第41話:バグだらけの幸せな日々~あるいは、ある社畜が「愛」という名の致命的なエラーを知るまで~
人生は、一度終わったはずだった。
最後に見たのは、夜のオフィスの青白い光だった。
誰もいないはずのフロアに、換気の弱い空調音だけが低く唸っていた。机の上には飲みかけの缶コーヒーがあり、紙コップの底には冷えきった苦みが残っている。画面の端では、未処理の数字が列を作り、終わらない仕事のように無言でこちらを見つめていた。
指先は冷たかった。
肩は石のように重く、目の奥は焼けるように痛んでいた。
もう少しだけ。
この一枚だけ終わらせたら。
そう思いながら、私は机に突っ伏した。
それが、前の私の最後だった。
次に目を開けた時、最初に見えたのは、見たこともないほど大きな天井だった。
白い天蓋。
薄い布を通して差し込む朝の光。
空気には、安い消毒液の匂いも、古いコピー機の熱い臭いもなかった。代わりに、乾いた花びらと、洗い立ての布と、かすかに甘いミルクの匂いがした。
「まあ……目を開けたわ」
柔らかな声が降ってきた。
視界の中に、金色の髪を揺らす女の人の顔が現れた。白い肌。薄く潤んだ瞳。まるで絵本から抜け出してきたような美しい人だった。
「あなた、見て。アリスがこっちを見ているわ」
「本当か。おお……私たちの小さな宝物」
次に覗き込んできた男の人は、信じられないくらい整った顔で、それなのに泣きそうなほど情けない笑い方をしていた。大きな手が、壊れ物に触れるみたいに私の頬へ伸びてくる。
私は言おうとした。
ここはどこですか。
私は死んだんじゃないんですか。
それに、あなたたちは誰ですか。
けれど、口から出たのは、か細い泣き声だけだった。
「あ……あぅ……」
小さな手が、空中で頼りなく揺れた。
その手を見た瞬間、私は理解した。
私は、赤ん坊になっていた。
ローゼンバーグ侯爵家の一人娘。
アリス・ローゼンバーグ。
それが、この世界での私の名前だった。
***
それからの日々は、あまりにも優しかった。
世界は、私が知っていたものとはまるで違っていた。
灰色のビルも、終電間際の駅の濁った空気も、誰かの苛立ちを詰め込んだような電話の着信音もない。代わりに、朝になれば窓辺に鳥が来て、午後には庭園のバラが風に揺れた。
ローゼンバーグ家の屋敷は、王都の外れの丘に建っていた。
白い壁は陽光を受けると淡く輝き、広い庭には季節ごとの花が咲いた。春には薄桃色の花びらが石畳に降り積もり、初夏にはバラの香りが窓の隙間から部屋の奥まで流れ込んだ。風が芝生の上を渡るたび、草の葉が波のように揺れ、そこに落ちた光が細かな銀色の粒になって跳ねた。
私は、その景色を見るのが好きだった。
前の人生では、空を見上げる余裕すらなかった。
けれど、この世界では違う。
朝の光はちゃんと温かく、夜の闇はちゃんと静かだった。
「アリス、今日も庭に行こうか」
父様は、よくそう言って私を抱き上げた。
大きな腕。少しだけ香る煙草と革の匂い。書斎で使うインクの匂い。父様に抱かれていると、世界のどこからも落ちないような気がした。
「あなた、またアリスを甘やかして」
母様はそう言いながら、いつも笑っていた。
紅茶を飲む時、母様は右手の小指をほんの少しだけ立てる癖があった。完璧な作法というより、柔らかい祈りのような仕草だった。私は幼い指でそれを真似した。
「まあ、上手ね」
母様が笑って、私の頭を撫でる。
その手は、いつも温かかった。
***
私は、普通の子供ではなかった。
前の人生の記憶がある。
数字を読むことも、帳簿を見ることも、商売の流れを考えることもできた。
初めは、それを隠そうとした。けれど、ローゼンバーグ家は思ったよりも危なっかしい家だった。
父様は優しすぎた。
領民が困っていると税を軽くし、商人に泣きつかれると支払いを待ってあげた。
母様もまた、困った人を見捨てられない人だった。
屋敷の倉庫には、必要以上に配られた食料の記録が残り、金庫の中身は少しずつ細っていた。
だから私は、少しだけ手を出した。
「父様、この帳簿、こっちの書き方にした方が見やすいと思うの」
最初は、ただの子供の遊びだと思われた。
けれど、数字の流れを整え、無駄な支出を削り、農地の使い方を変える提案をすると、領地の収支は目に見えて改善していった。
「アリス……お前は本当にすごいな」
父様は驚きながらも、私を怖がらなかった。
気味悪がりもしなかった。
ただ、誇らしそうに笑った。
「私たちの娘は、きっと天から知恵を授かったんだ」
母様はそう言って、私を抱きしめた。
その言葉に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
前の人生で、私は誰かに必要とされた記憶がほとんどない。
代わりはいくらでもいる。
そういう場所で、歯車の一つとして使われ、摩耗して、壊れて、終わった。
けれど、ここでは違った。
私が考えたことで、父様が笑う。
母様が喜ぶ。
領民たちの暮らしが少しだけ楽になる。
私の存在が、誰かの明日に届いている。
それが、たまらなく嬉しかった。
この世界は、ひどい場所じゃない。
少なくとも、私にとっては。
そう思えるほどに、私はこの家を愛し始めていた。
***
十歳の誕生日が近づいた頃、私は一つの贈り物を作っていた。
屋敷の東棟にある小さな作業部屋。
窓の外には蔦が絡み、午後になると斜めの光が机の上に長く伸びる。細かな埃がその光を受け、金粉のように宙を漂っていた。棚には魔石や金属片、細い銀線、工具が並んでいる。小さな歯車を置くたび、机の上でかすかな音がした。
私の手元には、二つのブローチがあった。
銀の台座。
中央には、私の瞳と同じ色の青い宝石。
光を受けると、深い湖の底に沈めた星のように瞬いた。
これは、ただの飾りではない。
危険を感じ取ると、持ち主の周囲に守りの膜を張る魔道具だった。
父様と母様を守るためのもの。
私は、何度も確認した。
魔力の流れ。石の反応。銀線の接続。衝撃を受けた時の動き。
小さな不具合さえ許さないつもりで、何度も何度も試した。
なぜ、そこまでしたのか。
怖かったのだと思う。
この幸せが、あまりにも大切になりすぎていた。
父様が笑う声。母様の小指。朝の庭。紅茶の香り。私の名前を呼んでくれる二人の声。
それらを失うことを、想像しただけで息が詰まった。
だから守りたかった。
私の力で。
私の知識で。
私の手で。
「これで大丈夫」
完成した二つのブローチを見下ろし、私は小さく息を吐いた。
窓の外では、風がバラの葉を揺らしていた。乾いた葉擦れの音が、作業部屋の静けさに淡く混じる。夕陽は赤く、机の端に置かれた青い宝石を、ほんの一瞬だけ紫色に変えた。
その色が、なぜか少しだけ不吉に見えた。
けれど私は、すぐに首を振った。
大丈夫。
何度も試した。
間違いなんてない。
これで、父様も母様も守れる。
そう信じたかった。
信じるしかなかった。
***
誕生日当日、空は高く澄んでいた。
秋の入口だった。
街道沿いの木々は金色に染まり、風が吹くたびに葉が一枚、また一枚と馬車の窓を横切っていく。車輪が小石を踏む音は軽やかで、馬の蹄が乾いた道を叩くたび、規則正しい響きが車内に伝わった。
馬車の中には、父様と母様と私がいた。
「今日は王都で一番大きな菓子店に行こう」
父様が得意げに言った。
「あなた、アリスより楽しみにしていませんか?」
母様がくすりと笑う。
その笑い声が、陽だまりみたいに車内を満たした。
私は鞄の中の小箱をそっと握った。
「父様、母様。私からも贈り物があるの」
二人は驚いた顔をした。
私が箱を開けると、青い宝石のブローチが光を受けてきらりと瞬いた。
「まあ……きれい」
「アリスが作ったのか?」
「うん。二人を守ってくれるお守り。ずっと身につけていてほしいの」
父様は言葉を失ったように、そっとブローチを手に取った。
母様は目元を押さえながら微笑んだ。
「ありがとう、アリス」
母様は、自分のショールにブローチを留めた。
父様も胸元につけてくれた。
二つの青い石が、二人の胸で同じように輝いていた。
私は満たされていた。
これで、もう大丈夫だと思った。
私の大切な人たちは、私の作った光に守られている。
この馬車は王都へ着き、三人で笑って、甘いお菓子を食べて、夕方にはまたこの道を帰る。
そんな当たり前の未来が、目の前にあると信じていた。
その時だった。
ガタン、と馬車が大きく跳ねた。
最初は、ただ石に乗り上げたのだと思った。
けれど次の瞬間、馬が甲高くいななき、御者の悲鳴が空気を裂いた。車体が傾く。母様の手が私の肩を掴む。父様が何かを叫ぶ。窓の外の金色の景色が、ぐるりと回った。
世界が、横倒しになった。
車輪が外れる音がした。
乾いた木が裂けるような、耳の奥を直接引っかく音だった。
馬車の床が足元から消え、体がふわりと浮いた。母様の腕が私を抱きしめる。父様の大きな手が、私と母様ごと包み込む。
「アリス!」
父様の声が聞こえた。
それが、父様の最後の声だった。
窓の外で、空と森と崖の岩肌が何度も入れ替わった。青、金、茶、黒。色が混ざり、形が崩れ、世界が細かく砕けていく。
私は息を止めた。
大丈夫。
ブローチがある。
衝撃を感知すれば、守りの膜が開く。
父様も母様も、助かる。
私は必死に二人の胸元を見た。
青い宝石が、光った。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、確かに光った。
けれど、その輝きは広がらなかった。
小さな火花のように瞬き、次の瞬間、ぷつりと消えた。
何かが、切れた。
音はなかったはずなのに、私には聞こえた。
細い糸が断ち切られるような音。
約束が破れる音。
未来が閉じる音。
どうして。
その言葉が胸の奥で生まれた瞬間、馬車は崖下の岩場へ叩きつけられた。
轟音が、全身を貫いた。
木材が砕ける音。鉄が歪む音。馬の悲鳴。誰かの息が潰れる音。
痛みは、少し遅れてやってきた。
背中が焼けるように痛み、頬に何か硬いものが擦れ、口の中に鉄の味が広がった。
意識が暗く沈んだ。
***
目を開けると、空が見えた。
高い、高い秋の空だった。
何も知らないみたいに澄んでいて、雲一つなかった。
風が、木々の葉を揺らしていた。黄金色の葉が、ひらひらと落ちてくる。光を透かした葉脈が、薄い血管のように見えた。
私は、地面に横たわっていた。
体のあちこちが痛い。
左腕がうまく動かない。
額から流れた血が片目に入り、世界の半分が赤く滲んでいた。
「……父様」
声は、ひどく小さかった。
「……母様」
返事はなかった。
私は、震える体を起こした。
草の匂いがした。土の匂いがした。どこかで水が滴る音がしていた。ぽた、ぽた、と、やけに規則正しく響いている。
数歩先に、馬車だったものがあった。
白く塗られていたはずの車体は折れ、車輪は外れ、扉は歪み、座席の布は裂けていた。木片が散らばり、その隙間から赤いものが流れていた。
私は這った。
歩けなかった。
足に力が入らなかった。
それでも、爪で土を掻き、膝を石にぶつけながら前へ進んだ。
「父様……母様……」
馬車の残骸の下から、父様の手が見えた。
大きな手だった。
いつも私を抱き上げてくれた手。
書類にサインする時、少しだけ力が入りすぎて、ペン先を折ってしまう手。
私の頭を撫でる時だけ、信じられないほど優しくなる手。
その手は、動かなかった。
私は木片をどけようとした。
重かった。
どれだけ押しても、びくともしなかった。
「起きてよ……」
声が震えた。
「ねえ、起きて。父様、母様、聞こえるでしょ。私、ここにいるよ」
返事はなかった。
母様の金色の髪が、割れた窓枠の下に見えた。
泥と血で汚れていても、私はすぐに分かった。あの髪を、私は毎朝見ていた。光に透けると、蜂蜜みたいな色になる髪だった。
母様の右手が、瓦礫の外へ落ちていた。
私は、その手に触れた。
まだ、ほんの少しだけ温かかった。
けれど、指先はもう冷え始めていた。
そして、母様の小指は、いつものように立っていなかった。
だらりと力を失い、泥に触れていた。
「あ……」
私は、その小指を持ち上げようとした。
けれど、指は重かった。人の指が、こんなに重いものだとは知らなかった。
「母様……」
涙が出なかった。
先に出たのは、息だった。
喉の奥がひゅっと鳴り、胸が内側から潰れる。
声にならない何かが腹の底からせり上がってきた。
父様の胸元には、青いブローチがあった。
割れていた。
母様のショールにも、砕けた青い石が引っかかっていた。
私が作ったもの。
私が、二人を守るはずだったもの。
ずっと一緒にいるために、何度も確かめ、何度も願いを込めたもの。
それは、何の役にも立たなかった。
「……なんで」
小さな声が漏れた。
「なんで、動かなかったの」
答える者はいない。
風が吹いた。
黄金色の葉が、馬車の残骸の上へ降った。父様の手の上にも、母様の髪の上にも、私の膝の上にも、静かに降り積もっていく。
世界は、美しかった。
こんなにも残酷な瞬間でさえ、空は青く、光は眩しく、葉はきれいだった。
そのことが、許せなかった。
「う、あ……」
喉が裂けた。
「うああああああああああああああああああッ!」
叫び声は、森に吸い込まれていった。
鳥が一斉に飛び立つ羽音が聞こえた。遠くで枝が揺れ、葉が乾いた音を立てる。
けれど、父様も母様も目を開けなかった。
私は、母様の冷え始めた小指に、自分の小指を絡めた。
幼い約束みたいに。
もう二度と果たされない約束みたいに。
「ごめんなさい」
ようやく涙が落ちた。
「私が……守るなんて言ったから」
私が作らなければ。
私が安心しなければ。
私が、大丈夫だなんて思わなければ。
違う道を通ったかもしれない。
別の日に出かけたかもしれない。
もっと強い魔道具を作れたかもしれない。
そもそも、幸せが続くなんて思わなければ、こんなに壊れなかったかもしれない。
思考が、同じ場所を何度も回った。
答えは出ない。
ただ一つだけ、胸の奥に黒い結論が沈んでいった。
守ろうとしたものほど、壊れる。
愛したものほど、失った時に自分を殺しに来る。
なら、愛さなければいい。
期待しなければいい。
最初から、これは作り物だと思えばいい。
父様の死も、母様の死も、私の涙も、すべて決められた出来事。
そう思わなければ、私はこの場で息をすることさえできなかった。
私は、空を見上げた。
青すぎる空。
きれいすぎる世界。
私からすべてを奪っておきながら、何事もなかったように輝く世界。
「……分かったわ」
声は、涙で掠れていた。
「もう、誰も信じない」
風が吹いた。
母様の小指から、私の小指がほどけた。
「もう、誰も愛さない」
青い石の欠片を拾い上げる。
鋭い割れ目が指先を切り、血が滲んだ。
それでも私は握りしめた。
「もう、何も期待しない」
その瞬間、私の中で、何かが静かに死んだ。
父様に抱き上げられて笑っていた少女。
母様の小指を真似して紅茶を飲んでいた少女。
この世界を本当に好きになりかけていた少女。
その子は、崖下の冷たい風の中に置き去りにされた。
代わりに立ち上がったのは、傷つかないために世界を見下ろすことを選んだ、孤独な誰かだった。
私は、折れた馬車のそばで泣き続けた。
陽が傾き、森の影が長く伸び、黄金色だった葉が黒い影に沈んでいくまで。
助けが来たのは、夕暮れの少し前だった。
使用人たちの叫び声。
衛兵の足音。
誰かが私を抱き上げる腕。
遠くで、父様と母様の名を呼ぶ声。
私は、そのどれにも答えなかった。
ただ、砕けた青い石を握りしめていた。
***
屋敷に戻ってから、私はしばらく声を出さなかった。
誰かが泣いていた。
誰かが「おかわいそうに」と言った。
誰かが、これからのローゼンバーグ家について話していた。
そのすべてが、厚いガラスの向こうの出来事のように遠かった。
夜、自室のベッドに横たわると、天蓋の白い布が揺れていた。
あの日、赤ん坊として目覚めた時に見たものと同じ天井だった。
けれど、もう天国には見えなかった。
この部屋は、檻だった。
私は、枕の下から小さな紙片を取り出した。
誕生日の日、父様と母様に渡すつもりだった手紙だ。
『父様、母様、大好き。ずっと一緒にいてね』
たったそれだけの幼い文字。
私はそれを読んだ瞬間、喉の奥が焼けるように痛くなった。
大好き。
ずっと一緒。
そんな言葉は、あまりにも無力だった。
私は手紙をくしゃくしゃに握り潰した。
それでも捨てられなかった。
捨ててしまったら、本当に二人との最後のつながりまで消えてしまう気がした。
だから、引き出しの奥に隠した。
砕けた青い石と一緒に。
それから私は、少しずつ自分を作り替えた。
泣かない顔。
震えない声。
誰にも隙を見せない微笑み。
相手の言葉の裏を読む目。
優しさに期待しない心。
世界は、もう色を失っていた。
花の香りも、紅茶の温かさも、風に揺れる草の音も、どこか遠い。
そこに意味を見つければ、また失った時に壊れてしまう。
だから私は、意味を消した。
人は人ではない。
ただの役割。
ただの配置。
ただの動く影。
そう思い込めば、誰かが死んでも苦しくない。
誰かが泣いても胸が痛まない。
誰かが助けを求めても、冷静に処理できる。
そうしなければ、生きていけなかった。
けれど、夜になると、母様の小指を思い出した。
紅茶のカップを持つたび、私の右手の小指は勝手に立った。
それに気づくたび、私は唇を噛んだ。
まだ、捨てきれていない。
まだ、私はあの手に縋っている。
その事実が悔しくて、悲しくて、どうしようもなく寂しかった。
私は窓の外を見た。
王都の灯りが、遠くで小さく滲んでいる。
そのどこかに、もしかしたら私と同じように、この世界で迷子になった誰かがいるかもしれない。
私の本当の言葉を読める誰か。
この息苦しさを分かってくれる誰か。
「ここにいるよ」と返してくれる誰か。
けれど、そんな都合のいい奇跡を期待してはいけない。
期待は、いつも壊れる。
だから私は、窓を閉めた。
夜風が途切れ、部屋は静かになった。
静かすぎて、自分の心臓の音だけが聞こえた。
その音に合わせるように、私は小さく呟いた。
「これは、ただの作り物」
涙が一粒、頬を伝った。
「私は、ひとりでいい」
その嘘を、何度も何度も、自分に言い聞かせた。
いつか、黒髪の青年が現れて、その嘘を正面から壊してくれる日まで。




