さらに輪が盛り上がる。
「兄ちゃん、いいぞ!」
「変な踊りだけど元気だな!」
「変な踊り言うな!」
瞬が叫ぶ。
アリアは呆然と見ていた。
恥ずかしくないのだろうか。
失敗している。
笑われている。
けれど、瞬は傷ついていない。むしろ一緒になって笑っている。
エリーゼも輪に入った。
「では、わたくしの完璧なリズム感をご覧に入れますわ」
そう宣言した彼女の動きは、優雅だった。
ただし、音楽とは少しずれていた。
本人は満足げに微笑みながら、太鼓のリズムより半拍遅れてくるりと回る。そのたびにアリスが笑い、瞬が「計算がずれてるぞ!」と叫ぶ。
ゼイクは最後まで抵抗していたが、アリスに背中を押され、ついに輪へ加わった。
「ええい、こうなれば規律ある踊りを見せてやる!」
ゼイクの踊りは、直角だった。
腕も足も、まるで訓練場の号令に合わせて動くように折れ曲がる。表情は真剣そのもの。あまりに真面目すぎて、周囲の子供たちが腹を抱えて笑っていた。
メイがアリアの手を引いた。
「アリアさんも行きましょう」
「無理よ」
即答だった。
「私は踊れないわ」
「私も上手じゃないです」
「そういう問題ではないの。人前で意味もなく体を動かすなんて」
「意味はあります」
メイはアリアを見上げた。
「楽しいです」
その言葉に、アリアは黙った。
楽しい。
たったそれだけの理由。
けれど最近、その理由が思っていたより強いことを、アリアは少しずつ知り始めていた。
「……少しだけよ」
また、その言葉が口から出た。
メイが笑う。
「はい、少しだけ」
アリアはメイに手を引かれ、炎の輪の中へ入った。
熱気が近い。
太鼓の音が足元から体へ響く。
人々の笑い声が、四方から押し寄せる。
どう動けばいいのか分からない。足がもつれる。隣の人とぶつかりそうになる。手を上げるタイミングも、回る方向も分からない。
恥ずかしい。
逃げたい。
でも。
向こう側で、瞬が変な踊りのまま親指を立てていた。
ゼイクが真顔で直角に回っている。
エリーゼが優雅にずれ続けている。
アリスが腹を抱えて笑っている。
誰も、アリアの下手さを責めない。
誰も、正しさを求めない。
ただ、一緒にそこにいることを楽しんでいる。
アリアは、ふっと息を漏らした。
笑いに近い息だった。
メイの手を握る力が、少しだけ強くなる。
炎が揺れる。
赤いリボンが、夜風と熱気の中で小さく跳ねた。
冬至の長い夜。
その中心で、アリアは初めて、正しくあることを少しだけ忘れた。
太鼓の音が、胸の鼓動と重なっていく。
どれほど踊っていたのか、アリアには分からなかった。
最初は、足の置き場ひとつにも神経を使っていた。隣の人間と肩が触れるたびに身構え、知らない手が近づくたびに背筋を硬くした。けれど、太鼓の音は容赦なく続き、炎は赤々と揺れ、人々は誰も彼女のぎこちなさを責めなかった。
輪は回る。
足音が石畳を叩く。
靴底が擦れ、衣擦れが重なり、笑い声が夜空へ弾ける。
冷たい冬の空気の中で、広場だけがまるで春の獣の腹の中のように温かかった。炎の熱、人々の体温、屋台から立ち上る湯気。それらが混ざり合い、アリアの頬を赤く染めていた。
息が上がる。
胸が苦しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「アリアさん、大丈夫ですか?」
メイが隣で心配そうに尋ねた。
アリアは息を整えながら頷いた。
「……平気よ。少し、騒がしいだけ」
「ふふ。お祭りですから」
「知っているわ」
そう言いながら、アリアの手はメイの手を離さなかった。
やがて、太鼓の音がゆっくりと小さくなっていった。
ドン。
ドン。
ドン……。
最後の一打が夜の奥へ吸い込まれる。
踊りの輪がほどけ、人々は肩で息をしながら、広場の中心へ顔を向けた。炎はまだ燃えている。けれど、その向こう側、広場の奥に組まれた台の上で、魔法使いたちが杖を掲げていた。
空気が変わった。
笑い声が少しずつ静まり、代わりに期待が広がっていく。
「そろそろだな」
瞬が隣へ来た。
額には汗が滲み、髪はぐしゃぐしゃになっている。あれだけ奇妙な踊りをしていたのだから当然だ。けれど、その表情はひどく満足そうだった。
「何が始まるの?」
アリアが尋ねる。
「祭りの最後のお楽しみだよ」
「また、食べ物?」
「惜しい。空に咲くやつ」
「……空?」
瞬はにやりと笑った。
その瞬間。
ヒュルルルル……。
細い音が、夜空へ昇っていった。
アリアは反射的に顔を上げた。
光の尾が、真っ暗な空を切り裂いて昇る。まっすぐに、高く、高く。まるで地上から放たれた小さな星が、空へ帰ろうとしているようだった。
そして。
ドンッ!
腹の底を叩く音と共に、空に光の花が咲いた。
赤。
青。
金。
緑。
幾重にも重なる光が、冬の澄んだ夜空いっぱいに広がった。花弁のように開き、細かな粒となってこぼれ、星屑の雨のようにゆっくりと落ちていく。
広場中から歓声が上がった。
「わぁ……!」
メイが息を呑む。
アリスが満足げに空を見上げ、エリーゼが「魔力制御が見事ですわ」と感心し、ゼイクでさえ、黙ったままその光を見つめていた。
アリアは、言葉を失っていた。
美しい。
ただ、それだけだった。
理由も、役割も、意味もいらなかった。
空に咲く光は、一瞬だけ世界を照らし、次の瞬間には消えていく。残るのは、網膜に焼きつく残像と、胸の奥に広がる不思議な痛みだけ。
また、光が昇る。
ヒュルルルル。
ドンッ。
今度は銀色の柳のような光が、空からゆっくり垂れ下がった。夜風に流されるように細い尾を引き、消える寸前まで輝き続ける。
アリアは、胸元を押さえた。
消えてしまう。
こんなに美しいのに、すぐに消えてしまう。
森の巨木は何百年も立ち続ける。澄んだ湖は季節を越えてそこにある。エルフの時間は長く、変わらないものに価値を置いてきた。
けれど、この光は違う。
ほんの一瞬。
瞬きひとつの間に咲き、崩れ、闇へ戻る。
無意味だと、以前の自分なら言ったかもしれない。
残らないものに価値はない。
そう切り捨てたかもしれない。
なのに、今は目を逸らせなかった。
消えてしまうから、見ていたい。
なくなってしまうから、胸に刻みたい。
その感情が、自分の中に生まれたことが、アリアには少し怖かった。
「あー、終わっちまうの早いな」
瞬が隣で呟いた。
その声はいつもより少しだけ静かだった。
「でも、だからいいのかもな」
「……どういう意味?」
「ずっと空に残ってたら、たぶん誰も見上げなくなるだろ」
瞬は夜空を見上げたまま言った。
「すぐ消えるって分かってるから、今ちゃんと見ようって思うんじゃねぇかな」
アリアの胸が、強く締めつけられた。
すぐ消える。
だから、ちゃんと見る。
その言葉は、花火だけに向けられたものではないように聞こえた。
アリアは、隣にいる瞬を見た。
黒い髪。
黒い瞳。
能天気で、無茶で、怒られてもすぐ笑う人間。
彼は、エルフの自分よりずっと短い時間しか生きられない。
メイも、アリスも、ゼイクも、エリーゼも。
今、手の届く距離にいるこの人たちは、いつか自分より先にいなくなるのだ。
その未来を想像した瞬間、アリアの指先が冷たくなった。
嫌だ。
そう思った。
まだ、そんなことを思う資格があるのかも分からない。ついこの間まで人間を見下し、汚らわしいと吐き捨てていた自分が、彼らを失うことを怖がるなんて、あまりにも身勝手だ。
それでも、怖かった。
この騒がしさが消えること。
この手の温度がなくなること。
今日の笑い声が、ただの記憶になってしまうこと。
怖かった。
アリアは無意識に、メイの手を握りしめた。
メイが驚いたように顔を上げる。
「アリアさん?」
「……何でもないわ」
声が震えた。
それを隠すように、アリアは空を見上げた。
最後の光が昇っていく。
今までで一番高く。
一番まっすぐに。
そして、夜空の真ん中で大きく開いた。
金色の光が、枝垂れる柳のように広がった。細かな粒がゆっくり落ち、広場にいる人々の顔を淡く照らす。
瞬の横顔。
メイの微笑み。
アリスの得意げな目。
ゼイクの穏やかな沈黙。
エリーゼの柔らかな表情。
それらが、一瞬だけ金色に染まった。
アリアは、その光景を忘れまいとした。
長い寿命のどこかに埋もれさせるのではなく、今、この瞬間の形のまま胸にしまいたいと思った。
「……綺麗だったわ」
光が消えたあと、アリアは小さく呟いた。
瞬がこちらを見る。
「だろ?」
「ええ」
アリアは、ほんの少しだけ笑った。
「一瞬で消えるのに、こんなに残るものなのね」
瞬は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「いいこと言うじゃん」
「茶化さないで」
「悪い」
メイがアリアの手を握り返した。
その温もりが、現実のものとして手のひらにあった。
いつか消えるもの。
だからこそ、今は確かにここにあるもの。
アリアはその手を、もう少しだけ強く握った。
「さあ、帰るわよ!」
アリスの声が響いた。
「宿で二次会よ! 買っておいた焼き菓子と温かい飲み物があるわ!」
「まだ食うのか!」
ゼイクが驚愕する。
「祭りの夜に胃袋を休ませるなんて無粋ですわ」
エリーゼが当然のように言った。
「さすがエリーゼ、分かってる!」
瞬が笑う。
騒がしい声が、再び夜の通りへ広がっていく。
人々は家路につき、屋台の火は少しずつ落とされ、祭りの熱はゆっくりと街の石畳へ吸い込まれていく。枝に吊るされた魔石灯だけが、まだ小さな光を揺らしていた。
アリアはその輪の中を歩いた。
右手にはメイの手。
髪には赤いリボン。
胸の奥には、消えてしまった光の残像。
冬の夜風は冷たい。
けれど、不思議と寒くはなかった。
この温かさも、いつか消えるのかもしれない。
そう思うと怖い。
でも、消えると分かっているからこそ、今この手を離したくない。
アリアは、歩きながら空をもう一度見上げた。
花火の光はもうない。
そこには、静かな星だけが瞬いている。
けれど彼女の胸には、まだ金色の光が残っていた。
それは、長い夜を越えるための、小さくて確かな火だった。




