第63話 秋の予感と、書き留められた言葉 〜残した言葉は、明日をつなぐものである〜
秋の風が、街道を静かに渡っていた。
夏の熱は、いつの間にか遠ざかっていた。道端の草はところどころ黄金色に変わり、踏みしめるたび、靴底の下で乾いた葉が小さく砕ける。
かさり。
かさり。
その音が、妙に耳に残った。
空は高く澄んでいる。薄い雲が細く流れ、青の奥には冷たい色が混じっていた。風が吹くたび、草の穂が一斉に揺れ、乾いた葉擦れの音が旅人たちの足元を追いかける。
勇者パーティの足取りは、いつもより静かだった。
アランは先頭を歩いていた。
赤い髪が秋の光を受け、鈍く燃えるように揺れている。背中には聖剣。いつもなら、腹が減っただの、次の街で肉を食うだの、くだらないことを真っ先に言い出す男だった。
けれど今日は、あまり喋らない。
手には、一枚の依頼書が握られている。
深淵の霊廟。
辺境の山脈奥で見つかった、未踏の古代遺跡。
調査依頼。
紙に書かれているのは、それだけだった。
これまでにも危険な遺跡はいくつも越えてきた。巨大な魔物も、古い罠も、理不尽な依頼も、泥だらけになりながら笑い飛ばしてきた。
それでも、今回は何かが違った。
「……嫌な場所だな」
アランが、ぽつりと言った。
誰もすぐには返さなかった。
エレナは聖典を胸に抱え、いつもより強く指を添えている。普段なら報酬額を真っ先に確認している彼女が、今日は依頼書の金額に一度も触れていない。
「朝から、胸のざわつきが消えませんわ」
エレナは低い声で言った。
「こういう日は、だいたい良くないことが起こりますの」
レインは眼鏡の奥から依頼書を見つめていた。
片手には古い杖。
もう片方の手には、現地周辺の資料。
「周囲の記録が少なすぎる。見つかったばかりの遺跡にしても、不自然だ。誰かが意図的に隠していた可能性もある」
ガルドは鉄の手甲を鳴らし、拳を握った。
「難しいことは分からん。だが、俺の体も言っている。ここから先は、いつもの道とは違うとな」
「体は喋りません」
シルヴィアはいつものように返した。
けれど、その声にも力はなかった。
彼女は四人の背中を見つめた。
アランの聖剣。
エレナの聖典。
レインの杖。
ガルドの鉄の手甲。
いつも見ているものだった。
旅の中で、何度も手入れしてきたものだった。
なのに今日は、そのひとつひとつが、なぜか目に焼きついた。
忘れてはいけない。
そんな気持ちが、胸の奥に沈んでいた。
「大丈夫だ」
アランが振り返った。
その笑顔は、いつも通りだった。
少なくとも、そう見せようとしていた。
「俺たちは最強だ。何があっても、俺が絶対に守る。お前も、エレナも、ガルドも、レインも。全員だ」
シルヴィアの胸が、小さく鳴った。
その言葉に、嘘はなかった。
アランは本気でそう信じていた。
どんな敵が現れても、どんな場所へ踏み込んでも、五人で帰れる。自分が聖剣を握っている限り、大切なものは全部守れる。
そう信じている声だった。
だからこそ、シルヴィアも頷いてしまった。
「……はい」
風が吹いた。
乾いた草が波のように揺れ、依頼書の端がかすかに震える。
その返事が、のちにどれほど胸を締めつける記憶になるのか。
この時のシルヴィアは、まだ知らなかった。
* * *
その夜、一行は宿場町の外れにある小さな宿に泊まった。
古い木造の宿だった。
廊下を歩くと床板がきしみ、窓枠は少しだけ歪んでいる。けれど、部屋には清潔な毛布があり、暖炉には小さな火が灯っていた。
外では秋風が吹いている。
窓が、かたかたと鳴った。
シルヴィアは部屋の隅で荷物の点検をしていた。
保存食。
薬草。
包帯。
水袋。
替えの靴紐。
予備の鉄剣。
いつも通りの作業のはずだった。
けれど、今日は指先が少し震える。
小瓶同士が触れ合い、かちりと音を立てた。
その小さな音に、シルヴィアは自分でも驚くほど肩を跳ねさせた。
「……落ち着いて」
小さく呟く。
怖い。
はっきりした理由はない。
でも、明日あの遺跡へ入ったら、何かが変わってしまう気がした。
戻ってきても、もう今までと同じではいられないような。
そんな嫌な予感が、胸の奥で息を潜めていた。
コンコン。
控えめなノックがした。
「シルヴィア、起きてるか?」
アランの声だった。
「起きています。どうぞ」
扉が開き、アランが入ってきた。
戦闘服ではない。薄いシャツに、簡単な上着を羽織っただけの姿だった。赤い髪は少し乱れていて、勇者というより、幼馴染の気安さの方が強く見える。
「まだ荷物の点検か?」
「明日は大事な依頼ですから」
「お前、心配性だよな」
「あなたたちが心配させるんです」
「それは否定できねぇ」
アランは苦笑し、部屋の椅子にどかりと座った。
暖炉の火が、彼の横顔を橙色に照らしている。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
外の風。
暖炉の薪が弾ける音。
遠くの部屋から聞こえる、エレナたちの話し声。
そのすべてが、今夜だけ妙にやさしく聞こえた。
アランは懐から一冊の手帳を取り出した。
革張りの、使い込まれた手帳だった。
角は擦り切れ、表紙には細かな傷がある。何度も旅の中で取り出され、書かれ、またしまわれてきたものだと分かる。
「これ、やるよ」
アランは、それをシルヴィアの前に置いた。
「……何ですか?」
「俺の冒険日誌」
シルヴィアは目を瞬かせた。
「あなた、日誌なんて書いていたんですか?」
「失礼だな。書いてたぞ」
「読める字で?」
「そこが問題なんだよ」
アランは、少し気まずそうに鼻の下をこすった。
「俺の字、ひどいだろ」
「はい」
「即答かよ」
「はい」
「二回言うな」
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
アランは笑ったが、すぐに表情を静かにした。
「だからさ。これからは、お前が書いてくれないか」
シルヴィアは、手帳を見つめた。
「私が?」
「ああ」
アランは頷いた。
「俺たちの旅のこと。馬鹿やったこと。喧嘩したこと。お前のスープがうまかったこと。ガルドが宿の扉を壊したこと。レインが毒草を食べかけたこと。エレナが報酬を増やそうとして失敗したこと」
「ろくな内容がありませんね」
「そういうのが大事なんだよ」
アランは、少しだけ声を落とした。
「戦った記録なんか、他の誰かが勝手に残す。勇者が何を倒したとか、どれだけ強かったとか、そういうのは、あとでいくらでも書かれる」
彼は、手帳の表紙を指で軽く叩いた。
「でも、俺たちが何を食って、何で笑って、どんなことで喧嘩して、どうやって仲直りしたかは……俺たちしか知らないだろ」
シルヴィアは、何も言えなかった。
アランの声は穏やかだった。
けれど、その奥に、言葉にしきれない不安があることに気づいてしまった。
「忘れたくないんだ」
アランは、ぽつりと言った。
「この旅が、最高に楽しいってことを」
暖炉の火が、ぱちりと弾けた。
シルヴィアの胸の奥で、何かが小さく震えた。
シルヴィアは、ゆっくりと手帳へ手を伸ばした。
革の表紙には、旅の匂いが染みついていた。
焚き火の煙。
土埃。
雨に濡れた革の匂い。
そして、ほんの少しだけ、アランの匂い。
角は擦り切れ、表紙には細かな傷がいくつも残っている。きっと戦いの合間にも、野宿の夜にも、宿屋の片隅でも、彼はこの手帳を開いていたのだろう。
シルヴィアは表紙をめくった。
中には、アランの字が並んでいた。
いや、並んでいたと言っていいのか迷うほど、文字は暴れていた。曲がり、跳ね、崩れ、ところどころ自分で書いた本人でさえ読めないのではないかと思うほど乱れている。
それでも、そこには確かに彼らの日々があった。
雨宿りのスープが薄かったこと。
ガルドが腕相撲で机を割ったこと。
エレナが値切り交渉で店主を泣かせたこと。
レインが歩きながら寝て、木に額をぶつけたこと。
そして、シルヴィアが熱を出した日の記録。
――シルヴィアが倒れた。飯がまずい。みんな静かで変だ。早く治れ。あいつがいないと、旅が旅じゃない。
その一文で、シルヴィアの目元が熱くなった。
「……字は、ひどいです」
「そこはもう言わなくていいだろ」
「でも」
シルヴィアは、手帳を胸に抱いた。
「ちゃんと、残っていますね」
アランは、少し照れくさそうに笑った。
「だから、お前に頼みたいんだ」
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
外の風が窓を鳴らした。
「俺が書くと、あとで読めねぇ。でも、お前ならちゃんと残せる。俺たちがどんなふうに旅して、どんな馬鹿をやって、どんなことで笑ってたのか。そういうのを、ちゃんと」
「……明日も、明後日も、書けますよね」
シルヴィアは、自分でも驚くほど小さな声で言った。
アランは一瞬だけ黙った。
けれど、すぐにいつもの笑顔を作った。
「ああ。書けるさ」
その声は優しかった。
優しすぎて、シルヴィアの胸はかえって痛くなった。
「俺たちは最強だからな」
昼間と同じ言葉。
けれど、今度は少しだけ静かだった。
シルヴィアは、その言葉にすがるように頷いた。
「分かりました」
彼女は手帳を大切に閉じた。
「これからは、私が書きます。あなたの字では、後世に残る前に私たちが解読できませんから」
「結局そこに戻るのかよ」
「大事なことです」
アランが笑った。
シルヴィアも、少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうから、どたどたと騒がしい足音が近づいてきた。
「見つけましたわ!」
勢いよく扉が開いた。
入ってきたのはエレナだった。片手に酒瓶、もう片方にはいつもの聖典を抱えている。
「明日は大仕事ですもの。景気づけが必要ですわ」
「酒を持ってくる聖女ってどうなんだよ」
「祈りにも潤いは必要ですの」
続いて、ガルドが大きな包みを抱えて入ってきた。
「干し肉を持ってきたぞ! 筋肉の夜食だ!」
「夜食まで筋肉基準にしないでください」
最後に、レインが寝巻きの上に外套を羽織った姿で現れた。
「静かに寝るつもりだったが、廊下が騒がしすぎた。どうせ眠れないなら参加する」
「要するに飲みたいんですね」
「否定はしない」
狭い部屋に、五人がそろった。
さっきまで胸の奥に沈んでいた不安が、少しだけ押し流される。
エレナが木の杯を並べる。
ガルドが干し肉を山のように広げる。
レインが暖炉のそばに座り込む。
アランは酒瓶を受け取り、シルヴィアはため息をつきながらも全員分の小皿を出した。
「明日は早いんですよ」
「分かってるって」
「分かっている人は、こんな時間に宴会を始めません」
「宴会じゃねぇ。作戦会議だ」
「酒瓶と干し肉がある作戦会議なんて聞いたことがありません」
「今できた」
シルヴィアは呆れた。
けれど、止めなかった。
今夜だけは、止めたくなかった。
秋風が窓を鳴らす。
暖炉の火が揺れ、壁に五人の影を映す。
杯が掲げられた。
アランが言う。
「明日の無事を願って」
エレナが微笑む。
「報酬の上乗せを願って」
「そこは無事だけでいいでしょう」
ガルドが笑う。
「筋肉の勝利を願って!」
レインが静かに杯を上げる。
「未知の解明を願って」
そして、アランがシルヴィアを見た。
「俺たちの旅が、ちゃんと続くように」
杯が触れ合った。
小さな音だった。
けれど、その音はシルヴィアの胸に深く残った。
それからの時間は、いつも通りだった。
アランは調子外れの歌を歌い、エレナはその歌に採点料を請求しようとし、ガルドはなぜか腕立て伏せを始め、レインは酒に酔って長すぎる話を語り始めた。
シルヴィアは笑いながら、それを手帳に書き留めた。
――明日は深淵の霊廟へ向かう。みんな少し不安そうだった。でも、結局いつも通り騒いでいる。アランは歌が下手。エレナはお金の話ばかり。ガルドは夜中でも筋肉。レインは酔うと話が長い。私は、こんな時間がずっと続けばいいと思った。
書き終えたあと、シルヴィアはその最後の一文を見つめた。
ずっと続けばいい。
何気なく書いたはずの言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
夜が更けていく。
やがて、最初にガルドが眠った。鉄の手甲を抱えたまま、壁にもたれて大きないびきをかく。次にレインが本を抱えたまま寝落ちし、エレナは聖典を胸に抱いて、すました顔のまま眠りについた。
アランも横になった。
シルヴィアは毛布を四人にかけて回った。
「まったく……」
文句を言いながらも、口元は緩んでいた。
この部屋は狭い。
騒がしい。
片づいてもいない。
それでも、世界で一番安心できる場所だった。
シルヴィアも、手帳を胸に抱えたまま、椅子にもたれて目を閉じた。
* * *
深夜。
部屋の中で、ひとりだけ目を覚ましている者がいた。
アランだった。
彼は静かに身を起こし、仲間たちを起こさないように窓辺へ移動した。
月明かりが、赤い髪を淡く照らしている。
膝の上には、聖剣があった。
アランは布で、ゆっくりと刀身を拭いた。
一度。
また一度。
昼間の能天気な勇者ではない。
明日、すべてを背負って前に立つ者の手つきだった。
彼は眠っている仲間たちを見た。
聖典を抱くエレナ。
杖のそばで眠るレイン。
鉄の手甲を抱えたガルド。
そして、手帳を胸に抱いたシルヴィア。
アランの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……頼んだぞ、シルヴィア」
小さな声だった。
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
それは、手帳の続きを頼む言葉だったのか。
自分たちの帰る場所を守ってくれという願いだったのか。
それとも、もしもの時にも生きてくれという祈りだったのか。
アラン自身にも、分からなかったのかもしれない。
彼はもう一度、聖剣を拭いた。
月明かりが刀身に反射し、部屋の壁に細い光を走らせる。
その光は、眠る仲間たちの顔を一瞬だけ照らして、すぐに消えた。
明日、彼らは深淵の霊廟へ入る。
この五人で過ごす最後の夜が、静かに終わろうとしていた。
そして、シルヴィアの腕の中にある手帳は、まだ温かい記憶だけを抱えていた。
そのページが、いつか血に濡れた最後の言葉を受け止めることになるなど、誰も知らないまま。




