第56話 小さな巨人、ギルドマスターの憂鬱 〜見た目は真実ではない〜
冒険者ギルド最上階。
そこは、一般の冒険者が気軽に足を踏み入れていい場所ではなかった。
下階の喧騒は、ここまで届かない。酒場で交わされる笑い声も、依頼板の前で飛び交う怒鳴り声も、受付嬢たちの忙しない足音も、厚い床と壁に吸い込まれ、遠い水底の音のようにぼやけていた。
廊下には、磨き込まれた黒い床石がまっすぐ伸びている。高窓から差し込む午後の光が、細長い帯となって床に落ち、その中を小さな埃がゆっくりと漂っていた。誰かが歩くたび、靴底の音が硬く反響する。カツン、カツン、と一歩ごとに空気が引き締まり、胸の奥を軽く叩かれるようだった。
その廊下の突き当たり。
重厚な二重扉が、静かに待ち構えていた。
濃い茶色の木目には、長い年月をくぐり抜けてきた艶があり、取っ手には鈍い金色の光が宿っている。扉の前に立つだけで、そこから先が別の空気に包まれているのが分かった。
「……ここか」
ゼイクが低く呟いた。
いつもなら何かしら軽口を挟む彼が、今日は真面目な顔で扉を見つめている。喉が小さく上下した。鎧の内側で、わずかに汗が滲んでいるのかもしれない。首筋に浮いた一筋の汗が、光を受けて細く輝き、すぐに襟の影へ消えた。
「この奥……ただ者じゃないな。扉越しなのに、肌が粟立つ」
ゼイクの手は、無意識に剣の柄へ近づいていた。抜くつもりはない。だが、体が勝手に備えている。
「あら、ゼイクさん。少し警戒しすぎじゃない?」
アリスは扇子を広げ、余裕ありげに口元を隠した。
けれど、その扇子を持つ指先は、ほんのわずかに強張っていた。アリスも感じているのだ。扉の向こうにいる人物が、単に地位の高い相手ではないことを。
メイは、瞬の袖をそっと掴んだ。
「あの……瞬。大丈夫かな?」
声が小さい。廊下の静けさに気圧されたように、彼女の言葉はすぐ足元へ落ちてしまう。
瞬は振り返り、いつものように笑った。
「大丈夫だって。リナちゃんも『変わり者』って言ってたし、話せば分かる相手だろ」
そう言って、メイの頭を軽く撫でる。
メイは少しだけ安心したように息を吐いたが、袖を掴む指は離れなかった。
瞬は、そのままアリスの方へ身を寄せ、小声で囁いた。
「なあ、アリス。ギルドマスターってどんな奴だと思う?」
「ふふん。そんなの決まっているじゃない」
アリスは得意げに顎を上げた。
「『ギルドマスター』よ? 十中八九、熊みたいな大男ね。顔には傷。腕は丸太。笑い声だけで新人冒険者を三人くらい気絶させるタイプ」
「だよな! 俺もそう思う!」
瞬の目が急に生き生きし始めた。
「もしくは、筋肉の上に筋肉を重ね着したみたいなスキンヘッドで、挨拶代わりにダンベル投げてくるタイプ」
「ありえるわね。絶対、部屋の隅に酒樽があるわ。椅子より酒樽の方が似合う人種よ」
「うわー、会いたくねぇ。でもちょっと見たい」
二人は、扉の前だというのに、妙に楽しそうに盛り上がり始めた。
ゼイクが額に手を当てる。
「……お前たち。相手は王都ギルドの頂点だぞ」
エリーゼも、静かにため息をついた。
「お願いですから、扉の向こうまで聞こえる声量で失礼な人物像を組み立てるのはおやめくださいませ」
「え? そんなに聞こえるかな?」
瞬が首を傾げた瞬間。
扉の向こう側から、ほんのわずかに紙の擦れる音がした。
全員が固まった。
沈黙が落ちる。
それは、音がないというだけの沈黙ではなかった。誰かの呼吸の乱れや、床石の冷たさや、扉の奥にいる何者かの気配までが、じわじわと肌に染み込んでくるような静けさだった。
瞬は、ぎこちなく笑った。
「……よし。行くか」
「行くしかないでしょうね」
アリスの笑顔も、少しだけ引きつっていた。
瞬は扉をノックした。
コン、コン。
乾いた音が、長い廊下に響く。
少し間があった。
それから、扉の向こうから静かな声が返ってきた。
「どうぞ」
澄んだ声だった。
若い女の声にも聞こえる。けれど、その奥には、冷たい泉の底を覗いたような深さがあった。
瞬は取っ手に手をかけた。金属はひんやりとしていた。指先から冷たさが這い上がり、手首のあたりで止まる。
そして、重い扉を押し開けた。
「失礼しまーす。呼び出しを受けた瞬で――」
言葉が、途中で止まった。
中に広がっていたのは、瞬とアリスが想像していたような、むさ苦しい部屋ではなかった。
整然としていた。
壁一面には背の高い本棚が並び、古い本や巻物が隙間なく収められている。窓際には淡い光が落ち、厚い机の上に積まれた書類の端を白く照らしていた。インク壺の横には羽ペンが一本置かれ、まだ乾ききっていない文字が、わずかに光を反射している。
部屋には、紙と革と、古い木の匂いがした。
静かすぎるほど静かだった。
その巨大な執務机の向こうに、一人の女性が座っていた。
「……え?」
瞬とアリスの声が、見事に重なった。
熊のような大男ではなかった。
筋肉の上に筋肉を重ね着したような人物でもなかった。
そこにいたのは、小柄で、華奢な女性だった。
色素の薄い亜麻色の髪を緩く編み込み、肩から淡い色のローブをまとっている。年齢は読めない。二十代にも見えるし、もっと幼い少女のようにも見える。けれど、彼女をただの若い女性と見るには、その空気があまりにも静かすぎた。
彼女は羽ペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た瞬間、ゼイクの足が半歩だけ動いた。
剣を抜こうとしたわけではない。
ただ、本能が逃げ道を探したのだ。
深い瞳だった。
底が見えない。暗いわけではない。濁っているわけでもない。むしろ澄み切っている。澄み切りすぎていて、その奥にどれほどの時間と孤独が沈んでいるのか、見当もつかない。
静かな疲労。
長く何かを背負い続けた者だけが持つ、冷たい重み。
その視線が、瞬とアリスの上で止まった。
「……聞こえていましたよ」
鈴のような声だった。
けれど、温度はなかった。
「熊でも、筋肉の塊でもありません」
部屋の空気が、ぴしりと凍った。
瞬とアリスは、同時に背筋を伸ばした。
「あ、あのですね!」
アリスが慌てて扇子を閉じる。
「決して悪口ではなく、その、威厳の象徴といいますか、強者の一般的な姿を想像しただけでして!」
「そ、そうそう! むしろ期待値が高かったというか!」
瞬も必死に頷く。
ゼイクは天井を見上げ、エリーゼは目を閉じた。メイだけが、瞬の袖を握ったまま、不安そうに二人を見比べている。
女性は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「冗談です」
笑っている。
けれど、目は笑っていなかった。
その小さな微笑みだけで、部屋の温度が一段下がったように感じた。
彼女は椅子から立ち上がった。
立ってみると、さらに小柄だった。背丈だけなら、メイと大きく変わらないかもしれない。
だが、その小さな身体から放たれる存在感は、部屋いっぱいに広がっていた。机も、本棚も、厚い扉も、すべてが彼女の周囲に従っているように見える。
「ようこそ。瞬さん、そして皆さん」
彼女は静かに名乗った。
「私が、この王都冒険者ギルドのマスター、シルヴィアです」
その名が告げられた瞬間、誰も声を出せなかった。
小さな身体。
静かな声。
けれど、この部屋の中心にいるのは、間違いなく彼女だった。
シルヴィアは、机の上に置かれた書類を一枚だけ脇へ寄せ、五人を順に見た。
「単独でドラゴンを退け、災害級のゴーレムを止め、異常な魔物の事件にも関わった一行。報告は、すべて読んでいます」
その視線が、最後に瞬で止まる。
「あなたたちに、頼みたいことがあります」
瞬は、知らず知らずのうちに唾を飲み込んだ。
喉が、やけに乾いていた。
この人は危険だ。
敵としてではない。
怒らせてはいけないという単純な話でもない。
彼女が抱えている何かに触れたら、もう後戻りはできない。そんな予感がした。
窓の外で、風が吹いた。
高い場所にある窓ガラスが、かすかに鳴る。差し込んでいた光が雲に遮られ、部屋の床に落ちていた白い帯がゆっくりと薄くなった。
「頼みって……何ですか?」
瞬が尋ねる。
シルヴィアは、すぐには答えなかった。
彼女は窓の方へ視線を移した。
王都の屋根の向こう。さらに遠く、北の山々が霞んで見える方角へ。
その横顔に、ほんの一瞬だけ、今にも崩れそうな影が差した。
「……昔話をしましょう」
シルヴィアの声は、静かだった。
けれどその静けさは、穏やかさではなかった。
深い傷口に布を当て、その上から強く押さえつけているような声だった。
「かつて、この世界に『人族最強』と呼ばれた勇者パーティがありました」
勇者。
その言葉に、ゼイクの目が細くなる。
「伝説の……数十年前に消息を絶ったとされる、あの一行ですか」
「ええ」
シルヴィアは、ゆっくりと頷いた。
「勇者アラン。聖女エレナ。賢者レイン。戦士ガルド。そして……荷物持ちだった私」
最後の一言だけ、ほんのわずかに声が掠れた。
誰も茶化さなかった。
部屋には、紙の匂いと、遠くから届く風の音だけが残っていた。
シルヴィアは、机の引き出しに手を伸ばした。
木が擦れる、低く乾いた音がした。
その小さな音に、なぜか全員の視線が吸い寄せられる。部屋の空気は重く、誰も咳払いひとつしなかった。窓の外で風が吹き、遠くの街のざわめきが、厚いガラス越しにかすかに揺れる。けれど、その音さえこの部屋の静けさに触れると、すぐに力を失って消えていくようだった。
シルヴィアが取り出したのは、一枚の古びた羊皮紙だった。
端は擦り切れ、何度も折りたたまれた跡が白く残っている。ところどころに黒ずんだ染みがあり、それが古いインクなのか、別の何かなのか、瞬には分からなかった。
シルヴィアは、それを机の上にそっと広げた。
そこには、五人の男女が描かれていた。
燃えるような髪の青年が、歯を見せて笑っている。その横で、気品ある女性が呆れたように微笑み、眼鏡をかけた男が本を抱えている。大柄な戦士は腕を組み、いかにも暑苦しい笑顔を浮かべていた。そして、その端に、小柄な少女が立っていた。
今よりもずっと幼く、まだ表情に柔らかさの残る少女。
シルヴィアだった。
「私たちは、無敵だと思っていました」
その声に、懐かしさはなかった。
あるのは、乾いた後悔だけだった。
「どんな魔物も退けられる。どんな迷宮も踏破できる。どんな絶望も、五人でなら笑い飛ばせる。……そう信じていました」
シルヴィアの指先が、絵の中の勇者の顔に触れた。
紙の表面をなぞる指は、驚くほど白かった。血の気がない。長いあいだ冷たい水に浸していたような色をしている。
「ある日、私たちは調査依頼を受けました。場所は、北の山脈の奥にある未踏の古代遺跡。名を――深淵の霊廟」
その名が部屋に落ちた瞬間、空気がさらに重くなった。
メイが小さく息を呑む。
ゼイクの眉間に、深い皺が刻まれる。
エリーゼは何かを思い出すように目を細め、アリスは扇子を握る手に力を込めた。
「聞いたことがありますわ」
エリーゼが静かに言った。
「王都北方の禁足地。現在は、冒険者ギルドと王家の双方によって立ち入りが禁じられている場所……」
「ええ」
シルヴィアは頷いた。
「その封鎖を決めたのは、私です」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の奥には、重い鉄扉を閉ざすような決意と痛みがあった。
「私たちは、調査のつもりで入りました。未知の魔物がいるかもしれない。古い罠が残っているかもしれない。その程度の認識でした。……慢心していたのでしょうね。歴代でも最強と呼ばれた勇者パーティだったから」
シルヴィアの口元が、自分自身を嘲るようにわずかに歪んだ。
「ですが、最下層にいたのは、私たちが想定していた何かではありませんでした」
羽ペンが机の上で転がり、かすかな音を立てた。
誰も拾おうとはしなかった。
シルヴィアは言った。
「そこにいたのは、魔王でした」
時間が、止まったようだった。
瞬の背中に、冷たいものが走った。
「魔王……?」
アリスの声が、かすかに震えた。
「でも、魔王は封印されているんじゃないの?」
「そのはずでした」
シルヴィアは、窓の外へ視線を向けた。
遠い山々の輪郭は、雲に溶けてぼやけている。午後の光は弱くなり、部屋の隅に濃い影が伸びていた。
「だから、私たちは理解できなかった。なぜそこにいるのか。どうやって現れたのか。そもそも本当に魔王そのものだったのか。何一つ分からないまま、戦いが始まりました」
彼女の声が、そこで少しだけ低くなった。
「そして、終わりました」
短い言葉だった。
けれど、その一言で十分だった。
どれほど凄惨だったのか。
どれほど絶望的だったのか。
語られない部分が、逆に想像を締めつける。
「全滅しました。……私ひとりを除いて」
沈黙が落ちた。
それは、先ほどまでの静けさとは違っていた。
今の沈黙には、重さがあった。床に膝をつきたくなるような、肺の奥まで押し潰されるような重さ。誰も言葉を見つけられず、ただ目の前の小さな女性を見つめていた。
シルヴィアは、羊皮紙を見下ろしたまま続けた。
「勇者アランは、最後の力で私を抱え、迷宮の入り口まで戻りました。私は泣いて、叫んで、戻ろうとしました。けれど、彼は私を置いて……もう一度、あの闇の中へ戻っていった」
窓ガラスが、風に震えた。
カタリ、と小さな音が響く。
「仲間たちが残っていたからです。聖女エレナ。賢者レイン。戦士ガルド。みんな、あそこに残っていた。……アランは、彼らを置いては行けなかった」
シルヴィアの声は泣いていなかった。
涙も流していなかった。
けれど、その乾ききった声の方が、涙よりも痛ましかった。泣くことさえ、もう遠い昔に使い果たしてしまったようだった。
「それきり、誰も戻りませんでした」
メイが、瞬の袖を強く握った。
瞬は、その手にそっと自分の手を重ねた。メイの指先は冷たかった。
「それ以来、深淵の霊廟は封鎖されています。調査隊を出すことも考えました。ですが、並の冒険者では入り口に近づくことすらできない。強者を集めても、あの場所へ向かわせることはできなかった。……私は、また誰かを死なせるのが怖かったのです」
シルヴィアは、そこで初めて瞬たちを真正面から見た。
その瞳の奥に、消えかけた火のようなものが揺れていた。
「でも、時間だけが過ぎました」
彼女の指が、机の端を掴む。
「数十年です。私は、あの日からずっと、同じ場所に立っています。ギルドマスターとして仕事をし、冒険者を送り出し、帰ってきた者に報酬を渡し、死んだ者の名を記録してきました。けれど、私自身の時間は、あの日の迷宮の入り口で止まったままです」
部屋の中に、かすかに紙の匂いが漂っている。
積み上げられた書類。
磨かれた机。
整えられた本棚。
すべてが完璧に整っているのに、その中心にいる彼女だけが、どこか壊れたまま取り残されているようだった。
「知りたいのです」
シルヴィアの声が、初めて震えた。
「なぜ、あそこに魔王がいたのか。彼らは、最期に何を見たのか。アランは、なぜ戻ったのか。……そして、彼らは本当に、私を恨んで死んだのか」
「恨んで……?」
メイが思わず声を漏らした。
シルヴィアは、目を伏せた。
「最後に言われた言葉があります」
机の上の羊皮紙に、影が落ちる。
「邪魔だと。足手まといだと。消えてくれと」
メイの顔が悲しみに歪んだ。
ゼイクが唇を結ぶ。
エリーゼは扇子を閉じ、アリスは何も言わずにシルヴィアを見ていた。
「分かっています。戦場での言葉です。混乱していたのかもしれない。私を逃がすためだったのかもしれない。そう思おうとしたこともありました。……でも、真実を知らないままでは、どうしても前に進めなかった」
シルヴィアは、ゆっくりと頭を下げた。
王都冒険者ギルドの頂点に立つ者が。
小さな身体をさらに小さくして、瞬たちに深く頭を下げた。
「お願いします」
その声は、命令ではなかった。
依頼という言葉にも収まりきらない。
長いあいだ暗い場所で耐え続けた人間が、最後の力で差し出した願いだった。
「深淵の霊廟へ向かい、最下層に残された真実を持ち帰ってください。彼らがどう生き、どう終わったのか。私が、これ以上過去に置き去りにされないために」
誰も、すぐには返事をしなかった。
危険すぎる。
その言葉が、全員の胸にあった。
かつて人族最強と呼ばれた勇者パーティが、全滅した場所。
魔王がいたかもしれない場所。
数十年もの間、誰も足を踏み入れられなかった禁足地。
普通に考えれば、断るべきだった。
断る理由なら、いくらでもある。
メイの手が震えている。
ゼイクは静かに目を閉じていた。
エリーゼは思案するように唇へ指を添え、アリスは瞬の横顔を見つめていた。
そして、全員の視線が、自然と瞬へ集まった。
リーダーの決断を待っている。
瞬は、シルヴィアを見た。
小さな身体。揺れない瞳。けれど、その奥に閉じ込められた、泣き出すこともできない迷子のような痛み。
部屋の外では、遠くのギルドの喧騒が、ほんのわずかに聞こえた。
誰かが笑っている。
誰かが依頼を受けている。
誰かが今日も帰る場所へ向かっている。
その当たり前の音が、この部屋の中ではひどく遠かった。
瞬は、ゆっくりと息を吸った。
そして、口を開いた。




