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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第35話:転がるリンゴは、運命の坂道を下る 〜「喪失」とは、新しい出会いのための「予約席」である〜

銀の翼の名が掲示板に貼り出されたのは、幻霧の谷からエリーゼが戻って三日後のことだった。


 朝の冒険者ギルドは、いつも通り騒がしかった。


 湿った外套を脱ぐ音。木の床を踏む靴音。酒場の奥から漂う焼いた肉の匂い。受付で依頼書をめくる紙の音。誰かが昨日の武勇を大げさに語り、別の誰かが笑い飛ばしている。


 世界は、何も変わっていなかった。


 そのことが、エリーゼには耐えがたかった。


 彼女は、掲示板の前に立っていた。


 壁に貼られた羊皮紙は薄く、端が少し湿って波打っている。黒いインクで書かれた文字は、整っていて、事務的で、あまりにも冷たかった。


 レオン・ハルト。


 ボルグ。


 セラ。


 パーティ名、銀の翼。


 幻霧の谷にて消息不明。


 追加捜索は危険度が高く、現時点で生存確認困難。


 たったそれだけだった。


 あの赤い髪も。


 悪態ばかりの声も。


 柔らかな笑い方も。


 焦げた肉も、不味いスープも、市場で値切った大根も、雨の日に渡されたリンゴも、海を見に行く約束も。


 すべてが、羊皮紙一枚に押し込められていた。


 エリーゼは指を伸ばした。


 紙に触れる。


 乾いた感触だけがあった。


 そこには、レオンの体温はなかった。


「……捜索は」


 声が出た。


 自分の声とは思えないほど、平らだった。


 受付の女性が、そっと近づいてくる。


「続けています。ですが、谷の霧が昨日より濃くなっていて……救助隊も入口から先へ進めなかったそうです」


「なら、もっと人を出してください」


「エリーゼさん……」


「もっと、腕の立つ者を。騎士団でも、魔導士でも、誰でもいい」


 受付の女性は答えられなかった。


 その沈黙で、エリーゼは理解した。


 人は死地へ何度も入らない。


 見込みの薄い救助に、無限の命を差し出したりはしない。


 それは正しい。


 正しいからこそ、胸の奥が冷えていく。


「まだ、生きているかもしれません」


 エリーゼは言った。


 誰かに向けた言葉ではなかった。


 自分に向けた言葉だった。


「レオンは……あの人は、簡単に死ぬような人ではありません。ボルグは逃げ道を見つけるのが得意です。セラは、どんな状況でも誰かを支える人です。だから……」


 だから。


 その先が続かなかった。


 ギルドの喧騒が、遠くなっていく。


 誰かがこちらを見ている気配がした。


 気の毒そうな視線。


 かける言葉を探している視線。


 何も言えずに逸らされる視線。


 そのどれもが、エリーゼには痛かった。


 見ないでほしかった。


 慰めないでほしかった。


 誰も、あの谷の底で何が起きたのか知らない。


 誰も、最後に彼らがどんな声で自分を突き放したのか知らない。


 誰も、約束がどんな音を立てて壊れたのか知らない。


 エリーゼは、掲示板から手を離した。


 指先に紙の乾いた感触だけが残った。


「……分かりました」


 それだけ言って、彼女はギルドを出た。


 外は曇っていた。


 雨は降っていない。


 けれど、石畳はまだ濡れていた。夜明け前まで降っていた雨の名残が、街のあちこちに薄い光を残している。屋根の端から落ちた雫が、水たまりを叩いた。


 ぽたり。


 その音が、幻霧の谷の底で聞いた音に似ていた。


 エリーゼは立ち止まり、左手を胸元へ寄せた。


 薬指には、青いガラスの指輪が嵌まっている。


 ひびの入った青。


 雨と泥と霧の中で濁ってしまった、約束の色。


 全員で行って、全員で帰る。


 海を見る。


 その言葉が、今は刃のように胸へ沈んだ。


     *


 それから数日、エリーゼはギルドへ通った。


 朝も、昼も、夕方も。


 新しい報告がないかを確認するために。


 誰かが谷の奥で声を聞かなかったか。


 赤い髪の青年を見なかったか。


 壊れた短剣や、白い法衣の切れ端を見つけなかったか。


 何でもよかった。


 生きている証でなくてもいい。


 せめて、彼らがいた証が欲しかった。


 けれど、戻ってくる報告は、いつも同じだった。


 霧が濃すぎる。


 方角が分からなくなる。


 中に入ると声が聞こえる。


 谷が、侵入者を拒んでいる。


 救助隊は奥へ進めない。


 日が経つほど、周囲の声は変わっていった。


 最初は同情だった。


 次に沈黙になった。


 やがて、誰かが小さく言った。


 もう諦めるしかない、と。


 エリーゼは、その声を聞いた瞬間、何かが胸の奥で静かに折れる音を聞いた。


 大きな音ではなかった。


 叫び出すほどの衝撃でもなかった。


 ただ、細い硝子が内側からひび割れるような音だった。


 彼女はその日を境に、ギルドへ行かなくなった。


     *


 青いガラスの指輪を外したのは、冬の夜だった。


 王都に初めて霜が降りた日だった。


 窓の外では、冷たい風が吹いている。枯れた蔦が窓枠を擦り、かさ、かさ、と乾いた音を立てていた。空は暗く、月は薄い雲に隠れている。暖炉の火だけが、部屋の奥でかすかに赤く揺れていた。


 エリーゼは、ひとりで机の前に座っていた。


 机の上には、古い地図が広げられている。


 幻霧の谷の周辺を何度も調べた跡があった。道筋を書き込み、消し、また書き直した線。魔獣の出現地点を示す小さな印。救助隊が戻った場所。霧が濃くなる範囲。


 どれほど見ても、答えはなかった。


 どれほど考えても、三人は帰ってこなかった。


 エリーゼは左手を見た。


 薬指に、青い指輪がある。


 ひびは、以前より深くなっている気がした。


 実際に広がったのか、それとも自分の目がそう見せているのか、分からなかった。


 この指輪を嵌めている限り、自分はまだ約束の中にいる。


 そう思っていた。


 けれど、約束はもう彼女を支えていなかった。


 毎朝、左手を見るたびに、胸を抉った。


 毎晩、眠れずに火を見ている時、青い光が問いかけてきた。


 なぜ一人だけ帰ってきたのか。


 なぜ救えなかったのか。


 なぜ、役に立てなかったのか。


 エリーゼは右手で指輪に触れた。


 冷たい。


 少しずつ引き抜く。


 指輪は簡単には外れなかった。長く嵌めていたせいで、薬指に馴染みすぎていた。皮膚が引っ張られ、白い跡が浮かぶ。


 痛かった。


 でも、外した。


 青いガラスの輪が、指から離れる。


 その瞬間、胸の奥に空白ができた。


 軽くなったのではない。


 何かを失った場所だけが、よりはっきり形を持った。


 薬指には白い跡が残っていた。


 何も嵌まっていないのに、そこに見えない輪があるようだった。


「……さようなら」


 エリーゼは、小さく言った。


 声は震えなかった。


 震えないことが、ひどく悲しかった。


「レオン」


 その名だけは、喉の奥で少し引っかかった。


 彼女は指輪を捨てなかった。


 捨てられるほど、憎みきれなかった。


 机の引き出しの奥に、小さな木箱を入れる。


 その中に、青いガラスの指輪を置いた。


 蓋を閉じる。


 ことり。


 小さな音だった。


 それなのに、エリーゼには、自分の中の扉が一つ重く閉まった音に聞こえた。


 その夜、彼女は魔導学院の研究室を出ることを決めた。


 もう、あの部屋には戻らない。


 あの中庭にも。


 あの市場にも。


 あの丘にも。


 海を見ようと話した夕暮れにも。


 近づかない。


 思い出は、広すぎる場所に散らばっている。


 ならば、世界を狭くすればいい。


 扉一枚。


 窓一枚。


 机。


 棚。


 薬草。


 小瓶。


 古い本。


 それだけあれば、生きていくことはできる。


 誰にも会わずに。


 誰にも期待せずに。


 誰とも約束せずに。


 もう二度と、失わないために。


     *


 王都の西側。


 表通りから外れた古い商店街の奥に、小さな薬屋ができたのは、それからしばらく後のことだった。


 店は目立たなかった。


 石造りの壁には細い蔦が絡み、窓は厚い布で閉ざされている。入口は古い木の扉で、取っ手は黒ずんでいた。店先に華やかな商品は並ばない。客を呼び込む看板もない。


 小さな板に、手書きの文字があるだけだった。


『魔女の隠れ家』


 その名を見た者は、少しだけ足を止める。


 そして、たいていは通り過ぎた。


 それでよかった。


 エリーゼは、店の奥に強い結界を張った。


 無理に入ろうとする者は、扉へ触れる前に路地の入口へ戻される。しつこく声をかける者の言葉は、扉の内側へ届かない。貴族の使者も、ギルド職員も、金貨を積んだ商人も、彼女の前へはたどり着けなかった。


 誰にも会わない。


 誰も入れない。


 そのはずなのに、薬だけは作り続けた。


 傷を塞ぐ薬。


 熱を下げる薬。


 毒を薄める薬。


 眠れない夜に、呼吸を少しだけ楽にする薬。


 痛みを完全に消すのではなく、体が立ち直るまでの時間を稼ぐ薬。


 人を拒みながら、人を助ける薬を作る。


 矛盾していることは分かっていた。


 けれど、その矛盾だけが、エリーゼを完全な空洞にしなかった。


 誰にも触れたくない。


 でも、誰かが苦しんでいるなら、少しでも痛みが引いてほしい。


 そんな自分の中の食い違いを、彼女は小瓶の中へ閉じ込めた。


 琥珀色の液体が、瓶の底で静かに揺れる。


 火の光を受けると、金色の粒がゆっくり舞った。


 それは焚き火の火の粉に似ていた。


 レオンの髪の色にも。


 市場で見たリンゴの赤にも。


 似ていた。


 エリーゼは蓋を閉める。


 ことり、と箱へ入れる。


 そして、また次の薬を作る。


 そうして年月は積もっていった。


 王都の人々は、やがて噂をするようになった。


 西側の路地奥に、人嫌いの魔女がいる。


 姿を見せない。


 気に入らない依頼は断る。


 貴族の命令でも従わない。


 けれど薬の腕だけは確かだ。


 エリーゼは、その噂を訂正しなかった。


 人嫌い。


 気難しい魔女。


 それでよかった。


 人は噂を怖がる。


 怖がれば、近づかない。


 近づかなければ、失わない。


 閉ざされた扉の奥で、彼女は静かに薬を作り続けた。


 *


 ある日、ギルド経由で、ひとつの依頼が届いた。


 依頼書は、いつものように扉の外の箱へ入れられていた。


 エリーゼは、誰にも姿を見せない。直接話すこともしない。だが、ギルドはそれを承知していた。必要な内容を書面にまとめ、素材や報酬の条件を記し、扉の外に置いていく。


 エリーゼは夜になってから、それを回収する。


 人通りが消え、古い商店街の灯りが落ち、路地の石畳に月光だけが薄く伸びる時間。誰の足音も聞こえないことを確かめてから、扉を少しだけ開ける。


 その日も同じだった。


 細い月が、雲の間に浮かんでいた。


 扉の隙間から冷たい夜気が入り込み、薬草の香りをわずかに揺らす。エリーゼは外の箱から依頼書を取り、すぐに扉を閉めた。


 かちゃり。


 小さな音。


 それだけで、外の世界はまた遮られた。


 机の上で、封を切る。


 依頼書には、短い説明が添えられていた。


 強い魔力の乱れを抱えた少女がいる。


 通常の治癒薬では、痛みは和らいでも、体の緊張が抜けない。


 眠らせるのではなく、呼吸を楽にし、恐怖で固まった体を少しだけ緩める薬が必要。


 年齢は、まだ若い。


 人前に出ることを怖がる傾向あり。


 エリーゼの指が、紙の上で止まった。


 少女。


 恐怖。


 人前に出ることを怖がる。


 文字の向こうに、見知らぬ誰かの小さな肩が見える気がした。


 自分とは違う。


 きっと違う。


 それでも、何かが胸の奥で引っかかった。


 エリーゼは、依頼書を机に置いた。


 断る理由はいくらでもあった。


 条件が曖昧。


 症状の詳細が足りない。


 本人を見ないまま薬を調整するのは危うい。


 そもそも、自分が引き受ける必要などない。


 そう考えれば、いつものように断れた。


 けれど、彼女は断らなかった。


 棚から小瓶を取る。


 乾燥させた白い花。


 苦味の少ない根。


 熱をゆっくり逃がす葉。


 胸の奥の強張りを緩めるための、淡い香りの種。


 材料を机に並べる。


 手つきは静かだった。


 けれど、いつもより慎重だった。


 効き目を強くしすぎてはいけない。


 眠りに沈めてしまっては意味がない。


 恐怖を消すのではなく、恐怖の中でも息ができるようにする。


 痛みをなかったことにするのではなく、立ち上がるためのわずかな余白を作る。


 火を入れる。


 鍋の底で液体が温まり、透明だった水が少しずつ色を変えていく。薄い金色。やがて、深い琥珀色へ。薬草の香りが立ち上り、部屋の中へ静かに広がった。


 エリーゼは、鍋を見つめた。


 琥珀色の液体の表面に、暖炉の赤い光が映る。


 その揺らぎが、遠い焚き火に似ていた。


 焦げた肉。


 不味いスープ。


 夏草の匂い。


 夜空へ上がって消えた火の粉。


 エリーゼは、目を伏せた。


 思い出は、今でも不意に刺さる。


 だが、薬を作る手は止めなかった。


 やがて、完成した液体を小瓶へ注ぐ。


 金色の粒が、瓶の中でゆっくり舞った。


 エリーゼは瓶を光にかざした。


 琥珀色の薬は、小さな朝日のように見えた。


「……届きなさい」


 声は、誰にも聞こえないほど小さかった。


 それでも、確かに言葉になった。


「あなたが、少しでも息をできるように」


 そのポーションは、数日後、ギルドを通じて納品された。


 それから少しして、扉の外の箱に短い礼状が入っていた。


 薬はよく効いた、と。


 少女の呼吸が少し楽になった、と。


 白いアイガードをつけたその少女は、薬の色をとてもきれいだと言っていた、と。


 エリーゼは、その紙を長く見つめた。


 白いアイガード。


 その言葉だけで、胸の奥に薄い影が差した。


 見えないものを抱えて生きている子なのだろうか。


 見られることを怖がる子なのだろうか。


 誰かの視線に、何度も傷つけられてきた子なのだろうか。


 そんなことを考えた。


 考えてから、すぐに紙を伏せた。


 深入りしてはいけない。


 薬を作っただけ。


 それ以上ではない。


 そう自分に言い聞かせた。


 けれど、その少女の話は、何度か耳に入ってきた。


 扉の外へ納品箱を取りに来るギルドの使いが、誰かと小声で話していた。


 紫の瞳の少女。


 白いアイガード。


 そして、その少女を誰よりも大切に守っている、規格外の青年。


 佐藤瞬。


 王都に来てから、いくつもの騒ぎを起こし、いくつもの危機を力ずくでねじ伏せ、今では英雄だの歩く災害だの、好き勝手に呼ばれている人物。


 エリーゼは、最初、その噂に興味を持たなかった。


 英雄。


 規格外。


 人々の期待を背負う者。


 そういう言葉は、彼女にとって近づきたくないものだった。


 けれど、聞こえてくる話の中に、少しだけ引っかかるものがあった。


 その青年は、少女を隠さない。


 怖がらせる者がいれば、迷わず前に出る。


 力を誇るためではなく、少女が安心して息をするために、その力を使う。


 白いアイガードの少女が笑った時、その青年はまるで世界でも救ったような顔をしたらしい。


 馬鹿げている。


 そう思った。


 けれど、嫌いな話ではなかった。


 エリーゼは、納品書に記された名前を一度だけ指先でなぞった。


 佐藤瞬。


 直接会うつもりはない。


 関わるつもりもない。


 ただ、少しだけ気になった。


 自分の薬を飲んだ少女が、どんな顔で息をついたのか。


 その少女を守るという青年が、どんな目をしているのか。


 外の世界に興味などないはずなのに。


 閉ざした扉の向こうで、ほんの小さな針の先ほどの関心が、静かに残った。


     *


 雨上がりの朝、王都は淡い光に包まれていた。


 夜のうちに降っていた雨は、明け方には止んでいた。雲はまだ空に残っていたが、その隙間から薄い陽が差し込み、濡れた屋根瓦や石畳を静かに照らしている。


 路地には、水の匂いがあった。


 濡れた石。


 若葉。


 雨を吸った木の看板。


 軒先に吊るされた薬草が湿り、青く苦い香りを漂わせている。


 エリーゼは、外套のフードを深くかぶり、古い商店街を歩いていた。


 外へ出るのは、必要な時だけだった。


 素材が足りない時。


 代理の商人では選びきれないものがある時。


 どうしても自分の目で見なければならない薬草がある時。


 その日も、そうだった。


 しかし、帰り道の紙袋には、薬草だけではないものが入っていた。


 リンゴ。


 買うつもりはなかった。


 果物屋の前を通る時、店先に積まれた赤が目に入っただけだ。


 雨に洗われたリンゴは、濡れた皮に光をまとっていた。小さな傷のあるものも、少し形の歪んだものも、どれも朝の光を受けて鮮やかに見えた。


 見ないふりをして通り過ぎるつもりだった。


 けれど、足が止まった。


 店主に声をかけられたわけではない。


 誰かに勧められたわけでもない。


 ただ、赤があまりにも鮮やかだった。


 エリーゼは、結局、三つ買った。


 紙袋の底に入れ、上から薬草の束で隠した。


 見えなければ、思い出さずに済む。


 そう思った。


 だが、歩くたびに、袋の中でリンゴが触れ合う。


 こつ。


 こつ。


 小さな音がする。


 それは、遠い日の足音に少し似ていた。


 特別研究棟の階段を上がってくる足音。


 市場で隣を歩く足音。


 雨の日、扉の前で止まった足音。


 エリーゼは紙袋を抱え直した。


 指先に力が入る。


 もう何年も経った。


 数えないようにしている。


 けれど、季節は勝手に巡る。


 春が来る。


 夏が来る。


 秋が来る。


 冬が来る。


 そのたびに、どこかで思い出す。


 レオンの赤い髪。


 ボルグの悪態。


 セラの柔らかな声。


 海を見るはずだった未来。


 それらはもう戻らない。


 戻らないのに、消えてもくれなかった。


 古い商店街の道は、雨上がりで滑りやすくなっていた。


 石畳の隙間には水が残り、ところどころに薄い苔が光っている。軒先の雫が落ちるたび、ぽたり、と小さな音が路地に響いた。


 エリーゼは、魔女の隠れ家へ続く坂道を下りていた。


 あと少し。


 そう思った時だった。


 紙袋の底が、湿って柔らかくなっていることに気づいた。


 遅かった。


 びり、と小さな音がした。


 エリーゼの指先が、反射的に袋を押さえようとする。


 しかし、両腕は荷物でふさがっていた。


 紙袋が傾く。


 中の薬草の束がずれる。


 その下に隠していた赤いものが、雨上がりの光の中へこぼれ出た。


 一個。


 二個。


 三個。


 リンゴが石畳へ落ちた。


 こつん。


 澄んだ音がした。


 ひとつは足元で跳ね、ひとつは水たまりの端をかすめ、もうひとつは坂道を下り始めた。


 ころころ。


 ころころころ。


 真っ赤な果実が、濡れた石畳を転がっていく。


 水たまりを割り、小さな飛沫を上げ、薄い陽光を弾きながら。


 エリーゼは手を伸ばした。


 届かない。


 体が前へ傾く。


 濡れた石畳が近づく。


 冷たい灰色。


 雨。


 路地裏。


 倒れ込んだ日の記憶が、胸の奥で一瞬だけ開いた。


 息が詰まる。


 また、落ちる。


 また、取りこぼす。


 また、手が届かない。


 エリーゼの唇から、小さな声が漏れた。


「……あ」


 その時。


 風が動いた。


 雨上がりの路地を、誰かの足音が駆け抜ける。


 濡れた石を蹴る、軽く力強い音。


 ころころと転がるリンゴが、坂の途中で赤く跳ねた。


 それは、閉ざされた時間の中からこぼれ落ちた、小さな火種のようだった。


 リンゴは止まらない。


 ころころと。


 まっすぐに。


 噂だけで知っていた、あの規格外の青年の足元へ向かって。


 エリーゼの世界が、もう一度だけ動き出す音がした。

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