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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第38話:雨の夜の襲撃者 〜一滴は大海である〜

夜が、雨を連れてきた。


 空は昼間の晴れやかさを忘れたように黒く沈み、雲の奥で雷が低く唸っていた。最初に落ちてきたのは、窓硝子をかすかに叩く小さな雫だった。


 ぽつり。


 ぽつり。


 それはすぐに数を増やし、白亜の壁を濡らし、石畳に黒い斑点を作り、やがて屋敷全体を包み込む豪雨へと変わっていった。


 ローゼンバーグ侯爵家の庭園は、水の檻に閉じ込められていた。


 昼には宝石のように輝いていた薔薇の花弁が、雨粒の重みに耐えきれず、うなだれるように垂れている。整えられていた芝生は黒く沈み、石畳の隙間には濁った水が細い川となって流れていた。噴水の清らかな音は、もう雨音に呑まれて聞こえない。


 風が吹くたび、薔薇の枝がしなり、葉と葉が擦れ合った。


 ざわ、ざわ、ざわ。


 まるで、庭そのものが何かを恐れて囁いているようだった。


 宝物庫へ続く回廊の前で、ゼイクは剣の柄に手を置いたまま、雨の向こうを睨んでいた。


 屋根はある。


 だが横殴りの雨は容赦なく吹き込み、白銀の鎧の表面を濡らしている。鎧を伝った水滴が肘の先に集まり、ぽたりと石畳へ落ちた。


 その音は、雨の轟きの中に消えるほど小さい。


 それでも、張り詰めた空気の中では妙にはっきりと聞こえた。


「視界が悪い」


 ゼイクの声は低かった。


「足元も悪い。侵入者にとっては、これ以上ない条件だ」


 隣で、エリーゼが杖を構えていた。


 彼女の周囲には、目に見えない細い糸のような魔力が張り巡らされている。雨粒がその糸に触れるたび、わずかに光り、すぐに闇へ溶けた。


「雨は嫌いではないけれど、こういう夜は余計な音が多すぎるわね」


 エリーゼは目を細めた。


「本当に聞くべき音まで、雨が隠してしまう」


 メイは瞬のそばに立っていた。


 白いアイガードの下の表情は読み取りにくい。けれど、胸の前で握った両手の力が、彼女の不安を物語っていた。


「瞬……来るのかな」


「来る」


 瞬は柱のそばに立ち、暗い庭園を見つめていた。


 雨の向こうに、昼間の完璧な庭園はもうない。


 泥。


 水。


 乱れた枝。


 落ちた花弁。


 綺麗に整えられていた場所ほど、壊れた時の痛々しさが目立つ。


 瞬の脳裏に、アリスの声が残っていた。


 この世界の人々を、役割だけで見ようとする声。


 傷つかないために、誰も本物だと認めない声。


 あの声を思い出すたび、胸の奥に熱が溜まっていく。


 瞬は拳を握った。


「ただの悪党なら止める」


 雨音に紛れるほど低く、瞬は呟いた。


「でも、そうじゃないなら……ちゃんと聞く」


 メイが少し顔を上げた。


「話を?」


「ああ」


 瞬は頷く。


「誰かが命懸けで来るなら、そこには理由があるはずだから」


 その時だった。


 エリーゼの指が、ぴくりと動いた。


 杖の先に集まっていた魔力の光が、細く鋭くなる。


「……来たわ」


 空気が、一瞬で変わった。


 ゼイクが剣を抜く。


 鞘から刃が滑り出る音が、雨の中で冷たく響いた。


「数は?」


「四」


 エリーゼの声が低くなる。


「正面ではないわ。庭園の木を足場にして、屋根へ回っている。足音が軽い。慣れているわね」


「上か」


 ゼイクが顔を上げた、その瞬間。


 頭上の瓦が砕け散った。


 ガシャァン!


 雨音と瓦礫の音が重なり、回廊の空気が破裂する。


 四つの影が、夜の中から落ちてきた。


 黒い衣装。


 顔を覆う布。


 濡れた石畳に着地する姿勢は低く、無駄がない。


 ひとりは痩せた男だった。両手に使い込まれた双剣を握っている。


 ひとりは丸太のような腕をした大男。


 もうひとりは小柄で、影のように身軽な男。


 そして最後に、体格に合わない黒衣をまとった小柄な少女がいた。


 少女は、武器を構えていなかった。


 その目は、最初から宝物庫の扉だけを見ていた。


 金品に向ける欲の目ではない。


 焦りと恐怖に追い立てられた目だった。


「ここはローゼンバーグ侯爵家の私有地だ」


 ゼイクが一歩前に出た。


 剣先が雨を受け、細く光る。


「武器を捨て、退去しろ。抵抗するなら、王都の法に基づき拘束する」


 双剣の男が、ゆっくりと構えた。


「悪いな、騎士様」


 軽い口調を装っている。


 だが、声の奥は硬かった。


「俺たちにも、引けない理由がある」


「理由があれば、法を犯してよいわけではない」


「分かってる」


 男は短く答えた。


「それでも、行くしかねぇんだ」


 瞬は、その言葉に眉を動かした。


 開き直りではない。


 悪意でもない。


 追い詰められた者が、それでも前へ進むしかない時の声だった。


 次の瞬間、黒衣の四人が散った。


 双剣の男が瞬へ。


 大男がゼイクへ。


 小柄な男がエリーゼへ。


 そして少女だけが、戦いを避けるように宝物庫の扉へ向かった。


 ゼイクの剣と、大男の得物がぶつかった。


 重い音が回廊に響き、足元の水たまりが跳ね上がる。大男の一撃は、まともに受ければ人間の骨を砕く重さだった。だがゼイクは踏みとどまった。鎧の継ぎ目から滴る雨水が、白い刃の上を流れていく。


「力はある」


 ゼイクは低く言った。


「だが、急所を避けているな」


 大男の目が、一瞬だけ揺れた。


「黙れ……!」


 再び振り下ろされる一撃。


 だが、その軌道はやはり首を狙わない。肩、腕、足。動きを止めるための攻撃ばかりだった。


 エリーゼの前では、小柄な男が雨の中を滑るように走っていた。


「速いわね」


 エリーゼが杖を振る。


 石畳の表面が白く凍り、小柄な男の足を奪おうとする。男は身をひねり、転びかけながらも手をついて体勢を戻した。


「魔女相手に正面から突っ込むほど、馬鹿じゃねぇよ」


「なら、なぜ来たの?」


 エリーゼの声は静かだった。


 小柄な男は答えなかった。


 ただ、唇を噛み、宝物庫の扉へ視線を走らせる。


 その沈黙だけで、エリーゼには十分だった。


「……金目当てではないのね」


 瞬の前で、双剣が雨を裂いた。


 一撃目。


 二撃目。


 刃は鋭い。速度もある。だが、瞬には届かない。


 半歩だけずれて避ける。指先で刃の腹を弾く。濡れた石畳を踏み、相手の重心の流れを見切る。


 瞬は攻撃しなかった。


 ただ、見ていた。


 剣の軌道。


 踏み込みの浅さ。


 息の乱れ。


 視線の迷い。


「お前ら、本気で殺しに来てないな」


 双剣の男の動きが一瞬止まった。


 すぐに刃を返してくるが、そのわずかな間が答えだった。


「何を根拠に――」


「衛兵は死んでない。使用人もだ。屋根から派手に入ってきた割に、壊したのは瓦だけ。ゼイクへの攻撃も、エリーゼへの攻撃も、急所を外してる」


 瞬は三度目の斬撃をかわし、男の手首を掴んだ。


「盗賊にしては、ずいぶん優しいな」


 男は歯を食いしばった。


 雨が覆面を濡らし、布の端から雫が落ちる。


「……殺しはしねぇ」


「なんで?」


「それをやったら、戻れなくなる」


 男の目が、ほんの一瞬だけ少女へ向いた。


「俺たちは綺麗な人間じゃねぇ。泥棒だ。奪って生きてきた。けどな……人殺しにだけは、なりたくねぇんだよ」


 瞬は、手首を掴む力を少しだけ緩めた。


 その時、宝物庫の扉の前で、少女が震える声を上げた。


「開いて……お願い、開いて……!」


 彼女は鍵穴に細い道具を差し込んでいた。


 けれど、雨で濡れた指先は思うように動かない。道具が滑り、石畳に落ちる。少女は慌てて拾い上げ、また鍵穴へ向かう。


「早くしないと……あの子が……!」


 瞬の胸の奥が、重く鳴った。


「あの子?」


 双剣の男が瞬の手を振り払おうとする。


「離せ!」


「答えろ。お前らは何を探してる?」


「薬だ!」


 男の叫びが、雨を裂いた。


「金なんかいらねぇ! 宝石もいらねぇ! 俺たちが欲しいのは『聖女の涙』だけだ!」


 その名が出た瞬間、空気が揺れた。


 ゼイクの剣が止まり、エリーゼの目が細くなる。


 メイも、小さく息を呑んだ。


 少女が宝物庫の扉に縋りついたまま、涙声で叫ぶ。


「お願い、邪魔しないで! あれがないと、あの子が死んじゃうの!」


 その声は、雨に濡れて震えていた。


 だが、嘘ではなかった。


 瞬は少女を見た。


 泥に膝をつき、爪が割れそうなほど扉へ縋りつく背中。


 それは、盗みに来た者の背中ではなかった。


 大切な命を、どうしても失いたくない者の背中だった。


 その時。


 場違いなほど澄んだ声が、頭上から降ってきた。


「あら。ずいぶん手間取っていますのね」


 全員が顔を上げた。


 屋敷の二階。


 雨の届かないバルコニーの奥に、アリスが立っていた。


 深紅のドレス。


 開かれた扇子。


 傍らには、傘を持った従者。


 彼女は雨に濡れない場所から、泥にまみれた者たちを見下ろしていた。


 その姿は美しかった。


 あまりにも美しくて、冷たかった。


「瞬くん」


 アリスは微笑んだ。


「何を迷っていますの?」


 瞬は答えなかった。


 アリスの声だけが、雨音の中で澄んで響く。


「その方たちは侵入者です。犯罪者です。倒されるために、ここへ来た障害物ですわ」


 黒猫たちの動きが止まった。


 少女の手から、解錠道具が落ちる。


 カン、と小さな金属音が石畳で跳ねた。


 アリスは扇子で口元を隠したまま、続ける。


「早く終わらせてくださいな」


 雷光が夜を裂いた。


 その白い光が、瞬の顔を照らす。


 彼は、まだ何も言わなかった。


 ただ、双剣の男の手首を掴む指に、静かに力が入る。


 男は瞬ではなく、バルコニーのアリスを見上げていた。


 雨に濡れた瞳に、怒りと屈辱が浮かんでいる。


「……俺たちが、障害物だと?」


 アリスは首をかしげた。


 その仕草さえ、完璧な令嬢のものだった。


「違いますの?」


 その一言が、雨よりも冷たく落ちた。


 瞬の中で、何かが静かに軋んだ。


「違いますの?」


 その一言が、雨よりも冷たく落ちた。


 宝物庫の扉に縋っていた少女の肩が、びくりと震える。


 双剣の男は、瞬に手首を掴まれたまま、バルコニーのアリスを睨み上げていた。雨で濡れた覆面の奥から、荒い息が漏れている。怒りなのか、寒さなのか、あるいは屈辱なのか、その体は小刻みに震えていた。


「俺たちが……障害物……?」


 男の声は、低く掠れていた。


 アリスは扇子の陰で、変わらず美しく微笑んでいる。


「ええ。屋敷に忍び込み、宝物庫を狙う侵入者。護衛の前に現れる敵。とても分かりやすい役割ではありませんこと?」


「役割……だと……」


「そうですわ」


 雨が、石畳を叩く。


 水しぶきが跳ね、泥が黒衣の裾を汚していく。だが、バルコニーに立つアリスのドレスには雨粒ひとつ届かない。まるで彼女だけが別の場所にいるようだった。


 瞬は、アリスを見上げた。


 その姿は、昼間に見た完璧な令嬢そのものだった。


 背筋は伸び、仕草は優雅で、声は澄んでいる。


 けれど、今の瞬には分かる。


 あれは、鎧だ。


 誰にも近づかせないための、冷たく美しい鎧。


「役割なんかじゃない!」


 宝物庫の前で、少女が叫んだ。


 雨で張りついた前髪の下から、涙に濡れた瞳がアリスを睨み上げる。泥の中に膝をつき、指先を赤く擦りむきながら、それでも彼女は宝物庫の扉から離れようとしなかった。


「私たちは、倒されるために来たんじゃない! あの子を助けたいから来たの! 怖くても、死ぬかもしれなくても、それでも……!」


「アンナ、やめろ!」


 双剣の男が叫んだ。


 少女――アンナは、唇を噛んだ。


 その名前が雨の中に落ちた瞬間、瞬の胸の奥で何かが重く沈んだ。


 アンナ。


 名前がある。


 ただの侵入者ではない。


 ただの盗賊ではない。


 宝物庫の前で震えている一人の少女だ。


 瞬は、掴んでいた男の手首をゆっくりと離した。


「お前は?」


 男が警戒したように瞬を見る。


「名前だよ」


「……キース」


 短い答えだった。


 瞬は頷いた。


「キース。アンナ。あと、そっちの二人も名前があるんだろ」


 大男が歯を食いしばる。


「ボルグだ」


 小柄な男が短刀を構えたまま、低く言う。


「ティック」


 瞬は一人ずつ見た。


 雨に濡れ、泥に汚れ、追い詰められた四人。


 彼らは確かに盗みに来た。


 法を犯した。


 それは事実だ。


 だが、彼らは決して、倒されるためだけに置かれた石ころではなかった。


「聞いたか、アリス」


 瞬はバルコニーを見上げた。


「名前があるぞ」


「名前くらい、誰にでもありますわ」


 アリスの声は揺れない。


「それで罪が消えるわけではありません」


「罪の話をしてるんじゃない」


「では何の話ですの?」


「人間の話だ」


 瞬の声が、雨の底を這うように低くなった。


 雷光が走り、彼の横顔を白く照らす。


「こいつらは、人間だ。怖がってる。焦ってる。守りたいものがある。殺したくないから急所を外して、それでも薬が欲しいから命懸けでここまで来た」


 アリスの扇子が、ほんの少しだけ止まった。


「それを、お前は本当に障害物って呼ぶのか?」


「……呼びますわ」


 答えは早かった。


 早すぎた。


 考える前に、否定しなければならなかったように。


「そう呼ばなければ、線が引けませんもの」


「線?」


「こちら側と、あちら側」


 アリスは言った。


「守るべきものと、切り捨てるもの。味方と敵。関わるものと、関わらないもの。そうやって分けなければ、心などいくらあっても足りませんわ」


 その声は、冷たい。


 けれど瞬には、その冷たさの奥で何かが軋む音が聞こえた気がした。


「この世界は、誰かの事情で溢れています。誰もが泣いている。誰もが困っている。誰もが自分こそ救われるべきだと思っている。そんなものを一つ一つ抱え込んでいたら、いつか自分が壊れます」


 雨が強くなる。


 アリスの背後で、従者の持つ傘が風に揺れた。


「だから、見ないのです。聞かないのです。あちら側の痛みは、あちら側のものとして切り離す。それが賢い生き方ですわ」


「賢いかもしれないな」


 瞬は静かに言った。


「でも、寂しい生き方だ」


 アリスの瞳が、一瞬だけ揺れた。


 扇子の陰で、唇がわずかに強張る。


「……分かったような口を利かないでくださる?」


「ああ。分かってない」


 瞬は即答した。


「お前が何を失ったのか、俺は知らない。何が怖くて、そんなふうに線を引いてるのかも知らない」


 アリスは黙った。


 雨音だけが、庭園を満たす。


「でも、今ここで泥の中にいる奴らを見て、作り物だとか、障害物だとか、そんな言葉で片づけていい理由にはならない」


 アンナが、宝物庫の扉の前で泣いていた。


 声を殺している。


 けれど肩は震えている。


 キースは、そんなアンナを守るように立っていた。ボルグもティックも、勝てないと分かっている相手を前に、それでも武器を捨てようとはしない。


 瞬は、その姿を見た。


 アリスにも見せたかった。


 雨の冷たさ。


 泥の重さ。


 震える息。


 それでも誰かを守ろうとする、どうしようもなく不器用な熱。


「おい、キース」


 瞬は言った。


 キースが身構える。


「何だ」


「お前らは、俺たちに勝てない」


 その言葉に、黒猫たちの空気が張り詰めた。


 キースの双剣が上がる。


 ボルグの肩に力が入る。


 ティックがアンナを庇うように半歩動いた。


 だが瞬は、剣も拳も構えなかった。


「でも、殺さない」


 雨音の中で、その言葉だけがはっきり響いた。


「誰も殺さない。お前らにも殺させない。衛兵にも殺させない」


 キースの目が揺れた。


「……何を言ってる」


「そのままの意味だ」


 瞬は続けた。


「宝物庫は破らせない。けど、お前らをただの悪党として潰すつもりもない」


「ふざけんな……」


 キースの声が震える。


「じゃあ、どうしろって言うんだよ! 俺たちはここまで来たんだ! もう引けねぇんだよ!」


「なら、俺を越えて行け」


 瞬は一歩前へ出た。


 水たまりが弾ける。


「ただし、全力で止める」


 キースの目に、怒りが宿る。


 いや、怒りだけではない。


 希望を奪われそうになった者の、最後の抵抗だった。


「……いいぜ」


 キースは双剣を握り直した。


「だったら、止めてみろよ、英雄サマ」


 空が白く光る。


 雷鳴が遅れて轟いた。


 その瞬間、黒猫たちが一斉に動いた。


 キースの双剣が、雨を裂いて瞬へ迫る。


 ボルグがゼイクを押し切ろうと、全身をぶつけるように踏み込んだ。ティックはエリーゼの魔法の隙を探し、低い姿勢で回り込む。アンナはその間に、もう一度宝物庫の扉へ手を伸ばした。


 戦いが再び動き出す。


 だが、先ほどとは違っていた。


 誰も殺そうとしていない。


 誰も殺させまいとしている。


 雨の中で、刃と刃がぶつかり、靴底が水を叩き、荒い息が重なった。


 瞬はキースの斬撃を受け流す。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 そのすべてが速い。


 だが、焦りが混ざっている。


 時間がない。


 だから乱れる。


 瞬は懐に入った。


 拳を振るわず、肩で軽く押す。キースの体勢が崩れ、双剣の片方が跳ね上がる。その手首を押さえ、足を払う。キースは泥水の中に片膝をついた。


「くそっ!」


 キースはすぐに立ち上がろうとする。


 瞬はそれを許さない。


 だが、叩き伏せることもしない。


 ただ、逃げ道だけを塞ぐ。


 その横で、ゼイクはボルグの重い攻撃を真正面から受け止めていた。


「貴様、力任せに見えて、仲間の位置をよく見ているな」


「うるせぇ!」


「誇っていい。雑な暴力ではない」


「褒めんな! やりづれぇだろ!」


 ボルグが叫びながら得物を振るう。


 ゼイクはその攻撃を受け、流し、決して急所を狙わない。


 エリーゼはティックの足元だけを凍らせた。


「くっそ、嫌なところばっか凍らせやがって!」


「転ばせるだけよ。感謝なさい」


「感謝できるか!」


 ティックが身をひねるが、濡れた石畳と薄氷に足を取られ、壁際へ追い込まれていく。


 メイはアンナの前に立った。


 武器は構えない。


 ただ、両手を広げる。


「どいて!」


 アンナが叫ぶ。


「お願い、どいて! あの子が死んじゃうの!」


 メイは唇を噛んだ。


 その声に、嘘がないことが分かってしまうから。


 痛いほど、分かってしまうから。


「ごめんね」


 メイは震える声で言った。


「でも、この扉は開けさせられない」


「なんでよ!」


「このままじゃ、あなたたちがもっと傷つくから」


 アンナが泣きながらメイを睨む。


「傷ついてもいい! あの子が助かるなら、私なんてどうなってもいい!」


 メイの肩が小さく震えた。


 その言葉は、彼女の胸にも突き刺さった。


 誰かのために、自分などどうでもいいと思ってしまう気持ち。


 それを、メイは知っている。


 けれど今、彼女は瞬の隣に立つ者として首を横に振った。


「駄目」


 小さな声だった。


 だが、まっすぐだった。


「あなたも、どうなってもいい人じゃない」


 アンナの目が見開かれた。


 そのわずかな隙に、メイはアンナの手首を優しく掴み、解錠道具をそっと取り上げた。


 乱暴ではない。


 けれど、確かに止めた。


 戦いの音が、少しずつ小さくなっていく。


 キースは泥水に膝をつき、肩で息をしていた。


 ボルグはゼイクに武器を押さえ込まれ、ティックは氷に足を取られて動けない。アンナはメイの前で、力を失ったように座り込んでいる。


 勝敗は見えていた。


 だが、それは勝者と敗者を分けるためのものではなかった。


 誰も殺さず、誰も殺されずに止めるための、ぎりぎりの線だった。


 バルコニーの上で、アリスは黙っていた。


 扇子の陰で、彼女の指が強く握られている。


 その瞳には、理解できないものを見る戸惑いが浮かんでいた。


 圧倒的な力があるのに、壊さない。


 敵と呼べる相手なのに、斬らない。


 勝てるのに、傷つけない。


 そんな戦い方を、彼女は知らなかった。


 瞬は泥水の中に膝をついたキースの前へ立った。


「終わりだ」


 キースは顔を上げた。


 覆面は濡れ、頬には泥がついている。目だけが、まだ諦めきれずに瞬を睨んでいた。


「……終われるわけねぇだろ」


 その声は、血を吐くようだった。


「俺たちが終わったら、あの子も終わるんだよ」


 アンナが泣き崩れた。


 ボルグが歯を食いしばり、ティックが顔を伏せる。


 雨はさらに激しくなった。


 水は石畳を流れ、黒猫たちの泥を洗い流すこともなく、ただ冷たく濡らし続ける。


 その時、アリスの声が再び降ってきた。


「ご苦労さまですわ、瞬くん」


 静かな声だった。


 感情の薄い声。


「それで十分です。あとは衛兵に引き渡せば、この騒ぎは終わります」


 キースが、弾かれたようにアリスを見上げた。


「待て……!」


 その声は、もう怒号ではなかった。


 懇願だった。


「頼む……俺の首でいい。俺だけでいい。だから、薬だけは……あの子を助ける薬だけは持って行かせてくれ……!」


 キースは泥水の中で頭を下げた。


 双剣を手放し、両手を石畳につく。


 雨が背中を叩く。


 それでも、彼は顔を上げない。


「頼む……頼むよ……!」


 アンナも泣きながら額を地面につけた。


「お願いします……! あの子、まだ小さいの……。何も悪いことしてないの……!」


 ボルグも、ティックも、言葉を失っていた。


 彼らは武器を持つ者ではなくなっていた。


 ただ、救いを求める人間になっていた。


 瞬はその光景を見た。


 そして、バルコニーのアリスを見上げた。


 アリスは、扇子で口元を隠したまま立っていた。


 沈黙。


 雨音。


 雷鳴。


 誰もが、彼女の言葉を待っていた。


 けれど、彼女の口から出たのは、救いではなかった。


「……本当に、よくできた悲劇ですわね」


 キースの肩が止まった。


 アンナの泣き声も止まった。


 アリスは続ける。


「病気の子ども。命懸けの兄たち。届かない希望。見ている者の心を揺さぶるには十分です」


「アリス」


 瞬の声が、低く響いた。


 だが、アリスは止まらなかった。


「でも、それが何だと言うのです。悲しければ、何をしてもよいの? 泣けば、許されるの? 泥に額をつければ、すべての扉が開くと思っているの?」


 その声は冷たい。


 けれど、どこか必死だった。


 冷たくあり続けようとしている。


 そうしなければ、自分が崩れてしまうとでもいうように。


「あなたたちは侵入者です。犯罪者です。役目を果たし、敗北した。それで終わりですわ」


 瞬は、ゆっくりと立ち上がった。


 雨が彼の肩を打つ。


 黒猫たちは、もう動かない。


 衛兵たちも、ゼイクの制止で距離を保っている。


 この場で一番激しいものは、もう刃ではなかった。


 瞬の胸の奥で燃える、静かな怒りだった。


「……降りてこい」


 瞬は言った。


 その声に、全員が息を呑む。


 アリスの扇子が止まった。


「何ですって?」


「そこから見下ろしてないで、降りてこい」


 瞬はアリスを見上げた。


 雨で濡れた黒髪の下、黒い瞳がまっすぐ彼女を射抜いている。


「こいつらの目の前に立って、同じ雨に濡れて、それでも同じことが言えるなら言ってみろ」


 アリスの表情が、初めてわずかに歪んだ。


「……命令なさるの?」


「違う」


 瞬は言った。


「引きずり下ろすんだよ」


 雷光が走った。


 一瞬だけ、庭園も、回廊も、黒猫たちも、アリスも、白く照らされる。


 その光の中で、瞬は静かに告げた。


「お前がこいつらを人間として見ないなら」


 雨音が、言葉の続きを待つように低く沈んだ。


「俺がその考えごと、ぶち壊してやる」


 アリスは黙っていた。


 扇子の陰に隠れた唇は見えない。


 けれど、その指先は震えていた。


 雨の夜。


 完璧な庭園は泥にまみれ、薔薇は頭を垂れ、宝物庫の前には四人の盗賊が膝をついていた。


 そして、雨に濡れない高みから世界を見下ろしていた令嬢は、初めて自分の足元が揺らぐ音を聞いていた。

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