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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第46話:冬の掃き溜めと、小さな太陽 〜闇はゆりかごである〜

冬の王都には、二つの顔があった。


 貴族街に降る雪は、白く、静かで、美しかった。磨き上げられた石畳に薄く積もり、街灯の光を受けて銀粉のように輝く。暖炉の火が赤く揺れる屋敷の窓から見れば、それは季節が用意した飾り物に見えただろう。


 けれど、最下層と呼ばれるスラム街に降る雪は、同じ雪ではなかった。


 薄汚れた屋根板に触れた瞬間、灰と煤を吸い、泥の色に濁る。道端に積まれた腐った野菜くずや、割れた瓶や、誰かが捨てた布切れを覆い隠しながら、寒さだけは隠してくれない。風が吹くたび、雪は細かな砂のように舞い上がり、路地にうずくまる者たちの頬を容赦なく叩いた。


 ヒュウ、と細い風が抜ける。


 それだけで、腐りかけた板を組んだだけの小屋が、ぎしりと軋んだ。隙間だらけの壁から冷気が忍び込み、床に敷かれた湿った布を這い、そこにいる子どもたちの足首にまとわりつく。


 ここでは、冬は景色ではなかった。


 刃だった。


「……指、動かねぇ」


 粗末な小屋の奥で、キースは自分の両手をこすり合わせた。


 まだ少年と呼ぶべき年だった。だが、その目つきだけは子どものものではない。何度も殴られ、何度も奪われ、何度も逃げ延びてきた者の目だった。頬はこけ、唇は乾いて割れ、指先にはあかぎれがいくつも走っている。


 吐いた息が白く濁った。


 その白ささえ、すぐに暗い空気へ溶けて消えた。


「動かねぇなら、寝ろ」


 隣で丸まっていたボルグが低く言った。


 大柄な少年だった。年齢よりも体だけが先に育ったような、骨太で不格好な体つき。けれど、その大きな背中も今は小さく縮こまり、拾ってきた穴だらけの毛布に必死で収まろうとしている。はみ出した足首は紫色に近く、泥で黒ずんだ爪が寒さに震えていた。


「寝たら腹が減らねぇのかよ」


「起きてても減る」


「じゃあ、どっちでも地獄じゃねぇか」


 小さな声でそう言ったのは、ティックだった。


 彼は小屋の入口近くに座り、破れた布の隙間から外を見張っていた。細い体に、さらに細い影が重なっている。片手には錆びた小さなナイフ。もう片方の手では、何度も同じ石ころを握ったり、離したりしていた。


 眠れば、荷物を盗まれる。


 気を抜けば、襲われる。


 この街では、寒さよりも先に人間が人間を殺すことがある。


 だから三人は、疲れ切っていても完全には眠らなかった。浅く目を閉じ、物音がすればすぐに起き上がる。そんな暮らしを、いつから続けているのか、もう誰も覚えていなかった。


 小屋の中には、食べ物の匂いがなかった。


 煮込んだスープの匂いも、焼いたパンの匂いも、甘い菓子の匂いもない。あるのは、湿った木材の臭い、乾ききらない泥の臭い、古い布に染みついた汗の臭いだけだった。


 キースは腹を押さえた。


 最後に口にしたものは、市場の裏で拾った果物の芯だった。噛めるところなどほとんど残っていなかったが、それでも三人で分けた。味はしなかった。ただ、酸っぱさと苦さだけが舌に残った。


「明日、晴れたら出る」


 キースが言った。


「どこへ」


 ティックが聞く。


「市場だ。荷車が増える。人も増える。財布の紐も緩む」


「衛兵も増える」


「捕まらなきゃいい」


 キースの声は乾いていた。


 盗むことに胸が痛まないわけではない。けれど、盗まなければ食えない。食えなければ、死ぬ。それだけのことだった。


 正しいかどうかを考える余裕など、この街では真っ先に凍えて死ぬ。


 生き延びた者だけが、次の日の朝日を見ることを許される。


 それが、この場所の決まりだった。


 その時だった。


 ザッ。


 雪を踏む音がした。


 三人の体が同時に固まった。


 風の音ではない。獣でもない。人の足音だ。重くはない。小さい。けれど、確かにこちらへ近づいてくる。


 ボルグが毛布を払いのけ、壁際の鉄パイプを掴んだ。ティックは入口の布に身体を寄せ、ナイフを低く構える。キースもまた、腰に隠していた短い刃を握った。


 この小屋を訪ねてくる者などいない。


 来るとすれば、奪う者か、連れて行く者か、追い払う者だけだ。


 足音が止まった。


 ほんの一瞬の沈黙。


 それから、入口の布が、冷たい風と一緒にめくれた。


「……ただいま」


 入ってきたのは、アンナだった。


 三人の肩から、わずかに力が抜ける。


 だが、すぐに別の緊張が走った。


 アンナの様子がおかしかった。


 栗色の髪は雪で濡れ、頬は赤く腫れ、唇は紫に染まっている。肩は細かく震え、息は乱れていた。だが、彼女は自分の寒さなど気にしていないようだった。


 胸元に、何かを抱えていた。


 ぼろぼろの上着の前を、両腕で必死に押さえている。まるで、外の風から何かを守るように。まるで、奪われたら二度と戻らない宝物を隠しているように。


「アンナ」


 キースは低い声で呼んだ。


「どこ行ってた」


「……ごめん」


「答えろ。こんな雪の中で、何してた」


 アンナは答えなかった。


 代わりに、胸元の布を、少しだけ強く抱きしめた。


 その仕草を見て、ティックが顔をしかめた。


「おい。まさか、拾ってきたのか。食い物か?」


 アンナは首を横に振った。


「じゃあ何だよ」


 ボルグの声にも、不安が混じる。


 アンナの目が揺れた。泣く寸前の子どもの目だった。けれど、その奥に、奇妙な強さがあった。どれだけ責められても、絶対に離さないと決めた目だった。


「路地裏に……いたの」


「誰が」


「ゴミ捨て場の横。布にくるまれて……雪、かぶってて……」


 キースの胸が、嫌な予感で冷えた。


「アンナ」


「声も出せなくなってた。でも、触ったら……まだ温かかったの」


「やめろ」


「置いてこれなかった」


「やめろって言ってんだろ」


 キースの声が荒くなる。


 アンナはびくりと肩を震わせた。それでも、抱えているものを離さなかった。冷え切った指先で、上着の端を握りしめている。


 長い沈黙が落ちた。


 外では、雪が小屋の屋根を叩いている。サラサラという軽い音のはずなのに、その時だけは、土をかけられているように重く聞こえた。


 アンナはゆっくりと、上着の前を開いた。


 そこにあったのは、パンでも、金でも、毛布でもなかった。


 薄汚れた布にくるまれた、小さな命。


 赤ん坊だった。


 あまりにも小さく、あまりにも静かな赤ん坊だった。


 その顔は雪よりも白く、唇は青い。閉じたまつ毛には溶けかけた雪の粒がついていて、呼吸をしているのかどうかさえ、すぐには分からなかった。


 小屋の中の空気が止まった。


 ボルグの鉄パイプが、床に触れて小さく鳴った。


 ティックは何も言わず、ただナイフを握ったまま固まっている。


 キースは、赤ん坊を見下ろした。


 腹は減っている。


 寒い。


 明日の食べ物もない。


 自分たち三人とアンナが生きるだけで、もう限界だった。


 そこに、赤ん坊。


 泣けば見つかる。食べ物はさらに減る。病気になれば終わりだ。抱えて逃げることも難しくなる。どれだけ考えても、答えは一つしかなかった。


 助けられない。


 助けてはいけない。


 そう判断することが、生き残るためには正しかった。


 キースは歯を食いしばった。


 口の中に、血の味が広がる。


「……戻してこい」


 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


 アンナの目が見開かれる。


「キース……」


「今すぐだ。元の場所に戻してこい」


「嫌」


「アンナ」


「嫌!」


 アンナは赤ん坊を抱きしめた。震える背中が、小屋の薄暗い光の中で小さく揺れている。


「戻したら死んじゃう!」


「ここにいても死ぬ!」


 キースの叫びが、小屋の板壁にぶつかって跳ね返った。


 その音に、赤ん坊のまぶたが、かすかに震えた。


 赤ん坊は、目を開けていた。


 焦点の合わない瞳だった。何を見ているのかも分からない。ただ、薄闇の中で、濡れた硝子玉のようにぼんやりと光っていた。


 その小さな胸が、かすかに上下する。


 ひゅう、と細い息が漏れた。


 それだけのことだった。


 けれど、その音は、キースの耳に鋭く刺さった。雪を踏む音よりも、空腹で腹が鳴る音よりも、壁の隙間から吹き込む風よりも、ずっと大きく聞こえた。


 生きている。


 まだ、生きている。


「……戻せるわけないじゃない」


 アンナが泣きながら言った。


「こんなに小さいのに……こんなに冷たいのに……それでも、生きようとしてるんだよ」


「だからって!」


 キースは叫びかけて、言葉を失った。


 正しいことを言おうとした。


 ここでは助けられない。自分たちには無理だ。情けをかければ全員が死ぬ。明日のパンすらない者が、赤ん坊を抱えて生きていけるはずがない。


 いくらでも言葉はあった。


 どれも間違っていなかった。


 だが、赤ん坊の息の音を聞いた瞬間、その言葉のすべてが、喉の奥で凍りついた。


 赤ん坊が、ゆっくりと手を動かした。


 細い指だった。


 折れそうなほど細く、雪の冷たさを吸って白くなった指。その指が、空を探るようにふらふらと揺れた。


 アンナが慌てて赤ん坊を抱え直す。


 すると、その小さな手が、偶然のように、キースの上着の裾に触れた。


 ちょん、と。


 あまりにも弱い力だった。


 振り払おうと思えば、すぐに振り払えた。そもそも、掴んでいると呼ぶことすらできない。指先が布に引っかかっているだけだ。


 それなのに、キースは動けなかった。


 足の裏が床に貼り付いたように、そこから一歩も下がれなかった。


「……離せよ」


 キースは呟いた。


 赤ん坊に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。


「俺たちに、掴まるなよ。俺たちは……何も持ってねぇんだよ」


 赤ん坊は答えない。


 ただ、かすかに口元を動かした。


 泣くのかと思った。


 違った。


 赤ん坊は、笑った。


 ほんの一瞬だった。


 雪に閉ざされた小屋の中で、今にも消えそうな命が、何の疑いもなく、何の見返りも求めず、ただそこにいる者たちへ向けて、ふわりと微笑んだ。


 その笑顔は、あまりにも場違いだった。


 泥の匂いが染みついた小屋。


 飢えた子どもたち。


 破れた毛布。


 凍った床。


 この世界のいちばん暗い場所に、間違って太陽の欠片が落ちてきたようだった。


 キースの胸の奥で、何かが音を立てた。


 壊れたのではない。


 固く凍っていたものが、少しだけ溶けた音だった。


「……なんで笑うんだよ」


 声が震えた。


「俺は、お前を捨てろって言ったんだぞ」


 赤ん坊は、また小さく息をした。


 答えなどない。


 責めもしない。


 恨みもしない。


 ただ、生きていた。


 ただ、そこにいた。


 それだけで、キースの中に積み上げてきた冷たい理屈が、ひとつずつ崩れていった。


 ティックが、入口のそばで座り込んだ。


「……反則だろ、これ」


 その声も震えていた。


「こんなの見せられて、戻してこいとか言えるやつ、いるかよ」


 ボルグは何も言わなかった。


 大きな手で顔を覆っている。指の隙間から、涙が一筋、泥で汚れた頬を伝って落ちた。


 キースは膝をついた。


 赤ん坊の手に、自分の指をそっと近づける。


 触れた瞬間、冷たさに息を呑んだ。


 けれど、その奥に熱があった。


 本当に小さな、小さな熱。


 雪にも、飢えにも、世界にも、まだ奪われていない熱。


 キースは、その手を包んだ。


 壊さないように。


 逃がさないように。


 自分の汚れた手で触れていいものなのか分からないまま、それでも、触れずにはいられなかった。


「……名前は」


 キースが聞いた。


 アンナは涙を拭いながら、赤ん坊を包んでいた布の端を見せた。


 そこには、かすれた文字で、ひとつの名前が縫い付けられていた。


「ミーシャ、って」


「ミーシャ」


 キースはその名を口にした。


 不思議な響きだった。


 この小屋の汚れた空気には、似合わない名前だった。けれど、赤ん坊にはよく似合っていた。小さくて、柔らかくて、呼ぶだけで胸の奥が温かくなる名前だった。


 キースは目を閉じた。


 外では雪が降っている。


 明日も腹は減る。


 明後日も金はない。


 この子を育てる方法など、何ひとつ思いつかない。


 きっと苦しむ。


 もっと盗まなければならなくなる。


 もっと逃げなければならなくなる。


 いつか、この選択を後悔する夜が来るかもしれない。


 それでも。


 今、この手を離したら、自分は二度と人間には戻れない気がした。


 キースは目を開けた。


「……飼うぞ」


 低い声だった。


 アンナが息を呑む。


 ティックが顔を上げる。


 ボルグが手を下ろした。


「飼うって……猫じゃねぇんだぞ」


 ティックの声は、震えていた。


「分かってる」


「飯、どうすんだよ」


「盗る」


「ミルクは」


「盗る」


「服は」


「盗る」


「捕まったら」


「逃げる」


 キースは一つずつ答えた。


 迷いは、まだ胸の中にあった。


 恐怖もあった。


 けれど、さっきまでとは違っていた。暗い穴の底で、どちらへ進めばいいのか分からず震えていた自分は、もういなかった。


 進む場所は決まった。


 正しいかどうかではない。


 この子を死なせたくない。


 ただ、それだけだった。


「俺の分を減らす」


 キースは言った。


「お前らも減らせ」


「おいおい、横暴だろ」


 ティックが笑おうとして、失敗した。声が掠れて、泣き声のようになった。


 ボルグは鼻をすすり、赤ん坊を見つめた。


「……俺の毛布も使え。半分なら、くれてやる」


「半分じゃ足りない」


「じゃあ全部だ」


「お前が凍るぞ」


「俺はでかいから平気だ」


 平気なはずがなかった。


 だが、誰もそれを指摘しなかった。


 アンナはミーシャを抱きしめたまま、何度も頷いていた。頬には涙が流れている。けれど、その表情はさっきまでとは違った。絶望に押し潰された顔ではなかった。


 守るものを見つけた者の顔だった。


 キースは立ち上がった。


 床の板が、ぎしりと鳴る。


「聞け」


 三人が彼を見た。


 ミーシャもまた、何も分からない瞳でキースを見上げていた。


「今日から、俺たちはただの浮浪児じゃねぇ」


 キースは、自分の胸を叩いた。


「こいつの家族だ」


 その言葉は、小屋の中に静かに落ちた。


 家族。


 誰にも与えられなかった言葉。


 名前も、家も、居場所も持たない彼らが、ずっと遠くから眺めることしかできなかったもの。


 それを、キースは自分たちのものとして口にした。


「世界がこいつを捨てたなら、俺たちが拾う。誰も守らねぇなら、俺たちが守る。腹が減ったら俺たちが盗る。寒けりゃ俺たちが抱く。泣いたら、誰かが起きてやる」


 声がだんだん強くなっていく。


「その代わり、決めろ。俺たちは、弱いやつからは奪わねぇ。俺たちみたいに、明日を探してるやつからは、絶対に奪わねぇ」


 ティックが唇を噛んだ。


 ボルグが深く頷く。


 アンナは、ミーシャの額に頬を寄せた。


「奪うなら、持ちすぎてるやつからだ」


 キースは続けた。


「踏みつけて笑ってるやつからだ。俺たちみたいなのを石ころみたいに蹴るやつらから、少しだけ取り返す」


 外で、風が強く鳴った。


 小屋の入口の布がめくれ、雪が吹き込む。


 その時、黒い影がひとつ、入口の向こうを横切った。


 痩せた野良猫だった。


 雪の白さの中で、その黒い体だけが、はっきりと浮かんでいた。片耳が欠け、尻尾は細く、足取りは頼りない。それでも猫は、風に逆らうように、身を低くして路地の闇へ消えていった。


 ティックがそれを見て、ぽつりと言った。


「黒猫だ」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 キースは、猫が消えた闇を見つめていた。


 黒猫。


 不吉だと嫌われ、見つかれば石を投げられる。けれど、闇の中をしなやかに歩き、誰にも頼らず生き延びる。


 自分たちに似ていると思った。


 いや。


 自分たちが、そうなればいいと思った。


「……それでいく」


 キースが言った。


「俺たちは黒猫だ」


 ボルグが、ゆっくりと口角を上げた。


「悪くねぇな」


 ティックも、鼻をすすりながら笑った。


「じゃあ、俺たちは闇の中を歩く猫か」


「そうだ」


 キースはミーシャを見た。


 小さな太陽のような赤ん坊を。


「でも、この子だけは違う」


 彼は、ミーシャの頬に触れた。


「この子は、闇に入れない。俺たちがどれだけ泥をかぶっても、この子だけは、日の当たる場所へ出す」


 その誓いは、誰に聞かせるためでもなかった。


 王都の神殿にも届かない。


 貴族街の暖炉のそばにも届かない。


 衛兵たちの詰所にも、商人たちの帳簿にも、どこにも記されない。


 けれど、そこにいた四人と一人の胸には、深く刻まれた。


 その夜から、彼らの生き方は変わった。


 飢えは消えなかった。


 寒さも消えなかった。


 世界が優しくなることもなかった。


 それでも、小屋の中には、小さな呼吸音が増えた。夜中にミーシャが泣けば、誰かが起きた。汚れた布を替え、ぬるい水を温め、口に含ませ、眠るまで抱いた。


 キースは、以前よりも危ない橋を渡るようになった。


 ボルグは、自分の分の食べ物を平気な顔で減らした。


 ティックは、ミーシャを笑わせるためだけに、壊れた人形を修理した。


 アンナは、雪解け水で何度も布を洗い、赤ん坊の肌に汚れが残らないようにした。


 誰も、楽にはならなかった。


 むしろ、苦しみは増えた。


 けれど、不思議なことに、小屋の中の空気は前より温かかった。


 人は、守るものができると弱くなる。


 失う恐怖を知るからだ。


 けれど同時に、強くもなる。


 自分一人なら諦めていた朝を、誰かのために迎えようとするからだ。


 翌朝。


 雪は止んでいた。


 雲の切れ間から、細い朝日が差し込んでいる。薄汚れたスラム街の屋根も、割れた瓶も、ぬかるんだ道も、その一瞬だけは白く照らされ、別の世界のように見えた。


 キースは小屋の入口に立ち、腕の中のミーシャを朝日に向けた。


 赤ん坊は眩しそうに目を細めた。


 その顔を見て、キースは静かに誓った。


 いつか。


 いつか、この子をここから出す。


 泥の匂いのしない場所へ。


 腐った水を飲まなくていい場所へ。


 夜中に震えながら眠らなくていい場所へ。


 そのためなら、自分たちはどんな闇の中へでも入っていく。


 誰かに石を投げられてもいい。


 悪党と呼ばれてもいい。


 猫のように屋根を走り、影のように路地を抜け、奪って、逃げて、泥をかぶってでも、この小さな命だけは守る。


 ミーシャが、小さく笑った。


 朝日が、その頬を淡く照らした。


 キースの胸の奥で、冷たかった世界に、たった一つの火が灯った。


 それが、黒猫の始まりだった。


 そして、その小さな火を消すまいとする願いが、やがて彼らを、ローゼンバーグ侯爵家の雨に濡れた庭へと導いていく。


 あの夜、彼らが求めたものは、金でも宝石でもなかった。


 ただ一人の少女を、明日の朝まで生かすための光だった。

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