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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第48話:秋の迷走と、偽りの希望 〜迷いは道である〜

夏の湿った臭いが、少しずつ王都から剥がれ落ちていった。


 代わりに訪れた秋の風は、乾いていた。


 路地裏に吹き込むその風は、涼しさではなく、渇きを運んでくる。割れた石畳の上を、枯れ葉がカサカサと転がった。薄く茶色に縮れた葉は、壁にぶつかり、跳ね返り、また風に押されてどこかへ消えていく。その音は、何か小さなものが擦り減っていく音に似ていた。


 黒猫たちも、擦り減っていた。


 ミーシャの熱は、日によって上がり下がりを繰り返した。


 朝には少し笑える日もあった。アンナが薄く切った果物を口元へ運ぶと、「甘い」と小さく呟き、キースたちを安心させる日もあった。


 けれど、夜になると必ず熱は戻ってきた。


 額は燃えるように熱くなり、細い喉からは苦しげな息が漏れる。白い肌の下には、赤い糸のような痣がゆっくり広がっていった。最初は腕だけだったそれが、肩へ、首筋へ、胸元へと忍び寄る。


 その赤を見るたび、キースの中の何かが焦げた。


 部屋には、薬草の苦い匂いが染みついていた。


 煎じた草の青臭さ。古い布に染みた汗。熱冷ましに使った水の湿った臭い。ランプの油が焦げる匂い。それらが混ざり合い、夜ごとに重く沈んでいく。


 キースは眠らなくなった。


 正確には、眠れなくなった。


 目を閉じると、ミーシャの呼吸が止まる音を想像してしまう。だから、壁にもたれて座り、薄暗い部屋の中で、彼女の胸が上下しているかを見続けた。


 上がる。


 下がる。


 また上がる。


 それだけを確認し続ける夜が、いくつも重なった。


「キース」


 ある朝、アンナがかすれた声で言った。


 彼女の目の下には濃い影が落ちている。髪は乱れ、指先は水仕事で荒れていた。けれど、ミーシャの前では必ず笑顔を作った。その笑顔が、日に日に薄くなっていることに、キースは気づいていた。


「このままだと、私たちも倒れる」


「倒れてる暇はない」


「そうじゃない」


 アンナは声を抑えた。


 隣の寝床で、ミーシャが浅く眠っている。


「焦るのは分かる。でも、何でも信じたら駄目だよ。昨日の薬だって、結局ただの苦い水だった」


 キースは答えなかった。


 昨日、彼らは裏通りの薬売りに金貨三枚を払った。


 男は言った。


 どんな熱にも効く。王宮でも使われている秘薬だ。貧民には本来売れないが、特別に分けてやる、と。


 瓶の中身は濁った緑色だった。


 飲ませたあと、ミーシャは激しく吐いた。


 それだけだった。


 薬売りは、もうその場所にはいなかった。


 ティックが追いかけたが、見つからなかった。


「次は見極める」


 キースが言った。


「見極められる状態じゃないよ、今の私たち」


 アンナの声が少し震えた。


「ミーシャを助けたいって気持ちが強すぎて、何でも本物に見えてる」


 キースは彼女を見た。


 責める目ではなかった。


 けれど、その目の奥には、休むことも、諦めることも、誰かの言葉を受け入れることも拒むような硬さがあった。


「じゃあ、どうしろって言うんだ」


 低い声だった。


「何もしないで、見てろって言うのか」


「そうじゃない」


「医者は駄目だった。まともな治療院は門前払いだ。薬師は金だけ持って逃げる。綺麗な水も空気も、俺たちには買えない。だったら、残ってる噂を全部拾うしかねぇだろ」


「でも」


「でも、じゃねぇ」


 キースは立ち上がった。


 床板がぎしりと鳴る。


「俺は、あいつに約束した」


 その言葉で、アンナは黙った。


 あの雪の夜。


 ゴミ捨て場から拾われた小さな命を、彼らは囲んだ。


 世界が捨てたなら、自分たちが拾う。


 誰も守らないなら、自分たちが守る。


 日の当たる場所へ出してやる。


 その約束は、いつの間にか黒猫たちの骨になっていた。折れたら、自分たちが自分たちでなくなる。


 アンナは唇を噛み、ミーシャの寝顔を見た。


「……分かってる」


 小さな声だった。


「分かってるよ。私だって、助けたい」


 その声には、怒りではなく、疲れが滲んでいた。


 疲れは、悲しみよりも重い。


 泣く力すら奪っていく。


 ***


 その日から、黒猫たちは王都中を歩いた。


 歩いたというより、彷徨った。


 まず向かったのは、下町の治療院だった。


 乾いた秋風が、通りの端に積もった埃を巻き上げる。表通りに近づくほど石畳は整い、人々の服も綺麗になっていく。パン屋からは焼きたての香ばしい匂いが漂い、肉屋の軒先には赤く艶のある肉が吊るされていた。


 キースたちは、その匂いの中で浮いていた。


 泥の染みた靴。


 古い外套。


 傷のある手。


 どれだけ顔を洗っても、どれだけ服を叩いても、スラムの臭いは消えない。人々は彼らを見ると、自然に道を空けた。親が子どもの手を引き寄せ、商人は店先の品を奥へ押し込む。


 治療院の白い扉の前で、キースは足を止めた。


 扉の向こうからは、薬草と清潔な布の匂いがした。中では、誰かが穏やかな声で話している。水の注がれる音、陶器が触れ合う音、窓辺の花瓶に差した花が風に揺れる音。


 そこは、ミーシャに必要なものが全部あるように見えた。


 キースは扉を叩いた。


 出てきた若い助手は、キースたちを見るなり、表情を固めた。


「診てほしい子がいる」


 キースは金貨の袋を差し出した。


「熱病だ。金は払う。頼む」


 助手は袋を見た。


 それから、キースたちの服と手を見た。


「紹介状はありますか」


「ない」


「保護者の身分証は」


「ない」


「住居は」


「最下層だ」


 扉が、少し閉じた。


 助手の顔が、木の隙間に細く残る。


「申し訳ありません。当院では受け入れできません」


「金はある」


「そういう問題ではありません」


「じゃあ、どういう問題だ」


 助手は答えなかった。


 ただ、目だけが言っていた。


 お前たちは中へ入れない、と。


 扉が閉まった。


 白い扉だった。


 薄汚れた手で叩けば、そこだけ汚れてしまいそうなほど白い扉だった。


 キースは、しばらくその扉を見つめていた。


 拳を握る音がした。


 ボルグだった。


「壊すか」


 キースは首を横に振った。


「中にいる病人を巻き込む」


「……そうだな」


 ボルグは拳を下ろした。


 弱い者からは奪わない。


 その掟が、こんな時でさえ彼らの足を止めた。


 正しさは、時に残酷だった。


 正しいからこそ、何もできないことがある。


 ***


 次に向かったのは、薬師通りだった。


 細い通りの両側に、古びた看板が並んでいる。乾燥させた草束が軒先に吊るされ、風に揺れるたび、カサカサと乾いた音を立てた。薬草の匂いは濃く、鼻の奥が痺れるほどだった。


 キースたちは一軒ずつ回った。


 深紅の熱病に効く薬はないか。


 痣を消せる薬はないか。


 呼吸を楽にする方法はないか。


 どの店も、最初は金貨を見ると態度を変えた。奥から瓶を出し、粉を出し、黒い丸薬を出した。


 だが、効き目を尋ねると、誰も目を合わせなかった。


「必ず治るとは言えませんな」


「体質によります」


「早ければ早いほどよいですが、すでに痣が出ているなら……」


 最後の言葉は、どの薬師も濁した。


 言い切らない。


 言い切らないまま、金だけは受け取ろうとする。


 ティックが一人の薬師の手首を掴んだ。


「なあ。効くのか、効かないのか、はっきり言えよ」


 薬師は汗を浮かべた。


「ですから、試してみなければ」


「試すのは俺たちじゃない。ミーシャだ」


 ティックの声が震えていた。


「小さい子どもなんだよ。苦い薬を飲むたびに、それでも笑うんだよ。『ありがとう』って言うんだよ。効かないなら、効かないって言え」


 薬師は、黙って視線を逸らした。


 ティックは手を離した。


 何も買わずに店を出た。


 外の風が、冷たくなっていた。


 秋が深まっている。


 ミーシャの残り時間も、一緒に削られていく気がした。


 キースは空を見上げた。


 高い空だった。


 どこまでも澄んでいる。


 その青さが、ひどく腹立たしかった。


 地上で誰が泣こうと、誰が苦しもうと、空は何も変わらない。


 ただ、綺麗なままだ。


「……まだだ」


 キースは呟いた。


「まだ、終わってねぇ」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。


 けれど、ボルグも、ティックも、アンナも、それを聞いていた。


 彼らはもう、正しい道を歩いているのかどうか分からなくなっていた。


 それでも、足を止めることはできなかった。


 止まった瞬間、ミーシャの小さな手が、自分たちの指から離れてしまう気がしたからだ。


 夕暮れが近づく。


 王都の街灯に火が入り始めた。


 乾いた落ち葉が、石畳を滑っていく。


 その日、最後に残ったのは、一枚の噂だった。


 場末の酒場。


 古い木の扉。


 安酒の匂い。


 そこで、金持ちの商人たちが口にしていた名前。


 ――ローゼンバーグ家。


 そして、宝物庫に眠るという、奇跡の秘宝。


 聖女の涙。


 その名を聞いた瞬間、キースの心臓は、長い夜の底で突然鐘を鳴らされたように、大きく跳ねた。


場末の酒場は、湿った木と安酒の臭いで満ちていた。


 天井は低く、梁には古い煤がこびりついている。壁際のランプは油が悪いのか、時折じじっと嫌な音を立て、黄色い火を揺らした。床にはこぼれた酒が黒く染み込み、そこへ靴裏の泥と落ちた食べかすが混じっている。


 キースは、酒場の隅に座っていた。


 目の前には、薄い酒の入った木杯がある。ほとんど口をつけていない。酒の味など分からなかった。ただ、そこに座って耳を澄ませるために注文しただけだった。


 隣の卓では、二人の商人が声を潜めて話していた。


 服は上等だった。指には宝石のついた指輪。靴も磨かれている。最下層の人間とは違う。雨の日に泥を踏まない道を歩いてきた者たちの匂いがした。


「……それで、ローゼンバーグ家だ」


「またか。あの若い女当主は、次から次へと妙なものを集めるな」


「妙なものどころじゃない。宝物庫に、東方から取り寄せた秘薬があるらしい」


 キースの指が、木杯の縁で止まった。


「秘薬?」


「ああ。名前は確か……聖女の涙」


 聖女の涙。


 その言葉が、酒場の喧騒の中で異様にはっきりと響いた。


 キースは息を止めた。


「どんな病でも癒やすって噂だ。熱病も、毒も、呪いも、命さえ残っていれば引き戻すらしい」


「大げさだな。そんなものが本当にあるなら、王宮が黙っていないだろう」


「ところが、ローゼンバーグ家は金なら腐るほど持ってる。あの家なら、どこの国の秘宝でも買えるさ」


 商人の一人が笑った。


 その笑い声が、キースの耳には遠く聞こえた。


 心臓が、強く打っている。


 一回。


 また一回。


 胸の内側を叩くその音が、ミーシャの苦しげな呼吸と重なった。


 聖女の涙。


 どんな病でも癒やす。


 熱病も。


 命さえ残っていれば。


 キースの中で、乾ききっていた何かに、水が落ちた。


 それは、希望だったのかもしれない。


 けれど、あまりにも眩しすぎる希望は、時に毒と区別がつかない。


「それをどう使ってるんだ?」


「使ってないらしい」


「は?」


「当主のアリス嬢は、珍しいものを集めるのが趣味だそうだ。宝物庫の奥で、ただ光る草みたいに飾っているとか」


 商人たちが笑った。


「金持ちの考えることは分からんな」


「病人が聞いたら卒倒する話だ」


 キースの手が震えた。


 木杯の中の酒が、小さく波打つ。


 使っていない。


 ただ飾っている。


 たったそれだけのものを、ミーシャは持っていないせいで苦しんでいる。


 キースは歯を噛みしめた。


 奥歯が軋む音がした。


 怒りではない。


 怒りだけではなかった。


 羨望、焦燥、恐怖、祈り、憎しみ、願い。


 いくつもの感情が、胸の中で濁流のように混ざり合っていた。


 商人たちの声は続いている。


「だが、あの家の宝物庫には近づけんよ。警備は王城並みだ」


「しかも当主がまた、化け物みたいな頭脳の持ち主だ。近づく前に罠にかかる」


「まあ、我々には縁のない話だ」


 そう言って、彼らは笑った。


 縁のない話。


 その一言で、キースの胸の奥が冷えた。


 違う。


 縁がないのではない。


 奪われているだけだ。


 きれいな水も。


 清潔な寝床も。


 治療院の扉も。


 そして、ミーシャを救えるかもしれない薬さえも。


 この世界は、持っている者の手の中にだけ救いを置き、持たざる者にはそれを眺めることしか許さない。


 だったら。


 キースは、ゆっくりと立ち上がった。


 木杯はほとんど減っていなかった。


 金を置く。


 酒場を出る。


 外に出ると、秋の夜風が頬を切った。


 冷たい。


 けれど、その冷たさは今のキースにはありがたかった。熱に浮かされそうになる頭を、少しだけ正気に戻してくれる。


 空には月が出ていた。


 青白い光が、濡れてもいない石畳を静かに照らしている。枯れ葉が一枚、風に押されてキースの足元へ転がってきた。


 彼は、それを踏んだ。


 乾いた音がした。


 もう、戻れない音だった。


 ***


 アジトに戻ると、アンナがミーシャの額を拭いていた。


 ボルグは入口のそばで腕を組み、目を閉じたまま座っている。眠ってはいない。眠れるはずがない。ティックは壁際で膝を抱え、何度も同じ短剣を布で拭いていた。


 キースが入ると、三人の視線が同時に向いた。


 アンナがすぐに聞いた。


「何か、分かった?」


 その声には、期待を抑えようとする震えがあった。


 キースは答える前に、ミーシャを見た。


 彼女は眠っていた。けれど、良い眠りではない。眉は苦しげに寄り、唇は乾いて薄く開いている。呼吸のたび、細い喉が頼りなく上下した。


 胸の奥が締めつけられる。


 キースは、ゆっくりと言った。


「あるかもしれねぇ」


 ボルグが立ち上がった。


「薬か」


「ああ」


 ティックが身を乗り出す。


「どこに」


 キースは、少しだけ黙った。


 その沈黙で、アンナの顔が曇った。


「……まさか」


「ローゼンバーグ侯爵家」


 空気が止まった。


 その名は、スラムの人間でさえ知っている。


 王都随一の大富豪。


 貿易、魔道具、金融、何にでも手を伸ばす巨大な家。


 そして、鉄壁の警備を誇る屋敷。


 ボルグが低く唸った。


「冗談だろ」


「冗談で言うか」


「死にに行くようなもんだぞ」


「ここにいたって、ミーシャは死ぬ」


 その一言で、誰も何も言えなくなった。


 アンナが、布を握りしめた。


「その薬は、本当にあるの?」


「噂だ」


「噂……」


「名前は、聖女の涙。どんな病でも癒やすらしい」


 ティックが顔を歪めた。


「らしい、か」


「ああ」


「また嘘かもしれない」


「ああ」


「罠かもしれない」


「それでも行く」


 キースの声は静かだった。


 静かだからこそ、誰にも止められない重さがあった。


 アンナは首を振った。


「駄目だよ。そんなの、危なすぎる。もし捕まったら、みんな処刑されるかもしれない」


「分かってる」


「分かってない!」


 アンナの声が初めて荒くなった。


 ミーシャが少し身じろぎする。


 アンナは慌てて口を押さえ、声を落とした。


「キース……お願い。考えて。私たちまでいなくなったら、この子は本当に一人になる」


「だから行くんだ」


「違うよ。そばにいることだって、守ることだよ」


 その言葉は、キースの胸に刺さった。


 そばにいる。


 手を握る。


 最期まで一緒にいる。


 それが間違いではないことは分かっていた。


 むしろ、それは優しさだった。


 けれど、キースには選べなかった。


 あの雪の夜、ミーシャの手が自分の上着を掴んだ時から、彼の中の何かは決まっていた。


 この子の命が消えようとしている時、自分だけが安全な場所に立って見送ることなどできない。


 たとえ間違いでも。


 たとえ愚かでも。


 動かずにはいられない。


「俺は、見てるだけなんてできねぇ」


 キースは言った。


「もし、あの薬が本物だったら。もし、手を伸ばせば届く場所にあるのに、俺たちが怖がって行かなかったら」


 彼はミーシャを見た。


「俺は一生、自分を許せない」


 沈黙が落ちた。


 ランプの火が揺れる。


 外では、枯れ葉が地面を擦る音がした。


 ティックが、短剣を布で拭く手を止めた。


「……俺は行く」


 アンナが顔を上げる。


「ティック」


「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。ローゼンバーグ家なんて、正面から見たこともねぇ。門まで行ったら足がすくむと思う」


 ティックは自嘲するように笑った。


「でもさ。ミーシャがいなくなった後で、俺だけ生きてたって、何していいか分かんねぇんだよ」


 ボルグも、ゆっくり頷いた。


「俺も行く」


「ボルグまで……」


「アンナ。俺たちは馬鹿だ。難しいことは分からん。でも、あの子が苦しんでるのは分かる。何かできるかもしれねぇなら、やるしかねぇ」


 アンナの目から涙がこぼれた。


 彼女はミーシャの手を両手で包み込んだ。


「……私だって、助けたいよ」


 声が震える。


「助けたいに決まってる。でも、みんなが死ぬのも嫌なの。ミーシャが目を覚ました時、誰もいないなんて……そんなの嫌だよ」


 キースは、アンナのそばに膝をついた。


「死にに行くんじゃない」


「でも」


「盗みに行くんだ。いつも通りだ」


 いつも通り。


 その言葉が、どれほど虚しい強がりか、全員分かっていた。


 相手は金貸しでも、悪徳商人でもない。


 ローゼンバーグ侯爵家。


 しかも、屋敷には得体の知れない女当主がいる。噂では、未来を読んだように商売を当て、未知の魔道具を作り、人を人とも思わない冷たい目をしているという。


 キースは、それでも引かなかった。


「弱い者から奪うわけじゃない。使われてもいない薬を、必要な場所へ持ってくるだけだ」


 それは、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。


 盗みは盗みだ。


 どんな理由をつけても、他人のものを奪うことに変わりはない。


 だが、それでも。


 ミーシャを救えるかもしれないなら、罪の名前など後でいくらでも背負えばいい。


 アンナは長く目を伏せた。


 やがて、涙を拭き、顔を上げる。


「……分かった」


 キースの目が揺れた。


「アンナ」


「私も行く。止めても無駄。ミーシャを拾ったのは私だから」


 アンナはミーシャの額にそっと口づけた。


「この子を助ける責任は、私にもある」


 誰も、それ以上何も言わなかった。


 四人は、ミーシャの寝床を囲んだ。


 あの雪の夜と同じように。


 違うのは、彼女がもう赤ん坊ではなく、苦しげに呼吸する小さな少女になっていることだった。


 キースは、ミーシャの手を取った。


 熱い。


 焼けるように熱い。


 けれど、その手はまだ生きている。


 かつて自分の上着を掴んだ手。


 黒猫たちを家族にした手。


 その手を、キースは強く握った。


「待ってろ」


 ミーシャは眠っている。


 聞こえているかどうかも分からない。


 それでも、キースは言った。


「必ず持って帰る。聖女の涙でも、何でも。お前を助けるものなら、俺たちが必ず盗ってくる」


 ランプの火が、小さく揺れた。


 壁に映った四人の影が、猫のように細く伸びる。


 その影は、もう子どもたちのものではなかった。


 大切なものを守るために、暗闇へ踏み込む者たちの影だった。


 外では、秋の風が強くなっていた。


 乾いた葉が路地を走る。


 カサカサ、カサカサと鳴るその音は、まるで王都のどこかで、見えない誰かが紙に運命を書き込んでいるようだった。


 その紙の上に、黒猫たちは自分たちの足跡を残そうとしていた。


 たとえ、それが罠へ続く道だとしても。


 たとえ、その先で誰かに笑われ、踏みにじられるとしても。


 彼らにはもう、立ち止まる道が残されていなかった。


 聖女の涙。


 たった一つの噂。


 誰かの退屈な嘘かもしれないその言葉が、黒猫たちにとっては、暗闇の底に差し込んだ最後の光になった。


 そして、その光へ向かって走り出した瞬間から、彼らの運命は静かに、ローゼンバーグ家の黄金の招待状へと絡み取られていく。

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