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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第40話:ハッピーエンドの書き換え方 〜損は得である〜

「……最初は、ただの熱だと思ったんだ」


 キースの声は、雨に濡れていた。


 怒鳴る声ではなかった。


 誰かを責める声でもなかった。


 胸の奥に沈めていた不安を、泥水の中から両手で掬い上げるような声だった。


「夜になると熱が上がった。汗をかいて、息が苦しそうで……でも、朝になると少しだけ笑うんだ。だから、治ると思った」


 アンナが、メイに支えられながら頷く。


 彼女の頬には、雨と涙が混ざって流れていた。どちらが雨で、どちらが涙なのか、もう分からない。


「ミーシャは、いつも笑うの。自分が一番苦しいのに、『みんな、怖い顔しないで』って言うの。全然大丈夫じゃないのに……」


 雨は、先ほどより少しだけ弱まっていた。


 空の奥では、まだ雷が低く唸っている。けれど、庭園を叩き潰すようだった激しさは、わずかに遠のいている。濡れた薔薇の葉から、雫がぽたり、ぽたりと落ちる。その音が、少しずつ戻ってきた静けさの中に響いた。


 エリーゼは、濡れたローブの裾を気にすることもなく、キースたちの前にしゃがみ込んだ。


 その瞳は冷静だった。


 慰めを先に置かない。


 希望を軽々しく渡さない。


 けれど、聞くべきことを聞き逃さない目だった。


「熱以外の症状は?」


「赤い痣だ」


 キースは、自分の腕に指を当てた。


「最初は手首のあたりに、小さな蜘蛛の巣みたいなのが出た。それが少しずつ広がって……今は、首の近くまで来てる」


「呼吸は?」


「夜がひどい。ひゅう、ひゅうって……細い笛みたいな音がする」


「発作は?」


 ティックが壁にもたれたまま、掠れた声で答えた。


「ある。急に胸を押さえて丸くなる。痛いって言う。でも、俺たちが慌てると、笑おうとするんだよ。笑えてねぇのに」


 その最後の言葉は、喉の奥で潰れた。


 ボルグが拳を握る。


 大きな手だった。


 何度も盗み、戦い、誰かを殴ってきた手。


 けれど今、その手は何も壊せないものの前で震えていた。


「医者には、助からねぇって言われた。汚れた水と空気のせいだって。そんな場所に住んでる俺たちが悪いみたいに言いやがった」


 エリーゼは、ひとつも聞き流さなかった。


 雨音の中、彼らの言葉を一つずつ拾い、頭の中で並べ替えていく。


 瞬は黙っていた。


 メイも、ゼイクも、アリスも。


 誰も口を挟まなかった。


 ここで語られているのは、情報ではなかった。


 ミーシャという一人の少女の、途切れかけた命の輪郭だった。


「……なるほど」


 やがて、エリーゼが静かに息を吐いた。


「深紅の熱病に近いわね。ただ、普通の進行より早い。おそらく劣悪な環境で体力が落ちたところに、魔力を帯びた毒素が入り込んでいる」


 キースが顔を上げた。


 そこに浮かんでいるのは、怒りではなかった。


 すがりつきたいのに、また裏切られるのが怖い。


 そんな目だった。


「治るのか」


 声が震えていた。


 エリーゼはすぐには答えなかった。


 濡れた髪を耳へかけ、慎重に言葉を選ぶ。


「簡単ではないわ」


 アンナの顔が強張った。


 けれど、エリーゼは続けた。


「でも、不可能とは言わない」


 その瞬間、黒猫たちの呼吸が止まった。


 ほんの小さな光だった。


 頼りなく、風が吹けば消えてしまいそうな光。


 けれど、完全な闇の中にいた彼らには、それでも眩しすぎるほどだった。


 キースは、奥歯を噛みしめた。


 そして、泥の中に両手をついた。


 ボルグが息を呑む。


 ティックが顔を上げる。


 アンナが、震える唇を押さえた。


 キースは、額が泥水につくほど深く頭を下げた。


「……助かる可能性があるなら」


 声は、絞り出すようだった。


「俺たちは何でもする」


 雨音の中で、その言葉だけがはっきり響いた。


「罰を受けろって言うなら受ける。捕まれって言うなら捕まる。金が必要なら、俺たちが持ってるものは全部出す。命がいるなら、俺のを使ってくれていい」


「キース……!」


 アンナが泣きそうな声を上げた。


 けれどキースは、頭を上げなかった。


「お願いします」


 泥に額を近づけたまま、彼は言った。


「ミーシャを助けてください。俺たちのことは、後でどうにでもしてください。だから今だけは……あの子を助けることを優先させてください」


 アンナも、震える手を地面についた。


「お願いします……。ミーシャを、助けてください……」


 ボルグも、ティックも続いた。


 四人が、泥の中で頭を下げている。


 さっきまで武器を握っていた手で。


 さっきまで誇りを支えていた膝で。


 今は、ただ一人の少女の命のために、すべてを差し出す姿勢で。


 アリスは、その光景を見て言葉を失った。


 責められるより痛かった。


 罵られるより苦しかった。


 彼らは、怒りを飲み込んでいる。


 疑いも、憎しみも、悔しさも、全部飲み込んでいる。


 許したからではない。


 信じたからでもない。


 ただ、ミーシャを助けたいから。


 その一点だけで、泥の中に額をつけている。


 アリスは胸元を握りしめた。


 濡れたドレスの布が、冷たく指にまとわりつく。


「……頭を上げて」


 声が震えた。


 キースは動かない。


「助けてくれるなら、何でもします」


「お願いだから……そんなふうにしないで」


 アリスの声が、さらに震えた。


 けれどキースは、やはり頭を上げなかった。


 それは弱さではなかった。


 守りたいもののためなら、自分の誇りさえ泥に沈める覚悟だった。


 アリスは、初めて理解した。


 自分が“障害物”と呼んだ者たちは、誰よりも必死に、誰かを愛している人間だったのだと。


「……分かった」


 アリスは、ゆっくりと息を吸った。


 雨の冷たさが、胸の奥まで入ってくる。


 逃げたい。


 怖い。


 助けられなかったらどうする。


 また、希望を見せてから奪うことになったらどうする。


 そんな声が、心の底からいくつも湧き上がる。


 けれど、彼女はそれを飲み込んだ。


 今、飲み込むべきなのは、彼らではない。


 自分の恐怖だ。


「エリーゼさん」


 アリスは顔を上げた。


「必要なものを教えて」


 エリーゼは、静かにアリスを見た。


「月光草」


「月光草……」


「あなたが、ただの観賞用だと言っていた光る草よ。単体では万能薬にならない。でも適切に処理すれば、魔力性の熱を逃がす触媒になる」


 アリスの瞳が揺れた。


 自分が価値のない飾りだと切り捨てたもの。


 黒猫たちが命懸けで求めたもの。


 それが、形を変えれば本当に救いの一部になるかもしれない。


 皮肉だった。


 残酷なほどに。


「他には?」


「清浄水。できれば魔力を通して濾過したもの。貴族の温室なら、植物用に保存しているはず。あとは、ユニコーンの角の粉末か、それに近い純化素材」


 アリスは即座に背後の従者へ振り返った。


「温室を開けて」


 従者が目を見開く。


「お、お嬢様。しかし、温室の素材は非常に高価なものも――」


「全部開けて」


 アリスの声が鋭くなった。


 それは、冷たい命令ではなかった。


 迷いを断ち切る声だった。


「月光草、清浄水、純化素材。該当するものは箱ごと運びなさい。必要かどうかはエリーゼさんに判断してもらうわ」


「し、しかし……」


「今すぐ」


 従者は深く頭を下げ、屋敷の奥へ駆け出した。


 アリスは次に、別の使用人へ向く。


「作業室を用意して。温室横の調合作業室を使うわ。清潔な布、消毒用の酒精、魔道灯、小型加熱炉、薬研、硝子器具。私の研究室にあるものも全部持ってきて」


「かしこまりました!」


 使用人たちが、一斉に動き出した。


 さっきまで侵入者を捕らえるために張り詰めていた屋敷が、別の目的で息を吹き返す。廊下に靴音が響き、扉が開き、ランプの火が揺れる。


 キースは、泥の中で頭を下げたまま動けずにいた。


「……本当に」


 彼の声は掠れていた。


「本当に、助けようとしてくれるのか」


 アリスは、キースの前に膝をついた。


 深紅のドレスが、泥水に触れる。


 使用人たちが息を呑んだ。


 けれど、アリスは構わなかった。


 彼女はキースと同じ高さで、静かに言った。


「助けられると、軽々しく約束はできない」


 キースの肩が揺れる。


「でも、何もしないまま終わらせることはしない」


 アリスは、泥の中に置かれたキースの手を見た。


 血が滲んでいる。


 爪の間には泥が入り、指は冷え切っていた。


「あなたたちが信じられないのは当然だわ。私を許せないのも当然よ。だから、信じなくていい。許さなくていい」


 彼女は言葉を切った。


「ただ、見ていて。私が逃げるかどうか。もう一度、あなたたちを切り捨てるかどうか」


 キースは、ゆっくりと顔を上げた。


 雨と泥に濡れた顔。


 疑いも、怒りも、まだ残っている。


 けれど、その奥で、ほんの小さな希望が震えていた。


「……お願いします」


 キースは、もう一度頭を下げた。


「ミーシャを、助けてください」


 アリスは目を閉じた。


 その言葉を、逃げずに受け止めるために。


「全力を尽くします」


 エリーゼが、少しだけ口元を緩めた。


「いい覚悟ね。では、その覚悟が本物かどうか、働きで示してもらうわ」


 アリスは立ち上がった。


「何をすればいい?」


「まず、その格好では邪魔よ」


「え?」


「髪をまとめなさい。袖も邪魔。ドレスの裾も重すぎる。切っていいかしら?」


 アリスは、自分のドレスを見下ろした。


 王都の職人が仕立てた、深紅のベルベット。


 高価な刺繍。


 完璧な令嬢として立つための装い。


 それは、彼女を守る鎧でもあった。


 アリスは一度だけ、その裾を握った。


 濡れた布は重く、指にまとわりついた。


「切って」


 エリーゼの目が細くなる。


「本当に?」


「必要なんでしょう?」


「ええ。とても邪魔」


「なら、切って」


 エリーゼが杖を軽く振った。


 細い風の刃が走り、アリスのドレスの裾を膝下あたりで綺麗に切り落とした。濡れて重くなった布が、ばさりと泥の上に落ちる。


 使用人たちが息を呑む。


 アリスは、泥に落ちた布を見た。


 かつてなら、許せなかった。


 自分を美しく、強く、完璧に見せるための鎧を、自分から切り落とすなど。


 けれど今、足元が少し軽くなった。


 泥の上に立っている感覚が、はっきりした。


「……動きやすいわね」


 アリスが呟く。


 瞬が小さく笑った。


「似合ってるぞ。泥だらけだけど」


「褒め方が下手すぎるわ」


 アリスは睨もうとした。


 けれど、その表情は完全には作れなかった。


 雨に濡れた頬に、ほんのわずかだけ苦笑が浮かぶ。


 その時、温室の方から使用人たちが戻ってきた。


 木箱がいくつも運ばれてくる。


 湿った土の匂い。


 薬草の青い匂い。


 硝子瓶の中で揺れる透明な水。


 銀色に光る小瓶。


 雨の匂いに混ざり、庭園の空気が少しずつ変わっていく。


 絶望の匂いだけではなくなった。


 何かを始めるための、慌ただしい匂いが加わっていた。


 エリーゼは木箱の中身を手早く確認した。


「月光草。状態はいいわ。清浄水も十分。純化素材は……これなら代用可能ね」


 アンナが震える声で聞いた。


「助かる……?」


 エリーゼは、アンナを見た。


 その目は厳しいままだった。


「まだ分からない」


 アンナの顔が曇る。


 だが、エリーゼは続けた。


「でも、試す価値はある」


 その言葉に、アンナは両手で口を覆い、泣きながら頷いた。


 キースは泥の中から立ち上がろうとした。


 足元がふらつき、瞬が咄嗟に支える。


「無理すんな」


「……ミーシャのところへ行く」


 キースは低く言った。


「場所を案内する。あいつのところへ、すぐに」


 アリスが頷いた。


「小型の魔動車を出すわ。普通の馬車ではスラムの奥まで入れないでしょう?」


 ティックが驚いたように顔を上げる。


「……分かるのか」


「情報としては知っている」


 アリスは、少しだけ目を伏せた。


「でも、知っていただけだった」


 その言葉に、ティックは何も返さなかった。


 アリスは使用人へ指示を飛ばす。


「小型魔動車を二台。片方は寝台を積めるように荷台を空けて。清潔な毛布と湯、保温用の魔道具も。急いで」


「はい!」


 屋敷がさらに慌ただしく動き出す。


 ゼイクは衛兵たちへ向き直り、低い声で説明を始めた。


「現時点をもって、侵入者の即時拘束は保留する。状況は私とローゼンバーグ嬢が管理する」


「しかし、ゼイク様――」


「命がかかっている。異論がある者は、私の名において後で聞く」


 その声に、衛兵たちは口を閉ざした。


 メイはアンナのそばへしゃがみ込む。


「立てる?」


 アンナは泣きながら頷いた。


 メイが手を差し出す。


 アンナはためらった。


 けれど、やがてその手を取った。


 小さな手と小さな手が、雨の中で繋がる。


 瞬は、その光景を見てから、空を見上げた。


 雨はまだ降っている。


 夜はまだ深い。


 ミーシャが助かる保証など、どこにもない。


 アリスが許されたわけでもない。


 黒猫たちの罪が消えたわけでもない。


 けれど、何かが変わった。


 見下ろす者と、見下ろされる者。


 守る側と、侵入する側。


 正しい者と、間違えた者。


 その線が、雨に濡れて滲み始めていた。


「行こう」


 瞬が言った。


 キースが頷く。


 アンナはメイの手を握りしめたまま立ち上がる。


 エリーゼは素材の箱を確認しながら、必要な道具を追加で指示している。


 アリスは、切られたドレスの裾を一度だけ見下ろした。


 そして、顔を上げる。


 その目には、まだ恐怖があった。


 迷いもあった。


 けれど、もう何も見ないための冷たい膜はなかった。


「ミーシャを助けに行くわ」


 アリスは言った。


 声は震えていた。


 それでも、まっすぐだった。


 瞬は頷いた。


「それでいい」


 雨上がりにはまだ遠い。


 夜明けにもまだ早い。


 けれど、泥だらけの庭園を、彼らは同じ方向へ歩き出した。


 誰かが決めた役割ではなく。


 誰かが書いた筋書きでもなく。


 今ここで、自分たちの足で選んだ道を。


 小型魔動車は、夜の王都を切り裂くように走った。


 雨は弱まっていたが、石畳にはまだ水が溜まり、車輪が通るたびに泥水が左右へ跳ねる。街灯の光は濡れた路面に滲み、揺れる金色の帯となって流れていった。


 先頭の車には、キースと瞬、アリス、エリーゼが乗っていた。


 荷台には、木箱いっぱいの薬草と硝子瓶、清浄水、魔道具、毛布、湯を入れた容器が詰め込まれている。揺れるたびに瓶同士が触れ、カチャ、カチャ、と不安げな音を立てた。


 キースは窓の外を睨んでいた。


 道を案内するためだ。


 だが、その横顔は硬い。


 怒りではない。焦りだった。


「次を左だ」


 短く告げる。


 アリスは運転手へ即座に伝える。


「左へ。速度は落とさないで」


「かしこまりました!」


 魔動車が濡れた角を曲がる。


 車体が大きく揺れ、木箱が軋んだ。


 エリーゼは箱を片手で押さえ、反対の手で薬草を確認している。


「月光草は傷ませないで。葉先が潰れると効きが落ちるわ」


「分かってる」


 アリスが答えた。


 その声には、もう令嬢らしい飾りはなかった。


 短く、必死で、余計なものがない。


 瞬はその横顔を見た。


 雨に濡れた髪を後ろで乱雑にまとめ、泥の跳ねたドレスの裾を気にする余裕もない。さっきまで“完璧”を纏っていた少女は、今はただ、間に合えと祈るように前を見ていた。


 その姿を、キースもちらりと見た。


 信じてはいない。


 許してもいない。


 けれど今は、疑って足を止める時間すら惜しい。


 それが、彼の沈黙から伝わってきた。


「……着くぞ」


 キースが言った。


 魔動車は貴族街を抜け、下町を越え、やがて道幅の狭いスラムの入り口へ入った。


 空気が変わる。


 雨に濡れた土の匂いに、腐った木材、湿った布、古い煙、排水の臭いが混じる。狭い路地の両側には、今にも崩れそうな小屋が並び、破れた布が雨を吸って重く垂れていた。風が吹くたび、どこかの壁板がぎい、と軋む。


 アリスは言葉を失った。


 情報として知っていた。


 地図でも見た。


 報告書でも読んだ。


 だが、そこにある匂い、湿り気、息苦しさは、紙の上にはなかった。


「ここで育ったのか」


 アリスの声は、かすれていた。


 キースは答えない。


 ただ、前を指した。


「あそこだ」


 粗末な建物だった。


 元は倉庫だったのだろう。歪んだ木の扉に、布と板が何重にも打ちつけられている。屋根の隙間から雨が入り込み、入口の前には濁った水たまりができていた。


 魔動車が止まる。


 キースが飛び降りた。


「ミーシャ!」


 扉を押し開ける。


 中から、湿った空気と、薄い薬草の匂いと、熱を帯びた息苦しい匂いが流れ出した。


 アンナが後続の車から駆け寄る。


 メイもその後を追う。


 アリスは一瞬、足を止めた。


 薄暗い部屋の奥。


 粗末な寝台の上に、小さな少女が横たわっていた。


 亜麻色の髪が汗で額に張りつき、頬は不自然に赤い。細い胸が、浅く、苦しげに上下している。首元には、赤い蜘蛛の巣のような痣が広がっていた。


 その小ささに、アリスは息を呑んだ。


 この子のために。


 この子ひとりのために、キースたちは泥の中で頭を下げた。


 命を捨てる覚悟までした。


 その重さが、今さら胸にのしかかってきた。


「ミーシャ!」


 キースが寝台の横へ膝をつく。


 ミーシャの目が、うっすらと開いた。


「……キース……お兄ちゃん……?」


「ああ、俺だ。戻った。ちゃんと戻ったぞ」


 キースは震える手で、ミーシャの手を握った。


 熱い。


 小さな手が、火を抱いているように熱かった。


「ごめんね……」


 ミーシャが、かすれた声で言った。


「また……迷惑……かけて……」


「迷惑じゃねぇ!」


 キースの声が潰れた。


「一回も迷惑なんかじゃねぇ!」


 アンナが泣きながら寝台の反対側に座る。


 ボルグは入口で立ち尽くし、ティックは拳を口元に当てて震えていた。


 エリーゼが素早く前に出た。


「どいて。見せて」


 キースは反射的に身を引いた。


 アリスも木箱を抱え、部屋へ入る。


 床は湿っていた。靴底がじゅ、と嫌な音を立てる。天井からは雫が落ち、器に溜められた雨水が、ぽた、ぽた、と音を鳴らしていた。


 エリーゼはミーシャの額に手を当て、瞼を開き、首元の痣を見た。


 表情が険しくなる。


「進行しているわね」


 アンナの肩が震える。


「でも、まだ間に合う可能性はある」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 完全な安堵ではない。


 だが、絶望だけではなくなった。


「アリス、月光草を三束。清浄水を温めて。沸騰はさせないで。メイ、清潔な布を。ゼイク、入口を塞がないで、でも外から人が入らないようにして」


「分かった」


「はい!」


「承知した」


 全員が動いた。


 アリスは木箱を開け、月光草を取り出した。


 薄青く光る葉が、暗い部屋の中で淡い光を放つ。雨に濡れた世界の中で、それは小さな月の欠片のようだった。


 彼女の手が震える。


 落としてはいけない。


 傷つけてはいけない。


 この葉一枚一枚に、ミーシャの命がかかっているかもしれない。


 そう思うと、指先が強張った。


「アリス」


 瞬の声がした。


 彼はすぐ横にいた。


「大丈夫。ゆっくりでいい」


「ゆっくりしている時間なんて……」


「焦って落とす方がまずい」


 アリスは息を吸った。


 雨の匂いではなく、薬草の青い匂いが胸に入る。


「……そうね」


 彼女は葉を丁寧に揃え、エリーゼへ渡した。


 エリーゼは薬草を薬研に入れ、清浄水を加え、細かくすり潰していく。月光草の青い光が水に溶け、硝子器の中で淡く揺れた。


 部屋の中に、静かな緊張が満ちる。


 誰も余計な言葉を発しない。


 聞こえるのは、薬研の石が擦れる音。


 ミーシャの浅い呼吸。


 雨水が器に落ちる音。


 アリスは、ミーシャの手元を見た。


 小さな指。


 細く、熱に浮かされ、力がない。


 その指が、ふと空を探るように動いた。


 アンナが慌てて握る。


「ここにいるよ、ミーシャ。みんな、ここにいるよ」


 ミーシャは、薄く目を開けた。


 視線がぼんやりと動き、アリスの方で止まる。


「……きれいな……お姉ちゃん……」


 アリスの胸が詰まった。


 この子は知らない。


 自分が何をしたか。


 自分が彼らをどう見ていたか。


 知らないまま、熱に浮かされた瞳で、そんなことを言う。


「……綺麗じゃないわ」


 アリスは小さく言った。


「泥だらけよ」


 ミーシャは、少しだけ笑ったように見えた。


「でも……光ってる……」


 月光草の淡い光が、アリスの濡れた髪に反射していた。


 それだけのことだった。


 けれど、アリスは目元が熱くなるのを止められなかった。


「調合できたわ」


 エリーゼの声がした。


 硝子の小瓶の中には、淡い金色を帯びた液体が入っていた。月光草の青と、純化素材の白が混ざり、まるで夜明け前の空のような色をしている。


「一度に全部は飲ませない。少しずつ。吐いたら危険よ」


 キースが頷く。


「俺が支える」


「アンナ、あなたも。メイ、布を」


 ミーシャの上体を、キースとアンナがそっと起こした。


 あまりにも軽かった。


 キースの腕の中で、ミーシャの体は壊れそうに小さく見えた。


 エリーゼが小瓶を傾ける。


 最初の一滴が、ミーシャの唇に触れた。


 誰もが息を止めた。


 ミーシャの喉が、小さく動く。


 一滴。


 もう一滴。


 淡い金色の薬が、少しずつ彼女の中へ入っていく。


 長い時間だった。


 実際には、ほんの数分だったのかもしれない。


 けれど、その場にいる全員にとって、それは夜が明けるより長い時間だった。


 やがて、ミーシャの呼吸が一度乱れた。


「ミーシャ!」


 アンナが叫ぶ。


「落ち着いて」


 エリーゼの声が鋭く飛ぶ。


「布を。汗を拭いて。体を冷やしすぎないで」


 メイが素早く動く。


 アリスも、清潔な布を取り、ミーシャの額に浮いた汗をそっと拭いた。


 その額はまだ熱い。


 けれど、先ほどの焼けるような熱とは違った。


 キースが気づいた。


「……少し、呼吸が」


 ヒュー、ヒューという細い音が、わずかに弱くなっていた。


 アンナが口元を押さえる。


「本当……?」


 エリーゼは油断しなかった。


「まだ分からない。朝までが勝負よ。熱がぶり返す可能性もある」


 それでも。


 それでも、部屋の空気は変わった。


 死を待つ部屋ではなくなった。


 生きるために抗う部屋になった。


 ミーシャの指が、わずかに動く。


 キースの手を探すように。


 キースはその手を握った。


「ここにいる」


 声が震えていた。


「ずっといる」


 ミーシャの唇が、小さく動いた。


「……おなか……すいた……」


 沈黙。


 次の瞬間、ボルグが膝から崩れ落ちた。


「う、うおおおおお……!」


 泣き声だった。


 大男の泣き声が、狭い部屋に響いた。


「腹減ったって……腹減ったって言ったぞ……!」


 ティックが顔を覆う。


「よかった……馬鹿、ほんと……よかった……!」


 アンナは声を出して泣いた。


 キースはミーシャの手を握りしめたまま、顔を伏せて肩を震わせていた。


 アリスは、立ち尽くしていた。


 胸の奥が熱い。


 苦しいほど熱い。


 ありがとうと言われたわけではない。


 許されたわけでもない。


 それでも、目の前で消えかけていた命が、ほんの少しだけこちらへ戻ってきた。


 その事実だけで、彼女の空っぽだった胸の奥に、何かが満ちていく。


 瞬が隣に立った。


「まだ途中だな」


「……ええ」


 アリスは頷いた。


「でも、始まった」


「ああ」


 窓の外では、雨がほとんど止んでいた。


 雲の切れ間から、ほんのわずかな光が差し込み始めている。夜明けにはまだ早い。それでも、闇一色だった空に、薄い灰色が混ざり始めていた。


 それから数時間。


 エリーゼは薬の量を調整し、アリスは素材を運び、メイは汗を拭き、ゼイクは外の警備と衛兵への説明を受け持った。黒猫たちは、眠ることなくミーシャのそばにいた。


 熱は、何度かぶり返した。


 そのたびに、全員の心臓が縮んだ。


 だが、朝日がスラムの隙間から差し込む頃、ミーシャの呼吸は明らかに穏やかになっていた。


 赤い痣はまだ残っている。


 完治ではない。


 これからも治療は続く。


 けれど、死神の手は、ほんの少しだけ彼女の首から離れていた。


「……峠は越えたと思っていいわ」


 エリーゼがそう言った瞬間。


 キースは、床に両手をついた。


 そして、深く頭を下げた。


「ありがとう……ございます……!」


 声は、涙でぐしゃぐしゃだった。


 アンナも、ボルグも、ティックも、同じように頭を下げる。


「一生忘れません」


 キースは言った。


「この恩は、絶対に返します。俺たちにできることなら、何でもします」


 アリスは、すぐには答えられなかった。


 感謝される資格が自分にあるのか、分からなかったからだ。


 けれど、逃げないと決めた。


 だから彼女は、彼らの前に立った。


「なら、返してもらうわ」


 黒猫たちが顔を上げる。


 アリスの声には、少しだけいつもの強さが戻っていた。


 だが、それは人を切り捨てるための強さではなかった。


「あなたたち、腕は立つのでしょう。人を殺さずに侵入し、目的地まで辿り着く技術がある。情報を集め、裏道を使い、表の目をかいくぐる力がある」


 キースが瞬きをする。


「何が言いたい」


「私の影になりなさい」


 アリスは言った。


「金で雇うだけの手下ではなく、私が見落とす場所を見る目になって。声が届かない場所の声を拾う耳になって。私がまた、高い場所から何も見えなくなりそうになった時、泥の中から引きずり下ろす手になりなさい」


 キースたちは黙っていた。


「その代わり」


 アリスはミーシャを見た。


「ミーシャの治療費、生活費、住む場所、全部こちらで用意する。あなたたちも、もう泥水をすすって生きなくていいようにする」


 アンナが息を呑む。


 ボルグが目を見開く。


 ティックは、信じられないという顔でアリスを見た。


 キースは長く沈黙した。


 やがて、静かに聞いた。


「……俺たちは盗賊だぞ」


「知っているわ」


「人に誇れる生き方はしてない」


「それも知っている」


「信用できるのか」


「今すぐ全面的に信用するとは言わない」


 アリスは正直に答えた。


「だから、これから積み重ねるの。私も、あなたたちも」


 キースはアリスを見た。


 昨日までなら、決して交わることのなかった目線だった。


 高い屋敷の令嬢と、スラムの盗賊。


 だが今、二人は同じ部屋で、同じ少女の寝息を聞いていた。


 キースはゆっくりと膝をついた。


「……分かった」


 彼は頭を下げた。


「俺たちの命、預けます」


 アンナ、ボルグ、ティックもそれに続いた。


 アリスは、深く息を吸った。


 胸の奥に、怖さはまだある。


 けれど、それだけではない。


 繋がるということが、こんなにも重く、温かいものだと、彼女は初めて知った。


 外では、朝日が濡れたスラムの屋根を照らし始めていた。


 壊れかけた板壁も、泥水も、破れた布も、すべてが一瞬だけ淡い金色を帯びる。


 綺麗とは言えない場所だった。


 けれど、そこにも確かに光は差した。


 瞬は、入口に立ってその光を見ていた。


 メイが隣に来る。


「よかったね」


「ああ」


「アリスさんも、少し変わったね」


「まだまだこれからだけどな」


 瞬は苦笑した。


 奥では、アリスがミーシャの寝顔を見ていた。


 泥だらけのドレス。


 乱れた髪。


 疲れ切った顔。


 それでも、その表情は昨夜よりずっと柔らかかった。


 アリスは、小さく呟いた。


「……この世界も、思っていたより悪くないのかもしれないわね」


 その声は、誰に聞かせるものでもなかった。


 けれど、瞬には聞こえた。


「だろ?」


 アリスは振り返り、少しだけ照れたように眉を寄せる。


「調子に乗らないで。まだ保留よ」


「はいはい」


「それと、瞬くん」


「何だ?」


 アリスは、濡れて乾きかけた髪を指で払った。


 そして、少しだけ笑った。


「ありがと」


 その笑顔は、完璧な令嬢のものではなかった。


 同郷人として虚勢を張る笑いでもない。


 ただ、救われた少女の、ぎこちない笑顔だった。


 瞬は軽く手を上げた。


「どういたしまして」


 朝の光が、部屋の中へ少しずつ入ってくる。


 ミーシャの寝息。


 アンナのすすり泣き。


 ボルグの大きすぎる安堵のため息。


 ティックの小さな笑い。


 キースが拳を握りしめる音。


 アリスが初めて誰かと繋がろうとする沈黙。


 そのすべてが、同じ部屋にあった。


 誰かが決めた結末ではない。


 誰かが用意した救いでもない。


 間違えた者たちが、泥の中から選び直した朝だった。

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