第70話:タイヤのない車と、新しい風 〜道は、進む足の後ろに生まれる〜
旅立ちの朝は、憎らしいほどに晴れていた。
夜明け前まで庭に残っていた薄い靄は、昇り始めた太陽に押し払われ、今は芝生の先に白く細い名残を漂わせているだけだった。空は高い。夏の終わりを告げるような淡い青が、屋敷の屋根の向こうまで澄んで広がっていた。
風には、少しだけ乾いた匂いが混じっていた。
王都の石畳を焼いていた暑さはまだ消えきっていない。けれど、庭の木々の葉が揺れる音には、真夏の重たさとは違う軽さがあった。サワサワと擦れる葉の音。遠くで鳴く鳥の声。使用人たちが荷物を運ぶ足音。馬具の金具がぶつかる小さな音。
すべてが、これから何かが始まる朝の音だった。
ローゼンバーグ邸の前庭では、早くから旅支度が進められていた。
食料、薬、衣類、寝具、予備の武器。箱や袋が次々と運び出され、屋敷の玄関前に並べられていく。キースたちは元盗賊らしい手際で荷物を分類し、ゼイクはそれを真面目すぎるほど細かく確認していた。
「この薬箱は衝撃に弱い。下に置くな。そちらの水袋は日光に当てすぎると劣化する。布をかけておけ」
「へいへい、騎士団長様は朝から細けぇなぁ」
「細かいのではない。必要な管理だ」
ゼイクの声はいつものように硬いが、どこか落ち着いていた。危険な任務に向かう緊張はある。だが、昨日までのような張り詰めた空気だけではない。
その少し離れた日陰のベンチに、アリアは座っていた。
膝の上に両手を置き、背筋を伸ばしている。まだ完全に力が戻ったわけではない。長く歩けば傷が痛むし、急に動けば呼吸が乱れる。それでも、地下で鎖に繋がれていた時の青白さは、少しだけ薄れていた。
金色の髪が、朝日に照らされて光っている。
その髪に、メイが櫛を通していた。
「痛くないですか?」
メイは、恐る恐る尋ねた。
白いアイガードの下の表情は分からない。けれど、声には緊張が滲んでいる。昨夜までのアリアなら、人間に髪を触らせるなど考えられなかった。まして、最初に花瓶を投げつけた相手だ。
アリアも、そのことを覚えていた。
メイの小さな手が、自分の髪をそっとすくう。櫛の歯が、絡まった部分を丁寧にほどいていく。無理に引っ張らない。急がない。まるで壊れやすい糸を扱うような手つきだった。
「……痛くないわ」
アリアは短く答えた。
「そうですか。よかった」
メイの声が、少しだけ明るくなる。
それを聞いて、アリアは目を伏せた。
昨日、自分はこの少女に花瓶を投げた。水も食事も拒み、汚らわしい人間と吐き捨てた。それなのに、メイは何もなかったように、今こうして髪を梳いている。
何もなかったように。
いや、きっと違う。
怖かったはずだ。傷ついたはずだ。
それでも、メイは近づいてきた。
そのことが、アリアにはまだうまく飲み込めなかった。
「……あなた」
「はい?」
「怒っていないの」
メイの手が、一瞬だけ止まった。
「何をですか?」
「花瓶を投げたことよ」
自分で口にすると、胸が重くなった。
メイは少し黙った。
そして、ゆっくりと櫛を動かしながら言った。
「びっくりはしました。でも、怒ってはいません」
「どうして」
「だって、アリアさん、すごく怖かったんだと思うから」
アリアは唇を噛んだ。
怖かった。
その言葉を認めたくない自分がいた。だが、否定するには、メイの声はあまりに優しかった。
「……人間は、すぐそうやって分かったようなことを言うのね」
「分かってはいないです」
メイは静かに答えた。
「でも、怖かったんだろうなって、思うことはできます」
櫛が、髪の先まで通った。
さらり、と金色の髪が背中へ流れる。
アリアは何も言えなかった。
メイは小さな紐で髪を結び、編み込みを作り始めた。指先の動きは少し不器用だが、丁寧だった。人間の手。短命で、温かくて、すぐに傷つきそうな手。その手が、自分の髪を整えている。
かつてなら、吐き気を覚えただろう。
今は、少しだけくすぐったかった。
「はい、できました」
メイが嬉しそうに言う。
「……どうでしょうか」
アリアは差し出された手鏡を受け取った。
鏡の中には、自分がいた。
長い金髪の一部が柔らかく編み込まれ、耳の横で小さくまとまっている。実用だけを考えれば、ただ結えばいい。けれど、メイの編み方には少しだけ飾りがあった。細い髪の流れが、朝日を受けて淡く光る。
「……悪くないわ」
アリアは、できるだけ平静に言った。
だが、耳の先がほんの少し赤くなっているのを、鏡は隠してくれなかった。
メイの顔がぱっと明るくなる。
「よかったです! アリアさんの髪、本当に綺麗です。朝の光みたいで、触っているだけで指がすべすべになります」
「……あなたの髪も」
言いかけて、アリアは一度言葉を止めた。
褒める、という行為にまだ慣れていなかった。
けれど、メイは待っていた。
急かさず、笑って。
「あなたの髪も、悪くないわ。夜に浮かぶ月明かりみたいで……落ち着く色だと思う」
言い終えた瞬間、アリアは視線をそらした。
恥ずかしい。
ただ髪の色を褒めただけなのに、戦場で裸を晒したような気分だった。
メイは両手を胸の前で握った。
「ありがとうございます」
その声が本当に嬉しそうで、アリアはますます視線を合わせられなくなった。
そんな二人を、少し離れた場所からゼイクとエリーゼが見ていた。
ゼイクは荷物の確認用の板を持ったまま、完全に動きを止めている。エリーゼもまた、扇子を半開きにした姿勢で固まっていた。
「……エリーゼ」
ゼイクが低く呟いた。
「私の目は、任務前の緊張でおかしくなっているのか」
「いいえ、ゼイクさん。わたくしにも同じ光景が見えていますわ」
エリーゼの声にも、珍しく動揺が混じっていた。
「あのアリアさんが、人間であるメイさんに髪を触らせていますわ。それも、拒絶どころか、お礼に近い言葉まで……」
「天変地異の前触れか」
「もしくは、歴史書に新しい章が増える瞬間ですわね」
ゼイクは真剣に頷いた。
「記録しておくべきかもしれん」
「やめておけよ」
背後から、瞬があくび混じりに言った。
彼は寝癖のついた髪を掻きながら、二人の横へやってきた。朝に弱いのか、目が半分ほどしか開いていない。
「大げさなんだよ、お前ら」
「大げさではない」
ゼイクは即座に反論した。
「数日前まで『近づくな、殺す』と言っていた相手だぞ。それが今、髪を梳かせている。常識的に見れば、奇跡に分類される」
「そうか?」
瞬はベンチの方を見た。
アリアとメイが、まだ小さく会話している。言葉は少ない。距離も近すぎない。それでも、そこには昨夜までとは違う空気があった。
「ただ、ちょっと慣れただけだろ」
「その『ちょっと』が、どれほど大きいか分かっているのか」
「分かってるよ」
瞬は少しだけ笑った。
「だから、邪魔しないで見てんじゃん」
ゼイクは一瞬、言葉を詰まらせた。
エリーゼが小さく微笑む。
「瞬さんにしては、珍しく繊細な判断ですわね」
「俺を何だと思ってんだよ」
「無茶を服に着せて歩かせた存在ですわ」
「ひでぇ」
その時、屋敷の門の外が騒がしくなった。
馬のいななき。
車輪が石畳を踏む音。
衛兵の号令。
やがて門が開き、一台の馬車が前庭へ入ってきた。
王家の紋章が側面に刻まれた、豪奢な馬車だった。黒く磨かれた車体に金の縁取り。窓には深い赤のカーテン。車輪の軸には細かな装飾が施され、屋根には小さな旗が揺れている。
見た目だけなら、まさに王族や賓客を運ぶにふさわしい乗り物だった。
御者が降り、深々と礼をする。
「瞬様、ならびに皆様。国王陛下より、エルフの里への旅路のため、王家秘蔵の最高級馬車をご用意いたしました」
キースたちが「おお」と声を上げる。
ゼイクも一応、感心したように頷いた。
「王家の長距離儀礼馬車か。かなり上等なものだな。防御用の魔法板も組み込まれている」
アリアは馬車を見た。
人間の乗り物。
重く、派手で、いかにも権威を見せつけるための箱。
正直、良い印象はなかった。だが、少なくとも地下牢よりはましだろうと思った。
瞬だけが、微妙な顔をしていた。
「……なぁ」
「何だ」
ゼイクが聞く。
「あれ、揺れない?」
「馬車とは揺れるものだ」
「尻、割れない?」
「割れん」
「本当か? この世界の道、けっこうガタガタだぞ。長旅でずっとあれだと、アリアの傷にも悪くないか?」
その言葉に、アリアは少しだけ瞬を見た。
自分の傷のことを、気にしている。
まただ。
この男は、何気ない顔でそういうことを言う。
御者は困ったように笑った。
「ご安心ください。王家秘蔵の最高級馬車です。内部には柔らかな座席もございます」
「でも、空調は?」
「く、空調?」
「トイレは?」
「道中の宿場で――」
「シャワーは?」
「しゃ、しゃわー?」
御者の笑顔が引きつっていく。
その時、屋敷の玄関が開いた。
「はぁ……やっぱり来たわね、その前時代の箱」
現れたのはアリスだった。
深紅のドレスに旅用の外套を羽織り、朝日を背に受けて立っている。手にはいつもの扇子。顔には、勝ち誇ったような笑み。
彼女は王家の馬車を一瞥した。
そして、容赦なく言った。
「産業廃棄物ね」
御者の顔から血の気が引いた。
「さ、産業……?」
「聞こえなかった? 産業廃棄物よ。あんな重くて、揺れて、空調もなくて、水回りもない箱に、病み上がりのアリアを乗せるつもり? 拷問器具の新作かしら」
「アリス様!」
エリーゼが慌てて止めようとする。
「王家の方が用意されたものですわ。もう少し言葉を選んで――」
「では、豪華な拷問器具」
「悪化しましたわ!」
瞬は小さく拍手した。
「さすがアリス。俺の言いたいことを百倍ひどく言ってくれる」
「褒め言葉として受け取るわ」
アリアは呆然としていた。
王家の馬車を、ここまで堂々と貶す人間がいるのか。
人間の中にも、王を恐れない者がいる。
いや、この女は単に遠慮がないだけかもしれない。
アリスは扇子を閉じ、屋敷の横手にある大きな倉庫を指差した。
「下げなさい。そんな古い箱に、私の仲間は乗せないわ」
私の仲間。
その言葉が、アリアの耳に残った。
仲間。
自分も、その中に含まれているのだろうか。
問いかける前に、アリスが高らかに指を鳴らした。
「開けなさい。第一格納庫」
ズズズズズ……。
地面の底から響くような重低音が、前庭に広がった。
屋敷の横にある巨大な倉庫の扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。隙間から白い光が漏れ、その奥に眠っていた巨大な影が、朝日の中へ姿を現し始めた。
全員が、息を呑んだ。
それは、馬車ではなかった。
箱のようで、船のようで、家のようでもある。
銀色に磨き上げられた巨大な車体。滑らかな曲線を描く外装。窓には厚い透明板がはめ込まれ、側面には流れるような装飾が刻まれている。
そして何より。
それは、地面に触れていなかった。
車輪がない。
なのに、巨大な車体は地面からわずかに浮いている。下部から青白い光の膜が揺らめき、草を静かに押し分けていた。
アリアは、言葉を失った。
人間の道具。
そう片付けるには、あまりにも常識から外れていた。
ゼイクの口が開いたままになる。
エリーゼの手から扇子が落ちかける。
御者はその場で腰を抜かした。
瞬だけが、子供のように目を輝かせていた。
「……うお」
彼の声が震える。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
瞬は全力で駆け出した。
「なんだこれ! キャンピングカーじゃん! しかも浮いてる! タイヤない! マジかよ! アリス、お前、天才か!」
アリスは胸を張った。
「当然でしょう」
朝日の中で、銀色の巨体が静かに輝く。
風が吹き、芝生が波打った。
アリスは満面の笑みで、その異世界の常識を壊す乗り物の名を告げた。
「全地形対応型・浮遊式魔導キャンピングカー」
扇子が、ぱちんと開く。
「その名も――クイーン・アリス号よ!」
クイーン・アリス号。
その名を聞いた瞬間、前庭にいた者たちの反応は、綺麗に二つへ分かれた。
瞬は感動で震えていた。
ゼイクは理解不能で固まっていた。
エリーゼは魔力の流れを見て青ざめていた。
メイは巨大な銀色の車体を見上げ、両手を胸の前で握りしめている。
「こ、これ……生き物じゃないですよね?」
「生き物ではないわ」
アリスが誇らしげに答える。
「ただ、そこらの生き物よりずっと賢くて、快適で、優雅で、役に立つわ」
「比較対象にされた生き物が気の毒ですわね」
エリーゼが呟いた。
アリアは、何も言えなかった。
目の前の銀色の巨体は、彼女の知っている世界のどこにも存在しないものだった。森の奥で育った彼女にとって、移動とは足で歩くか、馬に乗るか、風と木々の道を読むことだった。人間の馬車は重く、遅く、土煙を上げる不格好な箱だと思っていた。
だが、これは違う。
車輪がない。
馬もいない。
地面に爪痕を残さず、銀色の車体がわずかに浮いている。下部の青白い光が草を撫で、朝露を細かな光の粒に変えていた。
「……なぜ、浮いているの」
アリアは思わず呟いた。
アリスは待ってましたと言わんばかりに笑った。
「重さを地面に預けないようにしているのよ。道が悪くても、石があっても、泥があっても関係ない。揺れも少ないし、車輪が壊れる心配もないわ」
「……人間は、こんなものまで作るの」
「人間というより、私が作ったの」
アリスは胸を張った。
「そこは間違えないでちょうだい。世界の常識と私の才能を一緒にしないで」
ゼイクが額を押さえた。
「頼むから、その才能を少しは常識に寄せてくれ」
「嫌よ。常識に寄せた結果が、あそこの王家の馬車でしょう?」
アリスが扇子で王家の馬車を指す。
御者はまだ地面に座り込んでいた。自分が誇りを持って運んできた最高級馬車が、目の前で時代遅れ扱いされた上に、比較対象としてすら惨敗している。目が虚ろだった。
瞬は車体の周囲をぐるぐる回っていた。
「すげぇ……すげぇよこれ。浮いてるのに安定してる。でかいのに格好いい。窓も広い。しかもこれ、外板めちゃくちゃ頑丈そうじゃん」
「もちろんよ。対魔獣用の防護板を三層にしてあるわ。多少の岩ならぶつかっても平気」
「多少の岩って、どれくらい?」
「小屋くらい」
「それは岩じゃなくて事件だろ」
瞬は笑いながら車体を撫でた。
アリアは、その様子を不思議な気持ちで見ていた。
瞬の目は、子供のように輝いている。戦う時や怒る時とは違う、ただ純粋に何かを楽しんでいる顔。人間は欲深い。物に執着し、便利さに溺れ、森を壊す。そう教えられてきた。
けれど、目の前の瞬は、壊すためではなく、旅を楽にするための道具に胸を躍らせている。
その違いが、アリアにはまだうまく言葉にできなかった。
「さあ、見学は終わり。乗りなさい」
アリスが車体側面の扉へ手をかざした。
淡い光が走る。
プシュー、と空気が抜けるような音がして、扉が横へ滑った。
中から、暖かな光がこぼれた。
アリアは、一歩だけ後ずさった。
巨大な箱の中へ入る。
逃げ場のない場所。
人間たちと同じ空間。
胸の奥で、古い警戒心が首をもたげる。
それに気づいたのか、瞬が先に乗り込んだ。
「うおおお! 中、広っ!」
彼の大声が中から響いた。
続いて、メイが恐る恐る入り、すぐに歓声を上げた。
「わぁ……! お部屋みたいです!」
「お部屋じゃないわ。走るお屋敷よ」
アリスの得意げな声。
ゼイクがため息をつきながら乗り込む。エリーゼも興味深そうに後へ続いた。
最後に残ったアリアは、扉の前で立ち止まった。
中から、瞬が顔を出した。
「大丈夫だ。食われたりしねぇよ」
「そんな心配はしていないわ」
「じゃあ、怖くないな」
「……怖くないわ」
言い返した瞬間、自分がまた強がったことに気づいた。
瞬はそれを指摘しなかった。
ただ、少しだけ横へずれて、入口を広く空けた。
「ゆっくりでいい」
その一言で、アリアはようやく足を踏み出した。
中は、外から見た以上に広かった。
床には柔らかな絨毯が敷かれ、壁には木目調の温かな装飾が施されている。窓は大きく、外の庭がよく見えた。左右には向かい合うように座席が並び、奥には寝台らしき区画、さらに小さな台所のような場所まである。
ほんのりと木と布の匂いがした。
鉄の匂いではない。
冷たい檻の匂いでもない。
誰かが暮らす場所の匂いだった。
「……これが、乗り物なの」
アリアは呆然と呟いた。
「そうよ」
アリスは運転席へ座り、得意満面に言った。
「座席は長時間移動でも疲れにくい特製。寝台は人数分。水回りも完備。保存食用の冷却庫もあるし、魔導炉のおかげで火も水も使えるわ。外が嵐でも、ここだけは快適な旅の家になる」
旅の家。
その言葉が、アリアの胸に引っかかった。
家とは、森の奥にあるものだと思っていた。
動かないもの。
根を張るもの。
守るべき場所。
けれど、この銀色の箱は走るという。
仲間ごと、空気ごと、温もりごと、移動していくという。
ゼイクが座席に腰を下ろした瞬間、深く沈み込んだ。
「……なんだ、この椅子は」
彼は驚愕した顔で背もたれを見た。
「体を包み込む。腰への負担が少ない。長距離移動に最適ではないか」
「分かったかしら。王家の馬車とは格が違うのよ」
「認めざるを得ん。これは……堕落する」
「騎士が椅子に負けたぞ」
瞬が笑う。
エリーゼは小さな棚を開け、そこに整然と並んだ器具を見つけて目を輝かせていた。
「アリス様、この保存庫、温度管理が細かくできますの?」
「当然よ。肉、野菜、薬草、甘味、それぞれに適した温度帯を設定できるわ」
「素晴らしいですわ。旅先で栄養管理がここまでできるなんて……」
「エリーゼが完全に厨房担当の顔になってる」
瞬が呟いた。
メイは窓際の席に座り、外の景色を眺めている。白いアイガードの下で表情は分かりにくいが、口元は嬉しそうに緩んでいた。
「アリアさん、ここの席、景色がよく見えますよ」
呼ばれて、アリアは一瞬迷った。
メイの隣。
まだ、近すぎる気がした。
だが、彼女の髪を梳いてくれた手の温かさを思い出す。怖がっていると分かっても、責めずにいてくれた声を思い出す。
アリアはゆっくり歩き、メイから少しだけ距離を空けて座った。
「……本当ね」
窓の外には、前庭が広がっている。
屋敷の使用人たちが手を振っていた。キースは大きなバスケットを抱え、車内へ持ち込もうとしている。
「おーい! 道中用のベリーと焼き菓子だ! 食えそうな時に食いな!」
キースの声が外から飛んだ。
アリアは窓越しに彼を見た。
見た目は粗野で、声も大きい。かつてなら近づく価値もない人間だと思っただろう。
けれど、彼は何度も食べ物を用意してくれた。自分のことを怖がりながらも、乱暴には扱わなかった。
「……ありがとう」
小さく呟いた。
窓越しだったから、キースに届いたかは分からない。
だが、隣のメイには聞こえたらしい。彼女が嬉しそうに微笑んだ。
その反応が気恥ずかしくて、アリアは窓の外へ顔を向けた。
やがて、荷物の積み込みが終わった。
アリスが運転席で魔力キーを差し込む。
低い音が車内に満ちた。
ヴォン……。
床の下から、柔らかな振動が伝わってくる。不快な揺れではない。大きな獣が、眠りから目を覚まして静かに息を吸ったような感覚だった。
車体が、ふわりと少し高く浮いた。
アリアは思わず座席の縁を掴む。
「大丈夫か?」
瞬が向かいの席から声をかける。
「……驚いただけよ」
「そっか」
彼は笑った。
「行くぞ。お前の家まで」
その言葉に、アリアの胸がわずかに痛んだ。
家。
エルフの森。
帰るべき場所。
そう思う一方で、胸の奥に小さな不安が生まれる。帰った時、自分は以前と同じように森を見ることができるのだろうか。人間を見下し、人間の匂いを拒み、森の静寂だけを正しいものだと信じられるのだろうか。
答えは出なかった。
クイーン・アリス号が、ゆっくりと動き出す。
窓の外の景色が流れた。
ローゼンバーグ邸の玄関。庭の噴水。木々の緑。手を振る使用人たち。王家の馬車の横で、まだ呆然としている御者。
それらが少しずつ遠ざかっていく。
アリアは窓に手を添えた。
この街は、敵地だった。
人間の匂いがする、騒がしくて不快な場所だった。
けれど、そこにはスープの温かさがあった。リンゴがあった。串焼きの味があった。大道芸の笑い声があった。自分のために頭を下げる、変な人間がいた。
「……不思議ね」
「何がですか?」
メイが尋ねる。
「この街を出ることに、少しだけ……寂しさを感じるなんて」
言ってから、アリアは自分で驚いた。
そんなことを口にするつもりはなかった。
メイは静かに笑った。
「それは、ここでいいことがあったからだと思います」
「いいこと……」
アリアは窓の外を見続けた。
いいこと。
そう呼んでいいのだろうか。
怖かった。腹も立った。屈辱もあった。
けれど、その中に、確かに温かいものもあった。
クイーン・アリス号は王都の門を抜け、街道へ出た。
アリスが得意げにレバーを倒す。
「さあ、ここからが本番よ」
「おい、アリス」
ゼイクが警戒した声を出す。
「速度は控えめに――」
「聞こえないわね」
「聞け!」
次の瞬間、車体がぐんと前へ出た。
景色が一気に流れる。
「うおおおお! 速ぇぇぇ!」
瞬が歓声を上げる。
「きゃあっ!」
メイが座席にしがみつく。
「アリス嬢! 制限速度という概念を学べ!」
「この道に制限速度なんてないわ!」
「なら今すぐ作れ!」
ゼイクの叫びが車内に響く。
エリーゼは座席にしがみつきながらも、なぜか冷静に呟いた。
「揺れは少ないですわね。内臓への負担は思ったより軽微……ですが精神的負荷が高すぎますわ!」
アリアは座席の縁を掴みながら、目を見開いていた。
外の草原が流れていく。
風を切る音はあるのに、車内は守られている。窓の向こうで草が波打ち、遠くの丘が近づき、後ろへ飛んでいく。馬車とはまるで違う。地面に縛られていない感覚。
怖い。
けれど、それだけではない。
胸が高鳴っている。
体の奥が、知らない速度に反応している。
瞬が窓を少し開けた。
ゴオッ、と風が入り込み、彼の髪を乱した。
「うわ、気持ちいい!」
「閉めなさい! 書類が飛ぶ!」
アリスが叫ぶ。
風はアリアの頬にも届いた。
外の風。
草の匂いと、土の匂いと、遠くの水の匂いを含んだ風。
エルフの森の風とは違う。人間の街の風とも違う。これは、旅の風だった。
アリアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……悪くないわ」
その声は風に紛れるほど小さかった。
だが、向かいの瞬には聞こえたらしい。
彼はニカっと笑った。
「だろ?」
アリアはすぐに顔をそらした。
「調子に乗らないで」
「はいはい」
前方で、街道が途切れかけていた。雨で削られた道の先に、岩の多い荒地が広がっている。普通の馬車なら、引き返すか、大きく迂回するしかない場所だった。
ゼイクが叫ぶ。
「アリス! この先は道がない!」
アリスは笑った。
「道がない?」
瞬も窓の外を見て、同じように笑った。
「いいじゃん」
彼は風に髪を乱されながら、前方を指差した。
「道なんて、走ったあとにできればいいんだよ!」
アリスがレバーを押し込む。
「同感ね!」
「待て! 私は同感ではない!」
ゼイクの叫びを置き去りにして、クイーン・アリス号は荒地へ滑り出した。
車体は岩を乗り越えない。
そもそも触れない。
青白い光を揺らめかせながら、地面の凹凸の上を、まるで水面を進む船のように越えていく。
アリアは息を呑んだ。
道がなくても、進んでいく。
車輪がなくても、前へ行ける。
決められた道だけが、進む方法ではない。
その事実が、胸の奥に深く落ちた。
森で教えられた道。
エルフとして守るべき道。
人間を拒み、異物を遠ざけ、誇りを汚さずに生きる道。
それだけが、自分の進める道だと思っていた。
けれど。
目の前の銀色の車は、道のない場所を進んでいる。
騒がしく、無茶で、時々危なっかしく、それでも笑いながら。
「……少しだけ」
アリアは窓の外を見つめたまま呟いた。
瞬が振り返る。
「ん?」
「少しだけ、楽しみになってきたわ」
自分の声が、思ったより穏やかだった。
「あなたたちとの旅が」
瞬は、驚いたように目を丸くした。
それから、太陽みたいに笑った。
「そりゃよかった」
クイーン・アリス号は、荒野を駆けた。
背後には王都。
前方には、エルフの森へ続く長い旅路。
その道はまだ見えない。
けれど、銀色の車体が通ったあと、草と土の上には、確かに新しい風の筋が残っていた。
アリアはその風を見つめながら、胸の奥で小さく息を吸った。
怖さは、まだある。
疑いも、消えていない。
けれど今は、その隣に、ほんの少しだけ別の感情が座っている。
それは、期待と呼ぶにはまだ幼く、信頼と呼ぶにはまだ遠い。
けれど、たしかに温かいものだった。




