第65話 嘘と愛と、最期の「ありがとう」 〜本当に守りたいものほど、言葉は不器用になる〜
深淵の霊廟の最下層に、血の匂いが満ちていた。
鉄を舐めたような苦い匂い。
石が焼けた匂い。
砕けた床の粉塵が、息をするたび喉に張りつく。
アランは、シルヴィアを抱えたまま走っていた。
片腕だけで。
血で濡れた体で。
折れかけた聖剣を握る右手は震え、足元は何度もふらついた。それでも彼は止まらなかった。止まれば、終わる。振り返れば、戻ってしまう。戻ってしまえば、シルヴィアを逃がせない。
「嫌です! アラン、離して!」
シルヴィアは暴れた。
胸元では、昨夜託された手帳が揺れている。荷物の中で、鍋や瓶がぶつかり、予備の鉄剣が鈍い音を立てた。
「みんなが! ガルドが、エレナさんが、レインが……!」
「黙ってろ!」
アランの声は荒かった。
けれど、怒っているのではない。
そうしなければ、心が折れてしまうからだった。
背後で、ガルドの怒号が響いた。
「アラン! さっさと連れて行け!」
その声に、シルヴィアは振り返った。
ガルドは、魔王の前に立ちはだかっていた。
鉄の手甲はひしゃげ、腕からは血が流れ、巨体は今にも倒れそうだった。それでも、彼は踏ん張っていた。足元の石が割れるほど強く、地面を踏みしめていた。
「ガルド! 待って、私も――」
「来るな!」
ガルドの声が、シルヴィアを突き刺した。
今まで聞いたことのない声だった。
「お前がいると邪魔なんだよ!」
シルヴィアの動きが止まった。
「……え?」
「聞こえねぇのか!」
ガルドは、血を吐きながら笑った。
無理やり作った、ひどく歪んだ笑顔だった。
「荷物持ちがうろちょろしてたら、俺たちが全力を出せねぇ! 足手まといなんだよ!」
その言葉が、シルヴィアの胸を裂いた。
嘘だ。
そう思いたかった。
でも、ガルドの声はあまりにも強かった。
胸の奥で、ずっと恐れていた不安が形を持つ。
自分は、やっぱり邪魔だったのか。
守られてばかりで、みんなの足を引っ張っていたのか。
「ガルド、何を……」
シルヴィアが震える声を漏らした時、エレナの声が重なった。
「そうですわ!」
エレナは倒れかけた体を聖典で支え、無理に背筋を伸ばしていた。白かった衣は赤く汚れ、額には冷や汗が滲んでいる。それでも、彼女はいつものような高慢な微笑みを作った。
「私の力にも限界がありますの。あなた一人を守るために、どれだけ余計な力を使わされていると思っているのですか」
「エレナさん……?」
「お荷物ですわ」
その一言は、静かだった。
だからこそ、深く刺さった。
「あなたを抱えていては、勝てる戦いも勝てません。ですから、早く消えてくださいませ」
シルヴィアの目から、涙がこぼれた。
違う。
違うと言ってほしかった。
冗談だと、怒鳴ってほしかった。
けれど、エレナは微笑み続けている。
その指先が震えていることに、シルヴィアは気づけなかった。
レインが、割れた眼鏡の奥からシルヴィアを見た。
彼の杖には、もう深いひびが入っていた。足元には、血が落ちている。それでも彼は、淡々とした声を作った。
「合理的に考えれば、君を逃がすのが最善だ」
「レイン……」
「いや、違うな」
レインは、唇を歪めた。
「君がここにいること自体が、最も非効率だ」
シルヴィアの呼吸が止まった。
「私たちは君を守るために、動きを制限されている。判断が遅れる。力が分散する。結果として、全員が死ぬ」
レインは、杖を握る手に力を込めた。
「だから、消えてくれ」
その声は冷たかった。
冷たく聞こえるように、必死に作られていた。
でも、シルヴィアには分からなかった。
分かる余裕などなかった。
「……そんな」
シルヴィアの声は、かすれていた。
世界が遠ざかる。
さっきまで、三人は自分を守ってくれていたはずだった。
ガルドは背中で攻撃を受け止めた。
エレナは光を砕かれながらも、自分を庇った。
レインは杖を割られそうになりながら、道を作ろうとしていた。
なのに、今は全員が同じことを言っている。
邪魔だ。
足手まといだ。
消えろ。
胸の中で、何かが崩れた。
「違う……私は……」
シルヴィアは、アランの腕の中で首を振った。
「私は、みんなと……」
アランの腕に力がこもった。
彼は、三人の言葉が嘘だと分かっていた。
分かってしまっていた。
ガルドの背中が震えている。
エレナの微笑みが、今にも崩れそうになっている。
レインの瞳が、血を吐くほどの痛みに耐えている。
あいつらは、シルヴィアを傷つけるために言っているのではない。
シルヴィアに、生きる理由を残すために言っている。
恨んでもいい。
嫌ってもいい。
裏切られたと思ってもいい。
それでも、生きろ。
その願いだけを、言葉の裏に隠している。
「……くそ」
アランは、奥歯を噛みしめた。
血の味がした。
抱えたシルヴィアを離したい。
戻りたい。
三人の横に立ちたい。
いつものように馬鹿みたいに笑って、「みんなで帰るぞ」と言いたい。
でも、それを選べば、シルヴィアは死ぬ。
ガルドたちが命を削って作った数秒が、無駄になる。
「アラン!」
レインが叫んだ。
「今だ!」
アランは懐から、古びた巻物を引き抜いた。
緊急用に持っていた、離れた場所へ飛ぶための巻物。
本来なら五人全員を逃がすためのものだった。
だが、魔王の力が空間を歪めている。今の状態では、二人を運ぶのが限界だった。
アランと、シルヴィア。
それだけだった。
「嫌……!」
シルヴィアは、アランの胸を叩いた。
「やめて! 置いていかないで! みんなが、みんながまだ――」
「シルヴィア」
アランの声が、耳元で震えた。
「生きろ」
巻物が裂けた。
青白い光が、二人を包み込む。
シルヴィアの視界が滲む。
その向こうで、ガルドが立っていた。
血だらけの顔で、歯を見せて笑っていた。
エレナが、聖典を胸に抱き、いつものように優雅な仕草で小さく手を振った。
レインが、割れた眼鏡の奥で、静かに頷いた。
さよならではない。
行け。
そう言っている顔だった。
けれど、その本当の意味を、今のシルヴィアは受け取れなかった。
「いやあああああっ!」
叫び声は、青白い光に飲み込まれた。
最後に見えたのは、三人の背中だった。
そして、その奥で退屈そうに立つ魔王の影。
光が弾ける。
深淵の底の冷たい空気が、遠ざかっていく。
シルヴィアの胸元で、手帳が強く揺れた。
まだ温かい記憶だけを抱えたその手帳は、これから書かれる最後の言葉を、まだ知らない。
* * *
転移の光が弾けた。
次の瞬間、シルヴィアの体は冷たい地面へ投げ出されていた。
肺の中の空気が、苦しいほど一気に抜ける。
頬に触れたのは、湿った石ではなかった。
乾いた土。
冷たい風。
霊廟の外だった。
目の前には、黒い口を開けた深淵の霊廟の入口がある。空は鉛色に曇り、山の向こうから吹き下ろす風が、枯れ草を低く揺らしていた。草の葉が擦れ合う音が、さわさわではなく、かさかさと乾いて聞こえる。
ここには、魔王の重圧はない。
血の匂いも、焼けた石の匂いも、耳を裂く破壊音もない。
ただ、風だけがあった。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
「……みんな」
シルヴィアは、震える手で地面を押した。
立ち上がろうとする。
だが、足に力が入らない。転移の反動か、恐怖のせいか、自分でも分からなかった。
胸元から、アランに託された手帳が滑り落ちる。
それが土の上に落ちる音を聞いて、シルヴィアははっとした。
手帳。
昨日の夜、アランが渡してくれたもの。
これからの旅を書くはずだったもの。
「戻らなきゃ……」
シルヴィアは手帳へ手を伸ばした。
その指先を、血に濡れた手が先に拾い上げた。
アランだった。
彼は、片膝をついていた。
顔は青白く、左腕は動かない。右手には、折れかけた聖剣が握られている。血が指先から落ち、乾いた土に黒い点を作っていた。
「アラン……戻ろう。みんなが、まだ中に……」
「分かってる」
アランの声は、ひどく掠れていた。
それでも、その目だけはまだ死んでいなかった。
「だから、俺が戻る」
シルヴィアは、息を止めた。
「何を……言ってるの……?」
「あいつらは、まだあそこにいる」
アランは、霊廟の入口を見た。
その黒い闇の奥に、仲間たちの姿を見ているようだった。
「助けに行く」
「私も行きます!」
「だめだ」
即答だった。
シルヴィアは首を振った。
「嫌です。嫌です! だって、みんな……みんな、私のせいで……!」
「違う」
アランは短く言った。
その声には、鋭い痛みがあった。
「お前のせいじゃない」
「でも、みんなが……邪魔だって……足手まといだって……」
言葉にした瞬間、胸が裂けそうになった。
ガルドの声。
エレナの微笑み。
レインの冷たい視線。
全部が、今も耳の奥で響いている。
アランは、唇を噛んだ。
言いたかった。
あれは嘘だと。
あいつらは、お前を生かすために、わざと嫌われる言葉を選んだのだと。
けれど、今それを言えば、シルヴィアは必ず戻ろうとする。
泣き叫んでも、這ってでも、あの闇の中へ向かう。
それでは、ガルドたちが命を削って作った時間が無駄になる。
アランは、手帳を握りしめた。
「シルヴィア」
彼は、できるだけ穏やかに言った。
「ここで待ってろ」
「嫌です……」
「俺は、あいつらを連れて帰る」
それは、嘘ではなかった。
アランはまだ、諦めていなかった。
聖剣が折れかけていても。
片腕が使えなくても。
体中から血が流れていても。
彼はまだ、仲間を助けるつもりでいた。
「待ってろ。必ず戻る」
シルヴィアは、アランの服を掴んだ。
「じゃあ、私も――」
「生きろ」
その一言に、シルヴィアの手が止まった。
アランは、彼女の荷物から予備の鉄剣を引き抜いた。
何の飾りもない、ただの鉄剣。
いつかシルヴィアが「念のため」と荷物に入れていたものだった。
アランは折れかけた聖剣を脇に抱え、予備の鉄剣を右手に握った。
手帳も、懐へしまう。
「アラン……お願い……行かないで……」
シルヴィアの声は、もう叫びにもならなかった。
アランは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まると分かっていたから。
「ごめんな」
それだけを残して、彼は霊廟の闇へ戻っていった。
シルヴィアは、立ち上がろうとした。
だが、体が動かない。
転移の反動で手足に力が入らず、地面に指を立てることしかできなかった。
風が吹く。
枯れ草が揺れる。
遠ざかるアランの足音が、黒い入口の奥へ消えていく。
「いや……いやぁ……」
シルヴィアは、地面に額をつけて泣いた。
霊廟の闇は、彼女の声を何も返さず飲み込んでいった。
* * *
アランが最下層へ戻った時、玉座は空だった。
魔王の姿は、もうなかった。
どうして消えたのか。
ガルドたちが何かをしたのか。
ただ興味を失って去ったのか。
それとも、あの存在は最初からそういうものだったのか。
アランには分からなかった。
分かったのは、ただひとつ。
間に合わなかった、ということだけだった。
ガルドは、床に膝をついたまま動かなくなっていた。
鉄の手甲は砕け、腕は血で赤黒く染まっている。それでも、彼の体は入口の方を向いていた。最後まで、シルヴィアが逃げた方向を守ろうとしていたように。
エレナは、聖典を胸に抱いて倒れていた。
血に染まった指先が、まだ本を離していなかった。彼女の顔には、苦しみの跡が残っている。けれど、その口元には、ごくわずかな微笑みがあった。
レインは、折れた杖のそばにいた。
割れた眼鏡は床に落ち、片手は最後まで何かを書こうとするように、石床へ伸びていた。
「……おい」
アランは、よろめきながら近づいた。
「冗談だろ」
返事はない。
「起きろよ、ガルド。お前、筋肉は倒れないんじゃなかったのかよ」
血に濡れた手で、ガルドの肩を揺らす。
動かない。
「エレナ。治療費なら払うからさ。起きろよ」
エレナは、聖典を抱いたまま眠っている。
「レイン。こういう時こそ、難しい理屈で何とかするんだろ……」
レインの杖は、折れていた。
アランの膝が、石床に落ちた。
音は、驚くほど小さかった。
「……なんだよ」
声が震えた。
「助けに来たんだぞ」
誰も答えなかった。
アランは、片腕で顔を覆った。
涙は出なかった。
涙より先に、喉の奥が焼けるように痛かった。
叫びたかった。
でも、声が出なかった。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
このままにはできない。
それだけが、残った。
アランは、動かない体を引きずるようにして、土を集めた。
砕けた床の隙間。
崩れた壁の下。
どこかから流れ込んでいた古い土。
片腕だけで掻き集めるには、あまりにも少なすぎて、あまりにも重かった。
それでも、アランはやめなかった。
何度も倒れた。
血が床に落ちた。
折れた聖剣の残骸が、足元で鈍い光を失っていく。
それでも、彼は三つの墓を作った。
ガルドの墓には、砕けた鉄の手甲を置いた。
エレナの墓には、血に濡れた聖典を置いた。
レインの墓には、折れた杖を置いた。
どれも、彼らが最後まで手放さなかったものだった。
そして、三つの墓の前に、シルヴィアの荷物から持ち出した予備の鉄剣を突き立てた。
飾りもない。
特別な力もない。
けれど、それでよかった。
今ここに必要なのは、勇者の象徴ではなかった。
ただ、仲間たちを見送るための印だった。
アランは、懐から手帳を取り出した。
革の表紙は血で濡れていた。
昨日まで、そこには笑い話ばかりが書かれていた。
アランの下手な歌。
エレナの金の話。
ガルドの筋肉。
レインの長い話。
シルヴィアのスープ。
ずっと続けばいいと、シルヴィアが書いた夜。
アランは、震える手でページを開いた。
字を書く手が、うまく動かない。
血で指が滑る。
それでも、書いた。
シルヴィアへ。
ガルドたちが言ったことは、全部嘘だ。
あいつらは、お前を逃がすために、わざと嫌われるようなことを言ったんだ。
「邪魔だ」「消えろ」って突き放せば、お前はあいつらを恨んででも、生き延びてくれると思ったんだ。
アランは、何度も息を止めた。
文字が歪む。
紙が滲む。
それでも、書いた。
俺も、お前を一人にしてごめん。
俺は、あいつらを助けに戻った。
でも、間に合わなかった。
だから、せめて墓を作った。
あいつらを、こんな冷たい場所にそのまま置いていくことだけは、できなかった。
俺たちは、ずっと一緒だ。
アランは、三つの墓を見た。
ガルド。
エレナ。
レイン。
つい昨日まで、同じ部屋で馬鹿みたいに笑っていた仲間たち。
あいつらの墓は、俺が守る。
寂しがり屋の連中だからな。
俺もすぐに、そっちへ行って酒でも飲むさ。
最後のページに、彼は力を込めて書いた。
ありがとう。楽しかった。
生きてくれ。
俺たちの、最高の荷物持ち。
書き終えた時、アランの手はほとんど動かなくなっていた。
彼は手帳を革袋に戻し、荒縄で予備の鉄剣の柄へ強く結びつけた。
ほどけないように。
誰かがいつか見つけてくれるように。
シルヴィアへ、この言葉が届くように。
結び終えると、アランは三つの墓の前に座り込んだ。
砕けた聖剣の残骸が、足元に散らばっている。
予備の鉄剣は、静かに立っている。
青白い光が、三つの墓を照らしていた。
「……悪い」
アランは、掠れた声で呟いた。
「遅くなった」
返事はなかった。
けれど、どこかでガルドが笑ったような気がした。
エレナが呆れたようにため息をつき、レインが「非効率だ」と文句を言ったような気がした。
アランは、少しだけ笑った。
「だよな」
彼は、三つの墓に向かって頭を垂れた。
「待たせたな」
その後、勇者アランがどうなったのかを、知る者はいない。
ただ、深淵の霊廟の最下層には、三つの墓と、一本の予備の鉄剣が残された。
そして、その柄には、血に濡れた手帳が結ばれていた。
いつか、シルヴィアへ本当の言葉が届くことを願うように。
* * *
霊廟の外で、シルヴィアは泣き続けていた。
風は冷たく、空は暗かった。
どれほど待っても、誰も戻ってこなかった。
アランも。
ガルドも。
エレナも。
レインも。
誰も。
最後に彼女の耳に残ったのは、仲間たちが投げつけた冷たい言葉だけだった。
邪魔だ。
足手まといだ。
消えてくれ。
それが嘘だと知る手帳は、アランと共に闇の奥へ戻ってしまった。
だから、シルヴィアは知らなかった。
ガルドが最後まで入口を守るように倒れたことを。
エレナが聖典を抱きしめたまま、彼女を守る光を放とうとしていたことを。
レインが折れた杖のそばで、それでも道を残そうとしていたことを。
アランが、仲間を助けるために戻り、間に合わなかった悔しさの中で、三つの墓を作ったことを。
そして、血に濡れた手帳に、彼女への本当の言葉を残したことを。
それを知るのは、ずっと先のこと。
数十年後。
ひとりの少年が、仲間たちと共に深淵の霊廟へ入り、その手帳を持ち帰る日まで。
この日、勇者パーティの旅は終わった。
シルヴィアの時間も、ここで止まった。
けれど、終わったはずの言葉は、消えなかった。
青白い光の底で、予備の鉄剣に結ばれた手帳が、静かに待ち続けていた。
いつか、彼女を救うために。




