第62話 夏の嵐と、喧嘩するほど良い絆 〜ぶつかる声は、近づくための合図である〜
春の柔らかな光は、いつの間にか夏の強い日差しへ変わっていた。
山岳地帯へ向かう街道には、容赦ない太陽が照りつけている。乾いた道は白く焼け、踏みしめるたびに細かな砂埃が上がった。足元の草はしおれ、道端の小さな花も、昼の熱に負けて首を垂れている。
空は青い。
恐ろしいほど青い。
だが、その青さは爽やかではなかった。じりじりと肌を焼く光が、頭上からまっすぐ降り注ぎ、遠くの岩肌は熱で揺らめいて見える。耳の奥では、蝉の声が絶え間なく響いていた。
そんな道を、勇者パーティは歩いていた。
正確には、歩いているように見えるだけで、空気はかなり険悪だった。
「だから言っただろうが! さっきの分かれ道は右だったんだよ!」
勇者アランが、汗だくになりながら叫んだ。
赤い髪は額に張りつき、首筋には汗が流れている。背中の聖剣は陽を受けて光っていたが、本人の表情はまったく爽やかではなかった。
「右に行ったら崖だ」
賢者レインが、眼鏡を押し上げながら冷たく言った。
彼は片手に古い杖、もう片方に地図を持っている。だが、その地図は汗で少しふやけ、端が丸まっていた。
「風向き、影の角度、地形の流れ。すべて左を示していた。君の『なんとなくこっち』という判断よりは信頼できる」
「なんとなくじゃねぇ! 俺の勘だ!」
「その勘で、昨日は川に落ちただろう」
「浅かったから問題ない!」
「深かったら問題だった」
二人の声が、熱い道の上でぶつかった。
原因は、ほんの些細なことだった。
今日の夕飯に入れる予定のキノコを、アランが「うまそうだから全部鍋に入れよう」と言い、レインが「成分を調べるまで食材にするな」と止めた。
そこから話は広がった。
さっきの分かれ道。
昨日の寝床の位置。
アランのいびき。
レインが夜中に灯りをつけたまま本を読んでいた件。
最終的には、どちらの靴下の匂いがより人を遠ざけるかという、どうでもいい方向へ流れていた。
「そもそもお前は、難しいことばっかり言うわりに、肝心な時に迷うんだよ!」
「君は迷う以前に考えていない」
「考える前に体が動くんだ!」
「それを人は無謀と言う」
「それを人は勇気と言うんだよ!」
「都合のいい言葉に逃げるな」
シルヴィアは、二人の間で何度も手を上げた。
「あの、二人とも……暑いですし、少し落ち着いて……」
だが、声は届かない。
アランは聖剣の柄に手をかけ、レインも杖を握り直している。
こんなところで勇者と賢者が本気の喧嘩を始めたら、街道どころか周囲の岩山までただでは済まない。
シルヴィアの背中には、いつもの巨大な荷物があった。鍋も、毛布も、薬草も、予備の鉄剣も入っている。その重みが肩に食い込む。汗が首筋を伝い、襟元へ染みていく。
それでも彼女は、必死に前へ出た。
「アラン! レイン! 喧嘩は後にしてください!」
「後にしたら忘れる!」
「忘れた方が平和です!」
シルヴィアが叫んだ、その時。
後ろから、涼しげな声がした。
「あらあら。お二人とも元気ですわね」
聖女エレナだった。
彼女は白い日傘を差し、片手に聖典を抱えたまま、汗ひとつかいていないような顔をしている。首元には冷やした布まで巻いていた。
「その元気が余っているなら、私の荷物も少し持っていただけませんこと?」
「エレナさんも止めてください!」
「止める? どうしてですの? 怪我をしたら私が治しますわ。もちろん、喧嘩による治療は割増料金ですが」
「お金を取る前提で見守らないでください!」
さらに、後方から重い足音が響いた。
ガルドが、大きな岩を抱えて歩いていた。
両腕には、いつもの鉄の手甲。陽を受けた金属が、鈍く光っている。
「はっはっは! いい汗だ! 夏の太陽は筋肉を育てる!」
「ガルドさん、その岩は何ですか!」
「負荷だ!」
「今すぐ下ろしてください! 暑さで倒れます!」
「筋肉は倒れん!」
その瞬間、ガルドはくしゃみをした。
「……水を飲んでください」
「うむ」
シルヴィアは頭を抱えた。
強い。
確かに、この人たちは強い。
だが、強さとまともさは別のものだ。
そんなことを考えていると、遠くで低い音が鳴った。
ごろ、ごろ……。
腹の底を撫でるような雷鳴だった。
シルヴィアは空を見上げた。
さっきまで真っ白だった入道雲の底が、いつの間にか墨を流したように黒く染まっている。山の向こうから冷たい風が吹き下ろし、熱で乾いていた空気が急に湿り気を帯びた。
草がざわめく。
道端の細い葉が、一斉に裏返る。
土の匂いが濃くなった。
「……雨が来ます」
シルヴィアの声が、自然と鋭くなった。
「みんな、早く避難場所を――」
「こいつの眼鏡を割ってからだ!」
「君のその単純な頭を冷やしてからだ!」
「もうすぐ本当に冷えます!」
シルヴィアが叫んだ瞬間、空が割れた。
ざあっ、という生ぬるい音ではなかった。
どしゃあああああっ!
まるで空に溜まっていた水を、巨大な桶ごとひっくり返したような雨だった。
一瞬で視界が白くなる。
乾いていた道は泥へ変わり、足元の砂埃は黒い水に飲まれた。雨粒は痛いほど強く、肩を、額を、荷物を叩く。アランの赤い髪は一瞬でぺたりと潰れ、レインの眼鏡には水滴がびっしり張りついた。
「うわっぷ!」
「地図が!」
「聖典が濡れますわ!」
「筋肉の冷却にちょうどいい!」
「喜んでる場合じゃありません!」
シルヴィアは周囲を見回した。
雨で白く霞む視界の端に、岩陰が見えた。山道の脇に、浅い洞窟のような窪みがある。
「あそこ! 走って!」
その声だけは、全員に届いた。
アランが聖剣を押さえ、レインが地図を胸に抱え、エレナが聖典を布で包み、ガルドが岩を捨てる。
五人は、泥を跳ね上げながら岩陰へ駆け込んだ。
洞窟の中は薄暗く、湿った土の匂いがした。
入口の外では、雨が滝のように降り続いている。道はすでに泥の川になり、さっきまで燃えるようだった夏の光は、灰色の雨雲にすっかり隠れていた。
全員、ずぶ濡れだった。
アランは髪から水を滴らせ、レインは濡れた地図を半泣きで広げている。エレナは聖典が無事か何度も確認し、ガルドは「天然の水浴びだ」と胸を張っていた。
シルヴィアは、肩で息をしながら、背負っていた荷物を下ろした。
鍋が鳴る。
予備の鉄剣が、荷物の中で小さく揺れる。
その音を聞いた瞬間、彼女の中でまた何かが切れた。
雨音が、洞窟の中いっぱいに響いている。
その轟音に負けない声で、シルヴィアは叫んだ。
「全員、そこに正座してください!」
勇者も、聖女も、賢者も、戦士も。
世界最強の四人が、びくりと肩を震わせた。
* * *
洞窟の中には、雨音が満ちていた。
入口の外では、白い幕のような雨が絶え間なく落ちている。地面を叩く音、岩肌を流れる水の音、遠くで低く鳴る雷の音。それらが重なり、洞窟の奥までごうごうと響いていた。
その中で、世界最強の四人は正座していた。
勇者アランは、濡れた赤髪を額に貼りつかせたまま、気まずそうに視線を逸らしている。
聖女エレナは、聖典を布で包んで胸に抱え、表情だけは優雅を保とうとしていた。
賢者レインは、濡れた地図と杖を横に置き、眼鏡の水滴を拭いている。
戦士ガルドは、鉄の手甲を外し、膝の上に置いていた。さすがにくしゃみをした直後なので、少しだけ大人しい。
シルヴィアは、彼らの前に立った。
髪も服も濡れている。肩からは水滴が落ち、荷物の革紐は雨を吸って重くなっていた。それでも、彼女の目は誰よりも強かった。
「いい加減にしてください」
声は大きくなかった。
けれど、雨音よりもはっきり届いた。
「アラン。何でも勘だけで決めないでください。あなたの勘に助けられたことはあります。でも、全部それで押し通そうとしない」
「……はい」
「レイン。正しいことを言っていても、言い方が刺さりすぎます。相手を納得させたいなら、まず相手を怒らせないでください」
「……反省する」
「エレナ。治せるから喧嘩していい、ではありません。あと治療費を上乗せしようとしない」
「……状況によりますわ」
「エレナ」
「はい、しませんわ」
「ガルド。岩を持って歩くのは禁止です。あと暑い日に無茶をしない。水を飲む。服を着る」
「……うむ」
四人は、そろって肩を落とした。
シルヴィアは深く息を吐いた。
怒っている。
もちろん怒っている。
けれど、それ以上に心配だった。
この人たちは強い。けれど、強いからこそ無茶をする。自分が倒れることを、簡単に後回しにしてしまう。
だから、誰かが止めなければならない。
誰かが、水を飲めと言わなければならない。
誰かが、濡れた聖典を拭き、杖を乾かし、手甲の錆を防ぎ、解けた靴紐を結び直さなければならない。
「……分かったら、着替えてください。火を起こします。濡れたままだと風邪を引きます」
シルヴィアがそう言うと、アランが小さく手を上げた。
「シルヴィア」
「何ですか」
「腹減った」
「反省は!?」
「してる。してるけど腹も減った」
シルヴィアは額を押さえた。
洞窟の中に、エレナの小さな笑い声が響いた。
* * *
しばらくして、洞窟の中に小さな焚き火が生まれた。
濡れた枝ばかりで火を起こすのは大変だったが、レインが乾いた芯材を見つけ、エレナが布を一枚提供し、ガルドが岩で風よけを作り、アランが必要以上に薪を割った。
そして最後に、シルヴィアが火加減を整えた。
鍋の中では、薄くなってしまったスープが温め直されている。雨水が少し入ってしまい、味はいつもより淡かった。野菜も煮崩れている。
それでも、冷えた体には十分だった。
アランが椀を両手で包み、湯気を吸い込む。
「……うまい」
「薄いでしょう」
「でも、うまい」
アランは、素直に言った。
その横で、レインが眼鏡を拭きながら小さく咳払いした。
「……アラン」
「あ?」
「さっきは言いすぎた。君の勘に助けられたことも多い。それは認める」
アランは少し驚いた顔をした。
そして、ばつが悪そうに頭をかく。
「俺も悪かった。お前の言うこと、難しくて腹立つ時あるけど……だいたい当たってるしな」
「だいたい、ではなく高確率でだ」
「そこが腹立つんだよ」
二人は顔を見合わせた。
それから、同時に小さく笑った。
雨音はまだ強い。
けれど、洞窟の中の空気は少しずつ柔らかくなっていた。焚き火の橙色の光が、濡れた壁に揺れ、五人の影を丸く映している。
エレナは聖典を膝に置き、丁寧に布で拭いていた。
ガルドは手甲を火の近くに置き、錆びないように乾かしている。
レインの杖も、洞窟の壁に立てかけられていた。
それらは、今はただの持ち物だった。
大切に使われ、何度も手入れされ、旅を共にする道具。
それがいつか、冷たい墓の上に置かれることを、今の彼らは知らない。
アランが、ふと焚き火を見つめたまま口を開いた。
「なあ」
その声は、いつもより静かだった。
「魔王を倒して、世界が平和になったらさ。お前ら、何する?」
急な問いだった。
雨音だけが、しばらく答えのない空白を埋める。
最初に口を開いたのは、エレナだった。
「私は、王都に大きな癒やしの家を作りますわ」
「おお、聖女っぽい」
「もちろん寄付金箱は一番目立つ場所に置きますけれど」
「急にいつものエレナに戻ったな」
レインは、濡れた本を丁寧に閉じながら言った。
「私は研究所を持ちたい。旅で得た知識をまとめたい。危険な草も、魔物も、古代の術も、きちんと記録して後世に残す」
「その前に、毒草を吸おうとする癖を直してください」
「検討する」
「直してください」
ガルドは、鉄の手甲を掲げた。
「俺は鍛錬場を作る! 世界中の若者に、筋肉の素晴らしさを教えるのだ!」
「それは平和なんでしょうか」
「平和だ! 鍛えた筋肉は争いを遠ざける!」
「説得力があるようでないです」
笑いが起きた。
さっきまで喧嘩していたのが嘘のようだった。
けれど、シルヴィアは、その笑いの中で少しだけ胸が痛くなった。
平和になった後。
旅が終わった後。
みんな、それぞれの場所へ行くのだろうか。
この騒がしい時間は、いつか終わってしまうのだろうか。
「アランは?」
シルヴィアは尋ねた。
「勇者様は、平和になったら何をするんですか?」
アランは、椀の中のスープを飲み干した。
それから、焚き火越しにシルヴィアを見た。
「俺はさ」
雨音が、少しだけ遠くなった気がした。
「シルヴィアの淹れた茶を、毎日飲みたい」
シルヴィアの手が止まった。
「……は?」
エレナが口元を押さえた。
レインが眼鏡の奥で目を細めた。
ガルドがにやりと笑った。
アランは、まったく照れていないような顔で続けた。
「戦いが終わったら、日当たりのいい丘の上に家を建ててさ。朝起きて、お前の淹れた茶を飲んで、みんなで飯食って、たまに喧嘩して、また仲直りして」
焚き火の光が、彼の横顔を照らしていた。
「そういうのがいい」
シルヴィアの胸の奥が、熱くなった。
雨に濡れて冷え切っていたはずなのに、そこだけが不自然に熱かった。
「……私は、あなたの家政婦じゃありません」
ようやく絞り出した声は、少し震えていた。
「知ってる」
アランは笑った。
「でも、お前の茶が一番うまいんだよ」
「そんな理由で……」
「大事だろ」
アランは、いつものようににかっと笑った。
「俺にとっては、すげぇ大事だ」
シルヴィアは顔を伏せた。
焚き火の熱のせいにしてしまいたかった。
雨の湿気のせいにしてしまいたかった。
けれど、頬が熱い理由は、きっとそれだけではなかった。
「……考えておきます」
「お、前向き」
「調子に乗らないでください」
みんなが笑った。
洞窟の外では、まだ雨が降り続いている。激しい雨が世界を閉じ込め、五人だけの小さな時間を作っていた。
シルヴィアは、鍋に残ったスープをかき混ぜた。
薄くなって、少し煮崩れたスープ。
それでも、みんなで囲めば温かかった。
アランが椀を差し出す。
「おかわり」
「はいはい」
シルヴィアは、呆れたように笑いながらスープをよそった。
その光景は、何でもない一幕だった。
雨宿り。
喧嘩。
仲直り。
温かいスープ。
そして、いつか来るかもしれない未来の話。
けれど、数十年後。
冷たい執務室で一人、紅茶を飲むシルヴィアの胸には、この日の雨音と、アランの言葉が何度もよみがえることになる。
シルヴィアの淹れた茶を、毎日飲みたい。
叶わなかったその願いは、彼女の中で、ずっと消えない小さな火として残り続ける。
今はまだ、誰も知らない。
この温かな雨宿りが、いつか泣きたくなるほど眩しい記憶になることを。




