第51話:異世界の豪邸と、勘違いされた「ヨーロッパ」 〜居場所は、広さではなく安心できる場所で決まる〜
王都グランドルの貴族街は、街の他の区画とは空気そのものが違っていた。
市場の方角から届く人々の声は、ここまで来る頃には薄い布を何枚も通したように遠くなり、代わりに聞こえるのは、馬車の車輪が石畳をゆっくり転がる音と、街路樹の葉が風に擦れる乾いた音だけだった。
白く磨かれた石畳には、泥の跡ひとつない。道の両側には、季節の花を咲かせた植え込みが続き、低い鉄柵の向こうには、手入れの行き届いた庭園と、背の高い屋敷が静かに並んでいる。
昼下がりの陽射しは柔らかい金色を帯び、木々の枝葉の隙間からこぼれた光が、地面に細かな模様を落としていた。風が吹くたび、その模様は水面のように揺れ、石畳を歩く瞬たちの足元をちらちらと照らした。
「……なあ、アリス」
瞬は、周囲を落ち着きなく見回しながら、小声で言った。
「本当に大丈夫なのか? 俺たちみたいなのが、こんなところ歩いてて。いきなり衛兵に囲まれて、『身分証を出せ』とか言われない?」
言いながら、瞬は妙に背筋を伸ばして歩いていた。完全に場違いな場所に紛れ込んだ庶民の歩き方である。
その隣では、メイが白いアイガードをつけたまま、瞬の袖をそっと握っていた。指先には少し力が入っている。慣れない貴族街の静けさが、彼女にはかえって落ち着かないらしい。
後ろを歩くゼイクは、いつものように鎧姿で周囲を警戒していた。磨き込まれた鎧が陽を受けて鈍く光り、歩くたびに金具が小さく鳴る。
エリーゼは日傘を差し、涼しい顔で歩いていた。だが、その視線は何気なく屋敷の造りや庭の配置を観察している。優雅に見えて、抜け目はない。
そして先頭を歩くアリス・ローゼンバーグは、完全にこの街の主役だった。
深紅のドレスは、陽射しを受けるたびに艶やかに色を変えた。布地は歩みに合わせて静かに揺れ、裾が石畳を撫でるたび、さらりと乾いた音がした。手にした扇子を軽く仰ぎながら、アリスは振り返りもせずに鼻を鳴らす。
「失礼ね。私がいるのよ? 誰が文句を言うっていうの」
「いや、そう言われてもな……」
「それに、あなたたちはもう王都でも名の知れた英雄パーティでしょう? いつまでも安宿で雑魚寝なんて、外聞が悪すぎるわ」
「俺としては、屋根があってメイが安心して寝られるなら、別にどこでもいいんだけど」
「そういうところが問題なのよ」
アリスはぴしゃりと言った。
「英雄には英雄らしい拠点が必要なの。安心して休める場所。道具を整えられる場所。怪我をして戻ってきても、ちゃんと体を休められる場所。……それがなければ、戦い続けるなんて無理よ」
その言葉だけは、いつものからかうような響きが少し薄かった。
瞬は何か言い返しかけたが、メイが袖を握る力を少しだけ強めたのを感じて、口を閉じた。
たしかに、拠点は必要だった。
メイが安心して眠れる場所。ゼイクが鎧を外せる場所。エリーゼが研究道具を広げられる場所。そして、自分たちが帰ってこられる場所。
そう考えると、アリスの言葉は、ただの見栄ではなかった。
「着いたわよ」
アリスが立ち止まった。
瞬たちも足を止める。
目の前には、一際大きな鉄柵がそびえていた。黒く塗られた鉄の柱は細かな模様で飾られ、上部には鋭い槍先のような装飾が並んでいる。その奥に見える屋敷は、家というより、小さな城だった。
重厚な灰色の石壁。高く伸びた屋根。左右に広がる翼のような建物。窓枠には繊細な装飾が施され、屋根の影は庭の芝生へ長く落ちている。
庭では、風に撫でられた草が一斉に波打っていた。噴水の水が陽光を受け、細かな粒となってきらきらと舞う。水滴が石の縁に落ちるたび、涼しげな音が静かな庭に響いた。
「……でかすぎないか?」
瞬の口から、素直な感想が漏れた。
「屋敷というより、要塞に近いな」
ゼイクが真面目な顔で呟く。
「外壁は堅牢だが、庭が広すぎる。警備の死角が多い。夜間の見回り経路を考える必要がある」
「最初の感想がそれかよ」
「当然だ。広い屋敷ほど侵入経路も増える」
エリーゼは日傘の影から屋敷を見上げ、ゆっくりと瞬きをした。
「お庭の手入れだけで、一日が終わりそうですわね」
「そこは使用人に任せるわ」
アリスはにやりと笑った。
「驚くのはまだ早いわよ。本当に見てほしいのは、中だから」
そう言って、アリスが軽く指を鳴らした。
カチリ、とどこかで金属が外れる音がした。
重厚な門扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。蝶番が軋むこともなく、黒い鉄の門は、まるで見えない誰かに押されているかのように滑らかに動いた。
「おお……」
瞬が思わず声を漏らす。
「自動ドア……いや、自動門か?」
「ふふん。細かいところまでこだわったのよ」
アリスは満足げに胸を張った。
庭を抜け、玄関へ向かう。足元の石畳は庭のものよりさらに滑らかで、歩くたびに靴音が小さく反響した。周囲の花壇からは、甘い花の香りと、刈られたばかりの草の青い匂いが混じって漂ってくる。
玄関前に立つと、扉の大きさがさらに際立った。厚みのある木製の扉には、深い色の金具が取り付けられている。普通なら数人がかりで開けるような重さに見えた。
瞬は、ごくりと喉を鳴らした。
「……俺が開けていいのか?」
「今日からあなたたちの家なんだから、当然でしょ」
「いや、家って規模じゃないんだけど」
「細かいことはいいから、開けなさい」
促され、瞬は恐る恐るドアノブに手をかけた。
ひんやりとした金属の感触が掌に伝わる。
ゆっくり押すと、扉は見た目に反して驚くほど軽く動いた。
その瞬間。
中から、涼しい風がすうっと流れ出してきた。
外の陽射しで温まっていた頬を、冷たすぎない風が優しく撫でる。木の香りと、磨かれた床の匂い。ほんのわずかに混じる石鹸のような清潔な香り。
瞬は一歩、屋敷の中へ足を踏み入れた。
「……は?」
そこは、外観から想像していた貴族の屋敷とは、まるで違っていた。
玄関には、靴を脱ぐための広い段差があった。床は磨き上げられた木で、陽射しを受けて淡く光っている。埃ひとつなく、歩くのをためらうほど綺麗だった。
その先には、広大なリビングが広がっていた。
壁一面に大きなガラス窓がはめ込まれ、庭の緑が歪みなく見えている。外の光はたっぷりと室内に入り込み、床に明るい帯を作っていた。光の中では、見えないほど細かな埃が、金色の粒のようにゆっくり漂っている。
中央には、巨大なL字型のローソファが置かれていた。
柔らかそうな布地。深く沈み込みそうな座面。人間を駄目にするためだけに生まれてきたような存在感。
瞬の目が、そこで止まった。
「う、うおおおおおおおっ!」
次の瞬間、彼は靴を脱ぎ捨てていた。
「瞬!?」
メイが驚く間もなく、瞬は一直線にリビングへ走り、ソファに向かって飛び込んだ。
ボフンッ。
低く、やわらかい音がした。
ソファは瞬の体を丸ごと受け止め、深く沈み込ませた。布地がふわりと波打ち、空気を含んだクッションが彼の体を包む。
「……これだ」
瞬は顔をソファに埋めたまま、震える声で呟いた。
「これだよ……この包容力……! 宿屋の薄い布団とは違う……背中が痛くならない……体が沈む……俺はいま、人として扱われている……!」
「そこまで?」
アリスが呆れたように言う。
だが、瞬は真剣だった。
「アリス……お前、わかってる。これは文明だ。これは平和だ。これは人類の勝利だ」
「大げさねぇ」
「大げさじゃない。寝具と椅子は命に関わる」
玄関で固まっていたゼイクが、慎重に床へ足を踏み入れた。靴を脱ぐという習慣に納得しきれていないのか、眉間に深い皺を寄せている。
「……この床は、土足で踏んではならないのか」
「当たり前でしょ。汚れるじゃない」
「だが、敵襲があった場合はどうする。靴を履く時間が無駄になる」
「ここに敵を入れないための屋敷でしょ」
「それでも万一というものがある」
「ゼイクさん、本当にぶれませんわね」
エリーゼは小さく笑いながら、天井を見上げた。
「それにしても、この涼しい風……どこから流れているのかしら」
白い天井には、目立たない位置に小さな送風口が設けられていた。そこから、一定のやさしい風が流れている。カーテンの裾がかすかに揺れ、窓辺に置かれた観葉植物の葉が、さらさらと音を立てた。
メイは大きなガラス窓の前に立ち、恐る恐る指先で触れた。
「すごい……外が、そのまま見える……」
彼女の指先が透明な面に触れる。冷たく、滑らかで、歪みがない。
外では、庭の草が風に揺れていた。陽射しを受けた葉の先が銀色に光り、噴水の水音が遠くからかすかに届いている。
メイは、まるで初めて世界の色を知った子供のように、静かに見入っていた。
その様子を見て、瞬はソファから顔を上げた。
「メイ、すごいだろ」
「うん……すごい。お外にいるみたいなのに、ここは安心する」
その一言に、瞬の表情がふっと緩んだ。
アリスは満足そうに扇子を広げ、リビングの中央に立った。
「どう? 私の知識と財力を全力で注ぎ込んだ、最高傑作よ。外は王都の景観に合わせた由緒ある屋敷。でも中は、とにかく快適さ重視。暑くない。寒くない。清潔。広い。休める。これが私の理想の家よ」
シーン……。
アリスの高らかな宣言に、まともに反応できたのは瞬だけだった。
ゼイクは首を傾げ、メイは意味が半分もわからないまま瞬を見ている。エリーゼも、何か聞き慣れない言葉を飲み込むように、静かに瞬きをした。
「まあ、要するに」
瞬がソファに沈んだまま手を上げた。
「すごく住みやすいってことだ」
「最初からそう言えばよかったのでは?」
ゼイクのもっともな指摘に、アリスは少しだけむっとした。
「細かく説明したかったのよ。こだわりがあるんだから」
「そのこだわりの大半が伝わっていないようだが」
「うるさいわね」
瞬は笑いながら起き上がった。
「でも本当にすごいよ、アリス。ここまで再現するの、大変だっただろ」
「当然よ。この世界、不便すぎるんだもの。お風呂はお湯を用意するだけで一苦労。トイレは……思い出したくもない。だったら、自分で快適にするしかないじゃない」
その言葉には、妙な実感がこもっていた。
アリスは瞬の手を引き、奥へ向かった。
「さあ、次は台所よ」
案内された台所は、これまた異様だった。
広く、明るく、清潔で、見たことのない形の調理台が並んでいる。壁際には大きな箱のようなものがあり、アリスが扉を開けると、中からひんやりとした白い冷気が流れ出した。
「冷やして保存できる箱よ。飲み物も食材も傷みにくいわ」
「冷気を閉じ込めているのですか……?」
エリーゼの目が、魔法を研究する者のそれになった。
「しかも、火を使わずに加熱もできるのよ」
「火を使わずに?」
「ええ。魔石の力を調整して、調理台そのものを温めるの」
エリーゼは完全に食いついた。
「それは……仕組みを確認しても?」
「あとでね。分解は禁止よ」
「残念ですわ」
「いま分解しようとしたわね?」
エリーゼは微笑んで何も答えなかった。
アリスはさらに奥へ進む。
「そして、極めつけはこれよ」
案内された先には、脱衣所があり、その向こうに浴室があった。
扉を開けた瞬間、ふわりと木の香りが広がった。壁も床も、淡い色の木で作られている。湯気が薄く立ちのぼり、天井近くで白くほどけていた。
広い浴槽には、なみなみと湯が張られている。
水面は静かに揺れ、窓から入る光を受けて、細かな銀色の筋を作っていた。湯の表面から立つ温かな湿気が頬に触れ、瞬の目が一瞬で変わった。
「……まさか」
アリスは勝ち誇った顔で言った。
「温め直しもできるわ」
「神か!!」
瞬が叫んだ。
そして、アリスの両手を握りしめ、ぶんぶん振った。
「お前は神……いや、女神だ! 俺はこの風呂に入るために異世界に来たのかもしれない!」
「もっと崇めなさい!」
「ありがたや! ありがたや!」
「二人とも、何をしているの?」
メイが困惑した声を出した。
ゼイクは腕を組み、深刻な顔で浴槽を見ていた。
「この湯量を常に維持できるなら、負傷後の回復にも役立つな」
「そこ?」
エリーゼは湯気の向こうで目を細めた。
「けれど、これは確かに……贅沢ですわね」
浴室には、静かな水音だけが満ちていた。
ぽたり、と天井近くに溜まった雫が落ち、湯面に小さな輪を広げる。その輪がいくつも重なり、やがて何もなかったように消えていく。
瞬は、その音を聞きながら、深々と息を吐いた。
ここは、ただ広いだけの屋敷ではない。
帰ってきていい場所だ。
そう思えた。
けれど、アリスが本当に用意していたものは、建物だけではなかった。
この屋敷には、まだもう一つ、大きな仕掛けが残されていた。
それを知るのは、一通り部屋を見終え、全員が再びリビングへ戻ってからのことだった。
***
一通り屋敷の中を見て回った頃には、瞬は完全にこの家に心を奪われていた。
広い寝室。清潔な洗面所。荷物をしまえる部屋。食事ができる大きな卓。外の光が差し込む廊下。歩くたび、磨かれた床が靴下越しにひんやりと足裏へ触れる。
窓の外では、風が庭木を揺らしていた。葉と葉が擦れ合う音は、遠くの雨音のように細かく、そこへ噴水の水音が重なる。午後の光は少しずつ傾き始め、リビングの床に落ちる窓枠の影を長く伸ばしていた。
全員がリビングへ戻ると、瞬はまたソファへ吸い込まれるように腰を下ろした。
「……もうここに住む」
「そのために用意したのよ」
アリスが当然のように言った。
「いや、そうなんだけどさ。想像以上に駄目になる。このソファ、危険だぞ。人間のやる気を全部吸い取る」
「瞬、顔がとけてるよ」
メイが小さく笑った。
彼女はまだ少し遠慮しているのか、瞬の隣に浅く腰かけていた。白いアイガードの縁が、窓から差し込む光を受けて、柔らかく光っている。
アリスの視線が、一瞬だけそこに止まった。
だが、何も言わなかった。
ゼイクは、なぜかダイニングの硬い椅子をわざわざリビングの隅へ運んできて、背筋を伸ばして座っていた。目の前にふかふかのソファがあるというのに、騎士としての落ち着きが乱されるのが嫌なのだろう。
「ゼイク、ソファ座らないのか?」
「沈み込みすぎる。即応に向かん」
「家の中でも即応する気なのかよ」
「当然だ」
瞬は呆れたように笑ったが、ゼイクは真顔だった。
エリーゼは、リビングの端に置かれた棚を興味深そうに眺めていた。中には茶葉や菓子、用途のわからない器具がきちんと並べられている。彼女の指先が一つに伸びかけたところで、アリスがすかさず言った。
「勝手に分解しない」
「まだ何もしていませんわ」
「“まだ”って言ったわね」
エリーゼは優雅に微笑んで、手を引っ込めた。
そのやり取りに、メイがまた少し笑う。
それだけで、リビングの空気が柔らかくなった。広すぎる部屋のはずなのに、不思議と冷たくはない。窓から差し込む光、床に落ちる影、遠い水音、誰かの小さな笑い声。それらが重なって、この場所を少しずつ「家」に変えていく。
アリスは、ぱんぱん、と手を叩いた。
「さて。屋敷の説明はここまで。次は、この家で働く人たちの話よ」
「働く人たち?」
瞬が顔を上げる。
「この広さを、あなたたちだけで管理できるわけないでしょう。掃除、洗濯、食事、庭の手入れ、警備。全部必要よ」
「まあ、たしかに……」
瞬はリビングを見回した。
この屋敷を自分たちだけで掃除しろと言われたら、おそらく初日で心が折れる。庭の草を刈るだけでも一日仕事だ。風呂に感動している場合ではなくなる。
アリスが奥の扉へ視線を向けた。
「入ってきて」
その声に応じて、奥の部屋から数人の男女が現れた。
揃いの服を着ている。男性は落ち着いた色の上着と白い手袋。女性は清潔な前掛けのついた服。いかにも屋敷で働く者たち、といった格好だった。
だが、歩き方だけは少し違った。
足音が軽い。床板を鳴らさない。視線が一瞬で部屋の隅々を確認する。礼儀正しく頭を下げているのに、体の重心はいつでも動ける位置にある。
先頭に立った痩せ型の男が、緊張した顔で一歩前に出た。
「……本日より、この屋敷の管理を任されました。キースです」
「キースさん!?」
メイが驚いて声を上げた。
瞬も思わず体を起こす。
そこにいたのは、かつてローゼンバーグ邸を襲撃し、瞬たちに敗れた義賊団「黒猫」の面々だった。
キース。大柄なボルグ。小柄なティック。そして、キースの妹のアンナ。
以前とは違い、彼らの服は汚れていない。顔色も少し良くなっている。だが、目の奥に残る緊張と遠慮は、まだ完全には消えていなかった。
「アリス、これって……」
瞬がアリスを見る。
アリスは涼しい顔で扇子を開いた。
「言ったでしょう。借りは働いて返してもらうって」
「いや、そういう話だったけど……屋敷の使用人にしたのか?」
「ええ。清掃、洗濯、食事の補助、警備。彼らには向いているわ。元々、忍び込むのが得意だったんだから、忍び込まれない方法もよく知っているでしょう?」
ボルグが気まずそうに頬を掻いた。
「まあ……たしかに、どこから入られたら嫌かはわかります」
「ほら」
「ほら、じゃないんだよなぁ」
瞬は苦笑した。
けれど、悪い話ではなかった。
黒猫の面々は、ただ罰を受けて終わりではなく、ここで働く場所を与えられている。奪うことでしか生きられなかった彼らが、今度は守る側に回る。
その変化は、決して小さくない。
キースは深く頭を下げた。
「……アリスお嬢様には、感謝してもしきれません。妹の治療費だけじゃなく、仕事まで用意していただいて……俺たちは、本当なら、もっとひどい目に遭っても文句は言えない立場でした」
アンナも、少し緊張した顔で頭を下げた。
「ありがとうございます。メイさん、瞬さんも……」
メイは慌てて首を振った。
「そんな、私たちは……」
「勘違いしないで」
アリスが横を向いた。
「私は、使える人材を使うだけよ。あなたたちには技術がある。働く気もある。だったら、きちんと働かせた方がいいでしょう。給料も出すわ。その代わり、サボったら容赦なく引くから」
言葉は冷たい。
けれど、その奥にあるものを、瞬はもう知っていた。
ただ金を渡すのではなく、仕事を与える。立っていられる場所を作る。誰かに必要とされる役割を渡す。
アリスなりの優しさは、いつも少しだけ分かりにくい。
「……素直じゃないな」
「何か言った?」
「何も」
瞬は笑ってごまかした。
リビングには、少しだけ静かな時間が流れた。
キースたちの頭が下がったまま動かない。床に落ちた光が、彼らの足元を照らしている。かつて影の中を走っていた者たちが、今は明るいリビングの真ん中に立っている。
その光景に、メイは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分も、瞬に拾われた。
キースたちも、アリスに拾われた。
形は違っても、ここには、もう一度生き直そうとしている人たちがいる。
アリスは窓の方へ歩き、庭の向こうを指差した。
「それから、もう一つ。貧民街の方も動かし始めているわ」
「貧民街?」
瞬が立ち上がり、窓辺へ向かった。
庭の先、屋敷の塀の向こう。貴族街の美しい屋根並みのさらに遠くに、王都の下層区画がかすかに見えた。灰色の建物が寄り集まり、ところどころに崩れた壁や古い屋根が残っている。
風向きのせいか、ここまで匂いは届かない。
けれど、瞬はそこがどんな場所なのか、もう知っていた。
「黒猫の人たちがいたところか」
「ええ」
アリスの表情が、少しだけ真剣になる。
「瓦礫を片づけて、道を整えて、仕事を作る。食べ物を配るだけじゃ駄目なの。今日をしのげても、明日また同じことになる。だから、働ける人には働いてもらう。働いた分の対価を渡す。街を直す人が、街で暮らす人たちになるようにするの」
瞬は黙って聞いていた。
窓の外では、庭木が風に揺れている。貴族街の静けさと、遠くに見える下層区画の影。その二つが一枚のガラス越しに並んでいることが、妙に重く感じられた。
「ただの施しじゃなくて、自分たちで立てるようにするってことか」
「そうよ」
アリスは頷いた。
「治安が良くなれば、商売もしやすくなる。人が働けば、街にお金が回る。汚れた場所がきれいになれば、病気も減る。結果として、ローゼンバーグ家にも利益が出る。誰も損しないわ」
ゼイクが深く息を吐いた。
「……驚いたな」
「何よ」
「ただの我儘な令嬢ではなかったのだな」
「失礼すぎない?」
「褒めている」
「絶対に褒め方が下手よね、あなた」
ゼイクは真面目な顔のままだった。
「だが、本当に見事だ。力を持つ者が、ただ自分のためだけに使うのではなく、人が生きる道を作る。君は、確かに貴族だ」
アリスは一瞬だけ黙った。
窓から入る光が、彼女の横顔を照らしていた。深紅のドレスの影が床に落ち、扇子を持つ指先がわずかに動く。
「……褒めても何も出ないわよ」
そう言って顔をそむけた耳が、少し赤い。
瞬はにやにやした。
「照れてる」
「照れてない」
「照れてますわね」
エリーゼがすかさず乗った。
「照れてるね」
メイまで小さく言った。
「あなたたち、今日からこの家の菓子の量を減らすわよ」
「それは横暴だ!」
瞬が本気で抗議した。
笑い声がリビングに広がった。
高い天井へふわりと上がり、壁に柔らかく跳ね返る。さっきまで少し緊張していたキースたちも、ほっとしたように表情を緩めた。
アリスは咳払いをして、テーブルの上に王都の地図を広げた。
「とにかく、拠点は整ったわ。住む場所。休む場所。支える人。最低限の形は作った」
地図の上に、彼女の白い指が置かれる。
「これからあなたたちは、もっと大きな相手と戦うことになるかもしれない。なら、帰ってくる場所を先に作っておくべきよ。どれだけ無茶をしても、戻れる場所がある。それだけで、人は踏ん張れるもの」
瞬は、何も言わなかった。
ただ、リビングを見回した。
メイがいる。ゼイクがいる。エリーゼがいる。アリスがいる。キースたちがいる。
窓の外には風に揺れる庭があり、屋敷の中には温かい湯と、柔らかなソファと、うまい飯を作れそうな台所がある。
戦うための場所ではない。
帰るための場所だ。
それが今、ここにある。
「……ありがとな、アリス」
瞬がぽつりと言った。
アリスは、少し意外そうに目を瞬いた。
それから、扇子で口元を隠し、いつものように笑った。
「当然でしょ。私は投資しただけよ。あなたたちには、しっかり活躍してもらわないと困るもの」
「はいはい。期待に応えられるように頑張りますよ」
「軽いわねぇ」
アリスが呆れた、その時だった。
リビングの外、廊下の奥から、妙に硬い足音が近づいてきた。
コツ、コツ、コツ。
全員がそちらを見る。
現れたのは、ゼイクだった。
いつの間にか席を外していたらしい。顔は真剣そのもの。いや、戦場から戻ってきた時より、むしろ険しい。
「アリス」
「何?」
ゼイクは重々しく口を開いた。
「この家の……水の流れる部屋について確認したい」
「水の流れる部屋?」
瞬が首を傾げる。
ゼイクは眉間に皺を寄せたまま言った。
「腰を下ろしたところ、水が勝手に流れた」
沈黙。
リビングに、完璧な沈黙が落ちた。
噴水の水音だけが、遠くから聞こえている。窓辺の葉が風に揺れ、さらさらと控えめな音を立てた。
アリスの眉が、ぴくりと動いた。
「……ゼイク」
「なんだ」
「あんた、もしかして立ったまま使った?」
「当然だろう」
アリスは扇子を閉じた。
ぱちん、という音が、やけに鋭く響いた。
「座りなさい」
「なぜだ」
「飛び散るからよ!」
「飛び……?」
「説明させないで!」
瞬は、次の瞬間、ソファに顔を埋めて肩を震わせた。
「ふ、ふふっ……ゼイク……お前……最初にそこ引っかかるのか……」
「笑い事ではない。あれは罠かと思った」
「罠じゃないわよ! 快適に暮らすための設備よ!」
「だが、背後で水が動く音がした。あれは警戒すべきだ」
「警戒しなくていい!」
メイは意味がよく分からないまま、困ったように瞬とゼイクを見比べていた。
「瞬……ゼイクさん、大丈夫なの?」
「大丈夫。たぶん、この家で一番大きい戦いに負けただけだ」
「何の戦いですの、それ」
エリーゼが冷静に突っ込む。
アリスは額に手を当て、深いため息をついた。
「いい? この家には、いくつか絶対に守るべき決まりがあるわ」
彼女は指を一本立てた。
「靴は脱ぐ」
二本目。
「お風呂に入る前に体を洗う」
三本目。
「そして、トイレは座る」
「最後だけ妙に具体的だな」
「ゼイクのせいよ!」
ボルグが後ろで必死に笑いをこらえていた。ティックはすでに肩を震わせている。キースは使用人として笑ってはいけないと分かっているのか、唇を噛みしめ、目だけが完全に笑っていた。
アンナは顔を赤くしてうつむいている。
ゼイクだけが、最後まで納得していない顔だった。
「……この屋敷は、強敵だな」
「そこで戦おうとしないで」
瞬はもう我慢できず、声を出して笑った。
その笑いにつられて、メイも笑い、エリーゼも口元を押さえ、黒猫の面々もとうとう吹き出した。アリスは怒った顔をしながらも、どこか楽しそうだった。
リビングに、明るい笑い声が満ちていく。
窓の外では、風が庭を抜け、草の波を揺らしていた。午後の光はさらに淡くなり、床に伸びた影がゆっくりと長くなる。
新しい拠点。
新しい暮らし。
新しい仲間。
この屋敷には、まだ慣れないことが山ほどある。靴を脱ぐことも、風呂の使い方も、勝手に水が流れる部屋の存在も、彼らにとっては小さな冒険だった。
けれど、そのひとつひとつを笑いながら覚えていけるのなら。
この場所はきっと、ただの豪邸ではなくなる。
瞬たちが傷つき、迷い、帰ってくるための、本当の居場所になっていく。




