第32話:完璧な計算と、予測不能な夕食 〜完璧でなくても、居場所は失われない〜
初夏の風は、春より少しだけ重かった。
王立魔導学院の白い校舎を離れ、街道を南へ進むと、空気の匂いが変わる。石造りの廊下に沈んでいた冷たい埃の匂いは遠ざかり、代わりに、陽を浴びた草の青い匂いが鼻先をくすぐった。
草原は、まぶしかった。
背の低い草が一面に広がり、風が通るたびに、緑の波が斜面を走っていく。葉の表面には朝露の名残がまだ少し残っていて、太陽の光を受けるたび、細かな銀の粒がぱらぱらと散るように輝いた。遠くの森では鳥が鳴き、足元の乾いた土は、踏むたびに、ざり、ざり、と軽い音を立てた。
エリーゼは、その音が気になって仕方なかった。
研究室の床は、いつも静かだった。
靴音は硬く、規則正しく響く。机も椅子も本棚も、動かない。窓から入る光さえ、計ったように同じ場所へ落ちる。
けれど外は違う。
草は勝手に揺れる。
風は勝手に吹く。
小石は思わぬ場所で靴底に当たり、虫は耳元で不愉快な羽音を立て、汗は首筋を勝手に伝っていく。
何もかもが、思い通りにならなかった。
「……不快ですわ」
エリーゼは小さく呟いた。
前を歩いていたボルグが振り返る。
「まだ出発して半刻も経ってないぞ、天才様」
「その呼び方をやめなさい」
「じゃあ、塔の姫君」
「もっと悪化しましたわ」
ボルグはにやりと笑い、肩にかけた短弓の位置を直した。小柄な体に軽装の革鎧。口は悪いが、歩く時の足音は妙に静かだった。草を踏む音も、石を蹴る音も、彼だけはほとんど立てない。
その隣では、セラが籠を抱えて歩いていた。
中には薬草と保存食、そしてなぜか昨日の焼き菓子が入っている。
「外の空気は気持ちいいですよぉ。ほら、草がこんなに青くて、空も高くて、雲もふわふわですぅ」
「感想が幼児ですわ」
「あらあら。褒められましたぁ」
「褒めていません」
セラは嬉しそうに笑った。
どうしてそうなるのか、エリーゼには理解できない。
先頭を歩いていたレオンが、くるりと振り返った。
赤い髪が初夏の日差しを受け、燃えるように光る。彼は軽く片手を上げた。
「エリーゼ、足は大丈夫か?」
「問題ありません」
「顔は、かなり問題ありそうだけどな」
「元からこういう顔です」
「なるほど。じゃあ、たぶん大丈夫だ」
「何を納得したのですか」
レオンは笑った。
その笑い方は、相変わらず明るい。
けれど、瞬のように場を全部自分の勢いで塗り替えるものではない。彼の明るさは、焚き火に似ていた。近づきすぎると熱い。けれど、冷えた場所から見ると、どうしても目が向いてしまう。
エリーゼは、ふいと顔を逸らした。
「それで、今回の討伐対象は?」
「森に出る角猪だな」
レオンが答える。
「最近、街道近くの畑を荒らしてるらしい。数は三、いや、四かもしれないって話だ」
「曖昧ですわね」
「目撃した農夫が、びっくりして逃げたからな」
「では、正確な数も、移動経路も、習性の変化も不明なのですか」
「そうなるな」
エリーゼは立ち止まった。
風が、彼女の金色の髪を揺らす。
「その状態で討伐に向かっているのですか?」
「そうだ」
「無謀ですわ」
「だろ?」
「褒めていません」
「分かってる」
レオンは平然としていた。
エリーゼは、こめかみを押さえたくなった。
どうしてこの三人は、これほど雑に生きていられるのだろう。
敵の数は不明。
正確な位置も不明。
地形の確認も不十分。
事前準備も、彼女から見れば穴だらけ。
こんなものは作戦ではない。ただの散歩の延長だ。
「……分かりました」
エリーゼは息を吐いた。
「私が立て直します」
ボルグが、口笛を吹く。
「お、出た。天才様の作戦」
「その呼び方をやめなさいと言いましたわ」
「じゃあ、エリーゼ先生」
「もっと腹立たしいです」
セラがにこにこと手を合わせる。
「先生、お願いしますぅ」
「あなたまで乗らないでください」
エリーゼは鞄から羊皮紙を取り出した。
地図を広げる。
街道、森の入口、小川の位置、畑の被害地点、風向き、足跡の報告、角猪の一般的な移動距離。
それらを頭の中で並べる。
線を引く。
組み立てる。
迷いはなかった。
「角猪は水場へ向かう可能性が高いです。畑を荒らしているなら、現在の行動範囲はこの小川周辺。風は南西から北東へ流れていますから、こちら側から近づけば匂いを悟られにくい。ボルグは木の上で待機。セラは後方で支援。レオンは前に出すぎず、私が足止めした個体だけを確実に仕留める。よろしいですわね」
一気に言い終えた。
風が草を撫でる音だけが残る。
三人は、しばらく黙っていた。
やがてレオンが、感心したように頷く。
「すげぇな」
「当然です」
「本当に全部考えたのか?」
「考えないで動く方がおかしいのです」
ボルグが肩をすくめる。
「耳が痛いな、レオン」
「俺は耳だけじゃなくて心も痛い」
「あなたに心の痛みを感じる繊細さがあったことに驚きですわ」
「ひどい言われようだ」
レオンは苦笑した。
だが、その目は真剣だった。
「分かった。今日はエリーゼの作戦で行こう」
その言葉に、エリーゼは少しだけ背筋を伸ばした。
当然。
そう思う。
完璧に組み立てれば、結果はついてくる。
計算通りに動けば、誰も傷つかない。
役に立てる。
足を引っ張らずに済む。
エリーゼの胸の奥で、静かに硬いものが結ばれた。
*
森の入口は、湿った緑の匂いに満ちていた。
草原とは違う。
木々の葉が重なり合い、日差しを細かく砕いて地面へ落としている。光はまだらになって、苔の上や、露を抱いた下草の葉先に揺れていた。風が木々の間を抜けるたび、葉がこすれ合い、さわさわと奥行きのある音を立てる。
足元には、昨夜の雨の名残があった。
土は少し柔らかく、踏むと靴底に湿り気がまとわりつく。倒れた枝を踏めば、ぱき、と乾いた音がして、その音が森の奥へ細く伸びていった。
エリーゼは、足跡を見つけた。
大きい。
深い。
蹄の形が、湿った土にくっきり残っている。
「……近いですわ」
彼女は声を落とした。
レオンが剣の柄に手をかける。
ボルグは、いつの間にか木の枝の上へ移っていた。音もなく。まるで最初からそこにいた影のように。
セラは後方で杖を構えている。いつものおっとりした表情は少しだけ薄れ、瞳に静かな集中が宿っていた。
エリーゼは、胸の奥で頷く。
悪くない。
この三人は、軽薄に見えて、それぞれの役割に入ると空気が変わる。
ならば、動かせる。
計算できる。
彼女は指先に魔力を集めた。
淡い青の光が、空中に細い線を描く。
「三歩前。止まってください」
レオンが止まる。
「右側、低木の奥」
茂みが揺れた。
ぐるる、と低い唸り声。
次の瞬間、角猪が飛び出した。
巨大だった。
普通の猪より一回りも二回りも大きい。黒褐色の毛は泥にまみれ、背中の毛が逆立っている。額から伸びる二本の角は、古い木の根のように曲がり、先端には土と草が絡みついていた。
突進。
湿った土が跳ねる。
地面が重く鳴る。
エリーゼは即座に術を放った。
青白い光が地面を走り、角猪の足元で薄い氷の輪を作る。計算通りなら、前脚が滑り、体勢が崩れる。そこへレオンが側面から剣を入れ、ボルグが退路を塞ぐ。
完璧だった。
そのはずだった。
「うおっ、でけぇ!」
レオンが声を上げた。
そして、なぜか前に出た。
「前に出るなと言いましたわ!」
「いや、思ったより速い!」
角猪が氷を踏む。
滑る。
しかし、体勢を崩した方向が、計算より半歩ずれた。
レオンが、予定の位置にいないせいだった。
エリーゼの目が見開かれる。
「何を――」
その瞬間、木の上からボルグが飛び降りた。
「おらよ!」
彼は短剣の柄で角猪の耳元を叩いた。
殺すためではない。
意識を逸らすため。
角猪の首がわずかに動く。
レオンが、その隙に剣の腹で角を叩き、正面からの勢いを斜めへ逃がした。巨体は横へ流れ、ぬかるんだ地面を滑って、低木の中へ突っ込む。
ばさばさばさっ。
葉が散り、泥が跳ねる。
セラが杖を掲げた。
「そこで止まってくださいねぇ」
柔らかな光が角猪の周囲に広がり、地面の草が淡く輝く。草が絡みついたわけではない。ただ、怒りで暴れていた角猪の動きが、少しだけ鈍った。
レオンが振り返る。
「今だ、エリーゼ!」
今。
予定とは違う。
位置も違う。
角度も違う。
すべて違う。
けれど、隙はあった。
エリーゼは歯を食いしばり、術式を組み直した。
氷ではなく、拘束。
足ではなく、角。
対象の重心は乱れている。ならば、角を地面に縫い止めればいい。
青白い光が走る。
角猪の二本の角に薄い氷の鎖が絡みつき、地面へ引き倒す。
どん、と重い音がした。
角猪が地面に伏せる。
レオンが剣を構え、首筋の急所へ一撃を入れた。
短く、確実に。
森に、重い沈黙が落ちた。
風が吹く。
葉が揺れる。
エリーゼの額に、冷たい汗が浮かんでいた。
計算は崩れた。
なのに、討伐は成功した。
それが、彼女には信じられなかった。
レオンが剣を下ろし、息を吐く。
「よし。一体目」
ボルグが木の根元に腰を下ろし、泥を払った。
「作戦通り……ではないな」
「まったくですわ!」
エリーゼの声が、森に響いた。
鳥が数羽、驚いて飛び立つ。
「前に出るなと言いました! あなたが予定位置から動いたせいで、術式を組み直す羽目になったのです! ボルグ、あなたも勝手に飛び降りないでください! セラ、あの支援は有効でしたが、発動位置の宣言がありませんでした!」
三人は、きょとんとした。
エリーゼは止まらない。
「戦闘とは、事前に組み立てた動きを正確になぞることで安全を確保するものです! 各自が勝手に判断して動けば、全体の形が崩れます! 偶然成功したからよかったものの、一歩間違えれば――」
声がそこで詰まった。
一歩間違えれば。
誰かが怪我をしたかもしれない。
誰かが倒れたかもしれない。
自分の計算が崩れたせいで。
役に立てなかったせいで。
エリーゼの指先が、わずかに震える。
レオンは、それに気づいた。
だが、すぐには何も言わなかった。
代わりに、剣を鞘へ戻し、ゆっくり近づいてくる。
「悪かった」
短い言葉だった。
エリーゼは顔を上げる。
「……え?」
「作戦を崩した。悪かった」
レオンは素直に頭を下げた。
ボルグも、気まずそうに頬を掻く。
「まあ、俺も勝手に動いたしな」
セラも小さく頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ。でも、レオンくんの横腹が空いていたので、つい」
「つい、ではありませんわ」
「はいぃ」
エリーゼは、言葉を失った。
怒ると思った。
反論されると思った。
結果は成功しただろう、と笑われると思った。
けれど、三人は謝った。
それが、彼女の想定になかった。
レオンは顔を上げる。
「でもな、エリーゼ」
「……何ですの」
「作戦はすごかった。あれがなかったら、俺たちはもっと苦戦してた」
彼は、まっすぐ言った。
「ただ、現場では予定から外れることもある。猪も、天気も、足場も、俺たちも、全部きっちり思い通りには動かない」
「そんなことは、分かっています」
「分かってるならいい」
レオンは笑った。
責める笑いではなかった。
「だから、次は俺たちもお前の作戦をもっと聞く。お前も、俺たちが外れた時の使い方を覚えてくれ」
「……外れた時の、使い方?」
「そうだ」
レオンは、泥のついた自分のブーツを見下ろした。
「俺たちは、たぶん綺麗な駒じゃない。勝手に跳ねるし、たまに転ぶし、ボルグは余計なことをする」
「おい、俺だけ名指しかよ」
「事実だろ」
「否定はしない」
セラがにこにこ笑う。
「私は余計なお菓子を持ってきますぅ」
「それは余計じゃない」
ボルグが真顔で言った。
レオンは笑い、それからエリーゼを見た。
「でも、使い方が分かれば、意外と役に立つぞ」
役に立つ。
その言葉に、エリーゼの胸がわずかに痛んだ。
彼女は、ずっと役に立つことでしか、自分の価値を測れなかった。
だから、役に立てない瞬間が怖い。
計算が崩れることが怖い。
自分が不要になることが怖い。
レオンは、それを全部見抜いているような目をしていた。
けれど、見抜いたことを言葉にしなかった。
「……あなたたちは、本当に扱いにくいですわ」
エリーゼは、ようやくそれだけ言った。
ボルグが笑う。
「お互い様だな」
「私は扱いやすい方です」
「どこがだよ」
「正確で、冷静で、合理的です」
「そこが扱いづらいんだよ」
セラが手を叩く。
「まあまあ。みんな違って、ちょうどいいんですよぉ」
「まとめ方が雑ですわ」
「でも、嫌いじゃないでしょう?」
セラにそう言われ、エリーゼは黙った。
嫌い。
そう言えば済むはずだった。
けれど、言えなかった。
森の奥から、また低い唸り声が聞こえた。
二体目だ。
レオンが剣を抜く。
ボルグが木の上へ跳ぶ。
セラが杖を構える。
そして三人が、自然にエリーゼを見た。
指示を待っている。
命令ではない。
期待でもない。
ただ、彼女を戦いの中に数えている視線だった。
エリーゼは息を吸った。
湿った土の匂い。
夏草の匂い。
遠くで鳴る鳥の声。
自分の鼓動。
そのすべてが、計算の外側で生きている。
「……分かりました」
彼女は杖を構えた。
「では、今度はあなたたちが勝手に動く前提で組みます」
レオンが笑う。
「頼んだ」
「勝手に動きすぎたら凍らせますわ」
「それは困るな」
「困るなら、少しは従いなさい」
「努力する」
「努力ではなく実行してください」
エリーゼの指先に、青白い光が宿る。
風が森を抜け、葉がいっせいに揺れた。
完璧な計算は、もうそのままでは通用しない。
けれど、不完全な三人がそこにいる。
その不完全さを、切り捨てるのではなく、組み込む。
それはエリーゼにとって、初めての戦い方だった。
森の奥から、角猪が飛び出した。
今度のエリーゼは、驚かなかった。
彼女は静かに杖を振り、青白い光を地面へ走らせた。
「レオン、右へ。ボルグ、上からではなく横。セラ、三呼吸後に支援を」
「了解!」
三人の声が、森の中で重なった。
その瞬間、エリーゼはほんのわずかに理解した。
一人で完璧に組み立てる世界よりも。
思い通りにならない誰かと、崩れた形をその場で直していく世界の方が、ずっと難しい。
そして、少しだけ。
退屈ではなかった。
*
二体目は、想定よりもずっと厄介だった。
角猪は森の奥から飛び出す直前、鼻先で地面を抉り、湿った土を高く跳ね上げた。黒い泥が空中で散り、葉の隙間から差し込む光を一瞬だけ遮る。泥の粒がエリーゼの頬をかすめ、冷たく貼りついた。
不快だった。
けれど、目を閉じなかった。
「レオン、右に二歩。いいえ、一歩半です!」
「一歩半って細かいな!」
「あなたの歩幅ならそれで足ります!」
レオンは笑いながらも、指示通りに動いた。
ほんのわずかに右へずれる。その肩をかすめるように角猪の突進が通り過ぎ、ボルグが横から足元へ短剣を投げた。刃は刺さらない。ただ、土に深く突き立ち、角猪の進路を一瞬だけ変える。
「セラ!」
「はいぃ」
セラの杖から淡い光が広がった。
柔らかな光だった。森の木漏れ日に似た色をしている。それが角猪の脚に触れた瞬間、暴れていた巨体の動きがほんの少し鈍る。
その隙を、エリーゼは逃さなかった。
青白い光が杖先から伸び、地面を這う。湿った土の上に霜が走り、角猪の前脚を薄い氷の枷で絡め取った。
どん、と巨体が倒れる。
土が跳ねた。
レオンが素早く踏み込み、剣を振る。
短く、迷いのない一撃。
森のざわめきが、一瞬だけ止まった。
エリーゼは息を吐いた。
今度は、計算通りではない。
けれど、崩れた計算を、その場で組み直せた。
彼らがどう動くか、少しだけ読めた。
レオンは、命令を完全に守る駒ではない。
ボルグは、予定外の場所に勝手に入り込む。
セラは、こちらが思ったよりも早く状況を拾う。
それぞれの癖を、邪魔な乱れとして切り捨てるのではなく、組み込む。
その方が、ずっと難しい。
そして、悔しいほどに面白かった。
「おい、エリーゼ!」
ボルグの声が飛ぶ。
森の奥から、三体目が現れた。
だが、それは角猪ではなかった。
木々の陰から、灰色の大きな影がのそりと姿を見せる。人より一回り大きな体。分厚い腕。手には粗末な棍棒。濁った目がこちらを見ていた。
オーク。
その背後にも、もう二体。
角猪が畑を荒らしていたのではない。
森の奥に入り込んだオークたちに追われ、街道近くへ逃げていたのだ。
エリーゼの頭の中で、地図が崩れた。
依頼内容。
足跡の大きさ。
畑の被害。
角猪の行動範囲。
全部、見直し。
全部、組み直し。
青白い光を宿した指先が、一瞬だけ止まる。
「……情報が不足していましたわ」
「よくある!」
レオンが剣を構え直す。
「よくあってたまりますか!」
「でも今ある!」
レオンは地面を蹴った。
正面から突っ込むのではない。左へ流れ、先頭のオークの視線を引きつける。ボルグが低く身を沈め、落ち葉の上を滑るように回り込んだ。セラはエリーゼのすぐ後ろに立ち、静かに杖を握る。
乱れている。
予定など、もうない。
エリーゼが立てた完璧な形は、森の湿った空気の中で、あっけなくほどけていた。
「レオン、前に出すぎです!」
「分かってる!」
「分かっている人の距離ではありません!」
「じゃあ今から分かる!」
「今からでは遅いのです!」
レオンの剣が棍棒を受ける。
がん、と重い音が森に響いた。衝撃で落ち葉が跳ね、近くの枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ。
ボルグが横から叫んだ。
「エリーゼ! 足元凍らせろ! 俺ごと巻き込むなよ!」
「注文が雑です!」
「細かく言ってる暇ねぇ!」
エリーゼは歯を食いしばった。
確かに、暇はなかった。
彼らは綺麗ではない。
正確でもない。
けれど、止まらない。
転びそうになりながら、互いの隙間を埋めている。レオンが受け、ボルグが逸らし、セラが支え、その間にまたレオンが前へ出る。
無茶苦茶だ。
なのに、崩れない。
エリーゼは杖を振った。
氷は足元ではなく、オークの棍棒へ走らせる。木の表面に霜が張り、握る手が滑った。ボルグがその瞬間に足を払い、レオンが剣の柄で顎を打つ。
一体目が倒れる。
二体目が怒号を上げる。
セラがその前に立つわけではない。だが、彼女の光がレオンの肩へ触れ、衝撃で痺れていた腕を動かせるようにする。
「セラ、左の防御!」
「はいぃ」
「ボルグ、そこの根を使って転ばせなさい!」
「命令が無茶になってきたな!」
「できるでしょう!」
「できるけどよ!」
ボルグが笑った。
レオンも笑った。
こんな状況で笑う意味が、エリーゼにはまだ分からなかった。
けれど、自分の口元もわずかに上がりかけていることには、気づかなかった。
森の奥で、最後のオークが倒れた時、四人は泥だらけだった。
レオンの袖は破れ、ボルグの頬には浅い擦り傷があり、セラの法衣の裾は泥で茶色くなっていた。エリーゼの靴にも泥が跳ね、ローブの端には草の種がいくつもくっついている。
ひどい有様だった。
けれど、誰も倒れていない。
誰も、彼女を責めていない。
レオンは息を切らしながら、剣を肩に担いだ。
「な? 退屈はしなかっただろ」
エリーゼは彼を睨んだ。
「命の危険を、娯楽のように語らないでください」
「怒る元気があるなら大丈夫だな」
「あなたを凍らせる元気もありますわ」
「それは困る」
ボルグが、木にもたれながら笑う。
「いやぁ、今日は助かったな。エリーゼがいなかったら、俺ら三回くらい死にかけてた」
「三回で済みますか?」
「五回かもな」
「笑いごとではありません」
セラが近づき、エリーゼの袖についた草の種をそっと取った。
「でも、エリーゼちゃんがいてくれてよかったですぅ」
その言葉は、柔らかかった。
ただの礼。
ただの感想。
それだけのはずなのに、エリーゼの胸の奥で何かが小さく揺れた。
いてくれてよかった。
役に立ったから。
計算できたから。
そういう意味のはずだ。
そうでなければ困る。
けれど、セラの声は、まるでそれだけではないように聞こえた。
エリーゼは顔を逸らした。
「……当然です。私がいたのですから」
レオンが笑う。
「そうだな」
その返事が、あまりにも自然で。
エリーゼは、それ以上何も言えなかった。
*
討伐を終えた頃には、空が赤く染まり始めていた。
森を抜けた先の小さな丘で、四人は野営することになった。街へ戻るには少し遅い。近くの川で泥を落とし、平らな場所を選んで焚き火を起こす。
夕暮れの光は、草原の上に長い影を落としていた。
風が吹くたび、夏草がさわさわと揺れ、葉の先に残った水滴が小さく光る。遠くの森は濃い緑から黒へ沈み、空の端には一番星が淡く瞬き始めていた。
焚き火が、ぱち、と鳴る。
赤い火の粉が夜へ舞い上がり、すぐに闇へ溶けた。
レオンは肉を焼いていた。
正確には、肉を焼いているつもりでいた。
串に刺した肉の片面は黒く焦げ、もう片面はまだ赤かった。脂が火へ落ちるたび、じゅう、と音を立てて煙が上がる。香ばしい匂いと焦げ臭さが入り混じり、なんとも判断に困る匂いになっていた。
ボルグは木の実を選別している。
「これは食える。これは腹壊す。これはたぶん食える。これはセラに試してもらう」
「なぜ私で試すのですかぁ」
「お前、何食っても平気そうだから」
「失礼ですねぇ。でも、たぶん平気ですぅ」
「否定しなさい」
エリーゼは、思わず言っていた。
セラはにこにこ笑う。
その横で、エリーゼは鍋の前に立っていた。
彼女は料理などしたことがなかった。
だが、薬を調合するようなものだろうと思っていた。
材料を選び、量を計り、火加減を見て、順番に投入する。理屈の上では、何も難しいことはない。
そう思っていた。
鍋の中身が、紫がかった灰色になるまでは。
「……」
エリーゼは沈黙した。
焚き火の音だけが、やけに大きく聞こえた。
ぱち。
ぱち。
鍋の中から、ぼこり、と不穏な泡が浮かぶ。
匂いは、薬草と肉汁と何か焦げた根が混ざったようなものだった。鼻を刺すほどではない。だが、食欲をそそるものでもない。
ボルグが覗き込んだ。
「……これは?」
「スープです」
「色が呪いみたいだな」
「食べ物に対する表現ではありませんわ」
「食べ物かどうか確認中だ」
エリーゼの指先が震えた。
失敗。
その二文字が、胸の奥で冷たく響く。
料理など、くだらない。
そう切り捨てればよかった。
けれど、それができなかった。
彼らは自分に任せた。
エリーゼが作るなら大丈夫だろうと、笑って鍋を渡した。
なのに、失敗した。
ただのスープさえ、まともに作れない。
森で戦えたことも、役に立てたことも、この一つの失敗で全部消えてしまうような気がした。
「捨てますわ」
エリーゼは鍋を持とうとした。
その手を、レオンが止めた。
「待て。まだ食ってない」
「食べる必要はありません」
「作ったんだろ」
「失敗作です」
「失敗かどうかは、食ってから決める」
「見れば分かります!」
声が大きくなった。
自分でも驚くほど、必死な声だった。
レオンは少しだけ目を細めた。
けれど、何も責めなかった。
ただ木の椀を取り、鍋からスープをすくう。
紫がかった灰色の液体が、椀の中でゆらりと揺れた。
「やめなさい」
「いただきます」
「レオン!」
彼は一口飲んだ。
沈黙。
風が草を揺らす。
虫の声が、遠くで細く鳴いている。
レオンの顔が、少しずつ変わった。
明るい笑顔が凍り、眉間に皺が寄り、唇が震える。
そして。
「……まっずい!」
森の鳥が、夜の枝から一斉に飛び立った。
「なんだこれ!? 舌が今、道に迷ったぞ!」
「だから捨てると言ったでしょう!」
エリーゼは顔を真っ赤にした。
だが、レオンは椀を手放さなかった。
苦しそうに眉を寄せながら、もう一口飲む。
「でも、体は温まるな!」
「無理に褒めなくて結構です!」
「いや、本当だ。なんか胸の奥が熱い。薬草の効き目はすげぇんじゃないか?」
ボルグが露骨に後ずさる。
「俺は遠慮する」
「逃げるな、ボルグ。仲間だろ」
「こういう時だけ仲間を強調すんな」
セラが椀を受け取った。
「あら、私はいただきますぅ」
「セラ!」
エリーゼが止める間もなく、セラは一口飲んだ。
そして、少しだけ首を傾げる。
「……あらぁ。たしかに不思議なお味ですねぇ」
「不思議で済むんだ」
ボルグが青ざめる。
「でも、体に良さそうですぅ。味は、ええと……遠くの野原を裸足で逃げる薬草みたいですぅ」
「どういう味ですの!?」
エリーゼは叫んだ。
レオンが腹を抱えて笑った。
ボルグもついに吹き出した。
セラも椀を持ったまま、肩を震わせて笑っている。
焚き火の前で、馬鹿みたいな笑い声が広がった。
エリーゼは呆然としていた。
笑われている。
失敗したのに。
不味いものを作ったのに。
役に立たなかったのに。
でも、その笑いは、彼女を切り捨てるものではなかった。
責める声ではない。
遠ざける視線でもない。
ただ、失敗ごと同じ火の周りに置いて、みんなで笑っている。
レオンが黒焦げの肉を差し出した。
「ほら、エリーゼも食えよ。俺の肉もだいぶ失敗してる」
「……これは、炭では?」
「肉だったものだ」
「過去形にしないでください」
「味は保証しない」
「保証できるものを出しなさい」
そう言いながら、エリーゼは肉を受け取った。
一口かじる。
苦い。
硬い。
筋っぽい。
宮廷料理人が作る食事とは比べ物にならないほど粗末だった。焦げた部分が舌に残り、肉汁もほとんどない。
けれど。
喉を通る時、それは熱い塊になって、胸の奥へ落ちた。
冷え切っていた場所に、火がともるようだった。
「……不味いですわ」
エリーゼは、涙を隠すように少しだけ笑った。
「でも……悪くない味です」
レオンの顔が、ぱっと明るくなる。
「だろ?」
「得意げになる味ではありません」
「でも食った」
「食べましたけれど」
「じゃあ勝ちだ」
「何にですの」
「よく分からん」
ボルグが呆れたように笑う。
「ほんと、お前は勢いだけで結論出すな」
セラが、エリーゼの隣へ座った。
その手が、そっとエリーゼの手に触れる。
温かかった。
「完璧じゃなくてもいいんですよぉ」
セラは柔らかく言った。
「できないことがあってもいいんです。そのために、みんながいるんですから。エリーゼちゃんが料理できないなら、レオンくんが焦がし肉を焼きます。ボルグくんが食べられる木の実を探します。私は、変なスープもたぶん飲めますぅ」
「それは誇ることなのですか」
「誇りますぅ」
セラは笑った。
エリーゼは、手元の椀を見つめた。
完璧でなければ、価値がない。
間違えれば、失望される。
役に立てなければ、居場所は消える。
ずっとそう思っていた。
でも、ここでは違った。
失敗したスープが笑い話になり、黒焦げの肉が夕食になり、泥だらけの戦いが今日の思い出になる。
不完全なものが、不完全なまま、火の周りに並んでいる。
それなのに、そこは温かかった。
エリーゼは、焚き火の向こうにいるレオンを見た。
赤い髪が火に照らされ、さらに赤く見える。彼は黒焦げの肉を平然と噛み、時々スープを飲んでは顔をしかめ、それでも笑っていた。
その横顔は、子供のように無邪気で。
そして、誰よりも頼もしく見えた。
この瞬間が、続けばいい。
柄にもなく、そんなことを思ってしまった。
夜風が吹いた。
夏草の匂いが、焚き火の煙に混じって流れてくる。虫の声が草むらの奥から重なり、空には星が一つ、また一つと増えていく。
エリーゼは、黒焦げの肉をもう一口かじった。
やっぱり不味かった。
けれど、少しだけ笑ってしまった。
その笑いは、誰にも聞こえないほど小さかった。
だが、確かにそこにあった。
エリーゼが初めて知った、「役に立てなかった自分」さえ許される夜。
その夜の匂いは、夏草と煙と、不味いスープの匂いだった。
そして彼女はまだ知らなかった。
この温かな夜が、いつか胸を裂くほど恋しい記憶になることを。
焚き火の火の粉が、夜空へ舞い上がる。
赤い光は、星に届く前に消えた。
けれど、その残像だけは、エリーゼの目の奥にいつまでも残っていた。




