第61話 凸凹パーティと、最強の荷物持ち 〜足りないところを支える手は、剣より強いものである〜
春の光が、草原いっぱいに降り注いでいた。
王都から遠く離れた、北の大平原。
見渡す限りの緑が、風に押されてゆっくり波打っている。草の先に宿った朝露は、太陽の光を受けるたびに小さくきらめき、まるで地面に砕いた星を散らしたようだった。赤、黄、白、紫。名も知らない野花が風に揺れ、甘い香りをふわりと運んでくる。
空は高い。
薄い雲が、白い羽のように流れていた。
その美しい草原の真ん中を、五人の旅人が歩いていた。
後の世に、人族最強と呼ばれる勇者パーティ。
けれど、この時の彼らを見た者がいたなら、きっとこう思っただろう。
本当に世界を救う気があるのか、と。
「あー、腹減った」
先頭から少し外れた場所で、赤髪の青年が情けない声を上げた。
勇者アラン。
燃えるような髪に、不敵な目つき。背中には、伝説の聖剣がある。立っているだけなら、英雄画から抜け出してきたような男だった。
ただし今は、草の上に大の字で寝転がっていた。
「シルヴィアー、昼飯まだか? 俺、もう一歩も歩けない」
「朝ごはんを食べてから、まだ一時間も経っていません」
淡々と答えたのは、小柄な少女だった。
シルヴィア。
彼女の背中には、自分の体より大きいのではないかと思えるほど巨大な荷物が背負われていた。鍋、釜、保存食、毛布、薬草、予備の衣類、縄、油、簡易テント、替えの靴紐、そして一本の何の飾りもない予備の鉄剣。
それらが、信じがたいほどきっちり詰め込まれている。
荷物は重い。
肩紐は食い込む。
それでもシルヴィアは、眉間に皺を寄せながらも、必死に背筋を伸ばしていた。
「それと、アラン。靴紐が解けています」
「え? また?」
アランは寝転がったまま足元を見た。
左右の靴紐が、見事にほどけている。
しかも片方は、自分で踏んだのか、草の汁で緑色になっていた。
「結んでくれ、シルヴィア」
「自分で結んでください」
「無理だ。俺が結ぶと、なぜか団子になる」
「勇者なのに?」
「勇者にも向き不向きがある」
「靴紐を結ぶのに、向き不向きを持ち込まないでください」
シルヴィアは深いため息をついた。
それでも放っておけば、本当に転ぶ。
そして転んだ拍子に聖剣をどこかへ飛ばし、誰かの頭に当てる未来まで見えた。
シルヴィアは荷物を下ろし、膝をついてアランの靴紐を結び直した。
「はい。これで大丈夫です」
「おお、さすがシルヴィア。結び目が美しい」
「そんなところを褒められても嬉しくありません」
その時、背後から優雅な声が割り込んだ。
「あら、靴紐結び一回につき銀貨一枚くらいは請求してもよろしいのではなくて?」
日傘を差して歩いていた美女が、にこやかに微笑んでいた。
聖女エレナ。
柔らかな金髪に、慈愛に満ちた微笑み。胸元には清らかな印が下がり、片手には大切そうに聖典を抱えている。
見た目だけなら、誰もがひれ伏す聖女だった。
ただし、もう片方の手には、どこから取り出したのか請求書の束が握られていた。
「仲間からお金を取ろうとしないでください」
「労働には正当な対価が必要ですわ。靴紐結びも立派なお仕事ですもの」
「それを言うなら、私が今まであなたの洗濯を何回したと思っているんですか」
「まあ。過去の友情を金額換算するなんて、なんて世知辛い」
「言い出したのはあなたです!」
シルヴィアが叫ぶと、今度は前方から暑苦しい声が響いた。
「おおおお! 今日の空気はいい! 筋肉が膨らむ!」
戦士ガルドが、草原の真ん中で立ち止まり、なぜか腕を曲げて力こぶを見せていた。
彼の両腕には、分厚い鉄の手甲がはめられている。何度も戦いをくぐり抜けてきたのだろう。表面には細かな傷が刻まれていた。
「見ろ、シルヴィア! この上腕! 春風を受けて喜んでいる!」
「筋肉は喜びません! それより服を着てください! 日差しが強いんですから!」
「太陽は最高の調味料だ! 筋肉に味が出る!」
「食べ物みたいに言わないでください!」
シルヴィアは頭を抱えた。
その横を、賢者レインがふらふらと歩いていく。
分厚い眼鏡をかけ、片手には古い杖、もう片方には開きっぱなしの本。彼は足元をまったく見ていなかった。草原の花を踏みかけ、石につまずきかけ、それでも視線は本から離れない。
「この花の花粉……魔力の伝わり方が独特だな。乾燥させて粉末にし、直接吸えば一時的に思考速度が――」
「やめてください!」
シルヴィアは慌てて駆け寄り、レインの襟を掴んだ。
「それ、たぶん毒草です!」
「なるほど。では、少量なら刺激剤に」
「なりません! たぶん倒れます!」
「倒れてから記録を取ればいい」
「誰が看病すると思っているんですか!」
シルヴィアの声が、草原に響き渡った。
アランは靴紐を結んでもらった足で、再び草の上に転がっている。
エレナは請求書を畳みながら、昼食の献立を聞き出そうとしている。
ガルドは鉄の手甲を鳴らしながら、春風に向かって胸を張っている。
レインは、毒草らしき花をまだ名残惜しそうに見つめている。
世界は美しかった。
風は柔らかく、光は温かく、草は波のように揺れている。
その中で、シルヴィアだけが地獄のように忙しかった。
「……無理」
ぽつりと、声が漏れた。
誰も聞いていない。
アランは眠そうにあくびをしている。
エレナは「昼食後の紅茶には追加料金を」と言っている。
ガルドは「この姿勢で三時間はいける」と腕を震わせている。
レインは、毒草を紙に包もうとしている。
シルヴィアの中で、何かがぷつんと切れた。
彼女は、背負っていた巨大な荷物を地面に下ろした。
どさり。
重い音が、草原に響いた。
鍋が鳴り、予備の鉄剣が荷物の側面で小さく揺れた。
その音で、ようやく四人が振り返る。
「シルヴィア?」
アランが目を瞬かせた。
シルヴィアは、ゆっくり顔を上げた。
目元が赤い。
肩で息をしている。
けれど、その声ははっきりしていた。
「解散しましょう」
春風が、草原を静かに渡っていった。
「……え?」
アランの声が裏返る。
シルヴィアは涙目のまま、両手を握りしめて叫んだ。
「もう限界です! 解散です! あなたたち、強い以前に生活能力がなさすぎます! 靴紐も結べない! お金を取ろうとする! 筋肉と会話する! 毒草を吸おうとする! こんな人たちと世界なんて救えるわけないじゃないですか!」
その叫びが、青い空の下へ抜けていった。
近くの草むらから、小さな野ウサギが驚いて飛び出す。
世界最強の四人は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
風が、荷物の端に結ばれた予備の鉄剣の紐を小さく揺らす。
まだ誰も知らない。
そのただの鉄剣が、いつか遠い未来で、彼らの最後の証になることを。
* * *
その日の昼食は、気まずい沈黙の中で始まった。
……はずだった。
「うめぇ!」
沈黙を最初に粉砕したのは、当然のようにアランだった。
彼は木の椀を両手で抱え、野菜スープを一口飲んだ瞬間、顔を輝かせた。
「なんだこれ。今日のスープ、いつもよりうまくないか? 野菜が甘い。肉もやわらかい。俺、解散前にこれ食えてよかった」
「解散前提で食べないでください!」
シルヴィアは涙目のまま怒鳴った。
だが、怒鳴っている彼女の手元では、すでに次の椀へスープがよそわれている。
長年の習慣とは恐ろしいものだった。
解散すると宣言したのに。
荷物も下ろしたのに。
「腹が減ったまま話し合うと、みんな不機嫌になるでしょう」と、結局いつも通り火を起こし、鍋を出し、野菜を刻み、全員分の食事を作ってしまったのだ。
「悔しいですけれど、美味しいですわ」
エレナが上品にスプーンを口へ運びながら、真剣な顔で頷いた。
「この味なら、王都で店を出せますわね。私が経営を担当すれば、利益は三倍に――」
「私のスープを勝手に商売にしないでください」
「筋肉に染みる!」
ガルドは感極まったように叫んだ。
「鶏肉の力が、腕に! 豆の力が、胸に! 根菜の力が、下半身に来る!」
「食事中に部位ごとの感想を叫ばないでください」
レインは黙々とスープを観察していた。
「薬草の苦みを、玉ねぎの甘みで隠している。疲労回復を狙った配合だな。見事だ。味と効能を両立している」
「分析しながら食べないでください。冷めます」
シルヴィアは深いため息をついた。
春の草原には、温かな湯気が立ちのぼっている。鍋の中で野菜が柔らかく揺れ、火にくべられた枝がぱちぱちと弾けた。風が吹くたび、花の香りとスープの匂いが混ざり、のどかな昼下がりを包んでいく。
美しい景色だった。
なのに、シルヴィアの心は晴れなかった。
彼女は自分の椀を見つめた。
自分には、剣の才能がない。
聖なる力もない。
難しい知識も、岩を砕く腕力もない。
できることといえば、荷物を背負うこと。食事を作ること。洗濯をすること。宿を取ること。靴紐を結ぶこと。財布を守ること。毒草を取り上げること。
つまり、戦いの場では役に立たないことばかりだった。
「……ねえ、アラン」
シルヴィアは、スプーンを置いた。
火の音が、急に大きく聞こえた。
「さっきの話、本気だからね」
アランの手が止まる。
エレナも、ガルドも、レインも、静かに彼女を見た。
「私、次の街で抜ける。代わりの人を雇って。もっと強くて、荷物持ち以外のこともできる人を」
言葉にすると、胸が痛んだ。
本当は離れたくない。
この手のかかる四人が好きだった。腹が立つほど好きだった。放っておけないくらい、大切だった。
だからこそ、自分の弱さが許せなかった。
「私みたいに、料理と洗濯しかできない女なんて、勇者パーティにはいらないよ」
沈黙が落ちた。
草を揺らす風の音だけが、耳に残る。
やがて、アランが椀を置いた。
「わかった」
あまりにもあっさりした声だった。
シルヴィアの胸が、ずきりと痛む。
やっぱり。
そう思った。
彼も、心のどこかではそう思っていたのだ。自分は足手まといだと。幼馴染だから、仕方なく連れてきてくれていただけなのだと。
アランは立ち上がった。
腰から聖剣を外す。
そして、草の上に置いた。
どすん、と重い音がした。
「じゃあ、俺も勇者やめる」
「……は?」
シルヴィアの涙が、一瞬止まった。
「何を言ってるの?」
「だって無理だろ」
アランは当然のように言った。
「お前がいなくなったら、誰が俺の靴紐を結ぶんだよ」
「そこから!?」
「大事だろ。俺が転ぶ。俺が転ぶと聖剣が飛ぶ。聖剣が飛ぶと誰かが死ぬ」
「靴紐ひとつで話を大きくしないでください!」
アランは草の上にあぐらをかき、指を折り始めた。
「宿の手配は? 飯は? 水の管理は? 地図を見るのは? 俺たちの服を、人前に出られる状態に保ってるのは?」
シルヴィアは言葉に詰まった。
「エレナが財布を空にしないよう見張ってるのは?」
「それは非常に重要ですわね」
エレナが真顔で頷いた。
「私、放っておかれると、祈りの道具という名目で高価な装飾品を買ってしまいますもの」
「自覚があるなら直してください」
「ガルドが宿屋の扉を握り潰さないよう、『優しく』って言うのは?」
ガルドが腕を組んだ。
「俺は力加減が少し苦手だ!」
「少しではありません」
「レインが変な草を吸わないよう止めるのは?」
レインは眼鏡を押し上げた。
「学問には危険がつきものだ」
「つけないでください!」
アランは、シルヴィアをまっすぐ見た。
「俺たちは強いかもしれない。でも、生活ができない」
草原を渡る風が、五人の間を抜けていった。
シルヴィアの髪が頬にかかる。
「剣を振ることしかできない。祈ることしかできない。殴ることしかできない。本を読むことしかできない。俺たちは、できることは派手だけど、できないことも山ほどある」
アランの声は、いつもの軽さを残していた。
けれど、目は真剣だった。
「お前は、そこを全部埋めてくれてるんだよ」
「私は……そんな、大したこと……」
「大したことだ」
今度は、エレナが言った。
彼女は聖典を膝に置き、珍しく穏やかに微笑んでいた。
「私たちは、あなたがいるから安心して前を見られますのよ。帰れば温かい食事がある。傷を洗う布がある。失くしたものを、あなたがちゃんと覚えていてくれる。それがどれほど大切なことか、私は知っていますわ」
ガルドが、鉄の手甲を胸に当てた。
「俺のこの手甲も、お前が毎晩磨いてくれるから錆びねぇ。俺は戦う時、いつも思ってるぞ。背中の荷物番が見てるんだから、無様な戦いはできねぇってな!」
レインも本を閉じた。
「私の杖の予備部品を管理しているのも君だ。私の研究記録を雨から守っているのも君だ。君がいなければ、私の知識は三日で湿気に負ける」
「それは少し情けなくありませんか」
「否定はしない」
シルヴィアは、何も言えなくなった。
アランが立ち上がり、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「いいか、シルヴィア」
春の光が、彼の赤い髪を明るく照らしていた。
「お前は足手まといじゃない。俺たちの荷物を持ってるだけでもない。俺たちが前に進むために必要なものを、全部持ってくれてるんだ」
アランは、にかっと笑った。
「だから、お前は俺たちの荷物持ちだ。世界一の、最高の荷物持ちだ」
その瞬間。
シルヴィアの目から、堰を切ったように涙があふれた。
最強。
そんな言葉は、自分には縁がないと思っていた。
強いのは、アランたちだ。
戦えるのも、世界を救えるのも、彼らだ。
自分はただ、後ろで荷物を背負っているだけ。
そう思っていた。
でも、彼らは違った。
自分が持っていたのは、鍋や毛布や薬草だけではなかった。
彼らの帰る場所。
彼らの食事。
彼らの旅の記録。
彼らがまた笑って歩き出すための、小さな準備のすべて。
それを、彼らはちゃんと見ていた。
「……ばか」
シルヴィアは泣きながら言った。
「本当に、みんな、ばかです……」
「おう、知ってる」
アランが笑って、彼女の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「だから頼むぞ。俺たちの最高の荷物持ち」
シルヴィアは、泣きながら笑った。
もう、次の街で抜けるとは言わなかった。
風が吹く。
草原の花々が、一斉に揺れた。
アランは「よし、昼寝だ」と草の上に転がり、エレナは「食後のお茶を」と当然のように要求し、ガルドは腹筋を始め、レインはまた毒草に手を伸ばしかけた。
「レイン、それは駄目です!」
シルヴィアの声が、草原に響く。
いつもの日常が、戻ってきた。
騒がしくて、面倒で、手がかかって、どうしようもなく愛しい時間。
シルヴィアは荷物から裁縫道具を取り出し、アランのマントのほつれを縫い始めた。針が布を通るたび、ちく、ちく、と小さな音がした。
荷物の端では、予備の鉄剣が春風に揺れている。
その剣がいつか、墓標になることを。
エレナの聖典が、土の上に置かれることを。
レインの杖が、折れたまま眠ることを。
ガルドの手甲が、錆びついて墓を守ることを。
そして、アランの「最高の荷物持ち」という言葉が、数十年後のシルヴィアを救うことを。
この時の彼らは、まだ知らない。
ただ、春の光だけがあった。
風に揺れる草と、遠くの鳥の声と、仲間たちの笑い声。
アランの寝顔を見つめながら、シルヴィアは小さく呟いた。
「……靴紐くらい、自分で結べるようになってくださいよ」
その何気ない願いが、遠い未来で、あまりにも悲しい形で叶ってしまうことなど、知るはずもなく。




