第52話:貧民街の改革と、魔女のティータイム 〜呪いは、希少価値(レアアイテム)である〜
王都グランドルの下層区画は、長いあいだ、誰も見ようとしない場所だった。
朝の光が届くのは遅い。
高い建物の影が折り重なり、細い路地の奥には、昼になっても薄暗い湿気が残る。割れた石畳の隙間には黒ずんだ水が溜まり、風が吹くたびに、腐った木片と古い布切れが地面を擦って乾いた音を立てた。
かつてそこには、諦めたような沈黙があった。
誰かが倒れていても、足を止める者は少ない。
子どもが泣いていても、誰も大声では呼ばない。
声を上げれば、奪われる。目立てば、狙われる。
そんな当たり前が、汚れた壁の染みのように、街全体に染みついていた。
けれど今、その沈黙は少しずつ削り取られていた。
「おい、そこの土砂、もう少し右だ! 雨が降った時に水が逃げる道を残せ!」
キースの声が、朝の下層区画に響く。
返事とともに、男たちが荷車を押した。
ぎい、ぎい、と古い車輪が軋む。ぬかるんだ地面に深く沈んだ轍が、ゆっくりと伸びていく。荷台から落ちた小石が跳ね、乾いた音を立てて靴先に当たった。
「へい、キースの旦那!」
「旦那はやめろって言ってんだろ。手ぇ止めるな。日が高くなる前に、ここの瓦礫を全部どけるぞ」
キースは額の汗を手の甲で拭った。
まだ朝だというのに、首筋にはもう汗が流れている。けれど、その顔には以前のような追い詰められた暗さはなかった。
彼の足元には、石と木材と割れた壺の欠片が山のように積まれている。
半月前まで、それはただの瓦礫だった。誰かが住んでいた家の残骸であり、誰かが諦めた生活の跡だった。
今は違う。
それは撤去されるべき障害であり、片づければ道になるものだった。
道の向こうでは、ボルグが太い腕で大きな梁を担ぎ上げていた。
「どけどけ! 潰されてぇ奴はいねぇだろ!」
大男の声に、周囲の男たちが慌てて道を空ける。
梁が動くたびに、乾いた土埃が舞い上がった。朝日を受けた埃は金色の粒のように空中を漂い、しばらくして、疲れた男たちの肩や髪に静かに降りた。
それでも、誰も文句を言わなかった。
働けば、食べられる。
働けば、明日もここにいていい。
その単純な約束が、これほど人の背筋を伸ばすものなのかと、キースはこの半月で何度も思い知らされていた。
「こっちの列、まだ受け取ってない人は並んでください! 慌てなくても全員分あります!」
少し開けた広場では、アンナが大きな鍋の前に立っていた。
鍋からは湯気が上がっている。豆と野菜を煮込んだ素朴なスープだ。豪華な肉などほとんど入っていない。それでも、湯気と一緒に立ちのぼる匂いは、空腹の子どもたちを引き寄せるには十分だった。
「アンナ姉ちゃん、今日もスープある?」
「あるよ。でも、押さないでね。ちゃんと順番」
「俺、昨日、石運んだ!」
「見てたよ。偉かったね。じゃあ、少し多めにしておくね」
木の器に注がれたスープが、子どもの小さな手に渡る。
その子は両手で器を抱え、息を吹きかけながら、宝物のように湯気を見つめた。
ティックはその横で、配る袋の数を数えていた。
小柄な体で木箱によじ登り、帳面に印をつける姿は、どこか危なっかしい。だが、その目は真剣だった。
「一人で二回もらおうとしたら、ちゃんと分かるからなー! 俺、こういうの見逃さないからなー!」
「お前、昔は盗む側だったくせに」
「だから分かるんだよ!」
周囲に笑いが起きた。
その笑いは、まだぎこちない。
長いあいだ忘れていたものを、恐る恐る喉から出しているような笑いだった。
けれど確かに、そこには笑いがあった。
キースはその音を聞きながら、目を細めた。
下層区画に笑い声が響く日が来るなんて、思ってもみなかった。
「……あのお嬢様、本気なんだな」
彼は誰に言うでもなく呟いた。
アリス・ローゼンバーグのやり方は徹底していた。
ただ食べ物を配るだけではない。金をばらまくだけでもない。
壊れた道を直す者には賃金を。
瓦礫を片づける者には食料を。
水路を掃除する者には道具と休む場所を。
怪我をした者には治療を。
働けない子どもや老人には、別の形で手が届くようにする。
そして、それらの仕事を動かしているのが、かつてこの街の影にいた自分たちだという事実に、キースは時々、胸の奥が変なふうに詰まった。
盗むしかなかった手で、今は道を作っている。
逃げるために覚えた足音の消し方で、今は夜の見回りをしている。
誰にも信じられなかった自分たちが、今は誰かに「頼む」と言われている。
風が吹いた。
崩れた屋根の隙間を抜け、吊るされた洗濯物を揺らし、少しずつ均された道の上を走っていく。
その風に、土埃とスープの匂いと、汗の匂いが混じっていた。
「キースの旦那!」
「だから旦那はやめろって」
「いや、でもよ。これ、どこに運べばいい?」
男が指した先には、まだ使えそうな木材が積まれていた。
キースは一瞬考え、すぐに指示を出す。
「捨てるな。あっちの小屋の修理に回せ。屋根が抜けてる家から順番だ」
「分かった!」
男は嬉しそうに駆け出した。
その背中を見送りながら、キースはふと、道端の壁に貼られた一枚の紙に目を留めた。
そこには、下手な字でこう書かれている。
『英雄シュン様のおかげで、仕事ができました』
キースは思わず苦笑した。
「……あの人、絶対何も知らねぇ顔してるだろうな」
アリスは、この再開発を進めるにあたって、住人たちにこう伝えさせていた。
これは、英雄・瞬の願いである。
誰も飢えず、誰も奪わずに生きられる街にしたいという、英雄の意志である。
実際に細かい指示を出しているのはアリスだ。金を出しているのも、仕事の流れを作っているのも、ほとんど彼女だった。
だが、住人たちの心に火をつけた名前は、瞬だった。
魔物を倒し、弱い者を見捨てず、あのメイを救った英雄。
その名は、下層区画の乾いた地面に水が染み込むように広がっていた。
「瞬様が、俺たちを見捨てなかったんだ」
「英雄様が仕事をくれたんだ」
「ローゼンバーグ家もすげぇけど、やっぱり瞬様だよな」
あちこちで、そんな声が上がる。
キースは空を見上げた。
建物の隙間から見える青空は細く、まだ広いとは言えない。
それでも半月前よりは、少し明るく見えた。
***
その頃。
当の英雄様は、そんなことなど露ほども知らず、アリスの用意した豪邸のリビングで、ソファに沈んでいた。
「……なんかさ」
瞬は、ふかふかの背もたれに体を預けながら、ぽつりと言った。
大きな窓から差し込む昼の光が、磨かれた床の上に長く伸びている。光の中では小さな埃がきらきらと舞い、風もないのに、薄いカーテンだけが魔道具の涼しい空気を受けてわずかに揺れていた。
外は初夏の熱を帯びているはずなのに、室内はひんやりとしている。
紅茶の香りと、焼き菓子の甘い匂いが、静かな空気の中にゆっくり広がっていた。
「最近、街を歩いてると、すごい拝まれるんだけど」
瞬の手には、半分かじったクッキーがある。
膝の横には、メイがちょこんと座っていた。白いアイガードは今日も右目を覆っている。けれど、表情は穏やかだった。
「気のせいでしょ?」
向かいの席で、アリスが涼しい顔をして紅茶を口に運んだ。
カップの縁に唇をつける仕草は完璧に貴族令嬢そのものなのに、その目元には、どう見ても何かを知っている人間の笑みが浮かんでいる。
「いや、気のせいじゃないって。昨日なんて、知らないお婆ちゃんに両手合わせられて、大根三本もらったんだぞ」
「いいじゃない。食費が浮くわ」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ。生活は大事」
アリスは何食わぬ顔で言い切った。
瞬は眉を寄せたままクッキーをかじる。
さくり、と乾いた音がした。細かい粉が口元に少しつく。
「瞬、ここ」
メイが小さく笑いながら、指先でその粉をそっと拭った。
瞬は一瞬きょとんとして、それから照れくさそうに笑う。
「お、ありがとな」
「うん」
メイの声は柔らかかった。
そのやり取りだけで、リビングの空気が少し温かくなる。
少し離れた場所では、ゼイクが書類を前にして眉間に皺を寄せていた。
椅子に座る姿勢は相変わらず真っ直ぐで、鎧を着ていない時でさえ、背筋だけで周囲を正せそうなほど硬い。
「……瞬。街で名を呼ばれるようになったなら、もう少し自覚を持て。貴様の一挙手一投足が、民の不安や期待に影響する」
「いや、俺、大根もらっただけなんだけど」
「その大根の重みを考えろ」
「大根ってそんな重い話だったか?」
キッチンのそばでは、エリーゼが新しい茶葉を小皿に分けていた。
乾いた葉が皿の上でさらさらと音を立てる。彼女は穏やかに微笑みながら、軽く首を傾げた。
「けれど、良いことではありませんの? 誰かに感謝されるというのは、そう悪いものではないと思いますわ」
「まあ、メイが喜んでくれるなら、悪い気はしないけどさ」
「瞬は人気者だね」
メイが嬉しそうに言った。
その一言で、瞬の顔があっさり緩んだ。
「そ、そうか? まあ、俺もそこそこ頑張ってるしな!」
「単純ね」
アリスが呆れた声を出す。
だが、その視線は瞬ではなく、メイに向いていた。
アリスはティーカップを静かに受け皿へ置いた。
陶器が触れ合う小さな音が、涼しい部屋に澄んで響く。
彼女の青い瞳が、メイを観察するように細められた。
小柄な体。
銀色の髪。
瞬の隣にいる時だけ、安心しきったようにほどける表情。
健気で、素直で、見ているこちらが少し意地悪を言いたくなるくらい、真っ直ぐな少女。
アリスは心の中で、先日、瞬が真剣な顔で口にした言葉を思い出していた。
――俺、メイに恋してるんだ。本気で。
あの時の瞬の目は、ふざけていなかった。
茶化せば怒る、流せば傷つく、そういう顔だった。
だからアリスも、メイという少女を少しだけ真面目に見ていた。
瞬がそこまで言う相手とは、いったいどんな子なのか。
何が、あの能天気で、時々ありえないほど真っ直ぐな男の心を掴んだのか。
そして、見れば見るほど、ひとつだけ気になるものがあった。
白いアイガード。
清楚な白革に、銀色の留め具。
メイの雰囲気にはよく似合っている。瞬が選んだという話も聞いているし、悪い趣味ではない。むしろ、保護具としては可愛くまとまっている。
けれど、ここは屋敷の中だ。
外敵もいない。見知らぬ人間もいない。
気心の知れた仲間だけが集まった、穏やかな昼のリビングだ。
それでもメイは、左目を隠し続けている。
アリスの中で、前の世界の妙な知識が、むくりと顔を出した。
片目隠し。
白髪。
眼帯。
封印。
左目。
それらが勝手に並び、どうしようもなくくだらない方向へ、思考が滑っていく。
アリスは、もう一度メイを見た。
メイは何も知らず、瞬の隣で小さく笑っている。
その白いアイガードが、昼の光を受けて、静かに光った。
アリスの唇が、ほんの少しだけ動いた。
次のひと言が、この穏やかなティータイムを、思いもよらない方向へ転がしていくことになる。
アリスは、しばらく黙ってメイを見ていた。
窓の外では、中庭の草が風に撫でられて、波のようにゆっくり揺れている。
葉と葉が擦れ合う乾いた音が、厚いガラス越しにかすかに届いた。
テーブルの上では、紅茶の表面に淡い光が浮かび、カップの縁に小さな金色の輪を作っていた。
穏やかな昼だった。
誰も急いでいない。
誰も剣に手をかけていない。
誰も怯えていない。
だからこそ、アリスはその疑問を、ただの雑談のように口にした。
「……ねえ、メイちゃん」
「はい?」
メイが背筋を伸ばした。
瞬の隣でくつろいでいた体が、ほんの少しだけ硬くなる。アリスに対して敵意があるわけではない。むしろ、屋敷に迎え入れてくれたことにも、瞬たちの居場所を作ってくれたことにも、メイは心から感謝していた。
それでも、アリスは貴族だった。
美しくて、強くて、自分とはまるで違う場所に立っている人。
その人に名前を呼ばれるだけで、メイの胸の奥には、小さな緊張が生まれる。
アリスは扇子を閉じ、白いアイガードを指先で示した。
「その顔につけてる白いやつ。アイガード、だったわよね?」
「……はい」
「それ、どうして家の中でもつけてるの?」
その瞬間。
空気が止まった。
さっきまで穏やかに響いていた茶器の音も、エリーゼが茶葉を扱う小さな音も、ゼイクが書類をめくる紙の音も、すべてが一度に消えたように感じられた。
メイの指先が、膝の上でぎゅっと丸まる。
アイガード。
それは、ただの飾りではない。
ただ右目を守るためだけの道具でもない。
自分の中で一番見られたくないものを隠す盾だった。
人の目が変わる瞬間を、これ以上見なくて済むようにするための薄い壁だった。
メイの喉が、小さく鳴った。
「えっと……それは……」
言葉が出ない。
舌の先が乾いて、うまく動かなかった。
だが、アリスはまだ気づいていない。
悪意などない。責めるつもりもない。ただ、純粋に気になっているだけだ。
だからこそ、彼女は思いきり間違った方向へ進んでしまった。
「いや、似合ってるのよ? 白革って上品だし、銀の留め具も可愛いし。だけど、家の中でも外さないってなると……」
アリスの口元が、にやりと悪戯っぽく上がった。
「もしかして、それ……左目に何か封印してる感じ?」
「……ふういん?」
メイがきょとんとする。
ゼイクも眉をひそめた。
「封印だと? 魔術的な処置の話か?」
「違う違う。もっとこう……自分の中のすごい力が暴れ出さないように、片目に力を抑え込んでる、みたいなやつよ」
アリスは楽しそうに身を乗り出した。
「ほら、あるじゃない。『くっ、静まれ、私の左目……!』みたいな」
沈黙。
リビングに、とても丁寧な沈黙が降りた。
メイは意味が分からず固まっている。
ゼイクは真剣に考え込んでいる。
エリーゼは茶葉を持ったまま、どう反応していいか分からず微笑みを失っている。
そして瞬だけが、肩を震わせていた。
「ぶっ……」
喉の奥から漏れかけた音を、瞬は慌ててクッキーで塞いだ。
だが、失敗した。
咳なのか笑いなのか分からない奇妙な音が出て、紅茶の香りに包まれた優雅な空間に、非常に残念な人間味が混ざった。
「ちょ、アリス……お前……」
「なによ。瞬くんなら分かるでしょ?」
「分かるから困ってるんだよ……!」
瞬は口元を押さえ、必死に下を向く。
笑ってはいけない。
笑ってはいけないのに、アリスの言葉があまりにも元の世界のひどく懐かしい場所を突いてくる。
右目。封印。静まれ。
この世界で、しかも真顔の貴族令嬢からその流れを聞くことになるとは、異世界生活もいよいよ訳が分からない。
しかし、笑いが込み上げたのは一瞬だけだった。
瞬は、すぐに気づいた。
メイが怯えている。
彼女は冗談の意味を理解していない。
アリスがからかっているのだとさえ、はっきり分かっていない。
ただ、自分の隠しているものに誰かの視線が向いたことだけを感じ取り、肩を小さく縮めている。
白いアイガードの下にある右目。
それを見た者たちが、これまで何を言ってきたのか。
どんな顔をして、どれほど距離を取ったのか。
瞬は知っている。
メイの手が、膝の上で震えていた。
指先だけではない。細い手首も、わずかに震えている。
冷や汗がこめかみに滲み、銀色の髪が肌に張りついていた。
リビングの空気が、先ほどとは違う意味で静まり返る。
それは、ただ音がないだけの静けさではなかった。
誰かが息を吸うことさえ、慎重にならなければならないほどの静寂だった。
瞬は、ゆっくりとメイの肩に手を置いた。
「メイ」
低く、優しい声だった。
メイが瞬を見る。
白いアイガードに隠れていない右目が、不安で揺れていた。
「ごめんな、アリスに悪気はないんだ。あいつ、たぶん本当に何も知らない」
「……はい」
メイは小さく頷いた。
だが、顔はまだ強張っている。
瞬はアリスの方を見た。
アリスも、ようやく空気の変化に気づいていた。
さっきまでの悪戯っぽい笑みが消え、戸惑ったようにメイを見つめている。
「……もしかして、聞いちゃまずいことだった?」
その声には、軽さがなかった。
アリスは無神経ではあるが、残酷ではない。人の本当に痛いところを踏んだと分かれば、そこで笑い続ける人間ではなかった。
瞬は少しだけ息を吐いた。
「まずいっていうか……まあ、説明するより見た方が早い」
「見た方が?」
「ああ」
瞬はメイの手を取った。
その手は、驚くほど冷たかった。
さっきまで温かい紅茶のそばにいたはずなのに、冬の朝に濡れた石に触れたような冷たさだった。
瞬は、その手を両手で包む。
「メイ。無理にとは言わない」
メイの呼吸が浅くなる。
小さな胸が、短い間隔で上下していた。
「でも、俺はアリスに見せてもいいと思ってる」
「……アリスさんに?」
「ああ。多分だけど、あいつはこの世界の人たちとは違う反応をする」
瞬はそこで一度、アリスを見た。
アリスは真剣な顔で黙っている。
余計なことを言わないように、唇をきゅっと結んでいた。
「俺と同じ反応をすると思う」
その言葉に、メイの目が揺れた。
俺と同じ。
あの日、瞬は怖がらなかった。
気味悪がらなかった。
目をそらさなかった。
ただ、まっすぐ見てくれた。
そして、綺麗だと言ってくれた。
メイの胸の奥に、細い灯りがともる。
まだ弱く、風が吹けば消えてしまいそうな灯りだった。
けれど、瞬の手がその灯りを守るように包んでくれていた。
「でも……」
メイの声は震えていた。
「もし、怖がられたら……」
「その時は、俺が怒る」
瞬は即答した。
あまりにも早い答えだった。
迷いも、飾りもない。
「アリスさんが相手でも?」
「相手が誰でもだ」
メイが瞬を見つめる。
瞬はいつものように笑ってはいなかった。
真剣な顔だった。静かで、揺るがない顔だった。
ゼイクがそっと書類を閉じた。
エリーゼも茶葉の皿を置き、何も言わずにメイを見守っている。
アリスは背筋を伸ばし、メイの答えを待っていた。
窓の外で、風が強くなった。
中庭の草が一斉に傾き、葉の擦れる音が、遠い波のように広がる。
薄い雲が太陽をかすめ、リビングに差し込む光が一瞬だけやわらいだ。
メイは、ゆっくり息を吸った。
怖い。
まだ怖い。
胸の奥にある古い痛みは、そんな簡単には消えない。
けれど、今ここにいる人たちは、石を投げた人たちではない。
罵声を浴びせた人たちでもない。
瞬がいる。
ゼイクがいる。
エリーゼがいる。
そして、アリスがいる。
メイは小さく頷いた。
「……はい」
その一言は、消えてしまいそうなほど小さかった。
けれど、確かに自分で選んだ声だった。
瞬は、少しだけ表情を緩めた。
「大丈夫だ」
もう一度、そう言った。
メイは震える指を上げた。
白いアイガードの留め具に触れる。
銀の留め具は、指先にひんやりと冷たかった。
カーテンが揺れる。
紅茶の香りが、静かな部屋に漂っている。
誰も動かない。
誰も急かさない。
ただ、見守っていた。
メイの指先が、留め具にかかった。
小さな金具が、昼の光を受けて、かすかに光った。




