第55話:ギルドの困惑と、最強の後ろ盾 〜英雄とは、善意と偶然が織りなす暴風雨である〜
冒険者ギルド「竜のあくび亭」の朝は、今日も騒がしかった。
まだ太陽が高く昇りきる前だというのに、厚い木扉の向こうからは、人の声と食器の音が絶え間なく漏れている。
石畳の通りには、朝露を含んだ風が細く流れ、街路樹の葉を揺らしていた。葉と葉が擦れる乾いた音の下を、革鎧の冒険者が眠そうに歩き、荷馬車の車輪が硬い音を立てて通り過ぎていく。
ギルドの看板は、朝日を斜めに受けていた。
古い木目の溝に光が入り込み、影が細く伸びている。扉の前にはすでに何人もの冒険者が集まり、依頼の話をしたり、昨日の酒が残った顔で壁にもたれたりしていた。
そこへ、瞬たちがやって来た。
「おー、今日も混んでるな」
瞬がいつもの調子で言った。
隣にはメイ。
後ろにはゼイクとエリーゼ。
そして、深紅のドレスを揺らしながら歩くアリス。
五人が近づくと、入口付近の冒険者たちの会話が、少しずつ小さくなった。
最初に気づいた若い冒険者が、パンを口に運びかけたまま固まる。
隣の男が「どうした」と振り向き、瞬たちを見た瞬間、背筋を伸ばした。
その反応が、乾いた草に火が広がるように周囲へ伝わっていく。
「英雄シュンだ」
「ローゼンバーグ家のお嬢様もいるぞ」
「おい、道を空けろ」
誰かがそう言うと、冒険者たちは自然に左右へ分かれた。
以前とは違う。
ただ珍しいものを見る好奇心ではない。
野次馬の笑いでもない。
そこにあるのは、敬意と緊張が混ざった、妙に丁寧な距離だった。
瞬はその空気に首を傾げる。
「……なんか、みんな妙に礼儀正しくない?」
「自覚が遅い」
ゼイクが低く言った。
「君の名前は、すでに王都でかなり広まっている」
「いや、俺そんな広まるようなことしたっけ?」
「したかどうかではない。広まっているかどうかだ」
「こわっ」
瞬が本気で嫌そうな顔をする。
アリスは扇子で口元を隠し、涼しい顔で言った。
「あら、いいことじゃない。名前が知られるのは、何をするにも便利よ」
「お前がそう言う時って、だいたい俺が何も知らないところで何か進んでるんだよな」
「失礼ね。私はいつも、必要なことを必要なだけしているだけよ」
「その『必要なだけ』が信用できないんだよ」
瞬がそう言いながら扉を押すと、分厚い木が、ぎい、と低く鳴った。
中へ入った瞬間、ギルド特有の匂いが押し寄せてくる。
焼いた肉。
硬いパン。
古い木の床。
革鎧に染みついた汗。
それらが混ざり合い、朝からすでに濃い熱気を作っていた。
依頼掲示板の前には、冒険者たちが肩を寄せ合っている。
酒場の席では、朝食をかき込む者、昨日の報酬を数える者、まだ眠そうに机へ突っ伏している者がいた。
床板は長年の靴音で黒く磨かれ、歩くたびにぎしりと鳴る。
その騒がしさが、瞬たちの入室と同時に、すっと一段低くなった。
視線が集まる。
瞬はまったく気にせず、片手を上げた。
「おっはよー! 今日もいい天気だな!」
あまりにもいつも通りだった。
それで何人かの冒険者が、張りつめかけた表情を緩める。
だが、受付カウンターの奥だけは、まるで別の戦場だった。
カアン。
硬い音がした。
カアン。
もう一度。
カアン。
鐘ではない。
リナが、自分の額をカウンターに打ちつけている音だった。
「……どうして……」
カアン。
「どうしてこうなるんですかぁ……」
声が沈んでいる。
朝の爽やかさなど、一欠片もない。
リナの前には、山のような書類が積み上がっていた。
羊皮紙の束。封蝋のついた正式な書状。赤い印の押された急ぎの報告。何度も読み返したのか、端が少し丸まった書類。
それらが受付カウンターの一角を占領し、まるで紙でできた小さな砦のようになっている。
羽ペンはインク壺の横で倒れ、リナの髪はいつもの整った形を失っていた。
目元には薄い疲れが浮かび、笑顔を作る余力はどう見ても残っていない。
「リナさん?」
瞬が近づく。
リナの肩が、ぴくりと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた彼女は、瞬を見た瞬間、目を見開いた。
「あ……」
そして次の瞬間、カウンターから身を乗り出す。
「瞬さぁぁぁぁぁぁん!!」
「うおっ!?」
瞬が半歩下がる。
「また! また何かやりましたねぇぇぇ!?」
「え? まだ何もしてないけど?」
瞬は本気で困惑した顔をした。
「朝飯食って、ここまで歩いてきただけだぞ」
「その『歩いてきただけ』で問題が増える人なんですよ、瞬さんは!」
「俺、歩くだけで迷惑かけてるの?」
「最近は、立っているだけで書類が増えます!」
「さすがに理不尽じゃない?」
リナは両手で書類の山を示した。
「理不尽なのは私の机です!」
その叫びに、ギルド内の冒険者たちが一斉に書類の山を見た。
確かに、あれは人間一人の朝を簡単に破壊できる量だった。
ゼイクが書類を見て、眉間を押さえる。
「……これはまた、厄介そうだな」
「厄介です! とても厄介です!」
リナは一番上の羊皮紙をつかみ、バン、とカウンターに叩きつけた。
乾いた音がギルドの奥まで響き、テーブルの上のスプーンが小さく揺れた。
「まず、これを見てください!」
瞬は羊皮紙を覗き込んだ。
太い文字で、こう書かれていた。
『貧民街自治組合、発足宣言』
「……へえ」
瞬はよく分からないまま頷いた。
「なんか、いいことっぽいな」
「いいことです! そこは否定しません!」
リナは食い気味に言った。
「下層区画の瓦礫撤去、道路整備、炊き出し、仕事の割り振り。治安も良くなっていますし、ギルドへの苦情も明らかに減っています。そこは本当に助かっています!」
「じゃあ、よかったじゃん」
「問題はそこじゃありません!」
リナは羊皮紙の下の方を指で叩いた。
「ここです!」
瞬は目を細める。
そこには、さらに大きな文字でこう書かれていた。
『名誉顧問:英雄シュン』
沈黙。
瞬は、まばたきをした。
一回。
二回。
三回。
「……俺?」
「あなたです!」
「名誉……何?」
「顧問です!」
「俺、いつ顧問になったの?」
「私が聞きたいです!」
リナの声が裏返った。
ギルド内がざわざわと揺れる。
瞬は羊皮紙を見つめたまま、しばらく固まっていた。
その顔に、最初は純粋な困惑だけが浮かんでいる。
だが、数秒後。
彼の眉が、ぴくりと動いた。
「……あれ?」
瞬はゆっくり顔を上げた。
「そういえば……最近、街でやたら拝まれるんだよな」
アリスの扇子が、ほんのわずかに止まった。
「へえ」
「昨日なんか、知らないお婆ちゃんに『ありがたいお人だ』って泣かれて、大根三本もらったんだよ」
メイが小さく頷く。
「あれ、すごく立派な大根だったね」
「そうそう。立派だった。葉っぱまで元気でさ。俺、なんで急に大根くれるんだろうって思ってたんだけど……」
瞬はもう一度、羊皮紙を見る。
『名誉顧問:英雄シュン』
その文字を見た瞬の表情が、じわじわと変わっていく。
困惑。
記憶の照合。
そして、最悪の答えにたどり着いた顔。
「あーーーーー!!」
瞬の声が、ギルド中に響いた。
酒場の席でスープを飲んでいた冒険者が、びくっと肩を跳ねさせる。
リナも目を丸くした。
「な、なんですか!?」
「あれって、これのことか!」
瞬は羊皮紙を指さし、それから自分の顔を指さした。
「俺、知らない間に貧民街の人たちから感謝される立場にされてたってこと!?」
「今、ようやく気づいたんですか!?」
リナが悲鳴を上げる。
瞬は勢いよくアリスを振り返った。
「おい、アリス!」
「何かしら?」
アリスは涼しい顔で扇子を仰いでいた。
「お前だな!?」
「何のこと?」
「この『名誉顧問:英雄シュン』ってやつ!」
「あら、人聞きの悪い」
アリスは優雅に微笑んだ。
「私はただ、再開発に必要な信用を、最も効果的な場所に置いただけよ」
「それを世間では勝手に名前を使ったって言うんだよ!」
「でも、大根もらえたんでしょ?」
「そこじゃねぇ!」
瞬の叫びに、ギルドのあちこちから小さな笑いが漏れた。
重くなりかけていた空気が、少しだけ緩む。
だが、リナの顔色はまだ戻らない。
彼女は、震える手で書類の山を押さえながら言った。
「笑いごとではありませんよ、瞬さん……。これは、ただの感謝状ではないんです」
リナは、次の羊皮紙に手を伸ばした。
その紙には、ローゼンバーグ家の印が押されていた。
アリスの扇子が、ぱちりと閉じる。
瞬は、その音に嫌な予感を覚えた。
「……まだあるの?」
リナは、疲れ切った目で瞬を見た。
「あります。むしろ、ここからが本題です」
ギルドの朝のざわめきが、また少しずつ静まっていく。
カウンターの上で、封蝋つきの書状が朝の光を受けて鈍く光っていた。
リナが広げた羊皮紙には、ローゼンバーグ家の紋章が押されていた。
赤い封蝋は、朝の光を受けて鈍く光っている。
厚手の紙は、見るからに上等だった。端の処理ひとつ取っても、ギルドで日常的に使われる依頼書とはまるで違う。そこに流れる空気だけが、少し重い。
瞬は、もう嫌な予感しかしない顔でそれを見た。
「……アリス」
「なにかしら?」
「これ、お前の家のやつだよな?」
「ええ。見れば分かるでしょ」
「見れば分かるから聞いてるんだよ」
アリスは悪びれもせず、扇子で口元を隠した。
その仕草だけ見れば優雅そのものだったが、瞬にはもう分かっていた。
この顔は、完全に何かを仕込んだ後の顔である。
リナは疲れ切った目で書状を読み上げた。
「ローゼンバーグ商会より、英雄シュン様のパーティに対し、必要な物資、装備、食料、滞在場所、各種手続きの支援を行う用意がある……とのことです」
「……へえ」
瞬は乾いた声を出した。
「なんか、すごく親切だな」
「親切という規模ではありません!」
リナが叫ぶ。
「これ、簡単に言うと、ローゼンバーグ家が瞬さんたちの後ろ盾になるってことです! 商会の物流も、金も、人脈も、必要なら使えるという意味ですよ!?」
ギルド内が、どよめいた。
酒場の席にいた冒険者が、飲みかけのスープを止める。
依頼掲示板の前にいた若者たちが、顔を見合わせる。
受付の奥にいた職員たちも、手を止めてこちらを見ていた。
ローゼンバーグ家。
その名が持つ重みは、王都に暮らす者なら誰でも知っている。
金。商い。土地。情報。人を動かす力。
それらをまとめて背負うような家が、一つの冒険者パーティを支えると言っている。
それは、ただの好意では済まない話だった。
ゼイクの顔色が、目に見えて悪くなる。
「……まずい」
「ゼイク?」
「非常にまずい」
「そんなに?」
「貧民街の自治組織から支持され、ローゼンバーグ家から支援を受け、ギルド内で英雄として扱われる。これでは、一冒険者の範囲を完全に越えている」
ゼイクは額に手を当てた。
「王都の内側に、君たちを中心とした別の力の流れができつつある。これは、軽く考えていい話ではない」
「いや、俺、中心になった覚えないんだけど」
「覚えがなくても、周囲がそう扱えば同じだ」
ゼイクの声は低く、真剣だった。
瞬は困ったように頭をかいた。
髪をくしゃりとかく指先に、朝の光が引っかかる。彼の靴が床板を少し鳴らし、その音だけが一瞬、妙にはっきり聞こえた。
「でもさ、俺、本当に何もしてないぞ?」
「だから余計に怖いんです!」
リナが半泣きで言った。
「瞬さん本人が何もしてないのに、周りの状況だけどんどん大きくなっていくんです! 受付で処理する側の身にもなってください!」
「ご、ごめん」
「謝るなら、まず書類を増やさないでください!」
「それ俺に言われてもなぁ……」
瞬がアリスを見る。
アリスは、まったく悪いと思っていない顔で胸を張った。
「必要なことよ」
「またそれか」
「ええ。またそれよ」
アリスは一歩前に出た。
深紅のドレスの裾が、床板の上をさらりと撫でる。
ギルドの荒っぽい空気の中で、その姿だけが妙に浮いて見えた。だが、誰も笑わない。彼女の背後にある家の重さを、ここにいる者たちは理解していた。
「貧民街の人たちは、長い間見捨てられてきたわ。仕事もない。食べるものもない。道は壊れ、家は崩れ、誰も助けに来ない」
アリスの声は、涼しいのに鋭かった。
「そこに仕事を作った。働いた分の対価を渡した。道を直し、水路を掃除し、食べ物を配った。そうしたら、彼らは変わるわ。生きるために盗む人間より、明日の仕事を待つ人間の方がずっと街には必要でしょう?」
リナは口を閉じた。
その部分は、否定できない。
実際に、ギルドへ届く下層区画からの揉め事は減っていた。
荷物の盗難。行方不明者。路地裏での小競り合い。そうした報告が、ここ数日で明らかに少なくなっている。
アリスは続ける。
「ただし、仕事だけでは足りない。人は、自分たちを見捨てなかった誰かの名前を必要とするのよ。顔を上げるための旗みたいなものね」
「それが俺?」
「ええ」
「勝手に旗にされた俺の気持ちは?」
「大根三本」
「だからそこじゃねぇって!」
瞬の叫びに、ギルド内でまた笑いが漏れた。
だが、アリスの目は笑っていなかった。
「瞬くん。あなたは力を持っている。人を助ける力も、守る力も。けれど、力だけでは守れないものがあるわ」
彼女は、カウンターの上に置かれた書類を指で軽く叩いた。
「場所。食べ物。仕事。人の流れ。お金。そういう泥臭いものがなければ、助けた人は明日また同じ場所に落ちる」
ギルド内のざわめきが、少しずつ静かになっていく。
「だから、足場を作るの。あなたたちが思いきり動けるように。助けた人たちが、また奪われる側に戻らなくていいように」
瞬は、すぐには言い返さなかった。
アリスのやり方は強引だ。
本人の確認もなく名前を使うのは、間違いなく文句を言っていい。
けれど、貧民街で大根を渡してくれた老婆の顔を思い出すと、胸の奥が少しだけ詰まった。
しわだらけの手。
泣きそうな笑顔。
「ありがたいお人だ」と、何度も頭を下げていた声。
あの大根は、ただの野菜ではなかったのかもしれない。
瞬は、ぽりぽりと頬をかいた。
「……まあ、みんなが飯食えてるなら、悪いことじゃないか」
「瞬さん!?」
リナが信じられないものを見る目で叫んだ。
「そんな一言で片づけていい話じゃないんですよ!?」
「いや、分かってる。分かってるけどさ」
瞬は羊皮紙を見て、それからメイを見た。
メイは、少しだけ嬉しそうに瞬を見上げていた。
「瞬は、やっぱりすごいね」
「いや、俺は本当に何もしてないんだけど」
「でも、瞬の名前で、助かった人がいるんでしょう?」
その言葉に、瞬は黙った。
メイの声はまっすぐだった。
大きなことを言っているわけではない。ただ、目の前の事実を大切に受け止めている声だった。
瞬は、少し照れくさそうに笑う。
「……まあ、そういうことなら、結果オーライってことで」
その瞬間、ゼイクが深いため息を吐いた。
「結果だけで進むから、君の周囲はいつも混沌とするんだ」
「混沌って言うなよ」
「他に言いようがない」
エリーゼは扇子の奥で、楽しそうに微笑んでいた。
「けれど、悪くない混沌ですわ。少なくとも、誰かが飢えて泣くよりはずっと」
「エリーゼまで……」
「それに、研究費や物資が安定するのは助かりますもの」
「本音が出てるぞ」
瞬が呆れると、アリスが満足そうに頷いた。
「これで拠点、資金、人手、評判、全部そろったわね」
「そろえすぎなんだよ!」
「最強のパーティなら当然でしょ?」
「俺たち、いつの間にそんな巨大組織みたいになったんだ……」
瞬が頭を抱える。
ギルド内の冒険者たちは、遠巻きにその様子を見ていた。
冗談のような会話。
けれど、その中身は冗談では済まない。
王都の貧民街と、最大級の商家と、規格外の冒険者たちが、今まさに一本の線でつながっていく。
リナは、こめかみを押さえたまま、長く息を吐いた。
「……もう、私の手には負えません」
その声は、先ほどまでの悲鳴とは違っていた。
ギルドの空気が、少し変わる。
リナは書類の山の横から、一通の黒い封筒を取り出した。
それを見た瞬間、周囲の冒険者たちが静まり返った。
封筒は黒い。
紙質は厚く、光を吸い込むような深い色をしている。
中央には金色の封蝋。そこに刻まれているのは、冒険者ギルドの紋章だった。
ただの連絡ではない。
誰もが、それを見ただけで分かった。
リナは封筒をカウンターの上に置いた。
置いた音は、小さかった。
けれど、ギルドの広い空間に、やけに重く響いた。
「瞬さん」
リナの声が、真剣なものに変わる。
「ここまで派手に動けば、当然、あの方が黙っていません」
「あの方?」
瞬が封筒を見る。
アリスの扇子が、ぱちりと閉じた。
ゼイクの目が細くなる。
エリーゼも、口元の笑みを少しだけ消した。
メイは、ただならぬ空気を感じ取り、瞬の隣で静かに息を呑む。
リナはゆっくり頷いた。
「冒険者ギルドの頂点。王都ギルドを統べる方です」
黒い封筒の封蝋が、朝の光を受けて鈍く光る。
「ギルドマスターからの呼び出しです」
ギルド内の空気が止まった。
酒場の方で誰かが椅子を引きかけ、そのまま動きを止める。
依頼掲示板の前にいた若い冒険者が、掲示板へ向けていた手を下ろす。
床板の軋む音さえ、ふっと消えたようだった。
「ギルドマスター……」
瞬が呟く。
「今すぐ、最上階の『天の間』へ来るように、とのことです」
リナは封筒から手を離した。
その指先は、少しだけ緊張しているように見えた。
「気をつけてください。あの方は……その、少し変わっています」
「変わってる?」
瞬はちらりとアリスを見た。
「アリスより?」
「失礼ね、瞬くん」
アリスが即座に睨む。
「私は常識人よ」
「どの口が言うんだ、どの口が」
いつものようなやり取りだった。
だが、リナだけは笑わなかった。
彼女は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……どうか」
その声は、とても小さかった。
「どうか、あの方の止まった時間を、動かしてあげてください」
瞬は、リナを見た。
その言葉の意味は分からない。
けれど、軽く流していいものではないことだけは分かった。
黒い封筒が、カウンターの上で沈黙している。
窓から差し込む朝の光が、ギルドの床に長い線を作っていた。
その光の中を、埃がゆっくり漂っている。
さっきまで騒がしかったギルドは、今は息を潜めるように静かだった。
瞬は、封筒を手に取った。
「分かった」
そして、いつものように笑った。
「怒られるのか、褒められるのか分かんねぇけど、挨拶くらいはしとかないとな」
メイが静かに頷く。
ゼイクは表情を引き締め、エリーゼは日傘を閉じた。
アリスは扇子を握り直し、どこか面白がるように目を細める。
瞬は、階段の方を見上げた。
ギルドの奥。
普段の喧騒から切り離されたように伸びる階段の先に、その部屋はあるらしい。
最上階。
天の間。
そして、姿を見せないギルドマスター。
「行くぞ」
瞬の声に、仲間たちが続く。
その背中を見送りながら、リナはもう一度、小さく祈るように呟いた。
「……お願いします」
ギルドの朝日は、まだ眩しかった。
けれど、階段の先にある空気だけが、まるで長い夜の奥へ続いているように、静かで重かった。




