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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第34話:霧の底で折れる翼 〜約束は、守れなかった時にいちばん深く胸を刺す〜

幻霧の谷の底には、色がなかった。


 空は見えない。


 太陽も、雲も、方角も、すべて乳白色の霧に塗り潰されていた。谷の上では秋雨が降っているはずだった。だが、最深部まで降りてくる頃には、雨粒の音さえ霧に吸われ、ただ冷たい湿り気だけが肌にまとわりついていた。


 地面は凍っていた。


 泥と苔が混じったはずの谷底は、ところどころ薄い氷に覆われ、踏みしめるたび、ぱき、と細い音を立てる。霜柱が砕ける音は、まるで小さな骨が折れる音のように耳へ残った。


 息を吐けば、白く濁る。


 その白さも、すぐに周囲の霧へ溶けて消えた。


 風はない。


 それなのに、霧だけが動いている。


 足首に絡み、膝を撫で、腰まで這い上がる。濡れた布で体温を拭い取られるような冷たさだった。ローブの裾は水を吸って重くなり、指先は感覚を失いかけている。


 どこかで、水滴が落ちた。


 ぽたり。


 その音は、谷底に深く沈んだ。


「……はぁ、はぁ……」


 レオンの荒い息が聞こえた。


 彼の赤い髪は、雨と汗と泥で額に張りついている。いつも夕陽のように明るく見えたその色も、今は霧の中で暗く沈んでいた。剣を握る手は震えている。寒さだけではない。疲労と、毒気を含んだ霧のせいだった。


 それでも、レオンは倒れなかった。


 銀の翼の先頭で、彼はまだ立っていた。


 目の前にいるものを見据えたまま。


 霧の奥で、巨大な花が揺れている。


 花と呼ぶには、あまりにも禍々しかった。


 赤紫の肉厚な花弁が、谷底の白い闇の中でゆっくり開閉している。表面には血管のような筋が走り、内側から、どくん、どくん、と脈打つたびに、甘く腐った匂いが吐き出された。


 それは花の香りではなかった。


 熟れすぎた果実が腐り、濡れた土と混ざり、長い間誰にも触れられずに崩れていくような匂いだった。吸い込むたび、喉の奥が粘つき、胸の中に冷たい泥が流れ込む。


 ミラージュ・ラフレシア。


 霧を操り、人の感覚を狂わせ、疲れた獲物を谷の底へ沈める魔獣。


 その名を、エリーゼは知識として知っていた。


 けれど、知っていることと、目の前で向き合うことはまるで違った。


 書物の文字は、匂いを持たない。


 図に描かれた花弁は、こんなふうに呼吸しない。


 危険度を示す文章は、仲間の息が乱れていく音までは教えてくれない。


「エリーゼ!」


 レオンの声が霧を裂いた。


 だが、その声さえ、遠い。


「解析はまだか!」


 エリーゼは杖を握りしめた。


 指が冷えて動きにくい。


 青いガラスの指輪が、左手の薬指に嵌まっている。雨と霧で濡れたその小さな輪は、冷たかった。けれど、そこにあるというだけで、まだ自分がここに立っている理由を思い出させた。


 全員で行って、全員で帰る。


 海を見る。


 その約束が、指先に重く残っている。


「やっていますわ!」


 エリーゼは叫び返した。


 声が掠れる。


「でも、霧が邪魔をして……流れが読めない……!」


 杖先から青白い光が伸びる。


 魔獣の魔力の流れを探るための光だった。普段なら、相手の力の通り道を読み、弱い場所を見つけ、そこを崩す。彼女にとって、それは呼吸と同じくらい自然な作業だった。


 だが、この霧は違う。


 掴もうとするとほどける。


 追おうとすると曲がる。


 ひとつの流れだと思ったものが、次の瞬間には十にも百にも分かれ、また別の場所で重なっている。まるで谷そのものが、エリーゼの思考を嘲笑うように形を変えていた。


 頭の奥が熱い。


 目の奥が痛い。


 それでも、止められない。


 止めれば、死ぬ。


 自分だけではない。


 レオンも、ボルグも、セラも。


「っ……!」


 左から、霧の触手が伸びた。


 白いはずの霧が凝り固まり、濡れた鞭のようにしなってレオンへ襲いかかる。


 レオンは剣を横に構え、受けた。


 金属音はしなかった。


 剣は霧を切っただけだ。手応えは薄く、裂けた触手はすぐに周囲の白へ溶ける。だが、衝撃だけは残った。レオンの体が後ろへ押され、靴底が凍った地面を削る。


 ざり、と鈍い音がした。


「レオン!」


 エリーゼが叫ぶ。


「平気だ!」


 平気ではなかった。


 彼の右肩には、さっき別の触手に裂かれた傷がある。服は破れ、血は冷えた空気で黒く乾き始めていた。新しい血がまた滲み、霧に触れて薄く広がる。


 それでもレオンは笑わなかった。


 いつものように無理に明るくしようともしなかった。


 ただ、エリーゼの方へ一瞬だけ視線を向ける。


 大丈夫だ、と言う代わりに。


 まだ立っている、と示すように。


 その目が、エリーゼの胸を刺した。


「私の……魔力も……」


 後方で、セラが膝をついた。


 柔らかな声は震えていた。


 彼女の法衣はところどころ裂け、泥と氷の欠片が裾にこびりついている。両手で握った杖の先には、淡い光が残っていた。けれどその光は、風前の小さな灯火のように揺れていた。


「もう、あまり……」


「セラ、下がれ!」


 レオンが叫ぶ。


 セラは首を振った。


 顔色は白い。


 唇も紫がかっている。


 それでも、彼女は杖を握り直した。


「下がったら……誰が、あなたを治すんですかぁ……」


 いつもの柔らかな語尾だった。


 けれど、そこに笑いはなかった。


 セラは自分の膝を叩くようにして、無理やり立ち上がる。足元がふらつき、ボルグが片腕で支えた。


 そのボルグも、限界に近かった。


 左腕がだらりと下がっている。毒気を吸ったのか、顔色は土のように悪く、額には冷たい汗が浮いていた。唇の端から血が滲んでいる。


 それでも彼は、短剣を右手に持ち替え、霧の奥を睨んでいた。


「……最悪だな」


 声は掠れている。


「足元も見えねぇ。逃げ道も消えた。おまけに、この花、斬っても斬っても戻りやがる」


「まだ逃げ道はあります」


 エリーゼは即座に言った。


 言わなければならなかった。


「私が見つけます。だから、少しだけ時間を――」


 言い終える前に、霧が揺れた。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開く。


 中心にある黒い穴のような核が、ゆっくり脈打った。


 どくん。


 谷底の空気が震える。


 次の瞬間、四方から無数の触手が伸びた。


 レオンが前に出る。


「エリーゼ、続けろ!」


「でも――」


「見るのはお前の役目だ!」


 その声に、エリーゼの体が止まった。


 見る。


 後ろから見る。


 戦場全体を見て、流れを読み、仲間を生かす。


 それは、彼女が銀の翼の中で見つけた役割だった。


 前に出て剣を振るうことはできない。


 ボルグのように影へ潜ることも、セラのように傷を癒やすこともできない。


 けれど、見ることならできる。


 読んで、組み立てて、道を作ることなら。


 今、それができなければ。


 自分に何の意味がある。


「……分かっていますわ」


 エリーゼは歯を食いしばり、杖を地面へ突き立てた。


 青白い光が足元へ広がる。


 霧の流れを読む。


 触手の生まれる位置を追う。


 花弁の開閉と、核の脈動の間隔を数える。


 吸い込む息が冷たい。


 吐く息が震える。


 耳の奥で、自分の心臓の音が大きくなっていく。


 どくん。


 どくん。


 ミラージュ・ラフレシアの核が脈打つたび、周囲の霧が濃くなる。ならば、霧は核から直接生まれているのではない。谷底に溜まった冷気と湿気を、核が一定の間隔で引き寄せ、花弁の内側で練り上げている。


 攻撃の直前、花弁の裏側にわずかな黒い筋が走る。


 そこだ。


 エリーゼの目が見開かれる。


「レオン!」


「何だ!」


「次の触手、正面ではありません! 上です!」


 叫んだ瞬間、頭上の霧が裂けた。


 白い触手が、天井から落ちる水のように降ってくる。


 レオンは反応した。


 剣を上へ構える。


 だが、疲労で一瞬だけ遅れた。


 触手が彼の背中を打つ。


 鈍い音。


 レオンの体が地面へ叩きつけられた。


「レオン!」


 エリーゼの声が谷に響いた。


 セラが治癒の光を飛ばそうとする。


 その前に、別の触手がセラの足元を払った。


 彼女の体が傾く。


 ボルグが片腕で引き寄せる。


「くそっ……!」


 ボルグの膝が折れかけた。


 支えきれない。


 それでも離さない。


 エリーゼは杖を振った。


 青白い氷の刃が走り、触手を切り裂く。


 だが、切れた先からまた霧が集まる。


 終わらない。


 何度も、何度も、形を変えて戻ってくる。


 まるで、彼女の不安そのもののようだった。


 レオンが、ゆっくり立ち上がった。


 口元から血が流れている。


 それを手の甲で拭い、剣を構え直す。


「……まだだ」


 声は低かった。


「全員で帰るんだろ」


 青いガラスの指輪が、エリーゼの左手で冷たく光った。


 胸が痛い。


 息が苦しい。


 怖い。


 怖くてたまらない。


 けれど、ここで折れれば、本当に終わる。


「核の動きは見えました」


 エリーゼは言った。


 声は震えていた。


 だが、消えてはいなかった。


「攻撃の直前、花弁の裏側に黒い筋が走ります。そこを崩せば、霧の形が一瞬乱れるはずです。その隙に核を――」


 その時。


 霧の奥から、声がした。


 小さな声だった。


 最初は、風の音かと思った。


 だが、この谷には風がない。


『……助けて』


 エリーゼの指先が止まった。


 声は、子供のようにも聞こえた。


 遠くで泣いている誰かのようにも。


 レオンが鋭く言う。


「聞くな!」


 エリーゼは、はっと顔を上げる。


 レオンの目は険しかった。


「霧が何かを見せようとしてる!」


 その言葉が終わるより早く、周囲の霧が濃くなった。


 白が重なる。


 輪郭が消える。


 レオンの姿も、ボルグの影も、セラの光も、薄い幕の向こうへ沈んでいく。


「レオン!」


 エリーゼは手を伸ばした。


 だが、彼の姿は霧に滲んでいく。


 左手の指輪だけが、冷たい。


 青いガラスの輪郭が、手袋越しにも痛いほど分かる。


 全員で帰る。


 海を見る。


 その約束を握りしめたまま、エリーゼは白い闇の中へ取り残された。


 霧の奥で、また声がした。


『置いていかないで』


 その声は、どこかで聞いたことがある気がした。


 幼い日の自分の声にも。


 まだ出会っていない未来の自分の声にも。


 そして、今まさに霧の向こうで倒れかけている誰かの声にも聞こえた。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が、ゆっくりと開いた。


 甘く腐った匂いが、さらに濃くなる。


 霧が、彼女たちの心の奥へ指を伸ばし始めていた。


 *


 霧は、声を持っていた。


 最初は、か細い囁きだった。


 助けて。


 置いていかないで。


 寒い。


 怖い。


 その声は、谷底のどこから聞こえているのか分からなかった。前から聞こえたと思えば、次の瞬間には背後から耳元へ落ちる。左から響いた声が、右の地面の下へ沈む。濡れた霧そのものが、人の喉を真似ているようだった。


 エリーゼは杖を握りしめた。


 青いガラスの指輪が、左手の薬指に食い込む。


 全員で帰る。


 海を見る。


 その言葉を、何度も心の中で繰り返す。


 だが、霧はその約束の隙間に、冷たい指を差し込んできた。


『本当に帰れるの?』


『あなたのせいで、みんな死ぬのに?』


 エリーゼの呼吸が乱れた。


「黙りなさい……」


 声は震えていた。


 自分でも分かるほどに。


 霧の向こうで、レオンの影が揺れる。


 近いはずなのに、遠い。


 彼は剣を構え、触手を斬り払っていた。斬っても斬っても、霧は戻る。腕を振るうたび、肩の傷から血が滲む。足元は凍りつき、靴底が滑る。それでも、レオンはエリーゼたちの前から退かなかった。


「エリーゼ!」


 彼の声が白い闇の中から届いた。


「核は見えるか!」


「まだ……!」


 エリーゼは霧の流れを必死に追った。


 核の脈動。


 花弁の開閉。


 触手の発生位置。


 霧の濃度。


 全てを同時に見ようとする。


 だが、頭の中に組み上げた線は、次の瞬間には崩れる。正解に手が届きかけるたび、霧が別の形へ逃げていく。


 計算が追いつかない。


 いや。


 違う。


 自分が追いつけていない。


 役に立てていない。


 その事実が、刃のように胸へ刺さった。


「エリーゼ、上!」


 ボルグの声。


 反射的に顔を上げる。


 頭上から、太い触手が落ちてきた。


 霧が凝ったものではない。半ば実体を持ち始めた、濡れた根のような触手だった。表面には赤紫の筋が走り、甘く腐った匂いが強くなる。


 避けられない。


 そう思った瞬間、ボルグが横から飛び込んできた。


 小柄な体が、エリーゼを突き飛ばす。


「っ……!」


 視界が傾く。


 エリーゼの体は凍った地面を滑り、肩から倒れた。冷たい衝撃が骨まで響く。


 次の瞬間。


 重い音がした。


 湿ったものが叩きつけられる、鈍い音。


 エリーゼは顔を上げた。


 ボルグが、片膝をついていた。


 背中に深い傷が走っている。


 血が霧に滲み、黒く見えた。


「ボルグ!」


「叫ぶな……まだ、耳は生きてる」


 彼は笑おうとした。


 だが、口元が引きつっただけだった。


 右手の短剣を地面に突き立て、どうにか体を支えている。左腕はもう動いていない。肩から指先まで、力なく垂れていた。


「なぜ……私を……」


「なぜって、そりゃ……」


 ボルグは息を吐いた。


 白い息が霧に溶ける。


「お前がやられたら、終わりだからだろ」


 その言葉に、エリーゼは凍りついた。


 自分がやられたら終わり。


 つまり、自分はまだ必要とされている。


 そう思うべきだった。


 だが、今の彼女には、違う響きに聞こえた。


 自分が失敗すれば、全員が終わる。


 自分が遅れたから、ボルグが傷ついた。


 自分が解析できないから。


 自分が、役に立てないから。


 喉が詰まる。


 声が出ない。


 その時、セラが杖を掲げた。


「ボルグくん、動かないで……」


 淡い光が、彼の背中へ降り注ぐ。


 けれど、その光は弱かった。


 傷は完全には塞がらない。血の勢いが少し鈍るだけだ。


 セラの手が震えている。


 彼女自身も限界だった。


 治癒のたびに顔色が白くなり、唇から色が失われていく。額には冷たい汗が浮かび、頬を伝って顎から落ちた。


「セラ、もういい!」


 レオンが叫ぶ。


「魔力を残せ!」


「残して……どうするんですかぁ……」


 セラは小さく笑った。


 涙のようにも見えた。


「今、使わないで……いつ使うんですかぁ……」


 光がもう一度強まる。


 その瞬間、ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。


 花の中心から、黒い霧が噴き出す。


 それは真っ直ぐセラへ向かった。


「セラ!」


 エリーゼは術式を組もうとした。


 間に合わない。


 レオンが走る。


 だが、遠い。


 黒い霧がセラを包んだ。


 彼女の体が、びくりと震える。


 杖先の光が、途切れた。


 セラはその場に膝をつく。


 目は開いている。


 けれど、何かを見ていた。


 この場ではない何かを。


「……ああ」


 セラが呟いた。


 声が細い。


「お母さん……ごめんなさい……まだ、帰れなくて……」


 エリーゼの胸が冷たくなった。


 霧が見せている。


 彼女にも。


 心の奥に隠していたものを。


 セラは杖を握ったまま、震えていた。


 それでも、彼女は笑おうとした。


「大丈夫……大丈夫ですぅ……みんな、帰れますから……」


 そう言って、彼女は最後の力を振り絞るように杖を掲げた。


 淡い光が広がる。


 それは、今までの支援とは違っていた。


 攻撃でも、防御でもない。


 四人の足元へ、温かい膜のような光が広がっていく。霧が、その光に触れた場所だけ薄くなる。ほんの少しだけ、視界が開けた。


 その先に、見えた。


 谷の壁。


 細い裂け目。


 外へ通じる可能性のある道。


「出口……!」


 エリーゼが叫んだ。


 セラが小さく頷く。


「見つけましたぁ……」


 彼女の声は、ほとんど吐息だった。


「エリーゼちゃん……そこへ……」


「一緒に行きます!」


 エリーゼは叫んだ。


「全員で帰るのでしょう!」


 セラは、少しだけ寂しそうに笑った。


 その笑みを見た瞬間、エリーゼは嫌な予感に足を掴まれた。


 冷たい手が、心臓を握る。


「セラ……?」


「ごめんなさいねぇ」


 セラの杖が、地面へ突き立てられる。


 光が一瞬だけ強くなった。


 まぶしいほどの白。


 霧が大きく割れた。


 だが、その代償のように、セラの体から力が抜ける。


 ボルグが叫ぶ。


「セラ!」


 彼は立ち上がろうとした。


 傷のせいで、膝が崩れる。


 レオンが駆け寄ろうとする。


 その前に、触手が二人の間を遮った。


 エリーゼは杖を振った。


 氷の刃が触手を切る。


 だが、数が多すぎる。


 霧の向こうで、ミラージュ・ラフレシアの核がどくん、どくんと脈打っている。


 まるで彼らの焦りを食べているように。


「レオン!」


 エリーゼは叫んだ。


「今なら出口が見えます! 全員で――」


 言葉が止まった。


 レオンが、こちらを見ていた。


 その目に、決断があった。


 エリーゼの心が、凍る。


 嫌だ。


 その目をしないで。


 そんな顔をしないで。


 全員で帰ると言った。


 海を見ると言った。


 指輪をくれた。


 約束した。


「エリーゼ」


 レオンの声は静かだった。


 霧の中でも、不思議とはっきり届いた。


「出口を開け」


「何を……」


「お前だけでも出ろ」


 世界から音が消えた。


 水滴の音も。


 花の脈動も。


 セラの浅い息も。


 ボルグの呻き声も。


 全てが遠のいた。


「……何を言っているのです」


 エリーゼの声は、自分のものではないようだった。


「全員で帰ると、言ったでしょう」


「ああ」


「海を見ると、言ったでしょう」


「ああ」


「なら――」


「だからだ」


 レオンの声が、少しだけ震えた。


 ほんの少しだけ。


 だが、エリーゼには分かった。


 彼も怖いのだ。


 死が。


 別れが。


 約束が壊れることが。


 それでも、彼は立っている。


「俺たち全員がここで折れたら、誰も帰れない」


「嫌です」


「エリーゼ」


「嫌です!」


 彼女は叫んだ。


 青いガラスの指輪が、左手で冷たく光る。


「私は役に立ちます! 解析できます! まだ方法を探せます! だから……だから、私を置いて、勝手に決めないで!」


 レオンの顔が歪んだ。


 一瞬だけ。


 痛みをこらえるように。


 だが、次の瞬間、彼は表情を変えた。


 冷たく。


 硬く。


 エリーゼが見たことのない顔だった。


「もういい」


 彼は言った。


「お前じゃ無理だ」


 エリーゼの呼吸が止まる。


「……え?」


「お前は足手まといだ」


 その言葉が、胸の奥を貫いた。


 理解できなかった。


 音としては聞こえた。


 意味も分かった。


 けれど、心が受け取れなかった。


 レオンが、そんなことを言うはずがない。


 言うはずがないのに。


 彼は、言った。


 ボルグが顔を上げる。


 血の気の失せた顔で、彼も口を開いた。


「そうだな……エリーゼ。お前がいると、こっちも動きづらい」


 声は掠れていた。


 まるで、喉を刃で切られながら言葉を絞り出しているようだった。


 セラも、震える唇で笑った。


「エリーゼちゃんは……先に、帰ってくださいねぇ……」


「いや……」


 エリーゼは後ずさった。


「嘘でしょう……?」


 レオンは近づいてくる。


 触手を斬り払いながら。


 血を流しながら。


 冷たい顔で。


「行け」


「嫌です」


「行け!」


 彼の声が谷底に響いた。


 エリーゼの体が震える。


 それは命令だった。


 初めて聞く、拒絶の声だった。


 レオンは、エリーゼの肩を掴んだ。


 強い力。


 だが、痛くはなかった。


 痛くないことが、余計に苦しかった。


 彼の手は震えていた。


「生きろ」


 耳元で、ほんの小さな声がした。


 それは、霧にも飲まれるほど小さかった。


 エリーゼが顔を上げる前に、レオンは彼女を出口へ向かって突き飛ばした。


 セラの光が、裂け目を包む。


 ボルグが残った力で短剣を投げ、迫る触手を一瞬だけ逸らす。


 レオンが、その前に立つ。


 エリーゼの体は、光の中へ押し出された。


「レオン!」


 叫んだ。


 手を伸ばした。


 青いガラスの指輪が、指に食い込む。


 レオンの背中が見えた。


 赤い髪。


 血に濡れた肩。


 剣を構える姿。


 彼は振り返らなかった。


 ただ、背中越しに言った。


「邪魔だ、エリーゼ」


 その言葉を最後に、光が閉じた。


     *


 外の空気は、冷たかった。


 エリーゼは谷の外へ投げ出され、濡れた草の上に倒れ込んだ。


 雨が降っていた。


 冷たい雨。


 頬に落ちる。


 額に落ちる。


 開いた口の中へ入り、鉄の味と混じった。


 体が動かない。


 息ができない。


 霧の中の音が、遠くから聞こえる。


 剣が何かを弾く音。


 誰かの叫び。


 花が脈打つような低い響き。


 そして、崩れる音。


 エリーゼは泥の上を這った。


 指が草を掴む。


 爪の間に土が入り込む。


 左手の薬指には、まだ指輪があった。


 青いガラスが、雨に濡れて光っている。


「戻らなきゃ……」


 声が出た。


 掠れていた。


「戻らなきゃ……レオンが……ボルグが……セラが……」


 立ち上がろうとする。


 膝が笑う。


 体が言うことを聞かない。


 それでも、谷へ向かおうとした。


 その瞬間、入口の霧が膨れ上がった。


 白い壁のように。


 谷全体が、内側から息を吐くように震える。


 次の瞬間。


 奥で、赤い光が弾けた。


 音は遅れてきた。


 地面を揺らすような、低い轟音。


 谷の鳥たちが一斉に飛び立つ。


 木々の葉が雨に打たれながら震える。


 エリーゼは、目を見開いた。


「……いや」


 呟きは、雨に消えた。


 霧の向こうから、もう声は聞こえなかった。


 レオンの声も。


 ボルグの悪態も。


 セラの柔らかな声も。


 何も。


 雨だけが降っていた。


 ぽつ、ぽつではない。


 ざああ、と冷たく、容赦なく。


 世界が、すべてを洗い流そうとしているようだった。


 エリーゼは泥の中で膝をついた。


 左手を胸に押し当てる。


 指輪がそこにある。


 約束の印。


 全員で行って、全員で帰る。


 海を見る。


 その約束は、今、彼女の手の中で砕けずに残っていた。


 残っているからこそ、痛かった。


「……嘘つき」


 声が震えた。


「みんな……嘘つき……」


 涙なのか、雨なのか分からないものが頬を伝う。


 谷の霧は、静かに閉じていた。


 まるで、最初から誰も中へ入らなかったかのように。


 エリーゼは、そこから動けなかった。


 冷たい雨に打たれながら、泥に膝をつき、青いガラスの指輪を握りしめていた。


 何時間経ったのか分からない。


 空の色が変わったことも。


 雨が弱まったことも。


 体が冷え切って震え始めたことも。


 何も分からなかった。


 ただ、ひとつだけが胸に残っていた。


 足手まとい。


 邪魔だ。


 お前じゃ無理だ。


 その言葉だけが、繰り返し、繰り返し、心の中で鳴っていた。


 レオンの最後の小さな声――生きろ――は、霧と雨に掻き消されて、彼女の記憶には残らなかった。


 残ったのは、拒絶だけだった。


 銀の翼は、霧の底で折れた。


 そしてエリーゼの中でも、何かが静かに折れた。


 それは大きな音を立てなかった。


 泣き叫ぶ力さえ、もう残っていなかった。


 ただ、心の奥にあった柔らかな場所が、冷たい硝子のようにひび割れていく。


 もう誰とも歩かない。


 もう誰も信じない。


 もう、約束などしない。


 エリーゼは、雨の中でそう思った。


 白い霧の谷は、何も答えなかった。


 ただ、冷たい風が吹き、濡れた草が低く揺れた。


 草の葉先から落ちた雫が、青いガラスの指輪に当たる。


 小さな音がした。


 ちり、と。


 まるで、遠い日の約束が割れる音のようだった。

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