第34話:霧の底で折れる翼 〜約束は、守れなかった時にいちばん深く胸を刺す〜
幻霧の谷の底には、色がなかった。
空は見えない。
太陽も、雲も、方角も、すべて乳白色の霧に塗り潰されていた。谷の上では秋雨が降っているはずだった。だが、最深部まで降りてくる頃には、雨粒の音さえ霧に吸われ、ただ冷たい湿り気だけが肌にまとわりついていた。
地面は凍っていた。
泥と苔が混じったはずの谷底は、ところどころ薄い氷に覆われ、踏みしめるたび、ぱき、と細い音を立てる。霜柱が砕ける音は、まるで小さな骨が折れる音のように耳へ残った。
息を吐けば、白く濁る。
その白さも、すぐに周囲の霧へ溶けて消えた。
風はない。
それなのに、霧だけが動いている。
足首に絡み、膝を撫で、腰まで這い上がる。濡れた布で体温を拭い取られるような冷たさだった。ローブの裾は水を吸って重くなり、指先は感覚を失いかけている。
どこかで、水滴が落ちた。
ぽたり。
その音は、谷底に深く沈んだ。
「……はぁ、はぁ……」
レオンの荒い息が聞こえた。
彼の赤い髪は、雨と汗と泥で額に張りついている。いつも夕陽のように明るく見えたその色も、今は霧の中で暗く沈んでいた。剣を握る手は震えている。寒さだけではない。疲労と、毒気を含んだ霧のせいだった。
それでも、レオンは倒れなかった。
銀の翼の先頭で、彼はまだ立っていた。
目の前にいるものを見据えたまま。
霧の奥で、巨大な花が揺れている。
花と呼ぶには、あまりにも禍々しかった。
赤紫の肉厚な花弁が、谷底の白い闇の中でゆっくり開閉している。表面には血管のような筋が走り、内側から、どくん、どくん、と脈打つたびに、甘く腐った匂いが吐き出された。
それは花の香りではなかった。
熟れすぎた果実が腐り、濡れた土と混ざり、長い間誰にも触れられずに崩れていくような匂いだった。吸い込むたび、喉の奥が粘つき、胸の中に冷たい泥が流れ込む。
ミラージュ・ラフレシア。
霧を操り、人の感覚を狂わせ、疲れた獲物を谷の底へ沈める魔獣。
その名を、エリーゼは知識として知っていた。
けれど、知っていることと、目の前で向き合うことはまるで違った。
書物の文字は、匂いを持たない。
図に描かれた花弁は、こんなふうに呼吸しない。
危険度を示す文章は、仲間の息が乱れていく音までは教えてくれない。
「エリーゼ!」
レオンの声が霧を裂いた。
だが、その声さえ、遠い。
「解析はまだか!」
エリーゼは杖を握りしめた。
指が冷えて動きにくい。
青いガラスの指輪が、左手の薬指に嵌まっている。雨と霧で濡れたその小さな輪は、冷たかった。けれど、そこにあるというだけで、まだ自分がここに立っている理由を思い出させた。
全員で行って、全員で帰る。
海を見る。
その約束が、指先に重く残っている。
「やっていますわ!」
エリーゼは叫び返した。
声が掠れる。
「でも、霧が邪魔をして……流れが読めない……!」
杖先から青白い光が伸びる。
魔獣の魔力の流れを探るための光だった。普段なら、相手の力の通り道を読み、弱い場所を見つけ、そこを崩す。彼女にとって、それは呼吸と同じくらい自然な作業だった。
だが、この霧は違う。
掴もうとするとほどける。
追おうとすると曲がる。
ひとつの流れだと思ったものが、次の瞬間には十にも百にも分かれ、また別の場所で重なっている。まるで谷そのものが、エリーゼの思考を嘲笑うように形を変えていた。
頭の奥が熱い。
目の奥が痛い。
それでも、止められない。
止めれば、死ぬ。
自分だけではない。
レオンも、ボルグも、セラも。
「っ……!」
左から、霧の触手が伸びた。
白いはずの霧が凝り固まり、濡れた鞭のようにしなってレオンへ襲いかかる。
レオンは剣を横に構え、受けた。
金属音はしなかった。
剣は霧を切っただけだ。手応えは薄く、裂けた触手はすぐに周囲の白へ溶ける。だが、衝撃だけは残った。レオンの体が後ろへ押され、靴底が凍った地面を削る。
ざり、と鈍い音がした。
「レオン!」
エリーゼが叫ぶ。
「平気だ!」
平気ではなかった。
彼の右肩には、さっき別の触手に裂かれた傷がある。服は破れ、血は冷えた空気で黒く乾き始めていた。新しい血がまた滲み、霧に触れて薄く広がる。
それでもレオンは笑わなかった。
いつものように無理に明るくしようともしなかった。
ただ、エリーゼの方へ一瞬だけ視線を向ける。
大丈夫だ、と言う代わりに。
まだ立っている、と示すように。
その目が、エリーゼの胸を刺した。
「私の……魔力も……」
後方で、セラが膝をついた。
柔らかな声は震えていた。
彼女の法衣はところどころ裂け、泥と氷の欠片が裾にこびりついている。両手で握った杖の先には、淡い光が残っていた。けれどその光は、風前の小さな灯火のように揺れていた。
「もう、あまり……」
「セラ、下がれ!」
レオンが叫ぶ。
セラは首を振った。
顔色は白い。
唇も紫がかっている。
それでも、彼女は杖を握り直した。
「下がったら……誰が、あなたを治すんですかぁ……」
いつもの柔らかな語尾だった。
けれど、そこに笑いはなかった。
セラは自分の膝を叩くようにして、無理やり立ち上がる。足元がふらつき、ボルグが片腕で支えた。
そのボルグも、限界に近かった。
左腕がだらりと下がっている。毒気を吸ったのか、顔色は土のように悪く、額には冷たい汗が浮いていた。唇の端から血が滲んでいる。
それでも彼は、短剣を右手に持ち替え、霧の奥を睨んでいた。
「……最悪だな」
声は掠れている。
「足元も見えねぇ。逃げ道も消えた。おまけに、この花、斬っても斬っても戻りやがる」
「まだ逃げ道はあります」
エリーゼは即座に言った。
言わなければならなかった。
「私が見つけます。だから、少しだけ時間を――」
言い終える前に、霧が揺れた。
ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開く。
中心にある黒い穴のような核が、ゆっくり脈打った。
どくん。
谷底の空気が震える。
次の瞬間、四方から無数の触手が伸びた。
レオンが前に出る。
「エリーゼ、続けろ!」
「でも――」
「見るのはお前の役目だ!」
その声に、エリーゼの体が止まった。
見る。
後ろから見る。
戦場全体を見て、流れを読み、仲間を生かす。
それは、彼女が銀の翼の中で見つけた役割だった。
前に出て剣を振るうことはできない。
ボルグのように影へ潜ることも、セラのように傷を癒やすこともできない。
けれど、見ることならできる。
読んで、組み立てて、道を作ることなら。
今、それができなければ。
自分に何の意味がある。
「……分かっていますわ」
エリーゼは歯を食いしばり、杖を地面へ突き立てた。
青白い光が足元へ広がる。
霧の流れを読む。
触手の生まれる位置を追う。
花弁の開閉と、核の脈動の間隔を数える。
吸い込む息が冷たい。
吐く息が震える。
耳の奥で、自分の心臓の音が大きくなっていく。
どくん。
どくん。
ミラージュ・ラフレシアの核が脈打つたび、周囲の霧が濃くなる。ならば、霧は核から直接生まれているのではない。谷底に溜まった冷気と湿気を、核が一定の間隔で引き寄せ、花弁の内側で練り上げている。
攻撃の直前、花弁の裏側にわずかな黒い筋が走る。
そこだ。
エリーゼの目が見開かれる。
「レオン!」
「何だ!」
「次の触手、正面ではありません! 上です!」
叫んだ瞬間、頭上の霧が裂けた。
白い触手が、天井から落ちる水のように降ってくる。
レオンは反応した。
剣を上へ構える。
だが、疲労で一瞬だけ遅れた。
触手が彼の背中を打つ。
鈍い音。
レオンの体が地面へ叩きつけられた。
「レオン!」
エリーゼの声が谷に響いた。
セラが治癒の光を飛ばそうとする。
その前に、別の触手がセラの足元を払った。
彼女の体が傾く。
ボルグが片腕で引き寄せる。
「くそっ……!」
ボルグの膝が折れかけた。
支えきれない。
それでも離さない。
エリーゼは杖を振った。
青白い氷の刃が走り、触手を切り裂く。
だが、切れた先からまた霧が集まる。
終わらない。
何度も、何度も、形を変えて戻ってくる。
まるで、彼女の不安そのもののようだった。
レオンが、ゆっくり立ち上がった。
口元から血が流れている。
それを手の甲で拭い、剣を構え直す。
「……まだだ」
声は低かった。
「全員で帰るんだろ」
青いガラスの指輪が、エリーゼの左手で冷たく光った。
胸が痛い。
息が苦しい。
怖い。
怖くてたまらない。
けれど、ここで折れれば、本当に終わる。
「核の動きは見えました」
エリーゼは言った。
声は震えていた。
だが、消えてはいなかった。
「攻撃の直前、花弁の裏側に黒い筋が走ります。そこを崩せば、霧の形が一瞬乱れるはずです。その隙に核を――」
その時。
霧の奥から、声がした。
小さな声だった。
最初は、風の音かと思った。
だが、この谷には風がない。
『……助けて』
エリーゼの指先が止まった。
声は、子供のようにも聞こえた。
遠くで泣いている誰かのようにも。
レオンが鋭く言う。
「聞くな!」
エリーゼは、はっと顔を上げる。
レオンの目は険しかった。
「霧が何かを見せようとしてる!」
その言葉が終わるより早く、周囲の霧が濃くなった。
白が重なる。
輪郭が消える。
レオンの姿も、ボルグの影も、セラの光も、薄い幕の向こうへ沈んでいく。
「レオン!」
エリーゼは手を伸ばした。
だが、彼の姿は霧に滲んでいく。
左手の指輪だけが、冷たい。
青いガラスの輪郭が、手袋越しにも痛いほど分かる。
全員で帰る。
海を見る。
その約束を握りしめたまま、エリーゼは白い闇の中へ取り残された。
霧の奥で、また声がした。
『置いていかないで』
その声は、どこかで聞いたことがある気がした。
幼い日の自分の声にも。
まだ出会っていない未来の自分の声にも。
そして、今まさに霧の向こうで倒れかけている誰かの声にも聞こえた。
ミラージュ・ラフレシアの花弁が、ゆっくりと開いた。
甘く腐った匂いが、さらに濃くなる。
霧が、彼女たちの心の奥へ指を伸ばし始めていた。
*
霧は、声を持っていた。
最初は、か細い囁きだった。
助けて。
置いていかないで。
寒い。
怖い。
その声は、谷底のどこから聞こえているのか分からなかった。前から聞こえたと思えば、次の瞬間には背後から耳元へ落ちる。左から響いた声が、右の地面の下へ沈む。濡れた霧そのものが、人の喉を真似ているようだった。
エリーゼは杖を握りしめた。
青いガラスの指輪が、左手の薬指に食い込む。
全員で帰る。
海を見る。
その言葉を、何度も心の中で繰り返す。
だが、霧はその約束の隙間に、冷たい指を差し込んできた。
『本当に帰れるの?』
『あなたのせいで、みんな死ぬのに?』
エリーゼの呼吸が乱れた。
「黙りなさい……」
声は震えていた。
自分でも分かるほどに。
霧の向こうで、レオンの影が揺れる。
近いはずなのに、遠い。
彼は剣を構え、触手を斬り払っていた。斬っても斬っても、霧は戻る。腕を振るうたび、肩の傷から血が滲む。足元は凍りつき、靴底が滑る。それでも、レオンはエリーゼたちの前から退かなかった。
「エリーゼ!」
彼の声が白い闇の中から届いた。
「核は見えるか!」
「まだ……!」
エリーゼは霧の流れを必死に追った。
核の脈動。
花弁の開閉。
触手の発生位置。
霧の濃度。
全てを同時に見ようとする。
だが、頭の中に組み上げた線は、次の瞬間には崩れる。正解に手が届きかけるたび、霧が別の形へ逃げていく。
計算が追いつかない。
いや。
違う。
自分が追いつけていない。
役に立てていない。
その事実が、刃のように胸へ刺さった。
「エリーゼ、上!」
ボルグの声。
反射的に顔を上げる。
頭上から、太い触手が落ちてきた。
霧が凝ったものではない。半ば実体を持ち始めた、濡れた根のような触手だった。表面には赤紫の筋が走り、甘く腐った匂いが強くなる。
避けられない。
そう思った瞬間、ボルグが横から飛び込んできた。
小柄な体が、エリーゼを突き飛ばす。
「っ……!」
視界が傾く。
エリーゼの体は凍った地面を滑り、肩から倒れた。冷たい衝撃が骨まで響く。
次の瞬間。
重い音がした。
湿ったものが叩きつけられる、鈍い音。
エリーゼは顔を上げた。
ボルグが、片膝をついていた。
背中に深い傷が走っている。
血が霧に滲み、黒く見えた。
「ボルグ!」
「叫ぶな……まだ、耳は生きてる」
彼は笑おうとした。
だが、口元が引きつっただけだった。
右手の短剣を地面に突き立て、どうにか体を支えている。左腕はもう動いていない。肩から指先まで、力なく垂れていた。
「なぜ……私を……」
「なぜって、そりゃ……」
ボルグは息を吐いた。
白い息が霧に溶ける。
「お前がやられたら、終わりだからだろ」
その言葉に、エリーゼは凍りついた。
自分がやられたら終わり。
つまり、自分はまだ必要とされている。
そう思うべきだった。
だが、今の彼女には、違う響きに聞こえた。
自分が失敗すれば、全員が終わる。
自分が遅れたから、ボルグが傷ついた。
自分が解析できないから。
自分が、役に立てないから。
喉が詰まる。
声が出ない。
その時、セラが杖を掲げた。
「ボルグくん、動かないで……」
淡い光が、彼の背中へ降り注ぐ。
けれど、その光は弱かった。
傷は完全には塞がらない。血の勢いが少し鈍るだけだ。
セラの手が震えている。
彼女自身も限界だった。
治癒のたびに顔色が白くなり、唇から色が失われていく。額には冷たい汗が浮かび、頬を伝って顎から落ちた。
「セラ、もういい!」
レオンが叫ぶ。
「魔力を残せ!」
「残して……どうするんですかぁ……」
セラは小さく笑った。
涙のようにも見えた。
「今、使わないで……いつ使うんですかぁ……」
光がもう一度強まる。
その瞬間、ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。
花の中心から、黒い霧が噴き出す。
それは真っ直ぐセラへ向かった。
「セラ!」
エリーゼは術式を組もうとした。
間に合わない。
レオンが走る。
だが、遠い。
黒い霧がセラを包んだ。
彼女の体が、びくりと震える。
杖先の光が、途切れた。
セラはその場に膝をつく。
目は開いている。
けれど、何かを見ていた。
この場ではない何かを。
「……ああ」
セラが呟いた。
声が細い。
「お母さん……ごめんなさい……まだ、帰れなくて……」
エリーゼの胸が冷たくなった。
霧が見せている。
彼女にも。
心の奥に隠していたものを。
セラは杖を握ったまま、震えていた。
それでも、彼女は笑おうとした。
「大丈夫……大丈夫ですぅ……みんな、帰れますから……」
そう言って、彼女は最後の力を振り絞るように杖を掲げた。
淡い光が広がる。
それは、今までの支援とは違っていた。
攻撃でも、防御でもない。
四人の足元へ、温かい膜のような光が広がっていく。霧が、その光に触れた場所だけ薄くなる。ほんの少しだけ、視界が開けた。
その先に、見えた。
谷の壁。
細い裂け目。
外へ通じる可能性のある道。
「出口……!」
エリーゼが叫んだ。
セラが小さく頷く。
「見つけましたぁ……」
彼女の声は、ほとんど吐息だった。
「エリーゼちゃん……そこへ……」
「一緒に行きます!」
エリーゼは叫んだ。
「全員で帰るのでしょう!」
セラは、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑みを見た瞬間、エリーゼは嫌な予感に足を掴まれた。
冷たい手が、心臓を握る。
「セラ……?」
「ごめんなさいねぇ」
セラの杖が、地面へ突き立てられる。
光が一瞬だけ強くなった。
まぶしいほどの白。
霧が大きく割れた。
だが、その代償のように、セラの体から力が抜ける。
ボルグが叫ぶ。
「セラ!」
彼は立ち上がろうとした。
傷のせいで、膝が崩れる。
レオンが駆け寄ろうとする。
その前に、触手が二人の間を遮った。
エリーゼは杖を振った。
氷の刃が触手を切る。
だが、数が多すぎる。
霧の向こうで、ミラージュ・ラフレシアの核がどくん、どくんと脈打っている。
まるで彼らの焦りを食べているように。
「レオン!」
エリーゼは叫んだ。
「今なら出口が見えます! 全員で――」
言葉が止まった。
レオンが、こちらを見ていた。
その目に、決断があった。
エリーゼの心が、凍る。
嫌だ。
その目をしないで。
そんな顔をしないで。
全員で帰ると言った。
海を見ると言った。
指輪をくれた。
約束した。
「エリーゼ」
レオンの声は静かだった。
霧の中でも、不思議とはっきり届いた。
「出口を開け」
「何を……」
「お前だけでも出ろ」
世界から音が消えた。
水滴の音も。
花の脈動も。
セラの浅い息も。
ボルグの呻き声も。
全てが遠のいた。
「……何を言っているのです」
エリーゼの声は、自分のものではないようだった。
「全員で帰ると、言ったでしょう」
「ああ」
「海を見ると、言ったでしょう」
「ああ」
「なら――」
「だからだ」
レオンの声が、少しだけ震えた。
ほんの少しだけ。
だが、エリーゼには分かった。
彼も怖いのだ。
死が。
別れが。
約束が壊れることが。
それでも、彼は立っている。
「俺たち全員がここで折れたら、誰も帰れない」
「嫌です」
「エリーゼ」
「嫌です!」
彼女は叫んだ。
青いガラスの指輪が、左手で冷たく光る。
「私は役に立ちます! 解析できます! まだ方法を探せます! だから……だから、私を置いて、勝手に決めないで!」
レオンの顔が歪んだ。
一瞬だけ。
痛みをこらえるように。
だが、次の瞬間、彼は表情を変えた。
冷たく。
硬く。
エリーゼが見たことのない顔だった。
「もういい」
彼は言った。
「お前じゃ無理だ」
エリーゼの呼吸が止まる。
「……え?」
「お前は足手まといだ」
その言葉が、胸の奥を貫いた。
理解できなかった。
音としては聞こえた。
意味も分かった。
けれど、心が受け取れなかった。
レオンが、そんなことを言うはずがない。
言うはずがないのに。
彼は、言った。
ボルグが顔を上げる。
血の気の失せた顔で、彼も口を開いた。
「そうだな……エリーゼ。お前がいると、こっちも動きづらい」
声は掠れていた。
まるで、喉を刃で切られながら言葉を絞り出しているようだった。
セラも、震える唇で笑った。
「エリーゼちゃんは……先に、帰ってくださいねぇ……」
「いや……」
エリーゼは後ずさった。
「嘘でしょう……?」
レオンは近づいてくる。
触手を斬り払いながら。
血を流しながら。
冷たい顔で。
「行け」
「嫌です」
「行け!」
彼の声が谷底に響いた。
エリーゼの体が震える。
それは命令だった。
初めて聞く、拒絶の声だった。
レオンは、エリーゼの肩を掴んだ。
強い力。
だが、痛くはなかった。
痛くないことが、余計に苦しかった。
彼の手は震えていた。
「生きろ」
耳元で、ほんの小さな声がした。
それは、霧にも飲まれるほど小さかった。
エリーゼが顔を上げる前に、レオンは彼女を出口へ向かって突き飛ばした。
セラの光が、裂け目を包む。
ボルグが残った力で短剣を投げ、迫る触手を一瞬だけ逸らす。
レオンが、その前に立つ。
エリーゼの体は、光の中へ押し出された。
「レオン!」
叫んだ。
手を伸ばした。
青いガラスの指輪が、指に食い込む。
レオンの背中が見えた。
赤い髪。
血に濡れた肩。
剣を構える姿。
彼は振り返らなかった。
ただ、背中越しに言った。
「邪魔だ、エリーゼ」
その言葉を最後に、光が閉じた。
*
外の空気は、冷たかった。
エリーゼは谷の外へ投げ出され、濡れた草の上に倒れ込んだ。
雨が降っていた。
冷たい雨。
頬に落ちる。
額に落ちる。
開いた口の中へ入り、鉄の味と混じった。
体が動かない。
息ができない。
霧の中の音が、遠くから聞こえる。
剣が何かを弾く音。
誰かの叫び。
花が脈打つような低い響き。
そして、崩れる音。
エリーゼは泥の上を這った。
指が草を掴む。
爪の間に土が入り込む。
左手の薬指には、まだ指輪があった。
青いガラスが、雨に濡れて光っている。
「戻らなきゃ……」
声が出た。
掠れていた。
「戻らなきゃ……レオンが……ボルグが……セラが……」
立ち上がろうとする。
膝が笑う。
体が言うことを聞かない。
それでも、谷へ向かおうとした。
その瞬間、入口の霧が膨れ上がった。
白い壁のように。
谷全体が、内側から息を吐くように震える。
次の瞬間。
奥で、赤い光が弾けた。
音は遅れてきた。
地面を揺らすような、低い轟音。
谷の鳥たちが一斉に飛び立つ。
木々の葉が雨に打たれながら震える。
エリーゼは、目を見開いた。
「……いや」
呟きは、雨に消えた。
霧の向こうから、もう声は聞こえなかった。
レオンの声も。
ボルグの悪態も。
セラの柔らかな声も。
何も。
雨だけが降っていた。
ぽつ、ぽつではない。
ざああ、と冷たく、容赦なく。
世界が、すべてを洗い流そうとしているようだった。
エリーゼは泥の中で膝をついた。
左手を胸に押し当てる。
指輪がそこにある。
約束の印。
全員で行って、全員で帰る。
海を見る。
その約束は、今、彼女の手の中で砕けずに残っていた。
残っているからこそ、痛かった。
「……嘘つき」
声が震えた。
「みんな……嘘つき……」
涙なのか、雨なのか分からないものが頬を伝う。
谷の霧は、静かに閉じていた。
まるで、最初から誰も中へ入らなかったかのように。
エリーゼは、そこから動けなかった。
冷たい雨に打たれながら、泥に膝をつき、青いガラスの指輪を握りしめていた。
何時間経ったのか分からない。
空の色が変わったことも。
雨が弱まったことも。
体が冷え切って震え始めたことも。
何も分からなかった。
ただ、ひとつだけが胸に残っていた。
足手まとい。
邪魔だ。
お前じゃ無理だ。
その言葉だけが、繰り返し、繰り返し、心の中で鳴っていた。
レオンの最後の小さな声――生きろ――は、霧と雨に掻き消されて、彼女の記憶には残らなかった。
残ったのは、拒絶だけだった。
銀の翼は、霧の底で折れた。
そしてエリーゼの中でも、何かが静かに折れた。
それは大きな音を立てなかった。
泣き叫ぶ力さえ、もう残っていなかった。
ただ、心の奥にあった柔らかな場所が、冷たい硝子のようにひび割れていく。
もう誰とも歩かない。
もう誰も信じない。
もう、約束などしない。
エリーゼは、雨の中でそう思った。
白い霧の谷は、何も答えなかった。
ただ、冷たい風が吹き、濡れた草が低く揺れた。
草の葉先から落ちた雫が、青いガラスの指輪に当たる。
小さな音がした。
ちり、と。
まるで、遠い日の約束が割れる音のようだった。




