第31話:象牙の塔の退屈な天才 〜静寂は、騒音によって初めて認識される〜
才能とは、贈り物などではない。
少なくとも、エリーゼ・フォン・ヴァイデマンにとって、それは祝福ではなかった。
幼い頃、彼女が初めて魔力を操った時、大人たちは手を叩いて喜んだ。小さな指先からこぼれた淡い光を見て、母は涙を浮かべ、父は誇らしげに笑った。屋敷の使用人たちは「まあ、なんて素晴らしい」と声を弾ませ、彼女の頭を撫でた。
その手のひらが、ほんの少し震えていたことを、エリーゼは覚えている。
最初は称賛だった。
次は期待になった。
そして、彼女が大人たちの理解を追い越し、教師たちの説明を聞く前に答えを出し、古い魔導書の難解な記述を読み解くようになると、期待は静かに形を変えた。
恐れ。
嫉み。
遠巻きにする視線。
笑顔の下に隠された、薄い怯え。
エリーゼは、それを見逃せない子供だった。
「すごいね、エリーゼ」
そう言う人ほど、目が笑っていない。
「将来が楽しみだ」
そう言う人ほど、彼女がさらに先へ進むことを怖がっている。
「天才だ」
その言葉は、褒め言葉の形をした壁だった。
近づきすぎないための言葉。
自分たちとは違うものとして、綺麗に隔てるための言葉。
だからエリーゼは、早くから学んだ。
人の声は、当てにならない。
人の笑顔は、温かいとは限らない。
人は、自分が理解できないものを、最初は褒め、次に利用し、最後には恐れる。
それならば、最初から関わらなければいい。
彼女はそう決めた。
*
王立魔導学院の春は、眩しすぎるほど明るかった。
白い石造りの校舎は朝の光を受け、磨かれた骨のように清らかに輝いていた。中庭には薄紅色の花が咲き、枝から離れた花びらが風に乗って芝生の上を転がる。噴水の水は陽を弾き、細かな光の粒を空中へ散らしていた。
学生たちの声が、そこかしこから聞こえる。
走る靴音。
笑い声。
昼食の包みを開く紙の音。
誰かが友人の名前を呼ぶ声。
風が吹くたび、若い木々の葉がさわさわと鳴り、花の甘い香りが校舎の廊下へ流れ込んでくる。
世界は、春に浮かれていた。
けれど、特別研究棟の最上階だけは違った。
その場所は、学院の中で密かに「象牙の塔」と呼ばれていた。
白い石壁。
細く長い窓。
古い本棚。
重たい机。
人の出入りが少ないせいで、廊下にはいつも乾いた埃の匂いが沈んでいる。昼間だというのに、そこだけ日差しが薄く、足音さえ遠慮がちに響いた。
その一室に、エリーゼはいた。
部屋の中は、恐ろしく整っていた。
机の上には、古い魔導書が三冊、角をぴたりと揃えて積まれている。羽根ペンはインク壺の右側。羊皮紙は左。薬液の入った小瓶は窓辺の棚に並び、すべてのラベルがこちらを向いていた。
窓から差し込む光の筋の中を、細かな埃がゆっくりと舞っている。
その光は、柔らかいはずなのに、部屋の中ではどこか冷たかった。春の明るささえ、ここでは観察される対象にすぎない。
エリーゼは革張りの椅子に腰かけ、羽根ペンを指先で回していた。
蜂蜜を薄く溶かしたような金色の髪が、肩の上に静かに落ちている。透き通るように白い肌。整いすぎた横顔。青い瞳は澄んでいたが、そこに学生らしい熱はなかった。
彼女は、机の上の羊皮紙を見下ろした。
そこには、教授が「卒業までに理解できれば十分」と言っていた魔術の組み立てが記されている。
エリーゼは、それを朝食前に解いた。
間違いもない。
迷いもない。
ただ、退屈だけが残った。
「……つまらないわね」
小さな声が、部屋の静けさに落ちた。
誰も返事をしない。
それでいい。
返事など不要だった。
外の中庭では、また笑い声が上がった。
エリーゼは、窓の外へ目を向ける。
学生たちが芝生の上で輪になっている。誰かが転び、周囲が笑う。転んだ本人も笑っている。泥のついた制服を見せ合いながら、馬鹿みたいに声を上げている。
理解できなかった。
失敗して、なぜ笑うのか。
泥がついて、なぜ楽しそうなのか。
無駄な会話をして、なぜ時間を失ったと思わないのか。
エリーゼにとって、世界はもっと単純だった。
考える。
組み立てる。
間違いを直す。
答えを出す。
それだけでいい。
人の感情は、余計な揺らぎだった。
期待も、失望も、嫉みも、恐れも、すべて邪魔だった。
だから、この部屋は安全だった。
誰も入ってこない。
誰も彼女に触れない。
誰も、彼女を見て笑顔を引きつらせない。
静けさだけが、彼女の味方だった。
そのはずだった。
*
放課後の鐘が鳴った。
遠くから、低く澄んだ音が届く。
ごおん。
ごおん。
音は校舎の壁に反響し、廊下を渡り、特別研究棟の最上階までかすかに震えながら届いた。
エリーゼは、机に向かっていた。
外の学生たちは帰り支度を始めているのだろう。廊下の下の方から、足音や話し声が遠く聞こえる。窓の外では、春の風が少し強くなっていた。薄紅色の花びらが、今度は横殴りに舞っている。
風が窓を叩いた。
こつ。
こつ。
その音に混じって、別の足音が聞こえた。
階段を上がってくる音。
一人ではない。
複数。
重い靴音。軽い靴音。のんびりした足音。
エリーゼは眉をひそめた。
この階に用のある学生など、ほとんどいない。
足音は、彼女の部屋の前で止まった。
静寂が落ちる。
ほんの一呼吸。
そして――
どぉん。
扉が揺れた。
ノックではなかった。
扉そのものが、内側へ少ししなった。棚の小瓶が触れ合い、ちり、と澄んだ音を立てる。
エリーゼは、ゆっくり顔を上げた。
「……どなた?」
声は冷たかった。
扉の向こうから、明るい声が返る。
「レオンだ!」
「存じ上げません」
「今、知っただろ!」
「知ったことを後悔しています」
扉の向こうで、短い沈黙があった。
次に、別の少年の声が聞こえる。
「レオン、やっぱり帰ろうぜ。完全に嫌われてる」
さらに、柔らかい少女の声が続いた。
「あらあら。でも、ここまで来たんですから、焼き芋だけでも渡して帰りませんかぁ?」
エリーゼは、ペンを置いた。
「焼き芋?」
思わず聞き返してしまった。
扉の向こうで、何かが紙袋の中でごそごそ動く音がする。ふわりと、甘い匂いが隙間から流れ込んできた。焼けた皮と、ほくほくした芋の香り。
研究室の乾いたインクの匂いに、それはあまりにも似合わなかった。
「必要ありません。お帰りください」
「まあまあ、そう言わずに」
レオンの声は、明るかった。
だが、軽薄ではなかった。
瞬のように、何も考えず勢いで踏み込んでくる声ではない。
この声には、妙な粘りがあった。陽気で、図々しい。けれど、こちらの拒絶を聞いていないわけではない。聞いた上で、それでも何かを届けようとしている声だった。
「話がある」
「私はありません」
「俺たちにはある」
「では、あなたたちで話し合えばよろしいのでは?」
「それだと意味がない。君が必要なんだ」
必要。
その言葉が、部屋の静けさに小さく落ちた。
エリーゼの指先が、ほんのわずかに止まる。
けれど、すぐに冷たい表情を戻した。
「その言葉で扉が開くと思っているなら、単純すぎますわ」
「思ってない」
意外な返事だった。
エリーゼは、扉を見る。
「なら、なぜ言ったのです?」
「本当のことだからだ」
廊下を風が抜けた。
古い窓が、かすかに鳴る。
エリーゼは立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、細い音を立てる。こつ、こつ、と靴音を響かせながら扉へ近づいた。
開けるつもりはなかった。
ただ、直接断った方が早いと思っただけだ。
鍵を外す。
かちゃり。
扉を細く開ける。
廊下の光が、部屋の中へ一筋差し込んだ。
そこに立っていたのは、三人だった。
先頭にいたのは、燃えるような赤髪の少年。
制服は規則通りではない。襟は少し崩れ、袖も無造作にまくっている。けれど、だらしなさより先に、妙な生命力が目についた。外の春をそのまま人の形にしたような、明るい存在感があった。
彼が、レオンなのだろう。
瞳はまっすぐだった。
暑苦しいほど明るい。だが、ただ騒がしいだけではない。エリーゼの顔色も、扉の開き幅も、部屋の中の空気の冷たさも見ている。見た上で、笑っている。
その後ろに、小柄な少年がいた。
目つきが鋭く、口元には常に皮肉が浮かんでいる。腰のあたりに手を置いた立ち方からして、すぐ逃げる準備も、すぐ動く準備もできていた。
さらにその隣に、法衣姿の少女が立っていた。
両腕には、本当に焼き芋が山ほど抱えられている。湯気がほわほわと立ち上り、廊下の冷たい空気に甘い匂いを広げていた。
エリーゼは、三人を順番に見た。
最後に、焼き芋を見た。
「……研究棟に焼き芋を持ち込む理由を聞いても?」
法衣の少女が、ふわりと笑う。
「お腹が空いていると、人は冷たくなりますからぁ」
「私は空いていません」
「そうですかぁ。では、空いた時にどうぞぉ」
「置いていくつもりですの?」
「はい。冷めてもおいしいですぅ」
「なぜ会話が成立しているようで、成立していないのでしょう」
小柄な少年が肩をすくめた。
「悪いな。こいつはセラ。人はいいけど、たまに話が芋に引っ張られる」
「芋に?」
「で、俺はボルグ。ちなみに俺は反対した。こんな塔の上まで来ても無駄だってな」
「賢明ですわね。では、お帰りください」
ボルグは小さく笑った。
「ほらな」
だが、レオンは帰らなかった。
扉の前に立ち、にっと笑う。
その笑い方は明るい。
けれど、瞬のように場を巻き込んで押し流す笑いではなかった。
レオンの笑みは、焚き火に似ていた。
近づきすぎれば暑い。
だが、冷え切った場所から見れば、どうしても目に入る。
「エリーゼ・フォン・ヴァイデマン」
レオンが、彼女の名を呼んだ。
エリーゼは眉を寄せる。
「馴れ馴れしいですわ」
「悪い。だが、名前を知らないまま頼みごとはできない」
「頼みごとを聞くとは言っていません」
「それでも言う」
レオンは一歩も踏み込まなかった。
扉の境目を越えない。
だが、退きもしない。
「俺たちは、卒業したら冒険者になる」
「ご自由に」
「俺は、勇者になる」
「大言壮語もご自由に」
「そのために、仲間が必要だ」
レオンの声は、そこで少しだけ静かになった。
「君が必要だ」
エリーゼは、彼を見た。
廊下の窓から入る春の光が、赤い髪に反射している。風が吹き、花びらが一枚、彼の肩に落ちた。
彼はそれに気づかない。
ただ、エリーゼを見ていた。
才能を見ているのか。
便利な魔術師を見ているのか。
それとも、本当に彼女という人間を見ようとしているのか。
その時のエリーゼには、分からなかった。
分からないものは、不快だった。
「お断りします」
彼女は即答した。
冷たい声だった。
「私は誰かと群れる趣味はありません。それに、あなたたちのような騒がしく、泥臭く、将来設計もあやふやな方々と行動を共にすれば、私の品位まで地に落ちてしまいますわ」
ボルグが口笛を吹いた。
「言うねぇ」
セラが困ったように眉を下げる。
「でも、将来設計があやふやなのは少し当たっていますねぇ」
「セラ、そこ認めるなよ」
レオンは怒らなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「いいな」
「……何がですの?」
「はっきり言うところだ」
「褒めているつもりですか?」
「褒めてる」
「不快です」
「それも、はっきり言うんだな」
レオンは、愉快そうだった。
だが、馬鹿にしているわけではなかった。
それが、余計にエリーゼを苛立たせた。
怒ればいい。
去ればいい。
天才様は扱いづらいと陰で言えばいい。
これまでの人間たちと同じように、距離を取ればいい。
なのに、レオンはその場に立っていた。
「なぜ笑うのです?」
エリーゼは低く聞いた。
「私に侮辱されたのですよ」
「侮辱されたというより、試された気がした」
「思い上がりですわ」
「かもしれない」
レオンはあっさり認めた。
「でも、君は本当にどうでもいい相手なら、そこまで丁寧に刺さないだろ」
エリーゼの目が、わずかに細くなった。
春風が廊下を抜ける。
焼き芋の湯気が揺れた。
この男は、ただ明るいだけではない。
鈍感なふりをして、妙なところを見ている。
それが、エリーゼには気に入らなかった。
とても、気に入らなかった。
「帰ってください」
「今日は帰る」
「今日は?」
「明日も来る」
「来ないでください」
「たぶん来る」
「言葉が通じないのですか?」
「通じてる。嫌がられているのも分かってる」
レオンは、そこで少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、君はここに一人でいすぎる」
エリーゼは、息を止めた。
その言葉は、刃物ではなかった。
けれど、薄い紙で指を切った時のように、遅れて痛みが来た。
「……勝手に決めつけないでください」
「決めつけてはいない。見えただけだ」
「同じことです」
「そうか。なら、謝る」
レオンは素直に頭を下げた。
あまりにも簡単に。
エリーゼは拍子抜けした。
「でも、明日も来る」
「謝罪の意味がありませんわ」
「ある。今日の分は謝った。明日の分は、明日また怒られる」
ボルグが呆れたように天井を見た。
「こいつ、本当に面倒だろ?」
セラは焼き芋を一つ、扉の前にそっと置いた。
「では、これは置いていきますねぇ」
「置かないでください」
「冷めても甘いですぅ」
「そういう問題ではありません」
レオンは、最後にもう一度だけエリーゼを見た。
明るい瞳だった。
けれど、その奥には、妙な真剣さがあった。
「エリーゼ」
「まだ何か?」
「君がこの部屋を好きなら、それでいい」
レオンは言った。
「でも、もし退屈なら、外は意外と悪くないぞ」
そう言って、彼は背を向けた。
ボルグが片手をひらひら振り、セラがにこにこと会釈する。
三人分の足音が、廊下を遠ざかっていった。
こつ。
こつ。
こつ。
やがて、階段の下へ消える。
エリーゼは扉の前に立ち尽くしていた。
足元には、焼き芋が一つ。
その横に、廊下から入り込んだ薄紅色の花びらが一枚。
どちらも、この部屋には似合わない。
似合わないのに、確かにそこにあった。
エリーゼは扉を閉めた。
かちゃり。
部屋はまた静かになった。
けれど、完全には戻らなかった。
甘い匂いが、まだ残っている。
外では、春の風が窓を撫でていた。
机に戻っても、羊皮紙の文字がなかなか頭に入ってこない。
あの赤い髪。
あの妙にまっすぐな声。
君はここに一人でいすぎる。
その言葉が、静かな部屋の中で、いつまでも小さく響いていた。
「……不愉快な人」
エリーゼは呟いた。
けれど、その声は、自分で思ったほど冷たくなかった。
それがまた、ひどく不愉快だった。
*
翌日、レオンは本当に来た。
放課後の鐘が鳴り、学生たちのざわめきが階下へ流れていく頃、特別研究棟の廊下に、昨日と同じ足音が響いた。
こつ。
こつ。
こつ。
今度は三人ではなかった。
足音は一人分だけだった。
エリーゼは机に向かったまま、羽根ペンを止めた。
窓の外では、春の風が強くなっている。薄紅色の花びらが、まるで小さな魚の群れのように空を横切り、窓ガラスに一枚、ぺたりと張りついた。
こん、こん。
扉が鳴る。
昨日よりも控えめだった。
「帰ってください」
エリーゼは、扉を見ることもなく言った。
「まだ名乗ってないぞ」
「名乗らなくても分かります」
「すごいな。もう俺の足音を覚えたのか」
「不快な音ほど記憶に残るものですわ」
「なるほど。じゃあ印象には残ってるわけだ」
扉の向こうで、レオンが笑った。
大きな笑いではない。
ただ、こちらの棘を受け止めて、痛がる代わりに少し温めるような笑いだった。
エリーゼは眉をひそめる。
この男は、怒らない。
だから厄介だった。
怒る相手なら追い返しやすい。傷つく相手なら、距離を取らせやすい。怖がる相手なら、二度と近づかせないこともできる。
けれどレオンは、どれでもなかった。
踏み込みすぎない。
けれど、消えもしない。
扉の外に立ったまま、彼は言った。
「今日は焼き芋じゃない」
「では何です?」
「焼き栗だ」
エリーゼは、ゆっくり目を閉じた。
「……なぜ、食べ物を持ってくる方向で固定されているのですか」
「セラが言ってた。空腹でなくても、甘いものがあると話しやすいって」
「私は話すつもりがありません」
「じゃあ、置いて帰る」
「置かないでください」
「扉の前に置いておく」
「研究棟を食料庫にするつもりですの?」
「少しだけなら問題ないだろ」
「大問題です」
エリーゼは立ち上がった。
こつ、こつ、と靴音を響かせて扉へ向かう。扉を開けると、そこには本当にレオンがいた。
手には紙袋。
湯気はない。
代わりに、香ばしい匂いがした。焼けた殻と、ほのかな甘さ。昨日の焼き芋ほど強くはないが、それでも研究室にはまったく似合わない匂いだった。
レオンは、扉の境目より中へ入らず、紙袋を軽く持ち上げた。
「どうぞ」
「いりません」
「そう言うと思った」
「では持って帰ってください」
「それは少し違う」
「何がです」
「受け取るかどうかは君が決めればいい。でも、渡しに来るかどうかは俺が決める」
エリーゼは、じっとレオンを見た。
その言葉は強引だった。
だが、不思議と押しつけではなかった。
彼は、受け取れとは言っていない。
ただ、そこに置くと言っている。
選ぶ余地を、奇妙な形で残している。
「……あなたは、本当に面倒な人ですわね」
「よく言われる」
「直す気は?」
「大事なところは直す。ここは直さない」
「最低ですわ」
「正直だな」
レオンは少しだけ笑い、紙袋を扉の横に置いた。
「じゃあ、また明日」
「来ないでください」
「考えておく」
「来るつもりでしょう」
「ばれたか」
彼は片手を上げて去っていった。
足音が廊下を遠ざかる。
こつ。
こつ。
こつ。
エリーゼは、扉の横に置かれた紙袋を見下ろした。
焼き栗の香りが、静かな廊下に薄く広がっている。
捨てればいい。
そう思った。
けれど、なぜか手が動かなかった。
結局、彼女は紙袋を拾い上げ、部屋の中へ持ち込んだ。
机の端に置く。
その存在だけで、整った部屋の均衡が崩れた。
エリーゼは不機嫌そうに椅子へ戻り、羽根ペンを取った。
だが、その日の羊皮紙には、いつもよりも少しだけインクの滲みが多かった。
*
それから、レオンは毎日来た。
毎日、同じ時間に。
毎日、違うものを持って。
ある日は、焼き菓子。
ある日は、乾いた果物。
ある日は、なぜか小さな木彫りの鳥。
そしてある日は、ボルグとセラを連れてきた。
「だから、なぜ増えるのですか」
エリーゼは扉の隙間から三人を見て、冷たく言った。
ボルグは腕を組み、肩をすくめる。
「俺は止めた」
「その証言は昨日も聞きましたわ」
「毎日止めてるんだよ」
セラはにこにこと笑いながら、籠を差し出した。
「今日は焼きリンゴですぅ」
甘い匂いがした。
砂糖と果汁の匂い。
少し焦げた皮の香ばしさ。
その香りが廊下に広がった瞬間、エリーゼの胃が、ほんの小さく鳴った。
沈黙。
風が窓を揺らした。
ボルグの目が、すっと細くなる。
セラの口元が、にこりと深くなる。
レオンは何も言わなかった。
その沈黙が一番腹立たしかった。
「……今のは、椅子の軋みですわ」
「扉の前に椅子はないな」
ボルグが即座に言う。
「ボルグ」
レオンが低く名前を呼んだ。
それだけだった。
けれど、ボルグはそれ以上言わず、肩をすくめて黙った。
エリーゼは、その小さなやり取りを見逃さなかった。
レオンは明るい。
よく笑う。
図々しい。
だが、仲間の言葉が相手を傷つけそうになると、ほんの一言で止める。
力で押さえつけるのではない。
怒鳴るのでもない。
ただ、今はそこではない、と示す。
その距離の取り方は、少しだけ意外だった。
「……焼きリンゴだけ置いて、帰ってください」
エリーゼは言った。
セラが、ぱっと顔を輝かせる。
「受け取ってくださるんですねぇ」
「食べるとは言っていません」
「でも、捨てないんですよねぇ」
「……余計なことを言うと、今後一切受け取りませんわ」
「はい、黙りますぅ」
セラはにこにこしたまま籠を置いた。
ボルグが小声で言う。
「セラ、黙る気ないだろ」
「ありますよぉ。心の中ではぁ」
「それは黙ってねぇんだよ」
二人のやり取りに、レオンが少し笑う。
エリーゼは、眉間を押さえたくなった。
うるさい。
無駄が多い。
会話に意味がない。
それなのに。
扉を閉めた後、部屋の中は、以前より少し広く感じた。
籠の中の焼きリンゴから、甘い湯気が立っている。窓から入る光がその湯気に触れ、淡く白く揺れた。
エリーゼは、長い間それを見つめていた。
そして、誰も見ていないことを確かめてから、一切れだけ口に運んだ。
甘かった。
熱くて、少し酸っぱくて、舌先に果汁が滲んだ。
「……まあ」
エリーゼは小さく呟いた。
「悪くは、ありませんわね」
その声は、部屋の中だけに落ちた。
けれど、閉ざされた部屋の空気が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
*
彼らが来るようになって、エリーゼの静けさは少しずつ壊れていった。
最初に壊れたのは、扉の前だった。
毎日何かが置かれる。
食べ物。
小物。
依頼書。
ボルグが拾ってきたという、価値があるのかないのか分からない古銭。
セラが「可愛いから」と置いていった、乾いた花の束。
そしてレオンが置いていく、短い手紙。
『今日は雨だから、滑るなよ』
『食べ物は机の上に置け。床に置くとボルグが文句を言う』
『昨日の焼きリンゴ、うまかっただろ』
『返事はなくてもいい。たぶん聞こえてる』
エリーゼは、返事を書かなかった。
だが、手紙は捨てなかった。
机の引き出しの奥に、きちんと重ねてしまっていた。
次に壊れたのは、机の上だった。
ある日、エリーゼが研究から顔を上げると、机の端にセラの乾いた花が置かれていることに気づいた。
最初は邪魔だった。
色が多すぎる。
形も不揃い。
完璧に整った机には、まったく合わない。
けれど、窓から入る光がその花に触れると、薄い花びらの端が透けて見えた。埃の舞う光の中で、その色だけがひどく柔らかかった。
エリーゼは、それを捨てなかった。
最後に壊れたのは、時間だった。
以前のエリーゼは、鐘の音に意味を感じなかった。
朝も昼も夕方も、ただ研究を区切るための音でしかない。
けれど今は違う。
放課後の鐘が鳴ると、彼女は無意識に扉の方を見るようになった。
今日は来るのか。
何を持ってくるのか。
どんなくだらないことを言うのか。
そして、そのたびに、自分がそんなことを考えている事実に気づいて不機嫌になった。
不機嫌になっても、扉の方を見ることはやめられなかった。
*
変化は、ある雨の日に起きた。
朝から空は重く曇っていた。
昼過ぎには細い雨が降り始め、学院の白い石壁を濡らしていった。中庭の芝生は水を含んで色を深くし、花びらは泥に貼りついて動かなくなった。屋根の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと石畳を叩く。
放課後の鐘が鳴っても、廊下はいつもより静かだった。
学生たちは早々に帰ったのだろう。
足音も、笑い声も少ない。
エリーゼは、扉の方を見た。
来ない。
そう思った。
雨だから。
こんな天気の日に、特別研究棟の最上階まで来る必要はない。
むしろ、それが普通だ。
なのに、胸の奥に妙な空白が生まれた。
静かなはずの部屋が、今日はやけに静かすぎた。
窓を打つ雨音が、細く続いている。
さああ。
さああ。
インクの匂い。
濡れた石の匂い。
湿った風。
エリーゼは、羽根ペンを握り直した。
集中しようとする。
だが、羊皮紙の文字が目を滑る。
その時。
階段の下から、足音が聞こえた。
重い靴音。
急いでいる。
濡れた靴底が石の床を踏む、ぺた、ぺたという音が混じっている。
足音は廊下を進み、扉の前で止まった。
こん、こん。
いつもの音。
エリーゼは、胸の奥が軽くなるのを感じた。
その感覚に気づいた瞬間、ひどく腹が立った。
「……帰ってください」
「雨で帰るのが面倒だから、少しだけ雨宿りさせてくれ」
「普通は逆ですわ」
「たしかに」
扉の向こうで、レオンが笑った。
声が少し震えている。
寒いのだろう。
エリーゼは扉を開けた。
そこにいたレオンは、ひどい有様だった。
赤い髪は雨で濡れ、額に張りついている。制服の肩からは水滴が落ち、廊下の床に小さな水たまりを作っていた。片手には紙袋。紙袋も濡れて、端が少し破れかけている。
エリーゼは、眉を寄せた。
「……馬鹿ですの?」
「否定は難しいな」
「なぜ来たのです」
「来るって決めてたから」
「雨が降っているでしょう」
「降ってたな」
「濡れているでしょう」
「濡れてるな」
「帰って着替えなさい」
「その前に、これ」
レオンは濡れた紙袋を差し出した。
中には、真っ赤なリンゴが二つ入っていた。
雨に濡れた皮が、廊下の薄暗い光を受けて艶やかに光っている。
「市場で安かった」
「……わざわざ?」
「リンゴ、好きだろ」
エリーゼは言葉を失った。
好きだと言った覚えはない。
ただ、焼きリンゴだけは残さず食べた。
それだけだった。
それだけを、この男は見ていた。
エリーゼは、紙袋の中のリンゴを見つめた。
雨水が皮の上を伝い、先端からぽたりと落ちる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……中へ」
自分の口から出た言葉に、エリーゼ自身が驚いた。
レオンも少しだけ目を丸くする。
「いいのか?」
「そのまま立っていられると、廊下が濡れます」
「なるほど。廊下のためか」
「あなたのためではありません」
「分かってる」
レオンは笑った。
その笑顔が、なぜか少し嬉しそうで。
エリーゼは、余計に不機嫌になった。
彼を部屋へ入れると、空気が変わった。
雨の匂いが入ってくる。
濡れた布の匂い。
外の土の匂い。
冷たい風。
それらが、古い本とインクの匂いに混じる。
レオンは、部屋の中を見回した。
初めて入るわけではない。だが、これほど深く入ったのは初めてだった。
「綺麗な部屋だな」
「当然です」
「でも、ちょっと寒い」
「あなたが濡れているからです」
「それはそうだ」
レオンは素直に頷いた。
エリーゼは棚から布を取り出し、彼に投げた。
「拭きなさい」
「ありがとう」
「床を濡らさないためです」
「そういうことにしておく」
レオンは髪を拭いた。
赤い髪から水滴が落ち、布に吸い込まれていく。
エリーゼは、濡れた紙袋からリンゴを取り出した。
冷たい。
ずしりと重い。
窓辺に置くと、灰色の雨空を背に、赤だけが鮮やかに浮かんだ。
「……皮をむかないと食べられませんわ」
エリーゼが言うと、レオンは少しだけ笑った。
「皮ごと食べるのも悪くないぞ」
「野蛮です」
「そうか?」
「そうです」
「じゃあ、君がむいてくれ」
「なぜ私が」
「俺がやると、たぶん芯まで削る」
「不器用にもほどがありますわ」
言いながら、エリーゼは小さなナイフを取っていた。
自分でも気づいた時には、もうリンゴの皮に刃を当てていた。
するり。
赤い皮が細く剥ける。
指先に果汁が滲む。
雨音が続いている。
レオンは黙ってそれを見ていた。
珍しく、何も言わなかった。
「……何ですの」
「いや」
レオンは少しだけ目を細めた。
「君、そういうことをしている時の方が、研究してる時より楽しそうだなと思って」
エリーゼの手が止まった。
刃先が、リンゴの白い果肉に浅く刺さる。
「失礼ですわ」
「失礼だったら謝る」
「謝るくらいなら言わないでください」
「でも、本当のことだと思った」
雨音が、部屋の静けさを満たす。
エリーゼはリンゴを四つに切り、皿に並べた。
赤い皮が少し残った果肉は、曇った日の光の中で淡く光っている。
レオンが一切れ取る。
しゃり、と噛む音がした。
「うまい」
「普通のリンゴです」
「普通にうまいって、結構すごいことだぞ」
エリーゼは、返事に困った。
普通。
彼女にとって、遠い言葉だった。
誰かと同じ机でリンゴを食べること。
雨音を聞きながら、くだらない会話をすること。
それは、彼女がずっと切り捨ててきた無駄な時間のはずだった。
なのに、その時間は少しだけ温かかった。
「エリーゼ」
レオンが、雨の音に紛れるように言った。
「明日、外に出ないか」
「また勧誘ですか」
「そうだな。でも、冒険じゃなくていい」
「では何です」
「中庭まで」
エリーゼは、思わず彼を見た。
「中庭?」
「いきなり外の世界は遠いだろ。だから、まず中庭」
レオンはリンゴをもう一口食べた。
「晴れたらでいい。嫌なら断ればいい。俺はたぶん、また誘うけど」
「本当にしつこいですわね」
「自覚はある」
「救いがありません」
「でも、君が嫌がったら無理には連れ出さない」
その言葉だけは、静かだった。
エリーゼは窓の外を見た。
雨が降っている。
花びらが濡れた芝生に貼りついている。
中庭。
いつも窓の上から見下ろしていた場所。
学生たちの笑い声がある場所。
自分とは関係ないと思っていた場所。
「……考えておきます」
エリーゼは、それだけ言った。
レオンは、満足そうに笑った。
その笑顔が眩しくて、エリーゼは視線を逸らした。
*
翌日、空は嘘のように晴れた。
雨に洗われた学院は、いつもより澄んで見えた。白い校舎の壁は朝の光を受けて輝き、中庭の芝生には水滴が残っている。風が吹くたび、葉先に溜まった雫が落ち、草の間で小さく光った。
エリーゼは、特別研究棟の入口に立っていた。
外へ出るだけ。
たったそれだけのことだった。
それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
廊下の冷たい空気と、外の春の空気が、入口のところで混ざっている。足元の石段には、昨日の雨の名残が薄く残り、靴先に冷たく光っていた。
「無理しなくていいぞ」
隣でレオンが言った。
エリーゼは、反射的に彼を睨む。
「誰が無理をしていると?」
「してないならいい」
「していません」
「じゃあ行こう」
その言い方は、妙に自然だった。
手を引くわけでもない。
背中を押すわけでもない。
ただ、隣を歩き出す。
エリーゼは、少し遅れて一歩踏み出した。
靴底が、外の石段を踏む。
こつ。
その音が、やけに大きく響いた。
春の風が吹いた。
金色の髪が揺れ、頬にかかる。花の香りがした。雨上がりの土の匂いも混じっている。遠くで鳥が鳴き、噴水の水音がさらさらと続いていた。
中庭は、窓から見ていた時よりも広かった。
芝生の緑は、目に痛いほど鮮やかだった。白い花びらがところどころに落ち、風に押されてゆっくり転がっている。学生たちがこちらを見た。視線が集まる。
天才のエリーゼ。
象牙の塔の人形。
人と関わらない少女。
そんな声にならない言葉が、視線の中に混じっている気がした。
エリーゼの足が止まりかける。
その時、レオンが前方へ向かって手を振った。
「おーい、ボルグ! セラ!」
視線が少し逸れた。
中庭の木陰から、ボルグとセラが顔を出す。
ボルグは籠を抱えていた。中にはパンと果物が入っている。セラは敷物を広げようとして、風に煽られ、布ごとくるりと一回転しかけていた。
「きゃああ、布が、布が勝手に旅立とうとしていますぅ!」
「おいセラ、そっちじゃない! 噴水に落ちる!」
ボルグが慌てて追いかける。
敷物は風に乗り、ふわりと舞い上がった。
そして、見事にレオンの顔へ張りついた。
ばさっ。
沈黙。
中庭にいた学生たちが、一斉に固まった。
レオンは顔に敷物を被ったまま、親指を立てた。
「……準備は万全だ」
「どこがですの」
エリーゼは、思わず言っていた。
その瞬間、ボルグが吹き出した。
セラも笑った。
レオンは敷物を顔から剥がしながら、声を上げて笑った。
周囲の学生たちも、つられるように笑い出す。
笑い声が、中庭に広がった。
明るく、軽く、春風に乗って芝生の上を転がっていく。
エリーゼは、笑わなかった。
少なくとも、笑っていないつもりだった。
けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
レオンがそれに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
それがまた、彼らしかった。
*
その日から、エリーゼの世界は少しずつ外へ広がっていった。
いきなり大きく変わったわけではない。
最初は中庭。
次に学院の食堂。
それから、放課後の図書館。
休日には、学院の外にある市場へ連れていかれた。
市場は、エリーゼにとって混沌そのものだった。
人の声が多すぎる。
匂いが多すぎる。
焼いた肉、果物、香辛料、濡れた木箱、馬の汗、焼きたてのパン。あらゆる匂いが風に混ざり、通りの上で渦を巻いている。足元の石畳は人の靴で磨かれ、露店の布が風に揺れ、売り子たちの声が左右から飛んでくる。
エリーゼは、眉間に深い皺を寄せていた。
「うるさいですわ」
「活気があるんだよ」
レオンが笑う。
「臭いですわ」
「それも活気だ」
「足元が汚いですわ」
「それはまあ、気をつけろ」
ボルグが横で肩をすくめる。
「天才様には刺激が強すぎるんじゃねぇか?」
「誰が天才様ですか」
「学院中がそう呼んでる」
「不愉快ですわ」
「だろうな」
ボルグはあっさり言った。
その返しに、エリーゼは少しだけ言葉を失った。
ボルグは皮肉屋だった。
だが、彼の皮肉には、不思議と毒の芯が薄かった。相手を見下すためではなく、距離を測るための棘。触れすぎないための刃。エリーゼには、少しだけ分かる気がした。
セラは、露店の前で目を輝かせている。
「見てください、蜂蜜漬けの木の実ですぅ!」
「セラ、それ昨日も食っただろ」
「昨日の私と今日の私は違いますぅ」
「胃袋は同じだろ」
「心が違いますぅ」
「意味分かんねぇ」
二人のやり取りを聞きながら、レオンが市場の奥へ走っていった。
「少し待ってろ!」
「また何か買いに行きましたわよ」
「いつものことだ」
ボルグは慣れた様子で言う。
エリーゼは人混みの端に立ち、通りを眺めた。
騒がしい。
落ち着かない。
非効率。
無駄。
そう思う。
でも、窓の上から見下ろしていた世界とは違った。
近くで聞く笑い声は、思っていたより刺さらなかった。
誰かが転んでも、周囲は嘲笑うのではなく、手を貸していた。
売り子の怒鳴り声も、よく聞けば客との軽口だった。
世界は、彼女が思っていたより雑で、乱れていて、そして温かかった。
「おーい! 待たせたな!」
人混みをかき分けて、レオンが戻ってきた。
片手には串焼き。
もう片手には、真っ赤なリンゴ。
彼はリンゴを軽く放り投げた。
エリーゼは反射的に受け取る。
ずしりとした重み。
艶やかな赤。
雨の日に見たものと同じ色。
「ほら、エリーゼ。これやるよ」
「……なぜ私に?」
「お前、リンゴ好きだろ」
レオンは当然のように言った。
エリーゼは、リンゴを見下ろした。
「皮をむかないと食べられませんわ」
「皮ごと食べるのが一番うまいんだよ」
「野蛮です」
「じゃあ、あとでむいてくれ」
「自分でむきなさい」
「芯まで削るって言っただろ」
「不器用すぎますわ」
文句を言いながらも、エリーゼはリンゴを大事に抱えていた。
そのことに、レオンは気づいていたはずだ。
だが、何も言わなかった。
ただ、隣を歩いた。
風が市場の旗を揺らす。
赤、青、黄色の布が、夕方の光の中で波打つ。遠くの屋根の上には、傾き始めた太陽があった。石畳には人々の影が長く伸び、靴音が重なり合って、ひとつの大きな流れになっていた。
エリーゼは、リンゴを抱えたまま歩いた。
この赤を、いつか自分が忘れられない色になるなど、その時の彼女はまだ知らなかった。
*
季節が少し進んでも、彼らの日々は続いた。
レオンは相変わらず、勇者になると言った。
ボルグは相変わらず、それを鼻で笑った。
セラは相変わらず、何かを食べるか、誰かの世話を焼いていた。
そしてエリーゼは、相変わらず文句を言いながらも、気づけば彼らの隣にいた。
ある夕方、四人は学院近くの小さなカフェテラスに座っていた。
空は金色だった。
沈みかけた太陽が街並みを照らし、窓ガラスを赤く染めている。テーブルの上のカップには橙色の光が映り、風が吹くたび、近くの街路樹の葉がさわさわと鳴った。
ボルグは、なぜか市場で手に入れた大根を誇らしげに掲げていた。
「見ろ。値切った」
「なぜ大根を買ったのですか」
「安かった」
「理由になっていませんわ」
「なるだろ。安いは正義だ」
セラはにこにことお茶を注いでいる。
「大根のお料理、楽しみですねぇ」
「カフェテラスで大根の話をする集団なんて、私たちくらいですわね」
エリーゼが呆れると、レオンが串焼きを頬張りながら笑った。
「いいじゃねぇか。覚えやすくて」
「悪目立ちです」
「目立つなら、いつか勇者一行って呼ばれるかもな」
「その前に、大根一行と呼ばれると思いますわ」
ボルグが嫌そうな顔をした。
「それは嫌だな」
「私も嫌ですぅ」
「なら、なぜ買ったのです」
エリーゼが言うと、三人が同時に笑った。
夕暮れの光の中で、その笑い声は不思議と柔らかかった。
エリーゼはカップを持ったまま、黙ってその光景を見ていた。
自分がこの場にいることが、まだ時々信じられなかった。
以前なら、こんな無駄な時間を軽蔑していた。
答えの出ない会話。
意味のない笑い。
大根。
串焼き。
紅茶。
けれど今は、その無駄が、少しだけ心地よかった。
レオンが、ふいに空を見上げた。
「なぁ」
「今度は何ですの」
「次の大きな依頼が終わったらさ、みんなで海を見に行かねぇか?」
エリーゼの手が止まった。
「海?」
「おう。俺、まだ見たことねぇんだよ」
レオンは、夕焼けの空の向こうを見ていた。
「すっげぇ広い水たまりなんだろ?」
「その認識はひどすぎますわ」
「本にはそう書いてあったぞ。水がたくさんあるって」
「それは間違ってはいませんが、表現が壊滅的です」
セラが目を輝かせる。
「いいですねぇ。海。私、貝殻を拾いたいですぅ」
ボルグは腕を組んだ。
「海産物は売れるな」
「あなたはすぐ値段をつけますわね」
「値段がつくものは大事だ」
レオンは笑った。
「エリーゼは?」
「私は……」
言いかけて、エリーゼは言葉を止めた。
海。
書物では知っている。
青く、広く、果てがなく、空を映す水の世界。
風が強く、波が寄せ、光が砕ける場所。
見たことはない。
想像したことも、あまりなかった。
けれど、今。
四人でその場所に立つ自分を、ほんの一瞬だけ想像してしまった。
レオンが騒ぎ、ボルグが魚の値段を考え、セラが貝殻を拾い、自分が呆れながらも隣にいる。
その想像は、胸が痛くなるほど眩しかった。
「……悪くは、ないかもしれませんわね」
エリーゼは、そう答えた。
レオンの顔が明るくなる。
「決まりだな!」
「まだ決まりとは言っていません」
「今のはほぼ決まりだ」
「あなたの耳は都合よくできていますわね」
「昔からだ」
レオンは笑った。
その笑顔を見て、エリーゼは少しだけ目を細めた。
夕方の風が吹く。
街路樹の葉が揺れ、テーブルの上のリンゴがころりと小さく動いた。赤い皮に、沈みかけた太陽の光が映っている。
その赤は、温かかった。
その時のエリーゼはまだ知らない。
その約束が、果たされないまま胸に残ることを。
海を見るという、ありふれた願いが、いつか彼女にとって最も遠い場所になることを。
そして。
この何でもない夕暮れの笑い声こそが、失われた後に、何度も何度も夢に見る宝物になることを。
*
夜。
特別研究棟の最上階に戻ったエリーゼは、机の前に座っていた。
部屋は静かだった。
窓の外では夜風が吹き、木々の葉が乾いた音を立てている。遠くの学生寮から、誰かの笑い声が微かに聞こえた。昔なら耳障りだと思った声が、今は少しだけ遠い灯りのように感じられた。
机の上には、今日も羊皮紙がある。
魔術の式。
書きかけの計算。
読みかけの本。
だが、その横に、真っ赤なリンゴが置かれていた。
レオンにもらったリンゴ。
皮をむかずに、そのまま置いている。
部屋の中で、その赤だけが妙に生きて見えた。
エリーゼは、羽根ペンを置いた。
窓の外を見る。
硝子に、自分の顔が映っていた。
相変わらず白い顔。
相変わらず冷たい目。
けれど、少しだけ違って見えた。
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ、以前よりも、自分が人間に近く見えた。
「……不思議ね」
小さく呟く。
静けさは、まだ好きだった。
一人でいる時間も、嫌いではない。
けれど今は、扉の外に足音があることを知っている。
誰かが明日も来るかもしれないことを、少しだけ待っている。
その事実が、怖かった。
同時に、温かかった。
エリーゼは左手を伸ばし、リンゴに触れた。
冷たい皮。
なめらかな丸み。
指先に伝わる、確かな重み。
「海、ね」
呟いた声は、夜の部屋に溶けた。
まだ遠い約束。
まだ名前のない未来。
けれど、その未来を想像するだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
エリーゼは、自分が少しだけ笑っていることに気づかなかった。
窓の外で、夜風が吹いた。
薄い雲が月の前を流れ、部屋の中に差し込む光が揺れる。机の上のリンゴの影が、羊皮紙の上に丸く落ちた。
その影は、まるで閉じていた扉の隙間から差し込んだ、小さな赤い光のようだった。
エリーゼの世界は、まだ狭かった。
けれど、もう完全な塔ではなかった。
静けさの中に、誰かの足音を待つ余白が生まれていた。
そして彼女は、まだ知らない。
その余白に入り込んできた温もりが、いつか彼女を救い、同時に、深く傷つけることになるのだと。
夜は静かに更けていく。
机の上のリンゴだけが、月明かりの中で赤く光っていた。
まるで、これから始まる幸福と喪失のすべてを、黙って覚えているかのように。




