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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第43話:噂の迷い人 〜ひとりは、同じ孤独を探すものである〜

時は流れた。


 季節は、何度も屋敷の窓を塗り替えていった。

 春には庭園のバラが柔らかく開き、夏には噴水の水しぶきが眩しい光を弾いた。秋には石畳の上を枯葉が乾いた音を立てて転がり、冬には白い息が窓辺のガラスを淡く曇らせた。


 そのすべてを、アリス・ローゼンバーグは同じ部屋から見ていた。


 王都グランドルの中心にそびえるローゼンバーグ侯爵邸。

 その最上階にある執務室は、いつも静かだった。壁一面には書棚が並び、重厚な机の上には、領地の収支報告、商会との取引書、魔道具の開発資料、貴族たちからの招待状が整然と積まれている。

 窓の外では、手入れされた庭園が今日も美しく輝いていた。薄い雲を透かした初夏の光が、葉の一枚一枚に残る朝露を照らし、風が通るたびに緑の波がゆっくりとうねった。遠くの噴水からは、水が落ちる涼やかな音が響いている。


 世界は、相変わらず美しかった。


 けれど、アリスの目には、その美しさが遠かった。


「東方航路の香辛料価格、前月比で上昇。予定通りね。先に買い占めておいて正解だったわ」


 アリスは羽ペンを走らせた。

 白い紙の上に黒い文字が流れる。彼女の手つきに迷いはない。数字を見れば、金の流れが見える。人の動きを見れば、次に何を欲しがるかが分かる。

 それは前の人生で身につけた感覚と、この世界で磨き続けた勘の合わせ技だった。


 ローゼンバーグ家は、すでに王都随一の大富豪として名を轟かせていた。

 貿易では、誰より早く価値の上がる品を押さえた。

 農地では、収穫が落ちる前に作物を入れ替えた。

 魔道具では、誰も見たことのない機構を組み込み、他家が真似をする頃には次の特許を取っていた。


 周囲の貴族たちは口々に囁いた。


 まるで未来でも知っているようだ。

 あの娘は得体が知れない。

 先代が亡くなってから、ローゼンバーグ家は別物になった。

 近づいた者が、いつの間にか表舞台から消えている。


 その噂を、アリスは知っていた。


 知らないふりをしていただけだ。


「……消えている、ね」


 アリスは一枚の報告書を閉じ、薄く笑った。


 実際には、消したわけではない。

 不正を暴かれた商人が逃げただけ。

 横領の証拠を押さえられた親族が表へ出られなくなっただけ。

 契約違反をした貴族が、法の抜け穴を封じられて自滅しただけ。


 けれど、人は分かりやすい怪談を好む。


 だから、好きに言わせておいた。

 怖がられる方が都合がいい。

 誰にも近づかれない方が安全だ。


 そのはずだった。


 アリスは、机の右端に置かれた紅茶に手を伸ばした。

 白磁のカップを持ち上げる。

 その瞬間、右手の小指が、ほんの少しだけ立った。


 動きが止まる。


 母の癖だった。


 遠いテラスの記憶が、何の前触れもなく胸の奥を掠める。

 朝の光。

 バラの香り。

 柔らかな笑い声。

 紅茶の湯気の向こうで、母が「上手ね」と微笑む顔。


 アリスはカップをソーサーに戻した。


 かちゃり、という小さな音が、広い執務室にやけに大きく響いた。


「……仕事に戻りなさい」


 自分に命じるように呟く。


 感傷はいらない。

 記憶はいらない。

 それらは、何の役にも立たない。

 必要なのは計算と判断と、誰にも崩せない完璧な仮面だけだ。


 アリスは再び羽ペンを取った。


 けれど、ペン先は紙の上で止まったままだった。


 静かすぎた。


 この部屋には、誰もいない。

 廊下には使用人が控えている。呼べばすぐに来る。必要なものは何でも揃う。金も、地位も、情報も、すべて手の中にある。


 それなのに、言葉を投げる相手だけがいなかった。


 疲れた、と言える相手。

 怖かった、と言える相手。

 この世界はどこかおかしい、と笑い合える相手。

 前の人生の夜のオフィスの匂いも、終わらない仕事の絶望も、コンビニの明るすぎる照明も、安い缶コーヒーの苦さも、同じ温度で思い出せる相手。


 いない。


 誰一人として、いない。


「……誰か」


 声は、思ったよりも小さかった。


 アリスは窓の外へ視線を向けた。

 庭師が噴水のそばを歩いている。使用人が銀盆を持って廊下を横切る。衛兵が門の前に立っている。

 皆、動いている。

 話している。

 笑っている。


 けれど、アリスにはそれが、遠い舞台の上で演じられる芝居のように見えた。


 近づけば痛い。

 信じれば失う。

 愛せば壊れる。


 だから、これは作り物だと思うしかなかった。

 そうでなければ、また誰かを大切にしてしまう。

 また、その誰かを失う恐怖に耐えられなくなる。


 アリスは、机の引き出しに手をかけた。


 中には、小さな箱がある。

 砕けた青い宝石の欠片。

 くしゃくしゃに握り潰した、届かなかった手紙。


 開けてはいけない。


 そう思ったのに、指は勝手に引き出しを引いていた。


 箱の蓋を少しだけ開ける。

 青い石の欠片が、薄い光を受けて鈍く光った。


 あの日、守れなかった証。


 アリスは、すぐに蓋を閉じた。


「……私は、ひとりでいい」


 何度も言い聞かせてきた嘘だった。


 けれど、その嘘は、日に日に薄くなっていた。


 ***


 午後、情報屋がやって来た。


 黒い外套を着た痩せた男で、足音がほとんどしない。

 彼はいつものように深く一礼し、机の前に数枚の報告書を並べた。


「王都東区画の治安状況です。大きな変化はありません。南市場では小麦価格がやや上昇。西門付近では冒険者ギルドの出入りが増えております」


「理由は?」


「最近、少々目立つ冒険者が現れたようです」


 アリスは報告書に目を落としたまま、淡々と聞いた。


「目立つ冒険者なら、王都にはいくらでもいるでしょう」


「はい。ただ、今回は少々……常識外れでして」


 情報屋の声に、珍しく困惑が混じっていた。


 アリスは、そこで初めて顔を上げた。


「続けて」


「黒髪、黒い瞳の青年です。名前は、シュン。冒険者登録から日が浅いにもかかわらず、複数の異常な事例が確認されています」


 黒髪。


 黒い瞳。


 アリスの指先が、わずかに止まった。


 この世界にも、黒髪の者がまったくいないわけではない。

 けれど、珍しい。

 特に、黒髪と黒い瞳がそろう者は、王都ではほとんど見かけない。


「……異常な事例とは?」


 アリスは声を平静に保った。


 情報屋はメモを確認する。


「まず、北の森で巨大な魔獣を素手で撃退。剣も魔法具も使用せず、軽く指で弾いただけだったという証言があります」


 アリスは瞬きを忘れた。


「次に、冒険者ギルドの魔力測定で、水晶玉が破裂。周囲の机と窓も一部損壊。ギルド職員は事故として処理していますが、目撃者の証言では、本人は自覚なく触れただけだったとのことです」


 情報屋は、さらに続けた。


「また、移動速度が異常です。複数の地点で、通常なら半日はかかる距離を、ほぼ同時刻に移動していた記録があります。誇張の可能性もありますが、目撃者が多すぎます」


 アリスの胸の奥で、何かが鳴った。


 規格外。

 常識外れ。

 この世界の計算式に収まらない存在。


 これまで、アリスはこの世界を読み解いてきた。

 魔力の流れも、商売の仕組みも、人の欲も、貴族社会の弱点も、時間をかければだいたい分かった。

 分かるものは、怖くない。

 分かるものは、操れる。


 けれど、その男の報告だけは違った。


 読めない。


 説明がつかない。


 まるで、この世界の決まりから、ひとりだけはみ出している。


「……名前を、もう一度」


 アリスは、ゆっくりと言った。


「シュン、と名乗っているそうです」


「シュン」


 口の中で、その音を転がす。


 短い名前。

 この世界の貴族のような長い家名も、仰々しい響きもない。

 どこか懐かしい響き。


 もし。


 その言葉が、胸の奥で生まれた。


 もし、彼が。


 アリスは、その先を考えないようにした。

 期待してはいけない。

 希望は危険だ。

 見つけたと思った光が消えた時、人は前より深い闇に落ちる。


 分かっている。


 分かっているのに。


 心臓が、速く打ち始めていた。


「その男の居場所は?」


「現在は冒険者ギルド周辺に出入りしているようですが、行動が読めません。依頼を受けて急に王都を離れることも多く――」


「探しなさい」


 情報屋が顔を上げた。


「は?」


「そのシュンという男の行動を追って。宿、依頼先、交友関係、能力、持ち物、発言。分かることはすべて」


 アリスは立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦り、硬い音を立てる。


「最優先で」


「……承知しました」


 情報屋は深く頭を下げた。


 扉が閉まり、再び執務室に静寂が戻った。


 アリスは窓辺へ歩いた。

 外では、初夏の風が庭園を撫でている。草の波が光の中で揺れ、噴水の水音が涼しく響いていた。

 そのすべてが、さっきまでより少しだけ輪郭を取り戻したように見えた。


「黒髪、黒い瞳……シュン……」


 アリスは、窓ガラスに映る自分を見た。


 完璧な令嬢の顔。

 冷静で、隙のない、誰にも心を許さない当主の顔。


 けれど、その瞳の奥で、小さな迷子が息を吹き返していた。


 誰かいるかもしれない。

 私の言葉を読める誰かが。

 この世界を外側から見てしまった誰かが。

 私に「分かるよ」と言ってくれる誰かが。


 その考えは、あまりにも甘く、あまりにも危険だった。


 それでも、アリスはもう止められなかった。


 孤独という乾いた砂漠の真ん中で、遠くに水面の光を見てしまった旅人のように。


 たとえそれが幻だったとしても。

 たとえ近づいた瞬間に消えてしまうものだったとしても。


 もう、見なかったことにはできなかった。


 それから、アリスの日常は少しだけ狂い始めた。


 表向きは、何も変わらなかった。

 朝はいつも通り執務室に入り、領地から届いた報告書に目を通す。昼には商会の代表者と会い、午後には魔道具工房から上がってきた試作品を確認する。夕方には貴族たちからの招待状をより分け、夜には情報屋からの報告を受ける。


 どの場面でも、アリスは完璧だった。


 声は乱れない。

 笑みは崩れない。

 判断は速く、言葉は鋭く、誰も彼女の内側に揺れがあるなど気づかなかった。


 けれど、一人になると違った。


 執務室の扉が閉まり、足音が遠ざかった瞬間、アリスは机に両手をついた。

 窓の外には夜の庭が広がっている。昼間は瑞々しかった草木も、月明かりの下では黒い影になり、噴水の水音だけが静かに響いていた。


「……今日も、会えなかった」


 口から漏れた声は、日本語だった。


 情報屋からは、毎日のようにシュンの報告が届いた。


 黒髪の青年は、ギルドでまた何かを壊したらしい。

 魔獣を倒すついでに周囲の地形まで変えたらしい。

 白いアイガードをつけた少女とよく一緒にいるらしい。

 元騎士団長らしき男と行動しているらしい。

 引きこもりで有名だった魔女までも外へ連れ出したらしい。


 どの報告も、常識から外れていた。


 そして、どの報告にも、不思議な温度があった。


 彼は誰かを助ける。

 損得ではなく、効率でもなく、目の前で困っている誰かに手を伸ばす。

 それは、アリスが長い時間をかけて捨てようとしてきたものだった。


 だからこそ、苛立った。


 そんなふうに生きて、どうして壊れないの。

 そんなふうに他人を信じて、どうして笑っていられるの。

 あなたは、本当にこの世界を怖いと思っていないの。


 会って確かめたかった。


 彼がただの規格外な現地人なのか。

 それとも、自分と同じように、別の世界の記憶を持った存在なのか。


 もし後者なら。


 もし、同じ言葉で話せるなら。


 その先を考えそうになるたび、アリスは胸を押さえた。


 期待するな。


 そう自分に命じる。

 けれど、命令はもう効きにくくなっていた。


 ***


 最初のすれ違いは、冒険者ギルドの前だった。


 空は晴れていた。

 石畳には朝の光が斜めに差し込み、通りを行き交う人々の影が長く伸びていた。露店の布屋根が風に揺れ、焼きたてのパンの匂いと、馬車の車輪が砂を噛む音が通りに混じっている。


 アリスは、目立たない紺色の外套を羽織り、顔を薄いヴェールで隠していた。

 もちろん、侯爵家の令嬢が一人でギルド前に立つなど、まともな行動ではない。

 けれど、屋敷の中で報告を待つだけでは、胸の奥の焦りが収まらなかった。


 ギルドの扉が開くたび、アリスの視線はそちらへ吸い寄せられた。


 荒っぽい冒険者。

 荷物を抱えた商人。

 酔いの残った男。

 受付嬢に怒られている若者。


 違う。

 違う。

 違う。


 黒髪ではない。


 アリスは外套の下で指を握りしめた。


 その時、扉が勢いよく開いた。


「じゃ、行ってくる!」


 明るい声がした。


 黒い髪が見えた。


 アリスの心臓が、強く跳ねた。


 彼だ。


 ほんの一瞬だった。

 黒髪の青年が、白いアイガードの少女に何かを言い、銀の鎧を着た男に小突かれながら笑っている。その笑い方は、貴族の作法も、王都の常識も、何一つ気にしていないように無防備だった。


 アリスは足を踏み出した。


「待っ――」


 声は届かなかった。


 次の瞬間、彼は地面を蹴った。


 風が爆ぜた。


 通りの砂埃が一斉に舞い上がり、露店の布が大きく煽られる。通行人たちが悲鳴を上げ、馬が驚いていななく。

 アリスのヴェールも風に攫われ、視界が白く揺れた。


 目を開けた時、黒髪の青年はもう遠くにいた。


 いや、遠くというより、空に近かった。


 通りの向こう、屋根の上を越え、王都の城壁の先へ飛ぶように消えていく黒い点。

 誰かが呆然と呟いた。


「あれ、人間か……?」


 アリスは立ち尽くした。


 風に乱れた髪が頬に貼りつく。

 胸の奥で、期待と苛立ちがぐちゃぐちゃに混ざった。


「……何なのよ」


 小さく呟く。


「会わせる気、ないわけ?」


 それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 運命。

 世界。

 あるいは、このバグだらけの舞台を作った見えない何か。


 アリスは唇を噛み、踵を返した。


 ***


 二度目は、市場だった。


 夕方の市場は、赤い光に染まっていた。

 果物屋の軒先にはリンゴや梨が並び、魚屋の桶からは水が石畳へ細く流れている。人々の声が幾重にも重なり、値切る声、笑う声、荷車を押す音、遠くで鳴る鐘の音が、熱を持った空気の中で渦を巻いていた。


 アリスは商会の視察という名目で、市場に来ていた。

 もちろん、本当の目的は別にあった。


 シュンがこのあたりに現れたという情報を聞いたからだ。


 彼はよくリンゴを買うらしい。

 理由は分からない。

 ただ、目撃証言には何度もリンゴが出てきた。


 アリスは、自分でも馬鹿げていると思いながら、果物屋の近くで足を止めた。


 その時だった。


 人混みの向こうに、黒髪が見えた。


 今度こそ。


 アリスは呼吸を忘れた。

 黒髪の青年は、片手にリンゴを持っていた。赤い果実をかじりながら、何か楽しそうに店主と話している。夕陽が彼の横顔を照らし、黒い瞳の奥に光を宿していた。


 胸が痛くなった。


 懐かしい色だった。


 この世界で、ずっと探していた色だった。


 アリスは人混みをかき分けた。


「すみません、通して」


 普段なら、人が自然に道を開ける。

 アリス・ローゼンバーグの名を出せば、誰も逆らわない。

 けれど、今の彼女は外套姿のただの女だった。市場の人々は忙しく、誰も彼女の焦りなど気にしない。


 肩がぶつかる。

 裾を踏まれる。

 誰かの荷物が腕に当たる。


 それでも進んだ。


 あと少し。


 黒髪の青年が、路地へ曲がる。


「待って!」


 今度は声を出した。


 けれど、馬車が横切った。


 大きな荷車だった。積まれた木箱が視界を塞ぎ、車輪が石畳を軋ませて通り過ぎる。

 アリスは立ち止まるしかなかった。


 荷車が過ぎた時、路地の先には誰もいなかった。


 ただ、石畳の上に、食べ終えたリンゴの芯が転がっていた。


 夕陽に照らされて、赤い皮の欠片がかすかに光っている。


 アリスは、その場にしゃがみ込んだ。


 手を伸ばしかけ、途中で止める。


 こんなものを拾ってどうするの。

 そう思った。


 けれど、胸の奥から別の声がした。


 手がかりが欲しい。

 彼が本当にいた証が欲しい。

 幻じゃなかったと思えるものが欲しい。


 アリスは唇を強く噛んだ。


 リンゴの芯には触れなかった。


 代わりに、指を握りしめて立ち上がる。


「……絶対に、会ってやる」


 声は、怒りに似ていた。


 けれど本当は、泣きそうだった。


 ***


 三度目も、四度目も、同じだった。


 近づけば離れる。

 追えば消える。

 行く先を読んで待てば、彼はまったく別の場所に現れる。


 まるで世界そのものが、二人を会わせまいとしているかのようだった。


 そのたびに、アリスの中で何かが削れていった。


 希望は、薬ではなかった。

 むしろ、毒に近かった。


 知らなければ、耐えられた孤独がある。

 諦めきっていれば、痛まなかった夜がある。

 けれど、彼の存在を知ってしまった今、アリスはもう前の静かな絶望には戻れなかった。


 夜、ベッドの中で目を閉じると、黒髪の青年の横顔が浮かんだ。


 もし、彼が同郷人だったら。


 もし、日本語を読めたら。


 もし、自分の言葉に驚いて、こちらを見返してくれたら。


 その時、自分は何と言うのだろう。


 助けて。


 そう言いたいのか。


 一緒にいて。


 そう言いたいのか。


 それとも、ただ。


 私を、作り物じゃない誰かとして見て。


 そう願っているのか。


 アリスは枕を抱きしめた。

 広すぎる寝室は、夜になると音を吸い込む。外では風が窓を揺らし、カーテンの裾がわずかに動いていた。

 部屋の隅に置かれた時計の針だけが、こつ、こつ、と時間を刻んでいる。


 孤独が、胸を締めつけた。


「……もう嫌」


 小さく漏れた声は、誰にも届かなかった。


 ***


 数週間後。


 焦りが限界に近づいていたアリスのもとへ、一枚の報告書が届いた。


 その日の空は、朝から重かった。

 雲が低く垂れ込め、屋敷の窓には薄暗い光しか入らない。庭園のバラは雨を待つようにうつむき、風が通るたび、葉の裏側が白く揺れていた。


 アリスは執務机で報告書を開いた。


 黒い封蝋。

 直属の情報網からの緊急報告。


 そこには、こう書かれていた。


 ――義賊団「黒猫」、ローゼンバーグ侯爵家への侵入を計画中。


 普段なら、すぐに処理する案件だった。


 警備を強化する。

 罠を増やす。

 侵入経路を潰す。

 事前に捕らえて衛兵へ引き渡す。


 それで終わりだ。


 けれど、アリスの目は、次の一文で止まった。


 ――目的は、病に伏す妹を救うため。当家の宝物庫にあると噂される秘薬「聖女の涙」を狙っている模様。


 指先が、紙の上で止まる。


 妹を救うため。


 その言葉が、胸の奥に触れた。


 守りたい誰かがいる。

 失いたくない誰かがいる。

 そのために、危険だと分かっていても手を伸ばそうとしている。


 アリスは、砕けた青い石のことを思い出した。


 父様と母様を守りたくて作ったブローチ。

 自分の手で未来を守れると信じていた、愚かで幸せだった頃の自分。


 この盗賊たちも、同じ場所に立っているのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸が痛んだ。


 アリスは報告書を握りしめた。

 紙が歪む。


「……馬鹿ね」


 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


 盗賊たちへか。

 かつての自分へか。

 それとも、まだ胸を痛めてしまう今の自分へか。


 聖女の涙。


 そんな秘薬は、ローゼンバーグ家には存在しない。

 宝物庫にあるのは、光るだけの珍しい植物と、価値ばかり高い装飾品、そしてアリスが興味本位で集めた古い魔道具だけだ。


 彼らの希望は、偽物だった。


 教えてやればいい。

 そう思った。


 その噂は間違いだ、と。

 別の治療法を探せ、と。

 金なら貸してやってもいい、と。


 そうすれば、誰も傷つかない。


 そのはずだった。


 けれど、次の瞬間、別の考えがアリスの脳裏をよぎった。


 襲撃予告。

 宝物庫。

 危険な依頼。

 そして、正義感の強い規格外の冒険者。


 胸の奥で、黒い歯車が回る音がした。


 これを、正式な依頼にすれば。


 ギルドを通し、報酬を積み、指名をかければ。


 あのシュンを、この屋敷に呼べる。


 逃げ場のない形で。


 世界がどれだけ二人をすれ違わせようとしても、依頼という形なら避けられない。


 アリスは立ち上がった。


 窓の外で、雨が降り始めた。

 最初は細く、やがて粒が増え、庭園の葉を濡らしていく。噴水の水音と雨音が混ざり、屋敷全体を静かな膜で包んだ。


 アリスは、震える手で白い便箋を取り出した。


 ペン先にインクをつける。


 けれど、すぐには書けなかった。


 自分がしようとしていることの意味を、分かっていたからだ。


 病気の妹を救おうとしている者たちを、餌にする。

 彼らの必死さを利用する。

 自分が同郷人かもしれない男に会いたいという、たったそれだけの願いのために。


 最低だ。


 胸の奥で、小さなアリスが泣いていた。


 それでも、ペンを置けなかった。


「……もう、一人は嫌なの」


 声は、雨音に溶けた。


 アリスは、ペンを紙に走らせた。


 求む。宝物庫の警備。

 報酬、金貨一千枚。

 指名、冒険者シュン。


 文字を書き終えたあと、しばらく手が止まった。


 これだけでは足りない。


 彼が本当に自分と同じ場所から来たのか、確かめる必要がある。

 誰にも気づかれず、彼だけに届く言葉が必要だった。


 アリスは、別の小さな紙を取り出した。


 白い紙の上に、ペン先を置く。


 手が震えた。


 何年ぶりだろう。

 この文字を書くのは。


 『あなたは、日本から来ましたか?』


 書き終えた瞬間、息が詰まった。


 ただの一文。

 それなのに、それはアリスが長い時間、胸の奥に閉じ込め続けていた叫びそのものだった。


 お願い。

 読んで。

 気づいて。

 私を、見つけて。


 その文字を隠すように、周囲へ警備配置の線を書き足していく。

 廊下。扉。宝物庫。兵の配置。矢印。記号。

 この世界の人間には、複雑な図面にしか見えないように。

 けれど、日本語を知る者だけが、その中心に埋め込まれた問いを読めるように。


 アリスは、完成した紙をじっと見つめた。


 窓の外の雨は、少し強くなっていた。

 庭園のバラの花びらが雨に打たれ、一枚、また一枚と落ちていく。

 赤い花びらが濡れた石畳に貼りつき、まるで小さな傷口のように見えた。


「……来て」


 アリスは、小さく呟いた。


「お願いだから、来て」


 その声には、命令も計算もなかった。


 ただ、孤独に疲れた少女の祈りだけがあった。


 黄金の招待状は、こうして書かれた。


 それは、侯爵令嬢から冒険者への依頼書であり、悪役令嬢が仕組んだ残酷な舞台の始まりでもあり、そして何より――


 誰にも読まれなかった本当の言葉を、たった一人に届けるための、震える救難信号だった。

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