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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第45話:孤独な部屋の日本語メモ ~その震える指先は、希望を掴むためか、絶望を隠すためか~

朝は、残酷なほど静かだった。


 ローゼンバーグ侯爵邸の最上階にあるアリスの私室には、薄い金色の光が差し込んでいた。夜の名残を含んだ空気はまだ冷たく、窓ガラスには淡い曇りが残っている。庭園の草には露が降り、朝日を受けた雫が、まるで小さな星のように瞬いていた。


 風が吹くたび、バラの葉がかすかに擦れ合う。

 その音は、遠くの波のように静かだった。

 世界はこんなにも穏やかな顔をしているのに、アリスの胸の中だけが荒れていた。


 床には、いくつものドレスが広がっていた。


 深紅のベルベット。

 青い絹。

 白いレース。

 黒に近い紫の正装。

 どれも一流の職人が仕立てたものだったが、今のアリスには、どれも自分を守るには薄すぎる布に見えた。


「……違う」


 アリスは、青いドレスをベッドの上へ投げた。


「これでは柔らかすぎる」


 白いレースのドレスを手に取り、すぐに首を振る。


「これでは、弱く見える」


 深紅のベルベットを鏡の前で合わせる。

 重い布地が光を吸い、胸元の宝石が暗く輝いた。

 強く見える。

 冷たく見える。

 隙がないように見える。


 これだ。


 アリスは深呼吸をした。


 背中の紐を侍女に締めさせる。

 ぎゅ、とコルセットが肋骨を押さえた。空気が少しだけ肺から追い出される。苦しい。けれど、その苦しさが今はありがたかった。体を締めつけていなければ、不安で形を保てなくなりそうだった。


 鏡の中には、王都随一の大富豪、ローゼンバーグ侯爵令嬢が立っていた。


 金髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、青い瞳は冷たく澄んでいる。唇には淡い紅。首筋には小さな宝石。深紅のドレスは、幼い少女の体を無理やり大人の形に閉じ込めていた。


 完璧だった。


 だからこそ、アリスは自分の顔が嫌いだった。


 この顔の下で、心臓がどれほど震えているか、誰にも分からない。

 この笑みの奥で、どれほど「助けて」と叫んでいるか、誰にも届かない。


 侍女が静かに下がると、部屋に一人分の沈黙が戻った。


 アリスは鏡台に手をついた。


 指先が白くなる。


「……期待しない」


 日本語で呟いた。


 その言葉は、この世界の誰にも届かない。

 誰にも届かないから、安心して弱音を吐けた。


「彼が同郷人だなんて、決まってない。ただの黒髪かもしれない。ただの規格外な現地人かもしれない。日本語なんて読めないかもしれない」


 言えば言うほど、胸が苦しくなった。


 もし、読めなかったら。


 もし、メモを見ても何の反応もなかったら。


 アリスはまた、この広い世界でたった一人に戻る。

 分かる者のいない言葉を胸に閉じ込め、誰もいない部屋でだけ本音を吐き、昼間は完璧な令嬢を演じ続ける日々へ戻る。


 それが怖かった。


 希望など、見なければよかった。


 シュンという名前を知らなければ、黒髪の噂を聞かなければ、こんなふうに胸を掻きむしられることもなかった。

 諦めきった孤独なら、まだ耐えられた。

 けれど、一度だけでも光を見てしまった孤独は、以前よりずっと暗くなる。


 アリスは、机へ向かった。


 小さな羊皮紙を取り出す。

 折りたためば手のひらに隠れるほどの大きさ。

 その紙の白さが、妙に眩しかった。


 羽ペンを取る。


 インク壺の縁で、ペン先がかすかに鳴った。


 手が震えている。


 こんなに小さな文字を書くことが、なぜこんなに怖いのだろう。


 アリスは息を止め、紙へペン先を落とした。


 最初の一文字が、少し歪んだ。


 『あ』


 懐かしい形。


 この世界のどの文字とも違う。

 前の人生の夜のオフィスで、何度も書類に打ち込んだ文字。スマホの画面で見た文字。駅の案内板で、コンビニの棚で、安い弁当のラベルで、当たり前のようにそばにあった文字。


 それが今は、祈りのように見えた。


 アリスは、ゆっくりと書いた。


 『あなたは、日本から来ましたか?』


 たった一文。


 けれど、その中には十七年分の孤独が詰まっていた。


 あなたは、私の言葉を読めますか。

 あなたは、私と同じ場所を知っていますか。

 あなたは、この世界でひとりだけ浮いてしまう息苦しさを、分かってくれますか。


 読んで。

 気づいて。

 お願い。


 私を、見つけて。


 最後の一画を書き終えた時、インクが少し滲んだ。


 手汗のせいか、涙のせいか分からなかった。


 アリスは慌てて目元を押さえた。

 化粧を崩してはいけない。

 泣いている場合ではない。


 彼女は文字の周囲に線を書き足していった。


 廊下。

 大広間。

 宝物庫。

 庭園。

 警備兵の位置。

 矢印と記号。

 この世界の誰が見ても、複雑な警備配置図にしか見えないように。


 日本語の一文を、図面の中心に沈める。

 まるで水底に小さな鍵を隠すように。


 完成したメモを見下ろし、アリスは長く息を吐いた。


 これが、切り札。

 これが、救難信号。

 これが、私の本当の声。


 けれど同時に、これは刃でもあった。


 彼が読めなければ、アリス自身を傷つける。

 彼が読めたとしても、拒絶されれば、やはり傷になる。


 アリスはメモを小さく折りたたんだ。


 胸元に忍ばせる。

 そこにあるだけで、心臓の鼓動が紙へ移ってしまいそうだった。


 ***


 それから、アリスは大広間へ向かう前に、一度だけ別の部屋へ寄った。


 両親の肖像画が飾られた小さな部屋だった。


 窓は東向きで、朝の光が斜めに差し込んでいる。床に伸びた光の中で、細かな埃がゆっくりと舞っていた。壁には、父と母の肖像が並んでいる。父は少し困ったように優しく笑い、母は紅茶を持つ時のような柔らかな指先を膝の上に重ねていた。


 アリスは、扇子を持つ手を下ろした。


「父様、母様」


 声は小さかった。


「私、今日……たぶん、また間違えるかもしれない」


 肖像画は答えない。


 それでも、アリスは続けた。


「黒猫たちを利用した。病気の妹を助けたい人たちを、私の都合で舞台に上げた。……最低だって、分かってる」


 胸が痛む。


 けれど、言葉を止められなかった。


「でも、会いたいの。どうしても、確かめたいの。私の言葉が届く人が、この世界にいるのかどうか」


 母の肖像を見上げる。


 その指先が、記憶の中の小指と重なる。


「私、もう一人でいるのに疲れた」


 言った瞬間、喉が詰まった。


 アリスは唇を噛み、涙を押し戻した。


 泣くな。

 これから人前に出る。

 完璧でいなければならない。


 彼女は深く頭を下げた。


「行ってきます」


 その言葉は、かつて家族に向けて言っていた朝の挨拶の名残だった。


 返事はなかった。


 ただ、窓の外から風が吹き、庭園の葉が静かに揺れた。


 アリスは部屋を出た。


 廊下には、執事が控えていた。


「お嬢様。冒険者ギルドの方々が、まもなく到着されます」


 来た。


 心臓が、強く跳ねた。


 アリスは扇子を開いた。

 パチリ、という音が廊下に響く。


 震える口元を隠す。

 息の乱れを隠す。

 期待も、恐怖も、罪悪感も、すべて扇子の陰に押し込める。


「通して」


 声は、完璧だった。


 鈴のように澄み、少しも震えていなかった。


 執事が深く頭を下げる。


 アリスは大広間へ向かった。


 大理石の廊下を歩くたび、靴音が響いた。


 コツ。

 コツ。

 コツ。


 それは、審判へ向かう音だった。


大広間へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。


 磨き上げられた大理石の床に、アリスの靴音が落ちる。


 コツ。

 コツ。

 コツ。


 その一音ごとに、胸の奥で何かが締めつけられた。


 廊下の壁には、ローゼンバーグ家の歴代当主の肖像画が並んでいる。誇り高く顎を上げた者。剣を手に戦場を見据える者。巻物を持ち、知恵の象徴のように描かれた者。その誰もが、額縁の中からアリスを見下ろしているようだった。


 その中に、父様の肖像はまだない。


 母様の肖像もない。


 けれどアリスには、二人の視線が背中にあるような気がした。


 ――行ってきます。


 さっき肖像画の前で呟いた言葉が、まだ喉の奥に残っている。


 返事はなかった。

 当然だ。

 死者は答えない。


 それでも、心のどこかで期待していたのかもしれない。

 父様が、いつものように困った顔で「無理をするな」と言ってくれることを。

 母様が、あの柔らかな手で髪を撫で、「大丈夫よ」と笑ってくれることを。


 何も返ってこなかった。


 アリスは、扇子を握る指に力を込めた。


 だから、自分で立つしかない。


 たとえ、この足が震えていても。

 たとえ、この胸の中が罪悪感でいっぱいでも。

 たとえ、今日ここに来る黒髪の青年が、最後の希望になるかもしれなくても。


 ローゼンバーグ家の当主として、完璧でいなければならない。


 角を曲がると、廊下の先に大広間の扉が見えた。


 重厚な両開きの扉。

 磨かれた金の取っ手。

 その前に、執事が一人立っている。


 彼はアリスの姿を見て、深く頭を下げた。


「お嬢様。皆様、まもなくこちらへ」


「……そう」


 声は、揺れていなかった。


 アリスは自分の声を聞いて、内心で少しだけ安堵した。

 まだ大丈夫。

 まだ演じられる。


 執事が扉の前から一歩下がる。


 その向こうから、かすかな足音が聞こえ始めた。


 複数の足音。


 硬いものが床を叩く重い音。

 たぶん、鎧の騎士。

 歩幅が安定していて、迷いがない。噂に聞く元騎士団長なら、きっとあの足音だろう。


 軽い足音。

 小柄な少女だろうか。少しだけ不安げに、しかし誰かから離れまいとするような間隔で近づいてくる。


 それから、布が揺れる音。

 魔術師のローブ。

 音は静かだが、気配は鋭い。油断のない歩き方だった。


 そして。


 その中心に、気負いのない足音があった。


 強者の傲慢さではない。

 貴族の計算でもない。

 ただ、思ったままに歩いているような足音。


 胸が跳ねた。


 彼だ。


 まだ顔も見ていないのに、そう思った。


 アリスは扇子を開いた。


 パチリ、という乾いた音が、廊下に響く。

 口元を隠す。

 息が乱れないように。

 唇が震えないように。


 胸元には、日本語のメモがある。


 小さく折りたたんだ紙。

 ただの羊皮紙。

 けれど、今のアリスにとっては、自分の心臓そのもののように重かった。


 『あなたは、日本から来ましたか?』


 その一文が、胸の内側で何度も繰り返される。


 読めなかったら、終わり。

 読めたとしても、拒まれたら、終わり。

 読めて、話せて、それでも自分を軽蔑したら。


 その先は考えられなかった。


 アリスは目を伏せた。


 期待しない。

 何度も言い聞かせた。

 期待は、壊れた時に人を殺す。

 あの日、崖下で砕けた青い石のように。

 守れると思ったものが守れなかった時、人は簡単に壊れる。


 だから期待してはいけない。


 それなのに、足音が近づくたび、胸の奥の小さな少女が叫んでいた。


 来て。

 お願い。

 私を見つけて。


 アリスは、ゆっくりと大広間の中央へ進んだ。


 天井の高い部屋には、朝の光が差し込んでいた。

 大きな窓の向こうでは、庭園の緑が風に揺れている。草の葉に残った露が光を反射し、白い壁に細かな揺らめきを映していた。

 赤い絨毯はまっすぐ扉へ伸びている。両側には使用人たちが控え、誰もが静かに頭を下げていた。


 完璧な舞台。


 完璧な朝。


 完璧な令嬢として立つには、これ以上ない場所。


 アリスは深く息を吸った。


 薔薇の香りがした。

 磨かれた床の冷たい匂いがした。

 わずかに、インクの匂いも残っていた。昨夜、震える手で依頼書を書いた時の匂いと同じだった。


 胸の奥で、罪悪感がまた疼く。


 黒猫たち。


 病気の妹を救おうとしている者たち。

 自分は彼らを利用した。

 瞬に会いたいという願いのために、彼らの切実さを舞台装置にしてしまった。


 その事実を、今だけは顔に出してはいけない。


 アリスは背筋を伸ばした。


 母様が教えてくれた姿勢。

 父様が褒めてくれた礼儀。

 それらを一つずつ体の表面へ貼りつけていく。


 寂しさを隠す。

 恐怖を隠す。

 罪悪感を隠す。

 期待を隠す。


 残すのは、完璧な微笑みだけ。


 扉の向こうで、足音が止まった。


 執事の声が響く。


「冒険者ギルドより、依頼を受けられた皆様がお越しでございます」


 アリスの心臓が、強く打った。


 一度。

 二度。

 三度。


 うるさいほどの鼓動。


 アリスは、扇子をほんの少し下げた。

 口元に微笑みを作る。


 大丈夫。

 私はアリス・ローゼンバーグ。

 王都随一の大富豪。

 冷静で、完璧で、誰にも心を読ませない令嬢。


 ただの迷子ではない。


 扉が開いた。


 朝の光が、廊下から流れ込む。


 まず見えたのは、銀の鎧だった。

 騎士の男。背筋が伸び、警戒心の強い目をしている。


 その横に、白いアイガードをつけた小柄な少女。

 彼女は少し緊張した様子で、隣の人物の気配を確かめるように立っていた。


 後ろには、金髪の女性。

 静かな眼差しで、部屋全体を観察している。


 そして。


 中央に、黒髪の青年がいた。


 アリスの世界から、音が消えた。


 黒い髪。

 黒い瞳。


 見間違えるはずがなかった。


 この世界で何度も探し、何度もすれ違い、何度も幻だったのではないかと疑った色。

 前の人生では、ありふれていたはずの色。

 今は、喉が詰まるほど懐かしい色。


 彼が、瞬。


 やっと、会えた。


 その言葉が胸の奥で弾けた。


 けれど、アリスは動かなかった。

 駆け寄らない。

 叫ばない。

 泣かない。


 代わりに、ドレスの裾を指先でつまんだ。


 母様に教わった角度で、膝を曲げる。

 首を傾ける。

 視線を下げる。

 呼吸を一つ整える。


 完璧なカーテシー。


 その動きの裏で、胸元のメモがかすかに肌へ触れていた。


 読んで。

 気づいて。

 お願い。


 アリスは顔を上げた。


 サファイアのような瞳に、優雅な光を宿す。

 扇子の陰で震えかけた唇を、微笑みに変える。


 そして、鈴を転がすような声で言った。


「ようこそお越しくださいました、英雄の皆様」

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