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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第68話:氷の心と、焚き火のような沈黙 〜怒りを受け止める手は、強く握り返さない〜

夜風が、窓辺の薄いカーテンを静かに揺らしていた。


 ローゼンバーグ邸の客室は、王城の地下とはまるで違う匂いがした。湿った石と鉄錆びの臭いはなく、清潔なシーツの乾いた匂いと、窓辺に飾られた白い花のかすかな香りが、月明かりの中に溶けている。


 部屋の隅では、小さな魔石灯が橙色の光を落としていた。光は強すぎず、眠っている者の瞼を刺激しないように、壁際で丸く滲んでいる。窓の外からは虫の声が聞こえた。リリリ、と細く、途切れそうで途切れない音。遠くの庭では、噴水の水が落ちる音が、夜の奥行きを静かに刻んでいた。


 ベッドの上で、アリアは眠っていた。


 いや、眠っているというより、深い水の底へ沈められているようだった。


 額には汗が浮かび、細い眉が苦しげに寄っている。包帯の下で傷が熱を持っているのだろう。時折、喉の奥から浅い息が漏れ、指先がシーツをかすかに掴んだ。


 夢の中でも、彼女は逃げていた。


 暗い森。


 折れた枝。


 背後から迫る足音。


 人間の怒声。


 そして、冷たい鉄の輪が手首に食い込む感覚。


 ――違う。


 ここは森ではない。


 地下でもない。


 そう気づくより先に、アリアの意識は水面へ引き上げられた。


「……っ!」


 彼女は弾かれたように目を開けた。


 瞬間、全身に激痛が走る。傷が裂けるような痛みに息が詰まった。それでも、アリアは歯を食いしばって体を起こした。


 見知らぬ天井。


 柔らかな寝具。


 木製の家具。


 花の匂い。


 そのすべてが、彼女には恐ろしく感じられた。


 地下牢ではない。鎖もない。だが、だから安心できるわけではない。むしろ、清潔で整えられた部屋であることが、かえって不気味だった。人間は、獲物を飾り立てることもある。優しげな顔で近づき、次の瞬間には誇りを踏みにじる。そう教えられてきた。


「……ここは」


 声が、かすれていた。


 自分の声ではないようだった。


 アリアは周囲を見回した。枕元には水差しと清潔な布。小皿には、赤いリンゴがひとつ置かれている。


 それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。


 地下で、人間の男が置いていったもの。


 命令ではなく、取引でもなく、ただ置いていったもの。


 その意味が分からないことが、アリアにはひどく腹立たしかった。


 ガチャリ。


 扉の金具が動いた。


 アリアの体が反射的に強張る。手元に武器はない。魔力はまだ乱れ、傷は深い。逃げることも戦うこともできない。


 それでも彼女は、ベッド脇の花瓶へ手を伸ばした。


 扉が開く。


「あ……目が覚めましたか?」


 入ってきたのは、白いアイガードをつけた少女だった。小柄で、声は柔らかい。両手には盆を持っている。盆の上では、水の入ったカップと、湯気の立つスープの器が微かに揺れていた。


「お水を持ってきました。あと、少しだけでも食べられそうなら――」


「来るなッ!」


 アリアの叫びが、夜の静けさを引き裂いた。


 次の瞬間、花瓶が宙を飛んだ。


 ガシャン!


 壁にぶつかって砕け、白い花と水が床に散った。破片が月明かりを受けて、小さな刃のように光る。


 メイは小さく悲鳴を上げ、立ち止まった。盆の上のカップが震え、水面に細かな波が立つ。


 アリアは肩で息をしながら、メイを睨みつけた。


「近づくな。汚らわしい人間」


 声は弱い。


 だが、瞳の奥には殺意があった。


「私に触れたら殺す。水も食べ物もいらない。人間の施しなど受けない」


 メイの唇が震えた。


 けれど、彼女は逃げなかった。盆を胸の前で抱きしめたまま、泣きそうな声で言う。


「……怖がらせるつもりは、ありません。ただ、傷が熱を持っていたので、お水だけでも」


「黙れ!」


 アリアは叫んだ。


 その瞬間、傷が痛み、視界が白く弾けた。体が傾ぐ。けれど倒れまいと、彼女はシーツを握りしめた。


「人間の言葉など聞かない。優しさのふりをして近づくな。私を懐かせようとしても無駄よ。私は……私は、あなたたちの玩具にはならない」


 廊下から足音が近づいてきた。


 鎧の音。


 軽い靴音。


 布が擦れる音。


 扉が開き、ゼイクが先に入ってきた。手は剣の柄にかかっている。その後ろからエリーゼが杖を構え、アリスが状況を一目で見て眉をひそめた。


 最後に、瞬が顔を出した。


「おいおい、何の音だよ。……って、花瓶か。これ高いやつじゃないだろうな。アリスに請求されたら俺の今月の精神が破産するぞ」


 その場にそぐわない声だった。


 緊張を切り裂くような、あまりに軽い言葉。


 アリアの神経が逆撫でされた。


「ふざけるな……!」


 彼女は床に散らばった破片のひとつを掴んだ。鋭い先端を、自分の首筋へ押し当てる。


 メイが息を呑んだ。


「アリアさん!」


「近づくな!」


 細い首に、一筋の赤が滲んだ。


 アリアは笑った。


 笑おうとした。


 だが、その表情はあまりにも苦しく、今にも砕けそうだった。


「捕虜になるくらいなら、ここで死ぬ。人間に辱められるくらいなら、自分で喉を裂く。私の誇りまで奪えると思うな」


 ゼイクが一歩出ようとした。


 瞬が片手で制した。


「石頭、待て」


「しかし――」


「全員、出ててくれ」


 瞬の声は静かだった。


 普段の軽さはない。だが、怒鳴るわけでもない。部屋の中で暴れる火を、風で煽らないための声だった。


 ゼイクは一瞬、瞬を見た。


「彼女は本気だぞ」


「分かってる」


「ならばなおさら、一人にするべきではない」


「一人にはしない。俺が残る」


 アリスが目を細める。


「瞬くん、下手に刺激したら本当にやるわよ」


「だから刺激しない」


 瞬は、メイを見た。


「メイ。水とスープ、そこに置いてくれ。ありがとな」


 メイは震える手で盆をサイドテーブルに置いた。アリアに近づきすぎないよう、できるだけ静かに。器が木の天板に触れ、ことり、と小さな音を立てた。


 アリアは破片を首に当てたまま、全員を睨んでいる。


 やがて、ゼイクが短く息を吐いた。


「……何かあれば呼べ」


「ああ」


 エリーゼが不安げにアリアを見た。アリスは肩をすくめたが、何も言わずに踵を返した。メイだけが最後まで残りたそうにしていたが、瞬が小さく頷くと、唇を噛んで部屋を出た。


 扉が閉まる。


 ぱたん、という音が、妙にはっきり響いた。


 部屋には、瞬とアリアだけが残された。


 月明かりが床の水たまりに映り、割れた花瓶の破片が、その中で細く光っていた。窓の外では、虫の声がまだ続いている。けれど、さっきまで柔らかかった夜の音は、今は張り詰めた糸のように聞こえた。


「……お前も出ていけ」


 アリアはかすれた声で言った。


「さもなくば、本当に死ぬ」


「そっか」


 瞬はそう言った。


 それだけだった。


 怒らない。


 慌てない。


 説得もしない。


 彼は部屋の隅に置かれていた椅子を引きずってきた。脚が床を擦り、ぎぎ、と小さな音を立てる。ベッドから少し離れた場所に椅子を置くと、どかりと腰を下ろした。


 そして、懐から一冊の雑誌を取り出した。


 アリアは目を疑った。


 瞬は足を組み、何事もなかったようにページをめくり始めた。


「……何をしている」


「読書」


 ぱらり、と紙の音がする。


「へぇ。夏物の靴、今年は紐が長いのが流行りなのか。絶対踏むだろ、これ」


 アリアの思考が止まった。


 脅せば止めにくると思った。


 怒鳴れば押さえつけられると思った。


 甘い言葉で懐柔してくると思った。


 けれど、この男は何もしない。ただ椅子に座って、雑誌を読んでいる。


 まるで、アリアの殺意も、自死の覚悟も、そこにある嵐のようなものとして受け流している。


「私を……無視するな」


「無視はしてない」


 瞬は雑誌から目を離さずに言った。


「そこにいるだろ。ちゃんと分かってる」


「なら、なぜ止めない」


「止めてほしいのか?」


 アリアは息を詰まらせた。


 言葉が返せない。


 止めてほしいわけではない。けれど、止められないことにも腹が立つ。恐れられたいわけではない。だが、恐れられないことが屈辱でもある。


 自分が握りしめている破片の意味が、急に分からなくなった。


「……人間は、卑怯ね」


 アリアは震える声で言った。


「力でねじ伏せるなら、そうすればいい。甘い言葉で騙すなら、そうすればいい。なのに、なぜ何もしないの」


「今、お前に何かしたら、余計こじれるだろ」


 瞬はページをめくった。


「痛い時と怖い時は、何を言われても腹立つもんだし」


「分かったような口を……」


「分かってないよ」


 瞬は初めて、雑誌から少しだけ視線を上げた。


「お前が何をされてきたのかも、何を怖がってるのかも、俺は知らない」


 その言葉は、意外なほどまっすぐだった。


「だから、勝手に分かったふりはしない。ただ、腹は減ってるだろうし、水も飲んだほうがいい。首を切ったら痛い。今の俺に分かるのは、そのくらい」


 アリアの指先が震えた。


 破片が、皮膚に少しだけ食い込む。


 赤い血が、もう一滴、首筋を伝った。


 瞬は立ち上がらなかった。


 ただ、雑誌を閉じもせず、少しだけ眉を下げて言った。


「その破片、握ってると手も切れるぞ」


 怒りが、行き場を失った。


 アリアは叫びたかった。


 何かを壊したかった。


 この男の平静を裂き、恐怖を引きずり出し、やはり人間は醜いのだと証明したかった。


 だが、瞬は怒らない。


 怯えない。


 命令しない。


 ただそこにいる。


 まるで、冬の森の中で消えずに燃えている小さな焚き火のように。


 近づけとは言わない。


 離れろとも言わない。


 ただ、そこにある。


 沈黙が落ちた。


 一分。


 二分。


 虫の声が、遠くなったり近くなったりする。窓辺のカーテンが風を受け、ふわりと揺れた。床にこぼれた水は、月明かりを含んで静かに光っている。


 アリアの腕が、だんだん重くなっていった。


 傷ついた体は限界だった。怒りだけで支えていた心も、反応のない相手の前では、燃え続けることができない。


 カラン。


 破片が、彼女の手から落ちた。


 小さな音が、部屋に響いた。


 アリアはそのまま、糸の切れた人形のようにベッドへ崩れ落ちた。息が荒い。悔しさと疲労と、理解できない感情が喉の奥で絡まり合っていた。


 瞬は、雑誌を閉じた。


 けれど、立ち上がらない。


 ただ、サイドテーブルの上の水差しを指差した。


「飲めそうなら、飲めよ」


 アリアは答えなかった。


 代わりに、枕元のリンゴへ視線だけを動かした。


 赤い実は、まだそこにあった。


 地下で見た時と同じように。


 何も語らず。


 何も奪わず。


 ただ、そこに置かれていた。


 アリアは唇を噛んだ。


 人間なんて信じない。


 そう思った。


 けれど、その言葉はさっきより少しだけ、弱く響いた。


沈黙は、すぐには終わらなかった。


 瞬は椅子に座ったまま、もう一度雑誌を開いた。紙をめくる音だけが、ときどき夜の空気を揺らす。アリアはベッドの上で横たわりながら、呼吸を整えようとしていた。


 首筋の傷は浅い。だが、自分で自分を傷つけたという事実が、遅れて胸の奥に沈んできた。


 みじめだった。


 脅しも、叫びも、誇りも、すべてがこの男の前では空回りしている。怒りをぶつけても、壁に投げた花瓶のように砕けるだけで、相手には届かない。


 いや、届いていないわけではない。


 瞬はアリアを見ている。


 けれど、怖がらない。


 見下さない。


 奪おうとしない。


 それが、どうしようもなく不気味で、そして少しだけ苦しかった。


「……なぜ」


 アリアの声は、乾いた喉に引っかかっていた。


 瞬は雑誌から目を上げた。


「ん?」


「なぜ、私を放っておくの」


 アリアは、枕元のリンゴを見ないようにしながら言った。


「私はエルフよ。あなたたち人間を蔑み、憎み、機会があれば殺そうとする。さっきだって、あなたの仲間を傷つけようとした」


「花瓶を投げたな」


「……そうよ」


「でも、メイには当たってない」


「当たっていたかもしれない」


「当たってたら、その時考える」


 あまりにも単純な返答だった。


 アリアは眉をひそめる。


「馬鹿なの?」


「よく言われる」


 瞬は短く答え、雑誌を閉じた。


「でも、今は当たってない。なら、今の話をする」


 彼はサイドテーブルの上に置かれたスープを見た。湯気はかなり細くなっている。それでも、野菜と肉を柔らかく煮込んだ香りが、部屋の中にかすかに漂っていた。


「お前が俺を嫌いなのは、お前の自由だ」


「……自由?」


「そう。頭の中で何を思うかは、俺には止められない。人間が汚いと思うのも、俺たちを信用しないのも、お前が決めることだ」


 瞬は静かに続けた。


「でもな。お前が俺を嫌いでも、俺が『腹減ってるなら食えばいい』って思うのも、俺の自由だろ」


 アリアは返す言葉を失った。


 取引ではない。


 忠誠を求めているわけでもない。


 態度を改めれば優しくする、という条件もない。


 ただ、空腹なら食べろと言う。


 喉が渇いているなら水を飲めと言う。


 そのあまりの単純さが、アリアの中にある複雑な怒りを少しずつ狂わせていった。


 彼女は、サイドテーブルのスープを見た。


 器の中では、薄い黄金色のスープが静かに揺れている。刻まれた野菜が沈み、やわらかく煮えた豆が表面に浮かんでいた。人間の作ったもの。人間の手が触れたもの。そう考えると、胃の奥が硬くなる。


 けれど同時に、体は正直だった。


 喉は乾き、腹は空いていた。熱で消耗した体は、何かを欲しがっていた。心がどれほど拒んでも、血も肉も、まだ生きようとしている。


 アリアは震える手で、水の入ったカップを取った。


 毒かもしれない。


 そう思った。


 けれど、もし毒なら、今この場で終わるだけだ。辱められるよりはましだ。そんな投げやりな理屈を盾に、彼女は水を一口飲んだ。


 冷たくはなかった。


 ほんの少しだけ温められている。喉を通る時、乾いた内側を優しく濡らしていく。体の奥に水分が落ちる感覚が、こんなにもはっきり分かることに、アリアはひどく動揺した。


 生きている。


 嫌になるほど、まだ生きている。


「毒じゃないだろ」


 瞬が言った。


「……あなたが先に飲んだわけでもないのに、よく言えるわね」


「毒入れるようなやつなら、俺がここに座らせてない」


 その言葉に、アリアの手が止まった。


 仲間を信じている。


 この男は、そういう言い方をした。


 自分ではなく、ここに水を運んできた少女を、疑うまでもないものとして扱った。


 アリアはなぜか、それが少しだけ眩しかった。


 彼女はカップを置き、今度はスープの器へ手を伸ばした。腕を動かすだけで傷が疼き、眉間に皺が寄る。だが、瞬は手を貸そうとはしなかった。代わりに、少しだけ椅子の位置を変え、彼女の動きを邪魔しない距離を保った。


 それもまた、奇妙だった。


 助けようとしない。


 けれど、見捨ててもいない。


 アリアはスプーンを持ち、スープをすくった。


 口に運ぶ。


 最初は、舌先で確かめるように。


 次の瞬間、温かさが広がった。


 野菜の甘み。丁寧に煮込まれた豆のほのかな香り。塩気は強くなく、弱った体でも受け入れられるように整えられている。胃に落ちると、冷え切っていた腹の底に、小さな灯りがともるようだった。


「……」


 悔しかった。


 美味しいと、思ってしまった。


 こんなものに救われたくない。人間の作った食べ物で体が温まるなんて、認めたくない。


 けれど、二口目を拒むことはできなかった。


 スプーンがもう一度、器の中へ沈む。


 瞬は何も言わなかった。


 勝ち誇ることもない。ほら見ろ、と笑うこともない。ただ、アリアがスープを飲む音だけが、静かな部屋に小さく響いた。


 その沈黙が、今は少しだけありがたかった。


 食べ終える頃には、アリアの呼吸はわずかに落ち着いていた。頬には熱が戻り、指先の震えも少し収まっている。


 器を置く音が、ことりと鳴った。


「……味は」


 アリアは顔を背けたまま言った。


「悪くなかったわ。人間にしては」


「そりゃよかった」


 瞬は嬉しそうに笑った。


「メイに伝えとく」


 アリアはその名前に反応してしまった。


 さっき花瓶を投げつけた相手。


 それでも水とスープを置いていった、小さな少女。


「……あの子」


「メイか?」


「なぜ、目を隠しているの」


 問いは、ほとんど無意識にこぼれたものだった。


 瞬は一瞬、言葉を選ぶように黙った。


「本人が話したくなったら、聞けばいい」


 それだけだった。


 秘密を暴かない。


 勝手に説明しない。


 アリアは、その答えにまた少しだけ戸惑った。人間は、他者の弱みを利用するものだと思っていた。隠しているものがあれば暴き、恥じているものがあれば笑い、傷があればそこを突く。そういう生き物だと信じていた。


 けれど、この男は違った。


 少なくとも今は、違って見えた。


 瞬は椅子の背にもたれ、窓の外を見た。月明かりが彼の横顔を薄く照らしている。黒い髪の輪郭が、夜の中に溶けそうだった。


「なあ、アリア」


 初めて名を呼ばれた。


 アリアは眉をひそめた。


「……誰が、私の名を教えたの」


「王様側の書類に書いてあった」


「気安く呼ばないで」


「分かった。じゃあ、怒ってるエルフ」


「余計に腹立つわ」


「じゃあアリアでいいだろ」


 瞬は、ほんの少しだけ笑った。


 アリアは睨んだが、反論する力はもうあまり残っていなかった。


「お前さ」


 瞬は静かに言った。


「エルフっていう看板、ずっと背負ってるみたいに見える」


「……看板?」


「そう。私はエルフだ。高潔だ。人間とは違う。汚されてはいけない。負けてはいけない。弱くあってはいけない。そんな感じの、重いやつ」


 アリアの胸が、強く締めつけられた。


 図星だった。


 けれど、認めるわけにはいかなかった。


「当然でしょう」


 彼女は絞り出すように言った。


「私はエルフよ。森を守る一族の血を引いている。短命で騒がしく、欲にまみれた人間とは違う」


「そうかもな」


 瞬は否定しなかった。


「でも今の俺には、お前が高潔な森の代表には見えない」


 アリアの瞳が鋭くなる。


「侮辱する気?」


「違う」


 瞬は、まっすぐに彼女を見た。


「怪我して、熱出して、腹減らして、怖くて、それでも必死に強がってる女の子に見える」


 アリアは息を止めた。


 女の子。


 その言葉は、胸の奥に深く落ちた。


 長老の血を引く者。


 森を守る者。


 穢れを拒む者。


 誇り高きエルフ。


 アリアは、ずっとそう呼ばれてきた。そうあれと教えられてきた。弱音を吐くことも、怯えることも、誰かに寄りかかることも許されなかった。


 自分がただの少女であることなど、誰も見ようとしなかった。


 いや、自分自身ですら、見ないようにしていた。


「……勝手なことを言わないで」


 声が震えた。


「私は、怖くなんてない」


「そうか」


「強がってなんかいない」


「そっか」


「私は……私は、あなたたちとは違う」


「うん」


 瞬は、すべてを受け流した。


 否定しない。


 押し返さない。


 ただ、聞いている。


 その静けさが、アリアの胸をさらに揺らした。


 何かを言い返せば言い返すほど、自分の声が幼く聞こえる。高く積み上げた誇りの壁の内側で、本当は震えている小さな自分が、見えてしまいそうになる。


 アリアは顔を背けた。


 窓の外には月があった。


 同じ月を、森でも見ていた。石の地下でも見た気がする。どこにいても、月はただそこにある。エルフのものでも、人間のものでもない。ただ、空に浮かぶ光だった。


「看板を下ろせ、なんて簡単に言わないで」


 アリアは小さく言った。


「それを下ろしたら、私は何者でもなくなる」


 瞬はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり答えた。


「何者でもなくなったら、楽じゃね?」


 アリアは思わず振り返った。


 瞬は本気で言っている顔だった。


「名前とか、種族とか、役目とか、そういうのを全部横に置いたら、ただ息して、飯食って、眠ればいいだけだろ。少なくとも、怪我してる時くらいはそれでいいんじゃないか」


「……そんな生き方、許されるはずがない」


「誰に?」


 アリアは答えられなかった。


 誰に。


 森に。


 同胞に。


 長老に。


 過去に。


 それとも、自分自身に。


 言葉にしようとした瞬間、それらは霧のように形を失っていった。ただ胸の奥にある重たい塊だけが残る。


 瞬は立ち上がった。


 アリアは反射的に身構えたが、彼は近づかなかった。椅子を元の位置へ戻し、床に落ちた花瓶の破片を拾い始める。ひとつひとつ、手を切らないように布で包みながら。


「今日はもう寝ろ」


「命令?」


「提案」


「なら、拒否するわ」


「そうか。じゃあ、目を閉じて拒否しろ」


「意味が分からない」


「寝ながらでも拒否はできる」


 アリアは睨んだ。


 瞬は少しだけ笑い、扉へ向かった。


 その背中が遠ざかる。


 なぜか、胸の奥がわずかにざわついた。


 出て行けと言ったのは自分なのに。


 早く消えろと思っていたはずなのに。


 扉の前で、瞬は振り返った。


「スープ、食ってくれてありがとな」


 アリアは目を見開いた。


「……なぜ、あなたが礼を言うの」


「メイが喜ぶから」


 それだけ言うと、瞬はドアノブに手をかけた。


「おやすみ。明日は、今日より少し痛くないといいな」


 扉が閉まった。


 部屋には、再び夜の静けさが戻ってきた。


 アリアはしばらく、閉じた扉を見つめていた。理解できない言葉ばかりだった。理解できない態度ばかりだった。


 人間は汚い。


 人間は信用できない。


 人間は奪う。


 人間は嘘をつく。


 そのどれもが正しいはずなのに、今夜の出来事だけが、その隙間に入り込んでくる。


 鎖を外した手。


 置かれたリンゴ。


 無理に奪わなかった沈黙。


 温かいスープ。


 そして、ただの女の子だと言った声。


 アリアは枕元のリンゴを手に取った。


 赤い皮は、月明かりの中で静かに光っている。毒かもしれない。そう思う自分が、まだいる。けれど、もう一方で、ただのリンゴかもしれないと思う自分もいた。


 その小さな変化が、ひどく怖かった。


「……変な、人間」


 かすれた声で呟いた。


 リンゴを食べることはできなかった。


 けれど、捨てることもできなかった。


 アリアはそれを枕元へ戻し、布団に身を沈めた。傷はまだ痛む。熱もある。胸の奥の疑いは消えない。


 それでも、地下牢で見た悪夢の輪郭は、少しだけ薄れていた。


 窓の外では、夜風が草木を撫でている。


 葉が擦れる乾いた音。


 遠くで落ちる水の音。


 部屋の中に残るスープの匂い。


 アリアは、いつの間にか目を閉じていた。


 眠るつもりなどなかった。


 人間の屋敷で、無防備に眠るなどありえないはずだった。


 けれど、体は限界で、心もまた、怒り続ける力を失っていた。


 沈黙は冷たくなかった。


 誰かに押しつけられるものでも、置き去りにされるものでもなかった。


 ただ、部屋の隅で小さく燃える焚き火のように、彼女のそばに残っていた。


 その夜、アリアは眠った。


 深く、静かに。


 まだ人間を信じたわけではない。


 許したわけでもない。


 けれど、枕元のリンゴを捨てないまま眠った。


 それは、凍りついた心がほんの一滴だけ溶けた、誰にも見えない小さな夜だった。

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