第40話:ハッピーエンドの書き換え方 〜損は得である〜
「……最初は、ただの熱だと思ったんだ」
キースの声は、雨に濡れていた。
怒鳴る声ではなかった。
誰かを責める声でもなかった。
胸の奥に沈めていた不安を、泥水の中から両手で掬い上げるような声だった。
「夜になると熱が上がった。汗をかいて、息が苦しそうで……でも、朝になると少しだけ笑うんだ。だから、治ると思った」
アンナが、メイに支えられながら頷く。
彼女の頬には、雨と涙が混ざって流れていた。どちらが雨で、どちらが涙なのか、もう分からない。
「ミーシャは、いつも笑うの。自分が一番苦しいのに、『みんな、怖い顔しないで』って言うの。全然大丈夫じゃないのに……」
雨は、先ほどより少しだけ弱まっていた。
空の奥では、まだ雷が低く唸っている。けれど、庭園を叩き潰すようだった激しさは、わずかに遠のいている。濡れた薔薇の葉から、雫がぽたり、ぽたりと落ちる。その音が、少しずつ戻ってきた静けさの中に響いた。
エリーゼは、濡れたローブの裾を気にすることもなく、キースたちの前にしゃがみ込んだ。
その瞳は冷静だった。
慰めを先に置かない。
希望を軽々しく渡さない。
けれど、聞くべきことを聞き逃さない目だった。
「熱以外の症状は?」
「赤い痣だ」
キースは、自分の腕に指を当てた。
「最初は手首のあたりに、小さな蜘蛛の巣みたいなのが出た。それが少しずつ広がって……今は、首の近くまで来てる」
「呼吸は?」
「夜がひどい。ひゅう、ひゅうって……細い笛みたいな音がする」
「発作は?」
ティックが壁にもたれたまま、掠れた声で答えた。
「ある。急に胸を押さえて丸くなる。痛いって言う。でも、俺たちが慌てると、笑おうとするんだよ。笑えてねぇのに」
その最後の言葉は、喉の奥で潰れた。
ボルグが拳を握る。
大きな手だった。
何度も盗み、戦い、誰かを殴ってきた手。
けれど今、その手は何も壊せないものの前で震えていた。
「医者には、助からねぇって言われた。汚れた水と空気のせいだって。そんな場所に住んでる俺たちが悪いみたいに言いやがった」
エリーゼは、ひとつも聞き流さなかった。
雨音の中、彼らの言葉を一つずつ拾い、頭の中で並べ替えていく。
瞬は黙っていた。
メイも、ゼイクも、アリスも。
誰も口を挟まなかった。
ここで語られているのは、情報ではなかった。
ミーシャという一人の少女の、途切れかけた命の輪郭だった。
「……なるほど」
やがて、エリーゼが静かに息を吐いた。
「深紅の熱病に近いわね。ただ、普通の進行より早い。おそらく劣悪な環境で体力が落ちたところに、魔力を帯びた毒素が入り込んでいる」
キースが顔を上げた。
そこに浮かんでいるのは、怒りではなかった。
すがりつきたいのに、また裏切られるのが怖い。
そんな目だった。
「治るのか」
声が震えていた。
エリーゼはすぐには答えなかった。
濡れた髪を耳へかけ、慎重に言葉を選ぶ。
「簡単ではないわ」
アンナの顔が強張った。
けれど、エリーゼは続けた。
「でも、不可能とは言わない」
その瞬間、黒猫たちの呼吸が止まった。
ほんの小さな光だった。
頼りなく、風が吹けば消えてしまいそうな光。
けれど、完全な闇の中にいた彼らには、それでも眩しすぎるほどだった。
キースは、奥歯を噛みしめた。
そして、泥の中に両手をついた。
ボルグが息を呑む。
ティックが顔を上げる。
アンナが、震える唇を押さえた。
キースは、額が泥水につくほど深く頭を下げた。
「……助かる可能性があるなら」
声は、絞り出すようだった。
「俺たちは何でもする」
雨音の中で、その言葉だけがはっきり響いた。
「罰を受けろって言うなら受ける。捕まれって言うなら捕まる。金が必要なら、俺たちが持ってるものは全部出す。命がいるなら、俺のを使ってくれていい」
「キース……!」
アンナが泣きそうな声を上げた。
けれどキースは、頭を上げなかった。
「お願いします」
泥に額を近づけたまま、彼は言った。
「ミーシャを助けてください。俺たちのことは、後でどうにでもしてください。だから今だけは……あの子を助けることを優先させてください」
アンナも、震える手を地面についた。
「お願いします……。ミーシャを、助けてください……」
ボルグも、ティックも続いた。
四人が、泥の中で頭を下げている。
さっきまで武器を握っていた手で。
さっきまで誇りを支えていた膝で。
今は、ただ一人の少女の命のために、すべてを差し出す姿勢で。
アリスは、その光景を見て言葉を失った。
責められるより痛かった。
罵られるより苦しかった。
彼らは、怒りを飲み込んでいる。
疑いも、憎しみも、悔しさも、全部飲み込んでいる。
許したからではない。
信じたからでもない。
ただ、ミーシャを助けたいから。
その一点だけで、泥の中に額をつけている。
アリスは胸元を握りしめた。
濡れたドレスの布が、冷たく指にまとわりつく。
「……頭を上げて」
声が震えた。
キースは動かない。
「助けてくれるなら、何でもします」
「お願いだから……そんなふうにしないで」
アリスの声が、さらに震えた。
けれどキースは、やはり頭を上げなかった。
それは弱さではなかった。
守りたいもののためなら、自分の誇りさえ泥に沈める覚悟だった。
アリスは、初めて理解した。
自分が“障害物”と呼んだ者たちは、誰よりも必死に、誰かを愛している人間だったのだと。
「……分かった」
アリスは、ゆっくりと息を吸った。
雨の冷たさが、胸の奥まで入ってくる。
逃げたい。
怖い。
助けられなかったらどうする。
また、希望を見せてから奪うことになったらどうする。
そんな声が、心の底からいくつも湧き上がる。
けれど、彼女はそれを飲み込んだ。
今、飲み込むべきなのは、彼らではない。
自分の恐怖だ。
「エリーゼさん」
アリスは顔を上げた。
「必要なものを教えて」
エリーゼは、静かにアリスを見た。
「月光草」
「月光草……」
「あなたが、ただの観賞用だと言っていた光る草よ。単体では万能薬にならない。でも適切に処理すれば、魔力性の熱を逃がす触媒になる」
アリスの瞳が揺れた。
自分が価値のない飾りだと切り捨てたもの。
黒猫たちが命懸けで求めたもの。
それが、形を変えれば本当に救いの一部になるかもしれない。
皮肉だった。
残酷なほどに。
「他には?」
「清浄水。できれば魔力を通して濾過したもの。貴族の温室なら、植物用に保存しているはず。あとは、ユニコーンの角の粉末か、それに近い純化素材」
アリスは即座に背後の従者へ振り返った。
「温室を開けて」
従者が目を見開く。
「お、お嬢様。しかし、温室の素材は非常に高価なものも――」
「全部開けて」
アリスの声が鋭くなった。
それは、冷たい命令ではなかった。
迷いを断ち切る声だった。
「月光草、清浄水、純化素材。該当するものは箱ごと運びなさい。必要かどうかはエリーゼさんに判断してもらうわ」
「し、しかし……」
「今すぐ」
従者は深く頭を下げ、屋敷の奥へ駆け出した。
アリスは次に、別の使用人へ向く。
「作業室を用意して。温室横の調合作業室を使うわ。清潔な布、消毒用の酒精、魔道灯、小型加熱炉、薬研、硝子器具。私の研究室にあるものも全部持ってきて」
「かしこまりました!」
使用人たちが、一斉に動き出した。
さっきまで侵入者を捕らえるために張り詰めていた屋敷が、別の目的で息を吹き返す。廊下に靴音が響き、扉が開き、ランプの火が揺れる。
キースは、泥の中で頭を下げたまま動けずにいた。
「……本当に」
彼の声は掠れていた。
「本当に、助けようとしてくれるのか」
アリスは、キースの前に膝をついた。
深紅のドレスが、泥水に触れる。
使用人たちが息を呑んだ。
けれど、アリスは構わなかった。
彼女はキースと同じ高さで、静かに言った。
「助けられると、軽々しく約束はできない」
キースの肩が揺れる。
「でも、何もしないまま終わらせることはしない」
アリスは、泥の中に置かれたキースの手を見た。
血が滲んでいる。
爪の間には泥が入り、指は冷え切っていた。
「あなたたちが信じられないのは当然だわ。私を許せないのも当然よ。だから、信じなくていい。許さなくていい」
彼女は言葉を切った。
「ただ、見ていて。私が逃げるかどうか。もう一度、あなたたちを切り捨てるかどうか」
キースは、ゆっくりと顔を上げた。
雨と泥に濡れた顔。
疑いも、怒りも、まだ残っている。
けれど、その奥で、ほんの小さな希望が震えていた。
「……お願いします」
キースは、もう一度頭を下げた。
「ミーシャを、助けてください」
アリスは目を閉じた。
その言葉を、逃げずに受け止めるために。
「全力を尽くします」
エリーゼが、少しだけ口元を緩めた。
「いい覚悟ね。では、その覚悟が本物かどうか、働きで示してもらうわ」
アリスは立ち上がった。
「何をすればいい?」
「まず、その格好では邪魔よ」
「え?」
「髪をまとめなさい。袖も邪魔。ドレスの裾も重すぎる。切っていいかしら?」
アリスは、自分のドレスを見下ろした。
王都の職人が仕立てた、深紅のベルベット。
高価な刺繍。
完璧な令嬢として立つための装い。
それは、彼女を守る鎧でもあった。
アリスは一度だけ、その裾を握った。
濡れた布は重く、指にまとわりついた。
「切って」
エリーゼの目が細くなる。
「本当に?」
「必要なんでしょう?」
「ええ。とても邪魔」
「なら、切って」
エリーゼが杖を軽く振った。
細い風の刃が走り、アリスのドレスの裾を膝下あたりで綺麗に切り落とした。濡れて重くなった布が、ばさりと泥の上に落ちる。
使用人たちが息を呑む。
アリスは、泥に落ちた布を見た。
かつてなら、許せなかった。
自分を美しく、強く、完璧に見せるための鎧を、自分から切り落とすなど。
けれど今、足元が少し軽くなった。
泥の上に立っている感覚が、はっきりした。
「……動きやすいわね」
アリスが呟く。
瞬が小さく笑った。
「似合ってるぞ。泥だらけだけど」
「褒め方が下手すぎるわ」
アリスは睨もうとした。
けれど、その表情は完全には作れなかった。
雨に濡れた頬に、ほんのわずかだけ苦笑が浮かぶ。
その時、温室の方から使用人たちが戻ってきた。
木箱がいくつも運ばれてくる。
湿った土の匂い。
薬草の青い匂い。
硝子瓶の中で揺れる透明な水。
銀色に光る小瓶。
雨の匂いに混ざり、庭園の空気が少しずつ変わっていく。
絶望の匂いだけではなくなった。
何かを始めるための、慌ただしい匂いが加わっていた。
エリーゼは木箱の中身を手早く確認した。
「月光草。状態はいいわ。清浄水も十分。純化素材は……これなら代用可能ね」
アンナが震える声で聞いた。
「助かる……?」
エリーゼは、アンナを見た。
その目は厳しいままだった。
「まだ分からない」
アンナの顔が曇る。
だが、エリーゼは続けた。
「でも、試す価値はある」
その言葉に、アンナは両手で口を覆い、泣きながら頷いた。
キースは泥の中から立ち上がろうとした。
足元がふらつき、瞬が咄嗟に支える。
「無理すんな」
「……ミーシャのところへ行く」
キースは低く言った。
「場所を案内する。あいつのところへ、すぐに」
アリスが頷いた。
「小型の魔動車を出すわ。普通の馬車ではスラムの奥まで入れないでしょう?」
ティックが驚いたように顔を上げる。
「……分かるのか」
「情報としては知っている」
アリスは、少しだけ目を伏せた。
「でも、知っていただけだった」
その言葉に、ティックは何も返さなかった。
アリスは使用人へ指示を飛ばす。
「小型魔動車を二台。片方は寝台を積めるように荷台を空けて。清潔な毛布と湯、保温用の魔道具も。急いで」
「はい!」
屋敷がさらに慌ただしく動き出す。
ゼイクは衛兵たちへ向き直り、低い声で説明を始めた。
「現時点をもって、侵入者の即時拘束は保留する。状況は私とローゼンバーグ嬢が管理する」
「しかし、ゼイク様――」
「命がかかっている。異論がある者は、私の名において後で聞く」
その声に、衛兵たちは口を閉ざした。
メイはアンナのそばへしゃがみ込む。
「立てる?」
アンナは泣きながら頷いた。
メイが手を差し出す。
アンナはためらった。
けれど、やがてその手を取った。
小さな手と小さな手が、雨の中で繋がる。
瞬は、その光景を見てから、空を見上げた。
雨はまだ降っている。
夜はまだ深い。
ミーシャが助かる保証など、どこにもない。
アリスが許されたわけでもない。
黒猫たちの罪が消えたわけでもない。
けれど、何かが変わった。
見下ろす者と、見下ろされる者。
守る側と、侵入する側。
正しい者と、間違えた者。
その線が、雨に濡れて滲み始めていた。
「行こう」
瞬が言った。
キースが頷く。
アンナはメイの手を握りしめたまま立ち上がる。
エリーゼは素材の箱を確認しながら、必要な道具を追加で指示している。
アリスは、切られたドレスの裾を一度だけ見下ろした。
そして、顔を上げる。
その目には、まだ恐怖があった。
迷いもあった。
けれど、もう何も見ないための冷たい膜はなかった。
「ミーシャを助けに行くわ」
アリスは言った。
声は震えていた。
それでも、まっすぐだった。
瞬は頷いた。
「それでいい」
雨上がりにはまだ遠い。
夜明けにもまだ早い。
けれど、泥だらけの庭園を、彼らは同じ方向へ歩き出した。
誰かが決めた役割ではなく。
誰かが書いた筋書きでもなく。
今ここで、自分たちの足で選んだ道を。
小型魔動車は、夜の王都を切り裂くように走った。
雨は弱まっていたが、石畳にはまだ水が溜まり、車輪が通るたびに泥水が左右へ跳ねる。街灯の光は濡れた路面に滲み、揺れる金色の帯となって流れていった。
先頭の車には、キースと瞬、アリス、エリーゼが乗っていた。
荷台には、木箱いっぱいの薬草と硝子瓶、清浄水、魔道具、毛布、湯を入れた容器が詰め込まれている。揺れるたびに瓶同士が触れ、カチャ、カチャ、と不安げな音を立てた。
キースは窓の外を睨んでいた。
道を案内するためだ。
だが、その横顔は硬い。
怒りではない。焦りだった。
「次を左だ」
短く告げる。
アリスは運転手へ即座に伝える。
「左へ。速度は落とさないで」
「かしこまりました!」
魔動車が濡れた角を曲がる。
車体が大きく揺れ、木箱が軋んだ。
エリーゼは箱を片手で押さえ、反対の手で薬草を確認している。
「月光草は傷ませないで。葉先が潰れると効きが落ちるわ」
「分かってる」
アリスが答えた。
その声には、もう令嬢らしい飾りはなかった。
短く、必死で、余計なものがない。
瞬はその横顔を見た。
雨に濡れた髪を後ろで乱雑にまとめ、泥の跳ねたドレスの裾を気にする余裕もない。さっきまで“完璧”を纏っていた少女は、今はただ、間に合えと祈るように前を見ていた。
その姿を、キースもちらりと見た。
信じてはいない。
許してもいない。
けれど今は、疑って足を止める時間すら惜しい。
それが、彼の沈黙から伝わってきた。
「……着くぞ」
キースが言った。
魔動車は貴族街を抜け、下町を越え、やがて道幅の狭いスラムの入り口へ入った。
空気が変わる。
雨に濡れた土の匂いに、腐った木材、湿った布、古い煙、排水の臭いが混じる。狭い路地の両側には、今にも崩れそうな小屋が並び、破れた布が雨を吸って重く垂れていた。風が吹くたび、どこかの壁板がぎい、と軋む。
アリスは言葉を失った。
情報として知っていた。
地図でも見た。
報告書でも読んだ。
だが、そこにある匂い、湿り気、息苦しさは、紙の上にはなかった。
「ここで育ったのか」
アリスの声は、かすれていた。
キースは答えない。
ただ、前を指した。
「あそこだ」
粗末な建物だった。
元は倉庫だったのだろう。歪んだ木の扉に、布と板が何重にも打ちつけられている。屋根の隙間から雨が入り込み、入口の前には濁った水たまりができていた。
魔動車が止まる。
キースが飛び降りた。
「ミーシャ!」
扉を押し開ける。
中から、湿った空気と、薄い薬草の匂いと、熱を帯びた息苦しい匂いが流れ出した。
アンナが後続の車から駆け寄る。
メイもその後を追う。
アリスは一瞬、足を止めた。
薄暗い部屋の奥。
粗末な寝台の上に、小さな少女が横たわっていた。
亜麻色の髪が汗で額に張りつき、頬は不自然に赤い。細い胸が、浅く、苦しげに上下している。首元には、赤い蜘蛛の巣のような痣が広がっていた。
その小ささに、アリスは息を呑んだ。
この子のために。
この子ひとりのために、キースたちは泥の中で頭を下げた。
命を捨てる覚悟までした。
その重さが、今さら胸にのしかかってきた。
「ミーシャ!」
キースが寝台の横へ膝をつく。
ミーシャの目が、うっすらと開いた。
「……キース……お兄ちゃん……?」
「ああ、俺だ。戻った。ちゃんと戻ったぞ」
キースは震える手で、ミーシャの手を握った。
熱い。
小さな手が、火を抱いているように熱かった。
「ごめんね……」
ミーシャが、かすれた声で言った。
「また……迷惑……かけて……」
「迷惑じゃねぇ!」
キースの声が潰れた。
「一回も迷惑なんかじゃねぇ!」
アンナが泣きながら寝台の反対側に座る。
ボルグは入口で立ち尽くし、ティックは拳を口元に当てて震えていた。
エリーゼが素早く前に出た。
「どいて。見せて」
キースは反射的に身を引いた。
アリスも木箱を抱え、部屋へ入る。
床は湿っていた。靴底がじゅ、と嫌な音を立てる。天井からは雫が落ち、器に溜められた雨水が、ぽた、ぽた、と音を鳴らしていた。
エリーゼはミーシャの額に手を当て、瞼を開き、首元の痣を見た。
表情が険しくなる。
「進行しているわね」
アンナの肩が震える。
「でも、まだ間に合う可能性はある」
その一言で、部屋の空気が変わった。
完全な安堵ではない。
だが、絶望だけではなくなった。
「アリス、月光草を三束。清浄水を温めて。沸騰はさせないで。メイ、清潔な布を。ゼイク、入口を塞がないで、でも外から人が入らないようにして」
「分かった」
「はい!」
「承知した」
全員が動いた。
アリスは木箱を開け、月光草を取り出した。
薄青く光る葉が、暗い部屋の中で淡い光を放つ。雨に濡れた世界の中で、それは小さな月の欠片のようだった。
彼女の手が震える。
落としてはいけない。
傷つけてはいけない。
この葉一枚一枚に、ミーシャの命がかかっているかもしれない。
そう思うと、指先が強張った。
「アリス」
瞬の声がした。
彼はすぐ横にいた。
「大丈夫。ゆっくりでいい」
「ゆっくりしている時間なんて……」
「焦って落とす方がまずい」
アリスは息を吸った。
雨の匂いではなく、薬草の青い匂いが胸に入る。
「……そうね」
彼女は葉を丁寧に揃え、エリーゼへ渡した。
エリーゼは薬草を薬研に入れ、清浄水を加え、細かくすり潰していく。月光草の青い光が水に溶け、硝子器の中で淡く揺れた。
部屋の中に、静かな緊張が満ちる。
誰も余計な言葉を発しない。
聞こえるのは、薬研の石が擦れる音。
ミーシャの浅い呼吸。
雨水が器に落ちる音。
アリスは、ミーシャの手元を見た。
小さな指。
細く、熱に浮かされ、力がない。
その指が、ふと空を探るように動いた。
アンナが慌てて握る。
「ここにいるよ、ミーシャ。みんな、ここにいるよ」
ミーシャは、薄く目を開けた。
視線がぼんやりと動き、アリスの方で止まる。
「……きれいな……お姉ちゃん……」
アリスの胸が詰まった。
この子は知らない。
自分が何をしたか。
自分が彼らをどう見ていたか。
知らないまま、熱に浮かされた瞳で、そんなことを言う。
「……綺麗じゃないわ」
アリスは小さく言った。
「泥だらけよ」
ミーシャは、少しだけ笑ったように見えた。
「でも……光ってる……」
月光草の淡い光が、アリスの濡れた髪に反射していた。
それだけのことだった。
けれど、アリスは目元が熱くなるのを止められなかった。
「調合できたわ」
エリーゼの声がした。
硝子の小瓶の中には、淡い金色を帯びた液体が入っていた。月光草の青と、純化素材の白が混ざり、まるで夜明け前の空のような色をしている。
「一度に全部は飲ませない。少しずつ。吐いたら危険よ」
キースが頷く。
「俺が支える」
「アンナ、あなたも。メイ、布を」
ミーシャの上体を、キースとアンナがそっと起こした。
あまりにも軽かった。
キースの腕の中で、ミーシャの体は壊れそうに小さく見えた。
エリーゼが小瓶を傾ける。
最初の一滴が、ミーシャの唇に触れた。
誰もが息を止めた。
ミーシャの喉が、小さく動く。
一滴。
もう一滴。
淡い金色の薬が、少しずつ彼女の中へ入っていく。
長い時間だった。
実際には、ほんの数分だったのかもしれない。
けれど、その場にいる全員にとって、それは夜が明けるより長い時間だった。
やがて、ミーシャの呼吸が一度乱れた。
「ミーシャ!」
アンナが叫ぶ。
「落ち着いて」
エリーゼの声が鋭く飛ぶ。
「布を。汗を拭いて。体を冷やしすぎないで」
メイが素早く動く。
アリスも、清潔な布を取り、ミーシャの額に浮いた汗をそっと拭いた。
その額はまだ熱い。
けれど、先ほどの焼けるような熱とは違った。
キースが気づいた。
「……少し、呼吸が」
ヒュー、ヒューという細い音が、わずかに弱くなっていた。
アンナが口元を押さえる。
「本当……?」
エリーゼは油断しなかった。
「まだ分からない。朝までが勝負よ。熱がぶり返す可能性もある」
それでも。
それでも、部屋の空気は変わった。
死を待つ部屋ではなくなった。
生きるために抗う部屋になった。
ミーシャの指が、わずかに動く。
キースの手を探すように。
キースはその手を握った。
「ここにいる」
声が震えていた。
「ずっといる」
ミーシャの唇が、小さく動いた。
「……おなか……すいた……」
沈黙。
次の瞬間、ボルグが膝から崩れ落ちた。
「う、うおおおおお……!」
泣き声だった。
大男の泣き声が、狭い部屋に響いた。
「腹減ったって……腹減ったって言ったぞ……!」
ティックが顔を覆う。
「よかった……馬鹿、ほんと……よかった……!」
アンナは声を出して泣いた。
キースはミーシャの手を握りしめたまま、顔を伏せて肩を震わせていた。
アリスは、立ち尽くしていた。
胸の奥が熱い。
苦しいほど熱い。
ありがとうと言われたわけではない。
許されたわけでもない。
それでも、目の前で消えかけていた命が、ほんの少しだけこちらへ戻ってきた。
その事実だけで、彼女の空っぽだった胸の奥に、何かが満ちていく。
瞬が隣に立った。
「まだ途中だな」
「……ええ」
アリスは頷いた。
「でも、始まった」
「ああ」
窓の外では、雨がほとんど止んでいた。
雲の切れ間から、ほんのわずかな光が差し込み始めている。夜明けにはまだ早い。それでも、闇一色だった空に、薄い灰色が混ざり始めていた。
それから数時間。
エリーゼは薬の量を調整し、アリスは素材を運び、メイは汗を拭き、ゼイクは外の警備と衛兵への説明を受け持った。黒猫たちは、眠ることなくミーシャのそばにいた。
熱は、何度かぶり返した。
そのたびに、全員の心臓が縮んだ。
だが、朝日がスラムの隙間から差し込む頃、ミーシャの呼吸は明らかに穏やかになっていた。
赤い痣はまだ残っている。
完治ではない。
これからも治療は続く。
けれど、死神の手は、ほんの少しだけ彼女の首から離れていた。
「……峠は越えたと思っていいわ」
エリーゼがそう言った瞬間。
キースは、床に両手をついた。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとう……ございます……!」
声は、涙でぐしゃぐしゃだった。
アンナも、ボルグも、ティックも、同じように頭を下げる。
「一生忘れません」
キースは言った。
「この恩は、絶対に返します。俺たちにできることなら、何でもします」
アリスは、すぐには答えられなかった。
感謝される資格が自分にあるのか、分からなかったからだ。
けれど、逃げないと決めた。
だから彼女は、彼らの前に立った。
「なら、返してもらうわ」
黒猫たちが顔を上げる。
アリスの声には、少しだけいつもの強さが戻っていた。
だが、それは人を切り捨てるための強さではなかった。
「あなたたち、腕は立つのでしょう。人を殺さずに侵入し、目的地まで辿り着く技術がある。情報を集め、裏道を使い、表の目をかいくぐる力がある」
キースが瞬きをする。
「何が言いたい」
「私の影になりなさい」
アリスは言った。
「金で雇うだけの手下ではなく、私が見落とす場所を見る目になって。声が届かない場所の声を拾う耳になって。私がまた、高い場所から何も見えなくなりそうになった時、泥の中から引きずり下ろす手になりなさい」
キースたちは黙っていた。
「その代わり」
アリスはミーシャを見た。
「ミーシャの治療費、生活費、住む場所、全部こちらで用意する。あなたたちも、もう泥水をすすって生きなくていいようにする」
アンナが息を呑む。
ボルグが目を見開く。
ティックは、信じられないという顔でアリスを見た。
キースは長く沈黙した。
やがて、静かに聞いた。
「……俺たちは盗賊だぞ」
「知っているわ」
「人に誇れる生き方はしてない」
「それも知っている」
「信用できるのか」
「今すぐ全面的に信用するとは言わない」
アリスは正直に答えた。
「だから、これから積み重ねるの。私も、あなたたちも」
キースはアリスを見た。
昨日までなら、決して交わることのなかった目線だった。
高い屋敷の令嬢と、スラムの盗賊。
だが今、二人は同じ部屋で、同じ少女の寝息を聞いていた。
キースはゆっくりと膝をついた。
「……分かった」
彼は頭を下げた。
「俺たちの命、預けます」
アンナ、ボルグ、ティックもそれに続いた。
アリスは、深く息を吸った。
胸の奥に、怖さはまだある。
けれど、それだけではない。
繋がるということが、こんなにも重く、温かいものだと、彼女は初めて知った。
外では、朝日が濡れたスラムの屋根を照らし始めていた。
壊れかけた板壁も、泥水も、破れた布も、すべてが一瞬だけ淡い金色を帯びる。
綺麗とは言えない場所だった。
けれど、そこにも確かに光は差した。
瞬は、入口に立ってその光を見ていた。
メイが隣に来る。
「よかったね」
「ああ」
「アリスさんも、少し変わったね」
「まだまだこれからだけどな」
瞬は苦笑した。
奥では、アリスがミーシャの寝顔を見ていた。
泥だらけのドレス。
乱れた髪。
疲れ切った顔。
それでも、その表情は昨夜よりずっと柔らかかった。
アリスは、小さく呟いた。
「……この世界も、思っていたより悪くないのかもしれないわね」
その声は、誰に聞かせるものでもなかった。
けれど、瞬には聞こえた。
「だろ?」
アリスは振り返り、少しだけ照れたように眉を寄せる。
「調子に乗らないで。まだ保留よ」
「はいはい」
「それと、瞬くん」
「何だ?」
アリスは、濡れて乾きかけた髪を指で払った。
そして、少しだけ笑った。
「ありがと」
その笑顔は、完璧な令嬢のものではなかった。
同郷人として虚勢を張る笑いでもない。
ただ、救われた少女の、ぎこちない笑顔だった。
瞬は軽く手を上げた。
「どういたしまして」
朝の光が、部屋の中へ少しずつ入ってくる。
ミーシャの寝息。
アンナのすすり泣き。
ボルグの大きすぎる安堵のため息。
ティックの小さな笑い。
キースが拳を握りしめる音。
アリスが初めて誰かと繋がろうとする沈黙。
そのすべてが、同じ部屋にあった。
誰かが決めた結末ではない。
誰かが用意した救いでもない。
間違えた者たちが、泥の中から選び直した朝だった。




