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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第72話:旅の空の衝動買いと、無意味なリボン 〜役に立たないものが、心を少しだけ温める〜

旅の空の下、季節はさらに深まっていた。


 クイーン・アリス号が停車したのは、大陸の物流を支える商業都市ベル・マルシェの郊外だった。


 空は高く、冷たい硝子を磨き上げたように澄んでいる。太陽の光は明るいが、夏のような熱はない。触れれば指先が切れそうなほど薄く鋭い光が、石造りの城壁や道端の露店の布屋根を白く照らしていた。


 街路樹はすでに多くの葉を落とし、枝だけになった影が石畳の上に細く伸びている。風が吹くたび、残った枯葉が乾いた音を立てて舞い上がり、通りを走る荷車の車輪に踏まれてぱり、と砕けた。


 だが、街そのものは寒さなど知らないように熱を帯びていた。


 香辛料を積んだ南方の商人。


 毛皮を売る北方の旅人。


 宝石、布、薬草、菓子、奇妙な楽器、用途の分からない置物。


 世界中の物が、この街に集まっているようだった。


 その大通りを、ひどく目立つ一団が歩いていた。


 正確には、女性陣が楽しげに歩き、男性陣が荷物に埋もれながら引きずられるように進んでいた。


「ちょ、待て、アリス……! 俺の腕、そろそろ人体としての契約を解除しそうなんだけど!」


 瞬は両手に紙袋を山ほど提げ、肩には布包み、背中には大きな木箱まで背負っていた。荷物の隙間から顔だけが出ている。歩くたび、袋の持ち手が指に食い込み、彼は情けない声を上げた。


「契約解除って何ですの」


 エリーゼが振り返る。


「腕が『もうあなたとはやっていけません』って独立宣言する感じだ」


「その場合、残された本体はどうなるのかしら」


「知らん。たぶん荷物置き場になる」


 その横で、ゼイクもまた巨大な荷物の塔を抱えていた。


 彼は騎士としての意地なのか、荷物を完璧な角度で積み上げ、姿勢を崩さず歩いている。だが、顔色はあまりよくない。鎧の上に布袋や木箱が固定されている姿は、誇り高き騎士というより、移動式の倉庫だった。


「アリス嬢」


 ゼイクは低く言った。


「確認したい。我々には収納魔法がある。大量の荷物を手で持ち歩く必要はないはずだ」


「あるわよ」


 先頭を歩くアリスは、実に軽やかだった。両手は完全に空いており、深紅の外套を風になびかせている。


「じゃあ使えよ!」


 瞬が叫ぶ。


「嫌よ」


「なぜ!」


「買い物の楽しさは、戦利品の量を目で見て感じるところまで含めて完成するの」


 アリスは振り返り、きっぱりと言った。


「収納魔法にぽいぽい入れたら、ただの物資補給になるでしょう? 袋を持って、重さを感じて、ああ今日はたくさん買ったわねって満足する。それが大事なのよ」


「その満足を感じてるの、俺たちの腕なんだけど!」


「貴重な体験ね」


「体験料を請求したい!」


 瞬の悲鳴に、通行人が何人か笑った。


 アリアは、その少し後ろを歩いていた。


 彼女にはアリス特製の認識を曖昧にする魔法がかけられている。尖った耳も、金色に輝く髪も、周囲の人間たちには「少し綺麗な旅の少女」程度にしか映っていないらしい。


 最初は、それでも人混みが怖かった。


 だが、前に王都で街へ出た時ほど、胸が詰まる感じはない。メイが隣にいて、時折「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。瞬たちの騒がしいやり取りも、逆に周囲の視線を分散してくれていた。


 ただ、それとは別の意味で、アリアは眉間に皺を寄せていた。


「……理解できないわ」


 彼女は冷ややかな目で、瞬とゼイクが抱える荷物を見た。


 中身は知っている。


 ふわふわしたクッション。


 色とりどりの布。


 猫の形をした置物。


 七色に光るだけのランプ。


 音が鳴るだけの小さな木箱。


 甘い匂いのする香油。


 どれもこれも、旅の必需品とは言い難かった。


「水、食料、薬、予備の武器、防寒具。それ以外は最小限にするべきよ。移動生活では、荷物の量は生存率に直結する。あんなものを積んで、何の意味があるの」


 アリアは真顔で言った。


 メイは困ったように笑う。


「でも、あの猫ちゃんの置物、かわいかったですよ」


「かわいいという概念が、魔獣に襲われた時に何か役に立つの?」


「えっと……心が和みます」


「心が和んでも、爪や牙は防げないわ」


「た、たしかに……」


 メイは少ししゅんとした。


 その顔を見て、アリアは言葉を詰まらせた。


 責めるつもりはなかった。


 ただ、そう思ったから言っただけだ。


 けれど、メイの肩がわずかに落ちるのを見て、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。


「……別に、あなたの趣味を否定したわけではないわ」


 アリアは視線を逸らしながら言った。


「ただ、機能性の話をしただけよ」


 メイは少し驚いたように顔を上げ、それから柔らかく笑った。


「はい。ありがとうございます」


「なぜお礼を言うの」


「気にしてくれたからです」


 アリアは返事に困り、黙った。


 そのやり取りを聞いていたアリスが、にやりと笑った。


「アリア、あなた本当に石頭ねぇ」


「……誰が石頭よ」


「あなたよ。ゼイクさんと同じくらい立派な石頭」


「不名誉な分類に入れないでくれる?」


「聞き捨てならんな」


 荷物の塔の向こうから、ゼイクの声がした。


「私は状況判断を重視しているだけだ」


「ほら、同じこと言ってる」


 アリスは楽しそうに笑った。


 アリアは唇を引き結ぶ。


「私は正論を言っているの。旅に不要な物を持ち込めば、空間を圧迫する。管理の手間が増える。いざという時、判断を遅らせる原因にもなる」


「正論ね」


 アリスはあっさり頷いた。


「でも、正論だけで旅をすると、心が干からびるわ」


「心?」


「そう」


 アリスは露店の前で足を止めた。


 そこには、色鮮やかな布や小物が並んでいた。赤いリボン、青い飾り紐、金糸の刺繍が入った小袋、硝子玉をつなげた腕飾り。風が吹くたび、それらが小さく揺れて、光を受けてきらきらと輝く。


「目的地に着くだけなら、最短距離を走ればいい。生きるだけなら、最低限の水と食料があればいい。でも、それだけじゃ味気ないでしょ」


「生存に味は関係ないわ」


「あるわよ」


 アリスは即答した。


「おいしいものを食べたから、明日も頑張れる。綺麗なものを見たから、少し元気になる。気に入ったものを身につけたから、背筋が伸びる。そういうものが、人を先に進ませるの」


 アリアは黙った。


 反論はあった。


 いくらでもあった。


 だが、すぐに言葉にならなかった。


 鍋の時、同じようなことを感じたからだ。


 効率だけなら、あの騒がしい食事に意味はない。けれど、あの温かさを、アリアは否定できなかった。


 アリスはその表情を見逃さなかった。


「よし、決めた」


「……何を」


 アリアは嫌な予感がして、一歩下がった。


 アリスは笑顔でアリアの手首を掴んだ。


「あなたを改造するわ」


「は?」


「機能性だけで固まったその頭を、少しだけほぐしてあげる」


「必要ないわ」


「必要かどうかは、やってから決めればいいのよ」


「その理屈は危険すぎるわ!」


 アリアの抗議も虚しく、アリスは彼女を店の中へ引きずっていく。


「メイ、エリーゼ、来なさい! 今日の任務はアリアの可愛さを発掘することよ!」


「はい!」


「あら、面白そうですわね」


 メイが嬉しそうに続き、エリーゼも扇子を閉じて店へ入った。


 アリアは抵抗しようとしたが、怪我明けの体ではアリスの勢いに勝てない。何より、三人の女性陣の目が完全に獲物を見つけた狩人のものになっていた。


 店外に残された瞬とゼイクは、荷物の山の下で顔を見合わせた。


「……ゼイク」


「何だ」


「女性陣の買い物って、ダンジョンより怖くないか?」


「同感だ」


 ゼイクは深く頷いた。


「ダンジョンには、少なくとも出口がある」


 その言葉を最後に、アリアは色とりどりの布と飾りに埋もれた店内へ連行された。


 扉の鈴が、からん、と軽やかに鳴る。


 それは、彼女にとって未知の戦場の開戦を告げる音だった。


 店の中は、外の乾いた風が嘘のように暖かかった。


 壁際には魔石暖房が置かれ、柔らかな熱が床を這うように広がっている。棚には色とりどりの布、飾り紐、髪留め、小さな香水瓶、刺繍入りの手袋が所狭しと並んでいた。天井から吊るされた硝子玉が、扉の開閉で揺れるたび、光を細かく砕いて床や壁に散らしている。


 甘いお香の匂いがした。


 森の匂いではない。


 草や水や土ではなく、人の手で作られ、人のために飾られた香り。


 アリアは、店の中央に立ったまま眉間に皺を寄せた。


「……落ち着かないわ」


「あら、最高じゃない」


 アリスは目を輝かせていた。


「こういう店はね、入った瞬間に心が三割くらい若返るのよ」


「あなたは十分若いでしょう」


「精神の話よ。財布は老けるけど」


「それは問題なのでは?」


「問題を楽しむのが買い物よ」


 アリアには、まったく理解できなかった。


 その間にも、アリスとエリーゼ、メイは次々と棚から品物を持ってくる。


「まずはこれ! 南方の踊り子風ドレス!」


 アリスが極彩色の布を広げた。


 肩も腹部も大きく露出した、動くたびに飾りの金具が鳴りそうな衣装だった。


 アリアは一目見て、即答した。


「却下。防御面積が少なすぎるわ。腹部は急所よ。そこを晒す意味が分からない」


「意味はあるわ。華やか」


「戦闘では狙ってくださいと言っているようなものよ」


「街歩きで戦闘前提なの、あなたくらいよ」


 アリスは唇を尖らせ、次の服を持ってくる。


「じゃあ、こっち。北方風のもこもこ外套。暖かいし、可愛いし、防御面積も広いわ」


 アリアは布を指先でつまんだ。


「重い。動きが鈍る。視界の端に毛が入る。却下」


「厳しいわねぇ」


「当たり前よ。身につけるものは命に関わるの」


「命に関わらない装いもあるのよ」


「それは装いではなく油断よ」


 エリーゼが今度は落ち着いた深緑のワンピースを持ってきた。


「これはどうですの? アリアさんの雰囲気に合いますわ。森の色ですし、品もあります」


 アリアは少しだけ眺めた。


 たしかに色は悪くない。


 だが、すぐに首を振る。


「裾が長いわ。足さばきが悪くなる」


「本当に基準が全部、戦闘ですわね」


「生き延びるには大事でしょう」


 メイが、おずおずと猫耳のついたフード付きマントを差し出した。


「これは……どうでしょう。かわいいです」


 アリアは、マントとメイを交互に見た。


「……メイ」


「はい」


「あなたは私を何にしたいの?」


「えっと……かわいいアリアさんです」


 あまりにも真っ直ぐな答えに、アリアは一瞬詰まった。


 怒るべきか、呆れるべきか分からない。


「聴覚を阻害するフードは危険よ。特に耳の形を潰すものは論外。索敵能力が落ちるわ」


「そ、そうですか……」


 メイが少し残念そうにマントを戻す。


 その姿を見て、アリアはまた胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。


 彼女たちは、自分を馬鹿にしているわけではない。


 着せ替え人形にしたいだけでも、たぶんない。


 似合うものを探している。


 喜ばせようとしている。


 その意図は分かる。


 分かるのに、どう受け取ればいいのか分からない。


 アリアの中には、まだ「役に立つかどうか」という物差ししかなかった。何かを選ぶ時、危険はないか、動きやすいか、耐久性はあるか、保存性はあるか。それだけで判断してきた。


 可愛い。


 綺麗。


 楽しい。


 そういう曖昧な感覚に従うことは、ひどく危ういものに思えた。


「もう」


 アリスが腰に手を当てた。


「あなた、ほんっとに難しいわね」


「合理的と言って」


「合理的すぎて、心が干し肉になってるのよ」


「干し肉は保存性が高いわ」


「そういうところ!」


 アリスは棚の前で何かを探し始めた。指先が布や飾り紐を次々とめくる。赤、青、白、金。色が重なり、暖かな店内に小さな虹を作っていた。


 やがて、彼女の手が一本のリボンを掴んだ。


 深い赤だった。


 派手すぎず、暗すぎもしない。熟した果実のようで、夕焼けの端のようでもある。柔らかな光沢を持つ布地は、指先に吸いつくようになめらかだった。


「これね」


 アリスは満足げに頷いた。


「何よ、それ」


「リボン」


「見れば分かるわ」


「なら、着けましょう」


「なぜそうなるの」


「似合うと思ったからよ」


 アリスは返事を待たず、アリアの背後に回った。


 アリアは反射的に身を固くした。


 髪に触れられる。


 少し前なら、それだけで拒絶していただろう。


 だが、メイに髪を梳かれた朝の感触が、まだどこかに残っていた。触れる手が必ずしも奪う手ではないと、ほんの少しだけ知ってしまっていた。


 だから、逃げなかった。


 アリスの指は手際がよかった。金色の髪をすくい、流れを整え、先ほどメイが編んでくれた部分を崩さないように、赤いリボンを結んでいく。


「……意味がないわ」


 アリアは小さく言った。


「防寒にも、防御にも、収納にも役立たない。ただ目立つだけよ」


「ええ」


 アリスはあっさり認めた。


「意味なんてないわ」


「なら、なぜ」


「意味がないのに、嬉しくなるものもあるからよ」


 リボンが結ばれる。


 アリスはアリアの肩を軽く押し、姿見の前に立たせた。


「見て」


 アリアは、渋々鏡を見た。


 そこに映っていたのは、自分だった。


 雪のように白い肌。


 翠色の瞳。


 長い金髪。


 尖った耳。


 エルフとして見慣れた顔。冷たく、整いすぎていて、どこか作り物めいて見える顔。


 けれど、その髪の一部に赤いリボンが結ばれていた。


 たったそれだけだった。


 布切れ一本。


 何の役にも立たない飾り。


 なのに、鏡の中の自分は、少しだけ違って見えた。


 冷たい彫像に、血の色が差したようだった。森の奥で動かずにいたものへ、外の風が一筋触れたようだった。


 アリアは無意識に、リボンへ指を伸ばした。


 柔らかい。


 その手触りに、胸の奥がくすぐられる。


「……変じゃない?」


 声が、思ったより小さくなった。


 アリスはにやりと笑った。


「変じゃないわ。似合ってる」


 エリーゼも頷いた。


「とても素敵ですわ。アリアさんの静かな雰囲気に、その赤がよく映えます」


 メイは両手を合わせ、ほとんど跳ねるように言った。


「すごく可愛いです! お花が咲いたみたいです!」


 アリアは、返事ができなかった。


 可愛い。


 素敵。


 似合っている。


 そんな言葉を向けられることに、慣れていない。


 森では、装いは誇りを示すためのものだった。立場、血筋、役割。そこに個人の気分など入り込む余地はなかった。


 けれど、このリボンは違う。


 役割を示すものではない。


 自分を縛るものでもない。


 ただ、少しだけ気分を変えるものだった。


 その時、店の扉の鈴が鳴った。


「おーい、まだかー? 俺の腕、そろそろ荷物と一体化して新種の魔物になりそうなんだけど」


 荷物の山が入ってきた。


 正確には、荷物の山から瞬の顔だけが出ていた。その後ろには、同じく荷物を抱えたゼイクがいる。ゼイクは限界に近いはずなのに、荷物の角度だけは完璧だった。


 瞬は店内を見回し、鏡の前に立つアリアを見つけた。


 一瞬、動きが止まる。


 アリアの心臓が、なぜか強く鳴った。


 何を言われるのか。


 馬鹿にされるのか。


 似合わないと笑われるのか。


 瞬は、少しだけ目を丸くしたあと、いつものように笑った。


「お、いいじゃん」


 それだけだった。


 飾った言葉ではない。


 考え抜いた褒め言葉でもない。


 見たままを、そのまま口にしただけの声。


「なんか、アリアっぽい。冷たそうなのに、ちょっとあったかい感じ」


 アリアの耳が熱くなった。


「……何よ、その雑な感想」


「褒めてるぞ」


「分かりにくいわ」


「じゃあ、すげぇ似合ってる」


 さらに熱くなった。


 アリアはリボンに触れたまま、視線をそらす。


「……そう」


 それしか言えなかった。


 アリスが瞬のすねを軽く蹴った。


「最初からそう言いなさいよ」


「痛っ。なんで褒めたのに蹴られるんだよ」


「褒め方に手間をかけなさい」


「褒めるのにも作法あんのかよ」


「あるわよ。覚えなさい」


 ゼイクは荷物の隙間から真面目な顔で頷いた。


「赤は視認性が高い。戦場では目立つが、士気向上には効果がある。アリア殿の表情も先ほどより柔らかく見える。実用性は低いが、精神面への効果は認められるな」


「ゼイクさんまで、結局機能の話に戻るんですのね」


 エリーゼが呆れたように笑う。


 メイは嬉しそうにアリアの隣へ来た。


「アリアさん、そのままつけていきませんか?」


 アリアは鏡の中の自分をもう一度見た。


 赤いリボン。


 何の役にも立たない。


 けれど、外すのは少し惜しい。


「……そうね」


 彼女は小さく頷いた。


「せっかく結んでもらったのだし。今日だけなら、つけていてもいいわ」


「今日だけ?」


 アリスが笑う。


「ええ、今日だけよ」


 そう言いながら、アリアの指はリボンをほどこうとはしなかった。


 店を出る頃には、瞬とゼイクの荷物はさらに増えていた。


「おかしいだろ! 試着してただけなのに、なんで買い物袋が三つ増えるんだよ!」


「リボンと、それに合う小物と、予備のリボンよ」


 アリスが当然のように言う。


「予備いる!?」


「いるわよ。気に入ったものは、なくした時に泣く前に予備を買うの」


 アリアはその言葉に、少しだけ胸を突かれた。


 気に入ったもの。


 自分が、このリボンを気に入った。


 そう認めるのは、まだ少し恥ずかしかった。


 だから、何も言わずに歩いた。


 通りに出ると、冷たい風が頬を撫でた。


 髪に結ばれた赤いリボンが、小さく揺れる。風に引かれるその感触が、なぜか胸の奥を温めた。


 ふと、露店の端に小さな袋が並んでいるのが見えた。


 焼き菓子だった。


 猫の形をした、何の変哲もない小さなクッキー。味も保存性も、おそらく旅の必需品にはならない。食べれば消える。役には立たない。


 けれど、見た瞬間、メイが好きそうだと思った。


 アリアは足を止めた。


「……これ」


 店主が顔を上げる。


「お嬢ちゃん、クッキーかい?」


「一袋だけ」


 自分の声に、自分で驚いた。


 アリスがこちらを見る。


 瞬も、荷物の山の向こうから目を丸くした。


「アリアが自分から買った……」


「何よ」


「いや、歴史的瞬間だなって」


「大げさよ」


 アリアは店主に代金を渡し、小さな袋を受け取った。


 軽い。


 命を守る役には立たない。


 でも、メイに渡したら喜ぶかもしれない。


 そう思うと、その軽さが不思議と大切なものに感じられた。


 メイが隣で首を傾げる。


「アリアさん?」


「……あとで食べればいいわ」


 アリアは袋をメイに差し出した。


「あなたが、こういうものを好きそうだったから」


 メイは一瞬、目を見開いたように顔を上げた。


 そして、両手で袋を受け取る。


「ありがとうございます。すごく嬉しいです」


 その声が、あまりにも温かかった。


 アリアは、また視線をそらした。


「ただのクッキーよ」


「でも、アリアさんが選んでくれました」


 その言葉が、胸の奥に残った。


 ただのクッキー。


 ただのリボン。


 ただの無駄。


 けれど、誰かが選び、誰かが喜ぶと、それはただの物ではなくなる。


 アリアはまだ、その仕組みを完全には理解できなかった。


 けれど、髪で揺れる赤いリボンと、メイが大事そうに抱えるクッキーの袋が、その答えを少しだけ教えてくれている気がした。


 夕方、クイーン・アリス号へ戻る道。


 空は淡い茜色に染まっていた。商業都市の屋根の上を、渡り鳥の群れが黒い影となって横切っていく。石畳を歩くたび、荷物の袋が揺れ、瞬が悲鳴を上げ、アリスが次の店を見つけてまた目を輝かせる。


 騒がしい。


 無駄が多い。


 疲れる。


 けれど、アリアは赤いリボンにそっと触れた。


 指先に柔らかな布の感触がある。


 今日という一日が、そこに結ばれているようだった。


「……悪くないわ」


 小さく呟いた声は、夕方の風に紛れて消えた。


 けれど、隣を歩くメイだけは聞こえたのか、そっと微笑んでいた。

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