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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第39話:NPCの涙、プレイヤーの傲慢 〜幻は現(うつつ)である〜

「降りてこい」


 瞬の声が、雨音を裂いた。


 バルコニーの上で、アリスの扇子が止まった。


 泥の中で膝をつく黒猫たちも、メイも、ゼイクも、エリーゼも、その場から動けなかった。屋敷の壁を叩く雨音だけが、世界の隙間を埋めるように降り続いている。


 それは、敵へ向けた命令ではなかった。


 雨の届かない場所から人を見下ろしている少女を、同じ地面へ引きずり下ろすための言葉だった。


 アリスは、しばらく瞬を見下ろしていた。


 深紅のドレスは濡れていない。金色の髪も乱れていない。扇子で口元を隠した姿は、どこまでも美しく、どこまでも遠い。


 やがて彼女は、ゆっくりと扇子を閉じた。


 パチン。


 乾いた音が、雨の中で妙にはっきり響いた。


「……よろしいですわ」


 アリスは静かに言った。


 声は冷たかった。


 けれど、瞬にはその奥に、小さな硬直があるように聞こえた。


 彼女は踵を返し、バルコニーの奥へ消えた。


 数秒後、屋敷の大扉が開く重い音がした。


 光が、雨の中へ漏れる。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 大理石の階段を、ヒールが叩く音。


 アリスが降りてくる。


 従者が慌てて傘を差しかけ、彼女の深紅のドレスが雨に濡れないよう、裾を持ち上げながら後ろをついていた。白い階段に落ちる彼女の影は細く長い。雨に濡れた庭園へ近づくほど、その影は泥の色に沈んでいく。


 キースが、泥の中から顔を上げた。


 アンナは、宝物庫の扉の前で膝を抱えたまま震えている。ボルグもティックも、もう武器を構え直そうとはしなかった。


 誰もが、アリスを見ていた。


 彼女は雨の手前で立ち止まった。


 従者の傘が、彼女の頭上で雨を遮っている。


 アリスは、濡れた石畳にも、泥水にも触れない位置から、瞬を見た。


「これで満足ですの?」


「まだだ」


 瞬は答えた。


 アリスの眉が、わずかに動く。


「何が不満ですの。わたくしは、あなたの言う通り下まで降りてまいりましたわ」


「雨に濡れてない」


 瞬は、従者の持つ傘へ手を伸ばした。


 従者が驚き、身を引こうとする。


「瞬様、これは――」


「少しだけだ」


 瞬は傘を横へ押しのけた。


 雨が、アリスの頭上へ落ちた。


「……っ!」


 冷たい雨粒が、金色の髪を叩く。


 整えられていた前髪が濡れ、頬に張りついた。雨水が顎へ流れ、首筋を伝い、深紅のドレスの肩に暗い染みを作っていく。


 アリスは反射的に肩をすくめた。


「何をなさいますの!」


 声が初めて乱れた。


「冷たいじゃありませんか!」


 瞬は、静かに聞いた。


「冷たいか?」


「当たり前ですわ! 雨なのですから!」


「ああ」


 瞬は頷いた。


「雨は冷たい」


 彼は、泥の中にいる黒猫たちへ視線を向けた。


「こいつらも、同じ冷たさを感じてる」


 アリスの目が揺れた。


 雨は、彼女の髪にも、頬にも、肩にも落ち続ける。バルコニーから見ていた時にはただの背景だった雨が、今は肌を刺す感覚として彼女の中へ入り込んでいた。


「寒いんだよ。痛いんだよ。服が濡れて、体温を奪われて、指先が動かなくなって、それでも大切な誰かを助けたくて、ここまで来た」


 アンナの肩が震えた。


 キースは唇を噛んだまま、顔を伏せている。


「それを作り物だって言うなら」


 瞬はアリスを見た。


「お前が今感じた冷たさも、作り物なのか?」


 アリスは答えなかった。


 雨粒が、彼女の睫毛に溜まる。


 それが涙のように頬を伝った。


 けれど、彼女は泣いていない。


 まだ、泣けていない。


「そんなもの……ただの感覚ですわ」


 アリスは、かろうじて声を整えた。


「痛みを感じるように作られているだけかもしれません。寒さを訴えるように、涙を流すように、そういう役目を与えられているだけかもしれません」


「本気で言ってるのか?」


「本気で言わなければ、立っていられないこともありますわ」


 その言葉は、雨に紛れるほど小さかった。


 けれど、瞬には届いた。


 アリス自身も、自分が今何を言ったのか気づいたのだろう。すぐに口を閉じ、扇子を持ち上げようとした。


 だが、濡れた指先はわずかに滑った。


 扇子がうまく開かない。


 アリスの顔に、一瞬だけ焦りが浮かぶ。


 隠すものを失った顔。


 瞬は、その隙間へ踏み込んだ。


「お前は今、画面の外にいるわけじゃない」


 静かな声だった。


「安全な観客席から、誰かの不幸を眺めてるんじゃない。俺たちと同じ雨に濡れてる。同じ地面に立ってる。同じ空気を吸ってる」


 アリスの唇が、わずかに開いた。


「お前も、俺も、キースも、アンナも、メイも、ゼイクも、エリーゼも。みんな、ここにいる」


 雨音が少しだけ遠くなる。


 アリスの耳に、別の音が届き始めた。


 キースの荒い呼吸。


 アンナが喉の奥で泣く音。


 ボルグが奥歯を噛み締める音。


 ティックの濡れた袖から、ぽたりと水が落ちる音。


 遠くの庭で、雨に打たれた薔薇の花弁が石畳に落ちる音。


 全部、そこにあった。


 全部、今この場所で起きていた。


「でも……」


 アリスは、震える声で言った。


「それを認めたら……」


 その先を、彼女は言えなかった。


 瞬は急かさなかった。


 ただ、雨の中で待った。


「認めたら、全部、本物になってしまうじゃない」


 アリスの声がかすれた。


「この人たちの痛みも、涙も、絶望も……全部、私の目の前で起きていることになる。そうしたら……」


 彼女は唇を噛んだ。


 雨が、頬を伝う。


「私は、見捨てたことになるじゃない」


 誰も言葉を発しなかった。


 それは、アリスの本音に近いものだった。


 初めて、彼女の冷たい仮面の内側から漏れた声だった。


 瞬は、少しだけ息を吐いた。


「そうだな」


 アリスの目が見開かれる。


 慰めではなかった。


 ごまかしでもなかった。


 瞬は、まっすぐに言った。


「見捨てたことになる」


 アリスの肩が震えた。


「……ひどいことを言うのね」


「ひどいのは現実だ」


 瞬は静かに続けた。


「見ないふりをしても、なかったことにはならない。作り物って呼んでも、こいつらが濡れてる事実は消えない。ミーシャって子が苦しんでるなら、その苦しみも消えない」


 アンナが、ミーシャの名に反応して顔を上げた。


 アリスは動けない。


「でもな」


 瞬の声が、少しだけ柔らかくなった。


「見捨てたことに気づけるなら、まだ戻れる」


 アリスの瞳が揺れた。


「戻る……?」


「ああ」


 瞬は頷いた。


「今まで見ないふりをしたなら、今から見る。線の外に追いやったなら、今から線を消す。高いところから眺めてたなら、こうやって泥のそばまで降りてくる」


 雨が、二人の間に降り続ける。


「一度間違えたら終わりじゃない。人は、間違えた場所からでも、もう一回選べる」


 アリスは瞬を見つめた。


 その言葉が、ただ黒猫たちのことだけを言っているのではないと、どこかで分かったのかもしれない。


 彼女の表情から、令嬢の形が少しずつ崩れていく。


「……選ぶ?」


「そうだ」


「もし、選び直しても……また失ったら?」


 その声は、もう冷たい令嬢の声ではなかった。


 雨に濡れた少女の声だった。


「また、大切なものが壊れたら? また、自分の手じゃ守れなかったら? それでも、本物だって認めろと言うの?」


 瞬はすぐには答えなかった。


 その問いは、アリスの奥深くから出てきたものだった。


 まだ誰も知らない傷。


 彼女が世界を遠ざける理由。


 その影が、雨の中にほんの少しだけ姿を見せていた。


「怖いなら、怖いままでいい」


 瞬は言った。


「無理に平気な顔をしなくていい。怖いものは怖い。失うのは痛い。守れなかったら、たぶん一生忘れられない」


 アリスの指が震えた。


「でも、だからって最初から愛さなければいいなんて、俺は思わない」


 瞬は、泥の中で顔を伏せるキースたちを見た。


「こいつらは、ミーシャを大切にしたから苦しんでる。助けたいって思ったから、こんなところまで来た。たしかに馬鹿だ。危なっかしい。間違ってることもした」


 キースが、かすかに顔を上げた。


「でも、ミーシャを大切にしなければ楽だったかって言われたら、たぶん違う」


 アンナの涙が、雨に混ざって落ちた。


「大切なものがあるから、人は痛い。でも、大切なものがあるから、泥の中でも立ち上がれる」


 アリスは、何も言わなかった。


 瞬は彼女を見た。


「痛くない人生を選んで、誰も見ないようにして、誰も信じないようにして、全部を作り物って呼んで」


 雨が、彼の声を濡らす。


「それで本当に、楽だったか?」


 アリスの息が止まった。


 その問いは、まっすぐ心臓に届いた。


 彼女は反射的に扇子を上げようとした。


 だが、今度は開くことすらできなかった。


 濡れた指先が震え、扇子が手から滑り落ちる。


 カラン。


 扇子が石畳に落ちた。


 その音は小さかった。


 けれど、アリスの仮面が初めて地面に落ちた音のように響いた。


「……楽なわけ」


 アリスの声が、震える。


「楽なわけ……ないじゃない」


 青い瞳に、涙が滲んだ。


 雨とは違う、温かい涙だった。


「一人で……楽なわけないじゃない……!」


 その叫びは、誰に向けたものでもなかった。


 黒猫たちでも、瞬でもない。


 ずっと胸の奥に閉じ込めていた自分自身へ向けた叫びだった。


 雨は降り続ける。


 完璧な髪も、深紅のドレスも、整った令嬢の姿も、もう濡れて乱れていた。


 そこに立っていたのは、王都随一の大富豪でも、冷たい悪役令嬢でもなかった。


 傷つくのが怖くて、ずっと世界を遠ざけていた、一人の少女だった。


 瞬は、彼女へ手を差し出した。


 泥に濡れた手だった。


 雨に冷えた手だった。


 けれど、生きている人間の手だった。


「なら、こっちに来いよ」


 アリスは、その手を見つめた。


「こっち……?」


「ああ」


 瞬は言った。


「高いところから見下ろすんじゃなくて、同じ雨に濡れて、同じ泥の上に立って、同じように迷え」


 アリスの涙が、頬を伝う。


「怖いよ……」


「怖くていい」


「また、痛い思いをするかもしれない」


「するかもな」


「また、守れないかもしれない」


「その時は、一緒に悔しがってやる」


 瞬は、少しだけ笑った。


 優しい笑みだった。


 けれど、甘やかす笑みではない。


 逃げることを許さない強さを持った笑みだった。


「泣きたいなら、一緒に泣いてやる。間違えたなら、一緒に考えてやる。怖いなら、隣にいてやる」


 アリスは、震える手を胸元で握った。


 その手は、雨に濡れて冷たくなっていた。


「……そんなの」


 彼女は呟いた。


「そんなの、都合がよすぎるわ」


「そうかもな」


「信じたら、馬鹿を見るかもしれない」


「かもしれない」


「裏切られるかもしれない」


「かもしれない」


「それでも……?」


 瞬は、静かに頷いた。


「それでも、俺は信じる方がいい」


 アリスは、差し出された手を見つめ続けた。


 その手を取れば、戻れない。


 もう、世界を作り物だと呼んで安全な場所へ逃げることはできない。


 黒猫たちの痛みも、ミーシャの苦しみも、自分の過ちも、全部本物として抱えなければならない。


 それは恐ろしいことだった。


 耐えがたいほど、恐ろしいことだった。


 けれど。


 雨の中で差し出されたその手は、アリスがずっと待っていたものでもあった。


 誰かに叱ってほしかった。


 誰かに止めてほしかった。


 誰かに、そんな場所で一人になるなと、強引にでも連れ出してほしかった。


 アリスの手が、ゆっくりと動いた。


 指先が、瞬の手に触れる。


 冷たい。


 泥で汚れている。


 けれど、温かい。


 脈打っている。


 生きている。


「……本物、なのね」


 アリスは、消えそうな声で呟いた。


 瞬は答えた。


「ああ。本物だ」


 アリスは、その手を握った。


 強く。


 すがりつくように。


 雨が、二人の上に降り続ける。


 黒猫たちは、呆然とその光景を見ていた。


 メイは静かに息を吐き、ゼイクは剣を下ろし、エリーゼは目を伏せたまま小さく微笑んだ。


 アリスは、瞬の手を握りしめたまま、キースたちの方を見た。


 今度は、見下ろすためではなかった。


 同じ高さで。


 同じ雨に濡れながら。


 彼らの絶望を見るために。


 その瞳から、また一粒、涙が落ちた。


 雨よりも温かい涙だった。


 アリスは、瞬の手を握りしめたまま、黒猫たちを見た。


 雨が降っている。


 さっきまで、彼女にとってそれは背景でしかなかった。舞台を盛り上げるための天候。悲劇を悲劇らしく見せるための効果。濡れた石畳も、泥水も、震える肩も、すべては遠くから眺めるものだった。


 けれど今は違った。


 雨は、髪を濡らした。


 頬を打った。


 首筋を伝い、ドレスの中まで冷たさを染み込ませてきた。


 足元の石畳は滑りやすく、泥水は靴の先を汚している。深紅のドレスの裾には、黒い泥の飛沫が散っていた。いつもなら使用人が慌てて拭き取る汚れ。彼女自身も、決して許さなかったはずの汚れ。


 だが今、アリスはその汚れから目を逸らせなかった。


 キースは泥の中で膝をつき、こちらを見ていた。


 敵意はある。


 怒りもある。


 けれど、その奥にあるのは、底の抜けたような絶望だった。


 アンナは宝物庫の扉の前で座り込み、両手を握りしめている。爪の間には泥が入り、指先は赤く擦り切れていた。ボルグは大きな体を丸めるようにして立ち、ティックは濡れた壁にもたれたまま唇を噛んでいる。


 彼らは、まだ生きている。


 寒さを感じている。


 痛みを感じている。


 希望を失い、心が折れかけている。


 アリスの喉が、きゅっと狭くなった。


「……名前」


 彼女は小さく呟いた。


 雨音に混じって、消えそうな声だった。


 瞬が横で黙っている。


 アリスは、もう一度口を開いた。


「その子の名前は……ミーシャ、なのね」


 アンナが顔を上げた。


 キースの目が細くなる。


「……だったら、何だ」


 キースの声には、鋭い棘があった。


 当然だ。


 自分たちを障害物と呼び、希望を打ち砕いた相手が、今さら名前を口にしたところで、許せるはずがない。


 アリスは唇を噛んだ。


 その痛みは、彼らの痛みとは比べものにならない。けれど、今の彼女には、その小さな痛みさえ逃げ道のない現実として迫ってきた。


「ミーシャ……」


 彼女は、もう一度その名を口にした。


 ただの情報ではなく。


 ただの設定ではなく。


 ひとりの命の名前として。


 その瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。


 アリスは思わず胸元を押さえた。


 苦しい。


 名前を知るだけで、こんなに苦しい。


 名前を知った瞬間、その子はもうただの“病気の子”ではなくなる。どこか遠くの悲劇ではなくなる。キースたちが守ろうとしている、具体的な誰かになる。


 見ないふりが、できなくなる。


「……私は」


 アリスの声が震えた。


 扇子はもうない。


 完璧な微笑みも、もう作れなかった。


「私は、その子を知らない」


 キースが睨む。


「当たり前だろ」


「でも……」


 アリスは、雨に濡れた手を握りしめた。


「あなたたちが、その子をどれだけ大切にしているかは……今、見えた」


 キースの顔が歪んだ。


「今さらかよ」


 その言葉は、短く、重かった。


「今さら見えたって、遅ぇんだよ……!」


 キースは泥の中で拳を握った。


「俺たちはここまで来るしかなかった! 医者にも見捨てられて、薬にも騙されて、金を積んでも扉は開かなくて……それでも、あの子が死んじまうのを黙って見てられなかったんだ!」


 雨が、彼の背中を叩く。


「なのに……なのに、ここにも何もねぇって言うのかよ……!」


 その叫びは、アリスへ向けられていた。


 同時に、この世界そのものへ向けられているようでもあった。


 アンナが、震える声で続ける。


「私たち、悪いことしたのは分かってる……。でも、でも……ミーシャは悪くないの。あの子は何も盗んでない。誰も傷つけてない。ただ、生きてるだけなの……!」


 アリスは何も言えなかった。


 言い返せる言葉など、どこにもなかった。


 正論ならいくらでもある。


 犯罪は犯罪。


 侵入は侵入。


 侯爵家には侯爵家の秩序がある。


 そんな言葉は、喉元まで上がってきて、けれど雨に濡れたアンナの指先を見た瞬間、すべて泥の中へ落ちていった。


 正しさだけでは、人は救えない。


 そのことを、アリスは初めて肌で知った。


「……ごめんなさい」


 声は小さかった。


 けれど、確かに雨の中へ落ちた。


 キースが、目を見開く。


 アリスは頭を下げた。


 深紅のドレスが雨を吸い、重く揺れる。


 王都随一の大富豪。


 完璧な令嬢。


 誰にも隙を見せず、誰にも頭を下げず、冷たい微笑みで全てを処理してきた少女が、泥の中で膝をつく者たちへ向かって、頭を下げていた。


「私は……あなたたちを見ていなかった」


 雨水が、金色の髪から滴る。


「あなたたちが何を抱えているのか知っていたのに、知ろうとしなかった。見れば苦しくなるから、知らないふりをした。人間だと認めたら、自分のしたことを直視しなければならないから……だから、切り離した」


 言葉にするたび、胸の奥が裂けていくようだった。


 けれど、瞬の手はまだそばにあった。


 触れてはいない。


 支えてはいない。


 ただ、逃げるなと言うように、そこにあった。


「本当に……ごめんなさい」


 沈黙が落ちた。


 雨音だけが続く。


 キースは、長い間何も言わなかった。


 やがて、泥に濡れた顔を上げ、低く言った。


「謝ったって……ミーシャは助からねぇ」


 その通りだった。


 アリスの謝罪は、万能薬ではない。


 失われた時間は戻らない。


 キースたちが味わった絶望も、アンナの擦り切れた指先も、ミーシャの苦しみも、謝罪ひとつで消えるものではなかった。


 アリスは、ゆっくり頷いた。


「……分かっています」


「分かってねぇよ」


 キースの声が荒くなる。


「お前ら貴族は、いつもそうだ。謝れば終わりだと思ってる。金を払えば、頭を下げれば、それで全部きれいになると思ってる。でも、ならねぇんだよ……!」


 彼の声は、途中で崩れた。


「俺たちは……あの子に、助かるって言っちまったんだ……」


 アンナが泣き崩れた。


 ボルグが両手で顔を覆う。


 ティックは空を見上げ、雨を受けながら目を閉じた。


「絶対に治してやるって……約束したんだ……」


 キースは、泥水の中で拳を叩きつけた。


 鈍い音がする。


 血が滲んだ。


「なのに……何もねぇって……どうやって帰れって言うんだよ……!」


 その場にいる全員が、何も言えなかった。


 アリスも。


 メイも。


 ゼイクも。


 エリーゼも。


 瞬でさえ、すぐには言葉を出せなかった。


 それは、あまりにも重い問いだった。


 希望を持たせてしまった者が、空の手で帰ることの残酷さ。


 守ると誓った者が、守れないかもしれない現実を持ち帰ることの怖さ。


 それを、軽い励ましで覆ってはいけない。


 瞬はゆっくりと息を吸った。


 雨の匂い。


 泥の匂い。


 冷えた鉄の匂い。


 そして、絶望の中でも消えきらない、人の熱。


「キース」


 瞬は言った。


 キースは顔を上げない。


「まだ、帰るな」


 その言葉に、キースの肩がわずかに動いた。


「……何?」


「空の手で帰るなって言ってる」


 瞬は、黒猫たちを見渡した。


「聖女の涙はない。アリスがそう言った。それはたぶん本当なんだろう」


 アリスの肩が小さく震えた。


「でも、だからって、ミーシャを助ける道が全部なくなったわけじゃない」


 キースが、ゆっくりと顔を上げた。


 その目には、まだ希望を信じる力など残っていない。


 あるのは、疑いと疲労だけだ。


「……何を根拠に」


「根拠は、これから探す」


「ふざけんな!」


 キースが叫んだ。


「こっちはもう探し尽くしたんだよ! 何度も! 何度も! 何度も!」


「だったら、俺たちも一緒にもう一回探す」


 瞬は、言い切った。


 その声は、静かだった。


 静かだからこそ、揺るがなかった。


「お前たちだけじゃ届かなかった場所があるなら、俺たちが手を伸ばす。金で開かなかった扉があるなら、別の開け方を探す。今まで全部駄目だったなら、今までとは違う奴らで考える」


 キースは言葉を失った。


 瞬はアリスを見る。


「アリス」


 アリスは、雨に濡れた顔を上げた。


「お前は、万能薬はないって言った。でも、この屋敷には知識がある。素材がある。金がある。人を動かす力がある」


 アリスの瞳が揺れる。


「今まで、それを自分を守るために使ってきたんだろ」


 彼女は答えない。


「なら今度は、誰かを助けるために使え」


 雨が、二人の間に降り続ける。


 その言葉は、命令ではなかった。


 許しでもなかった。


 選択だった。


 アリスに、初めて本当の意味で選ばせる言葉だった。


「私に……」


 アリスの声は掠れていた。


「私に、できるの……?」


「知らない」


 瞬は正直に言った。


 アリスの目が見開かれる。


「でも、できるかどうか分からないから、やらないって言うのは違うだろ」


 瞬は、キースたちを見る。


「こいつらは、できるかどうか分からなくても来た。間違った方法だった。でも、来たんだ。大切な子を助けるために」


 そして、またアリスを見る。


「今度は、お前の番だ」


 アリスは、雨の中で立ち尽くした。


 今度は、自分が選ばなければならない。


 見なかったことにするのか。


 責任を切り離すのか。


 それとも、泥の中へ踏み込むのか。


 手は震えている。


 怖い。


 怖くてたまらない。


 助けると決めたのに助けられなかったら。


 希望を与えたのに、また奪うことになったら。


 その時、自分は今度こそ壊れてしまうかもしれない。


 けれど。


 アリスは、アンナを見た。


 泥の中で泣く少女。


 キースを見た。


 守れなかった時の未来に怯えながら、それでも諦めきれずにいる少年。


 ボルグを。


 ティックを。


 そして、まだここにはいないミーシャという名の小さな命を思った。


 知らない。


 会ったこともない。


 けれど、もう“ただの誰か”ではなかった。


 アリスは、ゆっくりと拳を握った。


「……私は」


 声は震えていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「私は、ミーシャを助けたい」


 アンナが顔を上げた。


 キースの目が揺れる。


 アリスは、雨に濡れたまま続けた。


「助けられると、簡単には言えない。万能薬なんてない。私が言った通り、この屋敷に『聖女の涙』は存在しない」


 そこで一度、息を吸う。


「でも……何もしないまま終わらせるのは、もう嫌」


 その言葉は、自分自身へ向けた宣言だった。


 長い間、傷つかないために閉じていた扉を、自分の手で少しだけ押し開ける言葉だった。


「私の屋敷にある素材も、研究資料も、魔道具も、全部使う。必要なら金も人も動かす。だから……」


 彼女はキースたちへ向かって、もう一度頭を下げた。


「私に、その子を助ける手伝いをさせてください」


 キースは、言葉を失っていた。


 怒ればいいのか、信じればいいのか、拒めばいいのか、分からない顔だった。


 無理もない。


 つい先ほどまで彼らを切り捨てようとしていた相手が、突然手を伸ばしてきたのだ。


 信じられるはずがない。


 けれど、信じたいと思ってしまう自分もいる。


 その苦しさが、彼の顔に浮かんでいた。


「……もし」


 キースは、かすれた声で言った。


「もしまた、嘘だったら……」


 アリスは顔を上げた。


 雨に濡れた瞳で、キースを見る。


「その時は、私を恨んでください」


「恨んで済むと思ってんのか」


「済まないわ」


 アリスは首を振った。


「でも、逃げません」


 その一言に、瞬がわずかに頷いた。


 逃げない。


 それこそが、今のアリスにとって最も大きな一歩だった。


 エリーゼが、静かに前へ出た。


 彼女のローブは雨を吸って重くなっている。金髪も濡れ、頬に張りついていた。だが、その瞳は冷静だった。


「話はまとまったようね」


 エリーゼはキースたちを見た。


「私は医者ではないけれど、魔力性の病や薬草学には多少の知識があるわ。症状を聞けば、見当くらいはつけられるかもしれない」


 アンナが、はっと息を呑む。


「本当……?」


「期待しすぎないで」


 エリーゼは厳しく言った。


「私は奇跡を約束しない。でも、可能性を調べることはできる」


 その言い方は冷たく聞こえる。


 けれど、今この場で一番誠実な言葉だった。


 ゼイクが剣を鞘へ戻した。


「ならば、まずはこの場を収める必要がある。衛兵たちにも説明しなければならん」


 メイがアンナのそばへしゃがみ込んだ。


「立てる?」


 アンナは泣きながら頷いた。


 メイは、そっと手を差し出す。


 アンナはためらった。


 けれど、やがてその手を取った。


 小さな手と小さな手が、雨の中で繋がる。


 キースはその光景を見て、深く息を吐いた。


 まだ信じたわけではない。


 許したわけでもない。


 だが、ほんの少しだけ、剣を握る理由が薄れた。


「……ミーシャは」


 キースが言った。


「今、スラムのアジトにいる。熱が高い。時間がない」


 エリーゼの表情が引き締まる。


「なら、急ぐべきね。症状を直接見たいところだけれど、まずはここで聞けるだけ聞くわ」


 アリスが、雨に濡れたドレスの裾を握りしめた。


 その姿は、もう完璧な令嬢ではなかった。


 泥に汚れ、髪は乱れ、目元には涙の跡がある。


 けれど、瞬は思った。


 今の彼女の方が、ずっと人間らしい。


 ずっと綺麗だと。


 アリスは瞬を見た。


「……瞬くん」


「何だ」


「私は、間違えたのね」


「ああ」


 瞬はごまかさなかった。


 アリスは少しだけ苦しそうに笑った。


「本当に、容赦ないわね」


「でも、ここで終わりじゃない」


 瞬は言った。


「間違えたなら、次を選べ」


 アリスは、雨の中で小さく頷いた。


「……うん」


 その返事は、令嬢のものではなかった。


 同郷人として虚勢を張る声でもなかった。


 ただのアリスの声だった。


 雨はまだ降っていた。


 夜はまだ深い。


 ミーシャを救える保証など、どこにもない。


 それでも、閉ざされていた道に、ほんのわずかな隙間が生まれていた。


 泥の中で泣いていた黒猫たち。


 雨の冷たさを初めて肌で知ったアリス。


 そして、その両方を無理やり同じ場所に立たせた瞬。


 誰もまだ、笑ってはいない。


 誰もまだ、救われてはいない。


 けれど、誰かを作り物と呼んで終わらせる夜は、もう終わった。


 アリスは、濡れた髪を払い、キースたちへ向き直った。


「聞かせて」


 雨音の中で、彼女は言った。


「ミーシャのことを。最初から、全部」


 キースは、しばらくアリスを見ていた。


 やがて、泥の中で拳をほどく。


 そして、ぽつりと話し始めた。


「……最初は、ただの熱だと思ったんだ」


 その声は震えていた。


 けれど、今度は絶望だけではなかった。


 雨に濡れた庭園で、閉ざされていた物語が、ようやく人の声として語られ始めた。

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