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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第30話:晴れた空と、上品なお茶会 〜世界の色は、あなたの心が決めている〜

白い谷の底で、赤い花が脈打っていた。


 ミラージュ・ラフレシア。


 巨大な花弁は、濡れた肉のような赤紫に染まり、開閉するたびに、甘く腐った匂いを霧の中へ吐き出している。湿った空気は重く、肺に入るたび、胸の奥へ冷たい泥を塗り込められるようだった。


 霧はもう、谷を覆うだけではない。


 四人の足元を這い、膝に絡み、肩へ届き、心の奥に残った傷へ指を伸ばしてくる。


 ゼイクは剣を構えていた。


 メイは震える手を胸の前に置き、白いアイガードの奥から霧を見ていた。


 そして、エリーゼは動けなかった。


 彼女の目の前に、赤い髪の泥人形が立っている。


 顔は崩れていた。泥と霧で作られた偽物だと、頭では分かっている。目も、口元も、本物とは違う。そこに生きた温度などない。


 それなのに。


 その立ち方だけが、覚えているものと似ていた。


 剣を下ろした時の肩の角度。

 少し前のめりになる癖。

 指先に宿った、淡い青い光。


 青いガラスの指輪。


 あの日、エリーゼの指にあったはずの、小さな約束の色。


「……レオン」


 名前が、喉からこぼれた。


 その瞬間、ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。


 待っていたのだ。


 エリーゼの心が、最も深く沈む瞬間を。


 花の奥にある黒い核が、どくん、と脈打つ。谷底の霧が一斉に黒く濁り、無数の触手となって四方から伸びた。濡れた鞭のようにしなる触手が、ゼイクへ、メイへ、そしてエリーゼへ殺到する。


 ゼイクが剣を構え直した。


 メイが紫の光を集めた。


 しかし、その全てより先に。


 瞬が、エリーゼの前へ出た。


 足音は一つだった。


 ぐしゃり、と湿った土を踏む音。


 それだけで、エリーゼを包んでいた霧がわずかに揺れた。


 瞬は、迫る泥人形にも、触手にも、巨大な花にも、構えを取らなかった。ただ、エリーゼの前に立ち、低く息を吐いた。


「……目障りだな」


 声は、静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 けれど、その声が谷底へ落ちた瞬間、霧のざわめきが止まった。


 瞬は右手を持ち上げた。


 親指と中指を重ねる。


 たったそれだけの動き。


 だが、谷の空気が変わった。


 霧が、怯えたように揺れる。

 花弁の奥の核が、また一度、強く脈打つ。

 泥人形たちの口が開き、声にならない声を吐き出そうとした。


 その前に。


 瞬は、指を鳴らした。


 ぱちん。


 小さな音だった。


 拍子抜けするほど、軽い音。


 石を砕く音でも、雷のような轟音でもない。日常の中で、誰かが気まぐれに鳴らすような、乾いた音。


 だが、その音は霧の底まで届いた。


 瞬を中心に、透明な波紋が広がる。


 最初に消えたのは、匂いだった。


 甘く腐った花の臭気が、薄紙を剥がすように消えていく。次に、肌にまとわりついていた湿気がほどけた。冷たい泥を塗られていたような感覚が引き、肺の中に、ようやく本物の空気が入ってくる。


 波紋は、泥人形たちへ触れた。


 赤い髪の青年。

 大柄な戦士。

 杖を持つ女。

 身軽な影。


 彼らは悲鳴を上げなかった。


 怒りも、罵声も、最後の抵抗もなかった。


 ただ、薄い硝子細工が朝の光に触れて崩れるように、静かに割れていった。


 かしゃん。


 小さな音がした。


 泥でできた顔が崩れ、歪んだ口が消え、剣も杖も、指先の青い光も、すべて細かな光の粒になって霧の中へ散っていく。


 エリーゼは、ただ見ていた。


 目を逸らせなかった。


 あれは偽物だ。


 分かっている。


 けれど、偽物が消える瞬間でさえ、胸は裂けるように痛んだ。


「……あ……」


 声にならない息が漏れた。


 消えかけた赤い髪の泥人形の手元に、青い光だけが一瞬残った。


 指輪の形をした、小さな光。


 それはエリーゼの方へふわりと流れ、彼女の左手の薬指に触れる寸前で、静かにほどけた。


 何も残らない。


 冷たい指だけが、そこにあった。


 エリーゼの目に、涙が浮かんだ。


 だが、泣く間もなく、霧の奥で巨大な花が震えた。


 ミラージュ・ラフレシアは、自らの武器を剥がされ、むき出しになっていた。


 白い霧が消え、谷底の本来の姿が見えてくる。苔に覆われた岩肌。細い水の流れ。湿った土。光の届かない底で、長く息を潜めていた暗い地面。


 その中央に、醜い花が立っていた。


 もう幻はない。


 あるのは、赤紫の花弁と、黒く脈打つ核だけ。


 花は恐怖しているように見えた。


 肉厚の花弁が震え、最後の触手が瞬へ向かって伸びる。だが、その触手は、彼の周囲に届く前に薄い霧となって消えた。


 瞬は歩いた。


 一歩。


 湿った土が沈む。


 もう一歩。


 足元の水たまりが、小さく波紋を広げる。


 彼の背中には、怒りがあった。


 けれど、それは暴れる怒りではない。


 大切な記憶を、勝手に汚されたことへの静かな怒りだった。


 人の痛みを食い物にしたものへ向ける、低く燃えるような怒り。


 瞬は、花の核の前で足を止めた。


 黒い核は、どくん、どくんと脈打っていた。表面には、苦しむ顔のような凹凸が浮かび、また沈んでいる。いくつもの悪夢を吸い込み、いくつもの後悔を餌にして育った、醜い心臓。


 瞬はそれを見下ろした。


 嫌悪ではなく、どこか憐れむような目だった。


「朝だぞ」


 静かな声だった。


「悪夢の時間は、もう終わりだ」


 彼は、核へ手を伸ばした。


 殴らなかった。


 握り潰さなかった。


 ただ、掌をそっと置いた。


 その瞬間、黒い核の表面に、細いひびが走った。


 ひびの隙間から、白い光が漏れる。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく震えた。谷底の空気が一度だけ揺れ、湿った苔の葉先についた水滴が、ぱらぱらと落ちる。


 光が広がった。


 静かな光だった。


 爆発ではない。


 押し潰す力でもない。


 夜明けが闇を薄めるように、黒い核の内側から光が満ちていく。赤紫の花弁が色を失い、触手がほどけ、根が土から離れた。


 花は、音もなく崩れ始めた。


 大きな花弁が光の粒へ変わる。

 黒い核が砕ける。

 谷底に積もっていた悪夢の霧が、風に吹かれる埃のように空へ上がっていく。


 やがて、最後に小さな音がした。


 かしゃん。


 硝子が割れるような、澄んだ音。


 その音を最後に、ミラージュ・ラフレシアは消えた。


 谷に、静寂が戻った。


 だが、それは先ほどまでの、息を奪うような静けさではない。


 水の流れる音が聞こえた。


 細い谷川が、岩の隙間を滑る音。


 風が吹いた。


 濡れた草が、さわ、と揺れた。


 遠くで鳥が鳴いた。


 空が、見えた。


 谷を覆っていた霧が晴れ、雲の切れ間から淡い光が差し込んでくる。光は斜めに谷底へ落ち、濡れた岩肌を照らした。苔の上の水滴が、小さな星のようにきらめいた。


 それで終わりだと、誰もが思った。


 けれど、魔物が消えた場所に、まだ光が残っていた。


 細かな粒子が、空中で集まっていく。


 それは煙ではなかった。

 霧でもなかった。


 薄い幕のような光が、谷底に浮かび上がる。


 エリーゼは息を呑んだ。


 そこに映っていたのは、炎だった。


 あの日の炎。


 彼女が十年近く、悪夢の中で見続けてきた景色。


 だが、今度は違った。


 赤い炎の向こうから、音が聞こえた。


 霧に歪められた罵声ではない。


 自分の恐怖が作り上げた声でもない。


 あの日、本当にそこにあった声だった。


『エリーゼは!?』


 血まみれの男の声がした。


 エリーゼの肩が跳ねた。


『外へ押し出した! 結界は張った! でも長くは持たない!』


 別の声が応える。


 光の幕の中で、かつての仲間たちが立っていた。


 炎の中で、泥にまみれ、傷だらけになりながら、それでも背を向けずに立っていた。


 背を向けていたのではない。


 逃げていたのではない。


 エリーゼを遠ざけるために、彼らは彼女と魔物の間に立っていた。


『あの子、絶対戻ってくるわ』


 女の声が震えていた。


『優しい子だから。馬鹿みたいに、助けに戻ってくる』


『だから、ひどいこと言うしかなかったんだろ』


 別の男が、苦しそうに笑った。


『役立たずでも、邪魔でもねぇ。あいつは俺たちの希望だ』


 エリーゼの唇が震えた。


 足元が揺れたわけではない。


 けれど、立っていられなかった。


『才能があるんだ。あいつなら、俺たちが届かなかったところまで行ける』


『生きてくれれば、それでいい』


 炎の中で、赤い髪の青年が振り返った。


 顔ははっきり見えない。


 けれど、その声だけは、はっきりと届いた。


『生きろよ、エリーゼ』


 短い言葉だった。


 それだけだった。


 だが、その一言が、エリーゼの中で凍りついていた十年分の時間を砕いた。


 膝から力が抜けた。


 彼女は、湿った地面へ崩れ落ちた。


 手をつく。


 泥が指の間に入り込む。


 冷たい。


 それなのに、胸の奥だけが焼けるように熱かった。


「あ……」


 声が出なかった。


 喉が震える。


 息が詰まる。


 涙が落ちた。


 一粒。


 また一粒。


 止まらない。


「私……」


 エリーゼは泥の上で、震える指を握りしめた。


「私、ずっと……」


 恨んでいた。


 裏切られたと思っていた。


 捨てられたのだと信じていた。


 その痛みに耐えるために、彼らの笑顔まで、思い出の中で汚してしまった。


 でも違った。


 彼らは、最後まで守ろうとしてくれていた。


 ひどい言葉さえ、彼女を死地へ戻らせないための、最も残酷で、最も優しい嘘だった。


「ごめん……なさい……」


 声が崩れた。


「ごめんなさい……私……ずっと……」


 誰に向けた謝罪なのか、本人にも分からなかった。


 レオンに。

 仲間たちに。

 彼らの想いを誤解していた自分に。

 生き残ったことを罰のように抱え続けた時間に。


 ただ、謝らずにはいられなかった。


 瞬は何も言わず、自分の上着を脱いだ。


 湿った谷の風が、彼の肩を撫でる。


 その上着を、エリーゼの肩へそっとかけた。


 エリーゼの肩は、細かく震えていた。


 いつもの優雅な魔女の姿は、そこにはなかった。

 皮肉も、余裕も、契約相手としての距離も、すべて剥がれ落ちていた。


 残っていたのは、長い間、誤解した痛みを抱え続けてきた一人の女性だった。


 瞬は、彼女の隣にしゃがみ込んだ。


「……知れてよかったな」


 不器用な言葉だった。


 慰めとして正しいのかどうか、瞬には分からない。


 けれど、嘘ではなかった。


「あいつら、すげえいい奴らだったんだな」


 エリーゼの肩が震える。


 瞬は、谷の光が消えていく場所を見つめた。


「お前、ちゃんと愛されてたんだな」


 その言葉で、エリーゼは顔を覆った。


 声を殺せなかった。


 嗚咽が、谷底にこぼれた。


 それは、絶望の涙ではなかった。


 けれど、簡単に救われる涙でもなかった。


 守られていたことを知るのは、温かい。


 でも、もう二度と彼らに礼を言えないことを知るのは、残酷だった。


 だから、エリーゼは泣いた。


 泥に膝をつき、瞬の上着を肩にかけたまま、子供のように泣いた。


 メイは、少し離れた場所で口元を両手で覆っていた。


 白いアイガードの奥から、涙が落ちる。


 彼女はきっと、エリーゼのすべてを理解したわけではない。


 けれど、誤解されたまま傷つき続ける痛みは知っていた。

 誰かに見捨てられたと思い込む寒さも、少しだけ知っていた。


 ゼイクは兜を脱ぎ、静かに目を伏せた。


 風が、彼の濡れた髪を揺らす。


 彼の胸にも、リリアの記憶が残っている。


 誰かを救えなかった痛み。


 その痛みは、消えることはない。


 けれど、今日、彼らは知った。


 霧が見せる声だけが、真実ではない。


 自分を責める心が作った言葉だけが、過去ではない。


 谷の上から、光が差し込む。


 雲が切れ、夕方の空が顔を出していた。


 白く濁っていた世界に、少しずつ色が戻っていく。


 濡れた苔の緑。


 岩肌の灰色。


 草の葉先で震える透明な水滴。


 そして、エリーゼの肩にかかった瞬の上着の、少しくたびれた布の色。


 世界は、変わっていなかったのかもしれない。


 変わったのは、見ている心の方だった。


 長い悪夢が、ようやく終わりを告げていた。


  *


 谷を出る頃には、空は高く晴れていた。


 さっきまで世界を覆っていた白い霧が嘘だったように、幻霧の谷の上には薄い青空が広がっている。夕方の光は柔らかく、雲の縁を淡い金色に染めていた。谷の斜面に生えた草は、まだ霧の名残を抱いて濡れている。風が吹くたび、葉先についた水滴が震え、光を受けて細かくきらめいた。


 足音が、戻っていた。


 湿った土を踏む、ぐちゅ、という音。

 石を踏む、こつ、という硬い音。

 草をかき分ける、さわ、という軽い音。


 霧の中では、すべての音が心の奥へ沈んでいた。けれど今は違う。世界は、ちゃんと外にあった。


 エリーゼは、瞬の上着を肩にかけたまま歩いていた。


 群青色のローブは泥で汚れ、金色の髪も少し乱れている。いつもの優雅な魔女とは違う。だが、彼女はもう、それを直そうとはしなかった。


 左手の薬指を、時折そっと撫でる。


 そこには何もない。


 青いガラスの指輪は、もうない。


 けれど、指先がそこを探すたび、今度は胸の奥に別の痛みが灯った。


 捨てられた痛みではない。


 守られていたと知ってしまった痛み。


 その痛みは、鋭くて、温かくて、どうしようもなく苦しかった。


「歩けるか?」


 瞬が隣から聞いた。


 声はいつもより少しだけ静かだった。


 エリーゼは顔を上げずに答える。


「歩けるわ」


「無理してない?」


「しているわ」


 その返事に、瞬は少しだけ目を瞬かせた。


 エリーゼは、かすかに笑った。


 疲れきった笑みだった。


「でも、歩ける」


「そっか」


 瞬は、それ以上聞かなかった。


 ゼイクは少し後ろを歩いている。彼の鎧にも泥がついていた。以前の彼なら、耐え難い汚れだっただろう。けれど今、彼はそれを気にしていない。


 むしろ、兜を片手に持ったまま、静かに前を見ていた。


 泥の幻は消えた。


 リリアの声も、もう聞こえない。


 それでも、あの声が残した痛みは消えていなかった。


 ただ、ひとつだけ違う。


 ゼイクはもう、その痛みを完璧さだけで押し潰そうとは思わなかった。


 メイは瞬の反対側を歩いていた。


 白いアイガードの端を指で押さえながら、ときどきエリーゼを見る。何か言いたそうにして、けれど言葉を選べず、また前を向く。


 何度目かに視線が合った時、エリーゼが先に口を開いた。


「……泣き顔を見られたわね」


 メイは慌てて首を振った。


「そ、それは……私も、いっぱい泣いたので」


「そう」


 エリーゼは少しだけ目を伏せた。


「じゃあ、おあいこね」


「……はい」


 短いやり取りだった。


 けれど、その間にあった距離は、谷へ入る前より少しだけ近くなっていた。


 王都へ戻る道には、夕暮れの風が吹いていた。


 草原が、ゆっくり波打つ。

 遠くの城壁が、赤い光を受けて淡く輝いている。

 馬車の通った轍には水が溜まり、空の色を映していた。


 誰も多くは話さなかった。


 語るには、まだ痛みが新しすぎた。


 けれど沈黙は、もう冷たくなかった。


     *


 魔女の隠れ家に戻った頃、王都の西側は夕暮れに沈み始めていた。


 細い路地には、橙色の光が斜めに差し込んでいる。石畳の濡れた部分が、まだところどころ光っていた。軒先に吊るされた薬草の束は風に揺れ、かさ、かさ、と乾いた音を立てる。遠くの大通りからは、市場を片づける人々の声と、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。


 エリーゼは扉の前で一度、足を止めた。


 昨日まで、この扉は世界を拒むためのものだった。


 誰も入れないための扉。

 誰にも見られないための扉。

 過去の声が入り込まないように、何重にも閉じた扉。


 けれど今、その扉の前には自分以外の足音が三つある。


 瞬。

 メイ。

 ゼイク。


 仲間ではない。


 まだ、そう言いたかった。


 契約相手。


 同行者。


 研究対象。


 そう言葉を並べれば、心を守れる気がした。


 だが、谷で肩にかけられた上着の重みは、まだ残っている。


 エリーゼは、小さく息を吐いた。


「……入って」


 その一言に、瞬が少しだけ目を輝かせた。


「いいの?」


「ここまで来て、扉の前でお茶を飲ませる趣味はないわ」


「それはちょっと見てみたいけど」


「やらないわよ」


 エリーゼは扉を開けた。


 きい、と古い蝶番が鳴る。


 中から、薬草と古い紙の匂いが流れてきた。暖炉の灰の匂い、瓶詰めの甘い薬液の香り、乾かした花のわずかな苦味。その匂いは、谷の腐った花の匂いとはまるで違った。


 静かな、暮らしの匂いだった。


 室内に入ると、エリーゼはまず暖炉に火を入れた。


 薪が赤く灯り、ぱち、と小さく爆ぜる。薄暗かった部屋の壁に、橙色の光が揺れた。本棚の背表紙、ガラス瓶、乾燥薬草、丸いテーブル。すべてが暖炉の光を受けて、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。


「座って」


 エリーゼが言った。


 瞬は前回の椅子を見て、少しだけ警戒した。


「……この椅子、俺が座って大丈夫なやつ?」


「今日はあなた用に変えたわ」


 エリーゼが指差した先には、明らかに頑丈そうな椅子があった。


 太い木材で作られ、脚も背も分厚い。椅子というより、小さな砦のようだった。


 瞬は目を丸くする。


「用意してくれたの?」


「前回、百年物の椅子が悲鳴を上げたからよ」


「椅子への気遣いだった」


「あなたへの気遣いでもあるわ。床に転がられると邪魔だから」


「優しさが遠回りすぎる」


 メイが小さく笑った。


 ゼイクも、ほんのわずかに口元を緩める。


 エリーゼは棚から茶葉の缶を取り出した。


 手つきはまだ少し震えていた。だが、湯を沸かし、茶葉を量り、ポットへ注ぐ動きは丁寧だった。熱湯が茶葉に触れた瞬間、ふわりと香りが立つ。


 花の香り。


 少しだけ果実に似た甘さ。


 それから、雨上がりの庭のような青い匂い。


 瞬が鼻をひくつかせた。


「いい匂いだな」


「高い茶葉よ」


「やっぱり」


「今日は、少し良いものを淹れる日だと思ったの」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになった。


 笑いが消えたわけではない。


 ただ、誰も軽く茶化さなかった。


 エリーゼは四つのカップに紅茶を注いだ。


 琥珀色の液体が、白い陶器の中で揺れる。暖炉の火が映り、表面に小さな赤い光が浮かんだ。


 その横に、エリーゼは皿を置いた。


 薄く切ったリンゴが並んでいた。


 真っ赤な皮を少し残し、淡い黄色の果肉が月の欠片のように皿の上で光っている。


 瞬は皿を見た。


 メイも見た。


 ゼイクも、何も言わずに見た。


 エリーゼは、リンゴを一切れ摘まんだ。


 少しの間、それを見つめる。


「……昔、よく食べたの」


 声は静かだった。


「雨の日に。焚き火のそばで。安いリンゴを、まるで宝物みたいに分け合って」


 瞬は何も言わなかった。


 メイも、ゼイクも。


 エリーゼはリンゴを口に運んだ。


 しゃり、と小さな音がした。


 その音が、部屋の中に澄んで響く。


 エリーゼはゆっくり噛んだ。


 甘さと、わずかな酸味。


 古い記憶に繋がる味。


 以前なら、その味は痛みだけを連れてきただろう。

 けれど今は、違った。


 痛い。


 それは変わらない。


 だが、その痛みの中に、温かさも混じっていた。


「おいしいわ」


 エリーゼは呟いた。


 その声は、少しだけ震えていた。


 瞬は、それを聞いてからリンゴを一切れ取った。


「うまい」


 相変わらず簡単な感想だった。


 けれど、その簡単さに救われることもある。


 メイも恐る恐る一切れ食べた。


「……甘いです」


「そうね」


 エリーゼは、メイを見た。


 白いアイガードの奥にあるものへ、無理に触れようとはしなかった。ただ、その前にいる一人の少女を見た。


「あなたには、今度、別の薬を作るわ」


「え?」


「恐怖で体が固まる時用のもの。今の琥珀色のポーションより、もう少し効き方を柔らかくする。眠くなりすぎないようにして、でも呼吸は楽になるように」


 メイは目を見開いた。


「私のために……?」


「契約相手の同行者が倒れると困るもの」


 エリーゼは、わざと淡々と言った。


 メイは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。


「ありがとうございます」


 エリーゼは視線を逸らした。


「礼を言われるほどのことじゃないわ」


 瞬がにやにやと見ている。


「なによ」


「いや、優しいなって」


「契約管理よ」


「はいはい」


「本当よ」


「分かってる分かってる」


「絶対分かってない顔をしているわ」


 エリーゼの声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。


 その調子が戻ったことに、瞬は少し安心した。


 ゼイクは紅茶を一口飲み、静かにカップを置いた。


「エリーゼ」


「何かしら」


「今日の指揮は見事だった」


 エリーゼの指が止まる。


 ゼイクは続けた。


「霧に飲まれながらも、最後には戦況を見た。私は後衛の指揮を軽んじていたつもりはないが、今日ほどその価値を感じたことはない」


 エリーゼは黙っていた。


 褒められている。


 その事実を、どう受け取ればいいのか分からないようだった。


「……そう」


 ようやく出た返事は短かった。


 だが、その声は冷たくなかった。


 ゼイクはそれ以上、言葉を重ねなかった。


 紅茶の香りが、静かに部屋を満たしていく。


 外では、夕暮れの風が蔦の葉を揺らしていた。窓の隙間から入る光は弱くなり、暖炉の赤が部屋の主役になっていく。古い本棚の影が床に伸び、テーブルの上のリンゴが、炎の光を受けて艶やかに輝いていた。


 しばらくして、エリーゼが口を開いた。


「私は、まだあなたたちの仲間ではないわ」


 瞬は頷いた。


「うん」


「契約相手よ」


「うん」


「でも……」


 エリーゼは、カップの中の紅茶を見つめた。


 琥珀色の水面に、自分の揺れる顔が映っている。


「契約内容を、少し変えてもいい」


 瞬が顔を上げた。


「どう変える?」


「依頼に同行する頻度を、少し増やす」


「おお」


「それから、ポーションの供給も、必要最低限なら協力するわ」


 瞬の目が輝いた。


「飲み放題?」


「違う」


 即答だった。


「そこは変わらないのか」


「変わらないわ。あなた一人で在庫を空にしそうだから」


「俺、そんなに飲まないって」


「信用できない」


 メイが笑った。


 ゼイクもため息をつく。


「瞬の場合、怪我をしていなくても味見と称して飲みかねない」


「石頭、俺を何だと思ってる」


「食欲と好奇心で動く災害」


「ひどい」


 そのやり取りに、エリーゼが小さく笑った。


 ほんの小さな笑みだった。


 しかし今度は、すぐに消えなかった。


 暖炉の光に照らされて、その笑みは柔らかく見えた。


「それから」


 エリーゼは、少しだけ迷った。


 言葉を選ぶように、長い沈黙を置いた。


 その沈黙は、重かった。


 けれど、逃げるための沈黙ではなかった。


「いつか、話すわ」


 彼女は言った。


「私が、どうして閉じこもるようになったのか。レオンたちと、何があったのか」


 瞬は頷いた。


「無理に今じゃなくていい」


「ええ。今は、まだ無理」


 エリーゼは正直に言った。


「でも、話さないままだと……また霧に奪われる気がする」


 その声は、怖さを含んでいた。


 けれど、前を向く怖さだった。


 メイがそっと言った。


「聞きます。エリーゼさんが、話せる時に」


 ゼイクも静かに頷く。


「私も聞こう」


 瞬はリンゴをもう一切れ食べてから、軽く笑った。


「じゃあ、その時は紅茶とリンゴ付きで頼む」


 エリーゼは呆れた顔をした。


「あなた、本当に締まらないわね」


「重くなりすぎると歩きにくいからな」


「……そうね」


 エリーゼは、窓の外を見た。


 夕暮れの空が、少しずつ藍色に沈んでいく。細い路地の向こうで、王都の灯りが一つ、また一つと点き始めていた。


 世界は、同じだった。


 裏通りも、古い石畳も、閉ざされた窓も、魔女の隠れ家も。


 けれど、見える色が少しだけ違っていた。


 十年近く、冷たい灰色に見えていた世界の端に、ほんのわずかな赤が戻っている。


 リンゴの赤。


 暖炉の赤。


 誰かが残してくれた、消えない約束の色。


 エリーゼは、自分の左手の薬指をそっと撫でた。


 そこには何もない。


 でも、完全に空っぽではなかった。


「……生きてみるわ」


 彼女は、誰に言うでもなく呟いた。


 瞬たちは黙っていた。


 その言葉を邪魔しなかった。


「まだ、上手くはできないけれど」


 エリーゼは小さく息を吐いた。


「少しだけ、外を見てみる」


 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


 その音は、閉ざされていた部屋に、新しい時間が始まる合図のように響いた。


 瞬はカップを持ち上げた。


「じゃあ、契約更新記念ってことで」


「勝手に記念日にしないで」


「いいじゃん。今日は晴れたし」


「谷だけね。王都は夕方よ」


「細かいことは気にしない」


「あなたは少し気にしなさい」


 そう言いながら、エリーゼもカップを持ち上げた。


 メイも、ゼイクも、それに続く。


 四つのカップが、静かに持ち上がる。


 ぶつける音はなかった。


 ただ、同じテーブルを囲んで、同じ紅茶の香りを吸っていた。


 それだけで十分だった。


 仲間という言葉には、まだ届かない。


 でも、完全な他人でもない。


 その中間にある、不器用で、曖昧で、けれど確かな場所。


 エリーゼは、そこに少しだけ座ってみることにした。


 外では夜風が吹いている。


 蔦の葉が窓を撫で、薬草の束がかさりと鳴った。


 閉ざされた魔女の隠れ家に、久しぶりに四人分の話し声があった。


 そして、テーブルの中央には、真っ赤なリンゴが静かに置かれていた。


 失われた過去へ続く、小さな赤い扉のように。

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