第42話:強制されたシナリオ ~悪役令嬢の仮面は、涙で錆びつかないように~
葬儀の日、空は泣いていた。
灰色の雲がローゼンバーグ家の墓地の上に低く垂れ込め、冷たい雨が、黒い傘の群れを絶え間なく叩いていた。土は水を吸って重くなり、掘り返された穴の縁からは、濡れた土の匂いが生々しく立ち上っていた。花束に結ばれた白いリボンは雨を含んでしおれ、薔薇の花びらは泥の中に落ちて、赤い染みのように広がっていた。
私は喪服を着て、そこに立っていた。
黒い布は水を吸って重く、肩に貼りついていた。
髪はきれいに結われていたはずなのに、雨の雫がこめかみを伝い、顎の先から落ちていく。
寒かった。
けれど、震えてはいけないと思った。
父様と母様の棺が、ゆっくりと土の中へ下ろされていく。
木の箱が軋む音。
縄が濡れて滑る音。
誰かが鼻をすする音。
遠くで、屋敷の庭木が雨風に揺れ、葉と葉が擦れ合う乾いたような湿ったような音を立てていた。
私は、それらをすべて聞いていた。
けれど、どれも自分のいる世界の音には思えなかった。
父様は、もう私の名前を呼ばない。
母様は、もう紅茶のカップを持って笑わない。
あの小指も、もう動かない。
その事実を考えると、胸の中に大きな穴が開いて、そこから体温が全部抜けていきそうだった。だから私は考えるのをやめた。
これは、ただの出来事。
よくある悲しい場面。
物語の中で、主人公を孤独にするために用意された展開。
そう思えば、少しだけ息ができた。
「おかわいそうに……まだ十歳なのに」
「これからローゼンバーグ家はどうなるのかしら」
「莫大な財産に、魔道具の権利もある。幼い娘一人では、とても守りきれまい」
傘の下から、囁き声が聞こえた。
同情の声に混じって、別のものがあった。
雨に濡れた石畳の上を滑る油のような、ぬめった視線。
父様と母様の死を悼んでいるふりをしながら、その奥で計算している目。
私が顔を上げると、親族たちは一斉に視線を逸らした。
けれど、遅かった。
私は、見てしまった。
あの人たちは、私を見ていない。
両親を失った子供を見ていない。
見ているのは、ローゼンバーグ家の屋敷。金庫。土地。商会。父様が残した契約書。母様が守ってきた宝石箱。
胸の奥が、冷えていく。
ああ、そうか。
父様と母様がいなくなった途端、世界は牙を見せるのだ。
***
葬儀から三日後、屋敷の応接間には、湿った花の匂いがまだ残っていた。
白い花は毎朝取り替えられているはずなのに、部屋の空気はどこか腐りかけていた。分厚いカーテンの隙間から差し込む午後の光は細く、絨毯の上に長い線を引いている。暖炉には火が入っていたが、炎の音だけがやけに大きく、部屋は少しも温かくなかった。
私は、長い椅子に座っていた。
目の前には、父様の弟にあたる叔父がいた。
丸い腹を上質な上着で包み、指には大きな宝石の指輪をいくつもはめている。声は優しげだった。けれど、その目だけは笑っていなかった。
「アリスちゃん。つらいだろう。おじさんには分かるよ」
分かるはずがない。
そう思ったが、私は黙っていた。
「君はまだ子供だ。領地のことも、商会のことも、難しい契約のことも分からないだろう。だからね、私たちが助けてあげようと思っているんだ」
叔父は、机の上に数枚の書類を置いた。
羊皮紙の端が、暖炉の風でかすかに揺れた。
黒い文字が、細かく並んでいる。
その一行一行を見た瞬間、私の中の冷えきった部分が静かに目を覚ました。
全資産の管理権を、後見人へ移す。
当主の婚姻に関する決定権を、後見人へ委ねる。
商会の利益から、毎年一定額を親族へ分配する。
助ける。
叔父は、そう言った。
けれど、これは助けではなかった。
父様と母様が守ってきたものを、私から奪うための縄だった。
甘い言葉で包まれた、首輪だった。
「ここに名前を書くだけでいい」
叔父は羽ペンを差し出した。
「そうすれば、アリスちゃんはもう何も心配しなくていい。屋敷のことも、領地のことも、全部おじさんたちが――」
「おじさま」
私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
叔父の顔が、勝利を確信したように緩む。
「なんだい?」
「少しだけ、待っていただけませんか」
私は、わざと震える声を出した。
「まだ……父様と母様のことを考えると、胸が苦しくて。今は、何かを決められる気がしないのです」
それは、半分は本当だった。
胸は苦しかった。
息も、まともに吸えなかった。
でも、もう半分は違った。
私は、時間が欲しかった。
この書類の弱点をすべて拾い上げる時間。
叔父たちがどれだけ汚れているのかを調べる時間。
誰を味方にでき、誰を切るべきかを見極める時間。
叔父は、一瞬だけ眉を動かした。
そして、机を叩いた。
バンッ。
花瓶の水面が跳ね、白い花びらが一枚、机の上に落ちた。
「甘えるな!」
怒声が、部屋の空気を破った。
私は肩を震わせた。
十歳の体は正直だった。心を冷やしても、大きな声には反応してしまう。
「家を守るということは、待ってくれないんだ。お前の父も母も死んだ。もういない。ならば、残された者が現実を見なければならん」
死んだ。
その言葉が、胸に突き刺さった。
父様と母様の死を、この人は道具にしている。
「あなたのためを思って言っているのよ」
叔母が横から口を挟んだ。
甘ったるい香水の匂いが鼻を刺す。彼女の胸元には、大きな真珠の飾りが光っていた。母様が持っていたものとよく似ていた。
「子供が当主だなんて、周りに笑われるわ。私たちに任せなさい」
「そうだ。領民も不安がっている」
「商会だって、子供の判断では潰れてしまう」
声が重なる。
部屋の中にいる大人たちが、少しずつ大きく見えた。
壁の模様が歪み、暖炉の火が遠ざかる。
呼吸が浅くなる。
指先が冷たくなる。
怖い。
助けて。
その言葉が喉まで上がってきた。
けれど、誰に?
父様はいない。
母様はいない。
使用人たちは壁際で目を伏せている。誰も、私と目を合わせない。
私は、ひとりだった。
その事実が、胸の奥に落ちた瞬間。
かちり、と音がした気がした。
涙の出る場所に、蓋が閉まる音。
震える心を、深い箱の中へ押し込める音。
幼いアリスが泣き叫ぶ声を、冷たい扉の向こうへ閉じ込める音。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……おじさま」
自分の声が変わっていた。
震えていない。
か細くもない。
鈴を鳴らすように澄んでいて、それでいて刃物のように冷たかった。
「この契約書、本当にご自身でお読みになりましたの?」
叔父が、ぽかんと口を開けた。
「……何?」
「第六項。商会利益ではなく、総売上から分配金を出すと書かれていますわ。原価も人件費も考慮せずに。こんな条件を通せば、半年もせずに資金繰りが崩れます」
叔父の顔色が変わる。
「それから第九項。領地の一部を担保に入れる権限。これは、父様の遺言で制限されています。おじさまは、遺言状をご確認なさっていないのですか?」
部屋の空気が変わった。
さっきまで私を囲んでいた大人たちの視線が、わずかに揺れる。
獲物を見る目ではなくなった。
理解できないものを見る目になった。
私は、机の上の羽ペンを取った。
名前を書くためではない。
書類の一部に、ゆっくりと線を引くためだった。
「ここも不自然ですわね。おばさま」
私は、香水の強い叔母へ視線を向けた。
「先月、我が家の名義で宝石店から首飾りを購入されていますね。支払いは、まだ済んでいません。父様の葬儀前に、ずいぶん急がれたのですね」
叔母の指が、自分の胸元を押さえた。
真珠が、暖炉の光を受けて白く光る。
「な、何を……」
「そちらの叔父さまは、領地の倉庫から木材を持ち出しています。帳簿と現物が合いませんでした。確認させていただいても?」
誰も答えなかった。
雨はもう降っていない。
けれど、窓の外の枝から落ちる水滴が、ぽたり、ぽたりと石の縁を叩いていた。
その音だけが、沈黙の中でやけに大きく聞こえた。
私は、微笑んだ。
母様から教わった、きれいな微笑みだった。
口角を少しだけ上げる。
目元は柔らかく。
声は穏やかに。
「ねえ、皆様」
私は、羽ペンの先を机に置いた。
「私が子供だから、何も分からないと思いましたか?」
誰も動かなかった。
「それとも、父様と母様がいなくなれば、この家は簡単に食い荒らせると思いましたか?」
叔父の額に、汗が滲んでいた。
私はその汗を見て、理解した。
勝てる。
いや、勝たなければならない。
泣けば、奪われる。
震えれば、踏みつけられる。
助けを待てば、誰も来ないまま食い尽くされる。
なら、笑うしかない。
完璧に。
冷たく。
誰にも弱さを悟られないように。
「この場は、家族会議ではありませんわ」
私は、もう一度微笑んだ。
「不正の確認の場に変えましょう」
その瞬間、私の中で、アリス・ローゼンバーグという役が始まった。
父様に抱き上げられて笑っていた少女ではない。
母様の小指を真似して紅茶を飲んでいた子供でもない。
ローゼンバーグ家の当主。
隙を見せれば奪われる世界で、誰にも涙を見せずに立つための、作り物の私。
その仮面は、冷たかった。
けれど、泣いている顔よりは、ずっと役に立った。
その日、親族たちは逃げるように屋敷を出ていった。
最初に叔母が席を立った。
次に、木材の横流しを指摘された叔父が、何か言い訳を口の中で潰しながら扉へ向かった。
最後まで残っていた父様の弟は、顔を赤黒く染め、私を睨みつけていた。
「……後悔するぞ」
彼は、低い声でそう言った。
私は椅子に座ったまま、微笑みを崩さなかった。
「それは、脅しですか?」
「子供一人で、この家を守れると思うな」
「子供一人に負けた方が、おっしゃることではありませんわ」
叔父の唇が引きつった。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
その音に紛れて、壁際の使用人が息を呑むのが分かった。
私は叔父から視線を逸らさなかった。
怖くなかったわけではない。
本当は、今にも膝が震えそうだった。
心臓は痛いほど速く打ち、背中には冷たい汗が滲んでいた。
けれど、ここで目を伏せれば終わる。
この人たちは、優しさを見ない。
弱さしか見ない。
そして、弱さを見つけた瞬間、そこへ歯を立てる。
だから私は、笑った。
「本日はお引き取りください。後日、正式な監査の席でお話を伺います」
叔父は何か言いかけ、結局、何も言わずに背を向けた。
扉が乱暴に閉められる。
重い音が、応接間に残った。
静寂が落ちた。
私は、まだ笑っていた。
誰も動かない。
使用人たちは壁際で固まったまま、私を見ていた。
その目には、安堵よりも恐れがあった。
十歳の少女を見る目ではなかった。
得体の知れないものを見る目だった。
それでいい。
私は、心の中で呟いた。
怖がられる方がいい。
可哀想だと思われるより、ずっと安全だ。
「……皆、聞きなさい」
声を出すと、喉の奥が痛んだ。
「今日から、この屋敷の帳簿、契約書、倉庫、商会とのやり取りは、すべて私が確認します。不正が見つかれば、身内であろうと使用人であろうと許しません」
誰かが小さく頷いた。
「父様と母様が残したものを、誰にも奪わせません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
父様。
母様。
名前を思っただけで、仮面の下の私は泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
私は立ち上がり、応接間を出た。
廊下は長く、窓から差し込む夕方の光が床に伸びていた。磨かれた床には私の影が映っている。小さな体。細い肩。黒い喪服。
それなのに、その影は、私よりずっと大きく見えた。
歩くたび、靴音が廊下に響いた。
コツ。
コツ。
コツ。
その音は、私がもう子供ではいられないことを告げる鐘のようだった。
***
そこからの日々は、眠る暇もないほど忙しくなった。
朝は、まだ空が薄暗いうちに目を覚ました。
窓の外では、庭師が落ち葉を掃く音がしていた。竹ぼうきが石畳を擦る、しゃっ、しゃっ、という乾いた音。その向こうで、鳥が鳴き始める。
私はベッドから降り、冷たい床に足をつける。
父様がいない朝。
母様がいない食卓。
私のために用意された椅子だけが、やけに大きく見えた。
食事の味は、ほとんど分からなかった。
それでも、私はナイフとフォークを正しく持ち、背筋を伸ばして食べた。
母様が教えてくれた通りに。
ただし、笑わなかった。
午前は帳簿。
昼は商会の使者との話し合い。
午後は倉庫の確認。
夜は父様が残した書類の整理。
机の上に積まれた紙は、日が暮れても減らなかった。
ランプの火が揺れ、羽ペンの先が紙を擦る。インクの匂いが部屋に溜まり、窓の外では風が庭木を揺らしていた。葉がざわめく音は、時々、人の囁きに聞こえた。
――子供に何ができる。
――どうせすぐ潰れる。
――誰かの後ろ盾が必要だ。
そんな声が、聞こえる気がした。
私は、そのたびにペンを握る手に力を込めた。
できる。
やるしかない。
泣く時間があるなら、数字を見る。
寂しがる時間があるなら、契約を読む。
震える時間があるなら、相手の弱点を探す。
そうやって動いていれば、悲しみは少しだけ遠くなる。
遠くなるだけで、消えはしなかった。
***
数か月が過ぎる頃、屋敷の人間は私を見る目を変えた。
最初は、可哀想な子供を見る目だった。
次に、扱いづらい天才を見る目になった。
やがて、誰も私を子供として扱わなくなった。
「当主様」
使用人たちは、そう呼ぶようになった。
アリス様ではない。
アリスちゃんでもない。
当主様。
その言葉は、礼儀正しかった。
けれど、遠かった。
廊下ですれ違うと、使用人たちは深く頭を下げる。
私が近づくと、会話が止まる。
私が部屋に入ると、空気が張り詰める。
それは、私が望んだことのはずだった。
誰にも舐められない。
誰にも奪われない。
誰にも弱さを見せない。
そのために、私は仮面を作った。
けれど、仮面の中は、とても息苦しかった。
***
ある夜、私は一人で私室にいた。
外は嵐だった。
雨粒が窓ガラスを激しく叩き、時折、風が屋敷の壁にぶつかって低く唸った。庭の木々は暗闇の中で大きく揺れ、枝が窓を引っかくたび、かり、かり、と細い音がした。
机の上には、冷めた紅茶が置かれていた。
書類仕事は終わっていた。
明日の予定も確認した。
交渉相手の資料も読み込んだ。
もう、誰かに見られる心配はない。
私は椅子に深く腰かけ、ようやく息を吐いた。
鏡の中に映る私は、ひどい顔をしていた。
目の下には薄い影があり、唇には血の気がない。
十歳の少女の顔ではない。
疲れ切った大人の顔だった。
「……笑って」
私は鏡の中の自分に命じた。
口角を上げる。
目元を柔らかくする。
顎を少し引く。
母様が人前で見せていたような、優雅な微笑み。
鏡の中の私は、完璧に笑っていた。
それが、ひどく気持ち悪かった。
私は紅茶に手を伸ばした。
カップを持ち上げる。
その瞬間、右手の小指が、自然に少しだけ立った。
息が止まった。
――まあ、上手ね。
母様の声が、耳元で聞こえた気がした。
あのテラス。
光を受けて揺れる白いカーテン。
バラの香り。
紅茶の湯気。
母様が、私の小さな指を見て笑ってくれた日のこと。
カップが震えた。
ソーサーに触れ、かちゃりと音を立てる。
「……母様」
声にした瞬間、涙があふれた。
止まらなかった。
昼間はあれほど我慢できるのに、一人になると、心の奥に押し込めたものが一気に溢れてくる。
「会いたい……」
私はカップを置き、両手で顔を覆った。
「会いたいよ……父様、母様……」
嵐の音が部屋を包んでいた。
けれど、その中でも自分の泣き声だけははっきり聞こえた。
小さく、みっともなく、情けない声だった。
私は、引き出しを開けた。
奥にしまっていた小箱を取り出す。
中には、砕けた青い宝石の欠片と、くしゃくしゃになった手紙が入っていた。
私はそれを見つめた。
守れなかった証。
愛していた証。
失った証。
指先で青い欠片に触れると、冷たかった。
あの日、父様と母様の胸元で光り、そして消えた石。
私の自信。
私の願い。
私の失敗。
私は、それを握りしめた。
「ごめんなさい」
何度言っても、届かない。
どれだけ謝っても、二人は戻らない。
だから私は、謝る代わりに生き残ることを選んだ。
この家を守ることを選んだ。
二人が愛したものを、誰にも奪わせないことを選んだ。
けれど、それは本当に強さだったのだろうか。
ただ、立ち止まったら壊れてしまうから、走り続けているだけではないのか。
私は鏡を見た。
涙で濡れた顔。
しかし口元だけは、まだ笑う形を保っていた。
笑いながら泣く顔。
それは、人形の顔に似ていた。
「……私は、アリス・ローゼンバーグ」
私は鏡に向かって呟いた。
「ローゼンバーグ家の当主」
涙を拭う。
「誰にも奪わせない」
背筋を伸ばす。
「誰にも、私の中を見せない」
声は震えていた。
けれど、言葉にするたび、仮面は少しずつ硬くなっていった。
私は、その夜から毎日、鏡の前で笑顔の練習をした。
悲しくても笑う。
怖くても笑う。
怒りで手が震えても笑う。
相手に心を読ませない。
相手に弱みを見せない。
完璧な礼儀。
完璧な声。
完璧な微笑み。
完璧な令嬢。
それらは、私を飾るためのものではなかった。
私を守るための壁だった。
***
年を重ねるにつれ、私は少しずつ噂になっていった。
若くして家を立て直した才女。
冷静で隙のない当主。
誰にも心を許さない氷の令嬢。
出所の分からない魔道具を生み出す、得体の知れない少女。
人々は好き勝手に言った。
怖がり、持ち上げ、陰で囁き、表では笑顔を貼りつけた。
私は、それを遠くから眺めていた。
彼らの言葉は、舞台の上の台詞のようだった。
誰も本当の私を見ていない。
誰も、夜ごと砕けた青い石を握って泣く私を知らない。
誰も、紅茶を持つ小指だけが母様を探していることに気づかない。
なら、私も彼らを見なくていい。
そう思うようになった。
人ではなく、役割として見る。
感情ではなく、動きとして見る。
期待ではなく、結果だけを見る。
そうすれば傷つかない。
そうすれば、もう二度と、あの日の崖下へ戻らなくて済む。
けれど、部屋に一人になると、ときどき胸が苦しくなった。
誰かに、分かってほしかった。
私の本当の言葉を。
私がなぜ笑っているのかを。
私がなぜ冷たくするのかを。
この世界を作り物だと思わなければ立っていられないほど、私はまだ弱いのだということを。
でも、そんな誰かはいなかった。
いるはずがなかった。
私は、広い屋敷の一番奥で、誰にも読めない言葉を胸の中に抱えたまま、大人になっていった。
やがて、その孤独が限界に近づいた頃。
王都の片隅で、黒髪の青年の噂が流れ始める。
常識外れの力を持ち、見たこともない発想で周囲を振り回し、それでも誰かを助けるためなら迷わず泥の中へ飛び込む男。
その名を、瞬という。
まだ、この時の私は知らなかった。
その男が、いつか私の完璧な仮面を正面から壊し、私が必死に守ってきた嘘を、「そんなの間違ってる」と怒ってくれることを。
そして、母様の小指を真似して震えていた迷子の私に、もう一度、世界の温かさを思い出させてくれることを。




