第38話:雨の夜の襲撃者 〜一滴は大海である〜
夜が、雨を連れてきた。
空は昼間の晴れやかさを忘れたように黒く沈み、雲の奥で雷が低く唸っていた。最初に落ちてきたのは、窓硝子をかすかに叩く小さな雫だった。
ぽつり。
ぽつり。
それはすぐに数を増やし、白亜の壁を濡らし、石畳に黒い斑点を作り、やがて屋敷全体を包み込む豪雨へと変わっていった。
ローゼンバーグ侯爵家の庭園は、水の檻に閉じ込められていた。
昼には宝石のように輝いていた薔薇の花弁が、雨粒の重みに耐えきれず、うなだれるように垂れている。整えられていた芝生は黒く沈み、石畳の隙間には濁った水が細い川となって流れていた。噴水の清らかな音は、もう雨音に呑まれて聞こえない。
風が吹くたび、薔薇の枝がしなり、葉と葉が擦れ合った。
ざわ、ざわ、ざわ。
まるで、庭そのものが何かを恐れて囁いているようだった。
宝物庫へ続く回廊の前で、ゼイクは剣の柄に手を置いたまま、雨の向こうを睨んでいた。
屋根はある。
だが横殴りの雨は容赦なく吹き込み、白銀の鎧の表面を濡らしている。鎧を伝った水滴が肘の先に集まり、ぽたりと石畳へ落ちた。
その音は、雨の轟きの中に消えるほど小さい。
それでも、張り詰めた空気の中では妙にはっきりと聞こえた。
「視界が悪い」
ゼイクの声は低かった。
「足元も悪い。侵入者にとっては、これ以上ない条件だ」
隣で、エリーゼが杖を構えていた。
彼女の周囲には、目に見えない細い糸のような魔力が張り巡らされている。雨粒がその糸に触れるたび、わずかに光り、すぐに闇へ溶けた。
「雨は嫌いではないけれど、こういう夜は余計な音が多すぎるわね」
エリーゼは目を細めた。
「本当に聞くべき音まで、雨が隠してしまう」
メイは瞬のそばに立っていた。
白いアイガードの下の表情は読み取りにくい。けれど、胸の前で握った両手の力が、彼女の不安を物語っていた。
「瞬……来るのかな」
「来る」
瞬は柱のそばに立ち、暗い庭園を見つめていた。
雨の向こうに、昼間の完璧な庭園はもうない。
泥。
水。
乱れた枝。
落ちた花弁。
綺麗に整えられていた場所ほど、壊れた時の痛々しさが目立つ。
瞬の脳裏に、アリスの声が残っていた。
この世界の人々を、役割だけで見ようとする声。
傷つかないために、誰も本物だと認めない声。
あの声を思い出すたび、胸の奥に熱が溜まっていく。
瞬は拳を握った。
「ただの悪党なら止める」
雨音に紛れるほど低く、瞬は呟いた。
「でも、そうじゃないなら……ちゃんと聞く」
メイが少し顔を上げた。
「話を?」
「ああ」
瞬は頷く。
「誰かが命懸けで来るなら、そこには理由があるはずだから」
その時だった。
エリーゼの指が、ぴくりと動いた。
杖の先に集まっていた魔力の光が、細く鋭くなる。
「……来たわ」
空気が、一瞬で変わった。
ゼイクが剣を抜く。
鞘から刃が滑り出る音が、雨の中で冷たく響いた。
「数は?」
「四」
エリーゼの声が低くなる。
「正面ではないわ。庭園の木を足場にして、屋根へ回っている。足音が軽い。慣れているわね」
「上か」
ゼイクが顔を上げた、その瞬間。
頭上の瓦が砕け散った。
ガシャァン!
雨音と瓦礫の音が重なり、回廊の空気が破裂する。
四つの影が、夜の中から落ちてきた。
黒い衣装。
顔を覆う布。
濡れた石畳に着地する姿勢は低く、無駄がない。
ひとりは痩せた男だった。両手に使い込まれた双剣を握っている。
ひとりは丸太のような腕をした大男。
もうひとりは小柄で、影のように身軽な男。
そして最後に、体格に合わない黒衣をまとった小柄な少女がいた。
少女は、武器を構えていなかった。
その目は、最初から宝物庫の扉だけを見ていた。
金品に向ける欲の目ではない。
焦りと恐怖に追い立てられた目だった。
「ここはローゼンバーグ侯爵家の私有地だ」
ゼイクが一歩前に出た。
剣先が雨を受け、細く光る。
「武器を捨て、退去しろ。抵抗するなら、王都の法に基づき拘束する」
双剣の男が、ゆっくりと構えた。
「悪いな、騎士様」
軽い口調を装っている。
だが、声の奥は硬かった。
「俺たちにも、引けない理由がある」
「理由があれば、法を犯してよいわけではない」
「分かってる」
男は短く答えた。
「それでも、行くしかねぇんだ」
瞬は、その言葉に眉を動かした。
開き直りではない。
悪意でもない。
追い詰められた者が、それでも前へ進むしかない時の声だった。
次の瞬間、黒衣の四人が散った。
双剣の男が瞬へ。
大男がゼイクへ。
小柄な男がエリーゼへ。
そして少女だけが、戦いを避けるように宝物庫の扉へ向かった。
ゼイクの剣と、大男の得物がぶつかった。
重い音が回廊に響き、足元の水たまりが跳ね上がる。大男の一撃は、まともに受ければ人間の骨を砕く重さだった。だがゼイクは踏みとどまった。鎧の継ぎ目から滴る雨水が、白い刃の上を流れていく。
「力はある」
ゼイクは低く言った。
「だが、急所を避けているな」
大男の目が、一瞬だけ揺れた。
「黙れ……!」
再び振り下ろされる一撃。
だが、その軌道はやはり首を狙わない。肩、腕、足。動きを止めるための攻撃ばかりだった。
エリーゼの前では、小柄な男が雨の中を滑るように走っていた。
「速いわね」
エリーゼが杖を振る。
石畳の表面が白く凍り、小柄な男の足を奪おうとする。男は身をひねり、転びかけながらも手をついて体勢を戻した。
「魔女相手に正面から突っ込むほど、馬鹿じゃねぇよ」
「なら、なぜ来たの?」
エリーゼの声は静かだった。
小柄な男は答えなかった。
ただ、唇を噛み、宝物庫の扉へ視線を走らせる。
その沈黙だけで、エリーゼには十分だった。
「……金目当てではないのね」
瞬の前で、双剣が雨を裂いた。
一撃目。
二撃目。
刃は鋭い。速度もある。だが、瞬には届かない。
半歩だけずれて避ける。指先で刃の腹を弾く。濡れた石畳を踏み、相手の重心の流れを見切る。
瞬は攻撃しなかった。
ただ、見ていた。
剣の軌道。
踏み込みの浅さ。
息の乱れ。
視線の迷い。
「お前ら、本気で殺しに来てないな」
双剣の男の動きが一瞬止まった。
すぐに刃を返してくるが、そのわずかな間が答えだった。
「何を根拠に――」
「衛兵は死んでない。使用人もだ。屋根から派手に入ってきた割に、壊したのは瓦だけ。ゼイクへの攻撃も、エリーゼへの攻撃も、急所を外してる」
瞬は三度目の斬撃をかわし、男の手首を掴んだ。
「盗賊にしては、ずいぶん優しいな」
男は歯を食いしばった。
雨が覆面を濡らし、布の端から雫が落ちる。
「……殺しはしねぇ」
「なんで?」
「それをやったら、戻れなくなる」
男の目が、ほんの一瞬だけ少女へ向いた。
「俺たちは綺麗な人間じゃねぇ。泥棒だ。奪って生きてきた。けどな……人殺しにだけは、なりたくねぇんだよ」
瞬は、手首を掴む力を少しだけ緩めた。
その時、宝物庫の扉の前で、少女が震える声を上げた。
「開いて……お願い、開いて……!」
彼女は鍵穴に細い道具を差し込んでいた。
けれど、雨で濡れた指先は思うように動かない。道具が滑り、石畳に落ちる。少女は慌てて拾い上げ、また鍵穴へ向かう。
「早くしないと……あの子が……!」
瞬の胸の奥が、重く鳴った。
「あの子?」
双剣の男が瞬の手を振り払おうとする。
「離せ!」
「答えろ。お前らは何を探してる?」
「薬だ!」
男の叫びが、雨を裂いた。
「金なんかいらねぇ! 宝石もいらねぇ! 俺たちが欲しいのは『聖女の涙』だけだ!」
その名が出た瞬間、空気が揺れた。
ゼイクの剣が止まり、エリーゼの目が細くなる。
メイも、小さく息を呑んだ。
少女が宝物庫の扉に縋りついたまま、涙声で叫ぶ。
「お願い、邪魔しないで! あれがないと、あの子が死んじゃうの!」
その声は、雨に濡れて震えていた。
だが、嘘ではなかった。
瞬は少女を見た。
泥に膝をつき、爪が割れそうなほど扉へ縋りつく背中。
それは、盗みに来た者の背中ではなかった。
大切な命を、どうしても失いたくない者の背中だった。
その時。
場違いなほど澄んだ声が、頭上から降ってきた。
「あら。ずいぶん手間取っていますのね」
全員が顔を上げた。
屋敷の二階。
雨の届かないバルコニーの奥に、アリスが立っていた。
深紅のドレス。
開かれた扇子。
傍らには、傘を持った従者。
彼女は雨に濡れない場所から、泥にまみれた者たちを見下ろしていた。
その姿は美しかった。
あまりにも美しくて、冷たかった。
「瞬くん」
アリスは微笑んだ。
「何を迷っていますの?」
瞬は答えなかった。
アリスの声だけが、雨音の中で澄んで響く。
「その方たちは侵入者です。犯罪者です。倒されるために、ここへ来た障害物ですわ」
黒猫たちの動きが止まった。
少女の手から、解錠道具が落ちる。
カン、と小さな金属音が石畳で跳ねた。
アリスは扇子で口元を隠したまま、続ける。
「早く終わらせてくださいな」
雷光が夜を裂いた。
その白い光が、瞬の顔を照らす。
彼は、まだ何も言わなかった。
ただ、双剣の男の手首を掴む指に、静かに力が入る。
男は瞬ではなく、バルコニーのアリスを見上げていた。
雨に濡れた瞳に、怒りと屈辱が浮かんでいる。
「……俺たちが、障害物だと?」
アリスは首をかしげた。
その仕草さえ、完璧な令嬢のものだった。
「違いますの?」
その一言が、雨よりも冷たく落ちた。
瞬の中で、何かが静かに軋んだ。
「違いますの?」
その一言が、雨よりも冷たく落ちた。
宝物庫の扉に縋っていた少女の肩が、びくりと震える。
双剣の男は、瞬に手首を掴まれたまま、バルコニーのアリスを睨み上げていた。雨で濡れた覆面の奥から、荒い息が漏れている。怒りなのか、寒さなのか、あるいは屈辱なのか、その体は小刻みに震えていた。
「俺たちが……障害物……?」
男の声は、低く掠れていた。
アリスは扇子の陰で、変わらず美しく微笑んでいる。
「ええ。屋敷に忍び込み、宝物庫を狙う侵入者。護衛の前に現れる敵。とても分かりやすい役割ではありませんこと?」
「役割……だと……」
「そうですわ」
雨が、石畳を叩く。
水しぶきが跳ね、泥が黒衣の裾を汚していく。だが、バルコニーに立つアリスのドレスには雨粒ひとつ届かない。まるで彼女だけが別の場所にいるようだった。
瞬は、アリスを見上げた。
その姿は、昼間に見た完璧な令嬢そのものだった。
背筋は伸び、仕草は優雅で、声は澄んでいる。
けれど、今の瞬には分かる。
あれは、鎧だ。
誰にも近づかせないための、冷たく美しい鎧。
「役割なんかじゃない!」
宝物庫の前で、少女が叫んだ。
雨で張りついた前髪の下から、涙に濡れた瞳がアリスを睨み上げる。泥の中に膝をつき、指先を赤く擦りむきながら、それでも彼女は宝物庫の扉から離れようとしなかった。
「私たちは、倒されるために来たんじゃない! あの子を助けたいから来たの! 怖くても、死ぬかもしれなくても、それでも……!」
「アンナ、やめろ!」
双剣の男が叫んだ。
少女――アンナは、唇を噛んだ。
その名前が雨の中に落ちた瞬間、瞬の胸の奥で何かが重く沈んだ。
アンナ。
名前がある。
ただの侵入者ではない。
ただの盗賊ではない。
宝物庫の前で震えている一人の少女だ。
瞬は、掴んでいた男の手首をゆっくりと離した。
「お前は?」
男が警戒したように瞬を見る。
「名前だよ」
「……キース」
短い答えだった。
瞬は頷いた。
「キース。アンナ。あと、そっちの二人も名前があるんだろ」
大男が歯を食いしばる。
「ボルグだ」
小柄な男が短刀を構えたまま、低く言う。
「ティック」
瞬は一人ずつ見た。
雨に濡れ、泥に汚れ、追い詰められた四人。
彼らは確かに盗みに来た。
法を犯した。
それは事実だ。
だが、彼らは決して、倒されるためだけに置かれた石ころではなかった。
「聞いたか、アリス」
瞬はバルコニーを見上げた。
「名前があるぞ」
「名前くらい、誰にでもありますわ」
アリスの声は揺れない。
「それで罪が消えるわけではありません」
「罪の話をしてるんじゃない」
「では何の話ですの?」
「人間の話だ」
瞬の声が、雨の底を這うように低くなった。
雷光が走り、彼の横顔を白く照らす。
「こいつらは、人間だ。怖がってる。焦ってる。守りたいものがある。殺したくないから急所を外して、それでも薬が欲しいから命懸けでここまで来た」
アリスの扇子が、ほんの少しだけ止まった。
「それを、お前は本当に障害物って呼ぶのか?」
「……呼びますわ」
答えは早かった。
早すぎた。
考える前に、否定しなければならなかったように。
「そう呼ばなければ、線が引けませんもの」
「線?」
「こちら側と、あちら側」
アリスは言った。
「守るべきものと、切り捨てるもの。味方と敵。関わるものと、関わらないもの。そうやって分けなければ、心などいくらあっても足りませんわ」
その声は、冷たい。
けれど瞬には、その冷たさの奥で何かが軋む音が聞こえた気がした。
「この世界は、誰かの事情で溢れています。誰もが泣いている。誰もが困っている。誰もが自分こそ救われるべきだと思っている。そんなものを一つ一つ抱え込んでいたら、いつか自分が壊れます」
雨が強くなる。
アリスの背後で、従者の持つ傘が風に揺れた。
「だから、見ないのです。聞かないのです。あちら側の痛みは、あちら側のものとして切り離す。それが賢い生き方ですわ」
「賢いかもしれないな」
瞬は静かに言った。
「でも、寂しい生き方だ」
アリスの瞳が、一瞬だけ揺れた。
扇子の陰で、唇がわずかに強張る。
「……分かったような口を利かないでくださる?」
「ああ。分かってない」
瞬は即答した。
「お前が何を失ったのか、俺は知らない。何が怖くて、そんなふうに線を引いてるのかも知らない」
アリスは黙った。
雨音だけが、庭園を満たす。
「でも、今ここで泥の中にいる奴らを見て、作り物だとか、障害物だとか、そんな言葉で片づけていい理由にはならない」
アンナが、宝物庫の扉の前で泣いていた。
声を殺している。
けれど肩は震えている。
キースは、そんなアンナを守るように立っていた。ボルグもティックも、勝てないと分かっている相手を前に、それでも武器を捨てようとはしない。
瞬は、その姿を見た。
アリスにも見せたかった。
雨の冷たさ。
泥の重さ。
震える息。
それでも誰かを守ろうとする、どうしようもなく不器用な熱。
「おい、キース」
瞬は言った。
キースが身構える。
「何だ」
「お前らは、俺たちに勝てない」
その言葉に、黒猫たちの空気が張り詰めた。
キースの双剣が上がる。
ボルグの肩に力が入る。
ティックがアンナを庇うように半歩動いた。
だが瞬は、剣も拳も構えなかった。
「でも、殺さない」
雨音の中で、その言葉だけがはっきり響いた。
「誰も殺さない。お前らにも殺させない。衛兵にも殺させない」
キースの目が揺れた。
「……何を言ってる」
「そのままの意味だ」
瞬は続けた。
「宝物庫は破らせない。けど、お前らをただの悪党として潰すつもりもない」
「ふざけんな……」
キースの声が震える。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ! 俺たちはここまで来たんだ! もう引けねぇんだよ!」
「なら、俺を越えて行け」
瞬は一歩前へ出た。
水たまりが弾ける。
「ただし、全力で止める」
キースの目に、怒りが宿る。
いや、怒りだけではない。
希望を奪われそうになった者の、最後の抵抗だった。
「……いいぜ」
キースは双剣を握り直した。
「だったら、止めてみろよ、英雄サマ」
空が白く光る。
雷鳴が遅れて轟いた。
その瞬間、黒猫たちが一斉に動いた。
キースの双剣が、雨を裂いて瞬へ迫る。
ボルグがゼイクを押し切ろうと、全身をぶつけるように踏み込んだ。ティックはエリーゼの魔法の隙を探し、低い姿勢で回り込む。アンナはその間に、もう一度宝物庫の扉へ手を伸ばした。
戦いが再び動き出す。
だが、先ほどとは違っていた。
誰も殺そうとしていない。
誰も殺させまいとしている。
雨の中で、刃と刃がぶつかり、靴底が水を叩き、荒い息が重なった。
瞬はキースの斬撃を受け流す。
一撃。
二撃。
三撃。
そのすべてが速い。
だが、焦りが混ざっている。
時間がない。
だから乱れる。
瞬は懐に入った。
拳を振るわず、肩で軽く押す。キースの体勢が崩れ、双剣の片方が跳ね上がる。その手首を押さえ、足を払う。キースは泥水の中に片膝をついた。
「くそっ!」
キースはすぐに立ち上がろうとする。
瞬はそれを許さない。
だが、叩き伏せることもしない。
ただ、逃げ道だけを塞ぐ。
その横で、ゼイクはボルグの重い攻撃を真正面から受け止めていた。
「貴様、力任せに見えて、仲間の位置をよく見ているな」
「うるせぇ!」
「誇っていい。雑な暴力ではない」
「褒めんな! やりづれぇだろ!」
ボルグが叫びながら得物を振るう。
ゼイクはその攻撃を受け、流し、決して急所を狙わない。
エリーゼはティックの足元だけを凍らせた。
「くっそ、嫌なところばっか凍らせやがって!」
「転ばせるだけよ。感謝なさい」
「感謝できるか!」
ティックが身をひねるが、濡れた石畳と薄氷に足を取られ、壁際へ追い込まれていく。
メイはアンナの前に立った。
武器は構えない。
ただ、両手を広げる。
「どいて!」
アンナが叫ぶ。
「お願い、どいて! あの子が死んじゃうの!」
メイは唇を噛んだ。
その声に、嘘がないことが分かってしまうから。
痛いほど、分かってしまうから。
「ごめんね」
メイは震える声で言った。
「でも、この扉は開けさせられない」
「なんでよ!」
「このままじゃ、あなたたちがもっと傷つくから」
アンナが泣きながらメイを睨む。
「傷ついてもいい! あの子が助かるなら、私なんてどうなってもいい!」
メイの肩が小さく震えた。
その言葉は、彼女の胸にも突き刺さった。
誰かのために、自分などどうでもいいと思ってしまう気持ち。
それを、メイは知っている。
けれど今、彼女は瞬の隣に立つ者として首を横に振った。
「駄目」
小さな声だった。
だが、まっすぐだった。
「あなたも、どうなってもいい人じゃない」
アンナの目が見開かれた。
そのわずかな隙に、メイはアンナの手首を優しく掴み、解錠道具をそっと取り上げた。
乱暴ではない。
けれど、確かに止めた。
戦いの音が、少しずつ小さくなっていく。
キースは泥水に膝をつき、肩で息をしていた。
ボルグはゼイクに武器を押さえ込まれ、ティックは氷に足を取られて動けない。アンナはメイの前で、力を失ったように座り込んでいる。
勝敗は見えていた。
だが、それは勝者と敗者を分けるためのものではなかった。
誰も殺さず、誰も殺されずに止めるための、ぎりぎりの線だった。
バルコニーの上で、アリスは黙っていた。
扇子の陰で、彼女の指が強く握られている。
その瞳には、理解できないものを見る戸惑いが浮かんでいた。
圧倒的な力があるのに、壊さない。
敵と呼べる相手なのに、斬らない。
勝てるのに、傷つけない。
そんな戦い方を、彼女は知らなかった。
瞬は泥水の中に膝をついたキースの前へ立った。
「終わりだ」
キースは顔を上げた。
覆面は濡れ、頬には泥がついている。目だけが、まだ諦めきれずに瞬を睨んでいた。
「……終われるわけねぇだろ」
その声は、血を吐くようだった。
「俺たちが終わったら、あの子も終わるんだよ」
アンナが泣き崩れた。
ボルグが歯を食いしばり、ティックが顔を伏せる。
雨はさらに激しくなった。
水は石畳を流れ、黒猫たちの泥を洗い流すこともなく、ただ冷たく濡らし続ける。
その時、アリスの声が再び降ってきた。
「ご苦労さまですわ、瞬くん」
静かな声だった。
感情の薄い声。
「それで十分です。あとは衛兵に引き渡せば、この騒ぎは終わります」
キースが、弾かれたようにアリスを見上げた。
「待て……!」
その声は、もう怒号ではなかった。
懇願だった。
「頼む……俺の首でいい。俺だけでいい。だから、薬だけは……あの子を助ける薬だけは持って行かせてくれ……!」
キースは泥水の中で頭を下げた。
双剣を手放し、両手を石畳につく。
雨が背中を叩く。
それでも、彼は顔を上げない。
「頼む……頼むよ……!」
アンナも泣きながら額を地面につけた。
「お願いします……! あの子、まだ小さいの……。何も悪いことしてないの……!」
ボルグも、ティックも、言葉を失っていた。
彼らは武器を持つ者ではなくなっていた。
ただ、救いを求める人間になっていた。
瞬はその光景を見た。
そして、バルコニーのアリスを見上げた。
アリスは、扇子で口元を隠したまま立っていた。
沈黙。
雨音。
雷鳴。
誰もが、彼女の言葉を待っていた。
けれど、彼女の口から出たのは、救いではなかった。
「……本当に、よくできた悲劇ですわね」
キースの肩が止まった。
アンナの泣き声も止まった。
アリスは続ける。
「病気の子ども。命懸けの兄たち。届かない希望。見ている者の心を揺さぶるには十分です」
「アリス」
瞬の声が、低く響いた。
だが、アリスは止まらなかった。
「でも、それが何だと言うのです。悲しければ、何をしてもよいの? 泣けば、許されるの? 泥に額をつければ、すべての扉が開くと思っているの?」
その声は冷たい。
けれど、どこか必死だった。
冷たくあり続けようとしている。
そうしなければ、自分が崩れてしまうとでもいうように。
「あなたたちは侵入者です。犯罪者です。役目を果たし、敗北した。それで終わりですわ」
瞬は、ゆっくりと立ち上がった。
雨が彼の肩を打つ。
黒猫たちは、もう動かない。
衛兵たちも、ゼイクの制止で距離を保っている。
この場で一番激しいものは、もう刃ではなかった。
瞬の胸の奥で燃える、静かな怒りだった。
「……降りてこい」
瞬は言った。
その声に、全員が息を呑む。
アリスの扇子が止まった。
「何ですって?」
「そこから見下ろしてないで、降りてこい」
瞬はアリスを見上げた。
雨で濡れた黒髪の下、黒い瞳がまっすぐ彼女を射抜いている。
「こいつらの目の前に立って、同じ雨に濡れて、それでも同じことが言えるなら言ってみろ」
アリスの表情が、初めてわずかに歪んだ。
「……命令なさるの?」
「違う」
瞬は言った。
「引きずり下ろすんだよ」
雷光が走った。
一瞬だけ、庭園も、回廊も、黒猫たちも、アリスも、白く照らされる。
その光の中で、瞬は静かに告げた。
「お前がこいつらを人間として見ないなら」
雨音が、言葉の続きを待つように低く沈んだ。
「俺がその考えごと、ぶち壊してやる」
アリスは黙っていた。
扇子の陰に隠れた唇は見えない。
けれど、その指先は震えていた。
雨の夜。
完璧な庭園は泥にまみれ、薔薇は頭を垂れ、宝物庫の前には四人の盗賊が膝をついていた。
そして、雨に濡れない高みから世界を見下ろしていた令嬢は、初めて自分の足元が揺らぐ音を聞いていた。




