第66話:最強たちの昼下がりと、見えない階級社会 〜分けた線は、いつか自分の足も止める〜
晩夏の昼下がりだった。
ローゼンバーグ邸の窓辺には、白く薄いカーテンがかかっている。外から入り込む風は熱を含み、布をゆっくりと膨らませては、また静かにしぼませていた。庭の木々は深い緑をまとい、厚い葉の一枚一枚が太陽を受けて鈍く光っている。風が通るたび、葉擦れの音が低く重なり、遠くで水を跳ね上げる噴水の音と混ざった。
芝生の端では、庭師が伸びすぎた草を刈っていた。刃が草を噛むたび、さく、さく、と乾いた音がして、そのたび青臭い匂いが窓の隙間から流れ込む。石畳は陽を吸って白く眩み、そこに落ちた木陰だけが、別の季節のように冷えて見えた。
そんな、世界ごと昼寝を始めそうな午後。
ローゼンバーグ邸のリビングでは、瞬が巨大なソファの上で完全に溶けていた。
背もたれに頭を預け、片足は肘置きに投げ出し、もう片方の足は床にだらりと落としている。人間というより、洗濯に失敗して伸びきった服のようだった。
「なぁ、アリス」
天井を見上げたまま、瞬がぽつりと言った。
「俺さ、思うんだけど」
向かいの安楽椅子では、アリスが冷やしたハーブティーを飲んでいた。氷の入ったグラスの表面には細かな水滴がつき、窓から入る光を受けて小さく光っている。
アリスはグラスをソーサーに置き、瞬を見る前に答えた。
「多分、そうでしょうね」
「……まだ何も言ってねえけど」
「言わなくても分かるわよ」
アリスは扇子を開き、涼しげな顔で風を送った。
「あの地下迷宮で見つけた手記のことを考えていたんでしょ。そこに出てきた勇者の言葉。あれ、どう考えてもこの世界の人間の感覚じゃないもの」
瞬の目が少しだけ開いた。
地下迷宮で見つけた古い手記。そこに残されていた勇者の言葉。
なんとかなるっしょ。
俺たち最強だから。
軽くて、雑で、けれど妙に耳に残る言い回し。さらに、カレーライスを懐かしむような記述まであった。こちらの世界で生まれ育った人間が、そんな言葉を自然に使うとは考えにくい。
「やっぱそう思うよなぁ」
瞬は体を起こそうとして、途中で諦めた。腹筋が仕事を拒否したらしい。仕方なく、寝転がったまま腕を組む。
「勇者も、俺たちと同じようなやつだったのかな」
「その可能性は高いわね」
アリスは手元の本へ視線を落とした。机の上には、分厚い歴史書や古い地図、種族分布をまとめた資料が何冊も積まれている。しおり代わりに挟まれた紙片が、風に震えていた。
「勇者はシルヴィアを助け、その後、表舞台から姿を消した。普通なら死んだと見るところだけれど……同じような来歴の人間なら、簡単に寿命で片付けるのも危険ね」
「どっかで縁側に座って茶すすってたら面白いけどな」
「あなたじゃないんだから」
「いや、俺ならやるぞ。世界救ったあとに温泉宿で隠居とか最高じゃん」
「あなたは世界を救う前から隠居気分でしょうが」
アリスの扇子がぴしゃりと鳴った。
瞬は胸に手を当て、深刻そうな顔を作る。
「ひどい。俺の繊細な心が今、氷の彫刻みたいに割れた」
「じゃあ掃除が大変だから、割れた破片を自分で片付けてちょうだい」
「扱いが雑!」
軽口が、リビングの空気をふわりと揺らした。
けれどアリスの表情は、すぐに少しだけ引き締まった。彼女は机の上に広げていた地図を指先で押さえ、瞬へ向き直る。
「冗談はそこまで。瞬くん、あなた少しは世界のことを勉強したほうがいいわ」
「勉強って言葉、聞くだけで体温が二度下がるんだけど」
「下がってちょうどいいわ。暑苦しいから」
アリスは容赦なく続けた。
「私たちの周りだけを見ていると、何でも力で押し切れるように見えるかもしれない。でも、この世界はそんなに単純じゃない。強さにも種類があるし、厄介さにも種類がある」
「強い敵がいるってことか?」
「敵、とは限らないわ。けれど、関われば面倒な相手はいる」
その時、キッチンへ続く扉が開いた。
冷やした果実水を載せたトレイを手に、エリーゼが現れた。グラスの中では薄い桃色の液体が揺れ、氷がかろん、と澄んだ音を立てる。彼女はテーブルへトレイを置くと、まるで授業を始める教師のように背筋を伸ばした。
「ちょうどよい話題ですわ。瞬さんは、この世界の種族ごとの立ち位置をきちんと理解しておくべきです」
「うわ、授業が増えた」
「逃げないでくださいませ」
エリーゼはそう言うと、果物籠から三つの果物を取り出した。
大きなメロン。
赤いリンゴ。
そして、小さなブドウの房。
それらをテーブルの上に並べる。昼の光が果物の皮を照らし、メロンの網目、リンゴの艶、ブドウの薄い白粉をくっきりと浮かび上がらせた。
「まず、この一番大きなメロン。これが魔族です」
「いきなり果物で世界情勢を説明し始めたぞ」
「分かりやすさは大切ですわ」
エリーゼはメロンを指差した。
「魔族は、大陸北部に広い支配圏を持つ強大な種族です。魔力、肉体、寿命、そのすべてが高水準。個体の力で見れば、人族とは比べものになりません」
「じゃあ、こっちのリンゴがエルフ?」
「ええ」
エリーゼの声が、わずかに低くなった。
「エルフ族。森の守り手と呼ばれる長命種です。魔法、とりわけ自然に関わる力の扱いは極めて高く、美しい容姿と長い寿命を持つ。けれど、外から見た印象ほど穏やかな存在ではありません」
窓の外で、ひときわ強い風が吹いた。
葉がざわりと鳴り、影が床の上で揺れた。リビングの空気が、ほんの少し冷えたように感じられた。
「彼らは、とても閉鎖的ですわ。森の外の者を信用しない。特に人族に対しては、警戒というより軽蔑に近い感情を持っています。境界を越えようものなら、姿を見る前に矢が飛んでくることも珍しくありません」
「え、エルフってもっとこう、森で歌って、動物と仲良くして、困ってる旅人にパンとかくれるイメージなんだけど」
「物語の読みすぎね」
アリスがばっさり切った。
「現実のエルフは、パンどころか空気も分けたがらないわよ」
そこへ、廊下の方から金属の擦れる音が近づいてきた。
カシャン、カシャン。
磨き終えた手甲を布で拭きながら、ゼイクがリビングへ入ってくる。彼は話の続きを聞いたのか、眉間に深い皺を刻んでいた。
「アリス嬢の言う通りだ。瞬、お前の抱くエルフ像は幻想に近い」
「ゼイクまで言うのかよ」
「実体験だ」
ゼイクは布を畳み、低い声で続けた。
「以前、王国の外交任務でエルフの森の近くまで赴いたことがある。正式な使者としてだ。王家の書状も持っていた。だが、森の入口に足を踏み入れる前に、警告の矢が飛んできた」
「マジで?」
「ああ。矢文にはこうあった。人間の息で森を汚すな、と」
リビングに、短い沈黙が落ちた。
噴水の水音が、急に遠く聞こえた。外では鳥が一羽、鋭く鳴いて飛び立つ。乾いた羽音が窓越しにかすかに届き、そのあとには、風と葉擦れだけが残った。
「……ひでぇな」
瞬が小さく呟いた。
「エルフだけではない」
ゼイクは視線をテーブルの果物へ落とした。
「獣人族は人族をひ弱な獲物と見る。ドワーフは不器用で浪費の多い種族だと笑う。魔族の中には、人間を数で増えるだけの虫と呼ぶ者もいる」
そこで、彼は少しだけ苦い顔をした。
「そして人間もまた、彼らをまとめて亜人と呼び、恐れ、利用し、見下す。結局は、どちらも同じだ。自分たちと違うものに名札を貼り、その名札だけを見て相手を決めつける」
エリーゼが、最後に残ったブドウの房を持ち上げた。
「これが人間ですわ。一粒ずつは小さく、弱い。寿命も短く、魔力にも個人差が大きい。けれど数が多く、集まり、町を作り、国を作る。弱さを補うために、知恵と数で固まる種族です」
瞬は、テーブルの上に並んだ果物をじっと見た。
大きなメロン。
形の整ったリンゴ。
小さな粒が寄り集まったブドウ。
それぞれが別のものとして並べられ、名前を与えられている。たしかに分かりやすい。けれど、分かりやすいということは、時に乱暴でもある。
アリスはグラスを持ち上げ、氷を揺らした。
「要するに、この世界は見えない階級でできているのよ。強い種族、長く生きる種族、美しい種族、多く増える種族。みんな自分の物差しで他者を測って、上だ下だと勝手に決める」
「くだらねぇな」
瞬は、ぽつりと言った。
その声は大きくなかった。けれど、さっきまでの軽さは消えていた。
ゼイクが瞬を見る。
「くだらない、で済めば苦労はしない。現実に、そのくだらない価値観で血が流れる」
「分かってる」
瞬はソファからようやく起き上がった。
窓の外から差し込む日差しが、彼の横顔に斜めに当たっていた。睫毛の影が頬に落ち、いつもより少しだけ大人びて見える。
「でもさ。強いとか弱いとか、長生きとか短命とか、エルフとか人間とか……そういう名前を全部取っ払ったら、何が残るんだろうな」
「何?」
ゼイクが眉を寄せる。
瞬はテーブルへ手を伸ばした。メロンを少し横へ押し、リンゴを寄せ、ブドウの房をその隣に置く。きちんと分類されていた果物たちの境界が、少し崩れた。
「腹減ったら機嫌悪くなる。痛いのは嫌だ。怖けりゃ震える。優しくされたら、たぶん嬉しい。美味いもん食ったら、ちょっと笑う」
瞬は指先でブドウを一粒つまみ、光に透かした。
「そこは同じなんじゃねぇの?」
誰も、すぐには答えなかった。
風が吹く。
カーテンがふくらみ、窓際に置かれた紙片が一枚、はらりと床へ落ちた。落ちるまでの短い時間、白い紙は光を受けて小さな鳥のように舞った。
「俺さ」
瞬はブドウを口へ放り込み、噛んだ。甘い果汁が広がったのか、ほんの少し目を細める。
「名札を貼るのが悪いって言いたいわけじゃないんだよ。便利だしな。でも、その名札だけ見て中身を見なくなったら、もう終わりだろ」
アリスが、扇子を動かす手を止めた。
「エルフだからこう。人間だからこう。魔族だからこう。そうやって決めた瞬間、相手の顔を見なくなる。声も聞かなくなる。で、勝手に怖がって、勝手に嫌って、勝手に攻撃する」
瞬は少しだけ笑った。
「めんどくせぇよな。最初から、腹減ってるなら飯食うか、くらいでいいじゃん」
ゼイクはしばらく瞬を見ていた。
そして、深く息を吐いた。
「お前の考えは、甘い」
「だろうな」
「この世界では、甘さは命取りになる」
「それも分かる」
「だが」
ゼイクの声が、ほんのわずかに柔らかくなった。
「……その甘さに救われる者も、いるのかもしれん」
瞬はニッと笑った。
「だろ?」
その瞬間だった。
バタンッ、とリビングの扉が勢いよく開いた。
「た、大変だぁぁぁぁ!」
飛び込んできたのは、屋敷の管理を任されているキースだった。いつもの調子の良さはどこかへ消え、顔は紙のように白い。息を切らし、額には冷や汗が浮かんでいる。背後には数人の元盗賊たちがいて、全員が同じように青ざめていた。
ゼイクは反射的に腰の剣へ手を伸ばした。
「敵襲か?」
「違う! いや、ある意味もっとヤバい!」
キースは震える手で、一通の封筒を差し出した。
金色の紋章が押された、厚い封筒。
アリスの目が細くなる。エリーゼが息を呑む。ゼイクの表情が硬くなった。
瞬だけが、よく分かっていない顔で封筒を見ていた。
「なにこれ。高そうな招待状?」
「王宮からの緊急呼び出しだ!」
キースの声が、リビングの天井まで跳ねた。
「しかも、瞬のパーティをご指名で!」
窓の外で、さっきまで穏やかだった風が急に強く吹いた。
庭の木々がざわめき、噴水の水しぶきが大きく乱れる。光が揺れ、床に落ちた影がいびつに伸びた。
テーブルの上では、メロンとリンゴとブドウが、境目を失ったまま転がっていた。
その先に待つのが、ひとりのエルフの少女との出会いであることを、この時の瞬たちはまだ知らない。
そして、その少女の心に積もった絶望が、彼らの騒がしくて温かい旅によって、少しずつ溶かされていくことも。
金色の紋章が押された封筒は、ただの紙でできているはずだった。
けれど、その場にいる全員の視線を集めた瞬間、それはまるで鉛の塊のようにリビングの空気を重くした。
窓の外では、さっきまで気だるげに揺れていた木々が、急にざわざわと騒ぎ始めている。風が枝葉の隙間を抜けるたび、乾いた葉擦れの音が何層にも重なり、どこか遠くで警鐘が鳴っているように聞こえた。
「王宮から……?」
ゼイクの声が低く沈んだ。
その一言だけで、彼の顔つきが変わる。さっきまで瞬の甘さに呆れながらも、どこか穏やかだった目が、王立騎士団長だった頃の鋭さを取り戻していた。
エリーゼもまた、扇子を閉じたまま動かない。唇に浮かんでいた柔らかな笑みは消え、代わりに、計算を始める者の冷静な色が瞳に宿っている。
アリスは封筒を受け取ると、蝋封の紋章をじっと見つめた。
「……本物ね」
「分かるのか?」
瞬がのぞき込むと、アリスは封蝋の端を爪先で軽くなぞった。
「王家の正式な緊急召集印。しかも、これは一般貴族や騎士団宛てのものじゃないわ。直接指名の封書よ。手間も費用もかけている。つまり、それだけ面倒な案件ってこと」
「面倒な案件って、たとえば?」
「国家がらみ。外交がらみ。あるいは、表に出せない厄介事」
アリスはそこで一度言葉を切り、瞬を見た。
「あなたが一番好きそうで、私が一番嫌いな類の話ね」
「困ってる人を助ける系?」
「違うわ。困ってる人を助けたら、なぜか国の存亡まで背負わされる系よ」
「最悪じゃん」
「ええ、最悪よ」
そう言いながらも、アリスの口元はわずかに笑っていた。面倒ごとを嫌う顔と、面倒ごとに値段をつける商人の顔。その二つが、同時にそこにあった。
封を切る音が、やけに大きく響いた。
紙が開かれる。厚手の羊皮紙が、昼の光を受けて淡く照り返す。そこに記された文字をアリスが目で追うたび、彼女の眉が少しずつ寄っていった。
「……ふぅん」
「なんだよ、その『ふぅん』は。めちゃくちゃ怖いんだけど」
瞬が顔をしかめる。
アリスは返事をせず、手紙をゼイクへ渡した。ゼイクは一読した瞬間、目を細めた。
「王宮にて、極秘の相談あり。同行者は現パーティ全員。可及的速やかに登城せよ……か」
「極秘?」
エリーゼが静かに繰り返す。
「しかも、全員指定ですのね。瞬さんだけではなく、わたくしたちまで。戦力として見られているのか、それとも証人として必要なのか」
「どっちにしろ、いい匂いはしないわね」
アリスは扇子で自分の肩を軽く叩いた。
キースたちは入口付近で固まったままだった。元盗賊らしく危険の匂いには敏感なのだろう。顔色はまだ戻っていない。
「王宮の使者は?」
ゼイクが問う。
「門の外で待ってる。正式な馬車も一緒だ。こっちが準備でき次第、すぐに出発してほしいって」
「急ぎすぎだな」
ゼイクの声がさらに低くなる。
「普通、王宮からの呼び出しなら、時間と手順を踏む。特にアリス嬢のような有力者を呼ぶなら、礼儀を欠かさない。だが今回は、形式より速度を優先している」
「つまり、王様が相当焦ってるってことか」
「ああ」
ゼイクは手紙を折りたたみ、深く息を吐いた。
「そして、王が焦る問題は、たいてい民が知らぬところで国を揺らしている」
その言葉に、リビングの空気が沈んだ。
先ほどまでテーブルの上には、果物を使った気楽な説明が広がっていた。メロン、リンゴ、ブドウ。それぞれに種族の名前を与え、力の差や立場の違いを語っていた。
だが今、その説明が急に現実味を帯びてくる。
差別。
偏見。
見えない階級。
それらは、遠い本の中の話ではない。いつでも扉を開けて、この部屋の中へ入り込んでくる。
瞬は、テーブルの上に転がったブドウを見つめていた。
小さな粒が寄り集まった房。人間という、弱く、短く、けれど数で繋がる種族。
その隣にはリンゴがある。
エルフ。
美しく、長命で、強い魔法を持ち、人間を見下す森の民。
瞬はふいに、リンゴを手に取った。赤い皮が窓の光を受けて、つややかに光っている。
「なぁ」
「何よ」
アリスが返事をする。
「エルフってさ、そんなに人間のこと嫌いなのか?」
「個人差はあるでしょうけど、基本的にはね」
アリスの声は淡々としていた。
「森を荒らす。寿命が短い。欲望が強い。嘘をつく。すぐ争う。そういう人間の悪い部分だけを見て、あれは自分たちとは違う下等な生き物だと決めつけている」
「それって、会ったことない相手にも?」
「ええ。むしろ会わないから、余計に決めつけが強くなるのよ」
エリーゼが頷いた。
「知らないものは、想像の中で膨らみますわ。恐怖も嫌悪も、実物より大きく育ってしまう。だから、相手を見た時にはもう、目の前の個人ではなく、自分が作り上げた怪物を見ているのです」
「勝手に怪物にして、勝手に怖がるのか」
瞬はリンゴを見つめたまま呟いた。
「それ、すげぇ寂しいな」
誰も笑わなかった。
瞬の言葉は、あまりに単純だった。けれど、その単純さが、かえって部屋の奥まで届いた。
ゼイクが静かに口を開く。
「瞬。お前のその考え方は、危うい。相手がこちらを怪物として見ているなら、こちらも備えねばならない。無防備な善意は、時に仲間を危険に晒す」
「分かってる」
瞬はリンゴをテーブルに戻した。
「でも、相手が俺を怪物扱いしてくるからって、こっちも同じことしたら、結局ずっと終わらねぇじゃん」
風が、また窓を叩いた。
カーテンが大きく膨らみ、白い布越しに太陽の光が滲んだ。揺れる光が、瞬の手元を照らす。そこにはメロンも、リンゴも、ブドウも、区別なく同じ光を浴びていた。
「最初の一回くらい、誰かが名札を外さなきゃダメなんじゃねぇの」
「名札?」
「人間とかエルフとか、強いとか弱いとか、汚いとか高潔とか。そういうのを一回外して見るんだよ」
瞬は肩をすくめた。
「そしたら、案外ただの腹減ったやつだったり、怪我して泣きそうなやつだったりするかもしれねぇだろ」
ゼイクは何か言いかけたが、言葉にはしなかった。
代わりに、アリスが軽く息を吐く。
「本当にあなたは……面倒な方にだけ、まっすぐ歩いていくわね」
「褒めてる?」
「三割くらいは」
「残り七割は?」
「呆れてる」
「ひでぇ」
瞬は笑った。
その笑い声で、沈んでいた空気が少しだけ緩む。けれど、完全には戻らない。王宮からの封書は、テーブルの上で静かに重さを放ち続けていた。
エリーゼが果実水のグラスを一つ、瞬の前へ置いた。
「いずれにせよ、行くしかありませんわね。拒否すれば、王宮との関係が悪くなります。それに、内容を確認しないまま放置するのは危険です」
「準備をする」
ゼイクはすぐに立ち上がった。鎧の金具が硬く鳴る。
「武装は最低限。王宮内で過度な武器を見せるのは不敬に当たる。だが、非常時に対応できるよう、隠し装備は持っていく」
「私は契約書の準備ね」
アリスも立ち上がった。
「王宮がこちらを便利屋扱いするなら、それ相応の対価を取るわ。危険手当、拘束時間、精神的負担、必要経費、その他もろもろ。国庫の扉をちょっと開けてもらいましょう」
「その顔、王様より悪役っぽいぞ」
「商売人と言って」
「同じ意味じゃね?」
「違うわよ。悪役は奪う。商売人は相手に納得させてから奪うの」
「やっぱ奪ってんじゃねぇか!」
キースたちが、緊張していた顔のまま、少しだけ苦笑した。
メイは不安そうに瞬のそばへ来た。白いアイガードの下で、表情のすべては見えない。けれど、握りしめた手の小さな震えが、彼女の心を伝えていた。
「瞬さん……大丈夫でしょうか」
「大丈夫だろ」
瞬はあっさり言った。
「王様に呼ばれただけだし」
「普通は、それが大丈夫じゃないのですわ」
エリーゼがため息をつく。
瞬はメイの頭にぽんと手を置いた。
「何が出てきても、みんなで行けば何とかなる。俺たち最強だからな」
その言葉に、アリスがふと瞬を見た。
俺たち最強だから。
手記に残されていた勇者の言葉と、まったく同じ響き。
偶然なのか。
それとも、世界を変える者たちは、結局どこか似た言葉を選ぶのか。
アリスは何も言わず、ただ小さく目を細めた。
やがて、屋敷の外で馬車の車輪がきしむ音がした。王宮の使者が待っているのだろう。蹄が石畳を叩く硬い音が、昼下がりの庭に規則正しく響いている。
瞬は立ち上がり、大きく伸びをした。
「よし。じゃあ行くか」
「軽いわねぇ」
「重く考えたって、馬車が速くなるわけじゃねぇし」
「あなたの場合、考えなさすぎて馬車ごと崖に落ちる可能性があるのよ」
「その時は飛べばいいだろ」
「馬車は飛ばないわよ」
「アリスなら飛ばせそうじゃん」
「……少し興味はあるわね」
「興味を持つな!」
ゼイクの鋭い声が飛ぶ。
そのやり取りに、メイが小さく笑った。エリーゼも扇子で口元を隠し、キースたちはようやく肩の力を抜いた。
けれど、リビングの片隅に残された三つの果物だけは、静かにそこにあった。
メロン。
リンゴ。
ブドウ。
強いもの。誇り高いもの。弱く寄り集まるもの。
世界は、それらを別々の名前で呼ぶ。
けれど、同じ陽を浴び、同じ風にさらされ、同じ土から生まれた命でもある。
瞬は扉へ向かう直前、テーブルに戻ってリンゴを一つ手に取った。
「それ、持っていくの?」
アリスが尋ねる。
「なんとなく」
「王宮にリンゴを持参する英雄なんて聞いたことないわよ」
「腹減ったやつがいるかもしれないだろ」
アリスは一瞬だけ呆れた顔をして、それから小さく笑った。
「……本当に、あなたらしいわ」
扉が開く。
外の光が、リビングの床へ長く差し込んだ。夏の終わりの強い光。その中に、仲間たちの影が重なって伸びていく。
この時、瞬はまだ知らない。
そのリンゴを置く相手が、鉄の鎖に繋がれた、憎しみと絶望に満ちたエルフの少女になることを。
そして、彼女がいつかその赤い実をきっかけに、人間という名札の向こう側を、初めて見ようとすることを。
馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。
石畳を叩く音が、午後の静けさを割って遠ざかっていった。
風が庭を抜ける。
葉が鳴る。
噴水の水が光を跳ね返す。
ローゼンバーグ邸に残された平和な昼下がりは、ゆっくりと背後へ流れていった。
そして、世界の見えない階級線を越えるための、最初の一歩が始まった。




