第37話:転生者たちのティーパーティー 〜愛さないことは、傷つかないための最強の鎧である〜
重厚な扉が閉まった。
カチャリ、という鍵の音が、小さな部屋の空気を鋭く震わせる。
案内されたのは、ローゼンバーグ家の一室だった。壁には小鳥と花の絵が描かれ、淡い金色の額縁が規則正しく並んでいる。床には足首まで沈みそうなほど柔らかな絨毯が敷かれ、中央には白い猫脚の丸テーブルと、ふかふかのソファが向かい合って置かれていた。
窓辺の薄いカーテンが、外から忍び込む風で静かに揺れる。庭園の薔薇の香りが、ほんの少しだけ部屋の中へ入り込んでいた。遠くの噴水の水音は、扉と壁に遮られ、夢の奥で鳴っているようにぼやけている。
密室。
瞬とアリス、二人きり。
アリスは、扉に背を向けたまましばらく動かなかった。
深紅のドレスの裾が、絨毯の上に静かに広がっている。背筋はまだ伸びていた。髪も乱れていない。扇子を持つ指も優雅な角度を保っている。
けれど、その肩がわずかに上下していた。
呼吸を整えている。
いや、崩れ落ちないように耐えている。
瞬は黙ってその背中を見ていた。
アリスが、ゆっくりと扇子を閉じる。
パチン。
その乾いた音と同時に、彼女は天井のシャンデリアへ指を向け、軽く弾いた。空気が薄い膜のように震え、部屋全体を透明な布で包み込むような感覚が広がる。
「……これで、外には聞こえない」
声が変わっていた。
大広間で響いていた鈴のような令嬢の声ではない。もっと低く、少しかすれていて、疲れを押し殺しきれていない声だった。
アリスはそこで、ようやく振り返った。
そして、瞬を見た。
「もう一回、言って」
「え?」
「さっきの」
アリスの青い瞳が、逃げ道を塞ぐように瞬を見つめていた。
期待している。
けれど、期待している自分を必死に否定している。
そんな目だった。
瞬は小さく息を吸い、日本語で言った。
「あなたは、日本から来ましたか?」
その瞬間。
アリスの顔が、ぐしゃりと崩れそうになった。
ほんの一瞬だけだ。
次の瞬間には、彼女は両手で顔を覆い、天井を仰いだ。
「あーーーーーーっ……!」
細く長い声が、喉の奥から漏れた。
泣き声にも、笑い声にも聞こえる、不思議な声だった。
そして彼女は、その場でずるずると扉にもたれながら座り込んだ。完璧な姿勢も、完璧な微笑みも、完璧な令嬢の仮面も、音を立てて床に落ちたようだった。
「よかったぁ……本物だぁ……」
「お、おい」
「本物だよね? 日本語、読めるよね? 今の、私の聞き間違いじゃないよね?」
「ああ、読める。話せる」
瞬が答えると、アリスは両手を床についたまま、深く息を吐いた。
その息が、少し震えていた。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
窓辺のカーテンが、さらりと揺れた。
光の中を漂う埃が、ゆっくりと落ちていく。
アリスはその沈黙を振り払うように、急に顔を上げた。
「……よし」
そして、いきなり立ち上がった。
「あーーーーーっ、疲れた! マジで疲れた! このドレス、重すぎ! 肩が壊れる! ていうか令嬢の姿勢って何!? 背骨を棒に交換しないと無理でしょ、こんなの!」
瞬は目を丸くした。
つい数秒前まで、世界の終わりみたいな顔をしていた少女が、今度は髪飾りを乱暴に引き抜き、テーブルの上へぽいっと放り投げている。
カラン、と高そうな飾りが軽い音を立てた。
「あ、ちょっと待って。これ高いんだった」
アリスは慌てて髪飾りを拾い直し、そっとテーブルの端に置いた。
「そこは雑なんだか丁寧なんだか分からないな」
「高価なものには敬意を払うの。私、お金には誠実だから」
「人には?」
「ケースバイケース」
「最低寄りの返事だな」
アリスはソファに向かって歩くと、令嬢らしさの欠片もない勢いで倒れ込んだ。
ボフッ。
柔らかなクッションが彼女の体を受け止める。
「あぁぁぁ……生き返る……。ソファ、最高。人類の叡智。いや、この世界の職人もやるじゃん……」
瞬は、呆然としたまま立っていた。
「……確認するけど、お前、アリス・ローゼンバーグだよな?」
「今の体はね」
アリスはクッションに頬を埋めたまま、片手をひらひらさせた。
「中身は元・社畜。日本で二十七歳まで働いて、働いて、働いて、最後は机に突っ伏してそのまま終了。気づいたら、この家の赤ん坊になってた」
「社畜……」
「うん。前世は、残業代より眠気の方が信頼できる生活してた」
「それ、信頼しちゃダメなやつだろ」
アリスは顔を上げ、にやりと笑った。
「で、君は? 定番のあれ? トラック?」
「いや」
瞬は少しだけ視線を逸らした。
「机の角」
「……は?」
「居眠りして、机の角に頭ぶつけて死んだ」
沈黙。
アリスは瞬を見つめた。
その目が、じわじわと見開かれていく。
そして。
「ぶっ……!」
こらえきれなかったように、吹き出した。
「あっはははははは! 机の角!? 異世界転生の死因、机の角!? なにそれ、地味! 地味すぎる! トラックに謝って! 異世界転生業界に謝って!」
「業界ってなんだよ!」
「いやぁ、すごいわ。私、過労死だから相当しょっぱいと思ってたけど、負けた。君、優勝。机の角に負ける主人公、なかなかいないよ!」
「勝ちたくない優勝だな!」
アリスは腹を抱えて笑い転げた。
その笑い方は、さっきまでの完璧な令嬢からは想像もできないほど雑で、遠慮がなかった。ソファの上で足をばたつかせ、目尻に涙を浮かべている。
瞬も、つられて苦笑した。
警戒していた肩の力が、少しだけ抜ける。
なんだ。
思っていたより、普通に話せる。
そう思いかけた時だった。
アリスの笑い声が、不意に止まった。
彼女は目尻の涙を指で拭いながら、ほんのわずかに俯いた。
「……でも、本当にいたんだね」
声が、少しだけ小さくなる。
「私以外にも」
その一言は、さっきまでの冗談とは違った。
部屋の温度が、ほんの少し下がったように感じられた。
瞬は黙ってアリスを見た。
アリスはすぐに顔を上げ、わざと明るく笑った。
「あ、飲み物いる? そこの魔導冷却箱に、コーラもどきあるよ。完全再現とはいかないけど、炭酸っぽい刺激は出せたから。涙出るよ。懐かしすぎて」
「コーラもどき?」
「こっちの世界、コンビニないからね。人間、追い詰められると炭酸飲料まで自作するんだよ」
「転生者の努力の方向性として、それでいいのか?」
「いいの。心の健康に必要だから」
アリスは立ち上がり、棚の中から小瓶を二本取り出した。
片方を瞬に投げる。
「ほい」
「うおっ」
瞬が慌てて受け取ると、瓶の中で琥珀色の液体が小さく泡立った。
蓋を開けると、シュッ、と懐かしい音がした。
それだけで、瞬の胸の奥が少しだけ締めつけられる。
失ったはずの世界の匂いが、ほんの一瞬だけ戻ってきたようだった。
アリスは瓶を口に当て、令嬢らしさを一切捨てて飲んだ。
「ぷはーっ! これよ、これ! 生きるってこれ!」
「今の姿、外の人が見たら泣くぞ」
「外の人には見せないからいいの」
アリスはそう言って笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
彼女は瓶を両手で包むように持ち、窓の外を見た。
庭園では、使用人たちが規則正しく動いている。薔薇の枝を整え、石畳の埃を掃き、誰かの命令通りに音もなく働いている。
「この世界さ」
アリスが言った。
「綺麗だよね」
瞬は窓の外を見た。
「まあ、少なくともこの屋敷はな」
「うん。綺麗。魔法もあるし、貴族もいるし、魔物もいる。絵本みたいで、物語みたいで……本当に、よくできてる」
そこで、アリスの声から温度が抜けた。
「だから、気持ち悪い」
瞬は眉をひそめた。
「気持ち悪い?」
「そう。だって出来すぎてるじゃん。設定みたいな身分制度。都合よく出てくる魔道具。分かりやすい悪党。分かりやすい悲劇。まるで誰かが作った物語の中に、ぽんって放り込まれたみたい」
アリスは瓶の中の泡を見つめた。
泡は生まれて、光を反射して、すぐに消える。
「だから私は決めたの」
彼女は瞬を見る。
その瞳は、さっきまでの明るい同郷人のものではなかった。
冷たく、硬く、そしてどこか怯えている。
「この世界を、攻略するって」
「攻略?」
「そう」
アリスは笑った。
だが、それは楽しそうな笑みではない。
自分を守るために作った刃物のような笑みだった。
「プレイヤーは、私と君。あとは全部、用意された登場人物。役割通りに泣いて、笑って、死んでいく存在」
瞬の指が、瓶を握ったまま止まった。
アリスは、何でもないことのように続けた。
「この世界の人たちは、みんなNPCだよ」
柔らかな部屋の空気が、静かに凍った。
窓の外では、雲がゆっくりと太陽を覆い始めていた。
床に差し込んでいた光が細くなり、アリスの足元に長い影が伸びる。
瞬は、その影を見つめながら、ゆっくりと言った。
「……それ、本気で言ってるのか?」
アリスは、少しだけ笑った。
「本気だよ」
その笑顔は、今にも壊れそうなほど、薄かった。
「この世界の人たちは、みんなNPCだよ」
アリスは、もう一度そう言った。
声は軽かった。
まるで、今日の天気を告げるような調子だった。
けれど、その軽さがかえって異様だった。柔らかなソファ。白い丸テーブル。甘い薔薇の香り。泡立つ琥珀色の飲み物。穏やかな昼下がりの光。
そのすべてが、彼女の言葉ひとつで薄く冷えていく。
瞬は瓶をテーブルへ置いた。
コトン、という小さな音が、やけに大きく響いた。
「メイたちもか?」
アリスは一瞬だけ目を細めた。
「メイ?」
「俺の仲間だ。白いアイガードをしてた子」
「ああ、あの子ね」
アリスは肩をすくめた。
「もちろん。ゼイクさんも、エリーゼさんも、ギルドの受付嬢も、この屋敷の使用人も、今日の夜に来る盗賊たちも、全部同じ。よくできた登場人物」
瞬の眉が、わずかに動いた。
「今日の夜に来る?」
「ああ、そこは気にしないで。予告状通り、黒猫っていう盗賊団が来るの。宝物庫にあると思い込んでる何かを狙ってね」
アリスは瓶を揺らした。
泡が弾け、細かな音を立てる。
「だからこれは、ちょうどいいイベントなのよ。君の力を見るにも、私たちが手を組むきっかけにするにも」
「手を組む?」
「そう」
アリスはソファから身を起こし、瞬の向かいに座り直した。
先ほどまで床に崩れ落ちていた少女は、もうそこにはいない。だが、大広間の完璧な令嬢でもなかった。
今の彼女は、何かを売り込もうとする商人の顔をしていた。
必死さを笑顔の裏に押し込み、相手の反応を一つも見逃すまいとする顔。
「瞬くん。私と組もう」
「……」
「私はお金を持ってる。情報網もある。魔道具の開発もできる。商売もできる。こっちの貴族社会の仕組みも、だいたい分かってる」
アリスは指を一本ずつ折りながら続ける。
「でも、戦闘力は足りない。どうしてもね。だから君が必要なの。君の規格外の力があれば、私が作った仕組みを一気に広げられる」
その声は、少しずつ熱を帯びていった。
「私たちなら、この世界をもっと楽に生きられる。理不尽な身分も、くだらない慣習も、使えるものは利用して、邪魔なものは壊せばいい。前世で搾取される側だった分、今度は私たちが選ぶ側になるの」
瞬は黙っていた。
アリスは身を乗り出す。
青い瞳が、光を宿す。
「ねえ、分かるでしょ? 会社に使い潰されて、誰にも助けてもらえなくて、最後は机か書類の山に潰されるみたいに死んでさ。そんな人生、二度とごめんじゃない」
瞬は、アリスの言葉を聞きながら、彼女の手を見ていた。
白く細い指。
高価な指輪。
整えられた爪。
けれど、その指先はテーブルの下で強く握り込まれていた。
「今度こそ、勝ち組になろうよ」
アリスは笑った。
「君と私なら、できる。この世界を攻略できる。レアなものを集めて、危険な敵は先に潰して、面倒な人間関係は切り捨てる。効率よく、安全に、失敗しないように進めばいい」
その言葉は、理屈としては間違っていないのかもしれなかった。
少なくとも、前世でくたびれ果てた人間が、一度くらい夢見る復讐としては、分かりやすい。
もう搾取されたくない。
もう奪われたくない。
もう傷つきたくない。
だから、先に奪う側へ回る。
先に見下ろす側へ行く。
瞬は、そっと息を吐いた。
「悪いけど、断る」
アリスの笑顔が止まった。
まるで、よくできた人形の関節が急に固まったようだった。
「……え?」
「俺は、お前とは組めない」
アリスは瞬を見つめた。
信じられない、という顔だった。
「なんで?」
「考え方が違うから」
「違うって……どこが?」
アリスの声が少しだけ高くなる。
「メリットしかないじゃん。私は君を利用できる。君も私を利用できる。言葉も通じる。前世のことも分かる。この世界で、やっと対等に話せる相手に会えたんだよ?」
その最後の一文だけが、ひどく寂しく聞こえた。
瞬は一瞬、言葉を失いかけた。
だが、ここで曖昧にしてはいけないと思った。
「メイもゼイクもエリーゼも、俺にとっては利用する相手じゃない」
「だから、あれは――」
「NPCじゃない」
瞬は、はっきりと言った。
アリスの唇が止まる。
「みんな生きてる。痛がるし、泣くし、怒るし、笑う。何かを失えば傷つくし、誰かを守ろうとして無茶もする。俺はそれを見てきた」
窓の外で、風が少し強くなった。
薔薇の枝が揺れ、葉が乾いた音を立てる。
「メイは怖がりながらも、俺の隣に立とうとしてくれる。ゼイクは堅物だけど、自分の信じるもののために剣を握る。エリーゼだって、簡単に人を信じないくせに、本当は誰かの痛みを放っておけない」
アリスは黙っていた。
瞬は続けた。
「あいつらの涙を、俺は見た。震える手も、冷えた指も、笑った時の温かさも知ってる。それを『作り物』で片付けたくない」
「……感情移入しすぎ」
アリスの声が、低くなった。
「危ないよ、それ。ゲームの登場人物に本気になったら、あとで痛い目を見るだけだよ」
「痛い目を見るかもしれないな」
「だったら――」
「でも、それでもいい」
瞬はまっすぐにアリスを見た。
「俺は、メイが好きだ」
部屋が静まり返った。
時計の針が進む音が、ひとつだけ聞こえた。
アリスは、瞬の顔を見つめていた。
まばたきもせずに。
「……好き?」
「ああ」
「それ、どういう意味で?」
「恋してるって意味で」
アリスは、乾いた笑いを漏らした。
「うそ」
「本当だ」
「相手、この世界の子だよ?」
「知ってる」
「前世の記憶もない。日本のことも知らない。君と同じ場所から来たわけじゃない。言葉だって、今の私たちみたいには通じない」
「それでも、好きだ」
アリスの顔から、笑みが消えた。
その目に浮かんだのは、侮りではなかった。
怒りでもない。
もっと深いところから湧いてくる、怯えに似た拒絶だった。
「……馬鹿じゃないの」
声が震えていた。
「そんなの、いつ消えるか分からないじゃん」
「消える?」
「そうよ。ここが本当に作られた世界だったら? 明日、突然何かの都合で全部壊れたら? その子が死んだら? 君の手の中から、あっけなく奪われたら?」
アリスは立ち上がった。
深紅のドレスの裾が、絨毯の上で揺れる。
「本気で好きになんてなったら、失った時に壊れるよ。人は、壊れるの。信じたものが守れなかった時、愛したものが突然消えた時、自分の力じゃどうにもならないって分かった時――」
そこで、アリスは言葉を切った。
自分が何を言いかけたのか、気づいたようだった。
瞬は、その沈黙を見逃さなかった。
アリスはすぐに顔を背けた。
「……とにかく、非効率すぎる。そんな不安定なものに心を預けるなんて、正気じゃない」
「そうかもな」
「認めるんだ」
「ああ。でも、俺は正気かどうかより、大事にしたいものを大事にする方を選ぶ」
アリスは唇を噛んだ。
ほんの一瞬、扇子を探すように手が動く。
けれど、扇子はソファの上に置かれたままだった。
彼女は隠すものを失った顔で、瞬を睨んだ。
「君、思ったより面倒くさいね」
「よく言われる」
「褒めてない」
「分かってる」
瞬は苦笑した。
その笑みが、アリスには余計に腹立たしかったのかもしれない。
彼女は大きく息を吸い、すっと背筋を伸ばした。
その瞬間、空気が変わった。
さっきまでの砕けた同郷人は消え、またアリス・ローゼンバーグが戻ってくる。
完璧な令嬢。
冷たく、美しく、隙のない仮面。
「そう。残念ですわ」
声まで変わった。
鈴を転がすような、あの声に戻っている。
「同郷人なら、もう少し賢い方だと思っておりましたのに」
「アリス」
「君は、まだ前世の社畜根性が抜けていないのかもしれませんわね。自分を削って、誰かのために尽くす。立派だけれど、とても愚かですわ」
瞬は何も言わなかった。
アリスは窓辺へ歩き、カーテンを少しだけ開けた。
外の庭園に、雲の影が落ち始めていた。
「そろそろ時間ですわ」
「時間?」
「黒猫が来ます」
アリスの声は冷たかった。
「今回の依頼は、宝物庫の警備。相手は犯罪者。こちらは被害者。とても分かりやすい構図でしょう?」
「……」
「そして、今回の成功条件は」
彼女は振り返った。
青い瞳に、温度はない。
「盗賊たちの殲滅です」
その言葉が、部屋の床に重く落ちた。
瞬の目が細くなる。
「殲滅って、本気で言ってるのか?」
「もちろん。彼らは敵ですもの」
「事情があるかもしれないだろ」
「あるでしょうね」
アリスはあっさり認めた。
「病気の妹のためとか、貧しさに追い詰められてとか、そういうよくある事情が」
「知ってるのか?」
「情報くらい入りますわ」
瞬は一歩近づいた。
「だったら――」
「だから何ですの?」
アリスは微笑んだ。
美しい微笑みだった。
だが、その美しさが痛々しいほど硬い。
「事情があれば、屋敷へ侵入しても許されるの? 可哀想なら、罪は消えるの? 彼らが泣けば、こちらが全てを差し出すべきなの?」
「そういう話じゃない」
「そういう話ですわ」
アリスは言い切った。
「世界は、誰かの事情で満ちています。全員の事情を抱えていたら、自分が潰れるだけ。だから線を引くのです。ここから先は私のもの。ここから先は敵。そう決めなければ、生き残れません」
その声は強かった。
けれど、瞬には聞こえた。
その強さの奥で、何かが軋む音が。
「お前、本当にそう思ってるのか?」
アリスは答えなかった。
窓の外で、光がさらに陰る。
遠くから、低い雷鳴が聞こえた。
「せいぜい楽しんでくださいな」
アリスは扇子を拾い上げ、口元を隠した。
「あなたの大切なNPCごっこを」
「アリス」
「何ですの?」
「お前さ」
瞬は静かに言った。
「本当は、寂しいんじゃないのか?」
アリスの肩が、ぴくりと震えた。
扇子の陰で、彼女の呼吸が止まる。
ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、完璧な仮面の奥から、迷子のような目が覗いた。
けれど、それはすぐに消えた。
「……馬鹿じゃないの」
アリスは背を向けた。
声は小さかった。
怒りよりも、逃げるような響きだった。
「私は一人で十分ですわ」
その言葉は、瞬に向けたものではないように聞こえた。
自分自身へ言い聞かせるための言葉。
何度も何度も繰り返して、傷の上に塗り固めてきた言葉。
アリスは扉へ向かった。
鍵を開ける前に、少しだけ立ち止まる。
「瞬くん」
今度は、日本語だった。
彼女は振り返らない。
「私、期待してたのかも」
「……」
「でも、やっぱり期待なんてするものじゃないね」
扉が開く。
廊下の光が、部屋の中へ流れ込んだ。
その光の中へ、アリスは完璧な令嬢として歩き出していく。
背筋を伸ばし、扇子で口元を隠し、誰にも弱さを見せないまま。
瞬は、その背中を見送った。
テーブルの上では、アリスが飲み残したコーラもどきの泡が、静かに消えていた。
甘くて、懐かしくて、けれどすぐに失われる泡。
窓の外では、雨雲が屋敷の上空へ近づいていた。
庭園の薔薇が風に揺れ、赤い花びらが一枚、石畳の上へ落ちる。
今夜、黒猫が来る。
そして、アリスが「ただの敵」と切り捨てた者たちにも、きっと名前があり、涙があり、守りたい誰かがいる。
瞬は拳を握った。
「……攻略難易度、高すぎだろ」
誰にともなく呟く。
それは、盗賊団のことではなかった。
完璧な令嬢の仮面をかぶり、自分の心まで敵に回している、孤独な少女のことだった。
部屋の外では、アリスの足音が遠ざかっていく。
コツ。
コツ。
コツ。
その音は、まるでガラスの箱の中へ戻っていく誰かの足音のようだった。
瞬は扉へ向かった。
メイたちが待っている。
黒猫が来る。
そして今夜、この屋敷の完璧な静けさは、泥と雨と涙で壊れる。
その予感だけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。




