第69話:真夏の逃避行と、初めての「ごめんなさい」 〜閉じた窓の外にも、風は吹いている〜
数日が過ぎても、アリアは部屋の窓を開けようとしなかった。
ローゼンバーグ邸の客室は、清潔で、静かで、陽当たりもよかった。白いカーテンは毎朝取り替えられ、花瓶には新しい花が挿される。床は磨かれ、ベッドのシーツには乾いた陽の匂いが染みていた。
それでも、アリアにとってそこは牢だった。
鉄格子はない。
鎖もない。
扉には鍵さえかかっていない。
けれど、廊下の向こうには人間がいる。階下には人間の声がする。窓の外には人間の街が広がっている。その事実だけで、彼女の胸には見えない輪が嵌められているようだった。
傷は少しずつ塞がっていた。熱も下がり、起き上がる時間も増えている。水も飲む。メイが運んでくる食事にも、ほんの少しだけ手をつけるようになった。
だが、それは受け入れたからではない。
生きるためだ。
そう、自分に言い聞かせていた。
「……暑い」
昼下がり、アリアは窓辺の椅子に座ったまま、小さく呟いた。
外では太陽が容赦なく庭を焼いている。石畳は白く照り返し、噴水の水しぶきさえ熱を帯びて見えた。木々の葉は濃い緑に沈み、風に揺れるたび、重たげな音を立てている。
エルフの森の夏は、もっと静かだった。
木漏れ日は柔らかく、川の水は冷たく、風は葉の間で細く澄んだ音を鳴らした。そこには人間の汗の匂いも、車輪の軋む音も、遠くから聞こえる商人の呼び声もなかった。
ここは騒がしい。
空気が濁っている。
生き物の気配が多すぎる。
そう思うのに、窓の外へ目を向けることをやめられなかった。
庭の向こう、屋敷の門のさらに向こうには、王都の街並みが見える。薄い陽炎の向こうで、屋根が揺れていた。人々の声はここまで届かないのに、熱だけは押し寄せてくるようだった。
その時だった。
バンッ!
扉が勢いよく開いた。
「よう、アリア! 生きてるか!」
入ってきたのは瞬だった。
片手には、つばの広い帽子。もう片方には、地味な色のマント。顔にはいつものような、何も考えていないようでいて妙にまっすぐな笑みが浮かんでいる。
アリアは眉をひそめた。
「……入る前に許可を取るという発想はないの?」
「あるぞ。今、心の中で取った」
「それは許可とは言わないわ」
「じゃあ次から声に出す」
「今すぐ出ていくところから始めなさい」
瞬は聞いていなかった。
彼は部屋の中を見回し、閉め切られた窓と、きっちり整えられたベッドと、机の上に積まれた本を見て、わざとらしくため息をついた。
「こりゃダメだな」
「何が」
「空気が固い」
瞬は窓へ歩き、勝手に留め具を外した。
アリアが止めるより早く、窓が開く。
むわっと熱を含んだ風が部屋へ流れ込んだ。草の匂い。土の匂い。遠くの街から漂う焼けた肉の匂い。汗と埃と陽射しの混じった、人間の街の匂い。
アリアは反射的に顔をしかめた。
「閉めなさい。臭いわ」
「生きてる匂いだろ」
「あなたたち人間は、何でも都合よく言い換えるのね」
「褒め言葉として受け取っとく」
瞬は帽子をアリアの頭にすぽんと被せた。
「……何をするの」
「変装」
続いて、彼はマントを差し出した。
「その耳と髪は目立つからな。これ被って、ちょっと外行くぞ」
アリアは一瞬、言葉を失った。
「外?」
「おう」
「どこへ」
「街」
「……正気?」
「たぶん」
「正気の人間は、重傷明けのエルフを人間の街へ連れ出さないわ」
「重傷明けだからだよ」
瞬は悪びれもせずに言った。
「ずっと部屋にいたら、体より先に心が腐る。外の空気吸って、太陽浴びて、美味いもん食えば、だいたい何とかなる」
「ならないわよ」
「なるかどうか、試してみようぜ」
アリアは立ち上がろうとして、まだ少し体が重いことに気づいた。傷は塞がりかけているが、完全ではない。だが、瞬の手はすでに差し出されていた。
大きな手だった。
地下で鎖を砕いた手。
リンゴを置いた手。
そして、今はただ、外へ連れ出そうとしている手。
「……私は行かない」
アリアはその手を見ないように言った。
「人間の街なんて、汚らわしいだけよ。騒がしくて、臭くて、下品で、野蛮で」
「詳しいな。行ったことあるのか?」
「……ないわ」
「じゃあ見てから文句言えばいい」
瞬は笑った。
「文句なら、帰ってからいくらでも聞いてやる」
「あなた、私の話を聞く気があるの?」
「あるぞ。だいたい半分くらい」
「最低ね」
「よく言われる」
アリアは拒もうとした。
けれど、胸の奥で、ほんの小さな何かが動いた。
窓の外の熱。
遠くから漂う香ばしい匂い。
閉じた部屋の外側にある、知らない世界。
恐ろしい。
不快だ。
近づきたくない。
それでも、見てみたいと思ってしまった自分がいた。
アリアは自分の中に生まれたその感情を、ひどく恥じた。けれど、一度生まれたものを消すことはできなかった。
「……少しだけよ」
彼女は低く言った。
「少し見たら戻るわ。騒がしかったらすぐ帰る。誰かに見つかったら、あなたの責任よ」
「おう。全部俺の責任」
瞬はあっさり頷いた。
その軽さに、アリアはまた腹が立った。
「あなた、責任の意味を理解していないでしょう」
「たぶん、怒られることだろ」
「浅いわね」
「でも大体合ってる」
瞬は帽子のつばを少し下げ、アリアの長い耳が隠れるように整えた。
触れられた瞬間、アリアの体がわずかに強張った。
瞬はすぐに手を離した。
「悪い」
短い謝罪だった。
それだけだった。
触れ続けない。無理に距離を詰めない。そういう配慮があることに、アリアは気づいてしまった。
だから余計に、何も言えなくなった。
***
屋敷の裏口から出た。
正門を使えば、ゼイクやエリーゼ、あるいは王宮からつけられた監視の目に止まる。瞬はそのあたりだけは妙に手際がよかった。使用人用の細い通路を抜け、植え込みの影を通り、低い塀の横の勝手口から外へ出る。
「……常習犯みたいな動きね」
「失礼な。人生には抜け道が必要なんだよ」
「あなた、絶対に叱られ慣れているでしょう」
「まあな」
なぜ少し誇らしげなのか、アリアには理解できなかった。
路地裏は、日陰でも暑かった。白い壁に挟まれた細い道には、石畳の熱がこもっている。古い木箱、干された布、壁に這う蔓草。風が通るたび、埃が足元で小さく舞い上がった。
アリアはマントの前を握りしめ、帽子を深く被った。
怖いわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
ただ、警戒しているだけだ。敵地を歩くなら、当然のことだ。
やがて、路地の先が明るくなった。
音が近づいてくる。
人の声。
荷車の軋み。
硬い石畳を叩く靴音。
笑い声。
そして、食べ物の匂い。
瞬が路地を抜けた。
アリアも続いた。
その瞬間、世界が開いた。
王都の大通りは、人で溢れていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
「朝採れの果物だよ!」
「焼き立てだ! 熱いうちに持っていきな!」
屋台が並び、布の日除けが風に揺れている。赤、黄、緑、青。染め布の色が陽射しを受けて鮮やかに浮かび上がり、路上にまだらな影を落としていた。
荷車を押す商人。走り回る子供。籠を抱えた女。剣を下げた冒険者。薄汚れた犬。噴水の縁で水を飲む老人。
すべてが動いている。
すべてが声を持っている。
エルフの森の静けさとは、正反対の世界だった。
「……うるさい」
アリアは思わず呟いた。
「臭い。暑い。人が多すぎる。なぜ誰もぶつからずに歩けるの」
「ちょいちょいぶつかってるぞ」
「最悪じゃない」
「でも楽しそうだろ」
「理解不能ね」
そう言いながらも、アリアの足は止まっていなかった。
瞬は彼女の少し前を歩く。手は引かない。けれど、離れすぎもしない。人混みが近づくと、さりげなく間に入る。屋台の声が大きすぎる場所では、少し歩調を緩める。
気づいてしまう。
この男は、見ていないようで見ている。
それが、少しだけ腹立たしかった。
「ほら、これ」
瞬が屋台から戻ってきた。
手には、炭火で焼かれた肉の串があった。表面には香辛料が振られ、脂がじゅうじゅうと音を立てている。焦げたタレの匂いが、容赦なく鼻をくすぐった。
アリアは眉をひそめた。
「何よ、それ」
「串焼き」
「見れば分かるわ」
「じゃあ食え」
「なぜそうなるの」
「美味いから」
「説明が雑すぎる」
瞬は自分の分を一口かじった。
肉汁が溢れ、彼は目を輝かせた。
「うっま。やっぱこの親父、天才だな」
屋台の親父が豪快に笑う。
「兄ちゃん、分かってるねぇ! そっちのお嬢ちゃんも食ってみな。うちの肉は、王都で三本の指に入るぜ!」
お嬢ちゃん。
人間の男が、何の悪意もなくそう言った。
エルフとも、異物とも、敵とも呼ばなかった。
アリアは一瞬、言葉を失った。
帽子とマントで隠れているからだ。そう分かっている。目の前の男は、アリアがエルフだと知らない。だから普通に扱っているだけ。
それでも、その普通さが不思議だった。
瞬が串を差し出す。
「毒は?」
「俺が食ってる」
「あなたが毒に強いだけかもしれない」
「俺、そんな便利機能ないぞ」
「信用ならないわね」
「じゃあ、嫌なら食わなくていい」
瞬は引っ込めようとした。
その瞬間、香ばしい匂いがふわりと濃くなった。炭の熱で肉の脂が落ち、煙が立ち上ったのだ。
アリアの腹が、かすかに鳴った。
ほんの小さな音だった。
しかし、瞬は聞こえなかったふりをした。
それが分かったから、アリアは余計に顔が熱くなった。
「……一口だけよ」
「おう」
アリアは串を受け取り、恐る恐る肉をかじった。
熱い。
まずそう思った。
次に、肉汁が舌の上へ広がった。塩気。香辛料の刺激。炭火の香ばしさ。エルフの森で食べていた繊細で薄味の食事とはまったく違う。荒々しく、騒がしく、品がない。
なのに。
「……」
美味しかった。
悔しいほどに。
アリアはゆっくり噛み、飲み込んだ。
瞬がにやにやしている。
「どうよ」
「……味が濃いわ」
「それは褒め言葉だな」
「違うわ」
「じゃあ、もういらない?」
アリアは串を少しだけ自分の方へ引いた。
「……食べ物を粗末にするのはよくないもの」
「はいはい」
瞬は笑った。
アリアは視線を逸らしながら、もう一口かじった。
人間の街は、うるさい。
臭い。
暑い。
けれど、そのうるささの中には笑いがあり、その臭いの中には食べ物の匂いがあり、その暑さの中には、生きている者たちの熱があった。
まだ好きにはなれない。
けれど、すべてを汚いと切り捨てるには、少しだけ鮮やかすぎた。
広場に近づくにつれ、人だかりが見えてきた。
誰かが歓声を上げる。
続いて、子供たちの笑い声。
瞬が目を輝かせた。
「お、何かやってるぞ」
「行かないわよ」
「見るだけ見るだけ」
「あなたの『見るだけ』は信用できない」
そう言いながらも、アリアは瞬の後についていった。
人垣の隙間から見えたのは、大道芸人だった。
派手な衣装を着た男が、手に持った松明をくるくる回している。火の粉が舞い、夏の陽射しの中で金色に弾けた。観客が息を呑む。
次の瞬間。
ボオォッ!
男が口から炎を吹いた。
巨大な火の花が空へ広がり、子供たちが歓声を上げる。熱風が人垣の端まで届き、アリアの頬を一瞬だけ撫でた。
「魔法じゃないのね」
「たぶんな。根性と油だろ」
「馬鹿げているわ」
「だな」
「危険だわ」
「だな」
「意味がないわ」
「だな」
そう言いながら、瞬は楽しそうに見ている。
大道芸人は今度、三つのボールを空へ投げた。鮮やかに回る。ひとつ、ふたつ、みっつ。観客が手を叩く。
男は得意げに片足立ちになり、さらに回転を速めた。
その瞬間、足元のバナナの皮を踏んだ。
つるん。
体が見事に宙へ浮いた。
ボールはばらばらに飛び、男は尻から地面に落ちた。
どすん。
広場に一瞬の静寂。
そして、次の瞬間、どっと笑いが起きた。
男は痛そうに腰をさすりながら、涙目で帽子を差し出す。その表情があまりにも情けなく、子供たちはさらに笑った。
アリアは、呆れた。
なんてくだらない。
なんて下品。
なんて無意味。
そう思ったのに。
「……ふ」
小さな音が、口から漏れた。
アリアは慌てて唇を押さえた。
瞬が横から見ていた。
「笑ったな」
「笑ってないわ」
「今、完全に笑った」
「違う。呼吸が乱れただけよ」
「ずいぶん楽しそうな呼吸だな」
「黙りなさい」
アリアはそっぽを向いた。
けれど、口元の緩みはすぐには戻らなかった。
広場の笑い声が、胸の奥へ入ってくる。
自分とは関係のない人々の笑い声。
短く、騒がしく、すぐ消える音。
それなのに、なぜか心の固い場所を少しだけ揺らした。
瞬は何も言わず、ただ隣で同じ芸を見ていた。
その距離が、アリアには少しだけ楽だった。
その時。
広場の向こうから、鋭い声が飛んだ。
「そこまでだ!」
笑い声が、刃物で断たれたように止まった。
人混みが割れる。
銀色の鎧を着た王宮騎士たちが、真っ直ぐこちらへ向かってきていた。その先頭には、顔を青ざめさせたゼイクの姿もある。
アリアの体が強張った。
楽しかった空気が、一瞬で遠のく。
また閉じ込められる。
また、自分のせいで誰かが責められる。
そう思った瞬間、彼女は無意識に瞬の背中の影へ身を寄せていた。
瞬は、怒られ慣れた人間の顔で、片手を上げた。
「よ、ゼイク。散歩してただけだって」
ゼイクのこめかみに、はっきりと血管が浮いた。
「散歩で国際問題を連れ歩くなぁぁぁ!」
ゼイクの怒号が、広場の石畳を震わせた。
大道芸を見ていた人々が、何事かとざわめきながら道を空ける。王宮騎士たちの鎧が陽射しを反射し、ぎらぎらと白く光っていた。熱を持った大通りに、金属の足音が硬く重なっていく。
アリアは、瞬の背中の陰で息を殺した。
さっきまでの笑い声が、遠いものに感じられる。火を吹いた大道芸人も、子供たちの歓声も、串焼きの香ばしい匂いも、一瞬で薄い膜の向こう側へ押しやられてしまった。
現実が戻ってきた。
自分はエルフだ。
人間たちにとって、扱いを誤れば戦争になる厄介な存在だ。
ほんの少し笑っただけで、その事実を忘れかけていた自分が、急に恥ずかしくなった。
「ゼイク、声でけぇって。大道芸より目立ってるぞ」
「黙れ! 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!」
ゼイクは瞬の前まで来ると、肩を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。顔色は怒りで赤いのに、額には冷や汗が浮かんでいる。
「王宮から預かった重要人物を無断で屋敷の外へ連れ出すなど、正気の沙汰ではない! もし人混みで正体が露見したらどうする! 暴漢に襲われたらどうする! エルフ側に見つかったら、こちらの説明など一切通じんぞ!」
「いや、変装してるし」
「帽子とマントで外交問題が解決すると思うな!」
「けっこう似合ってるだろ?」
「そういう話ではない!」
ゼイクの後ろでは、騎士団長らしき男も険しい顔で立っていた。彼の視線は瞬ではなく、アリアの隠れた耳と顔を探るように動いている。
アリアはマントの前を強く握った。
体がこわばる。
また、物のように扱われるのだろうか。
安全のため。
国のため。
秩序のため。
そういう言葉で囲まれ、狭い部屋へ戻されるのだろうか。
その時、瞬が一歩前へ出た。
アリアと騎士たちの間に、自然に立つように。
「悪かった」
瞬は、深々と頭を下げた。
広場が静まり返った。
アリアも目を見開いた。
さっきまで軽口を叩いていた男が、何の言い訳もせず、石畳に影を落とすほど深く頭を下げていた。
「俺が勝手に連れ出した。アリアは悪くない」
「当然だ!」
ゼイクの声はまだ荒い。
「彼女は病み上がりだ。状況も理解しきれていない。責任は連れ出したお前にある!」
「うん。だから俺の責任だ」
瞬は頭を上げないまま言った。
その声には、妙な素直さがあった。
開き直りではない。
反抗でもない。
ただ、本当に自分が悪かったと認めている声だった。
アリアの胸が、ちくりと痛んだ。
違う。
自分も、行くと言った。
少しだけならと、外へ出た。
串焼きを食べた。
大道芸を見て笑った。
なのに、瞬はそのことを一切言わない。
アリアを守るように、全部を自分の背中へ載せていた。
「英雄シュン殿」
騎士団長が低い声で言った。
「貴殿の行動は、王命を軽んじるものです。彼女の身柄は国家間の火種そのもの。もし市民に紛れた状態で事故が起きれば、王都全体が危機に晒される」
「はい」
「はい、では済まない!」
騎士団長の声が広場に響く。
人々が遠巻きにこちらを見ている。子供の笑い声は消え、屋台の親父も串を焼く手を止めていた。陽射しは相変わらず白く強いのに、アリアの指先は冷えていく。
「貴殿は、何を考えていたのだ」
問われて、瞬はようやく顔を上げた。
叱られた子供のような顔ではなかった。
疲れてはいる。
けれど、その目だけは揺れていなかった。
「太陽の光が必要だと思いました」
騎士団長が眉をひそめる。
「何?」
「部屋でじっとしてるだけじゃ、傷は治っても心が死ぬと思ったんです」
瞬は、ちらりとアリアを振り返った。
ほんの一瞬だけ。
すぐに視線を戻す。
「この子、ずっと怖がってた。怒ってた。人間のこと嫌ってた。そりゃそうだと思います。地下で鎖に繋がれて、知らない場所に運ばれて、誰も信じられるわけがない」
アリアは息を止めた。
この男は、分かっていたのだ。
自分が怒っていることを。
その下で、怖がっていたことを。
「だから、少しだけ見せたかったんです。人間の街にも、笑ってるやつがいて、美味いもんがあって、くだらないことで転んで笑われる大道芸人がいるって」
瞬は苦笑した。
「全部が悪い場所じゃないって、知ってほしかった」
騎士団長は言葉に詰まった。
ゼイクも、怒鳴ろうとして口を閉じる。
理由は無茶苦茶だ。
手順も守っていない。
危険を軽く見すぎている。
それでも、その言葉の真ん中にあるものだけは、否定しきれなかった。
アリアは胸元を押さえた。
心臓が痛い。
この痛みを何と呼べばいいのか、分からなかった。
自分は人間を見下していた。
汚い、愚か、騒がしい、短命で下等な種族。
そう思っていた。
なのに、その人間が、自分のために頭を下げている。
自分が笑った一瞬のために、怒られている。
「……戻りましょう」
ゼイクが、疲れた声で言った。
「説教は屋敷で続ける。ここでは目立ちすぎる」
「まだ続くのかよ」
「当然だ」
瞬はがっくり肩を落とした。
その様子に、いつもなら呆れるだけだっただろう。
けれどアリアは、笑えなかった。
胸の奥に、重たい石のようなものが沈んでいた。
***
屋敷へ戻る頃には、空の色が少しずつ夕方へ傾き始めていた。
白く焼けていた石畳は橙色を帯び、庭の木々の影が長く伸びている。風は昼よりも柔らかくなり、草の匂いの中に、夕食の支度をする厨房の香りが混ざっていた。
リビングでは、長い説教が始まった。
ゼイク、騎士団長、王宮から来た補佐官、さらにエリーゼまでが加わり、瞬はソファの前で正座に近い姿勢を取らされていた。
「危機管理が甘すぎる!」
「病み上がりの相手を連れ回すなど無謀ですわ!」
「事前申請、護衛配置、認識阻害の魔法確認、最低限それらを済ませるべきだった!」
「申し訳ありません」
瞬はひたすら頭を下げていた。
アリスは少し離れた場所で腕を組み、呆れたように見ている。
「まあ、やったことは無茶だけど、結果的に何も起きなかったのは幸運ね」
「幸運で済ませるな、アリス嬢!」
「だから次からは私に相談しなさいって話よ。私ならもっと高性能な変装魔法をかけたわ。ついでに王宮に追加請求したのに」
「そこではない!」
ゼイクの怒りが再燃する。
アリアは部屋の隅に立っていた。
誰も彼女を責めない。
それが、苦しかった。
むしろ、自分がひどく小さく見えた。
もし立場が逆なら、自分は人間のために頭を下げただろうか。
自分を罵倒し、花瓶を投げ、食事を疑い、汚らわしいと呼んだ相手のために。
答えは、考えるまでもなかった。
しない。
かつての自分なら、絶対にしない。
助ける価値がないと切り捨てる。
それなのに、この人間は。
「……もういいでしょう」
アリアの声が、気づけばリビングに落ちていた。
全員が振り返る。
自分でも驚いた。
口を開くつもりはなかった。
けれど、もう黙っていられなかった。
「私も……行くと言ったわ」
喉が震える。
視線が集まるだけで、胸が苦しくなる。それでも、アリアは続けた。
「無理やり引きずられたわけじゃない。私は、自分で外に出た。だから……彼だけを責めるのは、違う」
瞬が目を丸くした。
ゼイクは厳しい顔のままだが、少しだけ視線を和らげた。
「アリア殿。あなたはまだ状況を――」
「分かっていないのは認めるわ」
アリアは自分のマントを握った。
「でも、今日見たものは、私が見たものよ。暑くて、うるさくて、臭くて……それでも」
言葉が詰まる。
広場の炎。
串焼きの味。
子供たちの笑い声。
転んだ大道芸人。
そして、隣で笑っていた瞬。
「……少しだけ、悪くなかった」
それだけ言うのが精一杯だった。
リビングはしばらく静まり返った。
アリスが、ふっと笑った。
「それなら、今日の無茶にも少しは意味があったわね」
ゼイクは長く息を吐いた。
「意味があったことと、許されることは別だ」
「はい」
瞬がすぐに頭を下げる。
「次からは、ちゃんと相談します」
「絶対だぞ」
「たぶん」
「絶対だ」
「はい」
説教は、そこからもう少し続いた。
だが、最初のような硬さは薄れていた。
アリアはその場に立ち尽くしながら、自分の胸の中で何かが崩れかけているのを感じていた。
それは、人間への憎しみではない。
もっと奥にある、冷たい壁だった。
***
夜。
屋敷の中は静かになっていた。
廊下には灯りが落とされ、壁際の魔石灯だけが淡く光っている。庭からは虫の声が聞こえ、昼間の暑さを忘れた風が、窓の隙間をそっと撫でていた。
瞬はリビングのソファに沈んでいた。
長い説教で、魂が半分抜けたような顔をしている。天井を見上げ、ぼんやりと口を開けていた。
「……怒られすぎて、俺の心が干し肉になった」
独り言のような呟き。
そこへ、アリアが静かに近づいた。
足音を殺していたつもりだったが、瞬は気づいたらしい。顔だけをこちらへ向ける。
「おう。眠れないのか」
「……あなたこそ、まだ起きているの」
「説教の余韻がすごくてな。夢にゼイクが出そう」
「自業自得ね」
「ぐうの音も出ない」
アリアはソファの少し離れた場所に立った。
近づきすぎるのは、まだ怖い。
けれど、離れたまま逃げるのも違う気がした。
「……どうして」
アリアは小さく言った。
「どうして、あそこまでしてくれたの」
瞬は体を起こした。
「今日のことか?」
「そうよ。怒られると分かっていたでしょう。危険だとも言われていた。それなのに、なぜ」
瞬は少し考えた。
そして、あまりに簡単に答えた。
「笑ったから」
「……え?」
「大道芸の時、お前、ちょっと笑っただろ」
アリアの胸が跳ねた。
見られていた。
あの、一瞬。
自分でも認めたくなかった、こぼれてしまった笑いを。
「それが見られただけで、まあ、怒られた分くらいは元取れたかなって」
「馬鹿なの?」
「それも今日、三回くらい言われた」
「本当に馬鹿ね」
アリアはそう言った。
けれど、声は震えていた。
怒りではない。
呆れでもない。
胸の奥から込み上げてくる熱を、どうしていいか分からなかった。
「私は、あなたを罵倒したわ」
「されたな」
「花瓶も投げた」
「高いやつじゃなくてよかった」
「食事も疑った」
「まあ、毒は怖いしな」
「汚らわしい人間だと、言った」
「言われたな」
「なのに……」
視界が滲む。
嫌だ。
泣きたくない。
こんなところで、こんな人間の前で、弱さを見せたくない。
そう思うのに、涙は勝手に浮かんできた。
「なのに、どうして……私が笑ったことなんかで、そんなに嬉しそうにするのよ」
瞬は困ったように笑った。
「そりゃ、笑えたほうがいいだろ」
単純な言葉だった。
でも、その単純さが、今のアリアには逃げ場を塞ぐほど優しかった。
「泣いてるより、怒ってるより、笑ってるほうがいい。別に、エルフだからとか、人間だからとか関係なく」
瞬は少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「お前、笑った顔のほうがいいぞ」
アリアは唇を噛んだ。
涙が一粒、頬を伝った。
「……楽しかった」
初めて、素直な言葉が出た。
「串焼きも、果実水も……大道芸も。うるさくて、下品で、意味がなくて……でも、楽しかった」
声が震える。
「ありがとう」
その言葉は、アリアにとって、喉を切るより難しかった。
エルフの誇りが軋む。
けれど、言わなければならないと思った。
そして。
「それから……ごめんなさい」
アリアは深く頭を下げた。
人間の前で。
自分が見下していたはずの相手の前で。
瞬は、しばらく何も言わなかった。
アリアは頭を下げたまま、拒絶されることを覚悟した。笑われるかもしれない。今さら謝るのかと責められるかもしれない。そうされても仕方がないと思った。
けれど、頭の上に、ぽん、と軽い重みが落ちた。
瞬の手だった。
驚いて顔を上げる。
瞬はいつものように、少し困ったように笑っていた。
「ありがとうだけでいいんだよ」
「……え?」
「いや、ごめんも大事だけどさ。今日のところは、楽しかったって言ってくれたなら、それで十分だ」
彼の手は温かかった。
地下で鎖を壊した時の強さとは違う。今はただ、壊れそうなものに触れるように、柔らかく置かれている。
「怒られるくらい、安いもんだ」
瞬は言った。
「お前が少しでも楽しかったなら、今日はいい日だ」
アリアは、もう涙を止められなかった。
人間は汚い。
人間は愚か。
人間は信用できない。
そう信じていた言葉が、胸の奥で崩れていく。
全部が間違いだったとは、まだ言えない。
怖さも、疑いも、消えたわけではない。
けれど、少なくとも目の前のこの人間だけは、自分を縛らなかった。
笑ったことを、喜んでくれた。
楽しかったと言っただけで、今日をいい日だと言ってくれた。
「……変な人間」
アリアは涙を拭いながら言った。
「おう、よく言われる」
「馬鹿で、無茶で、危なっかしくて」
「それもよく言われる」
「でも……」
アリアは小さく息を吸った。
「嫌いでは、ないわ」
瞬は少し目を丸くし、それから笑った。
「そりゃ大進歩だ」
「調子に乗らないで」
「はい」
窓の外では、夜風が庭の草を揺らしていた。
葉が擦れる音は、昼間よりもずっと柔らかい。噴水の水音が遠くで響き、屋敷の中に穏やかな静けさを運んでくる。
アリアは、まだ完全に安心しているわけではなかった。
人間の街を好きになったわけでもない。
すべての偏見が消えたわけでもない。
けれど、その夜、彼女は初めて、自分から人間のいるリビングへ足を運んだ。
そして、ありがとうと、ごめんなさいを口にした。
それは小さな一歩だった。
だが、閉じた窓の外に風が吹いていると知った彼女にとっては、長く暗い森を抜けるための、最初の確かな足音だった。




