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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第31話:象牙の塔の退屈な天才 〜静寂は、騒音によって初めて認識される〜

才能とは、贈り物などではない。


 少なくとも、エリーゼ・フォン・ヴァイデマンにとって、それは祝福ではなかった。


 幼い頃、彼女が初めて魔力を操った時、大人たちは手を叩いて喜んだ。小さな指先からこぼれた淡い光を見て、母は涙を浮かべ、父は誇らしげに笑った。屋敷の使用人たちは「まあ、なんて素晴らしい」と声を弾ませ、彼女の頭を撫でた。


 その手のひらが、ほんの少し震えていたことを、エリーゼは覚えている。


 最初は称賛だった。


 次は期待になった。


 そして、彼女が大人たちの理解を追い越し、教師たちの説明を聞く前に答えを出し、古い魔導書の難解な記述を読み解くようになると、期待は静かに形を変えた。


 恐れ。


 嫉み。


 遠巻きにする視線。


 笑顔の下に隠された、薄い怯え。


 エリーゼは、それを見逃せない子供だった。


「すごいね、エリーゼ」


 そう言う人ほど、目が笑っていない。


「将来が楽しみだ」


 そう言う人ほど、彼女がさらに先へ進むことを怖がっている。


「天才だ」


 その言葉は、褒め言葉の形をした壁だった。


 近づきすぎないための言葉。


 自分たちとは違うものとして、綺麗に隔てるための言葉。


 だからエリーゼは、早くから学んだ。


 人の声は、当てにならない。


 人の笑顔は、温かいとは限らない。


 人は、自分が理解できないものを、最初は褒め、次に利用し、最後には恐れる。


 それならば、最初から関わらなければいい。


 彼女はそう決めた。


     *


 王立魔導学院の春は、眩しすぎるほど明るかった。


 白い石造りの校舎は朝の光を受け、磨かれた骨のように清らかに輝いていた。中庭には薄紅色の花が咲き、枝から離れた花びらが風に乗って芝生の上を転がる。噴水の水は陽を弾き、細かな光の粒を空中へ散らしていた。


 学生たちの声が、そこかしこから聞こえる。


 走る靴音。


 笑い声。


 昼食の包みを開く紙の音。


 誰かが友人の名前を呼ぶ声。


 風が吹くたび、若い木々の葉がさわさわと鳴り、花の甘い香りが校舎の廊下へ流れ込んでくる。


 世界は、春に浮かれていた。


 けれど、特別研究棟の最上階だけは違った。


 その場所は、学院の中で密かに「象牙の塔」と呼ばれていた。


 白い石壁。


 細く長い窓。


 古い本棚。


 重たい机。


 人の出入りが少ないせいで、廊下にはいつも乾いた埃の匂いが沈んでいる。昼間だというのに、そこだけ日差しが薄く、足音さえ遠慮がちに響いた。


 その一室に、エリーゼはいた。


 部屋の中は、恐ろしく整っていた。


 机の上には、古い魔導書が三冊、角をぴたりと揃えて積まれている。羽根ペンはインク壺の右側。羊皮紙は左。薬液の入った小瓶は窓辺の棚に並び、すべてのラベルがこちらを向いていた。


 窓から差し込む光の筋の中を、細かな埃がゆっくりと舞っている。


 その光は、柔らかいはずなのに、部屋の中ではどこか冷たかった。春の明るささえ、ここでは観察される対象にすぎない。


 エリーゼは革張りの椅子に腰かけ、羽根ペンを指先で回していた。


 蜂蜜を薄く溶かしたような金色の髪が、肩の上に静かに落ちている。透き通るように白い肌。整いすぎた横顔。青い瞳は澄んでいたが、そこに学生らしい熱はなかった。


 彼女は、机の上の羊皮紙を見下ろした。


 そこには、教授が「卒業までに理解できれば十分」と言っていた魔術の組み立てが記されている。


 エリーゼは、それを朝食前に解いた。


 間違いもない。


 迷いもない。


 ただ、退屈だけが残った。


「……つまらないわね」


 小さな声が、部屋の静けさに落ちた。


 誰も返事をしない。


 それでいい。


 返事など不要だった。


 外の中庭では、また笑い声が上がった。


 エリーゼは、窓の外へ目を向ける。


 学生たちが芝生の上で輪になっている。誰かが転び、周囲が笑う。転んだ本人も笑っている。泥のついた制服を見せ合いながら、馬鹿みたいに声を上げている。


 理解できなかった。


 失敗して、なぜ笑うのか。


 泥がついて、なぜ楽しそうなのか。


 無駄な会話をして、なぜ時間を失ったと思わないのか。


 エリーゼにとって、世界はもっと単純だった。


 考える。


 組み立てる。


 間違いを直す。


 答えを出す。


 それだけでいい。


 人の感情は、余計な揺らぎだった。


 期待も、失望も、嫉みも、恐れも、すべて邪魔だった。


 だから、この部屋は安全だった。


 誰も入ってこない。


 誰も彼女に触れない。


 誰も、彼女を見て笑顔を引きつらせない。


 静けさだけが、彼女の味方だった。


 そのはずだった。


     *


 放課後の鐘が鳴った。


 遠くから、低く澄んだ音が届く。


 ごおん。


 ごおん。


 音は校舎の壁に反響し、廊下を渡り、特別研究棟の最上階までかすかに震えながら届いた。


 エリーゼは、机に向かっていた。


 外の学生たちは帰り支度を始めているのだろう。廊下の下の方から、足音や話し声が遠く聞こえる。窓の外では、春の風が少し強くなっていた。薄紅色の花びらが、今度は横殴りに舞っている。


 風が窓を叩いた。


 こつ。


 こつ。


 その音に混じって、別の足音が聞こえた。


 階段を上がってくる音。


 一人ではない。


 複数。


 重い靴音。軽い靴音。のんびりした足音。


 エリーゼは眉をひそめた。


 この階に用のある学生など、ほとんどいない。


 足音は、彼女の部屋の前で止まった。


 静寂が落ちる。


 ほんの一呼吸。


 そして――


 どぉん。


 扉が揺れた。


 ノックではなかった。


 扉そのものが、内側へ少ししなった。棚の小瓶が触れ合い、ちり、と澄んだ音を立てる。


 エリーゼは、ゆっくり顔を上げた。


「……どなた?」


 声は冷たかった。


 扉の向こうから、明るい声が返る。


「レオンだ!」


「存じ上げません」


「今、知っただろ!」


「知ったことを後悔しています」


 扉の向こうで、短い沈黙があった。


 次に、別の少年の声が聞こえる。


「レオン、やっぱり帰ろうぜ。完全に嫌われてる」


 さらに、柔らかい少女の声が続いた。


「あらあら。でも、ここまで来たんですから、焼き芋だけでも渡して帰りませんかぁ?」


 エリーゼは、ペンを置いた。


「焼き芋?」


 思わず聞き返してしまった。


 扉の向こうで、何かが紙袋の中でごそごそ動く音がする。ふわりと、甘い匂いが隙間から流れ込んできた。焼けた皮と、ほくほくした芋の香り。


 研究室の乾いたインクの匂いに、それはあまりにも似合わなかった。


「必要ありません。お帰りください」


「まあまあ、そう言わずに」


 レオンの声は、明るかった。


 だが、軽薄ではなかった。


 瞬のように、何も考えず勢いで踏み込んでくる声ではない。


 この声には、妙な粘りがあった。陽気で、図々しい。けれど、こちらの拒絶を聞いていないわけではない。聞いた上で、それでも何かを届けようとしている声だった。


「話がある」


「私はありません」


「俺たちにはある」


「では、あなたたちで話し合えばよろしいのでは?」


「それだと意味がない。君が必要なんだ」


 必要。


 その言葉が、部屋の静けさに小さく落ちた。


 エリーゼの指先が、ほんのわずかに止まる。


 けれど、すぐに冷たい表情を戻した。


「その言葉で扉が開くと思っているなら、単純すぎますわ」


「思ってない」


 意外な返事だった。


 エリーゼは、扉を見る。


「なら、なぜ言ったのです?」


「本当のことだからだ」


 廊下を風が抜けた。


 古い窓が、かすかに鳴る。


 エリーゼは立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦り、細い音を立てる。こつ、こつ、と靴音を響かせながら扉へ近づいた。


 開けるつもりはなかった。


 ただ、直接断った方が早いと思っただけだ。


 鍵を外す。


 かちゃり。


 扉を細く開ける。


 廊下の光が、部屋の中へ一筋差し込んだ。


 そこに立っていたのは、三人だった。


 先頭にいたのは、燃えるような赤髪の少年。


 制服は規則通りではない。襟は少し崩れ、袖も無造作にまくっている。けれど、だらしなさより先に、妙な生命力が目についた。外の春をそのまま人の形にしたような、明るい存在感があった。


 彼が、レオンなのだろう。


 瞳はまっすぐだった。


 暑苦しいほど明るい。だが、ただ騒がしいだけではない。エリーゼの顔色も、扉の開き幅も、部屋の中の空気の冷たさも見ている。見た上で、笑っている。


 その後ろに、小柄な少年がいた。


 目つきが鋭く、口元には常に皮肉が浮かんでいる。腰のあたりに手を置いた立ち方からして、すぐ逃げる準備も、すぐ動く準備もできていた。


 さらにその隣に、法衣姿の少女が立っていた。


 両腕には、本当に焼き芋が山ほど抱えられている。湯気がほわほわと立ち上り、廊下の冷たい空気に甘い匂いを広げていた。


 エリーゼは、三人を順番に見た。


 最後に、焼き芋を見た。


「……研究棟に焼き芋を持ち込む理由を聞いても?」


 法衣の少女が、ふわりと笑う。


「お腹が空いていると、人は冷たくなりますからぁ」


「私は空いていません」


「そうですかぁ。では、空いた時にどうぞぉ」


「置いていくつもりですの?」


「はい。冷めてもおいしいですぅ」


「なぜ会話が成立しているようで、成立していないのでしょう」


 小柄な少年が肩をすくめた。


「悪いな。こいつはセラ。人はいいけど、たまに話が芋に引っ張られる」


「芋に?」


「で、俺はボルグ。ちなみに俺は反対した。こんな塔の上まで来ても無駄だってな」


「賢明ですわね。では、お帰りください」


 ボルグは小さく笑った。


「ほらな」


 だが、レオンは帰らなかった。


 扉の前に立ち、にっと笑う。


 その笑い方は明るい。


 けれど、瞬のように場を巻き込んで押し流す笑いではなかった。


 レオンの笑みは、焚き火に似ていた。


 近づきすぎれば暑い。


 だが、冷え切った場所から見れば、どうしても目に入る。


「エリーゼ・フォン・ヴァイデマン」


 レオンが、彼女の名を呼んだ。


 エリーゼは眉を寄せる。


「馴れ馴れしいですわ」


「悪い。だが、名前を知らないまま頼みごとはできない」


「頼みごとを聞くとは言っていません」


「それでも言う」


 レオンは一歩も踏み込まなかった。


 扉の境目を越えない。


 だが、退きもしない。


「俺たちは、卒業したら冒険者になる」


「ご自由に」


「俺は、勇者になる」


「大言壮語もご自由に」


「そのために、仲間が必要だ」


 レオンの声は、そこで少しだけ静かになった。


「君が必要だ」


 エリーゼは、彼を見た。


 廊下の窓から入る春の光が、赤い髪に反射している。風が吹き、花びらが一枚、彼の肩に落ちた。


 彼はそれに気づかない。


 ただ、エリーゼを見ていた。


 才能を見ているのか。


 便利な魔術師を見ているのか。


 それとも、本当に彼女という人間を見ようとしているのか。


 その時のエリーゼには、分からなかった。


 分からないものは、不快だった。


「お断りします」


 彼女は即答した。


 冷たい声だった。


「私は誰かと群れる趣味はありません。それに、あなたたちのような騒がしく、泥臭く、将来設計もあやふやな方々と行動を共にすれば、私の品位まで地に落ちてしまいますわ」


 ボルグが口笛を吹いた。


「言うねぇ」


 セラが困ったように眉を下げる。


「でも、将来設計があやふやなのは少し当たっていますねぇ」


「セラ、そこ認めるなよ」


 レオンは怒らなかった。


 傷ついた顔もしなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


「いいな」


「……何がですの?」


「はっきり言うところだ」


「褒めているつもりですか?」


「褒めてる」


「不快です」


「それも、はっきり言うんだな」


 レオンは、愉快そうだった。


 だが、馬鹿にしているわけではなかった。


 それが、余計にエリーゼを苛立たせた。


 怒ればいい。


 去ればいい。


 天才様は扱いづらいと陰で言えばいい。


 これまでの人間たちと同じように、距離を取ればいい。


 なのに、レオンはその場に立っていた。


「なぜ笑うのです?」


 エリーゼは低く聞いた。


「私に侮辱されたのですよ」


「侮辱されたというより、試された気がした」


「思い上がりですわ」


「かもしれない」


 レオンはあっさり認めた。


「でも、君は本当にどうでもいい相手なら、そこまで丁寧に刺さないだろ」


 エリーゼの目が、わずかに細くなった。


 春風が廊下を抜ける。


 焼き芋の湯気が揺れた。


 この男は、ただ明るいだけではない。


 鈍感なふりをして、妙なところを見ている。


 それが、エリーゼには気に入らなかった。


 とても、気に入らなかった。


「帰ってください」


「今日は帰る」


「今日は?」


「明日も来る」


「来ないでください」


「たぶん来る」


「言葉が通じないのですか?」


「通じてる。嫌がられているのも分かってる」


 レオンは、そこで少しだけ表情を柔らかくした。


「でも、君はここに一人でいすぎる」


 エリーゼは、息を止めた。


 その言葉は、刃物ではなかった。


 けれど、薄い紙で指を切った時のように、遅れて痛みが来た。


「……勝手に決めつけないでください」


「決めつけてはいない。見えただけだ」


「同じことです」


「そうか。なら、謝る」


 レオンは素直に頭を下げた。


 あまりにも簡単に。


 エリーゼは拍子抜けした。


「でも、明日も来る」


「謝罪の意味がありませんわ」


「ある。今日の分は謝った。明日の分は、明日また怒られる」


 ボルグが呆れたように天井を見た。


「こいつ、本当に面倒だろ?」


 セラは焼き芋を一つ、扉の前にそっと置いた。


「では、これは置いていきますねぇ」


「置かないでください」


「冷めても甘いですぅ」


「そういう問題ではありません」


 レオンは、最後にもう一度だけエリーゼを見た。


 明るい瞳だった。


 けれど、その奥には、妙な真剣さがあった。


「エリーゼ」


「まだ何か?」


「君がこの部屋を好きなら、それでいい」


 レオンは言った。


「でも、もし退屈なら、外は意外と悪くないぞ」


 そう言って、彼は背を向けた。


 ボルグが片手をひらひら振り、セラがにこにこと会釈する。


 三人分の足音が、廊下を遠ざかっていった。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 やがて、階段の下へ消える。


 エリーゼは扉の前に立ち尽くしていた。


 足元には、焼き芋が一つ。


 その横に、廊下から入り込んだ薄紅色の花びらが一枚。


 どちらも、この部屋には似合わない。


 似合わないのに、確かにそこにあった。


 エリーゼは扉を閉めた。


 かちゃり。


 部屋はまた静かになった。


 けれど、完全には戻らなかった。


 甘い匂いが、まだ残っている。


 外では、春の風が窓を撫でていた。


 机に戻っても、羊皮紙の文字がなかなか頭に入ってこない。


 あの赤い髪。


 あの妙にまっすぐな声。


 君はここに一人でいすぎる。


 その言葉が、静かな部屋の中で、いつまでも小さく響いていた。


「……不愉快な人」


 エリーゼは呟いた。


 けれど、その声は、自分で思ったほど冷たくなかった。


 それがまた、ひどく不愉快だった。


 *


 翌日、レオンは本当に来た。


 放課後の鐘が鳴り、学生たちのざわめきが階下へ流れていく頃、特別研究棟の廊下に、昨日と同じ足音が響いた。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 今度は三人ではなかった。


 足音は一人分だけだった。


 エリーゼは机に向かったまま、羽根ペンを止めた。


 窓の外では、春の風が強くなっている。薄紅色の花びらが、まるで小さな魚の群れのように空を横切り、窓ガラスに一枚、ぺたりと張りついた。


 こん、こん。


 扉が鳴る。


 昨日よりも控えめだった。


「帰ってください」


 エリーゼは、扉を見ることもなく言った。


「まだ名乗ってないぞ」


「名乗らなくても分かります」


「すごいな。もう俺の足音を覚えたのか」


「不快な音ほど記憶に残るものですわ」


「なるほど。じゃあ印象には残ってるわけだ」


 扉の向こうで、レオンが笑った。


 大きな笑いではない。


 ただ、こちらの棘を受け止めて、痛がる代わりに少し温めるような笑いだった。


 エリーゼは眉をひそめる。


 この男は、怒らない。


 だから厄介だった。


 怒る相手なら追い返しやすい。傷つく相手なら、距離を取らせやすい。怖がる相手なら、二度と近づかせないこともできる。


 けれどレオンは、どれでもなかった。


 踏み込みすぎない。


 けれど、消えもしない。


 扉の外に立ったまま、彼は言った。


「今日は焼き芋じゃない」


「では何です?」


「焼き栗だ」


 エリーゼは、ゆっくり目を閉じた。


「……なぜ、食べ物を持ってくる方向で固定されているのですか」


「セラが言ってた。空腹でなくても、甘いものがあると話しやすいって」


「私は話すつもりがありません」


「じゃあ、置いて帰る」


「置かないでください」


「扉の前に置いておく」


「研究棟を食料庫にするつもりですの?」


「少しだけなら問題ないだろ」


「大問題です」


 エリーゼは立ち上がった。


 こつ、こつ、と靴音を響かせて扉へ向かう。扉を開けると、そこには本当にレオンがいた。


 手には紙袋。


 湯気はない。


 代わりに、香ばしい匂いがした。焼けた殻と、ほのかな甘さ。昨日の焼き芋ほど強くはないが、それでも研究室にはまったく似合わない匂いだった。


 レオンは、扉の境目より中へ入らず、紙袋を軽く持ち上げた。


「どうぞ」


「いりません」


「そう言うと思った」


「では持って帰ってください」


「それは少し違う」


「何がです」


「受け取るかどうかは君が決めればいい。でも、渡しに来るかどうかは俺が決める」


 エリーゼは、じっとレオンを見た。


 その言葉は強引だった。


 だが、不思議と押しつけではなかった。


 彼は、受け取れとは言っていない。


 ただ、そこに置くと言っている。


 選ぶ余地を、奇妙な形で残している。


「……あなたは、本当に面倒な人ですわね」


「よく言われる」


「直す気は?」


「大事なところは直す。ここは直さない」


「最低ですわ」


「正直だな」


 レオンは少しだけ笑い、紙袋を扉の横に置いた。


「じゃあ、また明日」


「来ないでください」


「考えておく」


「来るつもりでしょう」


「ばれたか」


 彼は片手を上げて去っていった。


 足音が廊下を遠ざかる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 エリーゼは、扉の横に置かれた紙袋を見下ろした。


 焼き栗の香りが、静かな廊下に薄く広がっている。


 捨てればいい。


 そう思った。


 けれど、なぜか手が動かなかった。


 結局、彼女は紙袋を拾い上げ、部屋の中へ持ち込んだ。


 机の端に置く。


 その存在だけで、整った部屋の均衡が崩れた。


 エリーゼは不機嫌そうに椅子へ戻り、羽根ペンを取った。


 だが、その日の羊皮紙には、いつもよりも少しだけインクの滲みが多かった。


     *


 それから、レオンは毎日来た。


 毎日、同じ時間に。


 毎日、違うものを持って。


 ある日は、焼き菓子。


 ある日は、乾いた果物。


 ある日は、なぜか小さな木彫りの鳥。


 そしてある日は、ボルグとセラを連れてきた。


「だから、なぜ増えるのですか」


 エリーゼは扉の隙間から三人を見て、冷たく言った。


 ボルグは腕を組み、肩をすくめる。


「俺は止めた」


「その証言は昨日も聞きましたわ」


「毎日止めてるんだよ」


 セラはにこにこと笑いながら、籠を差し出した。


「今日は焼きリンゴですぅ」


 甘い匂いがした。


 砂糖と果汁の匂い。


 少し焦げた皮の香ばしさ。


 その香りが廊下に広がった瞬間、エリーゼの胃が、ほんの小さく鳴った。


 沈黙。


 風が窓を揺らした。


 ボルグの目が、すっと細くなる。


 セラの口元が、にこりと深くなる。


 レオンは何も言わなかった。


 その沈黙が一番腹立たしかった。


「……今のは、椅子の軋みですわ」


「扉の前に椅子はないな」


 ボルグが即座に言う。


「ボルグ」


 レオンが低く名前を呼んだ。


 それだけだった。


 けれど、ボルグはそれ以上言わず、肩をすくめて黙った。


 エリーゼは、その小さなやり取りを見逃さなかった。


 レオンは明るい。


 よく笑う。


 図々しい。


 だが、仲間の言葉が相手を傷つけそうになると、ほんの一言で止める。


 力で押さえつけるのではない。


 怒鳴るのでもない。


 ただ、今はそこではない、と示す。


 その距離の取り方は、少しだけ意外だった。


「……焼きリンゴだけ置いて、帰ってください」


 エリーゼは言った。


 セラが、ぱっと顔を輝かせる。


「受け取ってくださるんですねぇ」


「食べるとは言っていません」


「でも、捨てないんですよねぇ」


「……余計なことを言うと、今後一切受け取りませんわ」


「はい、黙りますぅ」


 セラはにこにこしたまま籠を置いた。


 ボルグが小声で言う。


「セラ、黙る気ないだろ」


「ありますよぉ。心の中ではぁ」


「それは黙ってねぇんだよ」


 二人のやり取りに、レオンが少し笑う。


 エリーゼは、眉間を押さえたくなった。


 うるさい。


 無駄が多い。


 会話に意味がない。


 それなのに。


 扉を閉めた後、部屋の中は、以前より少し広く感じた。


 籠の中の焼きリンゴから、甘い湯気が立っている。窓から入る光がその湯気に触れ、淡く白く揺れた。


 エリーゼは、長い間それを見つめていた。


 そして、誰も見ていないことを確かめてから、一切れだけ口に運んだ。


 甘かった。


 熱くて、少し酸っぱくて、舌先に果汁が滲んだ。


「……まあ」


 エリーゼは小さく呟いた。


「悪くは、ありませんわね」


 その声は、部屋の中だけに落ちた。


 けれど、閉ざされた部屋の空気が、少しだけ柔らかくなったような気がした。


     *


 彼らが来るようになって、エリーゼの静けさは少しずつ壊れていった。


 最初に壊れたのは、扉の前だった。


 毎日何かが置かれる。


 食べ物。


 小物。


 依頼書。


 ボルグが拾ってきたという、価値があるのかないのか分からない古銭。


 セラが「可愛いから」と置いていった、乾いた花の束。


 そしてレオンが置いていく、短い手紙。


『今日は雨だから、滑るなよ』


『食べ物は机の上に置け。床に置くとボルグが文句を言う』


『昨日の焼きリンゴ、うまかっただろ』


『返事はなくてもいい。たぶん聞こえてる』


 エリーゼは、返事を書かなかった。


 だが、手紙は捨てなかった。


 机の引き出しの奥に、きちんと重ねてしまっていた。


 次に壊れたのは、机の上だった。


 ある日、エリーゼが研究から顔を上げると、机の端にセラの乾いた花が置かれていることに気づいた。


 最初は邪魔だった。


 色が多すぎる。


 形も不揃い。


 完璧に整った机には、まったく合わない。


 けれど、窓から入る光がその花に触れると、薄い花びらの端が透けて見えた。埃の舞う光の中で、その色だけがひどく柔らかかった。


 エリーゼは、それを捨てなかった。


 最後に壊れたのは、時間だった。


 以前のエリーゼは、鐘の音に意味を感じなかった。


 朝も昼も夕方も、ただ研究を区切るための音でしかない。


 けれど今は違う。


 放課後の鐘が鳴ると、彼女は無意識に扉の方を見るようになった。


 今日は来るのか。


 何を持ってくるのか。


 どんなくだらないことを言うのか。


 そして、そのたびに、自分がそんなことを考えている事実に気づいて不機嫌になった。


 不機嫌になっても、扉の方を見ることはやめられなかった。


     *


 変化は、ある雨の日に起きた。


 朝から空は重く曇っていた。


 昼過ぎには細い雨が降り始め、学院の白い石壁を濡らしていった。中庭の芝生は水を含んで色を深くし、花びらは泥に貼りついて動かなくなった。屋根の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと石畳を叩く。


 放課後の鐘が鳴っても、廊下はいつもより静かだった。


 学生たちは早々に帰ったのだろう。


 足音も、笑い声も少ない。


 エリーゼは、扉の方を見た。


 来ない。


 そう思った。


 雨だから。


 こんな天気の日に、特別研究棟の最上階まで来る必要はない。


 むしろ、それが普通だ。


 なのに、胸の奥に妙な空白が生まれた。


 静かなはずの部屋が、今日はやけに静かすぎた。


 窓を打つ雨音が、細く続いている。


 さああ。


 さああ。


 インクの匂い。


 濡れた石の匂い。


 湿った風。


 エリーゼは、羽根ペンを握り直した。


 集中しようとする。


 だが、羊皮紙の文字が目を滑る。


 その時。


 階段の下から、足音が聞こえた。


 重い靴音。


 急いでいる。


 濡れた靴底が石の床を踏む、ぺた、ぺたという音が混じっている。


 足音は廊下を進み、扉の前で止まった。


 こん、こん。


 いつもの音。


 エリーゼは、胸の奥が軽くなるのを感じた。


 その感覚に気づいた瞬間、ひどく腹が立った。


「……帰ってください」


「雨で帰るのが面倒だから、少しだけ雨宿りさせてくれ」


「普通は逆ですわ」


「たしかに」


 扉の向こうで、レオンが笑った。


 声が少し震えている。


 寒いのだろう。


 エリーゼは扉を開けた。


 そこにいたレオンは、ひどい有様だった。


 赤い髪は雨で濡れ、額に張りついている。制服の肩からは水滴が落ち、廊下の床に小さな水たまりを作っていた。片手には紙袋。紙袋も濡れて、端が少し破れかけている。


 エリーゼは、眉を寄せた。


「……馬鹿ですの?」


「否定は難しいな」


「なぜ来たのです」


「来るって決めてたから」


「雨が降っているでしょう」


「降ってたな」


「濡れているでしょう」


「濡れてるな」


「帰って着替えなさい」


「その前に、これ」


 レオンは濡れた紙袋を差し出した。


 中には、真っ赤なリンゴが二つ入っていた。


 雨に濡れた皮が、廊下の薄暗い光を受けて艶やかに光っている。


「市場で安かった」


「……わざわざ?」


「リンゴ、好きだろ」


 エリーゼは言葉を失った。


 好きだと言った覚えはない。


 ただ、焼きリンゴだけは残さず食べた。


 それだけだった。


 それだけを、この男は見ていた。


 エリーゼは、紙袋の中のリンゴを見つめた。


 雨水が皮の上を伝い、先端からぽたりと落ちる。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


「……中へ」


 自分の口から出た言葉に、エリーゼ自身が驚いた。


 レオンも少しだけ目を丸くする。


「いいのか?」


「そのまま立っていられると、廊下が濡れます」


「なるほど。廊下のためか」


「あなたのためではありません」


「分かってる」


 レオンは笑った。


 その笑顔が、なぜか少し嬉しそうで。


 エリーゼは、余計に不機嫌になった。


 彼を部屋へ入れると、空気が変わった。


 雨の匂いが入ってくる。


 濡れた布の匂い。


 外の土の匂い。


 冷たい風。


 それらが、古い本とインクの匂いに混じる。


 レオンは、部屋の中を見回した。


 初めて入るわけではない。だが、これほど深く入ったのは初めてだった。


「綺麗な部屋だな」


「当然です」


「でも、ちょっと寒い」


「あなたが濡れているからです」


「それはそうだ」


 レオンは素直に頷いた。


 エリーゼは棚から布を取り出し、彼に投げた。


「拭きなさい」


「ありがとう」


「床を濡らさないためです」


「そういうことにしておく」


 レオンは髪を拭いた。


 赤い髪から水滴が落ち、布に吸い込まれていく。


 エリーゼは、濡れた紙袋からリンゴを取り出した。


 冷たい。


 ずしりと重い。


 窓辺に置くと、灰色の雨空を背に、赤だけが鮮やかに浮かんだ。


「……皮をむかないと食べられませんわ」


 エリーゼが言うと、レオンは少しだけ笑った。


「皮ごと食べるのも悪くないぞ」


「野蛮です」


「そうか?」


「そうです」


「じゃあ、君がむいてくれ」


「なぜ私が」


「俺がやると、たぶん芯まで削る」


「不器用にもほどがありますわ」


 言いながら、エリーゼは小さなナイフを取っていた。


 自分でも気づいた時には、もうリンゴの皮に刃を当てていた。


 するり。


 赤い皮が細く剥ける。


 指先に果汁が滲む。


 雨音が続いている。


 レオンは黙ってそれを見ていた。


 珍しく、何も言わなかった。


「……何ですの」


「いや」


 レオンは少しだけ目を細めた。


「君、そういうことをしている時の方が、研究してる時より楽しそうだなと思って」


 エリーゼの手が止まった。


 刃先が、リンゴの白い果肉に浅く刺さる。


「失礼ですわ」


「失礼だったら謝る」


「謝るくらいなら言わないでください」


「でも、本当のことだと思った」


 雨音が、部屋の静けさを満たす。


 エリーゼはリンゴを四つに切り、皿に並べた。


 赤い皮が少し残った果肉は、曇った日の光の中で淡く光っている。


 レオンが一切れ取る。


 しゃり、と噛む音がした。


「うまい」


「普通のリンゴです」


「普通にうまいって、結構すごいことだぞ」


 エリーゼは、返事に困った。


 普通。


 彼女にとって、遠い言葉だった。


 誰かと同じ机でリンゴを食べること。


 雨音を聞きながら、くだらない会話をすること。


 それは、彼女がずっと切り捨ててきた無駄な時間のはずだった。


 なのに、その時間は少しだけ温かかった。


「エリーゼ」


 レオンが、雨の音に紛れるように言った。


「明日、外に出ないか」


「また勧誘ですか」


「そうだな。でも、冒険じゃなくていい」


「では何です」


「中庭まで」


 エリーゼは、思わず彼を見た。


「中庭?」


「いきなり外の世界は遠いだろ。だから、まず中庭」


 レオンはリンゴをもう一口食べた。


「晴れたらでいい。嫌なら断ればいい。俺はたぶん、また誘うけど」


「本当にしつこいですわね」


「自覚はある」


「救いがありません」


「でも、君が嫌がったら無理には連れ出さない」


 その言葉だけは、静かだった。


 エリーゼは窓の外を見た。


 雨が降っている。


 花びらが濡れた芝生に貼りついている。


 中庭。


 いつも窓の上から見下ろしていた場所。


 学生たちの笑い声がある場所。


 自分とは関係ないと思っていた場所。


「……考えておきます」


 エリーゼは、それだけ言った。


 レオンは、満足そうに笑った。


 その笑顔が眩しくて、エリーゼは視線を逸らした。


     *


 翌日、空は嘘のように晴れた。


 雨に洗われた学院は、いつもより澄んで見えた。白い校舎の壁は朝の光を受けて輝き、中庭の芝生には水滴が残っている。風が吹くたび、葉先に溜まった雫が落ち、草の間で小さく光った。


 エリーゼは、特別研究棟の入口に立っていた。


 外へ出るだけ。


 たったそれだけのことだった。


 それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。


 廊下の冷たい空気と、外の春の空気が、入口のところで混ざっている。足元の石段には、昨日の雨の名残が薄く残り、靴先に冷たく光っていた。


「無理しなくていいぞ」


 隣でレオンが言った。


 エリーゼは、反射的に彼を睨む。


「誰が無理をしていると?」


「してないならいい」


「していません」


「じゃあ行こう」


 その言い方は、妙に自然だった。


 手を引くわけでもない。


 背中を押すわけでもない。


 ただ、隣を歩き出す。


 エリーゼは、少し遅れて一歩踏み出した。


 靴底が、外の石段を踏む。


 こつ。


 その音が、やけに大きく響いた。


 春の風が吹いた。


 金色の髪が揺れ、頬にかかる。花の香りがした。雨上がりの土の匂いも混じっている。遠くで鳥が鳴き、噴水の水音がさらさらと続いていた。


 中庭は、窓から見ていた時よりも広かった。


 芝生の緑は、目に痛いほど鮮やかだった。白い花びらがところどころに落ち、風に押されてゆっくり転がっている。学生たちがこちらを見た。視線が集まる。


 天才のエリーゼ。


 象牙の塔の人形。


 人と関わらない少女。


 そんな声にならない言葉が、視線の中に混じっている気がした。


 エリーゼの足が止まりかける。


 その時、レオンが前方へ向かって手を振った。


「おーい、ボルグ! セラ!」


 視線が少し逸れた。


 中庭の木陰から、ボルグとセラが顔を出す。


 ボルグは籠を抱えていた。中にはパンと果物が入っている。セラは敷物を広げようとして、風に煽られ、布ごとくるりと一回転しかけていた。


「きゃああ、布が、布が勝手に旅立とうとしていますぅ!」


「おいセラ、そっちじゃない! 噴水に落ちる!」


 ボルグが慌てて追いかける。


 敷物は風に乗り、ふわりと舞い上がった。


 そして、見事にレオンの顔へ張りついた。


 ばさっ。


 沈黙。


 中庭にいた学生たちが、一斉に固まった。


 レオンは顔に敷物を被ったまま、親指を立てた。


「……準備は万全だ」


「どこがですの」


 エリーゼは、思わず言っていた。


 その瞬間、ボルグが吹き出した。


 セラも笑った。


 レオンは敷物を顔から剥がしながら、声を上げて笑った。


 周囲の学生たちも、つられるように笑い出す。


 笑い声が、中庭に広がった。


 明るく、軽く、春風に乗って芝生の上を転がっていく。


 エリーゼは、笑わなかった。


 少なくとも、笑っていないつもりだった。


 けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいた。


 レオンがそれに気づいた。


 気づいたが、何も言わなかった。


 それがまた、彼らしかった。


     *


 その日から、エリーゼの世界は少しずつ外へ広がっていった。


 いきなり大きく変わったわけではない。


 最初は中庭。


 次に学院の食堂。


 それから、放課後の図書館。


 休日には、学院の外にある市場へ連れていかれた。


 市場は、エリーゼにとって混沌そのものだった。


 人の声が多すぎる。


 匂いが多すぎる。


 焼いた肉、果物、香辛料、濡れた木箱、馬の汗、焼きたてのパン。あらゆる匂いが風に混ざり、通りの上で渦を巻いている。足元の石畳は人の靴で磨かれ、露店の布が風に揺れ、売り子たちの声が左右から飛んでくる。


 エリーゼは、眉間に深い皺を寄せていた。


「うるさいですわ」


「活気があるんだよ」


 レオンが笑う。


「臭いですわ」


「それも活気だ」


「足元が汚いですわ」


「それはまあ、気をつけろ」


 ボルグが横で肩をすくめる。


「天才様には刺激が強すぎるんじゃねぇか?」


「誰が天才様ですか」


「学院中がそう呼んでる」


「不愉快ですわ」


「だろうな」


 ボルグはあっさり言った。


 その返しに、エリーゼは少しだけ言葉を失った。


 ボルグは皮肉屋だった。


 だが、彼の皮肉には、不思議と毒の芯が薄かった。相手を見下すためではなく、距離を測るための棘。触れすぎないための刃。エリーゼには、少しだけ分かる気がした。


 セラは、露店の前で目を輝かせている。


「見てください、蜂蜜漬けの木の実ですぅ!」


「セラ、それ昨日も食っただろ」


「昨日の私と今日の私は違いますぅ」


「胃袋は同じだろ」


「心が違いますぅ」


「意味分かんねぇ」


 二人のやり取りを聞きながら、レオンが市場の奥へ走っていった。


「少し待ってろ!」


「また何か買いに行きましたわよ」


「いつものことだ」


 ボルグは慣れた様子で言う。


 エリーゼは人混みの端に立ち、通りを眺めた。


 騒がしい。


 落ち着かない。


 非効率。


 無駄。


 そう思う。


 でも、窓の上から見下ろしていた世界とは違った。


 近くで聞く笑い声は、思っていたより刺さらなかった。


 誰かが転んでも、周囲は嘲笑うのではなく、手を貸していた。


 売り子の怒鳴り声も、よく聞けば客との軽口だった。


 世界は、彼女が思っていたより雑で、乱れていて、そして温かかった。


「おーい! 待たせたな!」


 人混みをかき分けて、レオンが戻ってきた。


 片手には串焼き。


 もう片手には、真っ赤なリンゴ。


 彼はリンゴを軽く放り投げた。


 エリーゼは反射的に受け取る。


 ずしりとした重み。


 艶やかな赤。


 雨の日に見たものと同じ色。


「ほら、エリーゼ。これやるよ」


「……なぜ私に?」


「お前、リンゴ好きだろ」


 レオンは当然のように言った。


 エリーゼは、リンゴを見下ろした。


「皮をむかないと食べられませんわ」


「皮ごと食べるのが一番うまいんだよ」


「野蛮です」


「じゃあ、あとでむいてくれ」


「自分でむきなさい」


「芯まで削るって言っただろ」


「不器用すぎますわ」


 文句を言いながらも、エリーゼはリンゴを大事に抱えていた。


 そのことに、レオンは気づいていたはずだ。


 だが、何も言わなかった。


 ただ、隣を歩いた。


 風が市場の旗を揺らす。


 赤、青、黄色の布が、夕方の光の中で波打つ。遠くの屋根の上には、傾き始めた太陽があった。石畳には人々の影が長く伸び、靴音が重なり合って、ひとつの大きな流れになっていた。


 エリーゼは、リンゴを抱えたまま歩いた。


 この赤を、いつか自分が忘れられない色になるなど、その時の彼女はまだ知らなかった。


     *


 季節が少し進んでも、彼らの日々は続いた。


 レオンは相変わらず、勇者になると言った。


 ボルグは相変わらず、それを鼻で笑った。


 セラは相変わらず、何かを食べるか、誰かの世話を焼いていた。


 そしてエリーゼは、相変わらず文句を言いながらも、気づけば彼らの隣にいた。


 ある夕方、四人は学院近くの小さなカフェテラスに座っていた。


 空は金色だった。


 沈みかけた太陽が街並みを照らし、窓ガラスを赤く染めている。テーブルの上のカップには橙色の光が映り、風が吹くたび、近くの街路樹の葉がさわさわと鳴った。


 ボルグは、なぜか市場で手に入れた大根を誇らしげに掲げていた。


「見ろ。値切った」


「なぜ大根を買ったのですか」


「安かった」


「理由になっていませんわ」


「なるだろ。安いは正義だ」


 セラはにこにことお茶を注いでいる。


「大根のお料理、楽しみですねぇ」


「カフェテラスで大根の話をする集団なんて、私たちくらいですわね」


 エリーゼが呆れると、レオンが串焼きを頬張りながら笑った。


「いいじゃねぇか。覚えやすくて」


「悪目立ちです」


「目立つなら、いつか勇者一行って呼ばれるかもな」


「その前に、大根一行と呼ばれると思いますわ」


 ボルグが嫌そうな顔をした。


「それは嫌だな」


「私も嫌ですぅ」


「なら、なぜ買ったのです」


 エリーゼが言うと、三人が同時に笑った。


 夕暮れの光の中で、その笑い声は不思議と柔らかかった。


 エリーゼはカップを持ったまま、黙ってその光景を見ていた。


 自分がこの場にいることが、まだ時々信じられなかった。


 以前なら、こんな無駄な時間を軽蔑していた。


 答えの出ない会話。


 意味のない笑い。


 大根。


 串焼き。


 紅茶。


 けれど今は、その無駄が、少しだけ心地よかった。


 レオンが、ふいに空を見上げた。


「なぁ」


「今度は何ですの」


「次の大きな依頼が終わったらさ、みんなで海を見に行かねぇか?」


 エリーゼの手が止まった。


「海?」


「おう。俺、まだ見たことねぇんだよ」


 レオンは、夕焼けの空の向こうを見ていた。


「すっげぇ広い水たまりなんだろ?」


「その認識はひどすぎますわ」


「本にはそう書いてあったぞ。水がたくさんあるって」


「それは間違ってはいませんが、表現が壊滅的です」


 セラが目を輝かせる。


「いいですねぇ。海。私、貝殻を拾いたいですぅ」


 ボルグは腕を組んだ。


「海産物は売れるな」


「あなたはすぐ値段をつけますわね」


「値段がつくものは大事だ」


 レオンは笑った。


「エリーゼは?」


「私は……」


 言いかけて、エリーゼは言葉を止めた。


 海。


 書物では知っている。


 青く、広く、果てがなく、空を映す水の世界。


 風が強く、波が寄せ、光が砕ける場所。


 見たことはない。


 想像したことも、あまりなかった。


 けれど、今。


 四人でその場所に立つ自分を、ほんの一瞬だけ想像してしまった。


 レオンが騒ぎ、ボルグが魚の値段を考え、セラが貝殻を拾い、自分が呆れながらも隣にいる。


 その想像は、胸が痛くなるほど眩しかった。


「……悪くは、ないかもしれませんわね」


 エリーゼは、そう答えた。


 レオンの顔が明るくなる。


「決まりだな!」


「まだ決まりとは言っていません」


「今のはほぼ決まりだ」


「あなたの耳は都合よくできていますわね」


「昔からだ」


 レオンは笑った。


 その笑顔を見て、エリーゼは少しだけ目を細めた。


 夕方の風が吹く。


 街路樹の葉が揺れ、テーブルの上のリンゴがころりと小さく動いた。赤い皮に、沈みかけた太陽の光が映っている。


 その赤は、温かかった。


 その時のエリーゼはまだ知らない。


 その約束が、果たされないまま胸に残ることを。


 海を見るという、ありふれた願いが、いつか彼女にとって最も遠い場所になることを。


 そして。


 この何でもない夕暮れの笑い声こそが、失われた後に、何度も何度も夢に見る宝物になることを。


     *


 夜。


 特別研究棟の最上階に戻ったエリーゼは、机の前に座っていた。


 部屋は静かだった。


 窓の外では夜風が吹き、木々の葉が乾いた音を立てている。遠くの学生寮から、誰かの笑い声が微かに聞こえた。昔なら耳障りだと思った声が、今は少しだけ遠い灯りのように感じられた。


 机の上には、今日も羊皮紙がある。


 魔術の式。


 書きかけの計算。


 読みかけの本。


 だが、その横に、真っ赤なリンゴが置かれていた。


 レオンにもらったリンゴ。


 皮をむかずに、そのまま置いている。


 部屋の中で、その赤だけが妙に生きて見えた。


 エリーゼは、羽根ペンを置いた。


 窓の外を見る。


 硝子に、自分の顔が映っていた。


 相変わらず白い顔。


 相変わらず冷たい目。


 けれど、少しだけ違って見えた。


 何が違うのか、自分でも分からない。


 ただ、以前よりも、自分が人間に近く見えた。


「……不思議ね」


 小さく呟く。


 静けさは、まだ好きだった。


 一人でいる時間も、嫌いではない。


 けれど今は、扉の外に足音があることを知っている。


 誰かが明日も来るかもしれないことを、少しだけ待っている。


 その事実が、怖かった。


 同時に、温かかった。


 エリーゼは左手を伸ばし、リンゴに触れた。


 冷たい皮。


 なめらかな丸み。


 指先に伝わる、確かな重み。


「海、ね」


 呟いた声は、夜の部屋に溶けた。


 まだ遠い約束。


 まだ名前のない未来。


 けれど、その未来を想像するだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。


 エリーゼは、自分が少しだけ笑っていることに気づかなかった。


 窓の外で、夜風が吹いた。


 薄い雲が月の前を流れ、部屋の中に差し込む光が揺れる。机の上のリンゴの影が、羊皮紙の上に丸く落ちた。


 その影は、まるで閉じていた扉の隙間から差し込んだ、小さな赤い光のようだった。


 エリーゼの世界は、まだ狭かった。


 けれど、もう完全な塔ではなかった。


 静けさの中に、誰かの足音を待つ余白が生まれていた。


 そして彼女は、まだ知らない。


 その余白に入り込んできた温もりが、いつか彼女を救い、同時に、深く傷つけることになるのだと。


 夜は静かに更けていく。


 机の上のリンゴだけが、月明かりの中で赤く光っていた。


 まるで、これから始まる幸福と喪失のすべてを、黙って覚えているかのように。

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