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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第53話:紫のアメジストと、転生者の感性 〜呪いとは、まだ名前のない祝福である〜

メイの指先が、白いアイガードの留め具に触れていた。


 銀色の金具は、昼の光を受けてかすかに光っている。

 その小さな光が、メイにはやけに鋭く見えた。まるで、今から自分の内側にある一番柔らかい場所を切り開く刃のようだった。


 リビングは静まり返っていた。


 さっきまで紅茶の香りに混じっていた焼き菓子の甘い匂いも、今はどこか遠い。

 魔道具の送風口から流れてくる涼しい風が、カーテンの端をふわりと揺らす。薄い布が窓辺でかすかにこすれ、その音だけが、やけにはっきり耳に残った。


 大きなガラス窓の向こうでは、中庭の草が風に靡いている。

 陽を受けた葉の表面が、光の角度を変えるたびに白くきらめいた。庭木の枝先が揺れ、細い影が床の上でゆっくり震える。


 けれど、室内にいる誰も、その穏やかな景色を見ていなかった。


 全員の視線が、メイの手元に集まっていた。


 メイは、息を吸おうとした。

 けれど、うまく吸えなかった。


 胸の奥が狭くなっている。

 喉の奥に小さな石が詰まったようで、唾を飲み込むだけでも痛い。

 指先には力が入らず、留め具に触れているだけなのに、手が震えているのが自分でも分かった。


 冷たい汗が、首筋をゆっくり伝った。


 アイガードを外す。


 それだけのことだ。

 ただ、革の留め具を外して、右目を見せるだけ。


 けれどメイにとって、それは裸足で氷の上に立つようなものだった。

 自分を守っていた薄い壁を、自分の手で外すことだった。


 この白い革の奥にあるものを見た時、人は変わる。


 やさしかった声が、急に硬くなる。

 近かった距離が、一歩、二歩と遠ざかる。

 何も言わずに目を逸らす者もいた。

 息を呑み、顔を引きつらせ、それから笑ってごまかす者もいた。


 そして、笑いでごまかせない者は、石を投げた。


 ――化け物。


 ――不吉だ。


 ――近づくな。


 忘れたはずの声が、耳の奥でよみがえる。

 湿った土の匂い。投げられた小石が頬をかすめた熱さ。逃げる足音。息が切れて、胸が焼けるように痛かったこと。雨上がりのぬかるみに膝をついた時の、冷たい泥の感触。


 メイの指が止まった。


 アリスさんも、同じ顔をするかもしれない。


 そう思った瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。


 目の前にいるアリスは、美しい人だった。

 真っ直ぐに背筋を伸ばし、深紅のドレスを当たり前のように着こなし、紅茶のカップを持つ指先まで絵になる人。

 この王都で誰も逆らえないほどの家に生まれ、何もかもを持っているように見える人。


 そんな人が、自分の右目を見たら。


 汚いものを見るように顔をしかめるかもしれない。

 怖いと言って、距離を取るかもしれない。

 この屋敷から出て行って、と冷たく言うかもしれない。


 そうなったら、自分はきっと耐えられない。


 せっかく、ここが少しだけ居場所のように思えてきたのに。

 瞬の隣で、紅茶の香りに包まれながら笑っていられる場所だと思い始めたのに。

 また、自分の目ひとつで壊れてしまうのなら。


「……メイ」


 その時、温かい手が重なった。


 瞬だった。


 彼の手は、メイの冷え切った指先を包むように添えられている。

 強く握りしめるのではなく、逃げてもいいと言ってくれているような、やさしい力だった。


 メイは、ゆっくり顔を上げた。


 瞬は笑っていなかった。

 いつもの軽い調子でもない。

 ただ、黒い瞳でまっすぐメイを見ていた。


「大丈夫だ」


 低い声だった。

 大声ではないのに、不思議と部屋のどこよりも近くで響いた。


「嫌なら、やめていい。でも、見せるなら俺がいる。絶対にいる」


 その言葉に、メイの胸の奥で、こわばっていた何かが少しだけ緩んだ。


 瞬は、メイの右目を初めて見た時も、逃げなかった。

 気味悪がらなかった。

 悲鳴も上げなかった。


 綺麗だ、と言った。


 あの一言が、今でもメイの中に残っている。

 暗い部屋の隅に置かれた小さな灯りのように。

 どれだけ周りが冷えても、そこだけは消えずに残っている。


「……瞬を、信じます」


 メイは小さく言った。


 声は震えていた。

 けれど、確かに自分の意思だった。


 カチリ。


 留め具が外れる音がした。


 それは本当に小さな音だった。

 けれど、その場にいた者たちには、扉が開く音のように聞こえた。


 メイは、ゆっくりとアイガードを外した。


 白い革が肌から離れる。

 隠されていた右目に、ひんやりとした空気が触れる。

 長いあいだ覆われていた場所に光が差し込み、メイは思わずまぶたを伏せた。


 膝の上に、アイガードが落ちる。


 柔らかな音だった。

 けれど、その音を合図にしたように、リビングの時間が止まった。


 メイは、恐る恐る右目を開けた。


 窓から差し込む初夏の光が、彼女の顔を斜めに照らしていた。

 銀色の髪が光を受け、細い糸のように輝く。頬の白さが昼の明るさに浮かび上がり、その中で、右目だけが深く鮮やかな色を放っていた。


 紫。


 ただの紫ではなかった。


 夜が一番深くなる直前の空を閉じ込めたような色。

 雨上がりの花びらに残る雫を、光ごと溶かしたような色。

 暗い場所で見れば静かに沈み、光を受ければ内側から燃えるように輝く、複雑で美しい紫だった。


 左目の黒とはまるで違う。

 けれど、だからこそ、その対比がメイの顔に不思議な強さを与えていた。


「っ……」


 部屋の隅から、誰かが息を呑む音がした。


 貧民街の復興作業の報告に来ていたキースたちだった。

 キースは口を開きかけ、そのまま閉じる。

 ボルグの太い指が、無意識に拳を作った。

 アンナは小さく肩を震わせ、慌てて両手で口を押さえる。


 彼らは、裏社会を生きてきた。

 血も、怒号も、夜の闇も知っている。

 そう簡単に何かへ怯える人間ではない。


 それでも、紫の瞳にまつわる恐れは、この世界の人間の奥深くに根を張っていた。

 考えるより先に、体が反応してしまう。

 知っている。聞かされてきた。近づくなと教えられてきた。


 ゼイクも、静かに息を詰めていた。


 彼はメイを仲間として受け入れている。

 その優しさも、強さも、弱さも知っている。

 それでも、アリスがどう反応するかだけは分からなかった。


 エリーゼもまた、ティーカップに触れたまま動かない。

 指先が白くなるほど、取っ手を握っている。


 もしアリスが拒絶したら。

 もしこの屋敷の主が、メイの瞳を恐れたら。


 その瞬間、この穏やかな場所に細いひびが入る。


 誰もそれを口にはしなかった。

 けれど全員が、それを感じていた。


 沈黙が落ちる。


 一秒。

 二秒。

 三秒。


 その数秒は、メイにはひどく長かった。


 時計の針が止まったようだった。

 遠くの街の喧騒も聞こえない。

 庭の葉擦れも、カーテンの揺れる音も、すべて消えたように感じる。


 自分の心臓の音だけが、耳の奥で大きく響いていた。


 どくん。

 どくん。

 どくん。


 メイは顔を上げられなかった。

 アリスの表情を見るのが怖かった。


 今、どんな顔をしているのだろう。


 青ざめているのだろうか。

 眉をひそめているのだろうか。

 それとも、もう目を逸らしてしまったのだろうか。


 膝の上に落ちたアイガードを、メイは無意識に握りしめた。

 白い革が、指の中でくしゃりと小さく鳴る。


 その時だった。


 アリスが、ゆっくりと息を吸った。


「……」


 来る。


 メイは目を閉じた。


 拒絶の言葉が来る。

 今度こそ、自分はこの場所にいられなくなる。


 そう覚悟した、次の瞬間。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 リビングの空気が、盛大にひっくり返った。


 メイの肩が跳ねる。

 ゼイクが椅子の上で固まる。

 エリーゼの手から茶葉の小皿が滑りかけ、キースたちは全員、目を丸くした。


 アリスだけが、テーブルに身を乗り出していた。


 青い瞳をこれでもかというほど輝かせ、頬を紅潮させ、まるで長い間探していた宝物を目の前に見つけた子どものように、身を震わせている。


「なにこれ……!」


 アリスは両手を胸の前で握りしめた。


「めちゃくちゃ綺麗じゃない!」


 その声には、恐れがなかった。

 嫌悪もなかった。

 気遣いで作った優しい嘘でもなかった。


 あるのはただ、美しいものを見つけた瞬間の、隠しきれない感動だけだった。


 メイは、ぽかんと顔を上げた。


「……え?」


 アリスはさらに身を乗り出す。


「見て、瞬くん! この透明感! 光の入り方で色が変わって見える! 最高級のアメジストみたい!」


 瞬は、ほらな、と言いたげに小さく笑った。


 メイはまだ、何が起きたのか分からないまま、紫の右目を大きく見開いていた。


 怖がられていない。


 避けられていない。


 それどころか、褒められている。


 信じられないほど明るい声で。

 息をするのも忘れるほど真っ直ぐなまなざしで。


 メイの手の中で、白いアイガードがもう一度、くしゃりと音を立てた。


 アリスは、もう止まらなかった。


 ソファから勢いよく立ち上がり、テーブルの角を回り込んで、メイの前までやって来る。深紅のドレスの裾が床を滑り、磨き上げられた木目の上に、やわらかな影を落とした。


 メイは反射的に肩を縮める。


 けれど、アリスの足音には拒絶がなかった。

 怖いものへ近づく足音ではない。

 汚れたものを確かめに行く足音でもない。


 その足音は、宝石店の窓辺で光る小さな指輪に吸い寄せられる少女のように、真っ直ぐで、遠慮がなくて、少し危なっかしいほど弾んでいた。


「ちょ、ちょっと見せて。近くで見せて」


「あ、あの……」


 メイが困ったように瞬を見る。

 瞬は苦笑しながら肩をすくめた。


「大丈夫だ。こいつ、今たぶんただの綺麗なもの好きになってるだけだから」


「ただのって何よ。こんなの興奮するに決まってるでしょ」


 アリスは真顔で言い切った。


 そのあまりにも普通ではない反応に、ゼイクが眉間を押さえる。


「……アリス殿。まず相手が怯えていないか確認する配慮をだな」


「してるわよ。めちゃくちゃしてるわよ。だから触ってないでしょ」


「距離が近い」


「美しいものは近くで見たいの」


「理屈になっていない」


 ゼイクの低い声にも、アリスは少しも引かない。

 それどころか、メイの前に膝をつくようにして、彼女の右目をまじまじと見つめた。


 メイの右目に、窓からの光が入る。

 紫色の奥に、ほんのわずかに淡い輝きが揺れた。

 それは濁りのない水面に夕暮れの空が映ったようで、見る角度によって、深い紫にも、淡い花の色にも見える。


 アリスは息を呑んだ。


「……本当に綺麗」


 今度の声は、さっきの歓声とは違っていた。

 驚きの勢いが抜けた、静かな感嘆だった。


 メイは、その声に戸惑った。


 怖くないのだろうか。

 本当に、嫌じゃないのだろうか。

 無理をしているわけではないのだろうか。


 そんな疑問が、胸の奥からいくつも湧いてくる。


「……あの」


 メイは、膝の上でアイガードを握りしめたまま、小さく尋ねた。


「怖く……ないんですか?」


 リビングの空気が、もう一度静かになった。


 先ほどの沈黙とは違う。

 重く押し潰すようなものではなく、誰もがその答えを聞きたいと思っている静けさだった。


 アリスは、きょとんと瞬きをした。


「怖い? 何が?」


「この目、です」


 メイの声は、かすかに震えていた。


「紫の目は……不吉だって。災いを呼ぶって。みんな、そう言います。だから……」


 言葉の先が喉で詰まる。


 言い慣れているはずだった。

 何度も言われてきたことだ。

 何度も自分の中で繰り返してきたことだ。


 それなのに、口にすると痛かった。


 自分で自分を傷つけるような痛みだった。


 アリスは、しばらく黙ってメイを見つめていた。

 青い瞳に、からかうような色はもうなかった。


 やがて彼女は、深々と息を吐いた。


「……はあ?」


 その声は、呆れきっていた。


 メイがびくりとする。


 だが、アリスが呆れていたのは、メイに対してではなかった。


「何それ。色が違うだけで不吉? 災い? 誰がそんなこと言い出したのよ。センスがなさすぎるわ」


「せ、センス……?」


「そうよ。最低のセンス」


 アリスはきっぱりと言った。


「紫って、ものすごく綺麗な色じゃない。高貴で、神秘的で、光の加減で表情が変わって、しかもメイちゃんの白い肌と銀色の髪にすごく合ってる。隠す理由がひとつも見当たらないんだけど」


 言葉が速い。

 けれど、そこに嘘はなかった。


 アリスは本気でそう思っていた。

 同情でも、慰めでもない。

 目の前にあるものを、そのまま美しいと感じているだけだった。


 メイは、唇を小さく開いたまま固まっている。


 そんな反応をされたことがなかった。

 怖くないと言われたことは、瞬からあった。

 綺麗だと言われたことも、瞬からあった。


 けれど、こんなふうに、当然のように。

 まるで自分が長年隠してきたものの方が間違いで、隠す必要など最初からなかったみたいに、真っ直ぐ言い切られたことはなかった。


「でも……この色は……」


「メイちゃん」


 アリスは、そこで声を少しだけ柔らかくした。


「あなたが怖がる必要はないわ。怖がるべきなのは、こんな綺麗なものを見て悪口しか言えない人たちの方よ。心の目が曇りすぎ」


 瞬が、思わず吹き出しそうになって口元を押さえた。


「心の目って……お前、なかなか強い言い方するな」


「事実でしょ」


 アリスはちらりと瞬を見て、それからまたメイに向き直る。


「ねえ、メイちゃん。これ、生まれつき?」


「……はい」


「すごいわね。じゃあ、世界にひとつだけの色じゃない」


「世界に……?」


「そう。誰かが真似しようとしてもできない、あなただけの色」


 アリスの声が、リビングに静かに落ちる。


 メイの胸の奥で、何かが小さく震えた。


 あなただけの色。


 今まで、違うことは怖いことだと思っていた。

 人と違う目は、隠さなければならない傷だと思っていた。

 違っているから、嫌われる。

 違っているから、石を投げられる。

 違っているから、誰かの隣にいてはいけない。


 けれどアリスは、同じものを見て、まったく別の言葉をくれた。


 世界にひとつだけ。


 その言葉は、メイの中に落ちると、冷たく固まっていた何かを少しずつ溶かしていった。


「私なんて、最初はこの金髪と青い目に慣れなくて、鏡を見るたびに誰よこれって思ってたんだから」


 アリスは自分の髪を指先でつまみ、肩をすくめた。


「でも、慣れたら悪くないのよ。似合ってるし」


「自分で言うのか」


 ゼイクが小さく突っ込んだ。


「言うわよ。自分の見た目くらい、自分で褒めて何が悪いの」


 アリスは堂々と言った。

 その態度があまりにも自然で、エリーゼが思わず口元を緩める。


「……アリス様らしいですわね」


「当然でしょ。人にどう見られるかなんて、全部気にしてたら疲れるだけよ。もちろん、最低限の礼儀は必要だけど」


 アリスはメイの右目をもう一度見つめた。


「でも、その目は隠すためのものじゃないわ。ちゃんと見るためのものでしょ?」


 メイの喉が震えた。


 その目は、隠すためのものじゃない。


 ちゃんと見るためのもの。


 そんな当たり前のことを、メイは忘れていた。

 いや、忘れさせられていた。


 この目は、人を怖がらせるもの。

 人に嫌われるもの。

 自分を不幸にするもの。


 そう思い込まされているうちに、目は見るためにあるということさえ、どこか遠くへ追いやっていた。


 ぽたり、と音がした。


 メイの膝の上に、涙が落ちた。


 白いアイガードの上に、小さな丸い染みができる。


「あ……」


 メイは慌てて拭おうとした。

 けれど、次の涙がすぐにこぼれた。

 その次も、そのまた次も。


 止まらなかった。


 悲しいわけではない。

 胸が苦しいわけでもない。


 ただ、ずっと押し込めていたものが、急に出口を見つけてしまったのだ。

 石を投げられた日の痛み。

 怖がられた時の寒さ。

 瞬に初めて綺麗だと言われた時の救われた気持ち。

 そして今、アリスが当然のように美しいと言ってくれたこと。


 それらが一度に込み上げて、涙になってあふれた。


「メイ」


 瞬が隣からそっと頭を撫でた。


 その手の温かさに、メイの涙はさらに増えた。


「よかったな」


「……はい」


 声が震える。


「よかった……です」


 その言葉を口にした瞬間、メイは自分でも驚くほど深く息を吐いた。

 長いあいだ胸の奥に溜めていた空気を、ようやく吐き出せたようだった。


 瞬は、アリスに向かって小さく笑った。


「な? 言った通りだったろ」


「何が?」


「お前なら、俺と同じ反応すると思ったんだよ」


 アリスは少しだけ目を丸くし、それから照れ隠しのように扇子を開いた。


「別に、同じ反応をしたつもりはないわ。私は私の感性で言っただけ」


「はいはい」


「その適当な返事、腹立つわね」


 いつもの調子に戻りかけた二人のやり取りに、リビングの空気が少し緩む。


 だが、部屋の隅では、まだキースたちが固まっていた。


 キースは、メイの瞳を見ていた。

 紫の瞳。

 不吉だと教えられてきた色。

 近づくなと、避けろと、関わるなと、何度も聞かされてきた色。


 確かに最初は、背筋に冷たいものが走った。

 体が勝手に反応した。

 幼い頃から染みついた恐れは、簡単には消えない。


 けれど、アリスがあまりにも堂々と「綺麗だ」と言った。

 瞬が当たり前のようにメイの頭を撫でた。

 エリーゼもゼイクも、メイから目を逸らさなかった。


 そうしてもう一度見てみると。


 その紫は、ただの恐ろしい色ではなかった。


 光を受けて、静かに輝いている。

 涙に濡れて、より深く澄んで見える。

 怯えながらもそこにいる少女の顔を、確かに美しく見せている。


 キースは、自分の頬をかいた。


「……悪くねぇな」


 小さな声だった。


 メイが涙に濡れた目で、そちらを見る。


 キースは気まずそうに視線を逸らし、けれど、すぐにもう一度メイを見た。


「いや、その……正直、最初は驚いた。昔から色々聞かされてたからよ。でも、こうして見ると……まあ、なんだ」


 彼は言葉を探すように頭をかいた。


「綺麗だと思う」


 アンナも、おずおずと頷いた。


「私も……びっくりはしたけど、怖くないです。メイさんに、似合ってます」


 ボルグは腕を組んだまま、照れくさそうに鼻を鳴らした。


「俺には難しいことは分からんが、嬢ちゃんが泣くような目じゃねぇだろ。それだけは分かる」


 ティックも木箱の横でこくこく頷く。


「うん。なんか、宝石みたいだ」


 メイは、言葉を失った。


 さっきまで、自分の右目を見られることが怖くてたまらなかった。

 誰かの顔が変わるのを見るのが怖かった。

 この場所まで失うかもしれないと思っていた。


 けれど今、見えているのは違った。


 瞬の優しい顔。

 アリスの得意げな顔。

 ゼイクの少し不器用な、けれど静かに見守る顔。

 エリーゼの柔らかな微笑み。

 キースたちの、戸惑いながらも受け入れようとする顔。


 誰も逃げていない。


 誰も石を投げない。


 誰も、化け物とは言わない。


 メイは、両手で顔を覆った。


「……ありがとう、ございます」


 小さな声だった。

 けれど、リビングにいる全員に届いた。


 アリスは満足そうに頷き、メイの隣に腰を下ろした。


「どういたしまして。というか、本当に隠すのもったいないわよ。もちろん、外で嫌なことを言う人がいるなら無理しなくていいけど」


 そこでアリスは、少しだけ声を落とした。


「でも、この家の中では、隠さなくていいんじゃない?」


 メイは、ゆっくりと膝の上のアイガードを見た。


 白い革。

 瞬が選んでくれた、大切なもの。

 自分を守ってくれたもの。

 これがあったから、怖い視線から少しだけ逃げられた。

 これがあったから、外を歩けた日もあった。


 だから、嫌いではない。

 捨てたいわけでもない。


 でも。


 メイは、そっとアイガードをテーブルの上に置いた。


 革が木の天板に触れ、柔らかな音がした。


「……はい」


 メイは涙を拭い、顔を上げた。


 紫の右目が、昼の光を受けて静かに輝く。


「この家の中では、外していたいです」


 瞬が笑った。


「おう。それでいい」


 アリスも満足げに頷いた。


「その方が絶対いいわ。せっかく可愛いんだから」


「か、可愛い……」


 メイの頬が赤くなる。


 瞬がすかさず言った。


「いや、メイは元から可愛いぞ」


「瞬……!」


 メイがさらに真っ赤になる。


 その甘すぎる空気に、ゼイクが深く息を吐き、エリーゼが苦笑し、キースたちはどう反応していいか分からず視線を泳がせた。


 アリスはそんな二人を見て、扇子で口元を隠す。


「……なるほどねぇ」


「なんだよ」


「いえ? 瞬くんが本気になる理由、少し分かったかもって思っただけ」


 瞬は照れたように頭をかいた。


「そ、そういう話は今いいだろ」


「いいじゃない。平和な証拠よ」


 アリスは軽く笑った。


 窓の外で、初夏の風が草を揺らした。

 光を受けた葉が、きらきらと瞬きながら波のように傾いていく。

 庭の奥で小鳥が鳴き、その声が澄んだ空気を渡って、ガラス越しにかすかに届いた。


 リビングには、先ほどまでの重たい沈黙はもうなかった。


 紅茶は少し冷めていた。

 クッキーの皿には、瞬が食べかけた分の粉が残っている。

 テーブルの上には、白いアイガードが置かれている。


 それはもう、隠すために握りしめられてはいなかった。


 メイは、そっと右目でアリスを見た。

 次に、瞬を見た。

 ゼイクを、エリーゼを、キースたちを見た。


 みんなの顔が、ちゃんと見えた。


 怖がられるかもしれないと、ずっと見ないようにしてきた顔。

 目を逸らされるのが怖くて、自分から先に伏せていた視線。


 今は、そのひとつひとつを見ても大丈夫だった。


「……綺麗だよ、メイ」


 瞬が、もう一度言った。


 最初に言ってくれた時と同じように。

 当たり前のように。

 何度でも言うつもりだと分かる声で。


 メイは、涙の跡が残る頬で、やわらかく笑った。


「はい」


 その笑顔は、まだ少し照れていて、まだ少し不安を残していた。

 けれど、確かに前を向いていた。


 アリスはカップを手に取り、すっかり冷めた紅茶を見て眉を寄せた。


「……せっかくの紅茶が冷めたわね」


 エリーゼがすぐに立ち上がる。


「淹れ直しますわ。今度は、メイさんの瞳に合うような、少し花の香りがするものにいたしましょうか」


「それいいわね」


 アリスが頷く。


 メイは驚いたようにエリーゼを見た。


「私の目に、合うお茶……?」


「ええ。今日は特別な日ですもの」


 エリーゼは優しく微笑んだ。


 その言葉に、メイの胸がまた熱くなる。


 特別な日。


 右目を晒した日ではない。

 怖がられた日でもない。

 自分の色を、少しだけ好きになってもいいと思えた日。


 そんなふうに思える日が来るなんて、メイは想像したこともなかった。


 アリスは扇子をぱちんと閉じ、いつもの調子で言った。


「じゃあ決まりね。今日はメイちゃんの紫の瞳記念ティータイムよ」


「な、名前がすごいですね……」


「分かりやすいでしょ」


 瞬が笑う。

 メイもつられて笑った。


 その笑い声は、リビングの高い天井へふわりと上がり、昼の光の中に溶けていった。


 テーブルの上の白いアイガードは、静かにそこに置かれたままだった。


 けれどもう、それは檻ではない。

 必要な時に自分を守ってくれる道具であり、外してもいいと選べるものだった。


 メイは、紫の右目で、もう一度みんなを見た。


 世界は、ほんの少しだけ色を変えていた。

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