第30話:晴れた空と、上品なお茶会 〜世界の色は、あなたの心が決めている〜
白い谷の底で、赤い花が脈打っていた。
ミラージュ・ラフレシア。
巨大な花弁は、濡れた肉のような赤紫に染まり、開閉するたびに、甘く腐った匂いを霧の中へ吐き出している。湿った空気は重く、肺に入るたび、胸の奥へ冷たい泥を塗り込められるようだった。
霧はもう、谷を覆うだけではない。
四人の足元を這い、膝に絡み、肩へ届き、心の奥に残った傷へ指を伸ばしてくる。
ゼイクは剣を構えていた。
メイは震える手を胸の前に置き、白いアイガードの奥から霧を見ていた。
そして、エリーゼは動けなかった。
彼女の目の前に、赤い髪の泥人形が立っている。
顔は崩れていた。泥と霧で作られた偽物だと、頭では分かっている。目も、口元も、本物とは違う。そこに生きた温度などない。
それなのに。
その立ち方だけが、覚えているものと似ていた。
剣を下ろした時の肩の角度。
少し前のめりになる癖。
指先に宿った、淡い青い光。
青いガラスの指輪。
あの日、エリーゼの指にあったはずの、小さな約束の色。
「……レオン」
名前が、喉からこぼれた。
その瞬間、ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。
待っていたのだ。
エリーゼの心が、最も深く沈む瞬間を。
花の奥にある黒い核が、どくん、と脈打つ。谷底の霧が一斉に黒く濁り、無数の触手となって四方から伸びた。濡れた鞭のようにしなる触手が、ゼイクへ、メイへ、そしてエリーゼへ殺到する。
ゼイクが剣を構え直した。
メイが紫の光を集めた。
しかし、その全てより先に。
瞬が、エリーゼの前へ出た。
足音は一つだった。
ぐしゃり、と湿った土を踏む音。
それだけで、エリーゼを包んでいた霧がわずかに揺れた。
瞬は、迫る泥人形にも、触手にも、巨大な花にも、構えを取らなかった。ただ、エリーゼの前に立ち、低く息を吐いた。
「……目障りだな」
声は、静かだった。
怒鳴ってはいない。
けれど、その声が谷底へ落ちた瞬間、霧のざわめきが止まった。
瞬は右手を持ち上げた。
親指と中指を重ねる。
たったそれだけの動き。
だが、谷の空気が変わった。
霧が、怯えたように揺れる。
花弁の奥の核が、また一度、強く脈打つ。
泥人形たちの口が開き、声にならない声を吐き出そうとした。
その前に。
瞬は、指を鳴らした。
ぱちん。
小さな音だった。
拍子抜けするほど、軽い音。
石を砕く音でも、雷のような轟音でもない。日常の中で、誰かが気まぐれに鳴らすような、乾いた音。
だが、その音は霧の底まで届いた。
瞬を中心に、透明な波紋が広がる。
最初に消えたのは、匂いだった。
甘く腐った花の臭気が、薄紙を剥がすように消えていく。次に、肌にまとわりついていた湿気がほどけた。冷たい泥を塗られていたような感覚が引き、肺の中に、ようやく本物の空気が入ってくる。
波紋は、泥人形たちへ触れた。
赤い髪の青年。
大柄な戦士。
杖を持つ女。
身軽な影。
彼らは悲鳴を上げなかった。
怒りも、罵声も、最後の抵抗もなかった。
ただ、薄い硝子細工が朝の光に触れて崩れるように、静かに割れていった。
かしゃん。
小さな音がした。
泥でできた顔が崩れ、歪んだ口が消え、剣も杖も、指先の青い光も、すべて細かな光の粒になって霧の中へ散っていく。
エリーゼは、ただ見ていた。
目を逸らせなかった。
あれは偽物だ。
分かっている。
けれど、偽物が消える瞬間でさえ、胸は裂けるように痛んだ。
「……あ……」
声にならない息が漏れた。
消えかけた赤い髪の泥人形の手元に、青い光だけが一瞬残った。
指輪の形をした、小さな光。
それはエリーゼの方へふわりと流れ、彼女の左手の薬指に触れる寸前で、静かにほどけた。
何も残らない。
冷たい指だけが、そこにあった。
エリーゼの目に、涙が浮かんだ。
だが、泣く間もなく、霧の奥で巨大な花が震えた。
ミラージュ・ラフレシアは、自らの武器を剥がされ、むき出しになっていた。
白い霧が消え、谷底の本来の姿が見えてくる。苔に覆われた岩肌。細い水の流れ。湿った土。光の届かない底で、長く息を潜めていた暗い地面。
その中央に、醜い花が立っていた。
もう幻はない。
あるのは、赤紫の花弁と、黒く脈打つ核だけ。
花は恐怖しているように見えた。
肉厚の花弁が震え、最後の触手が瞬へ向かって伸びる。だが、その触手は、彼の周囲に届く前に薄い霧となって消えた。
瞬は歩いた。
一歩。
湿った土が沈む。
もう一歩。
足元の水たまりが、小さく波紋を広げる。
彼の背中には、怒りがあった。
けれど、それは暴れる怒りではない。
大切な記憶を、勝手に汚されたことへの静かな怒りだった。
人の痛みを食い物にしたものへ向ける、低く燃えるような怒り。
瞬は、花の核の前で足を止めた。
黒い核は、どくん、どくんと脈打っていた。表面には、苦しむ顔のような凹凸が浮かび、また沈んでいる。いくつもの悪夢を吸い込み、いくつもの後悔を餌にして育った、醜い心臓。
瞬はそれを見下ろした。
嫌悪ではなく、どこか憐れむような目だった。
「朝だぞ」
静かな声だった。
「悪夢の時間は、もう終わりだ」
彼は、核へ手を伸ばした。
殴らなかった。
握り潰さなかった。
ただ、掌をそっと置いた。
その瞬間、黒い核の表面に、細いひびが走った。
ひびの隙間から、白い光が漏れる。
ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく震えた。谷底の空気が一度だけ揺れ、湿った苔の葉先についた水滴が、ぱらぱらと落ちる。
光が広がった。
静かな光だった。
爆発ではない。
押し潰す力でもない。
夜明けが闇を薄めるように、黒い核の内側から光が満ちていく。赤紫の花弁が色を失い、触手がほどけ、根が土から離れた。
花は、音もなく崩れ始めた。
大きな花弁が光の粒へ変わる。
黒い核が砕ける。
谷底に積もっていた悪夢の霧が、風に吹かれる埃のように空へ上がっていく。
やがて、最後に小さな音がした。
かしゃん。
硝子が割れるような、澄んだ音。
その音を最後に、ミラージュ・ラフレシアは消えた。
谷に、静寂が戻った。
だが、それは先ほどまでの、息を奪うような静けさではない。
水の流れる音が聞こえた。
細い谷川が、岩の隙間を滑る音。
風が吹いた。
濡れた草が、さわ、と揺れた。
遠くで鳥が鳴いた。
空が、見えた。
谷を覆っていた霧が晴れ、雲の切れ間から淡い光が差し込んでくる。光は斜めに谷底へ落ち、濡れた岩肌を照らした。苔の上の水滴が、小さな星のようにきらめいた。
それで終わりだと、誰もが思った。
けれど、魔物が消えた場所に、まだ光が残っていた。
細かな粒子が、空中で集まっていく。
それは煙ではなかった。
霧でもなかった。
薄い幕のような光が、谷底に浮かび上がる。
エリーゼは息を呑んだ。
そこに映っていたのは、炎だった。
あの日の炎。
彼女が十年近く、悪夢の中で見続けてきた景色。
だが、今度は違った。
赤い炎の向こうから、音が聞こえた。
霧に歪められた罵声ではない。
自分の恐怖が作り上げた声でもない。
あの日、本当にそこにあった声だった。
『エリーゼは!?』
血まみれの男の声がした。
エリーゼの肩が跳ねた。
『外へ押し出した! 結界は張った! でも長くは持たない!』
別の声が応える。
光の幕の中で、かつての仲間たちが立っていた。
炎の中で、泥にまみれ、傷だらけになりながら、それでも背を向けずに立っていた。
背を向けていたのではない。
逃げていたのではない。
エリーゼを遠ざけるために、彼らは彼女と魔物の間に立っていた。
『あの子、絶対戻ってくるわ』
女の声が震えていた。
『優しい子だから。馬鹿みたいに、助けに戻ってくる』
『だから、ひどいこと言うしかなかったんだろ』
別の男が、苦しそうに笑った。
『役立たずでも、邪魔でもねぇ。あいつは俺たちの希望だ』
エリーゼの唇が震えた。
足元が揺れたわけではない。
けれど、立っていられなかった。
『才能があるんだ。あいつなら、俺たちが届かなかったところまで行ける』
『生きてくれれば、それでいい』
炎の中で、赤い髪の青年が振り返った。
顔ははっきり見えない。
けれど、その声だけは、はっきりと届いた。
『生きろよ、エリーゼ』
短い言葉だった。
それだけだった。
だが、その一言が、エリーゼの中で凍りついていた十年分の時間を砕いた。
膝から力が抜けた。
彼女は、湿った地面へ崩れ落ちた。
手をつく。
泥が指の間に入り込む。
冷たい。
それなのに、胸の奥だけが焼けるように熱かった。
「あ……」
声が出なかった。
喉が震える。
息が詰まる。
涙が落ちた。
一粒。
また一粒。
止まらない。
「私……」
エリーゼは泥の上で、震える指を握りしめた。
「私、ずっと……」
恨んでいた。
裏切られたと思っていた。
捨てられたのだと信じていた。
その痛みに耐えるために、彼らの笑顔まで、思い出の中で汚してしまった。
でも違った。
彼らは、最後まで守ろうとしてくれていた。
ひどい言葉さえ、彼女を死地へ戻らせないための、最も残酷で、最も優しい嘘だった。
「ごめん……なさい……」
声が崩れた。
「ごめんなさい……私……ずっと……」
誰に向けた謝罪なのか、本人にも分からなかった。
レオンに。
仲間たちに。
彼らの想いを誤解していた自分に。
生き残ったことを罰のように抱え続けた時間に。
ただ、謝らずにはいられなかった。
瞬は何も言わず、自分の上着を脱いだ。
湿った谷の風が、彼の肩を撫でる。
その上着を、エリーゼの肩へそっとかけた。
エリーゼの肩は、細かく震えていた。
いつもの優雅な魔女の姿は、そこにはなかった。
皮肉も、余裕も、契約相手としての距離も、すべて剥がれ落ちていた。
残っていたのは、長い間、誤解した痛みを抱え続けてきた一人の女性だった。
瞬は、彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「……知れてよかったな」
不器用な言葉だった。
慰めとして正しいのかどうか、瞬には分からない。
けれど、嘘ではなかった。
「あいつら、すげえいい奴らだったんだな」
エリーゼの肩が震える。
瞬は、谷の光が消えていく場所を見つめた。
「お前、ちゃんと愛されてたんだな」
その言葉で、エリーゼは顔を覆った。
声を殺せなかった。
嗚咽が、谷底にこぼれた。
それは、絶望の涙ではなかった。
けれど、簡単に救われる涙でもなかった。
守られていたことを知るのは、温かい。
でも、もう二度と彼らに礼を言えないことを知るのは、残酷だった。
だから、エリーゼは泣いた。
泥に膝をつき、瞬の上着を肩にかけたまま、子供のように泣いた。
メイは、少し離れた場所で口元を両手で覆っていた。
白いアイガードの奥から、涙が落ちる。
彼女はきっと、エリーゼのすべてを理解したわけではない。
けれど、誤解されたまま傷つき続ける痛みは知っていた。
誰かに見捨てられたと思い込む寒さも、少しだけ知っていた。
ゼイクは兜を脱ぎ、静かに目を伏せた。
風が、彼の濡れた髪を揺らす。
彼の胸にも、リリアの記憶が残っている。
誰かを救えなかった痛み。
その痛みは、消えることはない。
けれど、今日、彼らは知った。
霧が見せる声だけが、真実ではない。
自分を責める心が作った言葉だけが、過去ではない。
谷の上から、光が差し込む。
雲が切れ、夕方の空が顔を出していた。
白く濁っていた世界に、少しずつ色が戻っていく。
濡れた苔の緑。
岩肌の灰色。
草の葉先で震える透明な水滴。
そして、エリーゼの肩にかかった瞬の上着の、少しくたびれた布の色。
世界は、変わっていなかったのかもしれない。
変わったのは、見ている心の方だった。
長い悪夢が、ようやく終わりを告げていた。
*
谷を出る頃には、空は高く晴れていた。
さっきまで世界を覆っていた白い霧が嘘だったように、幻霧の谷の上には薄い青空が広がっている。夕方の光は柔らかく、雲の縁を淡い金色に染めていた。谷の斜面に生えた草は、まだ霧の名残を抱いて濡れている。風が吹くたび、葉先についた水滴が震え、光を受けて細かくきらめいた。
足音が、戻っていた。
湿った土を踏む、ぐちゅ、という音。
石を踏む、こつ、という硬い音。
草をかき分ける、さわ、という軽い音。
霧の中では、すべての音が心の奥へ沈んでいた。けれど今は違う。世界は、ちゃんと外にあった。
エリーゼは、瞬の上着を肩にかけたまま歩いていた。
群青色のローブは泥で汚れ、金色の髪も少し乱れている。いつもの優雅な魔女とは違う。だが、彼女はもう、それを直そうとはしなかった。
左手の薬指を、時折そっと撫でる。
そこには何もない。
青いガラスの指輪は、もうない。
けれど、指先がそこを探すたび、今度は胸の奥に別の痛みが灯った。
捨てられた痛みではない。
守られていたと知ってしまった痛み。
その痛みは、鋭くて、温かくて、どうしようもなく苦しかった。
「歩けるか?」
瞬が隣から聞いた。
声はいつもより少しだけ静かだった。
エリーゼは顔を上げずに答える。
「歩けるわ」
「無理してない?」
「しているわ」
その返事に、瞬は少しだけ目を瞬かせた。
エリーゼは、かすかに笑った。
疲れきった笑みだった。
「でも、歩ける」
「そっか」
瞬は、それ以上聞かなかった。
ゼイクは少し後ろを歩いている。彼の鎧にも泥がついていた。以前の彼なら、耐え難い汚れだっただろう。けれど今、彼はそれを気にしていない。
むしろ、兜を片手に持ったまま、静かに前を見ていた。
泥の幻は消えた。
リリアの声も、もう聞こえない。
それでも、あの声が残した痛みは消えていなかった。
ただ、ひとつだけ違う。
ゼイクはもう、その痛みを完璧さだけで押し潰そうとは思わなかった。
メイは瞬の反対側を歩いていた。
白いアイガードの端を指で押さえながら、ときどきエリーゼを見る。何か言いたそうにして、けれど言葉を選べず、また前を向く。
何度目かに視線が合った時、エリーゼが先に口を開いた。
「……泣き顔を見られたわね」
メイは慌てて首を振った。
「そ、それは……私も、いっぱい泣いたので」
「そう」
エリーゼは少しだけ目を伏せた。
「じゃあ、おあいこね」
「……はい」
短いやり取りだった。
けれど、その間にあった距離は、谷へ入る前より少しだけ近くなっていた。
王都へ戻る道には、夕暮れの風が吹いていた。
草原が、ゆっくり波打つ。
遠くの城壁が、赤い光を受けて淡く輝いている。
馬車の通った轍には水が溜まり、空の色を映していた。
誰も多くは話さなかった。
語るには、まだ痛みが新しすぎた。
けれど沈黙は、もう冷たくなかった。
*
魔女の隠れ家に戻った頃、王都の西側は夕暮れに沈み始めていた。
細い路地には、橙色の光が斜めに差し込んでいる。石畳の濡れた部分が、まだところどころ光っていた。軒先に吊るされた薬草の束は風に揺れ、かさ、かさ、と乾いた音を立てる。遠くの大通りからは、市場を片づける人々の声と、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。
エリーゼは扉の前で一度、足を止めた。
昨日まで、この扉は世界を拒むためのものだった。
誰も入れないための扉。
誰にも見られないための扉。
過去の声が入り込まないように、何重にも閉じた扉。
けれど今、その扉の前には自分以外の足音が三つある。
瞬。
メイ。
ゼイク。
仲間ではない。
まだ、そう言いたかった。
契約相手。
同行者。
研究対象。
そう言葉を並べれば、心を守れる気がした。
だが、谷で肩にかけられた上着の重みは、まだ残っている。
エリーゼは、小さく息を吐いた。
「……入って」
その一言に、瞬が少しだけ目を輝かせた。
「いいの?」
「ここまで来て、扉の前でお茶を飲ませる趣味はないわ」
「それはちょっと見てみたいけど」
「やらないわよ」
エリーゼは扉を開けた。
きい、と古い蝶番が鳴る。
中から、薬草と古い紙の匂いが流れてきた。暖炉の灰の匂い、瓶詰めの甘い薬液の香り、乾かした花のわずかな苦味。その匂いは、谷の腐った花の匂いとはまるで違った。
静かな、暮らしの匂いだった。
室内に入ると、エリーゼはまず暖炉に火を入れた。
薪が赤く灯り、ぱち、と小さく爆ぜる。薄暗かった部屋の壁に、橙色の光が揺れた。本棚の背表紙、ガラス瓶、乾燥薬草、丸いテーブル。すべてが暖炉の光を受けて、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
「座って」
エリーゼが言った。
瞬は前回の椅子を見て、少しだけ警戒した。
「……この椅子、俺が座って大丈夫なやつ?」
「今日はあなた用に変えたわ」
エリーゼが指差した先には、明らかに頑丈そうな椅子があった。
太い木材で作られ、脚も背も分厚い。椅子というより、小さな砦のようだった。
瞬は目を丸くする。
「用意してくれたの?」
「前回、百年物の椅子が悲鳴を上げたからよ」
「椅子への気遣いだった」
「あなたへの気遣いでもあるわ。床に転がられると邪魔だから」
「優しさが遠回りすぎる」
メイが小さく笑った。
ゼイクも、ほんのわずかに口元を緩める。
エリーゼは棚から茶葉の缶を取り出した。
手つきはまだ少し震えていた。だが、湯を沸かし、茶葉を量り、ポットへ注ぐ動きは丁寧だった。熱湯が茶葉に触れた瞬間、ふわりと香りが立つ。
花の香り。
少しだけ果実に似た甘さ。
それから、雨上がりの庭のような青い匂い。
瞬が鼻をひくつかせた。
「いい匂いだな」
「高い茶葉よ」
「やっぱり」
「今日は、少し良いものを淹れる日だと思ったの」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになった。
笑いが消えたわけではない。
ただ、誰も軽く茶化さなかった。
エリーゼは四つのカップに紅茶を注いだ。
琥珀色の液体が、白い陶器の中で揺れる。暖炉の火が映り、表面に小さな赤い光が浮かんだ。
その横に、エリーゼは皿を置いた。
薄く切ったリンゴが並んでいた。
真っ赤な皮を少し残し、淡い黄色の果肉が月の欠片のように皿の上で光っている。
瞬は皿を見た。
メイも見た。
ゼイクも、何も言わずに見た。
エリーゼは、リンゴを一切れ摘まんだ。
少しの間、それを見つめる。
「……昔、よく食べたの」
声は静かだった。
「雨の日に。焚き火のそばで。安いリンゴを、まるで宝物みたいに分け合って」
瞬は何も言わなかった。
メイも、ゼイクも。
エリーゼはリンゴを口に運んだ。
しゃり、と小さな音がした。
その音が、部屋の中に澄んで響く。
エリーゼはゆっくり噛んだ。
甘さと、わずかな酸味。
古い記憶に繋がる味。
以前なら、その味は痛みだけを連れてきただろう。
けれど今は、違った。
痛い。
それは変わらない。
だが、その痛みの中に、温かさも混じっていた。
「おいしいわ」
エリーゼは呟いた。
その声は、少しだけ震えていた。
瞬は、それを聞いてからリンゴを一切れ取った。
「うまい」
相変わらず簡単な感想だった。
けれど、その簡単さに救われることもある。
メイも恐る恐る一切れ食べた。
「……甘いです」
「そうね」
エリーゼは、メイを見た。
白いアイガードの奥にあるものへ、無理に触れようとはしなかった。ただ、その前にいる一人の少女を見た。
「あなたには、今度、別の薬を作るわ」
「え?」
「恐怖で体が固まる時用のもの。今の琥珀色のポーションより、もう少し効き方を柔らかくする。眠くなりすぎないようにして、でも呼吸は楽になるように」
メイは目を見開いた。
「私のために……?」
「契約相手の同行者が倒れると困るもの」
エリーゼは、わざと淡々と言った。
メイは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「ありがとうございます」
エリーゼは視線を逸らした。
「礼を言われるほどのことじゃないわ」
瞬がにやにやと見ている。
「なによ」
「いや、優しいなって」
「契約管理よ」
「はいはい」
「本当よ」
「分かってる分かってる」
「絶対分かってない顔をしているわ」
エリーゼの声に、少しだけいつもの調子が戻っていた。
その調子が戻ったことに、瞬は少し安心した。
ゼイクは紅茶を一口飲み、静かにカップを置いた。
「エリーゼ」
「何かしら」
「今日の指揮は見事だった」
エリーゼの指が止まる。
ゼイクは続けた。
「霧に飲まれながらも、最後には戦況を見た。私は後衛の指揮を軽んじていたつもりはないが、今日ほどその価値を感じたことはない」
エリーゼは黙っていた。
褒められている。
その事実を、どう受け取ればいいのか分からないようだった。
「……そう」
ようやく出た返事は短かった。
だが、その声は冷たくなかった。
ゼイクはそれ以上、言葉を重ねなかった。
紅茶の香りが、静かに部屋を満たしていく。
外では、夕暮れの風が蔦の葉を揺らしていた。窓の隙間から入る光は弱くなり、暖炉の赤が部屋の主役になっていく。古い本棚の影が床に伸び、テーブルの上のリンゴが、炎の光を受けて艶やかに輝いていた。
しばらくして、エリーゼが口を開いた。
「私は、まだあなたたちの仲間ではないわ」
瞬は頷いた。
「うん」
「契約相手よ」
「うん」
「でも……」
エリーゼは、カップの中の紅茶を見つめた。
琥珀色の水面に、自分の揺れる顔が映っている。
「契約内容を、少し変えてもいい」
瞬が顔を上げた。
「どう変える?」
「依頼に同行する頻度を、少し増やす」
「おお」
「それから、ポーションの供給も、必要最低限なら協力するわ」
瞬の目が輝いた。
「飲み放題?」
「違う」
即答だった。
「そこは変わらないのか」
「変わらないわ。あなた一人で在庫を空にしそうだから」
「俺、そんなに飲まないって」
「信用できない」
メイが笑った。
ゼイクもため息をつく。
「瞬の場合、怪我をしていなくても味見と称して飲みかねない」
「石頭、俺を何だと思ってる」
「食欲と好奇心で動く災害」
「ひどい」
そのやり取りに、エリーゼが小さく笑った。
ほんの小さな笑みだった。
しかし今度は、すぐに消えなかった。
暖炉の光に照らされて、その笑みは柔らかく見えた。
「それから」
エリーゼは、少しだけ迷った。
言葉を選ぶように、長い沈黙を置いた。
その沈黙は、重かった。
けれど、逃げるための沈黙ではなかった。
「いつか、話すわ」
彼女は言った。
「私が、どうして閉じこもるようになったのか。レオンたちと、何があったのか」
瞬は頷いた。
「無理に今じゃなくていい」
「ええ。今は、まだ無理」
エリーゼは正直に言った。
「でも、話さないままだと……また霧に奪われる気がする」
その声は、怖さを含んでいた。
けれど、前を向く怖さだった。
メイがそっと言った。
「聞きます。エリーゼさんが、話せる時に」
ゼイクも静かに頷く。
「私も聞こう」
瞬はリンゴをもう一切れ食べてから、軽く笑った。
「じゃあ、その時は紅茶とリンゴ付きで頼む」
エリーゼは呆れた顔をした。
「あなた、本当に締まらないわね」
「重くなりすぎると歩きにくいからな」
「……そうね」
エリーゼは、窓の外を見た。
夕暮れの空が、少しずつ藍色に沈んでいく。細い路地の向こうで、王都の灯りが一つ、また一つと点き始めていた。
世界は、同じだった。
裏通りも、古い石畳も、閉ざされた窓も、魔女の隠れ家も。
けれど、見える色が少しだけ違っていた。
十年近く、冷たい灰色に見えていた世界の端に、ほんのわずかな赤が戻っている。
リンゴの赤。
暖炉の赤。
誰かが残してくれた、消えない約束の色。
エリーゼは、自分の左手の薬指をそっと撫でた。
そこには何もない。
でも、完全に空っぽではなかった。
「……生きてみるわ」
彼女は、誰に言うでもなく呟いた。
瞬たちは黙っていた。
その言葉を邪魔しなかった。
「まだ、上手くはできないけれど」
エリーゼは小さく息を吐いた。
「少しだけ、外を見てみる」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
その音は、閉ざされていた部屋に、新しい時間が始まる合図のように響いた。
瞬はカップを持ち上げた。
「じゃあ、契約更新記念ってことで」
「勝手に記念日にしないで」
「いいじゃん。今日は晴れたし」
「谷だけね。王都は夕方よ」
「細かいことは気にしない」
「あなたは少し気にしなさい」
そう言いながら、エリーゼもカップを持ち上げた。
メイも、ゼイクも、それに続く。
四つのカップが、静かに持ち上がる。
ぶつける音はなかった。
ただ、同じテーブルを囲んで、同じ紅茶の香りを吸っていた。
それだけで十分だった。
仲間という言葉には、まだ届かない。
でも、完全な他人でもない。
その中間にある、不器用で、曖昧で、けれど確かな場所。
エリーゼは、そこに少しだけ座ってみることにした。
外では夜風が吹いている。
蔦の葉が窓を撫で、薬草の束がかさりと鳴った。
閉ざされた魔女の隠れ家に、久しぶりに四人分の話し声があった。
そして、テーブルの中央には、真っ赤なリンゴが静かに置かれていた。
失われた過去へ続く、小さな赤い扉のように。




