表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/84

第42話:強制されたシナリオ ~悪役令嬢の仮面は、涙で錆びつかないように~

 葬儀の日、空は泣いていた。


 灰色の雲がローゼンバーグ家の墓地の上に低く垂れ込め、冷たい雨が、黒い傘の群れを絶え間なく叩いていた。土は水を吸って重くなり、掘り返された穴の縁からは、濡れた土の匂いが生々しく立ち上っていた。花束に結ばれた白いリボンは雨を含んでしおれ、薔薇の花びらは泥の中に落ちて、赤い染みのように広がっていた。


 私は喪服を着て、そこに立っていた。


 黒い布は水を吸って重く、肩に貼りついていた。

 髪はきれいに結われていたはずなのに、雨の雫がこめかみを伝い、顎の先から落ちていく。

 寒かった。

 けれど、震えてはいけないと思った。


 父様と母様の棺が、ゆっくりと土の中へ下ろされていく。


 木の箱が軋む音。

 縄が濡れて滑る音。

 誰かが鼻をすする音。

 遠くで、屋敷の庭木が雨風に揺れ、葉と葉が擦れ合う乾いたような湿ったような音を立てていた。


 私は、それらをすべて聞いていた。

 けれど、どれも自分のいる世界の音には思えなかった。


 父様は、もう私の名前を呼ばない。

 母様は、もう紅茶のカップを持って笑わない。

 あの小指も、もう動かない。


 その事実を考えると、胸の中に大きな穴が開いて、そこから体温が全部抜けていきそうだった。だから私は考えるのをやめた。


 これは、ただの出来事。

 よくある悲しい場面。

 物語の中で、主人公を孤独にするために用意された展開。


 そう思えば、少しだけ息ができた。


「おかわいそうに……まだ十歳なのに」


「これからローゼンバーグ家はどうなるのかしら」


「莫大な財産に、魔道具の権利もある。幼い娘一人では、とても守りきれまい」


 傘の下から、囁き声が聞こえた。


 同情の声に混じって、別のものがあった。

 雨に濡れた石畳の上を滑る油のような、ぬめった視線。

 父様と母様の死を悼んでいるふりをしながら、その奥で計算している目。


 私が顔を上げると、親族たちは一斉に視線を逸らした。

 けれど、遅かった。


 私は、見てしまった。


 あの人たちは、私を見ていない。

 両親を失った子供を見ていない。

 見ているのは、ローゼンバーグ家の屋敷。金庫。土地。商会。父様が残した契約書。母様が守ってきた宝石箱。


 胸の奥が、冷えていく。


 ああ、そうか。


 父様と母様がいなくなった途端、世界は牙を見せるのだ。


 ***


 葬儀から三日後、屋敷の応接間には、湿った花の匂いがまだ残っていた。


 白い花は毎朝取り替えられているはずなのに、部屋の空気はどこか腐りかけていた。分厚いカーテンの隙間から差し込む午後の光は細く、絨毯の上に長い線を引いている。暖炉には火が入っていたが、炎の音だけがやけに大きく、部屋は少しも温かくなかった。


 私は、長い椅子に座っていた。


 目の前には、父様の弟にあたる叔父がいた。

 丸い腹を上質な上着で包み、指には大きな宝石の指輪をいくつもはめている。声は優しげだった。けれど、その目だけは笑っていなかった。


「アリスちゃん。つらいだろう。おじさんには分かるよ」


 分かるはずがない。


 そう思ったが、私は黙っていた。


「君はまだ子供だ。領地のことも、商会のことも、難しい契約のことも分からないだろう。だからね、私たちが助けてあげようと思っているんだ」


 叔父は、机の上に数枚の書類を置いた。


 羊皮紙の端が、暖炉の風でかすかに揺れた。

 黒い文字が、細かく並んでいる。

 その一行一行を見た瞬間、私の中の冷えきった部分が静かに目を覚ました。


 全資産の管理権を、後見人へ移す。

 当主の婚姻に関する決定権を、後見人へ委ねる。

 商会の利益から、毎年一定額を親族へ分配する。


 助ける。


 叔父は、そう言った。


 けれど、これは助けではなかった。

 父様と母様が守ってきたものを、私から奪うための縄だった。

 甘い言葉で包まれた、首輪だった。


「ここに名前を書くだけでいい」


 叔父は羽ペンを差し出した。


「そうすれば、アリスちゃんはもう何も心配しなくていい。屋敷のことも、領地のことも、全部おじさんたちが――」


「おじさま」


 私の声は、自分でも驚くほど小さかった。


 叔父の顔が、勝利を確信したように緩む。


「なんだい?」


「少しだけ、待っていただけませんか」


 私は、わざと震える声を出した。


「まだ……父様と母様のことを考えると、胸が苦しくて。今は、何かを決められる気がしないのです」


 それは、半分は本当だった。

 胸は苦しかった。

 息も、まともに吸えなかった。


 でも、もう半分は違った。


 私は、時間が欲しかった。

 この書類の弱点をすべて拾い上げる時間。

 叔父たちがどれだけ汚れているのかを調べる時間。

 誰を味方にでき、誰を切るべきかを見極める時間。


 叔父は、一瞬だけ眉を動かした。


 そして、机を叩いた。


 バンッ。


 花瓶の水面が跳ね、白い花びらが一枚、机の上に落ちた。


「甘えるな!」


 怒声が、部屋の空気を破った。


 私は肩を震わせた。

 十歳の体は正直だった。心を冷やしても、大きな声には反応してしまう。


「家を守るということは、待ってくれないんだ。お前の父も母も死んだ。もういない。ならば、残された者が現実を見なければならん」


 死んだ。


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 父様と母様の死を、この人は道具にしている。


「あなたのためを思って言っているのよ」


 叔母が横から口を挟んだ。

 甘ったるい香水の匂いが鼻を刺す。彼女の胸元には、大きな真珠の飾りが光っていた。母様が持っていたものとよく似ていた。


「子供が当主だなんて、周りに笑われるわ。私たちに任せなさい」


「そうだ。領民も不安がっている」


「商会だって、子供の判断では潰れてしまう」


 声が重なる。


 部屋の中にいる大人たちが、少しずつ大きく見えた。

 壁の模様が歪み、暖炉の火が遠ざかる。

 呼吸が浅くなる。

 指先が冷たくなる。


 怖い。


 助けて。


 その言葉が喉まで上がってきた。


 けれど、誰に?


 父様はいない。

 母様はいない。

 使用人たちは壁際で目を伏せている。誰も、私と目を合わせない。


 私は、ひとりだった。


 その事実が、胸の奥に落ちた瞬間。


 かちり、と音がした気がした。


 涙の出る場所に、蓋が閉まる音。

 震える心を、深い箱の中へ押し込める音。

 幼いアリスが泣き叫ぶ声を、冷たい扉の向こうへ閉じ込める音。


 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「……おじさま」


 自分の声が変わっていた。


 震えていない。

 か細くもない。

 鈴を鳴らすように澄んでいて、それでいて刃物のように冷たかった。


「この契約書、本当にご自身でお読みになりましたの?」


 叔父が、ぽかんと口を開けた。


「……何?」


「第六項。商会利益ではなく、総売上から分配金を出すと書かれていますわ。原価も人件費も考慮せずに。こんな条件を通せば、半年もせずに資金繰りが崩れます」


 叔父の顔色が変わる。


「それから第九項。領地の一部を担保に入れる権限。これは、父様の遺言で制限されています。おじさまは、遺言状をご確認なさっていないのですか?」


 部屋の空気が変わった。


 さっきまで私を囲んでいた大人たちの視線が、わずかに揺れる。

 獲物を見る目ではなくなった。

 理解できないものを見る目になった。


 私は、机の上の羽ペンを取った。


 名前を書くためではない。


 書類の一部に、ゆっくりと線を引くためだった。


「ここも不自然ですわね。おばさま」


 私は、香水の強い叔母へ視線を向けた。


「先月、我が家の名義で宝石店から首飾りを購入されていますね。支払いは、まだ済んでいません。父様の葬儀前に、ずいぶん急がれたのですね」


 叔母の指が、自分の胸元を押さえた。


 真珠が、暖炉の光を受けて白く光る。


「な、何を……」


「そちらの叔父さまは、領地の倉庫から木材を持ち出しています。帳簿と現物が合いませんでした。確認させていただいても?」


 誰も答えなかった。


 雨はもう降っていない。

 けれど、窓の外の枝から落ちる水滴が、ぽたり、ぽたりと石の縁を叩いていた。

 その音だけが、沈黙の中でやけに大きく聞こえた。


 私は、微笑んだ。


 母様から教わった、きれいな微笑みだった。

 口角を少しだけ上げる。

 目元は柔らかく。

 声は穏やかに。


「ねえ、皆様」


 私は、羽ペンの先を机に置いた。


「私が子供だから、何も分からないと思いましたか?」


 誰も動かなかった。


「それとも、父様と母様がいなくなれば、この家は簡単に食い荒らせると思いましたか?」


 叔父の額に、汗が滲んでいた。


 私はその汗を見て、理解した。


 勝てる。


 いや、勝たなければならない。


 泣けば、奪われる。

 震えれば、踏みつけられる。

 助けを待てば、誰も来ないまま食い尽くされる。


 なら、笑うしかない。


 完璧に。

 冷たく。

 誰にも弱さを悟られないように。


「この場は、家族会議ではありませんわ」


 私は、もう一度微笑んだ。


「不正の確認の場に変えましょう」


 その瞬間、私の中で、アリス・ローゼンバーグという役が始まった。


 父様に抱き上げられて笑っていた少女ではない。

 母様の小指を真似して紅茶を飲んでいた子供でもない。


 ローゼンバーグ家の当主。

 隙を見せれば奪われる世界で、誰にも涙を見せずに立つための、作り物の私。


 その仮面は、冷たかった。


 けれど、泣いている顔よりは、ずっと役に立った。


その日、親族たちは逃げるように屋敷を出ていった。


 最初に叔母が席を立った。

 次に、木材の横流しを指摘された叔父が、何か言い訳を口の中で潰しながら扉へ向かった。

 最後まで残っていた父様の弟は、顔を赤黒く染め、私を睨みつけていた。


「……後悔するぞ」


 彼は、低い声でそう言った。


 私は椅子に座ったまま、微笑みを崩さなかった。


「それは、脅しですか?」


「子供一人で、この家を守れると思うな」


「子供一人に負けた方が、おっしゃることではありませんわ」


 叔父の唇が引きつった。


 暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。

 その音に紛れて、壁際の使用人が息を呑むのが分かった。


 私は叔父から視線を逸らさなかった。

 怖くなかったわけではない。

 本当は、今にも膝が震えそうだった。

 心臓は痛いほど速く打ち、背中には冷たい汗が滲んでいた。


 けれど、ここで目を伏せれば終わる。


 この人たちは、優しさを見ない。

 弱さしか見ない。

 そして、弱さを見つけた瞬間、そこへ歯を立てる。


 だから私は、笑った。


「本日はお引き取りください。後日、正式な監査の席でお話を伺います」


 叔父は何か言いかけ、結局、何も言わずに背を向けた。

 扉が乱暴に閉められる。

 重い音が、応接間に残った。


 静寂が落ちた。


 私は、まだ笑っていた。


 誰も動かない。

 使用人たちは壁際で固まったまま、私を見ていた。

 その目には、安堵よりも恐れがあった。


 十歳の少女を見る目ではなかった。

 得体の知れないものを見る目だった。


 それでいい。


 私は、心の中で呟いた。


 怖がられる方がいい。

 可哀想だと思われるより、ずっと安全だ。


「……皆、聞きなさい」


 声を出すと、喉の奥が痛んだ。


「今日から、この屋敷の帳簿、契約書、倉庫、商会とのやり取りは、すべて私が確認します。不正が見つかれば、身内であろうと使用人であろうと許しません」


 誰かが小さく頷いた。


「父様と母様が残したものを、誰にも奪わせません」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。


 父様。

 母様。


 名前を思っただけで、仮面の下の私は泣きそうになった。


 でも、泣かなかった。


 私は立ち上がり、応接間を出た。

 廊下は長く、窓から差し込む夕方の光が床に伸びていた。磨かれた床には私の影が映っている。小さな体。細い肩。黒い喪服。

 それなのに、その影は、私よりずっと大きく見えた。


 歩くたび、靴音が廊下に響いた。


 コツ。

 コツ。

 コツ。


 その音は、私がもう子供ではいられないことを告げる鐘のようだった。


 ***


 そこからの日々は、眠る暇もないほど忙しくなった。


 朝は、まだ空が薄暗いうちに目を覚ました。

 窓の外では、庭師が落ち葉を掃く音がしていた。竹ぼうきが石畳を擦る、しゃっ、しゃっ、という乾いた音。その向こうで、鳥が鳴き始める。

 私はベッドから降り、冷たい床に足をつける。


 父様がいない朝。

 母様がいない食卓。

 私のために用意された椅子だけが、やけに大きく見えた。


 食事の味は、ほとんど分からなかった。


 それでも、私はナイフとフォークを正しく持ち、背筋を伸ばして食べた。

 母様が教えてくれた通りに。

 ただし、笑わなかった。


 午前は帳簿。

 昼は商会の使者との話し合い。

 午後は倉庫の確認。

 夜は父様が残した書類の整理。


 机の上に積まれた紙は、日が暮れても減らなかった。

 ランプの火が揺れ、羽ペンの先が紙を擦る。インクの匂いが部屋に溜まり、窓の外では風が庭木を揺らしていた。葉がざわめく音は、時々、人の囁きに聞こえた。


 ――子供に何ができる。

 ――どうせすぐ潰れる。

 ――誰かの後ろ盾が必要だ。


 そんな声が、聞こえる気がした。


 私は、そのたびにペンを握る手に力を込めた。


 できる。

 やるしかない。


 泣く時間があるなら、数字を見る。

 寂しがる時間があるなら、契約を読む。

 震える時間があるなら、相手の弱点を探す。


 そうやって動いていれば、悲しみは少しだけ遠くなる。


 遠くなるだけで、消えはしなかった。


 ***


 数か月が過ぎる頃、屋敷の人間は私を見る目を変えた。


 最初は、可哀想な子供を見る目だった。

 次に、扱いづらい天才を見る目になった。

 やがて、誰も私を子供として扱わなくなった。


「当主様」


 使用人たちは、そう呼ぶようになった。


 アリス様ではない。

 アリスちゃんでもない。

 当主様。


 その言葉は、礼儀正しかった。

 けれど、遠かった。


 廊下ですれ違うと、使用人たちは深く頭を下げる。

 私が近づくと、会話が止まる。

 私が部屋に入ると、空気が張り詰める。


 それは、私が望んだことのはずだった。


 誰にも舐められない。

 誰にも奪われない。

 誰にも弱さを見せない。


 そのために、私は仮面を作った。


 けれど、仮面の中は、とても息苦しかった。


 ***


 ある夜、私は一人で私室にいた。


 外は嵐だった。

 雨粒が窓ガラスを激しく叩き、時折、風が屋敷の壁にぶつかって低く唸った。庭の木々は暗闇の中で大きく揺れ、枝が窓を引っかくたび、かり、かり、と細い音がした。


 机の上には、冷めた紅茶が置かれていた。


 書類仕事は終わっていた。

 明日の予定も確認した。

 交渉相手の資料も読み込んだ。


 もう、誰かに見られる心配はない。


 私は椅子に深く腰かけ、ようやく息を吐いた。


 鏡の中に映る私は、ひどい顔をしていた。

 目の下には薄い影があり、唇には血の気がない。

 十歳の少女の顔ではない。

 疲れ切った大人の顔だった。


「……笑って」


 私は鏡の中の自分に命じた。


 口角を上げる。

 目元を柔らかくする。

 顎を少し引く。

 母様が人前で見せていたような、優雅な微笑み。


 鏡の中の私は、完璧に笑っていた。


 それが、ひどく気持ち悪かった。


 私は紅茶に手を伸ばした。

 カップを持ち上げる。

 その瞬間、右手の小指が、自然に少しだけ立った。


 息が止まった。


 ――まあ、上手ね。


 母様の声が、耳元で聞こえた気がした。


 あのテラス。

 光を受けて揺れる白いカーテン。

 バラの香り。

 紅茶の湯気。

 母様が、私の小さな指を見て笑ってくれた日のこと。


 カップが震えた。


 ソーサーに触れ、かちゃりと音を立てる。


「……母様」


 声にした瞬間、涙があふれた。


 止まらなかった。

 昼間はあれほど我慢できるのに、一人になると、心の奥に押し込めたものが一気に溢れてくる。


「会いたい……」


 私はカップを置き、両手で顔を覆った。


「会いたいよ……父様、母様……」


 嵐の音が部屋を包んでいた。

 けれど、その中でも自分の泣き声だけははっきり聞こえた。

 小さく、みっともなく、情けない声だった。


 私は、引き出しを開けた。


 奥にしまっていた小箱を取り出す。

 中には、砕けた青い宝石の欠片と、くしゃくしゃになった手紙が入っていた。


 私はそれを見つめた。


 守れなかった証。

 愛していた証。

 失った証。


 指先で青い欠片に触れると、冷たかった。


 あの日、父様と母様の胸元で光り、そして消えた石。

 私の自信。

 私の願い。

 私の失敗。


 私は、それを握りしめた。


「ごめんなさい」


 何度言っても、届かない。

 どれだけ謝っても、二人は戻らない。


 だから私は、謝る代わりに生き残ることを選んだ。

 この家を守ることを選んだ。

 二人が愛したものを、誰にも奪わせないことを選んだ。


 けれど、それは本当に強さだったのだろうか。


 ただ、立ち止まったら壊れてしまうから、走り続けているだけではないのか。


 私は鏡を見た。


 涙で濡れた顔。

 しかし口元だけは、まだ笑う形を保っていた。


 笑いながら泣く顔。


 それは、人形の顔に似ていた。


「……私は、アリス・ローゼンバーグ」


 私は鏡に向かって呟いた。


「ローゼンバーグ家の当主」


 涙を拭う。


「誰にも奪わせない」


 背筋を伸ばす。


「誰にも、私の中を見せない」


 声は震えていた。

 けれど、言葉にするたび、仮面は少しずつ硬くなっていった。


 私は、その夜から毎日、鏡の前で笑顔の練習をした。


 悲しくても笑う。

 怖くても笑う。

 怒りで手が震えても笑う。

 相手に心を読ませない。

 相手に弱みを見せない。


 完璧な礼儀。

 完璧な声。

 完璧な微笑み。

 完璧な令嬢。


 それらは、私を飾るためのものではなかった。


 私を守るための壁だった。


 ***


 年を重ねるにつれ、私は少しずつ噂になっていった。


 若くして家を立て直した才女。

 冷静で隙のない当主。

 誰にも心を許さない氷の令嬢。

 出所の分からない魔道具を生み出す、得体の知れない少女。


 人々は好き勝手に言った。

 怖がり、持ち上げ、陰で囁き、表では笑顔を貼りつけた。


 私は、それを遠くから眺めていた。


 彼らの言葉は、舞台の上の台詞のようだった。

 誰も本当の私を見ていない。

 誰も、夜ごと砕けた青い石を握って泣く私を知らない。

 誰も、紅茶を持つ小指だけが母様を探していることに気づかない。


 なら、私も彼らを見なくていい。


 そう思うようになった。


 人ではなく、役割として見る。

 感情ではなく、動きとして見る。

 期待ではなく、結果だけを見る。


 そうすれば傷つかない。


 そうすれば、もう二度と、あの日の崖下へ戻らなくて済む。


 けれど、部屋に一人になると、ときどき胸が苦しくなった。


 誰かに、分かってほしかった。


 私の本当の言葉を。

 私がなぜ笑っているのかを。

 私がなぜ冷たくするのかを。

 この世界を作り物だと思わなければ立っていられないほど、私はまだ弱いのだということを。


 でも、そんな誰かはいなかった。


 いるはずがなかった。


 私は、広い屋敷の一番奥で、誰にも読めない言葉を胸の中に抱えたまま、大人になっていった。


 やがて、その孤独が限界に近づいた頃。


 王都の片隅で、黒髪の青年の噂が流れ始める。


 常識外れの力を持ち、見たこともない発想で周囲を振り回し、それでも誰かを助けるためなら迷わず泥の中へ飛び込む男。


 その名を、瞬という。


 まだ、この時の私は知らなかった。


 その男が、いつか私の完璧な仮面を正面から壊し、私が必死に守ってきた嘘を、「そんなの間違ってる」と怒ってくれることを。


 そして、母様の小指を真似して震えていた迷子の私に、もう一度、世界の温かさを思い出させてくれることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ