第64話:深淵の理不尽と、崩れた日常 〜倒れゆく巨木は、足元の若芽へ光を譲るための道である〜
季節という概念が、そこにはなかった。
「深淵の霊廟」の内部。
地上では冬の始まりを告げる木枯らしが吹いているはずだが、地下深くへと続くこの石造りの回廊には、時間そのものが凍りついたような、無機質な冷気だけが満ちていた。
一行は、黙々と階段を下り続けていた。
カツ、カツ、という足音が、暗闇の奥へと吸い込まれていく。
松明の炎がチロチロと揺れ、壁面に巨大な影を躍らせる。その影はまるで、侵入者をあざ笑う亡霊の手招きのように見えた。
「……深いな」
先頭を行くアランが、ポツリと呟いた。
その声は短く、固かった。
もう何時間、下り続けているだろうか。あるいは何日か。
奇妙なことに、敵の姿は一つもなかった。罠の発動もない。
ただひたすらに続く、黒い石の階段と、深くなるにつれて濃密さを増していく瘴気。
ねっとりと肌にまとわりつく空気は、呼吸をするたびに肺の内側を腐らせていくような不快感があった。
「……静かすぎますわ」
エレナが胸元の聖印を握りしめる指が、白くなっている。
「まるで、私たちを『招き入れている』ような……」
レインが眼鏡の位置を直すが、その指先は微かに震えていた。
「魔力濃度が致死圏内に入りつつある。これほどの瘴気を放つ発生源……ただ事ではないぞ」
ガルドでさえ、口を閉ざしていた。
彼の野生の勘が、全身の毛を逆立てて警告しているのだ。
『ここから先は、生物の領域ではない』と。
それでも、彼らは足を止めなかった。
勇者としての使命感か、あるいは単なる意地か。
引き返すには、あまりにも深く潜りすぎてしまっていた。
そして。
巨大な黒鉄の扉の前にたどり着いた時、アランは一度だけ振り返った。
最後尾にいるシルヴィアと目が合う。
彼は、いつものニカっとした笑顔を作ろうとして――うまく笑えずに、ただ短く頷いた。
「開けるぞ」
重い金属音が響き、扉がゆっくりと開かれる。
その瞬間。
世界が、反転した。
***
「……ようこそ」
広大なドーム状の空間。
その最奥にある闇の玉座に、"それ"は座っていた。
人型をしていた。言葉も発した。
だが、それを「人間」と呼ぶことは、太陽を「焚き火」と呼ぶほどに愚かな誤認だった。
圧倒的な「個」。
そこにただ座っているだけで、周囲の空間が歪み、光が屈折し、生命活動が強制的に停止させられそうになる、絶対的な捕食者のオーラ。
魔王。
三百年前に封印されたはずの、災厄の王。
「な、なぜここに……!?」
レインの声が裏返る。
「封印は解かれていないはずだ! なぜ実体化している!?」
魔王は答えなかった。
退屈そうに頬杖をついたまま、羽虫でも払うかのように、人差し指を軽く動かしただけだった。
ドォォォォォン!!!!
説明も、詠唱も、宣戦布告もなかった。
ただの、純粋な「重力魔法」。
それだけで、人類最強と呼ばれた勇者パーティ全員が、巨大な見えざる手によって押し潰されたように、石床に叩きつけられた。
「ぐぁっ……!」
「きゃああっ!」
ガルドが呻く。岩をも砕く筋肉を持つ彼が、地面に縫い付けられたようにピクリとも動けない。骨が軋む音が聞こえる。
エレナが即座に防御結界を展開するが、それは展開された瞬間に、薄氷のようにパリンと砕け散った。
「……少しは遊べるかと思ったが、期待外れか」
魔王が、ゆっくりと立ち上がった。
その動作一つで、重圧がさらに増す。
そこからは、戦いではなかった。
一方的な、蹂躙だった。
「うぉぉぉぉぉっ!!」
アランが咆哮と共に、重力を振り切って突撃する。
聖剣エクスカリバーが黄金の光を放つ。山をも両断する、神速の一撃。
だが。
パシィ。
乾いた音がした。
魔王は、聖剣の刃を、素手で掴んでいた。
血の一滴も流れていない。
「遅い」
一蹴。
ただの前蹴りが、アランの腹部に深々と突き刺さる。
内臓が破裂するような鈍い音。
アランの体はボールのように吹き飛び、数十メートル後方の石壁に激突した。
「アラン!!」
シルヴィアの悲鳴が響く。
通じない。
何もかもが。
レインの放つ極大魔法は、魔王の障壁に触れる前に霧散した。
ガルドの渾身のタックルは、指一本で止められ、逆に腕をへし折られた。
エレナの祈りは、神に届く前に闇に飲まれた。
彼らが積み上げてきた努力も、経験も、絆も。
昨夜語り合った夢も、未来への希望も。
この圧倒的な「理不尽」の前では、雨に濡れた紙切れのように無力だった。
「思い通りにならない(一切皆苦)」。
仏教が説くこの世の残酷な真理が、物理的な質量と殺意を持って、彼らの日常を粉々に砕いていく。
***
一時間後。
もはや、立っている者はいなかった。
広いドームの床は、無惨に破壊され、あちこちに血だまりができていた。
ガルドは右腕と肋骨を折られ、白目を剥いて気絶していた。
レインは魔力枯渇を起こして吐血し、膝をついて震えている。眼鏡は割れ、自慢の魔導書は引き裂かれている。
エレナは聖衣を赤く染め、それでも必死に「ヒール……ヒール……」と唱えようとしているが、指先に光は灯らない。
そして、アランは。
彼は、左腕を失っていた。
肩口から先がない。鮮血がドクドクと流れ出し、床を濡らしている。
右手に握られた聖剣は、無残にも刀身の半ばから折れ、光を失っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
アランは、折れた剣を杖代わりにして、ふらりと立ち上がった。
足が震えている。失血で視界が霞んでいるはずだ。
それでも、彼の瞳の光だけは、まだ消えていなかった。
けれど、悟っていた。
本能が、魂が、理解してしまっていた。
「勝てない」。
「全滅する」。
このまま戦えば、あと数分で全員死ぬ。
確実に。例外なく。
アランは、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、入り口付近でへたり込んでいるシルヴィアがいた。
彼女だけは、無傷だった。
服は汚れているが、血は流していない。
なぜなら。
ガルドが、レインが、エレナが、そしてアランが。
魔王の攻撃が彼女に向かうたびに、自分の体を盾にして防いだからだ。
攻撃を捨てることになっても、回避を諦めることになっても、彼女だけは守り抜いたからだ。
なぜなら、彼女は「荷物持ち」だから。
戦闘力のない、ただの守られるべき存在だから。
そして何より――彼らの「日常」の象徴であり、帰るべき場所そのものだから。
アランとシルヴィアの目が合った。
シルヴィアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
アランの顔が、苦痛に歪んだ。
傷が痛いからではない。
これから下さなければならない決断が、あまりにも残酷で、身を切られるように辛かったからだ。
でも、リーダーとして。
勇者として。
いや、一人の男として、選ばなければならない。
「……シルヴィア」
アランの声が、静寂のドームに響いた。
それは、命令でも、悲鳴でもなく、ただの呼びかけだった。
「作戦変更だ」
彼は、残った右腕で、折れた聖剣を構え直した。
ボロボロの体から、最後の生命力を燃やすような、黄金色の闘気が立ち昇る。
それは、勝利のための輝きではない。
仲間を生かすための、送り火のような輝き。
「敵の殲滅じゃない。『撤退戦』だ」
それは、勇者が初めて選んだ「敗走」だった。
世界を救うことよりも、名誉を守ることよりも。
たった一人の、愛する仲間を生かすことを選んだ、究極のエゴイズム。
魔王が、愉しげに嗤った。
「ほう。逃げられると思っているのか? この絶望から」
「思ってねえよ」
アランも笑った。
血だらけの顔で。
いつものように、ニカっと。
「俺たちは、ここでお前を止める。……その間に、あいつだけは逃がす」
これが、数十年後の未来でアリスが言った「強制イベント」の正体。
そして、瞬が「魔王はいなかった」と報告した理由。
魔王は去ったのではない。
彼らが、自分たちの命と引き換えに、ここで食い止めたのだ。
「逃げる」という選択肢を捨てて、「守る」という一点にすべてを賭けたのだ。
日常が、音を立てて崩れていく。
昨夜の馬鹿騒ぎ。温かいスープの味。未来への約束。
それら全てが、深淵の闇の中に飲み込まれていく。
アランは、背中で語った。
(行け、シルヴィア。生きてくれ)
その背中は、今まで見たどんな時よりも大きく、ボロボロで、そしてどうしようもなく寂しげだった。
それは、終わらないはずだった青春の、唐突な幕切れの合図だった。




