第44話:黒猫と招待状 ~シナリオライターは、涙でインクを滲ませながら~
夜明け前の屋敷は、呼吸を止めているように静かだった。
ローゼンバーグ侯爵邸の広い廊下には、まだ朝の光が届いていなかった。壁に並ぶ燭台の火だけが、かすかな橙色を床へ落としている。磨き上げられた大理石には、アリスの影が長く伸び、その影は歩くたびに揺れた。
コツ。
コツ。
コツ。
靴音が、誰もいない廊下に響く。
アリスは一人で歩いていた。
深紅のドレスではない。夜着の上から黒い外套を羽織り、髪も簡単にまとめただけだった。手には、一枚の羊皮紙が握られている。
偽の予告状。
自分で書いたものだ。
『我ら義賊団黒猫、満月の夜に貴家の秘宝をいただきに参上する』
黒猫たちは、こんなものを書いていない。
彼らは本来、もっと切羽詰まって、もっと必死で、もっと静かに動くはずだった。病気の妹を救うために、わずかな可能性に縋って、誰にも知られず宝物庫へ忍び込もうとしていた。
それを、アリスが派手な事件に変えた。
侯爵家に予告状が届いた。
義賊団が秘宝を狙っている。
ならば、ギルドへ正式な護衛依頼を出せる。
しかも、最高額の報酬を積み、瞬を指名する口実ができる。
理屈は通っている。
完璧だった。
完璧すぎて、吐き気がした。
屋敷の正門へ続く玄関ホールに出ると、外の冷たい空気がわずかに入り込んでいた。夜と朝の境目の風は、濡れた石と草の匂いを含んでいる。庭園のバラはまだ眠っているように頭を垂れ、葉の先には小さな露がついていた。遠くの噴水から、水が落ちる音だけが規則正しく聞こえてくる。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
アリスは門の内側に立った。
空はまだ青黒い。
王都の屋根の向こうが、ほんの少しだけ白み始めていた。
彼女は羊皮紙を広げた。
指が震えている。
「……何を迷ってるの」
声に出す。
自分へ命令するように。
「これは必要なことよ」
瞬に会うため。
自分と同じかもしれない人間を確かめるため。
この長い孤独から抜け出すため。
それだけじゃない。
もし瞬が噂通りの人物なら、黒猫たちを殺さずに止められるかもしれない。
もしかしたら、彼なら何かを変えてくれるかもしれない。
自分では見つけられなかった答えを、彼なら――
そこまで考えて、アリスは唇を噛んだ。
都合のいい言い訳だ。
黒猫たちを助けたいなら、今すぐこの計画をやめればいい。
彼らへ使者を出し、その秘宝は存在しないと伝えればいい。
医者を探してやればいい。
金ならいくらでも出せる。
できることは、たくさんある。
なのに、アリスはそれを選ばなかった。
瞬に会う機会を、手放せなかった。
それが答えだった。
「……最低」
小さく吐き捨てる。
羊皮紙を門の内側に貼りつけた。
封蝋には、黒猫の爪痕に見えるよう、わざと歪んだ印を押してある。筆跡も魔道具で変えてある。誰が見ても、外部から届けられた予告状にしか見えない。
作り物の脅迫。
作り物の事件。
作り物の舞台。
けれど、その上で動かされる人間たちは本物だ。
その事実を認めた瞬間、胸が潰れそうになった。
アリスは、門から一歩離れた。
指先が冷たい。
いや、冷たいのは指先だけではなかった。
胸の奥から、血が引いていくようだった。
ふと、頭の中に、母の小指が浮かんだ。
紅茶を持つ時の、あの優しい仕草。
父の大きな手。
馬車の中で、自分の作った青いブローチを嬉しそうに見つめていた二人。
守りたかった。
失いたくなかった。
それだけだった。
黒猫たちも、同じなのかもしれない。
失いたくない誰かがいる。
守りたい小さな命がある。
だから、罪を犯してでも手を伸ばそうとしている。
そう考えた瞬間、アリスはぎゅっと目を閉じた。
「違う」
声が震える。
「違う。これは、ただの役目。彼らは、私の前に現れた障害。そういう流れ。そういう配置」
そう思え。
そう思わなければ、動けなくなる。
自分がしていることの重さに、押し潰されてしまう。
アリスは外套の前を握りしめた。
布越しに、胸の奥で心臓が暴れているのが分かる。
遠くで、朝を告げる鐘が鳴った。
低い音が、王都の空へ広がっていく。
一つ。
二つ。
三つ。
その鐘が、まるで罪を数えているように聞こえた。
***
予告状が見つかったのは、日の出の少し後だった。
門番が蒼白な顔で駆け込み、執事が慌ててアリスの執務室へやって来た。
アリスは、すでに深紅のドレスへ着替えていた。髪は一筋の乱れもなく結い上げ、白い首には小さな宝石を飾り、手には扇子を持っている。
完璧な当主。
誰にも、夜明け前の震えた指先を見せてはいけない。
「お嬢様」
執事の声には緊張が滲んでいた。
「正門に、このようなものが……」
銀盆の上に、例の羊皮紙が乗せられている。
アリスは、それを初めて見たように目を細めた。
「まあ」
声は、驚くほど滑らかに出た。
「黒猫……ですか」
「はい。王都を騒がせている義賊団かと」
執事の指がかすかに震えている。
アリスはその震えを見た。
嘘をついているのは自分なのに。
怖がっているのは、何も知らない執事だった。
胸の奥に、また痛みが走る。
けれど、表情には出さなかった。
「すぐに警備責任者を呼びなさい。それから、ギルドへ使いを」
「ギルドへ、でございますか?」
「ええ。これは私兵だけで済ませるべき問題ではありません。侯爵家の宝物庫が狙われているのです。正式に護衛依頼を出します」
アリスは机の上に置いていた封筒を手に取った。
漆黒の封筒。
黄金の薔薇の封蝋。
夜のうちに用意していたものだ。
中には、依頼書が入っている。
報酬。
警備内容。
黒猫の予告状。
そして、指名する冒険者の名。
シュン。
その文字だけが、アリスの胸の奥で熱を持っているようだった。
執事は依頼書を受け取り、深く頭を下げた。
「ただちに」
「待ちなさい」
アリスは呼び止めた。
執事が顔を上げる。
「依頼は、必ず冒険者ギルドの受付へ直接届けること。そして、この名を省かないように」
アリスは、扇子で口元を隠した。
「英雄シュン様を、必ずご指名で」
その言葉を口にした瞬間、胸の中で何かが軋んだ。
来て。
お願い。
私を見つけて。
そんな叫びが、喉元まで上がってきた。
けれど、外に出たのは冷静な命令だけだった。
「承知いたしました」
執事が退室する。
扉が閉まると、部屋に一人分の静寂が戻った。
アリスは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、朝日が庭園を照らし始めている。
露を含んだ草が光り、バラの花びらがゆっくりと開いていく。世界は清らかで、何も知らないように美しかった。
その美しさが、今は責めるように感じられた。
アリスは机の引き出しを開けた。
奥にしまってある小箱。
砕けた青い宝石と、くしゃくしゃになった手紙。
蓋を開ける勇気はなかった。
ただ、箱の上に手を置く。
「父様、母様」
声は、小さかった。
「私、また……守りたい人たちを利用してる」
返事はない。
当然だ。
死者は答えない。
世界は許してくれない。
罪は、ただ自分の中に残り続ける。
アリスは目を閉じた。
黒猫たちは、今夜来る。
瞬も、きっと来る。
その時、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
可哀想だと認めれば、崩れてしまう。
助けたいと口にすれば、自分の罪が見えてしまう。
だから、冷たくしなければならない。
彼らはただの役目。
倒されるための存在。
そういう流れで、そういう配置。
その言葉を、自分に刻み込む。
何度も。
何度も。
やがて、その言葉は、夜の庭園で口にする刃になる。
雑魚。
邪魔者。
消すべきもの。
本当は、そう呼ばなければ、自分が泣いてしまうから。
***
その日の午後、アリスは警備計画を一人で確認した。
屋敷の見取り図を広げ、兵の配置を赤いインクで示す。
本来なら、侵入経路になりそうな場所はすべて塞ぐ。探知の魔道具を増やし、睡眠煙を仕掛け、門の外で捕らえる。
それが正しい。
けれど、アリスは別の線を引いた。
東側の庭園。
古い温室の屋根。
そこから二階の回廊へ。
さらに宝物庫前の広間へ。
黒猫たちが、そこまで来られる道。
完全に罠を外すわけではない。
だが、致命的なものだけを下げる。
代わりに、瞬たちが対応できる位置へ誘導する。
これなら、死者は出にくい。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、別の声が返ってきた。
出にくいだけでしょう。
絶対ではないでしょう。
もし、黒猫たちが罠にかかったら。
もし、衛兵が恐怖で剣を抜いたら。
もし、瞬が自分の思い通りに動かなかったら。
その時、誰かが死ぬ。
アリスはペンを握る手に力を込めた。
赤いインクが紙の上で滲む。
その滲みは、血のように見えた。
呼吸が乱れる。
「……違う」
アリスは呟いた。
「これは、私のせいじゃない。彼らが来ることを選んだ。私は、それを利用しているだけ」
言葉にした瞬間、自分の醜さがはっきり見えた。
利用しているだけ。
それが、どれほど残酷な言葉か。
アリスは、見取り図から目を逸らした。
窓の外では、風が強くなり始めていた。庭園の草が一斉に波打ち、バラの葉が裏返る。遠くの空には、黒い雲が集まりつつあった。
今夜は、雨になる。
そんな予感がした。
夕方になる頃、空はすっかり鉛色に沈んでいた。
雲は低く、屋敷の尖塔に触れそうなほど垂れ込めている。庭園のバラは風に煽られ、細い茎をしならせていた。葉と葉が擦れ合う音は、昼間よりずっと乾いて聞こえた。噴水の水面には細かな波が立ち、そこへ最初の雨粒が落ちる。
ぽつり。
小さな輪が広がった。
ぽつり、ぽつり。
やがて雨は、石畳の上に黒い斑点を増やしていった。
アリスは窓辺に立ち、その雨を見ていた。
机の上には、完成した警備配置図がある。
黒猫たちが入り込むための隙間。
瞬たちが待機するための配置。
衛兵が必要以上に傷つけないための命令。
そして、もしもの時に備えた救護班の準備。
できる限り、死者が出ないようにした。
それは事実だった。
けれど、それで罪が消えるわけではなかった。
アリスは、自分の胸に手を当てた。
心臓が落ち着かない。
指先は冷たいのに、額には薄く汗が滲んでいる。
「……馬鹿みたい」
窓に映る自分へ呟く。
そこには、完璧な令嬢の顔があった。
深紅のドレス。
整えられた金髪。
白い肌。
青い瞳。
誰が見ても、王都随一の大富豪にふさわしい、美しく冷たい当主。
でも、その内側では、十歳の少女がまだ泣いていた。
父様と母様を守れなかった少女。
青い石が砕けた瞬間から、ずっと同じ場所に座り込んでいる少女。
「もう誰も愛さない」と言いながら、本当は誰かに手を伸ばしてほしくてたまらない少女。
アリスは、その少女の声を押し込めるように目を閉じた。
「これは、ただの舞台」
小さく言う。
「私は、観客じゃない。作る側。動かす側。だから、泣く必要なんてない」
そう言い聞かせる。
黒猫たちは、侵入者。
ローゼンバーグ家を狙う敵。
宝物庫を荒らそうとする盗賊。
そう考えろ。
病気の妹を救うために命を懸けている人間だなんて、考えるな。
大切なものを失いたくなくて、震える手で罪を選ぼうとしている者たちだなんて、考えるな。
そんなふうに見てしまえば、もう冷たくできなくなる。
アリスは、机の上に置いた配置図を見下ろした。
赤い線が、庭園から宝物庫まで続いている。
それは黒猫たちの侵入経路であり、アリスが彼らへ用意した道でもあった。
まるで、自分の手で彼らを闇の中へ案内しているようだった。
「……ごめんね」
声がこぼれた。
誰に向けたものか、分からなかった。
黒猫たちへ。
病気の妹へ。
父様と母様へ。
それとも、昔の自分へ。
その時、扉が叩かれた。
コン、コン。
アリスは一瞬で表情を戻した。
「入りなさい」
入ってきたのは、警備責任者だった。
濃紺の制服に身を包み、背筋を伸ばしている。けれど、顔には緊張が浮かんでいた。
「お嬢様、配置の確認が完了いたしました。ご指示通り、東側庭園の警備は薄く見せかけ、宝物庫前に主力を配置しております」
「見せかけ、ではありませんわ」
アリスは静かに訂正した。
警備責任者が息を呑む。
「実際に薄くしなさい。必要以上に追い詰めれば、相手も暴れます。目的は殲滅ではなく制圧。殺害は許可しません」
「はっ」
「それから、もし侵入者の中に子供や非戦闘員がいた場合は、攻撃を控えること。負傷者が出た場合は、敵味方を問わず救護班へ」
警備責任者は、少しだけ驚いた顔をした。
「敵も、でございますか?」
「二度言わせないで」
アリスの声が冷えた。
「承知いたしました」
男は深く頭を下げた。
扉が閉まる。
アリスは、しばらくその扉を見つめていた。
殺さないように命じた。
救護の用意もした。
できるだけ安全な道へ誘導した。
それでも、自分が黒猫たちを利用している事実は変わらない。
アリスは窓の外へ視線を戻した。
雨は強くなっていた。
庭園の草が濡れ、風に押されて一方向へ倒れている。遠くで雷が低く鳴った。空の奥で、巨大な獣が唸るような音だった。
今夜、この雨の中で、黒猫たちは来る。
瞬も来る。
そして、アリスは彼の前で演じなければならない。
冷酷な当主として。
世界を作り物だと笑う者として。
盗賊たちを、ただの障害物のように扱う者として。
本当は、そうしなければ自分が壊れるだけなのに。
***
夜が深まるにつれ、屋敷は静かな緊張に包まれていった。
使用人たちは言葉少なに廊下を行き来し、衛兵たちは鎧の留め具を確認している。
金属が触れ合う小さな音。
濡れた外套から落ちる水滴の音。
遠くの雷鳴。
それらが、屋敷の壁の中で低く反響していた。
アリスは、自室で身支度を整えていた。
鏡の前に座り、髪飾りを一つずつ差していく。
金の櫛が髪を通るたび、細い音が鳴った。
頬には薄く色を乗せ、唇にはいつもより少し深い赤を引く。
顔色が悪いことを隠すためだった。
鏡の中の自分は、美しかった。
憎らしいほどに、整っていた。
けれど、目の奥だけは隠しきれていない気がした。
怯え。
期待。
罪悪感。
孤独。
それらが、青い瞳の底で濁っている。
アリスは扇子を開いた。
口元を隠す。
これでいい。
唇が震えても見えない。
息が乱れても悟られない。
笑顔が崩れそうになっても、扇子の陰で立て直せる。
彼女は鏡に向かって、何度も表情を作った。
「ようこそお越しくださいました、英雄の皆様」
柔らかく。
「わたくしどもの勝手な願いを聞き入れてくださり、感謝の言葉もございませんわ」
優雅に。
「まあ、恐ろしいこと。黒猫などという無粋な方々が、我が家の宝物庫を狙うなんて」
少しだけ怯えたように。
そして。
「トドメを刺して。それが条件よ」
冷たく。
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
アリスは扇子を持つ手に力を込めた。
言わなければならない。
そういう役を演じなければならない。
そうでなければ、自分のしていることがただの卑怯な利用だと認めてしまう。
彼らは敵。
そういう扱いにしなければならない。
でも本当は、誰かに止めてほしかった。
誰かに怒ってほしかった。
そんな言い方はするな。
彼らは生きている。
お前が勝手に作り物だと決めつけるな。
そう言ってほしかった。
アリスは、鏡の中の自分を見つめた。
「……期待しない」
小さく呟く。
瞬が本当に同郷人かどうかも分からない。
日本語が読める保証もない。
読めたとして、自分を理解してくれる保証などない。
むしろ、拒絶されるかもしれない。
利用したことを軽蔑されるかもしれない。
それでも。
彼に会いたかった。
その一点だけが、アリスをここまで動かしてしまった。
「最低ね、私」
鏡の中の令嬢は、美しく微笑んでいた。
その目元から、一粒だけ涙が落ちた。
アリスはすぐに拭った。
化粧が崩れないよう、丁寧に。
涙など、最初からなかったかのように。
***
深夜。
雨は本降りになっていた。
屋敷の屋根を叩く雨音は、途切れることのない拍手のようだった。
庭園の石畳には水たまりができ、風に揺れる木々の影が、その表面で歪んでいる。バラの花びらは雨に打たれて落ち、赤い破片となって水の流れに運ばれていた。
アリスは二階のバルコニーに立った。
従者が傘を差している。
彼女の足元は濡れていない。
ドレスの裾も、泥に触れていない。
高い場所。
安全な場所。
濡れずに、汚れずに、下を見下ろせる場所。
それが、今のアリスにふさわしい舞台だった。
庭園の奥で、影が動いた。
黒猫たちだ。
濡れた闇に紛れるように、四つの影が屋根から回廊へ降りていく。
配置図通り。
予想通り。
すべて、アリスの組んだ流れの中に入ってきている。
胸が締めつけられた。
彼らは本当に来た。
妹を救うために。
偽物の希望に縋って。
自分が用意した舞台の上へ。
そして、そこに瞬たちが立ちはだかる。
黒髪の青年。
白いアイガードの少女。
銀の鎧の男。
金髪の魔女。
雨の中で、瞬が顔を上げた。
遠目でも分かった。
黒い髪。
黒い瞳。
アリスは、扇子の陰で息を止めた。
やっと会えた。
その言葉が胸の奥で弾けた。
けれど、口に出せるはずがなかった。
今、自分がするべきことは一つ。
悪役令嬢として、舞台に立つこと。
黒猫たちを人間として見てはいけない。
瞬に、自分の震えを見せてはいけない。
この雨の中で、心が裂けそうになっていることを、誰にも悟らせてはいけない。
だからアリスは笑った。
高い場所から。
濡れない場所から。
傘の下で。
「あはは……」
声は、最初だけ少し震えた。
彼女は扇子を握りしめ、もう一度笑った。
「あはははは!」
今度は、ちゃんと響いた。
雨音に混じり、庭園へ落ちていく。
下にいる黒猫たちが顔を上げる。
瞬も見上げる。
アリスは、胸の奥で泣いている自分を踏みつけるようにして、言葉を吐いた。
「やってるわね。いいイベントじゃない」
言った瞬間、心臓が痛んだ。
それでも続けた。
「ねえ、瞬様。何をためらっているの?」
扇子の陰で、唇が震える。
やめて。
こんなこと言いたくない。
でも、言わなければ。
自分が壊れる。
「そんな相手、ただの障害物でしょう?」
黒猫たちの顔が歪む。
痛みが胸に刺さる。
アリスは、それを無視して笑った。
「さっさと片づけて。これが、この依頼の条件ですわ」
雨が強くなる。
瞬の表情が変わった。
怒り。
静かで、真っ直ぐで、誤魔化しのない怒り。
アリスは、その視線を受けた瞬間、胸の奥が震えた。
怖い。
けれど、その怖さの下に、ほんの少しだけ別の感情があった。
ああ。
怒ってくれるんだ。
私のこの嘘に。
私のこの醜さに。
私が人を作り物のように扱うことに。
ちゃんと、怒ってくれるんだ。
雨に濡れた庭園で、瞬はアリスを見上げていた。
彼の黒い瞳には、逃げ場のないほど強い光があった。
アリスは、扇子の陰で唇を噛んだ。
その目で見ないで。
でも、見て。
この仮面ごと、見抜いて。
お願い。
私を、この場所から引きずり下ろして。
そう叫びたかった。
けれど、彼女の口から出たのは、最後まで冷たい令嬢の声だった。
「さあ、英雄様」
アリスは笑った。
泣きそうな自分を、笑顔の奥へ押し込めながら。
「あなたの力を、見せてくださいませ」
雷光が、庭園を白く染めた。
その一瞬、アリスの影がバルコニーの床に長く伸びた。
美しく着飾った令嬢の影。
けれど、その足元には、泥の中へ降りたくても降りられず、震えたまま立ち尽くす少女の影が、確かに重なっていた。




