第54話:疫病神の歴史と、塗り替えられる価値観 〜歴史とは、もう存在しない国の地図である〜
白いアイガードは、テーブルの上に置かれたままだった。
磨き上げられた木の天板に、やわらかな昼の光が落ちている。
その光の中に、白い革の輪郭が静かに浮かんでいた。ほんの少し前までメイの右目を覆い、外の視線から彼女を守っていたものだ。今は役目を終えたように、紅茶のカップと焼き菓子の皿の横で、ただ静かに横たわっている。
リビングの空気は、まだ少しだけ熱を帯びていた。
アリスが大声を上げ、メイの紫の瞳を褒め、瞬が当然のように笑い、キースたちが戸惑いながらも「綺麗だ」と口にした。
ほんの数分の出来事だったはずなのに、メイには、長い夜をひとつ越えた後のように感じられた。
窓の外では、中庭の草が風に揺れている。
光を受けた葉先が白く瞬き、風が通るたびに、緑の波が奥へ奥へと流れていく。庭木の影は床の上でゆっくり揺れ、薄いカーテンが涼しい風を受けて、息をするように膨らんでは戻った。
エリーゼが淹れ直した紅茶からは、淡い花の香りが立ちのぼっていた。
湯気は細く、白く、カップの上でほどけていく。先ほどまでの緊張で冷めきっていた空気を、少しずつやわらかくしていた。
メイは両手でカップを包み、そこから伝わる温かさを確かめていた。
右目は、もう隠れていない。
それだけのことなのに、世界の見え方が違っていた。
左目だけで見ていた時よりも、窓から差し込む光が広く感じる。テーブルの上の木目も、瞬の服についた小さな菓子の粉も、アリスの扇子の金の縁も、今までよりはっきりと見える気がした。
けれど、それ以上に不思議だったのは、誰も目を逸らしていないことだった。
瞬はいつも通り隣にいる。
ゼイクは書類を閉じ、静かにこちらを見守っている。
エリーゼは穏やかな微笑みを浮かべて、次の茶葉を選んでいる。
キースたちはまだ少しぎこちないが、それでも逃げるような素振りはない。
そしてアリスは、何事もなかったように紅茶を飲んでいた。
何事もなかったように。
そのことが、メイには信じられないほど嬉しかった。
「で?」
アリスが、カップを受け皿に戻した。
カチャリ、と陶器が触れ合う澄んだ音がリビングに響く。
その音に、全員の視線が自然と彼女へ向いた。
アリスはメイの右目をもう一度眺め、心底不思議そうに首を傾げた。
「これがなんなの?」
あまりにもあっけらかんとした言い方だった。
メイは瞬きをした。
ゼイクは眉間に皺を寄せる。
エリーゼは小さく息を止め、キースたちも互いに顔を見合わせた。
瞬だけが、少し困ったように笑う。
「……まあ、アリスはそうなるよな」
「だって、そうでしょ? こんなに綺麗なら、むしろ堂々と見せて歩けばいいじゃない。絶対に目立つわよ。いい意味で」
「目立つって、そこはもうちょっと言い方あるだろ」
「じゃあ、映える」
「余計分かりにくい」
瞬が苦笑すると、メイは少しだけ口元を緩めた。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
アリスが悪気なく言った「堂々と見せて歩けばいい」という言葉。
それはメイにとって、あまりにも遠い場所にある考えだった。
この屋敷の中では、確かに受け入れてもらえた。
けれど、外は違う。
街の人たちが、同じように見てくれるとは限らない。
むしろ、そんなはずがないと心のどこかで思ってしまう。
メイの指先が、カップの取っ手を少し強く握った。
そのかすかな変化に、エリーゼが気づいた。
彼女は、ゆっくりと自分のカップを置いた。
紅茶の水面が小さく揺れ、淡い光を受けて輪を描く。
「……アリス様」
エリーゼの声は静かだった。
先ほどまでの穏やかな空気を壊さないように、それでも避けては通れないものを口にする覚悟を含んだ声だった。
「この世界では、紫の瞳は特別な意味を持っていますの」
「特別?」
アリスが片眉を上げる。
「ええ。良い意味ではありませんわ」
その一言で、リビングの空気が少しだけ冷えた。
窓の外では、相変わらず草が揺れている。
光も、風も、花の香りも変わらない。
けれど、室内だけが薄い影に包まれたようだった。
メイは膝の上で手を重ねた。
もうアイガードは握っていない。
だが、指先はまた冷え始めていた。
エリーゼは、メイを気遣うように一度だけ視線を向けた。
その目は、話してもいいかと尋ねているようだった。
メイは小さく頷いた。
怖い。
けれど、ここで逃げれば、また同じ場所に戻ってしまう気がした。
エリーゼは静かに息を吸った。
「数百年前の記録ですわ。大陸の西側に、小さくはありましたが豊かな国がありました。水に恵まれ、花が多く咲き、交易でも栄えていたと伝えられています」
エリーゼの声に、いつもの柔らかさはあった。
けれど、その言葉の端には、古い紙をめくるような乾いた重みがあった。
「その国が、ある夜を境に滅びました」
誰も口を挟まなかった。
送風口から流れる風が、カーテンを揺らす。
布が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「原因は、はっきりとは分かっていません。記録によって内容が違います。あるものは、原因不明の病だったと書いています。あるものは、国中の魔力が乱れたと記しています。井戸の水が濁り、家畜が倒れ、人々が次々に命を落としたとも」
メイの肩が小さく震えた。
瞬は黙って、彼女の手の近くに自分の手を置いた。
握るかどうかはメイに任せる距離だった。
その距離が、今のメイにはありがたかった。
「そして、その混乱の中心にいたとされたのが、紫の瞳を持つ女性でした」
アリスの表情が変わった。
さっきまでの軽い疑問が、消える。
彼女はカップから手を離し、エリーゼをじっと見た。
「女性?」
「はい。記録では、魔女と呼ばれていますわ」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の隅にいたキースたちの顔がわずかに強張った。
魔女。
この世界で、その言葉は単なる肩書きではない。
強い力を持ち、人の理解を超え、災いと結びつけられやすい存在。
恐れと噂が絡み合った、重い呼び名だった。
「その女性が本当に何をしたのかは、今となっては誰にも分かりません。ただ、その国が滅びた後、人々は理由を求めました。なぜこんなことが起きたのか。誰のせいなのか。何を憎めばいいのか」
エリーゼはそこで一度言葉を切った。
リビングに、静かな沈黙が降りる。
それは、第53話でメイがアイガードを外す前の沈黙とは違っていた。
あの時は、目の前の反応を待つ静けさだった。
今の沈黙は、数百年分の埃を吸い込んだように重かった。
誰も見たことのない昔の出来事。
誰も確かめられない古い噂。
それが今ここにいる少女の肩へ、冷たい手のように伸びている。
エリーゼは続けた。
「そして、人々はその女性の瞳の色を、災いの印として語り継ぎました。紫の瞳を持つ者は、悪い出来事を呼ぶ。心が不安定で、周囲を不幸にする。そういう話が、長い時間をかけて広がっていったのです」
メイはうつむいた。
言葉として聞くと、胸の奥がきしんだ。
分かっていたことのはずなのに。
何度も言われてきたことのはずなのに。
改めて説明されると、自分の背後に巨大な黒い影が立っているように感じた。
自分が何かをしたわけではない。
誰かを傷つけたわけでもない。
けれど、生まれる前から決められていたみたいに、世界は自分を怖がる理由を持っている。
その事実が、メイの胸を冷たく締めつけた。
ゼイクが、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、かつてはそう教えられていた」
メイの体が、びくりと震えた。
ゼイクはメイを見なかった。
視線を自分の組んだ手元に落としたまま、静かに続ける。
「騎士団の教本にも記述がある。紫の瞳を持つ者には警戒せよ、と。感情の揺れが災いを呼び、周囲に害を及ぼす可能性がある。発見した場合は、監視対象として扱うべきだと」
彼の声は硬かった。
自分の口から出る言葉を、自分自身が苦く感じているような声だった。
「もちろん、今の私はそうは思っていない。メイがどんな子か、もう知っている。瞬の隣で笑い、誰かの痛みに涙を流し、仲間のために震えながらも前に進もうとする子だと知っている」
そこで、ゼイクはようやくメイを見た。
その目には、後悔があった。
「だが、瞬たちに出会う前の私なら……君の瞳を見ただけで、剣に手をかけていたかもしれない」
メイは唇を噛んだ。
痛い言葉だった。
けれど、ゼイクは嘘をついていない。
だからこそ、余計に痛かった。
ゼイクは今のメイを受け入れてくれている。
それでも、過去の彼なら怖がった。
この世界で正しく育ち、騎士として教育を受けた人間でさえ、そうだった。
なら、他の人たちはどうなのだろう。
市場の人。
ギルドの冒険者。
貴族街の人々。
下層区画の住人たち。
みんなが、アリスのように笑ってくれるわけではない。
メイの胸に、さっきまで戻りかけていた温かさが、少しずつ冷えていく。
指先が震えた。
今度は寒さではない。
怖さだった。
膝の上に置いた手に、ぽたりと汗が落ちる。
冷や汗だった。
手のひらはじっとり濡れているのに、指の先だけは氷のように冷たい。
「……やっぱり」
メイの声は、ほとんど息のようだった。
瞬が顔を向ける。
「メイ?」
「やっぱり、私は……外では、隠した方がいいのかもしれません」
その一言で、さっきまで少しだけ明るくなっていたリビングの空気が、また沈んだ。
エリーゼが悲しそうに目を伏せる。
ゼイクは何か言おうとして、唇を結んだ。
キースたちも、かける言葉を見つけられずに黙っている。
誰も、簡単に「そんなことない」と言えなかった。
この世界に残る恐れを、彼らは知っている。
メイがこれまでどれほど傷ついてきたか、その一部を知っている。
だからこそ、無責任な明るさで背中を押せなかった。
重い沈黙が、リビングを満たした。
外では、風が庭の草を揺らしている。
葉擦れの音がかすかに届く。
遠く、王都のどこかで馬車の車輪が石畳を叩く音がした。
けれどその音さえ、この部屋には届ききらない。
メイはうつむいたまま、テーブルの上の白いアイガードを見た。
やっぱり、これは必要なのだ。
自分を守るために。
周りを困らせないために。
瞬たちに迷惑をかけないために。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
せっかく、外していいと思えたのに。
この家の中では、顔を上げてもいいと思えたのに。
でも、それはきっと、この家の中だけの話なのだ。
メイの紫の瞳に、また涙が滲みかけた。
その時。
深く、長い息を吐く音がした。
誰かが、肺の奥に溜め込んでいたものをすべて吐き出すような、遠慮のない溜息だった。
全員が、顔を上げる。
アリスだった。
彼女はソファの背もたれに体を預け、天井を見上げていた。
深紅のドレスの裾が床に広がり、扇子を持つ指先が、苛立たしげに肘掛けを軽く叩いている。
その青い瞳には、恐れも迷いもなかった。
あるのは、心底うんざりしたような色だった。
アリスはゆっくりと体を起こした。
そして、静まり返ったリビングで、吐き捨てるように言った。
「……なにそれ」
その声に、メイはびくりと肩を震わせた。
アリスは、真っ直ぐにメイを見た。
怒鳴ったわけではない。
大きな声でもなかった。
けれど、その一言は、重く沈み込んでいたリビングの空気を、真横から切り裂くように響いた。
メイは肩を震わせたまま、アリスを見た。
怖かった。
今度こそ、何か厳しいことを言われるのではないかと思った。
やっぱり外では隠すべきだ。
やっぱり、この目は人を困らせる。
そう言われるのではないかと、胸の奥がぎゅっと縮まった。
けれど、アリスが向けていた怒りは、メイに対してではなかった。
アリスは、テーブルの上に置かれた白いアイガードを一瞥した。
次に、メイの紫の瞳を見た。
そして、深く息を吐いた。
「くだらない」
その一言に、リビングの全員が息を止めた。
「数百年前の話でしょ? しかも、本当に何が起きたのかも分かっていない。誰かが勝手に理由をつけて、誰かを悪者にして、それをずっと言い伝えてきた。……それだけじゃない」
アリスは扇子を閉じ、テーブルに軽く置いた。
ぱちん、という乾いた音がした。
「そんな昔の噂で、今ここにいるメイちゃんが傷つけられるなんて、筋が通らないわ」
その声には、迷いがなかった。
メイは唇を震わせる。
「でも……皆さん、怖がります。私が何かしたわけじゃなくても、この目を見ると……」
「怖がる方が間違ってる」
アリスは即答した。
あまりにもはっきりと言い切ったので、メイは言葉を失った。
「もちろん、すぐに全員が考えを変えるとは思わないわよ。昔から聞かされてきたことって、なかなか抜けないもの。怖がってしまう人もいるでしょうね」
アリスはそこまで言うと、少しだけ声をやわらげた。
「でもね、メイちゃん。それは、あなたの責任じゃない」
リビングに、静かな風が通った。
窓は閉まっている。
けれど、魔道具の涼しい空気がカーテンを揺らし、その影が床の上でゆっくりと波打った。
テーブルの上の紅茶はもう冷めかけていて、湯気はほとんど見えない。けれど花の香りだけは、まだかすかに残っていた。
「あなたが背負う必要のないものを、周りが勝手に背負わせているだけよ」
アリスはそう言って、メイの隣へ腰を下ろした。
深紅のドレスが、ソファの上にふわりと広がる。
アリスは少し体を傾け、メイの顔を真正面から見た。
「いい? あなたは昔の誰かじゃない。どこかの国を滅ぼした人でもない。今ここで、紅茶を両手で持って、泣きそうな顔をしている、ただのメイちゃんよ」
メイの紫の瞳が揺れた。
「ただの……私……」
「そう。ただの、可愛くて、優しくて、瞬くんに大事にされすぎて周囲が胸やけしそうなメイちゃん」
「おい、そこで俺を巻き込むな」
瞬が小さく抗議した。
重く沈んでいた空気に、ほんの少しだけ隙間ができた。
けれど、アリスはすぐに真剣な表情へ戻った。
「昔の話を知ることは大事よ。何も知らないまま突っ込めば、余計に傷つくこともあるから。でも、その話に自分の全部を決められる必要なんてない」
メイは、胸の前で手を握った。
指先はまだ冷たい。
けれど、さっきのように震えてはいなかった。
「私は……外でも、この目を隠さなくていいんでしょうか」
その問いは、消えそうなほど小さかった。
アリスはすぐには答えなかった。
それが、メイには少し意外だった。
今までのアリスなら、迷いなく「当然よ」と言い切るような気がしたからだ。
アリスは、窓の外へ視線を向けた。
中庭の草が、風に押されて一斉に傾いている。
光を受けた葉の縁がきらきらと揺れ、庭石の上には木漏れ日が細かく散っていた。
「隠したい日もあると思う」
アリスは静かに言った。
「怖い日もある。誰かの視線に耐えられない日もある。そういう時に、無理して外せなんて私は言わないわ」
メイは黙って聞いていた。
「でも、隠すかどうかを決めるのは、周りの人じゃない。昔の噂でもない。メイちゃん自身よ」
アリスは、テーブルの上のアイガードを指さした。
「それは檻じゃない。あなたを守る道具でしょ? だから、必要な時は使えばいい。でも、外したい時まで、それに縛られる必要はない」
メイはゆっくりとアイガードを見た。
白い革。
瞬が選んでくれたもの。
怖い視線から逃げるために、何度も自分を守ってくれたもの。
それは嫌なものではなかった。
けれど、今まではそれがなければ外に出られないと思っていた。
守ってくれるもの。
でも、閉じ込めるものでもあった。
その違いを選んでいいのだと、アリスは言っている。
「……私が、選んでいいんですか」
「当たり前でしょ」
アリスは、少し怒ったように言った。
「あなたの目なんだから」
その言葉が、メイの胸にすとんと落ちた。
あなたの目。
誰かに恐れられるためのものではない。
誰かの古い噂を証明するためのものでもない。
自分の目。
世界を見るためのもの。
瞬を見るためのもの。
仲間たちの顔を見るためのもの。
メイの視界が滲んだ。
また涙が出そうになる。
けれど、今度は泣く前に、メイは顔を上げた。
「……私、怖いです」
「うん」
アリスは短く頷いた。
「まだ、怖いです。外で誰かに見られたら、きっと足がすくみます。ひどいことを言われたら、また隠したくなると思います」
「うん」
「でも……」
メイは、隣にいる瞬を見た。
瞬は何も言わずに、ただ頷いた。
その顔には、急かすような色はなかった。
メイがどんな答えを選んでも受け止める、そんな静かな強さがあった。
メイは次に、ゼイクを見た。
ゼイクは姿勢を正し、まっすぐにメイを見返した。
「メイ。私は、君が外すと決めたなら守る。隠すと決めたなら、その選択も尊重する」
堅い声だった。
けれど、その堅さの奥には、確かな誠実さがあった。
「ただ、ひとつだけ言わせてほしい。かつての私なら剣に手をかけたかもしれない。だからこそ、今の私は、君の前に立つ側でいたい」
メイの胸が熱くなる。
エリーゼも、そっと微笑んだ。
「私も同じですわ。怖い時は、私たちの後ろに隠れてくださいませ。でも、前を向きたい時は、隣を歩かせてください」
キースが頭をかいた。
「俺たちも、まあ……見回りくらいならできる。貧民街の連中にも、変なこと言うなって釘刺しとく」
「キースさん……」
「勘違いすんなよ。屋敷の仕事の一環だ。……それに、嬢ちゃんに泣かれると、アンナがうるせぇ」
「お兄ちゃん!」
アンナが頬を膨らませる。
そのやり取りに、ティックが小さく笑い、ボルグも照れくさそうに鼻を鳴らした。
重かった空気が、少しずつほどけていく。
メイは、もう一度テーブルの上のアイガードを見た。
手を伸ばせば、すぐに取れる。
隠そうと思えば、すぐに隠せる。
けれど今、メイはそれに手を伸ばさなかった。
代わりに、両手でカップを包み直す。
冷めかけていた紅茶は、まだほんの少しだけ温かかった。
「……今日は、このままでいたいです」
メイは言った。
声は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
「この家の中だけじゃなくて……できれば、ギルドに行く時も」
瞬の目が少し丸くなる。
「本当にいいのか?」
メイは、すぐには頷けなかった。
怖さは残っている。
胸の奥には、まだ小さな影がある。
けれど、その影だけで自分を決めたくなかった。
「怖いです。でも……」
メイは紫の瞳で、瞬をまっすぐ見た。
「瞬と一緒なら、少しだけ歩ける気がします」
瞬は一瞬、何かをこらえるような顔をした。
それから、いつもの笑顔で頷いた。
「おう。じゃあ、ゆっくり歩けばいい。無理そうなら、すぐ戻ればいいしな」
「はい」
「で、誰かが何か言ったら俺が文句言う」
「それは頼もしいような、不安なような……」
ゼイクが低く呟いた。
アリスは扇子で口元を隠し、楽しそうに笑った。
「いいじゃない。瞬くんがひと暴れすれば、王都中に宣伝できるわよ。『メイちゃんの瞳に文句を言うと、英雄が飛んでくる』って」
「宣伝するな」
「でも効果ありそうですわね」
「エリーゼまで乗るな」
少しだけ笑いが起きた。
メイも、小さく笑った。
その笑いは、まだ控えめだった。
けれど、確かにそこにあった。
アリスは満足そうに頷くと、背筋を伸ばして紅茶を飲み直そうとした。
しかし、カップを口元に運んだ瞬間、眉をひそめる。
「冷めてる」
「そりゃ、あれだけ話してればな」
瞬が呆れたように言う。
エリーゼがすぐに立ち上がった。
「淹れ直しますわ。今度は少し濃いめにいたしましょう。メイさんがギルドに行くなら、気持ちを落ち着ける香りの方がよさそうですもの」
「お願い。ついでに焼き菓子も追加で」
「アリス様、それはご自分が食べたいだけでは?」
「場を和ませるためよ」
「ものは言いようだな」
瞬の突っ込みに、アリスは涼しい顔をした。
リビングに、また日常の音が戻ってくる。
カップが触れ合う音。
エリーゼが茶葉を選ぶ音。
キースたちが控えめに立ち位置を直す足音。
外から届く、庭の葉擦れ。
遠くの馬車が石畳を叩く硬い音。
そのどれもが、さっきより少しだけ鮮明に聞こえた。
メイは、右目でその光景を見ていた。
隠していない。
伏せていない。
ちゃんと見ている。
怖さはまだ消えない。
明日になれば、また不安になるかもしれない。
外に出れば、誰かの視線に胸が痛むかもしれない。
それでも、今この瞬間だけは、顔を上げていられた。
瞬が隣で言った。
「メイ」
「はい」
「似合ってるぞ」
短い言葉だった。
けれど、その言葉だけで、メイの胸の奥に灯った小さな光が、少しだけ強くなった。
「……ありがとうございます」
メイは微笑んだ。
窓の外では、風が中庭を渡っていく。
草が靡き、葉が擦れ、光が揺れる。
白いアイガードはテーブルの上に置かれたまま、静かにその光を受けていた。
それはもう、逃げ込むためだけの場所ではなかった。
必要なら手に取ればいい。
でも、今は取らなくてもいい。
メイは、自分の紫の瞳で、冷めかけた紅茶と、笑い合う仲間たちと、窓の向こうの眩しい庭を見つめた。
世界はまだ怖い。
けれど、怖いだけではなかった。




