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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第33話:忍び寄る影と、終わらない夏への願い 〜永遠を願うことが、別れの始まりである〜

 季節の歩みは、誰にも止められない。


 どれほど幸福な日々であっても、どれほど苦しい夜であっても、朝は来る。陽は傾く。風は変わる。木々の葉は色を深め、やがて薄く乾き、土へ落ちる。


 時間は、誰の願いにも耳を貸さない。


 だからこそ、人は時々、今この瞬間だけは終わらないでほしいと、どうしようもなく愚かな願いを抱いてしまう。


 王都グランドルの空から、真夏の厚い雲は少しずつ姿を消していた。


 つい先日まで、空には白く盛り上がった大きな雲が浮かび、昼下がりには地面から熱が立ち上っていた。石畳は陽を浴びて白く眩み、馬車の車輪が通るたびに、乾いた埃が細く舞った。街路樹の葉は濃い緑をまとい、風が吹くたび、ざわざわと力強い音を立てていた。


 けれど今、空は少し違う。


 高く、薄く、遠い。


 刷毛で掃いたような雲が、青の奥に静かに伸びている。昼の光はまだ強いが、夕暮れになると、風の端にほんのわずかな冷たさが混じるようになった。


 草むらでは、夏の盛りに響いていた虫の声が少しずつ遠のき、代わりに、細く澄んだ音が夜の底から聞こえ始めている。


 りん。


 りん。


 その音は、涼しい。


 けれど、どこか寂しい。


 夏が終わろうとしていた。


 晩夏から、初秋へ。


 一年の中で、もっとも美しく、もっとも胸の奥を静かに締めつける季節が、音もなく王都へ忍び寄っていた。


     *


「エリーゼ! ぼうっとしてる場合じゃねぇぞ! 夕市の半額札が出る!」


 雑踏の中で、ボルグの声が飛んだ。


 王都の大通りは、夕方の熱気に満ちていた。


 日中の暑さが石畳にまだ残っている。けれど、建物の影は長く伸び、店先に吊るされた布の旗が、少し涼しい風に揺れていた。果物屋の軒先には熟したリンゴや梨が山のように積まれ、肉屋の前では焼けた脂の匂いが煙と一緒に立ち上っている。香辛料の店からは鼻をくすぐる辛い香りが流れ、パン屋の窓からは焼きたての小麦の甘い匂いがこぼれていた。


 人の声。


 靴音。


 馬車の軋み。


 店主の呼び込み。


 子供の笑い声。


 それらが重なり合い、夕暮れの市場は、まるで大きな鍋の中で煮立つ生活そのもののようだった。


 エリーゼは、日傘をたたみながら、小さくため息をついた。


「うるさいですわね、ボルグ。たかが野菜の値引きで、なぜ戦場へ向かう兵士のような顔をしているのですか」


「たかが野菜だと?」


 ボルグが振り返った。


 小柄な体に革の軽装。腰には短剣。盗賊らしい鋭い目つき。


 だが、その手には剣ではなく買い物籠が握られていた。


「いいか、お嬢。夕市の値引き札ってのはな、出た瞬間に勝敗が決まる。迷った奴から負ける。特に大根半額は命の取り合いだ」


「大根で命を懸けないでください」


「懸ける価値はある」


「ありません」


「ある。煮てもよし、焼いてもよし、干してもよし。しかも安い」


「あなたの人生観、かなり根の部分を大根に支配されていますわね」


 ボルグは胸を張った。


「安くてうまいものは裏切らねぇ」


「人間より信用している顔ですわ」


「場合によるな」


 そう言うなり、ボルグは主婦たちの人垣へ突っ込んだ。


 その動きは、戦場の罠を抜ける時よりも鋭かった。


 右から伸びる手をかわし、左の籠をすり抜け、店主が札を置く寸前に、一歩早く前へ出る。小柄な体が人波の隙間を縫い、まるで影が地面を滑るように野菜籠の前へ到達した。


「取った!」


 ボルグが大根を掲げる。


 夕陽を浴びた白い大根が、まるで伝説の宝剣のように高々と掲げられた。


 沈黙。


 次の瞬間、周囲の主婦たちから、なぜか小さな拍手が起きた。


「若いのにやるじゃないか」


「足さばきがいいねぇ」


「でも次は負けないよ」


「はっ、望むところだ」


 ボルグは満足げに笑った。


 エリーゼは額を押さえた。


「……なぜ市場で名勝負が発生しているのですか」


 隣でセラが、ほわりと笑った。


「平和でいいですねぇ」


 彼女の両腕には、紙袋がいくつも抱えられていた。中身はパン、木の実、干し果物、薬草、そしてなぜか焼き菓子。買い出しというより、小さな祭りの帰りのようだった。


「セラ、それ以上買うと持てないのでは?」


「大丈夫ですぅ。まだ心で持てますぅ」


「物理的に持ちなさい」


「心も大事ですよぉ」


「荷物は心では運べませんわ」


「でも、誰かに持ってもらうことはできますぅ」


 セラはにこりと笑った。


 その視線の先には、少し離れた露店から戻ってくるレオンがいた。


 両手には串焼き。


 肩には新しく買ったらしい装備袋。


 そして腕には、なぜか追加の果物籠。


 彼は人混みを抜けながら、周囲へ軽く頭を下げていた。ぶつかりそうな子供がいれば自然に避け、重い荷物を持った老女がいればさりげなく道を空ける。笑顔は明るいが、足取りは軽すぎない。周りを見ている。


 エリーゼは、その様子をぼんやり眺めていた。


 レオンは、ただ騒がしいだけの人間ではない。


 明るい。


 人を巻き込む。


 だが、押し流すのではなく、手を差し出して歩幅を合わせる。


 自分がそのことに気づくようになったのは、いつからだっただろう。


「待たせた」


 レオンが戻ってきた。


 赤い髪に夕陽が絡み、火のように揺れている。彼は串焼きをボルグへ一本投げ、セラの荷物の半分を黙って受け取り、最後にエリーゼの方へ何かを放った。


「ほら」


 エリーゼは反射的に受け取った。


 手の中に、ずしりと重みが落ちる。


 真っ赤なリンゴだった。


 艶やかな皮に、夕暮れの光が映っている。丸い表面には小さな水滴がついていて、指先に冷たく触れた。


「……またリンゴですの?」


「市場のおばさんが、ひとつおまけしてくれた。お前、好きだろ」


「好きだと言った覚えはありません」


「でも、いつも最後まで食べる」


「食べ物を粗末にしないだけです」


「そういうことにしておく」


 レオンは笑った。


 それ以上、何も言わない。


 エリーゼはリンゴを見下ろした。


 この赤は、いつの間にか日常の色になっていた。


 雨の日に、レオンが濡れた制服のまま持ってきたリンゴ。


 市場で投げ渡されたリンゴ。


 焚き火のそばで、セラが薄く切ってくれたリンゴ。


 ボルグが「高い」と文句を言いながらも、結局買ってきたリンゴ。


 そのどれもが、彼女の中に少しずつ積もっていた。


 以前のエリーゼなら、こんなものに意味を見いだすことなどなかっただろう。


 果物は果物。


 栄養と味と保存性。


 それだけで十分だった。


 けれど今は違う。


 リンゴを見ると、誰かの足音を思い出す。


 笑い声を思い出す。


 焚き火の匂いを思い出す。


 不味いスープを飲んで顔をしかめたレオンの声を思い出す。


 エリーゼは、リンゴを胸の前で軽く抱えた。


「……皮をむかないと食べられませんわ」


「皮ごとでもうまいぞ」


「野蛮です」


「じゃあ、あとでむいてくれ」


「なぜ私が」


「俺がむくと、食べるところが半分になる」


「相変わらず不器用ですわね」


「剣なら切れるんだけどな」


「食材を剣で処理しないでください」


 ボルグが串焼きを噛みながら口を挟む。


「レオンに皮むかせるくらいなら、俺がやる。あいつ、前に梨を木片みたいにしたからな」


「梨だったもの、ですねぇ」


 セラが遠い目をした。


 レオンは気まずそうに視線を逸らす。


「あれは刃物が悪かった」


「悪いのは手元です」


 エリーゼが即答すると、ボルグが吹き出した。


 セラも笑った。


 レオンも、少し遅れて笑う。


 その笑い声が市場の喧騒に混じっていく。


 エリーゼは、ほんのわずかに口元を緩めた。


 この騒がしさが、もう不快なだけではなくなっている。


 それが、少し怖かった。


     *


 パーティ「銀の翼」は、この数か月で急速に名を上げていた。


 難しい遺跡調査。


 凶暴な魔獣の討伐。


 街道を塞いだ盗賊団の捕縛。


 危険な薬草の採取。


 誰も受けたがらない依頼を、彼らは次々にこなした。


 レオンは、先頭に立つ。


 ただ突っ込むだけではない。誰よりも早く危険を引き受け、敵の目を自分へ向け、仲間が動くための余白を作る。


 ボルグは、影のように動く。


 罠を見抜き、鍵を開け、敵の背後を取り、時には誰よりも早く逃げ道を作る。


 セラは、後ろから支える。


 傷を癒やし、守りを張り、空気が悪くなりかけた時には、なぜか菓子を取り出して全員の調子を狂わせる。


 そしてエリーゼは、全体を見る。


 魔力の流れ、地形、敵の動き、仲間の癖。


 かつては邪魔だと思っていた不完全さを、今では戦いの中に組み込めるようになっていた。


 完璧な計算だけでは届かない場所がある。


 それを、彼女はこの仲間たちから学んだ。


 王都の通りを歩けば、子供たちが手を振る。


「あ、銀の翼だ!」


「レオンだ!」


「セラお姉ちゃん、またお菓子ある?」


「ボルグ、今度鍵開け見せて!」


「エリーゼさん、魔法見せて!」


 最後の声に、エリーゼは一瞬だけ足を止めた。


 魔法を見せて。


 その言葉に、以前なら少し身構えただろう。


 また才能だけを見られている。


 また珍しいもののように扱われている。


 そう思ったかもしれない。


 けれど、目の前の子供たちの瞳には、怯えも、嫉みも、利用しようとする濁りもなかった。


 ただ、憧れがあった。


 真っ直ぐすぎて、少し眩しいほどの。


 エリーゼは小さく息を吐き、指先を持ち上げた。


 青白い光が、空中に小さな鳥の形を作る。


 光の鳥は、羽を震わせて舞い上がり、子供たちの頭上をくるりと回った。夕陽を受けて、淡い青が金色に縁取られる。子供たちが歓声を上げた。


「すごい!」


「きれい!」


 光の鳥は、やがて細かな粒になって消えた。


 エリーゼは、少しだけ顔を逸らした。


「……ただの簡単な術ですわ」


「簡単じゃねぇよ」


 レオンが隣で言った。


「少なくとも、今の顔を見た子供らには、一生忘れない魔法だ」


 エリーゼは何も言えなかった。


 胸の奥に、温かいものが灯る。


 以前の自分なら、こんな感覚をくだらないと切り捨てていただろう。


 だが今は、切り捨てたくなかった。


 ショーウィンドウに、ふと自分の姿が映る。


 金色の髪は少し乱れている。


 ローブの裾には、今日の買い物でついた埃が薄く残っている。


 頬には、以前よりも血色があった。


 そして何より、瞳が違っていた。


 冷たい硝子のようだった昔の目ではない。


 世界を観察するだけの目ではない。


 誰かの声に反応し、誰かの足音を探し、誰かと同じ景色を見ることを覚えた目だった。


 変わった。


 そう思った。


 この騒がしくて、泥臭くて、計算通りにいかない仲間たちのせいで。


 その変化を、今のエリーゼは嫌いではなかった。


     *


 夕方、市場の帰り道。


 四人は、王都の外壁近くにある小さな丘へ寄った。


 そこは、街の喧騒から少し離れていた。


 草が柔らかく揺れ、風が通るたび、葉先が銀色に光った。遠くには王都の屋根が重なって見える。煙突から細い煙が上がり、夕陽の中でゆっくり溶けていた。城壁の向こうには、青く霞んだ山並みがある。


 空は高い。


 薄い雲が、夕暮れの光を受けて淡い桃色に染まっていた。


 ボルグは丘の上に腰を下ろし、大根を誇らしげに抱えていた。


「今日はいい買い物だった」


「大根でそこまで満足できる人生、少し羨ましいですわ」


「素直に羨ましいって言え」


「今の言い方で十分です」


 セラは敷物を広げ、その上にパンと果物を並べていた。


 ただし、風が強かった。


 敷物の端がふわりと持ち上がり、セラが慌てて押さえる。


「あらあら、また旅立とうとしていますぅ」


「前も見たぞ、それ」


 ボルグが大根で敷物の端を押さえた。


 大根は、ここでようやく本来とは違う役目を得た。


「便利ですねぇ、大根」


「だろ?」


「食材として褒められていませんわよ」


 エリーゼが呆れると、レオンが静かに笑った。


 彼は少し離れた場所で、夕陽を見ていた。


 風が赤い髪を揺らしている。


 いつもなら何か言うはずなのに、その時の彼は少しだけ黙っていた。


 エリーゼは、手の中のリンゴを見つめた。


 そして、ゆっくりレオンの隣へ歩いた。


「珍しいですわね」


「何が?」


「あなたが黙っていることです」


「俺だって、たまには黙る」


「具合が悪いのですか?」


「心配してくれてるのか?」


「観察です」


「そういうことにしておく」


 レオンは、丘の向こうを見たまま笑った。


 エリーゼも、同じ方を見る。


 夕陽が地平の近くへ沈みかけている。草原は金色に染まり、風が吹くたび、光そのものが波打っているように見えた。


「なあ、エリーゼ」


 レオンが言った。


 その声は、いつもより少し静かだった。


「海って見たことあるか?」


「ありません」


「俺もない」


「でしょうね」


「なぜ分かる」


「あなたが見たことがあるなら、毎日その話をしているはずです」


 レオンは少しだけ笑った。


「たしかに」


 沈黙。


 風が草を撫でる。


 遠くで、夕方の鐘が鳴った。


 ごおん。


 ごおん。


 その音が、王都の屋根を越えて丘まで届く。


「今度の大きな依頼が終わったらさ」


 レオンは言った。


「みんなで海を見に行こう」


 エリーゼは、横顔を見た。


 レオンの目は、遠くを見ていた。


 市場の喧騒でも、目の前の依頼でもなく、もっと先の景色を。


「海を?」


「そう。ボルグは魚の値段ばっかり気にしそうだし、セラは貝殻を全部拾いそうだし、お前はたぶん、海水の成分を調べ始める」


「あなたの中の私は、旅先でも研究を始めるのですか」


「違うのか?」


「……否定しきれないのが腹立たしいですわ」


 レオンが笑った。


 けれど、すぐにまた静かな顔になる。


「でも、見たいんだ。四人で」


 四人で。


 その言葉が、エリーゼの胸にゆっくり沈んだ。


 以前なら、誰かとどこかへ行く未来など、想像したこともなかった。


 ひとりで研究室にいる自分。


 ひとりで本を読む自分。


 ひとりで答えを出す自分。


 未来とは、そういうものだと思っていた。


 けれど今、彼女の中に別の景色が浮かんだ。


 広い海。


 潮風。


 波音。


 ボルグが魚の値段を調べ、セラが濡れた貝殻を両手いっぱいに抱え、レオンが子供のように波打ち際へ走っていく。


 そして、自分がそれを呆れた顔で見ている。


 その想像は、あまりにも自然だった。


 自然すぎて、怖くなるほどだった。


「……悪くはありませんわね」


 エリーゼは小さく言った。


 レオンの顔が明るくなる。


「決まりだな」


「まだ決まりとは言っていません」


「お前の『悪くない』は、だいたい気に入ってるって意味だ」


「勝手に翻訳しないでください」


「外れてるか?」


 エリーゼは答えなかった。


 答えないことが、答えになってしまうと分かっていたから。


 レオンは、それ以上追い詰めなかった。


 ただ、同じ夕陽を見た。


 風が吹く。


 エリーゼの金色の髪が揺れ、レオンの赤い髪と一瞬だけ同じ方向へ流れた。


 この時間が続けばいい。


 ふと、そう思った。


 明日も、明後日も、その次の日も。


 市場へ行き、任務へ出て、失敗して、笑って、リンゴを食べて、いつか海を見る。


 そんな日々が、ずっと続けばいい。


 けれど、夏はもう終わろうとしていた。


 夕陽は沈む。


 風は冷たくなる。


 夜は、必ず来る。


 それを知らないふりをして、エリーゼはリンゴをそっと抱えた。


 真っ赤な皮に、最後の夕陽が映っていた。


 その赤は、温かくて。


 なぜか、少しだけ痛かった。


  *


 その日の帰り道、王都には夕暮れの風が吹いていた。


 市場の熱気はまだ背中に残っている。けれど、大通りから一本外れた細い道へ入ると、喧騒は少し遠くなった。石畳には西日が斜めに差し込み、建物の影が長く伸びている。窓辺に吊るされた小さな飾りが風に揺れ、ちりん、と澄んだ音を立てた。


 エリーゼはリンゴを抱えたまま歩いていた。


 ボルグは大根を肩に担ぎ、セラは紙袋を両腕いっぱいに抱えている。レオンはその少し後ろを歩きながら、通り沿いの店を何気なく眺めていた。


 その時、彼の足がふと止まった。


「どうしましたの?」


 エリーゼが振り返る。


 レオンは小さな露店を見ていた。


 古い布を敷いただけの、目立たない店だった。並べられているのは、安物の髪飾りや、色ガラスの耳飾り、小さな指輪、欠けた銀細工。どれも高価なものではない。けれど夕陽を受けると、色ガラスだけは不思議ときれいに光っていた。


 その中に、青いガラスの指輪があった。


 宝石ではない。


 透き通った青いガラスを、簡素な輪にはめ込んだだけのもの。よく見れば縁に小さな傷があり、細工も決して上等ではなかった。


 けれど、その青は、夕暮れの中で静かに光っていた。


 晴れた日の遠い空のような色。


 まだ見ぬ海のような色。


 レオンはそれを手に取った。


「これ、いくらだ?」


 店主が値段を告げる。


 ボルグが即座に顔をしかめた。


「高い。ガラスだぞ、それ」


「そうか?」


「そうだ。半額にしろ」


「あなた、市場の延長で値切らないでください」


 エリーゼが呆れると、ボルグは真顔で返した。


「値切れる場所では値切る。それが生きる知恵だ」


「指輪を買う空気ではありませんわ」


「買う空気も値切る空気も、値段次第だ」


 セラがにこにこ笑った。


「でも、きれいな色ですねぇ」


 レオンは指輪を掌の上で転がした。


 青い光が、彼の指の間で揺れる。


「エリーゼ」


「何ですの」


「手、出してくれ」


 エリーゼの眉が跳ねた。


「なぜです」


「いいから」


「理由を言いなさい」


「言ったら逃げるだろ」


「その時点で不穏ですわ」


 レオンは笑った。


 けれど、その笑みはいつもの騒がしいものではなかった。少しだけ照れくさそうで、それでも逃げないと決めているような顔だった。


 エリーゼは警戒しながらも、左手を差し出した。


 レオンは、その薬指に青いガラスの指輪をそっと通した。


 冷たい輪が、肌に触れる。


 エリーゼは息を止めた。


「……これは?」


「約束の印」


 レオンは言った。


「契約、みたいなもんだ」


「契約?」


 エリーゼは指輪を見る。


 安物の青いガラス。


 けれど、指に嵌まると、その小さな青は不思議と消えなかった。夕陽の赤の中で、そこだけが静かな空の色を保っている。


「次の依頼も、その次も、そのまた次も。俺たちは全員で行って、全員で帰る」


 レオンの声は、明るかった。


 けれど、軽くはなかった。


「海も見に行く。四人で」


 ボルグが横で鼻を鳴らした。


「勝手に決めてるぞ」


「お前も行くだろ」


「魚が安けりゃな」


「行くってことだな」


 セラは嬉しそうに手を合わせた。


「私は貝殻を拾いますぅ」


「ほら、決まりだ」


 レオンは笑った。


 エリーゼは指輪を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。


 高価なものではない。


 由緒ある品でもない。


 正式な誓いでもない。


 それでも、その輪は、彼女の指に確かな重みを残した。


 誰かと未来の約束をすること。


 明日も、その先も、自分がこの人たちの隣にいると当然のように数えられること。


 それは、エリーゼにとって、どんな宝石よりも眩しかった。


「……安物ですわね」


 ようやく出た言葉は、そんなものだった。


 レオンは少しだけ笑う。


「ああ」


「細工も粗いです」


「だな」


「青いガラスも、少し傷があります」


「見つけるの早いな」


「私は目がいいので」


「じゃあ、嫌か?」


 エリーゼは指輪を握るように左手を閉じた。


 風が通り抜ける。


 露店の小さな飾りが、ちりん、と鳴った。


「……悪くはありませんわ」


 レオンの顔が、ぱっと明るくなった。


 エリーゼは慌てて視線を逸らす。


「ただし、契約内容は明確にしておくべきです」


「おう」


「全員で行って、全員で帰る。海を見る。途中で勝手に死なない。無茶は控える。食材を剣で切らない。ボルグは大根に過度な価値を見出さない。セラは危険な木の実を自分で試食しない」


「後半、細かくないか?」


「大事です」


 ボルグが顔をしかめた。


「大根の項目は余計だろ」


「最重要ですわ」


 セラがにこにこと頷く。


「では、みんなで約束ですねぇ」


 レオンは、エリーゼの左手をそっと取った。


 ほんの一瞬だけ。


 指輪の青い光が、二人の間で揺れた。


「約束だ」


 その声を、エリーゼは忘れないと思った。


 忘れられるはずがなかった。


     *


 それから数日、王都は穏やかだった。


 銀の翼は依頼をこなし、買い出しをし、食事をし、時々喧嘩をして、また笑った。


 エリーゼは、青いガラスの指輪を外さなかった。


 研究室で羊皮紙に向かう時も、依頼の準備をする時も、市場でリンゴを選ぶ時も、左手の薬指には小さな青があった。


 不思議なものだった。


 その輪があるだけで、以前よりも少しだけ、世界とのつながりが目に見える気がした。


 扉の向こうに足音がある。


 市場に笑い声がある。


 焚き火のそばに座る場所がある。


 そして、まだ見ぬ海へ続く約束がある。


 エリーゼは、その幸福を疑わなくなり始めていた。


 それが、どれほど危ういことなのか。


 その時の彼女は、まだ知らなかった。


     *


 依頼が来たのは、空が急に冷えた日の朝だった。


 ギルドの窓ガラスには、細かな雨粒が斜めに当たっていた。


 早朝から降り始めた雨は、時間が経つにつれて少しずつ強くなっている。空は鉛色で、遠くの屋根は雨煙に霞んでいた。濡れた石畳を馬車が通るたび、車輪が水を跳ね、ざしゃ、と低い音が響く。


 ギルドの中は、外の寒さから逃げてきた冒険者たちで混み合っていた。


 濡れた外套の匂い。


 酒の匂い。


 焼いた肉の匂い。


 湿った革靴が床を踏む音。


 依頼書の端が、扉の開閉で入り込む風に揺れていた。


 レオンは受付から一枚の羊皮紙を受け取り、真剣な顔で戻ってきた。


 その表情を見た瞬間、エリーゼは胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 いつもの依頼とは違う。


「何ですの?」


 彼女が聞くと、レオンは羊皮紙をテーブルへ置いた。


 雨の音が、窓の外で強くなる。


 ぽつぽつ、ではない。


 ざあ、と屋根を叩く音。


 依頼書には、湿ったインクの匂いがした。


『幻霧の谷の調査および魔獣討伐』


 その文字を見た瞬間、セラの顔から少しだけ笑みが消えた。


 ボルグも、軽い調子を引っ込める。


 エリーゼは依頼書を読んだ。


 王都から北西にある谷。


 近頃、谷の霧が異常に濃くなっていること。


 近くを通った商人が行方不明になったこと。


 救助に向かった冒険者の一団も戻らなかったこと。


 そして、谷の奥で巨大な花のような影を見たという証言。


 エリーゼの指が、依頼書の端を握る。


 青いガラスの指輪が、灯りを受けて淡く光った。


「……危険ですわね」


「ああ」


 レオンは短く答えた。


 いつものように軽く笑わない。


 彼は危険を理解していた。


 理解した上で、依頼書を見つめている。


 ボルグが腕を組んだ。


「戻らない冒険者がいるって時点で、ただの霧じゃねぇな」


 セラは静かに頷いた。


「人を迷わせるだけならまだしも、帰ってこないとなると……中で何かが待っているのかもしれませんねぇ」


 エリーゼは、羊皮紙から目を離せなかった。


 巨大な花のような影。


 霧。


 行方不明者。


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


「受けるのですか」


 レオンはしばらく黙った。


 その沈黙は、軽くなかった。


 雨が窓を叩く。


 ギルドの喧騒が、少し遠く感じられた。


「受ける」


 彼は言った。


 エリーゼは顔を上げる。


「理由は?」


「戻ってない人がいる」


 答えは短かった。


「それに、俺たちなら行ける」


「過信です」


「かもしれない」


 レオンは認めた。


「でも、無謀にはしない。準備する。撤退の判断も決める。エリーゼ、お前の意見も全部聞く」


 それは、昔の彼なら言わなかったかもしれない言葉だった。


 ただ勢いで走るのではない。


 仲間を見る。


 危険を見て、それでも行くと決める。


 エリーゼは、左手の指輪に触れた。


 全員で行って、全員で帰る。


 海を見る。


 そう約束したばかりだ。


「……分かりました」


 彼女は静かに言った。


「ただし、準備は徹底します。霧への対策。視界不良時の連絡手段。撤退位置の確認。毒の可能性も考えます。未知の魔獣がいる前提で、回復薬も倍にしてください」


「分かった」


「ボルグ、地形図を確認。逃走経路を三つ以上。セラ、消耗を抑えるための支援を優先。レオン、あなたは絶対に一人で前へ出すぎないこと」


「最後だけ俺への圧が強いな」


「前科があります」


「反論できない」


 ボルグが小さく笑った。


「まあ、エリーゼがこれだけ怒ってるなら、多少は生きて帰れるだろ」


「怒っているわけではありません」


「心配してるんだろ」


 エリーゼは言葉を止めた。


 ボルグはそれ以上からかわなかった。


 セラがそっと微笑む。


「大丈夫ですぅ。みんなで帰りましょうねぇ」


 その言葉に、エリーゼは頷いた。


 青いガラスの指輪が、指に冷たく触れている。


     *


 出発は、翌朝になった。


 だが、雨は止まなかった。


 むしろ、強くなっていた。


 王都を出る頃、空は暗く沈み、遠くの森は雨の幕にかすんで見えた。街道の土はぬかるみ、靴底に重く絡みつく。馬車の轍には水が溜まり、歩くたびに、ぐちゅ、と湿った音がした。


 風は冷たい。


 まだ秋の入口のはずなのに、雨に濡れた空気は肌から熱を奪っていく。草は水を含んで垂れ、葉の先から雨粒が絶え間なく落ちていた。


 四人は無言で歩いた。


 レオンは先頭。


 ボルグは少し斜め後ろで周囲を警戒している。


 セラは外套の内側に杖を抱え、足元に気をつけながら進む。


 エリーゼは、左手を胸元で握っていた。


 指輪の輪郭が、手袋越しにも分かる。


 全員で行って、全員で帰る。


 その約束を、指先で何度も確かめる。


 雨は冷たかった。


 頬を伝う雫が、首筋へ落ちる。髪は湿り、ローブの裾は泥を吸って重くなっていく。遠くで雷の低い音がした。


 ごろ、と空の奥が鳴る。


 道の先に、谷が見え始めた。


 幻霧の谷。


 崖の間に沈むように開いた谷は、雨と霧に覆われていた。白い霧が底から湧き上がり、谷の入口をぼんやりと隠している。木々は濡れ、黒く沈み、枝の先から滴る水が、ぽたり、ぽたりと地面を叩いていた。


 近づくほど、音が変わる。


 雨音はまだある。


 風の音もある。


 けれど、谷の方からは、それとは別の静けさが流れてきた。


 音を吸い込むような、冷たい静けさ。


 エリーゼは足を止めた。


 霧の匂いがした。


 ただの水の匂いではない。


 濡れた苔。


 腐りかけた花。


 そして、どこか甘すぎる香り。


 胸の奥が、ざわりと震えた。


「エリーゼ?」


 レオンが振り返る。


 彼の赤い髪も雨に濡れ、額に張りついていた。だが、その目はまっすぐだった。


「無理なら、戻る判断もありだ」


 その言葉に、エリーゼは少しだけ息を吸った。


 無理なら戻る。


 彼は本気でそう言っている。


 約束を守るために。


 彼女は左手を握りしめた。


「……行けます」


「本当に?」


「ええ」


 エリーゼは、谷の入口を見た。


 白い霧が、ゆっくりと揺れている。


 まるで、中へおいでと手招きするように。


「全員で行って、全員で帰るのでしょう」


 レオンは一瞬だけ目を見開き、それから笑った。


 静かな笑みだった。


「ああ」


 ボルグが短剣の柄に手を置く。


「さっさと終わらせて帰ろうぜ。雨で大根が傷む」


「まだ持ってきていたのですか」


「非常食だ」


「大根を非常食にしないでください」


 セラが少しだけ笑った。


 その笑いは、小さかった。


 けれど、冷たい雨の中で、確かに温度を持っていた。


 レオンが剣を抜く。


 金属が鞘を擦る音が、雨音の中に細く響いた。


 エリーゼは杖を握る。


 青いガラスの指輪が、濡れた空気の中で淡く光った。


 幻霧の谷の入口に立った時、雨は本降りになっていた。


 地面はぬかるみ、濡れた落ち葉が靴底にべっとりと張りつく。まるで、侵入者を逃がさないための、冷たい手のようだった。


 エリーゼは、指輪を嵌めた手を強く握りしめた。


 冷たい雨が、頬を伝う。


 その冷たさは、これから訪れる悲劇の温度と、よく似ていた。


 終わらない夏への願いは、冷たい秋風に吹き消されようとしていた。


 運命の歯車が、軋みながら回り始める。


 もう、誰にも止めることはできなかった。

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