第67話:黄金の檻と、鎖に繋がれた誇り 〜恐れで縛った手は、助けたい相手にも届かない〜
王城の回廊は、外の暑さを忘れたように冷えていた。
分厚い石壁が、晩夏の陽射しを奥へ通さない。高い位置に並んだ細長い窓から、白く鋭い光だけが斜めに差し込み、磨き上げられた大理石の床に、細い格子の影を落としていた。
空気には、古い石の匂いが染みついている。磨かれた金属、乾いた絨毯、長く閉ざされた部屋の奥に溜まる埃の気配。それらが混ざり合い、歩く者の声を自然と小さくさせる重みを作っていた。
カシャン。
カシャン。
静まり返った回廊に、ゼイクの鎧が擦れる音だけが響く。その硬い音は壁に跳ね返り、天井へ昇り、また足元へ戻ってきた。まるで王城そのものが、一行の足取りを確かめているようだった。
「……なぁ、ゼイク」
瞬は小声で言った。
「歩くの速くないか? 俺、さっきからずっとトイレ行きたいんだけど」
「我慢しろ」
ゼイクは前を向いたまま、短く答えた。
「王の御前だ。余計なことを言うな。余計な動きもするな。余計な呼吸も控えろ」
「呼吸は許してくれよ。俺、生き物なんだよ」
「今だけ石像になれ」
「無茶言うな」
ゼイクの声はいつもより硬かった。額には薄く汗が滲んでいる。王城は彼にとって古巣であり、かつての誇りの場所でもある。だが同時に、過去の肩書きや規律が壁の奥から染み出し、今の彼を縛る場所でもあった。
メイは瞬の隣を歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していた。白いアイガードで目元は隠れているが、緊張しているのは、小さく握られた手から分かる。
「瞬さん……王様って、怒ると怖い方なんでしょうか」
「大丈夫だろ。王様ってたぶん、椅子が豪華なだけのおじさんだ」
「瞬」
ゼイクの声が氷のように落ちた。
「今の発言は、謁見の間に入る前に墓穴を掘る行為だ」
「まだ掘ってない。地面を見ただけだ」
「黙れ」
アリスは最後尾で扇子を揺らしながら、涼しげに歩いている。王城の重苦しさなど、彼女にはほとんど効いていないようだった。むしろ、廊下の装飾や壁の魔石灯を値踏みするように眺めている。
「ふぅん。王城の照明、ずいぶん古い設計のままなのね。魔力効率が悪いわ。廊下一本照らすのに、無駄が多すぎる」
「アリス様、今は設備点検の時間ではありませんわ」
エリーゼが小声でたしなめる。
「分かっているわよ。ただ、無駄を見ると見積書を書きたくなるの」
「その衝動も控えてくださいませ」
そんなやり取りをしているうちに、一行は巨大な扉の前へ到着した。
謁見の間。
扉には黄金の獅子が彫り込まれていた。獅子の目には赤い宝石がはめ込まれ、窓から差し込む光を受けて鈍く輝いている。両脇には衛兵が立ち、槍の穂先が一点の揺れもなく天井を向いていた。
扉が開く。
重い音が腹の底に響いた。
その先には、眩しいほど広い空間があった。天井は高く、巨大な柱が何本も並び、壁には古い戦の絵がかけられている。床を覆う真紅の絨毯は、奥の玉座までまっすぐ続いていた。
その最奥に、国王がいた。
初老の男だった。華美な王冠と重い外套をまとっているが、その顔には豪奢さよりも疲労の色が濃い。深く刻まれた皺の間に、眠れぬ夜をいくつも越えたような影が落ちていた。
「進め」
案内役の声に促され、一行は赤い絨毯の上を進んだ。
そこで、瞬は固まった。
作法が分からない。
王族に会う時の正しい挨拶など、当然ながら彼の人生には存在しなかった。前の世界でも、偉い人といえばせいぜい部長だった。部長に片膝をついた経験はない。仮にやったら、病院を勧められていたはずだ。
(やべぇ。どうする? 土下座か? いや、いきなり土下座は重いか? 敬礼? それとも名刺交換?)
焦った瞬は、横目でゼイクを見た。
ゼイクは流れるような動作で右手を胸に当て、片膝をつこうとしている。エリーゼも優雅に膝を折る準備に入っていた。
瞬は即座に決断した。
真似しよう。
作戦名、パントマイム。
ゼイクが右手を胸に当てる。
瞬も胸に手を当てる。
バチン、と予想以上に大きな音が謁見の間に響いた。自分で自分を叩いただけなのに、なぜか少し痛い。
メイも慌てて真似をしたが、手の位置が少し高く、喉元を押さえる形になった。
ゼイクが膝を折る。
瞬も膝を折る。
ガクン、と勢いがつきすぎて、危うくそのまま前へ倒れかける。隣のメイもバランスを崩し、瞬の袖を掴んだ。二人で小さく揺れた。
エリーゼが頭を下げる。
瞬とメイも勢いよく頭を下げる。
ごつん、と額同士がぶつかりそうになり、二人は寸前で止まった。止まった姿勢が不自然すぎて、逆に目立つ。
広い謁見の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
その後ろで、アリスだけが完璧だった。
彼女はドレスの裾を軽くつまみ、背筋を一切乱さず、まるで音楽に合わせるように膝を折った。指先、首の角度、視線の伏せ方。そのすべてが美しく、王城に仕える貴族たちでさえ見惚れるほど洗練されていた。
国王は、しばらく瞬たちを見ていた。
それから、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……面を上げよ」
威厳のある声だった。
ただし、その奥には「今のは何だったのだ」という疲れた疑問が混ざっていた。
瞬たちが顔を上げると、国王は片手を上げた。
「人払いを」
側近たちが一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐに頭を下げ、衛兵と共に謁見の間から退いていく。重い扉が閉まる音が響くと、広すぎる空間に残ったのは、瞬たちと国王、そしてごく少数の側近だけになった。
空気が変わった。
表向きの威厳が削ぎ落とされ、代わりに、隠しきれない焦りが現れる。
国王は玉座の肘掛けを握った。指先に力が入り、古い金細工がわずかに軋む。
「単刀直入に言おう」
その声は、先ほどよりも低かった。
「我々は先日、森の境界付近で、瀕死のエルフを保護した」
エルフ。
その一語が落ちた瞬間、ゼイクとエリーゼの肩がわずかに強張った。アリスの扇子も止まる。メイは息を呑み、瞬だけが真っ直ぐ国王を見ていた。
森を閉ざす長命の種族。
人間を嫌い、同じ空気を吸うことさえ拒むと言われる者たち。
その名が、王の口から出た途端、謁見の間の温度が一段下がったように感じられた。
「保護した、と言えば聞こえはよい」
国王は苦々しく言った。
「だが相手は、あのエルフ族だ。森を閉ざし、人族を嫌い、同胞への執着が異常に強い。彼らにとって、人間は同じ言葉を話す隣人ではない。森を汚す短命の獣に過ぎぬ」
王の声には、恐れが滲んでいた。
国を治める者の恐れ。
一人の少女を前にしたものではなく、その背後にいる種族全体を恐れる声だった。
「我々がどれほど善意で治療したとしても、彼らはそう受け取らぬだろう。人間に同胞を奪われた。閉じ込められた。辱められた。そう断じれば、報復の矢は王都まで届く」
ゼイクが奥歯を噛みしめた。
「……戦争になります」
「そうだ」
国王は頷いた。
「たった一人のエルフの扱いを誤れば、この国は森と戦になる。いや、戦と呼ぶには一方的すぎるかもしれぬ。彼らの結界、森での戦術、自然を操る魔法……まともにぶつかれば、こちらの被害は計り知れん」
沈黙が広がった。
謁見の間の高窓から差し込む光が、床に長い影を作る。真紅の絨毯の上に伸びたその影は、まるで見えない森の枝のように複雑に絡み合っていた。
国王は、深く息を吐いた。
「そこで、其方らに頼みたい」
瞬を見た。
「そのエルフの少女を、極秘裏に、可能な限り無傷で、エルフの里まで送り届けてほしい」
ゼイクとエリーゼの顔色が、同時に変わった。
「断れ、瞬」
ゼイクが即座に耳打ちする。
「これは外交問題の中心だ。少しでも手順を誤れば、我々が誘拐犯にされる。最悪、王国とエルフの森の両方から狙われるぞ」
「そうですわ」
エリーゼも声を潜める。
「エルフの森は結界だらけですのよ。入り口に近づくだけでも矢が飛んでくる場所です。相手を無事に届けるどころか、こちらが無事に帰ってこられる保証もありませんわ」
常識的に考えれば、その通りだった。
これは人助けでは済まない。国家、種族、誇り、恐怖。そのすべてが絡み合った、巨大な火薬庫だ。どこを踏んでも爆発する可能性がある。
だが、瞬は少し首を傾げただけだった。
「つまり」
彼は国王を見た。
「迷子を、家まで送ればいいんですね?」
謁見の間が静まり返った。
側近の一人が、信じられないものを見るように瞬を見た。ゼイクは額を押さえた。エリーゼは扇子で口元を隠しながら、遠い目をしている。
国王だけが、ゆっくりと瞬を見返した。
「……迷子、か」
疲れきった顔に、わずかな苦笑が浮かぶ。
「王国を揺るがす火種を、そう言うか」
「だって、そうでしょ」
瞬は言った。
「怪我して、知らない場所にいて、帰れないんですよね。なら、怖いに決まってるじゃないですか」
その言葉に、国王の表情が一瞬だけ揺れた。
エルフではなく。
外交問題でもなく。
火種でもなく。
瞬は、まだ会ってもいないその少女を、ただ「怖がっているかもしれない一人」として見ていた。
「引き受けてくれるか」
国王の声が低くなる。
瞬は迷わず頷いた。
「いいですよ」
「「はぁぁぁぁ!?」」
ゼイクとエリーゼの声が、謁見の間に響いた。
だが、瞬は振り返らなかった。
「困ってるなら助けます。帰りたいなら送ります。難しいことは、あとで考えます」
「普通は先に考えるのだ!」
ゼイクが頭を抱える。
その時、アリスがすっと前に出た。
彼女の目が、獲物を見つけた商人のそれになっていた。
「陛下」
声は優雅だった。
「この危険な任務、我々が引き受けるとなれば、当然ながら相応の権限と補償が必要ですわ」
国王の顔が、別の意味で強張った。
アリスはにっこりと微笑んだ。
「極秘任務における行動裁量。道中で発生する損害の全額補填。エルフ側との交渉に必要な外交特使権限。さらに、精神的負担、移動経費、危険手当、後始末に関する免責条項」
「ま、待て。そこまで必要か」
「必要ですわ」
アリスは一歩も引かなかった。
「この国を救うかもしれない依頼ですもの。安売りは、国王陛下に対しても失礼でしょう?」
瞬は小声でゼイクに聞いた。
「なぁ、アリスって今、国を助けようとしてるの? それとも財布を襲ってるの?」
「両方だ」
ゼイクは疲れた声で答えた。
交渉は、そこからしばらく続いた。
アリスは容赦がなかった。国王が渋るたびに、「ではこの件を通常の騎士団で処理なさいますか?」と微笑み、側近たちを青ざめさせた。エリーゼは冷静に必要物資を追加し、ゼイクは途中から目を閉じて無心になっていた。
やがて、数枚の書面に署名がなされ、王国の印が押された。
アリスは満足げに書類をしまい込む。
「では、契約成立ですわね」
国王は、玉座の上で十歳ほど老けた顔をしていた。
「……頼む」
その一言だけは、王ではなく、一人の人間の声だった。
「彼女を、無事に帰してやってくれ」
瞬は頷いた。
「会わせてください。その子に」
国王は側近へ目配せした。
案内役が静かに前へ出る。
「こちらです」
謁見の間を出た瞬間、空気がまた変わった。
華やかな赤い絨毯が途切れ、磨かれた大理石の廊下を抜け、やがて一行は人目の少ない通路へ進んだ。窓が減り、光が減り、石壁の冷たさが肌に近づいてくる。
階段が現れた。
下へ続く階段だった。
そこから、湿った空気が這い上がってくる。カビと鉄錆びの匂い。遠くで水滴が落ちる音が、ぽつん、ぽつん、と暗がりの奥から聞こえていた。
瞬の足が止まる。
「……なぁ」
声が、低くなった。
「その子、治療中なんだよな?」
案内役の兵士は、目を逸らした。
「はい。治療は、しております」
「じゃあ、なんで地下なんだよ」
誰も、すぐには答えなかった。
階段の下から、冷たい風が吹き上がる。
それは、人を助ける場所の風ではなかった。
檻の奥から漏れてくる、怯えた誰かの吐息のようだった。
石段を下りるたび、空気は一段ずつ冷たくなっていった。
上階にあった王城の華やかさは、階段の途中で削り落とされていく。赤い絨毯は消え、磨かれた石床もなくなり、代わりに湿った岩肌がむき出しになっていた。壁に埋め込まれた魔石灯は弱々しく、青白い光をぼんやりと放っているだけだった。
ぽつん。
どこかで水滴が落ちた。
その音が、長い通路の奥へ吸い込まれ、遅れて戻ってくる。足音も、鎧の擦れる音も、すべてが湿った壁にまとわりつき、重く濁って響いた。
瞬は黙って歩いていた。
いつものような軽口は出ない。口を開けば、胸の奥に溜まっているものがそのまま噴き出しそうだった。
案内役の兵士は、先頭で鍵束を握りしめている。金属の輪が震え、じゃら、じゃら、とかすかな音を立てていた。兵士自身も、この場所に慣れているはずなのに、どこか落ち着かない様子だった。
「……この下にいるのですか」
エリーゼの声が、暗がりに低く落ちた。
「はい」
兵士は振り返らずに答えた。
「万が一に備えて、隔離しております」
「隔離、ね」
アリスが小さく呟いた。
その声に含まれた冷たさに、兵士の肩がわずかに跳ねた。
階段を下りきると、重い鉄の扉が現れた。扉には何重もの鍵がかけられ、表面には魔力封じの文様が刻まれている。扉の周囲の石壁にも、同じような線が幾重にも走っていた。
それは、病人を守るための部屋には見えなかった。
閉じ込めるための場所だった。
兵士が鍵を差し込む。
ぎい、と鈍い音がした。
続けて二つ、三つ、四つ。鍵が外れるたび、鉄の奥で何かが軋む。最後の閂が引き抜かれた瞬間、扉の向こうから冷たい空気が流れ出した。
薬草の匂い。
血の匂い。
そして、古い鉄の匂い。
瞬の眉が、ぴくりと動いた。
扉が開く。
部屋の中央に、石造りの寝台があった。
その上に、少女が横たわっていた。
透き通るような金色の髪が、薄い布の上に広がっている。長く尖った耳。雪のように白い肌。年齢は十四、五歳ほどに見えるが、その顔色はひどく悪く、唇には血の気がなかった。
身体のあちこちに包帯が巻かれている。腕にも、肩にも、脚にも。白い布には滲んだ血が乾き、茶色い跡を残していた。呼吸は浅く、胸がかすかに上下するたび、苦しげな息が喉の奥で引っかかる。
だが、瞬の目が釘付けになったのは、傷ではなかった。
少女の両手首と両足首に、太い鎖が嵌められていた。
鉄の輪は華奢な手首に食い込み、皮膚を赤黒く腫れ上がらせている。少し動くだけで擦れるのだろう。鎖の下には、血が固まった跡があった。
鎖は寝台の四隅に固定されている。
逃げられないように。
動けないように。
生きている少女を、物のように繋ぎ止めるために。
「……なんだよ、これ」
瞬の声は、ひどく低かった。
兵士は顔を強張らせた。
「彼女は強力な魔法の使い手です。意識を取り戻した時に暴れられれば、地下区画どころか城の一部が危険に晒されます。これは安全のための処置で――」
「安全?」
瞬が兵士を見る。
その目に、兵士は言葉を詰まらせた。
「この子の手首、見えてるか?」
瞬は寝台に近づいた。
ゼイクが一歩前に出る。
「瞬、慎重にしろ。相手はエルフだ。目覚めた瞬間、攻撃してくる可能性がある」
「だからって、これかよ」
瞬は少女の手首に触れた。
肌は氷のように冷たかった。鎖の重みで、細い腕が不自然に沈んでいる。ほんの少し動かしただけで、少女の眉が苦痛に歪んだ。
瞬の指が、鎖を握りしめる。
「これは治療じゃない」
声が、石の壁に低く響いた。
「拷問だ」
部屋の空気が凍った。
兵士が慌てて言う。
「で、ですが、我々も恐れているのです! 彼女が目覚め、魔法を使えば、何人死ぬか分かりません! エルフは人間を憎んでいます。拘束しなければ、こちらが――」
「怖いから縛るのか」
瞬は兵士の言葉を遮った。
「怖いから、痛がってる子をそのままにしていいのか」
「瞬」
ゼイクがさらに近づいた。
「気持ちは分かる。だが、現実に危険はある。鎖を外せば、彼女はこちらを敵と見なすかもしれない」
「もう敵に見えるだろ、こんなの」
瞬は寝台の上の少女を見た。
意識のない顔には、苦痛が滲んでいる。傷の痛みだけではない。寒さ、恐怖、屈辱。そのすべてが、閉じた瞼の奥に沈んでいるようだった。
「目が覚めた時、自分が鎖で繋がれてたら、誰だって敵だと思う」
瞬の指先から、青白い光が漏れた。
鎖が軋む。
「恐れてるのは分かる。でも、恐れたまま相手を縛ったら、その恐れは相手にも伝わる。伝わった恐れは、たぶん憎しみになって返ってくる」
ギリ、と鉄が悲鳴を上げた。
「そんなもん、ここで終わらせる」
「待て、瞬!」
ゼイクの声が飛ぶ。
だが、遅かった。
バキンッ!
乾いた破裂音が、地下室に響き渡った。
瞬の握った鎖が、飴細工のようにねじ切れた。続けて、足首を縛っていた鎖も外される。重い鉄の塊が床へ落ち、じゃらら、と冷たい音を立てて広がった。
その音に反応したのか、寝台の上の少女の睫毛が震えた。
メイが息を呑む。
エリーゼが杖を構える。
ゼイクの手が剣の柄にかかった。
少女の瞼が、ゆっくりと開く。
現れたのは、深い森の奥に沈む湖のような、翠色の瞳だった。
だが、その瞳にあったのは、感謝ではなかった。
怯えでもない。
そこに宿っていたのは、焼け焦げた大地のような憎悪と、底の見えない絶望だった。
「……汚らわしい」
かすれた声が、地下室の空気を裂いた。
少女の視線が、瞬を射抜く。
「人間……」
その一言には、吐き捨てるような嫌悪があった。
瞬は動かなかった。
少女は上体を起こそうとした。だが、傷ついた身体は言うことを聞かず、肘が震え、すぐに寝台へ崩れ落ちる。それでも彼女は、折れた翼で空を睨む鳥のように、瞬たちを睨みつけた。
「触れるな……!」
叫びは弱かった。
けれど、その弱さが余計に痛かった。
「私を……辱めるつもりか……。人間風情が……私に、触れるな……!」
アリア。
それが、彼女の名だった。
誇り高いエルフの少女。
けれど今は、傷つき、縛られ、恐怖と怒りだけでかろうじて立っている小さな命だった。
ゼイクが警戒を強める。
「瞬、下がれ。彼女はまだこちらを敵と認識している」
「だろうな」
瞬は静かに答えた。
アリアは瞬の顔を睨みながら、震える手でシーツを掴んだ。鎖は外れている。だが、動けるほどの力は残っていない。それでも彼女は、心だけは決して膝をつこうとしなかった。
「殺すなら……殺せ……」
唇の端から、細く血が滲む。
「捕虜として辱められるくらいなら……私は……」
「殺さねぇよ」
瞬は言った。
あまりにあっさりした声だった。
アリアの瞳がわずかに揺れる。
「……何?」
「殺さない。辱めもしない。連れて帰るだけだ」
「帰す……?」
「お前の家に」
アリアの顔に、理解できないという色が浮かんだ。
その隙に、瞬は懐へ手を入れた。
ゼイクが一瞬だけ身構えたが、瞬が取り出したのは武器ではなかった。
赤いリンゴだった。
王城へ来る前、なんとなく持ってきたもの。昼の光を受けていたその皮は、地下の青白い魔石灯の下でも、奇妙なほど鮮やかに見えた。
瞬はそれを、アリアの枕元へそっと置いた。
ことん。
小さな音がした。
アリアはリンゴを見た。
それから、瞬を見た。
「……毒か」
「違う。ただのリンゴ」
「人間の施しなど……受けると思うか」
「思ってない」
瞬は肩をすくめた。
「置いただけだ。食うかどうかは、お前が決めればいい」
アリアの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
命令されると思っていたのだろう。恩を着せられると思っていたのだろう。従えと、頭を下げろと、助けてやったのだから感謝しろと、そう言われると思っていたのだろう。
だが、瞬は何も求めなかった。
ただ鎖を外し、リンゴを置いた。
それだけだった。
「……何者なの、あなた」
アリアの声は、かすれていた。
瞬は少し考えた。
「通りすがりの、迷子係かな」
「ふざけるな……」
「ふざけてねぇよ」
瞬は、床に落ちた鎖を見下ろした。
「とりあえず、ここは寒い。こんな場所じゃ、治る傷も治らない。上に運ぶぞ」
兵士が慌てて前に出た。
「し、しかし、それは――」
「契約しただろ」
アリスが冷たく言った。
彼女は国王の署名が入った書類をひらりと掲げる。
「この子の移送と扱いに関する裁量は、こちらにあるわ。文句があるなら、陛下の印に言いなさい」
兵士は口を閉じた。
ゼイクは深く息を吐き、剣から手を離した。
「……やれやれ。始まったばかりで、すでに胃が痛い」
「胃薬ならありますわ」
エリーゼが静かに言った。
「ただし、今必要なのは胃薬よりも清潔な部屋と温かい寝具ですわね」
メイはアリアのそばへ一歩近づいた。
アリアはすぐに鋭い目を向ける。
「来るな……!」
メイはびくりと止まった。だが、逃げなかった。両手を胸の前で握り、震える声で言う。
「……怖がらせるつもりは、ありません。毛布を、持ってきます」
アリアは答えなかった。
ただ、目の前の人間たちを睨み続けた。
信じない。
許さない。
近づくな。
その全身がそう叫んでいた。
それでいい、と瞬は思った。
今すぐ分かり合えるはずがない。深く刺さった棘を、力ずくで抜こうとすれば、傷はさらに広がる。まずは寒い場所から出す。鎖を外す。痛みを減らす。腹が減ったなら食べ物を置く。
できることは、そのくらいでいい。
瞬はアリアへ背を向け、仲間たちに言った。
「行こう。ここから出す」
アリアの枕元で、赤いリンゴが静かに光っていた。
アリアはそれを見つめた。
憎しみの奥で、ほんの小さな疑問が生まれる。
なぜ、鎖を外した。
なぜ、命令しない。
なぜ、何も奪わず、ただ置いていく。
その問いは、まだ信頼にはほど遠い。
けれど、固く凍りついた心に入った、最初の細いひびだった。
地下室の扉が開かれる。
上へ続く階段から、わずかな光が差し込んだ。
アリアはその光を睨みながら、かすかに唇を噛んだ。
人間など、信じない。
そう何度も心の中で繰り返しながら。
それでも彼女の視線は、最後まで、枕元のリンゴから離れなかった。




