第50話:雨の庭を駆ける黒猫 〜祈りは刃である〜
雨は、夜の王都を叩き続けていた。
黒い屋根の上を、無数の雫が流れていく。樋から溢れた水が石畳に落ち、細い川のように路地の低い方へ滑っていった。街灯の光は雨粒に砕かれ、ぼやけた黄色の輪になって揺れている。
その光の届かない屋根の上を、四つの影が走っていた。
黒猫だった。
キースは先頭にいた。
外套は雨を吸い、肩に重く貼りついている。髪から落ちた雫が顎を伝い、首元へ入り込んだ。冷たい。けれど、寒さを感じている余裕はなかった。
足音を殺す。
滑る瓦を避ける。
屋根と屋根の隙間を越える。
背後にはティック。さらにボルグ。最後尾にアンナ。
誰も喋らなかった。
言葉を交わせば、決意が揺らぐ気がした。
雨音だけが、彼らの呼吸を隠してくれている。
王都の上層へ近づくほど、建物は綺麗になっていった。屋根板は整い、煙突はまっすぐ立ち、窓には厚いガラスがはまっている。路地にはゴミが少なく、壁には罅も少ない。同じ雨に濡れているはずなのに、そこにある街は、スラムとはまるで別の世界だった。
キースは、ふとミーシャの寝顔を思い出した。
熱で赤くなった頬。
汗で湿った髪。
「みんな、いてね」と言った細い声。
その声を振り払うように、彼は歯を食いしばった。
帰る。
薬を持って。
全員で。
そのために、今だけは振り返らない。
やがて、視界の先に白い壁が現れた。
ローゼンバーグ侯爵邸。
雨の夜でも、そこだけは薄く光っているように見えた。
高い外壁。鉄の門。庭園の奥に広がる巨大な屋敷。屋根の装飾は暗闇の中でも輪郭を失わず、窓には金色の明かりが点々と浮かんでいる。スラムの小屋なら何十も入りそうな、いや、もっと多くを飲み込んでもまだ余るほどの大きさだった。
キースは屋根の端にしゃがみ込んだ。
雨水が鼻先から落ちる。
「……西側だ」
小さく言う。
ティックが頷いた。
西側の外壁には、古い蔦が絡んでいる。事前に調べた通りだった。夜目を利かせると、壁の上に小さな魔道具の灯りがいくつも並んでいるのが見えた。一定の間隔で青白く瞬き、庭の外周を見張っている。
あれに触れれば終わりだ。
音もなく兵が集まる。
そして、その先には英雄がいる。
ティックが壁に近づき、雨に濡れた蔦を指で探った。
しばらくして、彼は振り返り、二本の指を立てた。
感知器、二つ。
ボルグが無言で頷いた。
キースは懐から、小さな石を取り出した。そこに細い紐を結び、反対側をティックへ渡す。ティックはそれを蔦の隙間へ通し、魔道具の下に引っかけた。雨音に紛れて、かすかな金属音がする。
青白い灯りが、一瞬だけ揺れた。
消えない。
だが、反応もしない。
ティックが息を吐いた。
ひとつ目は抜けた。
二つ目も同じように避ける。指先が震えているのが、キースには見えた。ティックは軽口を叩く男だった。怖い時ほど笑う。だが今は、笑わない。
それだけで、この夜がどれほど重いか分かった。
四人は壁を越えた。
庭へ降り立った瞬間、靴底がぬかるみに沈んだ。
王都一の大富豪の庭ですら、豪雨の前では泥になる。
その事実が、妙に胸に残った。
薔薇の庭園が広がっていた。
雨に打たれた花びらは重く垂れ、赤い色が闇の中で黒ずんで見える。整えられた植え込みの葉は水滴を抱え、風が吹くたび、ざわざわと乾いたはずのない音を立てた。噴水の水音は雨に呑まれ、どこからが空の水で、どこからが石の水なのか分からない。
キースたちは身を低くして進んだ。
正門側には明かりが多い。
裏門にも兵がいる。
だが、西の庭園は暗かった。
いや、暗すぎた。
キースは足を止めた。
胸の奥が冷える。
罠だ。
そう感じた。
偽の予告状。
英雄シュンの指名。
それなのに、侵入路になりそうな西側が、あまりにも通りやすい。
誰かが、ここを開けている。
誰かが、自分たちを奥へ入れようとしている。
ティックも同じことに気づいたのだろう。雨の中で、キースの袖を掴んだ。
「……戻るか」
声はほとんど雨に消えた。
キースは答えなかった。
脳裏に、ミーシャの手の熱が蘇る。
戻れば、今夜は生き延びられるかもしれない。
だが、ミーシャの朝はないかもしれない。
キースは、ゆっくり首を横に振った。
「進む」
ティックは目を伏せた。
それでも、手を離した。
四人は庭を抜けた。
途中、二人の衛兵と出くわした。
衛兵たちは雨避けの庇の下で、外套を震わせながら巡回していた。片方がくしゃみをし、もう片方が「こんな日に来る馬鹿はいない」とぼやく。
ボルグが動いた。
巨体に似合わない静かな足取りで背後へ回り、首筋に手刀を落とす。ティックが同時にもう一人の口を塞ぎ、膝裏を蹴った。
倒れる体を、キースが支える。
地面に叩きつけない。
音を立てない。
殺さない。
衛兵たちは気を失っただけだった。
アンナが素早く二人の呼吸を確かめ、雨の当たらない植え込みの奥へ引きずる。
「……ごめんなさい」
彼女は小さく呟いた。
その声に、キースは何も言えなかった。
謝るくらいなら、やらなければいい。
そう言えるほど、彼らは綺麗な場所に立っていなかった。
罪を避けられないなら、せめて命だけは奪わない。
今の黒猫たちに守れる線は、それだけだった。
屋敷の壁に近づくと、白亜の石が雨を受けて鈍く光っていた。
近くで見ると、壁には細かな彫刻が施されている。花、鳥、蔦、見たこともない紋様。どれも、スラムの泥壁とは比べものにならないほど滑らかで、冷たく、美しかった。
キースは、その美しさに腹が立った。
この壁一枚の金で、ミーシャに何日分の薬を買えただろう。
この庭の花一株の世話に使う水で、何人の子どもが喉を潤せただろう。
そんな考えが頭をよぎり、すぐに押し殺した。
怒りで足を速めれば、罠を踏む。
今必要なのは、怒りではない。
冷たい手。
静かな目。
そして、聖女の涙だけを見つけること。
ティックが壁際の小窓を指差した。
使用人用の出入口だ。
鍵は古い型だった。アンナが前へ出る。細い金具を差し込み、耳を澄ませた。
雨音の中で、小さな金属音がした。
カチリ。
鍵が開いた。
四人は屋敷の中へ滑り込んだ。
外の雨音が、一瞬で遠くなった。
代わりに、屋敷の静けさが耳を圧迫した。
磨かれた廊下。
深い赤の絨毯。
壁に並ぶ肖像画。
ランプの炎は風もないのにまっすぐ立ち、金色の光を床に落としている。
靴底についた泥が、絨毯に黒い跡を残した。
キースは、それを見て息を詰めた。
この屋敷では、自分たちの存在そのものが汚れなのだと思い知らされるようだった。
「宝物庫は東棟の奥」
アンナが囁いた。
「分かってる」
キースは答える。
四人は廊下を進んだ。
途中で出くわした使用人は、ティックが背後から布を当てて眠らせた。悲鳴を上げさせない。倒れる前に支える。壁際へ寝かせる。アンナがまた呼吸を確かめる。
何度も繰り返した。
誰も殺さない。
誰も殺さない。
その言葉を、キースは胸の中で繰り返した。
けれど、屋敷の奥へ進むほど、違和感は強まっていった。
警備が薄い。
薄すぎる。
地図にあった巡回の半分もいない。
宝物庫へ続く道が、まるで彼らを招くように空いている。
罠だ。
間違いなく罠だ。
それでも、引き返せない。
宝物庫の重い扉が見えた時、キースの喉が鳴った。
その扉は、黒い金属で縁取られていた。表面には黄金の薔薇の紋章が浮かび、魔道具の青白い光が薄く脈打っている。触れる前から分かる。普通の鍵ではない。
アンナが前へ出る。
手が震えていた。
「時間がかかる」
「やれ」
キースは短く言った。
彼女は頷き、鍵穴の下にある魔道具の板へ指を添えた。
その時だった。
背後で、金属が擦れる音がした。
キースは反射的に振り返った。
廊下の向こう。
雨に濡れた外套の端から、水滴が落ちる音が聞こえるほど静かな間合いに、四つの影が立っていた。
白銀の鎧をまとった男。
杖を持つ金髪の女性。
白いアイガードをした小柄な少女。
そして、黒髪の青年。
英雄シュン。
噂より、ずっと普通に見えた。
普通の若者の顔だった。
だが、その普通さが、かえって恐ろしかった。
キースの体が、勝手に動かなくなる。
獣が、本能で自分より大きなものを前にした時のように。
黒髪の青年は、剣を抜いていなかった。
構えてもいない。
ただ、そこに立っている。
それだけで、廊下の空気が変わっていた。
ボルグが低く唸る。
ティックが短剣を構える。
アンナが宝物庫の扉から手を離し、唇を噛んだ。
キースは、喉の奥から声を絞り出した。
「……邪魔をするな」
黒髪の青年は、静かにこちらを見ていた。
その目に、嘲笑はなかった。
だが、キースにはそれを見る余裕などない。
見れば、迷ってしまう。
相手がただの化け物ではなく、人間だと分かってしまう。
それでも、進むしかない。
「俺たちは、金が欲しいわけじゃない」
キースは短剣を握り直した。
雨に濡れた指が、柄の革に食い込む。
「宝石も、名誉もいらない。ただ、聖女の涙だけだ」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
ミーシャ。
待ってろ。
必ず持って帰る。
キースは一歩踏み出した。
「どけ」
廊下のランプが揺れた。
黒猫たちの影が、赤い絨毯の上に細く伸びる。
その先に立つ英雄の影と、静かに重なった。
最初に動いたのは、ボルグだった。
大きな体が、廊下の赤い絨毯を踏みしめる。水を吸った靴底が、ぐしゃりと鈍い音を立てた。彼は鉄棒を低く構え、白銀の鎧をまとった男へ向かって突っ込んだ。
殺すためではない。
道を開けるためだった。
「どけぇぇッ!」
ボルグの叫びが廊下に響く。
だが、白銀の騎士は退かなかった。
金属がぶつかる音。
火花。
ボルグの鉄棒は確かに振り下ろされた。全力だった。壁なら砕けた。木の扉なら一撃で吹き飛んだ。けれど、その騎士は剣で受け止めたまま、わずかに足を滑らせただけだった。
「……化け物かよ」
ティックが小さく呟く。
次の瞬間、彼は横へ跳んだ。
床を蹴り、壁を走り、天井近くの梁へ足をかける。短剣を逆手に持ち、金髪の女性の背後へ回ろうとする。だが、彼の足元が白く凍った。
「っ!」
滑る。
体勢が崩れる。
受け身を取るより早く、杖の先が彼の喉元へ突きつけられた。
動けない。
黒猫の足が、止められていく。
アンナは宝物庫の扉に向き直り、震える指で魔道具の板へ触れた。青白い光が指先を弾く。痛みに顔を歪めながらも、彼女は手を離さなかった。
「開いて……お願い……!」
祈るような声だった。
キースは黒髪の青年へ斬りかかった。
速さには自信があった。路地裏で生き残るために磨いた足。屋根を駆け、壁を越え、衛兵の剣をすり抜けてきた体。そのすべてを使った。
けれど、届かなかった。
青年は、剣を抜かなかった。
ほんの少し体をずらし、キースの手首に触れただけだった。
それだけで、指先から力が抜けた。短剣が絨毯の上に落ちる。音は柔らかかった。だが、キースの胸には鉄の塊が落ちたように響いた。
勝てない。
その事実が、体より先に心へ突き刺さった。
「……くそッ!」
キースは膝をつきかけ、それでも立とうとした。
ミーシャの手を思い出す。
熱かった。
まだ生きていた。
ここで倒れるわけにはいかない。
這ってでも、扉へ行かなければならない。
「お願い……!」
アンナの叫びがした。
彼女は宝物庫の扉にしがみついていた。魔道具の光が弾け、細い指から血が滲んでいる。それでも、離さない。
「聖女の涙だけでいいの! 金も宝石もいらない! あれがないと、ミーシャが……!」
言葉の最後は、涙で崩れた。
キースは床に手をつき、立ち上がろうとした。
その時、上から笑い声が降ってきた。
雨音よりも冷たい笑い声だった。
「やっぱり来たのね。ご苦労さま」
吹き抜けの上階。
手すりの向こうに、深紅のドレスが見えた。
アリス・ローゼンバーグ。
雨に濡れた庭でも、泥の中でもない。高い場所から、こちらを見下ろしている。
キースには、その顔がはっきり見えなかった。
けれど、声だけは聞こえた。
綺麗で、軽くて、残酷な声。
「その扉の奥に、あなたたちが欲しがっているものなんてないわ」
アンナの手が止まった。
ティックも、ボルグも、動きを止めた。
キースの耳の奥で、雨音が消えた。
「……何だと」
「聖女の涙なんて、ただの噂よ。あれは光るだけの草。薬でも秘宝でもない。ただの飾り」
床が揺れたような気がした。
違う。
そんなはずがない。
あれがなければ、ミーシャは。
あれが嘘なら、俺たちは何のためにここへ来た。
偽の予告状。
空いた庭。
薄い警備。
英雄。
全部、最初から。
「……ふざけるな」
キースの声は、自分でも聞き取れないほど掠れていた。
「ふざけるなよ……!」
ボルグが吠えた。
ティックが歯を食いしばる。
アンナは宝物庫の扉の前で崩れ落ち、両手を床についた。血のついた指が、赤い絨毯を握る。
「ミーシャが……待ってるのに……」
その声は、廊下の広さに吸い込まれていった。
上階から、また声が落ちた。
「悲劇の家族ごっこは終わり。あなたたちは、ここで倒される役なの」
役。
その言葉が、キースの胸を踏み潰した。
自分たちは役ではない。
雪の夜に、ミーシャは確かに笑った。
ボルグの肩で、怖がりながらも笑っていた。
ティックの木彫りの猫を見て、変な顔だと笑っていた。
アンナに髪を結んでもらって、鏡の前で照れていた。
あの子は役なんかじゃない。
キースは、床に落ちた短剣へ手を伸ばした。
届かない。
体が動かない。
悔しさで視界が滲む。
その時、黒髪の青年が動いた。
キースたちへではなかった。
青年は上階を見上げ、低い声で何かを言った。
雨音と屋敷の広さに声が揺れ、全ては聞き取れなかった。だが、ひとつだけ分かった。
怒っていた。
キースたちにではない。
あの高い場所から見下ろす令嬢に向かって。
やがて、アリスが階段を降りてきた。
ドレスの裾を濡らさないようにしながら、従者に灯りを持たせている。その足音は、絨毯の上ではほとんどしなかった。それでもキースには、一歩ごとに胸を踏まれているように感じた。
青年は、アリスの傘を押し退けた。
外の雨が吹き込み、開け放たれた扉の向こうから冷たい風が廊下へ入ってくる。雨粒がアリスの髪や頬にかかった。
令嬢の声が初めて乱れた。
何をするの、と。
冷たい、と。
その声を聞いた時、キースは顔を上げた。
冷たい。
そうだ。
雨は冷たい。
床は硬い。
血は痛い。
ミーシャの手は熱い。
アンナの涙は温かい。
全部、本物だった。
青年が何かを語っていた。
キースには、言葉の全部は入ってこなかった。ただ、断片だけが胸に落ちた。
冷たさを感じるなら。
痛みを知っているなら。
泣いているなら。
それは作り物ではない。
アリスの声が震えた。
キースはその震えを聞いた。
高い場所から見下ろしていた令嬢が、初めて人間のように震えていた。
床に膝をついたアンナが、顔を上げる。
ボルグも、ティックも、息を殺してそのやり取りを見ていた。
キースには分からなかった。
何が起きているのか。
なぜ、英雄が令嬢に怒っているのか。
なぜ、令嬢の顔から余裕が消えていくのか。
だが、ひとつだけ分かった。
誰かが初めて、黒猫たちをただの盗賊としてではなく、命を抱えて走ってきた者として見ていた。
それだけで、胸の奥に押し込めていたものが壊れた。
「……頼む」
キースは、絨毯に額をつけた。
プライドなど、もうなかった。
義賊の名も、黒猫の意地も、何もいらなかった。
「俺の首でいい。俺たちの命でもいい。だから……ミーシャだけは助けてくれ」
雨が廊下の端を濡らしている。
赤い絨毯の上に、泥と水と涙が混じった。
「まだ小さいんだ。何も悪いことしてねぇんだ。俺たちが勝手に拾って、勝手に家族にして、勝手に守るって決めたんだ。だから、罰なら俺たちにくれ。あの子だけは……」
声が出なくなった。
喉が潰れたように痛かった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、金髪の女性が近づいてきた。
キースは身構えたが、彼女は武器を向けなかった。膝をつき、静かな声で問いかける。
「その子の症状を、できるだけ詳しく教えてください」
キースは顔を上げた。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「熱の出方。痣の色。呼吸の音。食べられるもの。いつから悪化したのか。全部です」
アンナが、泣きながら話し始めた。
熱。
赤い痣。
夜ごとの呼吸。
吐いた薬。
食べられなくなった量。
寝言で呼んだ名前。
言葉が途切れるたび、ティックが補い、ボルグが頷き、キースも必死に記憶を拾った。
金髪の女性は、最後まで遮らず聞いた。
そして、短く告げた。
「調合できます」
その一言が、廊下の空気を変えた。
キースは息を止めた。
アンナが両手で口を覆う。
ボルグが信じられないものを見るように女性を見つめる。
ティックの目から、涙が落ちた。
聖女の涙ではなかった。
噂の秘宝でもなかった。
けれど、別の道があった。
知らなかっただけで。
届かないと思い込んでいただけで。
アリスが従者へ命じる声が聞こえた。
温室を開けること。
必要な素材を運ぶこと。
倉庫の薬材を全て出すこと。
その声には、さっきまでの冷たさが残っていなかった。
キースは、信じていいのか分からなかった。
だが、アンナが泣き崩れた。
ボルグが顔を覆った。
ティックが床に座り込み、笑いながら泣いた。
その光景を見て、キースの中でも、何かがほどけていった。
***
薬が完成するまでの時間は、永遠のようだった。
屋敷の一室に移され、黒猫たちは濡れた服のまま待った。逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。だが、誰も動かなかった。
外では雨が弱まり始めていた。
窓の向こうの庭園には、泥が広がっている。薔薇の花びらが落ち、水たまりに浮いていた。
やがて、金色の液体が入った小瓶が運ばれてきた。
小さな瓶だった。
あまりにも小さく、頼りなく見えた。
だが、キースにはそれが、王都中の金貨より重く見えた。
「これをすぐに飲ませてください。遅れれば危険です」
その言葉を聞いた瞬間、キースは瓶を両手で受け取った。
手が震えた。
落としたら終わりだと思うと、指先に力が入りすぎて痛かった。
「……ありがとう」
声が掠れる。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ありがとう……ございます……」
ボルグも、ティックも、アンナも、深く頭を下げた。
額が床につくほどに。
その時、アリスの声がした。
「薬代は高いわよ」
キースは顔を上げた。
そこにいた令嬢は、まだ濡れた髪のままだった。深紅のドレスの裾には泥が跳ねている。完璧な貴族の姿ではなかった。
だが、その目はもう、黒猫たちを見下ろしてはいなかった。
「払います」
キースは即答した。
「何年かかっても、必ず」
「お金じゃないわ」
アリスは少しだけ息を吸った。
「あなたたち、私の影になりなさい」
影。
その言葉に、キースは黙った。
「表に出られないなら、裏を歩きなさい。泥を知っているあなたたちにしか見えないものがある。私には敵が多い。見えない場所で、目となり、耳となり、盾となって」
そして、彼女は続けた。
「その代わり、ミーシャの治療も、暮らしも、私が面倒を見る。綺麗な水も、寝床も、医者も用意する。もう、あの子を泥の中へ戻さない」
キースの喉が震えた。
それは、ずっと欲しかった言葉だった。
日の当たる場所へ出してやる。
あの雪の朝に誓ったこと。
自分たちだけでは届かなかった場所。
それが今、目の前に差し出されている。
罠かもしれない。
利用されるだけかもしれない。
だが、それでも構わなかった。
ミーシャが生きられるなら。
彼女が汚れた水を飲まずに済むなら。
夜中に寒さで震えずに眠れるなら。
キースは膝をついた。
「命を預けます」
声は、もう震えていなかった。
「今日から黒猫は、あなたの影になります」
ボルグも膝をつく。
ティックも。
アンナも、涙を拭いながら頭を下げた。
窓の外で、雨が止みかけていた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ青白い月の光が差し込む。濡れた庭の泥が、その光を鈍く反射していた。
その泥の上を、黒猫たちは走ってきた。
罪を抱えて。
祈りを抱えて。
そして今、彼らの腕の中には、小さな瓶がある。
聖女の涙ではない。
けれど、ミーシャの明日へ繋がる、本物の光だった。
キースは瓶を胸に抱き、雨上がりの庭へ走り出した。
帰らなければならない。
ミーシャが待っている。
あの小さな手が、まだ熱いうちに。
黒猫たちは、夜明け前の王都を駆けた。
もう、ただの盗賊ではなかった。
誰かの筋書きに踊らされた哀れな影でもなかった。
泥の中で拾った小さな太陽を守るために、闇を歩くと決めた者たちだった。




