第33話:忍び寄る影と、終わらない夏への願い 〜永遠を願うことが、別れの始まりである〜
季節の歩みは、誰にも止められない。
どれほど幸福な日々であっても、どれほど苦しい夜であっても、朝は来る。陽は傾く。風は変わる。木々の葉は色を深め、やがて薄く乾き、土へ落ちる。
時間は、誰の願いにも耳を貸さない。
だからこそ、人は時々、今この瞬間だけは終わらないでほしいと、どうしようもなく愚かな願いを抱いてしまう。
王都グランドルの空から、真夏の厚い雲は少しずつ姿を消していた。
つい先日まで、空には白く盛り上がった大きな雲が浮かび、昼下がりには地面から熱が立ち上っていた。石畳は陽を浴びて白く眩み、馬車の車輪が通るたびに、乾いた埃が細く舞った。街路樹の葉は濃い緑をまとい、風が吹くたび、ざわざわと力強い音を立てていた。
けれど今、空は少し違う。
高く、薄く、遠い。
刷毛で掃いたような雲が、青の奥に静かに伸びている。昼の光はまだ強いが、夕暮れになると、風の端にほんのわずかな冷たさが混じるようになった。
草むらでは、夏の盛りに響いていた虫の声が少しずつ遠のき、代わりに、細く澄んだ音が夜の底から聞こえ始めている。
りん。
りん。
その音は、涼しい。
けれど、どこか寂しい。
夏が終わろうとしていた。
晩夏から、初秋へ。
一年の中で、もっとも美しく、もっとも胸の奥を静かに締めつける季節が、音もなく王都へ忍び寄っていた。
*
「エリーゼ! ぼうっとしてる場合じゃねぇぞ! 夕市の半額札が出る!」
雑踏の中で、ボルグの声が飛んだ。
王都の大通りは、夕方の熱気に満ちていた。
日中の暑さが石畳にまだ残っている。けれど、建物の影は長く伸び、店先に吊るされた布の旗が、少し涼しい風に揺れていた。果物屋の軒先には熟したリンゴや梨が山のように積まれ、肉屋の前では焼けた脂の匂いが煙と一緒に立ち上っている。香辛料の店からは鼻をくすぐる辛い香りが流れ、パン屋の窓からは焼きたての小麦の甘い匂いがこぼれていた。
人の声。
靴音。
馬車の軋み。
店主の呼び込み。
子供の笑い声。
それらが重なり合い、夕暮れの市場は、まるで大きな鍋の中で煮立つ生活そのもののようだった。
エリーゼは、日傘をたたみながら、小さくため息をついた。
「うるさいですわね、ボルグ。たかが野菜の値引きで、なぜ戦場へ向かう兵士のような顔をしているのですか」
「たかが野菜だと?」
ボルグが振り返った。
小柄な体に革の軽装。腰には短剣。盗賊らしい鋭い目つき。
だが、その手には剣ではなく買い物籠が握られていた。
「いいか、お嬢。夕市の値引き札ってのはな、出た瞬間に勝敗が決まる。迷った奴から負ける。特に大根半額は命の取り合いだ」
「大根で命を懸けないでください」
「懸ける価値はある」
「ありません」
「ある。煮てもよし、焼いてもよし、干してもよし。しかも安い」
「あなたの人生観、かなり根の部分を大根に支配されていますわね」
ボルグは胸を張った。
「安くてうまいものは裏切らねぇ」
「人間より信用している顔ですわ」
「場合によるな」
そう言うなり、ボルグは主婦たちの人垣へ突っ込んだ。
その動きは、戦場の罠を抜ける時よりも鋭かった。
右から伸びる手をかわし、左の籠をすり抜け、店主が札を置く寸前に、一歩早く前へ出る。小柄な体が人波の隙間を縫い、まるで影が地面を滑るように野菜籠の前へ到達した。
「取った!」
ボルグが大根を掲げる。
夕陽を浴びた白い大根が、まるで伝説の宝剣のように高々と掲げられた。
沈黙。
次の瞬間、周囲の主婦たちから、なぜか小さな拍手が起きた。
「若いのにやるじゃないか」
「足さばきがいいねぇ」
「でも次は負けないよ」
「はっ、望むところだ」
ボルグは満足げに笑った。
エリーゼは額を押さえた。
「……なぜ市場で名勝負が発生しているのですか」
隣でセラが、ほわりと笑った。
「平和でいいですねぇ」
彼女の両腕には、紙袋がいくつも抱えられていた。中身はパン、木の実、干し果物、薬草、そしてなぜか焼き菓子。買い出しというより、小さな祭りの帰りのようだった。
「セラ、それ以上買うと持てないのでは?」
「大丈夫ですぅ。まだ心で持てますぅ」
「物理的に持ちなさい」
「心も大事ですよぉ」
「荷物は心では運べませんわ」
「でも、誰かに持ってもらうことはできますぅ」
セラはにこりと笑った。
その視線の先には、少し離れた露店から戻ってくるレオンがいた。
両手には串焼き。
肩には新しく買ったらしい装備袋。
そして腕には、なぜか追加の果物籠。
彼は人混みを抜けながら、周囲へ軽く頭を下げていた。ぶつかりそうな子供がいれば自然に避け、重い荷物を持った老女がいればさりげなく道を空ける。笑顔は明るいが、足取りは軽すぎない。周りを見ている。
エリーゼは、その様子をぼんやり眺めていた。
レオンは、ただ騒がしいだけの人間ではない。
明るい。
人を巻き込む。
だが、押し流すのではなく、手を差し出して歩幅を合わせる。
自分がそのことに気づくようになったのは、いつからだっただろう。
「待たせた」
レオンが戻ってきた。
赤い髪に夕陽が絡み、火のように揺れている。彼は串焼きをボルグへ一本投げ、セラの荷物の半分を黙って受け取り、最後にエリーゼの方へ何かを放った。
「ほら」
エリーゼは反射的に受け取った。
手の中に、ずしりと重みが落ちる。
真っ赤なリンゴだった。
艶やかな皮に、夕暮れの光が映っている。丸い表面には小さな水滴がついていて、指先に冷たく触れた。
「……またリンゴですの?」
「市場のおばさんが、ひとつおまけしてくれた。お前、好きだろ」
「好きだと言った覚えはありません」
「でも、いつも最後まで食べる」
「食べ物を粗末にしないだけです」
「そういうことにしておく」
レオンは笑った。
それ以上、何も言わない。
エリーゼはリンゴを見下ろした。
この赤は、いつの間にか日常の色になっていた。
雨の日に、レオンが濡れた制服のまま持ってきたリンゴ。
市場で投げ渡されたリンゴ。
焚き火のそばで、セラが薄く切ってくれたリンゴ。
ボルグが「高い」と文句を言いながらも、結局買ってきたリンゴ。
そのどれもが、彼女の中に少しずつ積もっていた。
以前のエリーゼなら、こんなものに意味を見いだすことなどなかっただろう。
果物は果物。
栄養と味と保存性。
それだけで十分だった。
けれど今は違う。
リンゴを見ると、誰かの足音を思い出す。
笑い声を思い出す。
焚き火の匂いを思い出す。
不味いスープを飲んで顔をしかめたレオンの声を思い出す。
エリーゼは、リンゴを胸の前で軽く抱えた。
「……皮をむかないと食べられませんわ」
「皮ごとでもうまいぞ」
「野蛮です」
「じゃあ、あとでむいてくれ」
「なぜ私が」
「俺がむくと、食べるところが半分になる」
「相変わらず不器用ですわね」
「剣なら切れるんだけどな」
「食材を剣で処理しないでください」
ボルグが串焼きを噛みながら口を挟む。
「レオンに皮むかせるくらいなら、俺がやる。あいつ、前に梨を木片みたいにしたからな」
「梨だったもの、ですねぇ」
セラが遠い目をした。
レオンは気まずそうに視線を逸らす。
「あれは刃物が悪かった」
「悪いのは手元です」
エリーゼが即答すると、ボルグが吹き出した。
セラも笑った。
レオンも、少し遅れて笑う。
その笑い声が市場の喧騒に混じっていく。
エリーゼは、ほんのわずかに口元を緩めた。
この騒がしさが、もう不快なだけではなくなっている。
それが、少し怖かった。
*
パーティ「銀の翼」は、この数か月で急速に名を上げていた。
難しい遺跡調査。
凶暴な魔獣の討伐。
街道を塞いだ盗賊団の捕縛。
危険な薬草の採取。
誰も受けたがらない依頼を、彼らは次々にこなした。
レオンは、先頭に立つ。
ただ突っ込むだけではない。誰よりも早く危険を引き受け、敵の目を自分へ向け、仲間が動くための余白を作る。
ボルグは、影のように動く。
罠を見抜き、鍵を開け、敵の背後を取り、時には誰よりも早く逃げ道を作る。
セラは、後ろから支える。
傷を癒やし、守りを張り、空気が悪くなりかけた時には、なぜか菓子を取り出して全員の調子を狂わせる。
そしてエリーゼは、全体を見る。
魔力の流れ、地形、敵の動き、仲間の癖。
かつては邪魔だと思っていた不完全さを、今では戦いの中に組み込めるようになっていた。
完璧な計算だけでは届かない場所がある。
それを、彼女はこの仲間たちから学んだ。
王都の通りを歩けば、子供たちが手を振る。
「あ、銀の翼だ!」
「レオンだ!」
「セラお姉ちゃん、またお菓子ある?」
「ボルグ、今度鍵開け見せて!」
「エリーゼさん、魔法見せて!」
最後の声に、エリーゼは一瞬だけ足を止めた。
魔法を見せて。
その言葉に、以前なら少し身構えただろう。
また才能だけを見られている。
また珍しいもののように扱われている。
そう思ったかもしれない。
けれど、目の前の子供たちの瞳には、怯えも、嫉みも、利用しようとする濁りもなかった。
ただ、憧れがあった。
真っ直ぐすぎて、少し眩しいほどの。
エリーゼは小さく息を吐き、指先を持ち上げた。
青白い光が、空中に小さな鳥の形を作る。
光の鳥は、羽を震わせて舞い上がり、子供たちの頭上をくるりと回った。夕陽を受けて、淡い青が金色に縁取られる。子供たちが歓声を上げた。
「すごい!」
「きれい!」
光の鳥は、やがて細かな粒になって消えた。
エリーゼは、少しだけ顔を逸らした。
「……ただの簡単な術ですわ」
「簡単じゃねぇよ」
レオンが隣で言った。
「少なくとも、今の顔を見た子供らには、一生忘れない魔法だ」
エリーゼは何も言えなかった。
胸の奥に、温かいものが灯る。
以前の自分なら、こんな感覚をくだらないと切り捨てていただろう。
だが今は、切り捨てたくなかった。
ショーウィンドウに、ふと自分の姿が映る。
金色の髪は少し乱れている。
ローブの裾には、今日の買い物でついた埃が薄く残っている。
頬には、以前よりも血色があった。
そして何より、瞳が違っていた。
冷たい硝子のようだった昔の目ではない。
世界を観察するだけの目ではない。
誰かの声に反応し、誰かの足音を探し、誰かと同じ景色を見ることを覚えた目だった。
変わった。
そう思った。
この騒がしくて、泥臭くて、計算通りにいかない仲間たちのせいで。
その変化を、今のエリーゼは嫌いではなかった。
*
夕方、市場の帰り道。
四人は、王都の外壁近くにある小さな丘へ寄った。
そこは、街の喧騒から少し離れていた。
草が柔らかく揺れ、風が通るたび、葉先が銀色に光った。遠くには王都の屋根が重なって見える。煙突から細い煙が上がり、夕陽の中でゆっくり溶けていた。城壁の向こうには、青く霞んだ山並みがある。
空は高い。
薄い雲が、夕暮れの光を受けて淡い桃色に染まっていた。
ボルグは丘の上に腰を下ろし、大根を誇らしげに抱えていた。
「今日はいい買い物だった」
「大根でそこまで満足できる人生、少し羨ましいですわ」
「素直に羨ましいって言え」
「今の言い方で十分です」
セラは敷物を広げ、その上にパンと果物を並べていた。
ただし、風が強かった。
敷物の端がふわりと持ち上がり、セラが慌てて押さえる。
「あらあら、また旅立とうとしていますぅ」
「前も見たぞ、それ」
ボルグが大根で敷物の端を押さえた。
大根は、ここでようやく本来とは違う役目を得た。
「便利ですねぇ、大根」
「だろ?」
「食材として褒められていませんわよ」
エリーゼが呆れると、レオンが静かに笑った。
彼は少し離れた場所で、夕陽を見ていた。
風が赤い髪を揺らしている。
いつもなら何か言うはずなのに、その時の彼は少しだけ黙っていた。
エリーゼは、手の中のリンゴを見つめた。
そして、ゆっくりレオンの隣へ歩いた。
「珍しいですわね」
「何が?」
「あなたが黙っていることです」
「俺だって、たまには黙る」
「具合が悪いのですか?」
「心配してくれてるのか?」
「観察です」
「そういうことにしておく」
レオンは、丘の向こうを見たまま笑った。
エリーゼも、同じ方を見る。
夕陽が地平の近くへ沈みかけている。草原は金色に染まり、風が吹くたび、光そのものが波打っているように見えた。
「なあ、エリーゼ」
レオンが言った。
その声は、いつもより少し静かだった。
「海って見たことあるか?」
「ありません」
「俺もない」
「でしょうね」
「なぜ分かる」
「あなたが見たことがあるなら、毎日その話をしているはずです」
レオンは少しだけ笑った。
「たしかに」
沈黙。
風が草を撫でる。
遠くで、夕方の鐘が鳴った。
ごおん。
ごおん。
その音が、王都の屋根を越えて丘まで届く。
「今度の大きな依頼が終わったらさ」
レオンは言った。
「みんなで海を見に行こう」
エリーゼは、横顔を見た。
レオンの目は、遠くを見ていた。
市場の喧騒でも、目の前の依頼でもなく、もっと先の景色を。
「海を?」
「そう。ボルグは魚の値段ばっかり気にしそうだし、セラは貝殻を全部拾いそうだし、お前はたぶん、海水の成分を調べ始める」
「あなたの中の私は、旅先でも研究を始めるのですか」
「違うのか?」
「……否定しきれないのが腹立たしいですわ」
レオンが笑った。
けれど、すぐにまた静かな顔になる。
「でも、見たいんだ。四人で」
四人で。
その言葉が、エリーゼの胸にゆっくり沈んだ。
以前なら、誰かとどこかへ行く未来など、想像したこともなかった。
ひとりで研究室にいる自分。
ひとりで本を読む自分。
ひとりで答えを出す自分。
未来とは、そういうものだと思っていた。
けれど今、彼女の中に別の景色が浮かんだ。
広い海。
潮風。
波音。
ボルグが魚の値段を調べ、セラが濡れた貝殻を両手いっぱいに抱え、レオンが子供のように波打ち際へ走っていく。
そして、自分がそれを呆れた顔で見ている。
その想像は、あまりにも自然だった。
自然すぎて、怖くなるほどだった。
「……悪くはありませんわね」
エリーゼは小さく言った。
レオンの顔が明るくなる。
「決まりだな」
「まだ決まりとは言っていません」
「お前の『悪くない』は、だいたい気に入ってるって意味だ」
「勝手に翻訳しないでください」
「外れてるか?」
エリーゼは答えなかった。
答えないことが、答えになってしまうと分かっていたから。
レオンは、それ以上追い詰めなかった。
ただ、同じ夕陽を見た。
風が吹く。
エリーゼの金色の髪が揺れ、レオンの赤い髪と一瞬だけ同じ方向へ流れた。
この時間が続けばいい。
ふと、そう思った。
明日も、明後日も、その次の日も。
市場へ行き、任務へ出て、失敗して、笑って、リンゴを食べて、いつか海を見る。
そんな日々が、ずっと続けばいい。
けれど、夏はもう終わろうとしていた。
夕陽は沈む。
風は冷たくなる。
夜は、必ず来る。
それを知らないふりをして、エリーゼはリンゴをそっと抱えた。
真っ赤な皮に、最後の夕陽が映っていた。
その赤は、温かくて。
なぜか、少しだけ痛かった。
*
その日の帰り道、王都には夕暮れの風が吹いていた。
市場の熱気はまだ背中に残っている。けれど、大通りから一本外れた細い道へ入ると、喧騒は少し遠くなった。石畳には西日が斜めに差し込み、建物の影が長く伸びている。窓辺に吊るされた小さな飾りが風に揺れ、ちりん、と澄んだ音を立てた。
エリーゼはリンゴを抱えたまま歩いていた。
ボルグは大根を肩に担ぎ、セラは紙袋を両腕いっぱいに抱えている。レオンはその少し後ろを歩きながら、通り沿いの店を何気なく眺めていた。
その時、彼の足がふと止まった。
「どうしましたの?」
エリーゼが振り返る。
レオンは小さな露店を見ていた。
古い布を敷いただけの、目立たない店だった。並べられているのは、安物の髪飾りや、色ガラスの耳飾り、小さな指輪、欠けた銀細工。どれも高価なものではない。けれど夕陽を受けると、色ガラスだけは不思議ときれいに光っていた。
その中に、青いガラスの指輪があった。
宝石ではない。
透き通った青いガラスを、簡素な輪にはめ込んだだけのもの。よく見れば縁に小さな傷があり、細工も決して上等ではなかった。
けれど、その青は、夕暮れの中で静かに光っていた。
晴れた日の遠い空のような色。
まだ見ぬ海のような色。
レオンはそれを手に取った。
「これ、いくらだ?」
店主が値段を告げる。
ボルグが即座に顔をしかめた。
「高い。ガラスだぞ、それ」
「そうか?」
「そうだ。半額にしろ」
「あなた、市場の延長で値切らないでください」
エリーゼが呆れると、ボルグは真顔で返した。
「値切れる場所では値切る。それが生きる知恵だ」
「指輪を買う空気ではありませんわ」
「買う空気も値切る空気も、値段次第だ」
セラがにこにこ笑った。
「でも、きれいな色ですねぇ」
レオンは指輪を掌の上で転がした。
青い光が、彼の指の間で揺れる。
「エリーゼ」
「何ですの」
「手、出してくれ」
エリーゼの眉が跳ねた。
「なぜです」
「いいから」
「理由を言いなさい」
「言ったら逃げるだろ」
「その時点で不穏ですわ」
レオンは笑った。
けれど、その笑みはいつもの騒がしいものではなかった。少しだけ照れくさそうで、それでも逃げないと決めているような顔だった。
エリーゼは警戒しながらも、左手を差し出した。
レオンは、その薬指に青いガラスの指輪をそっと通した。
冷たい輪が、肌に触れる。
エリーゼは息を止めた。
「……これは?」
「約束の印」
レオンは言った。
「契約、みたいなもんだ」
「契約?」
エリーゼは指輪を見る。
安物の青いガラス。
けれど、指に嵌まると、その小さな青は不思議と消えなかった。夕陽の赤の中で、そこだけが静かな空の色を保っている。
「次の依頼も、その次も、そのまた次も。俺たちは全員で行って、全員で帰る」
レオンの声は、明るかった。
けれど、軽くはなかった。
「海も見に行く。四人で」
ボルグが横で鼻を鳴らした。
「勝手に決めてるぞ」
「お前も行くだろ」
「魚が安けりゃな」
「行くってことだな」
セラは嬉しそうに手を合わせた。
「私は貝殻を拾いますぅ」
「ほら、決まりだ」
レオンは笑った。
エリーゼは指輪を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
高価なものではない。
由緒ある品でもない。
正式な誓いでもない。
それでも、その輪は、彼女の指に確かな重みを残した。
誰かと未来の約束をすること。
明日も、その先も、自分がこの人たちの隣にいると当然のように数えられること。
それは、エリーゼにとって、どんな宝石よりも眩しかった。
「……安物ですわね」
ようやく出た言葉は、そんなものだった。
レオンは少しだけ笑う。
「ああ」
「細工も粗いです」
「だな」
「青いガラスも、少し傷があります」
「見つけるの早いな」
「私は目がいいので」
「じゃあ、嫌か?」
エリーゼは指輪を握るように左手を閉じた。
風が通り抜ける。
露店の小さな飾りが、ちりん、と鳴った。
「……悪くはありませんわ」
レオンの顔が、ぱっと明るくなった。
エリーゼは慌てて視線を逸らす。
「ただし、契約内容は明確にしておくべきです」
「おう」
「全員で行って、全員で帰る。海を見る。途中で勝手に死なない。無茶は控える。食材を剣で切らない。ボルグは大根に過度な価値を見出さない。セラは危険な木の実を自分で試食しない」
「後半、細かくないか?」
「大事です」
ボルグが顔をしかめた。
「大根の項目は余計だろ」
「最重要ですわ」
セラがにこにこと頷く。
「では、みんなで約束ですねぇ」
レオンは、エリーゼの左手をそっと取った。
ほんの一瞬だけ。
指輪の青い光が、二人の間で揺れた。
「約束だ」
その声を、エリーゼは忘れないと思った。
忘れられるはずがなかった。
*
それから数日、王都は穏やかだった。
銀の翼は依頼をこなし、買い出しをし、食事をし、時々喧嘩をして、また笑った。
エリーゼは、青いガラスの指輪を外さなかった。
研究室で羊皮紙に向かう時も、依頼の準備をする時も、市場でリンゴを選ぶ時も、左手の薬指には小さな青があった。
不思議なものだった。
その輪があるだけで、以前よりも少しだけ、世界とのつながりが目に見える気がした。
扉の向こうに足音がある。
市場に笑い声がある。
焚き火のそばに座る場所がある。
そして、まだ見ぬ海へ続く約束がある。
エリーゼは、その幸福を疑わなくなり始めていた。
それが、どれほど危ういことなのか。
その時の彼女は、まだ知らなかった。
*
依頼が来たのは、空が急に冷えた日の朝だった。
ギルドの窓ガラスには、細かな雨粒が斜めに当たっていた。
早朝から降り始めた雨は、時間が経つにつれて少しずつ強くなっている。空は鉛色で、遠くの屋根は雨煙に霞んでいた。濡れた石畳を馬車が通るたび、車輪が水を跳ね、ざしゃ、と低い音が響く。
ギルドの中は、外の寒さから逃げてきた冒険者たちで混み合っていた。
濡れた外套の匂い。
酒の匂い。
焼いた肉の匂い。
湿った革靴が床を踏む音。
依頼書の端が、扉の開閉で入り込む風に揺れていた。
レオンは受付から一枚の羊皮紙を受け取り、真剣な顔で戻ってきた。
その表情を見た瞬間、エリーゼは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
いつもの依頼とは違う。
「何ですの?」
彼女が聞くと、レオンは羊皮紙をテーブルへ置いた。
雨の音が、窓の外で強くなる。
ぽつぽつ、ではない。
ざあ、と屋根を叩く音。
依頼書には、湿ったインクの匂いがした。
『幻霧の谷の調査および魔獣討伐』
その文字を見た瞬間、セラの顔から少しだけ笑みが消えた。
ボルグも、軽い調子を引っ込める。
エリーゼは依頼書を読んだ。
王都から北西にある谷。
近頃、谷の霧が異常に濃くなっていること。
近くを通った商人が行方不明になったこと。
救助に向かった冒険者の一団も戻らなかったこと。
そして、谷の奥で巨大な花のような影を見たという証言。
エリーゼの指が、依頼書の端を握る。
青いガラスの指輪が、灯りを受けて淡く光った。
「……危険ですわね」
「ああ」
レオンは短く答えた。
いつものように軽く笑わない。
彼は危険を理解していた。
理解した上で、依頼書を見つめている。
ボルグが腕を組んだ。
「戻らない冒険者がいるって時点で、ただの霧じゃねぇな」
セラは静かに頷いた。
「人を迷わせるだけならまだしも、帰ってこないとなると……中で何かが待っているのかもしれませんねぇ」
エリーゼは、羊皮紙から目を離せなかった。
巨大な花のような影。
霧。
行方不明者。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
「受けるのですか」
レオンはしばらく黙った。
その沈黙は、軽くなかった。
雨が窓を叩く。
ギルドの喧騒が、少し遠く感じられた。
「受ける」
彼は言った。
エリーゼは顔を上げる。
「理由は?」
「戻ってない人がいる」
答えは短かった。
「それに、俺たちなら行ける」
「過信です」
「かもしれない」
レオンは認めた。
「でも、無謀にはしない。準備する。撤退の判断も決める。エリーゼ、お前の意見も全部聞く」
それは、昔の彼なら言わなかったかもしれない言葉だった。
ただ勢いで走るのではない。
仲間を見る。
危険を見て、それでも行くと決める。
エリーゼは、左手の指輪に触れた。
全員で行って、全員で帰る。
海を見る。
そう約束したばかりだ。
「……分かりました」
彼女は静かに言った。
「ただし、準備は徹底します。霧への対策。視界不良時の連絡手段。撤退位置の確認。毒の可能性も考えます。未知の魔獣がいる前提で、回復薬も倍にしてください」
「分かった」
「ボルグ、地形図を確認。逃走経路を三つ以上。セラ、消耗を抑えるための支援を優先。レオン、あなたは絶対に一人で前へ出すぎないこと」
「最後だけ俺への圧が強いな」
「前科があります」
「反論できない」
ボルグが小さく笑った。
「まあ、エリーゼがこれだけ怒ってるなら、多少は生きて帰れるだろ」
「怒っているわけではありません」
「心配してるんだろ」
エリーゼは言葉を止めた。
ボルグはそれ以上からかわなかった。
セラがそっと微笑む。
「大丈夫ですぅ。みんなで帰りましょうねぇ」
その言葉に、エリーゼは頷いた。
青いガラスの指輪が、指に冷たく触れている。
*
出発は、翌朝になった。
だが、雨は止まなかった。
むしろ、強くなっていた。
王都を出る頃、空は暗く沈み、遠くの森は雨の幕にかすんで見えた。街道の土はぬかるみ、靴底に重く絡みつく。馬車の轍には水が溜まり、歩くたびに、ぐちゅ、と湿った音がした。
風は冷たい。
まだ秋の入口のはずなのに、雨に濡れた空気は肌から熱を奪っていく。草は水を含んで垂れ、葉の先から雨粒が絶え間なく落ちていた。
四人は無言で歩いた。
レオンは先頭。
ボルグは少し斜め後ろで周囲を警戒している。
セラは外套の内側に杖を抱え、足元に気をつけながら進む。
エリーゼは、左手を胸元で握っていた。
指輪の輪郭が、手袋越しにも分かる。
全員で行って、全員で帰る。
その約束を、指先で何度も確かめる。
雨は冷たかった。
頬を伝う雫が、首筋へ落ちる。髪は湿り、ローブの裾は泥を吸って重くなっていく。遠くで雷の低い音がした。
ごろ、と空の奥が鳴る。
道の先に、谷が見え始めた。
幻霧の谷。
崖の間に沈むように開いた谷は、雨と霧に覆われていた。白い霧が底から湧き上がり、谷の入口をぼんやりと隠している。木々は濡れ、黒く沈み、枝の先から滴る水が、ぽたり、ぽたりと地面を叩いていた。
近づくほど、音が変わる。
雨音はまだある。
風の音もある。
けれど、谷の方からは、それとは別の静けさが流れてきた。
音を吸い込むような、冷たい静けさ。
エリーゼは足を止めた。
霧の匂いがした。
ただの水の匂いではない。
濡れた苔。
腐りかけた花。
そして、どこか甘すぎる香り。
胸の奥が、ざわりと震えた。
「エリーゼ?」
レオンが振り返る。
彼の赤い髪も雨に濡れ、額に張りついていた。だが、その目はまっすぐだった。
「無理なら、戻る判断もありだ」
その言葉に、エリーゼは少しだけ息を吸った。
無理なら戻る。
彼は本気でそう言っている。
約束を守るために。
彼女は左手を握りしめた。
「……行けます」
「本当に?」
「ええ」
エリーゼは、谷の入口を見た。
白い霧が、ゆっくりと揺れている。
まるで、中へおいでと手招きするように。
「全員で行って、全員で帰るのでしょう」
レオンは一瞬だけ目を見開き、それから笑った。
静かな笑みだった。
「ああ」
ボルグが短剣の柄に手を置く。
「さっさと終わらせて帰ろうぜ。雨で大根が傷む」
「まだ持ってきていたのですか」
「非常食だ」
「大根を非常食にしないでください」
セラが少しだけ笑った。
その笑いは、小さかった。
けれど、冷たい雨の中で、確かに温度を持っていた。
レオンが剣を抜く。
金属が鞘を擦る音が、雨音の中に細く響いた。
エリーゼは杖を握る。
青いガラスの指輪が、濡れた空気の中で淡く光った。
幻霧の谷の入口に立った時、雨は本降りになっていた。
地面はぬかるみ、濡れた落ち葉が靴底にべっとりと張りつく。まるで、侵入者を逃がさないための、冷たい手のようだった。
エリーゼは、指輪を嵌めた手を強く握りしめた。
冷たい雨が、頬を伝う。
その冷たさは、これから訪れる悲劇の温度と、よく似ていた。
終わらない夏への願いは、冷たい秋風に吹き消されようとしていた。
運命の歯車が、軋みながら回り始める。
もう、誰にも止めることはできなかった。




