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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第49話:決行前夜の冷たい雨 〜罪は祈りである〜

雨が降っていた。


 雪へ変わる一歩手前の、骨に染み込むような冷たい雨だった。


 王都の空は、低く垂れ込めた雲に押し潰されている。街灯の光は雨粒に砕かれ、黄色く滲みながら石畳の上へ落ちていた。貴族街へ続く大通りでは馬車の車輪が水を跳ね、下町では軒先から滴る水が途切れなく泥を叩いている。


 そして最下層のスラムでは、雨はもう水ではなかった。


 冷たい泥だった。


 屋根と呼ぶにはあまりにも心許ない板切れの隙間から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。床に置いた欠けた椀に水が溜まり、そこへまた一滴が落ちるたび、薄暗い小屋の中に小さな音が響いた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 それは、残された時間を数える音のようだった。


 黒猫のアジトだった小屋に、笑い声はなかった。


 かつてはミーシャの声があった。アンナに髪を結んでもらいながら笑う声。ティックが作った壊れかけの人形を見て喜ぶ声。ボルグの大きな手に乗せられ、高い高いをされて、怖がりながらも笑う声。


 その声は、今はもうない。


 部屋の奥の寝床で、ミーシャは浅い息を繰り返していた。


 細い胸が、苦しげに上下している。呼吸のたび、喉の奥からひゅう、ひゅうと乾いた音が漏れた。額には濡れた布が乗せられているが、布はすぐに熱を吸い、温くなってしまう。


 白かった肌には、赤い痣が広がっていた。


 腕から肩へ。


 肩から首筋へ。


 赤い糸が皮膚の下を這うように、少しずつ、少しずつ、命の中心へ迫っている。


 アンナは寝床の横に座り、布を替え続けていた。


 目は赤く腫れている。泣きすぎたのではない。泣く時間も眠る時間もなく、ただ水を絞り、額を拭き、乾いた唇へ少しずつ水を含ませていたせいだ。


 ボルグは入口近くに立ち、腕を組んでいた。


 大きな体は壁のようだったが、その拳は何度も開き、閉じられている。力だけなら誰にも負けない。壁を壊し、扉を破り、男を投げ飛ばすことならできる。だが、今その力は、ミーシャの熱ひとつ下げられない。


 ティックは床に座り、短剣を拭いていた。


 もう刃は十分に磨かれている。それでも布を動かし続けている。手を止めたら、震えてしまうからだ。


 そしてキースは、中央に古い地図を広げていた。


 雨で湿った指先が、地図の一点を押さえている。


 ローゼンバーグ侯爵邸。


 王都の一等地。


 白い壁と薔薇の庭園に囲まれた、貧しい者たちが近づくことすら許されない場所。


「……見張りは、正門に六人。裏門に四人」


 キースの声は低かった。


「庭園の外周には魔道具の感知器がある。犬はいない。だが、巡回兵が三組。時間は半刻ごとに交代」


「多すぎる」


 ティックが呟いた。


「普通の屋敷じゃねぇな」


「普通じゃないから、あそこにある」


 キースは言った。


 聖女の涙。


 どんな病も癒やすと噂される、奇跡の秘宝。


 それが本物かどうか、誰にも分からない。酒場で聞いた商人の話など、風に転がる枯れ葉と同じくらい頼りない。誰かの見栄かもしれない。誰かが金持ちを羨んで作った噂かもしれない。


 それでも、彼らにはもう、その噂にすがるしかなかった。


 金では門は開かなかった。


 医者は首を振った。


 薬師は曖昧に笑った。


 清潔な水も、空気も、寝床も、彼らの手には届かなかった。


 ならば、噂の中に手を突っ込むしかない。


 たとえ、その中身が毒であっても。


 その時、入口の布が揺れた。


 雨と一緒に、冷たい風が小屋へ流れ込む。


 黒い外套をかぶった男がひとり、身を低くして入ってきた。黒猫の情報屋として時々使っている、下町の顔役の使いだった。


「……遅かったな」


 キースが言った。


 男は濡れた外套を脱がず、部屋の空気を探るように目を動かした。ミーシャの寝床を見た瞬間、わずかに顔を歪める。


「いい知らせと悪い知らせがある」


「悪い方から言え」


 キースの声に、迷いはなかった。


 男は懐から、雨に濡れないよう油紙で包んだ羊皮紙を取り出した。


「ローゼンバーグ家に、予告状が届いた」


 ティックの手が止まった。


「……予告状?」


 ボルグが低く唸る。


「俺たちは出してねぇぞ」


「ああ。だが、王都中ではもうそういう話になってる」


 男は羊皮紙を床に置いた。


 そこには、粗い筆跡でこう書かれていた。


 ――我ら義賊団黒猫、満月の夜に貴家の秘宝『聖女の涙』をいただきに参上する。


 小屋の中の空気が、雨よりも冷たくなった。


 アンナがミーシャの布を替える手を止める。


 ティックが顔を上げる。


 ボルグの拳が、ぎり、と鳴った。


「誰だ」


 キースの声は静かだった。


 静かすぎて、余計に怖かった。


「誰が出した」


「分からん」


「分からんじゃねぇ」


「本当に分からない。ただ、今朝、ローゼンバーグ家の門に貼られていたらしい。衛兵が見つけた。すぐにギルドにも話が回った」


「ギルド?」


 キースの目が細くなる。


 男は頷いた。


「ローゼンバーグ家は正式に護衛依頼を出した。指名依頼だ」


「誰を」


 男は一度、言葉を飲み込んだ。


 それだけで、嫌な予感がした。


「英雄シュン」


 雨の音が、急に遠くなった。


 ティックの顔から血の気が引く。


 ボルグでさえ、目を見開いた。


 英雄シュン。


 最近、王都の冒険者ギルドで噂になっている男。


 巨大な魔獣を素手で吹き飛ばした。


 魔力測定器を壊した。


 普通なら束になっても勝てない相手を、まるで散歩の途中で石を蹴るように退ける。


 どこまでが本当で、どこからが尾ひれなのかは分からない。だが、黒猫たちは知っている。噂というものは、大抵の場合、完全な嘘ではない。どれほど膨らんでいても、中心には何かしらの事実がある。


 その英雄が、屋敷を守る。


 つまり、もう普通の盗みではない。


 死にに行くようなものだった。


「……罠だ」


 アンナが言った。


 小さな声だったが、はっきりしていた。


「キース、これは罠だよ。誰かが私たちをおびき寄せようとしてる」


 キースは予告状を見下ろしていた。


 黒猫の名前。


 聖女の涙。


 満月の夜。


 全部が、こちらの事情をなぞるように書かれている。


 誰かが見ている。


 誰かが知っている。


 そして、その誰かは、黒猫たちがこの噂から逃げられないことも知っている。


 ティックが短剣を握りしめた。


「やめよう」


 その声は、震えていた。


「これはおかしい。俺たちが出してもいない予告状で、英雄まで呼ばれてる。完全に待ち構えられてる。こんなの、飛び込んだら終わりだ」


「……ああ」


 キースは答えた。


「終わりかもしれねぇな」


「だったら!」


「でも、ミーシャも終わりかけてる」


 その一言で、ティックは口を閉ざした。


 寝床の方から、苦しげな息が聞こえた。


 ひゅう。


 ひゅう。


 小さな胸が、上下している。


 まだ生きている。


 だが、その音は、前よりも細くなっていた。


 アンナはミーシャの手を握った。


「そばにいてあげようよ」


 誰もすぐには答えなかった。


 雨が屋根を叩いている。


 ぽたり、と椀に雫が落ちた。


「もう、充分やったよ」


 アンナの声が震える。


「薬も探した。医者にも頼んだ。お金も集めた。噂も追った。私たち、できることは全部やったよ」


 彼女は唇を噛み、涙をこらえるように息を吸った。


「だから……最後くらい、そばにいてあげようよ。あの子が目を覚ました時、誰もいないなんて嫌だよ。泥棒に行って、帰ってこなかったら……ミーシャは、ひとりで……」


 最後まで言えなかった。


 その先の言葉は、あまりにも冷たすぎた。


 ボルグが、壁を見つめたまま歯を食いしばった。


 ティックは俯き、短剣を握る手を震わせていた。


 アンナの言葉は正しかった。


 たぶん、いちばん優しかった。


 無謀な賭けに出るより、最期まで手を握る。


 それも、守ることだ。


 それも、愛することだ。


 キースにも分かっていた。


 分かっていたからこそ、胸が裂けそうだった。


 彼はゆっくりと、ミーシャの寝床へ歩いた。


 床板が濡れた音を立てる。


 ミーシャの額には汗が浮かび、まつ毛は湿っていた。赤い痣が首筋のあたりで濃くなっている。小さな唇が、何かを探すようにわずかに動いた。


「……キース……お兄ちゃん……?」


 かすれた声だった。


 目は開いていない。


 熱に浮かされたまま、呼んでいる。


 キースは膝をつき、その手を取った。


 熱い。


 燃えるように熱い。


 あの雪の夜に触れた、冷え切った小さな手とは違う。今のミーシャの手は、命そのものが燃え尽きようとしているような熱を持っていた。


「ここにいる」


 キースは囁いた。


「ちゃんと、ここにいる」


 ミーシャは、聞こえているのかいないのか、ほんの少しだけ指を動かした。


 その指が、キースの指を探す。


 そして、弱く握った。


 あの日と同じだった。


 雪の中で、世界から捨てられた赤ん坊が、キースの上着を掴んだ時と同じ。


 あの瞬間から、黒猫は始まった。


 あの小さな手に掴まれたまま、彼らはここまで来た。


 キースは目を閉じた。


 雨の音。


 ミーシャの呼吸。


 アンナの押し殺した泣き声。


 ボルグの荒い息。


 ティックが短剣を握る布の擦れる音。


 全部が、胸の奥へ沈んでいく。


 やがて、キースは立ち上がった。


「行く」


 その一言は、椀に落ちる水滴よりも静かだった。


 だが、誰の耳にも届いた。


「キース……!」


 アンナが叫ぶ。


 キースは振り返らなかった。


「俺は、そばにいるだけじゃ無理だ」


 声は震えていなかった。


 震えないように、全ての力を込めていた。


「この手がまだ熱いうちは、俺は諦められねぇ」


アンナの顔が歪んだ。


 止めたいのに、止める言葉が見つからない顔だった。


 キースの言っていることは、無謀だった。間違っているかもしれなかった。罠に飛び込むようなものだった。


 それでも、ミーシャの手がまだ熱い。


 まだ、完全には消えていない。


 その事実が、彼らを縛っていた。


 ボルグが、ゆっくりと壁から背を離した。


「……俺も行く」


「ボルグ!」


 アンナが振り返る。


 ボルグは唇を噛んだまま、寝床のミーシャを見た。大きな体に似合わないほど、目が赤くなっている。


「俺は、あの子を抱っこした時の重さを覚えてる。雪の日の、ちっこくて、軽くて、消えそうだった重さも。少し大きくなって、俺の肩に乗って笑ってた重さも」


 拳が震える。


「今のミーシャは、軽すぎる。あんなに軽くなっちゃ駄目なんだよ。もっと重くならなきゃいけねぇんだ。いっぱい食って、いっぱい寝て、俺が持ち上げた時に『重くなったな』って言わせなきゃいけねぇんだ」


 ボルグは、床に置いていた大きな鉄棒を掴んだ。


「だから行く。俺は馬鹿だから、そばにいて泣くだけじゃ、たぶん壊れる」


 ティックは短剣を見つめていた。


 磨きすぎた刃に、ランプの火が細く映っている。


「英雄シュン、か」


 彼は乾いた笑いを漏らした。


「笑えねぇな。俺たち、今までは金貸しとか悪徳商人とか、肥え太った豚相手に屋根走ってりゃよかったのに。今度は英雄様だってよ」


 誰も笑わなかった。


 ティックは短剣を鞘に収めた。


「俺、正直怖いよ。手が震えてる。逃げたい。すげぇ逃げたい」


 彼は自分の手を見た。


 細い指が、本当に震えていた。


「でも、もっと怖いのは、ここに残って朝を待つことだ。朝になって、ミーシャがもう息してなかったらって考えたら……そっちの方が、ずっと怖い」


 ティックは顔を上げた。


「だから行く。罠でも何でも、潜れる隙間があるなら潜る。俺たちは黒猫だろ」


 その言葉に、キースは小さく頷いた。


 アンナだけが、まだ動けずにいた。


 彼女はミーシャの手を握りしめ、肩を震わせている。


「……私、嫌だよ」


 声が、擦れていた。


「みんなが行って、誰も帰ってこなかったら嫌だよ。ミーシャが助かっても、みんながいなかったら……そんなの、あの子が喜ぶわけない」


 キースは何も言えなかった。


 それは正しい。


 あまりにも正しかった。


 ミーシャは、薬だけで生きているのではない。アンナの手で髪を結んでもらい、ボルグの肩に乗り、ティックの冗談で笑い、キースに頭を撫でられてきた。彼ら全員が、ミーシャの世界だった。


 その世界を壊してまで助けることが、本当に救いなのか。


 誰にも答えは分からなかった。


 雨が強くなる。


 屋根を叩く音が、少しずつ激しさを増していく。椀に落ちる雫の音が速くなる。ぽたり、ぽたりではなく、ぱた、ぱた、と急かすように鳴った。


 ミーシャが、薄く目を開けた。


「……アンナ、お姉ちゃん……」


 アンナはすぐに顔を近づけた。


「ここにいるよ。大丈夫。怖くないよ」


「泣いてるの……?」


「泣いてないよ」


 嘘だった。


 ミーシャは、ぼんやりとした瞳でアンナを見上げた。熱のせいで焦点は合っていない。それでも、彼女はアンナの涙に気づいたのだろう。


 小さな指が、アンナの頬に触れた。


「ごめんね」


「謝らないで」


「みんな……けんか、しないでね」


 アンナの息が止まった。


「しない。しないよ」


「キースお兄ちゃんも……ボルグお兄ちゃんも……ティックお兄ちゃんも……みんな、いてね」


 その言葉は、四人の胸を同時に貫いた。


 いてね。


 ただ、それだけ。


 ミーシャが望んでいるのは、金貨でも、宝石でも、名誉でもなかった。


 大好きな人たちが、そこにいること。


 それだけだった。


 キースは、拳を握りしめた。


 爪が掌に食い込む。


 それでも、決意は揺らがなかった。


 いや、揺らいだまま進むしかなかった。


 迷いが消えたわけではない。


 恐怖がなくなったわけでもない。


 ただ、残された時間が、彼らに立ち止まる余裕を与えてくれなかった。


「……必ず帰る」


 キースは、ミーシャの耳元で囁いた。


「全員で帰る。だから、待ってろ」


 ミーシャは小さく頷いたように見えた。


 また目を閉じる。


 アンナは、長い間その顔を見つめていた。


 やがて、彼女は涙を袖で乱暴に拭った。


「……分かった」


 キースが彼女を見る。


 アンナは震えながら立ち上がった。


「行く。でも約束して」


「何を」


「誰も殺さない」


 その言葉に、ボルグが目を伏せた。


 ティックも黙った。


 アンナは続けた。


「ミーシャを助けるために行くんでしょ。だったら、誰かの大事な人を奪うようなことはしないで。私たちがそんなことをしたら……ミーシャは絶対に喜ばない」


 雨音の中で、その言葉だけが真っ直ぐに立っていた。


 キースは、予告状を見た。


 誰かが勝手に作った、黒猫の名前を使った紙。


 そこに書かれた「義賊団」という文字が、ひどく重く見えた。


 義賊。


 そんな立派なものではない。


 ただ、拾った命を失いたくなくて、泥の中を這い回ってきただけの子どもたちだ。


 けれど、だからこそ、越えてはいけない線がある。


「分かった」


 キースは言った。


「誰も殺さない。衛兵も、使用人も、英雄も、傷つけるのは最小限だ。気絶させるだけにする」


「相手が殺しに来ても?」


 ボルグが低く問う。


 キースは一瞬だけ黙った。


 それから答えた。


「それでも、殺さない」


 ティックが息を吐いた。


「難易度、跳ね上がったな」


「元から最悪だ」


「違いねぇ」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 笑いではなかった。


 だが、完全に折れていた心が、かすかに形を取り戻すような時間だった。


 四人は作戦を詰め始めた。


 正門からは入らない。


 裏門も避ける。


 庭園の外壁、古い蔦が絡む西側の壁を使う。ティックが先行し、感知器の位置を見る。ボルグは荷物役と壁越えの支え。アンナは鍵と薬草の識別。キースは全体の指揮と撤退判断。


 宝物庫に入っても、金銀財宝には触れない。


 探すのは、聖女の涙だけ。


 形は分からない。


 薬草なのか、小瓶なのか、宝石なのかも分からない。


 だが、光る草のように飾られているという噂だけがあった。


「もし見つからなかったら」


 ティックが言った。


 誰も答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 見つからなければ、終わり。


 それでも、行く。


 キースは最後に、予告状を拾い上げた。


 濡れた紙の端が、ランプの火に照らされて黒く影を作る。


「これを書いた奴が誰かは分からねぇ」


 彼は低く言った。


「でも、俺たちを利用する気なら、利用されてやる。その代わり、こっちも利用する。この騒ぎに紛れて、必ず宝物庫へ入る」


 紙を握り潰す。


 くしゃり、という音がした。


 それは、誰かに作られた筋書きを、そのまま飲み込む音ではなかった。


 泥の中にいる者たちが、必死に自分たちの足跡を残そうとする音だった。


 出発の前、四人はミーシャの寝床の前に集まった。


 アンナが、きれいな布でミーシャの額を拭いた。


 ボルグが、彼女の小さな手に自分の太い指をそっと握らせた。


 ティックが、枕元に小さな木彫りの猫を置いた。以前、ミーシャを笑わせるために作ったものだ。片耳が少し欠けている。


 キースは最後に、彼女の髪を撫でた。


 熱で湿っていた。


 けれど、柔らかかった。


「行ってくる」


 ミーシャは眠っていた。


 返事はない。


 それでも、キースには聞こえた気がした。


 あの雪の夜と同じ、かすかな息。


 生きているという証。


 四人は外へ出た。


 雨が容赦なく体を叩いた。


 冷たい。


 痛いほど冷たい。


 だが、誰も立ち止まらなかった。


 路地の水たまりに、四人の影が映る。歪み、揺れ、雨粒に砕かれながらも、影は確かに前へ伸びていた。


 キースは外套のフードを深く被り、王都の上層へ続く坂道を見上げた。


 その先に、白亜の屋敷がある。


 薔薇の庭園がある。


 宝物庫がある。


 罠がある。


 英雄がいる。


 そして、あるかどうかも分からない、最後の光がある。


「行くぞ」


 キースが言った。


 黒猫たちは、雨の闇へ滑り込んだ。


 その背中を、スラムの小さな小屋だけが見送っていた。


 屋根の隙間から落ちる水音は、まだ続いている。


 ぽたり。


 ぽたり。


 まるで、残された時間を数えながら。


 それでも、寝床の上のミーシャは、まだ息をしていた。


 その小さな呼吸を守るために、黒猫たちは罪を抱えて走り出した。


 祈るように。


 盗むように。


 愛するものを失わないために、冷たい雨の中へ。

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