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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第29話:霧を裂く声と、悪夢の花 〜怒りは、守りたいものの形を間違えることがある〜

霧の谷は、白い息を吐きながら、四人を飲み込もうとしていた。


 空は見えない。


 太陽も、雲も、谷の縁も、すべて乳白色の幕の向こうに消えていた。湿った冷気が肌にまとわりつき、ローブの布地を重くする。足元では、見えない水が細く流れているのか、ぴちゃ、ぴちゃ、と小さな音がした。だが、その音さえもすぐに霧の中へ吸い込まれていく。


 そこにあるのは、三つの悪夢だった。


 ゼイクの前には、泥流があった。


 濁った水が、岩を砕き、木をなぎ倒しながら迫ってくる。少女の細い手が、その中から伸びている。霧で作られた幻だと分かっているはずなのに、ゼイクの目には、それが過去そのものに見えていた。


「あなたのせいよ」


 少女の声がした。


 ゼイクの喉が詰まる。


 白銀の鎧の下で、背中を冷たい汗が伝っていた。彼は剣を握ったまま立ち尽くしていたが、その指先は震えている。濡れた革手袋がきしみ、胸当ての奥で呼吸が浅くなる。


「俺は……」


 声がかすれた。


「助けようと……」


「あなたが完璧じゃなかったから」


 その言葉で、ゼイクの肩がわずかに沈んだ。


 完璧。


 彼がずっと追い続けてきたもの。


 泥の中で手が届かなかった日から、彼はその言葉に自分を縛りつけてきた。二度と遅れないように。二度と届かない手を見ないように。二度と、救えなかった自分を許さないように。


 その隣で、メイは小さく丸まっていた。


 彼女を囲む霧は、村人の影になっている。


 顔はない。


 目もない。


 ただ、黒く裂けた口だけが、いくつも浮かび上がっていた。


「化け物」


「出ていけ」


「災いの目だ」


 石が飛ぶ。


 霧でできた石だ。触れれば消えるはずのものだ。けれど、メイの体は覚えている。額に当たった鈍い痛み。血が頬を伝う熱。優しかった声が、一瞬で恐怖に変わる瞬間。


「やめて……」


 メイは白いアイガードを押さえた。


 指が震えている。


「見ないで……私を……見ないで……」


 そして、エリーゼ。


 彼女の周囲だけ、霧が赤く染まっていた。


 炎の色だった。


 暗い谷底に、ありえないほど鮮やかな赤が揺れている。煙の匂いがした。焦げた木の匂い。熱せられた金属の臭い。喉の奥を焼くような苦い空気。


 炎の向こうに、背中がいくつも見える。


 戦士の広い背中。


 杖を握る細い背中。


 軽装の男の背中。


 そして、赤い髪の青年。


「待って……」


 エリーゼの声は震えていた。


 いつもの皮肉も、冷たい余裕もない。そこにいたのは、置いていかれまいと必死に手を伸ばす一人の少女だった。


「私、まだやれる……役に立つから……」


 炎の中から声がした。


「邪魔だ」


「足手まといなんだよ」


「もううんざりなの」


 エリーゼの顔から、血の気が失せていく。


 額に冷たい汗が浮かび、こめかみを伝って顎へ落ちる。指先が震え、杖を握る力も抜けていた。


「違う……違うの……」


 彼女は首を振った。


「私を、置いていかないで……レオン……」


 その名が、霧の中へ細く消えていく。


 瞬は、三人の中央に立っていた。


 怒りがあった。


 胸の奥で、熱いものが燃えている。


 メイを泣かせる声を壊したかった。ゼイクを膝から崩れさせる幻を叩き割りたかった。エリーゼの目から光を奪う炎を、この手で消し飛ばしたかった。


 けれど、拳を振り上げることができなかった。


 この霧は、外から現れた敵ではない。


 三人の中に残っていた傷を、勝手に形にしている。


 力任せに壊せば、幻ごと三人の心まで傷つけてしまうかもしれない。


 瞬は歯を食いしばった。


 湿った空気が、肺の中に重く入ってくる。霧の甘い匂いが鼻の奥にまとわりつき、吐き気に似た不快感が胸を押した。


「……ふざけんな」


 低い声が漏れた。


 霧が、かすかに揺れる。


「人の傷を勝手にほじくって、勝手に声を作って、勝手に責めてんじゃねぇよ」


 瞬は一歩、ゼイクの方へ進んだ。


 足元から白い根のような霧が伸びる。だが、それが瞬の足首に触れた瞬間、じゅ、と小さな音を立てて弾けた。


 瞬だけは、沈まない。


 彼の中に傷がないわけではない。


 ただ、今の彼には、それより先に見えているものがあった。


 膝をつきかけているゼイク。


 震えているメイ。


 崩れ落ちそうなエリーゼ。


 過去の幻よりも、今ここにいる三人の方が、ずっと重かった。


「ゼイク!」


 瞬の声が、白い霧を打った。


 ゼイクの肩がわずかに動く。


「いつまで泥の中にいるんだよ!」


 瞬はゼイクの前に立った。


 泥流の幻が、彼の足元を濁った水で覆おうとする。少女の影が、ゼイクの向こうから責めるように手を伸ばしている。


 瞬は、その幻に背を向けた。


 見なかった。


 ゼイクだけを見た。


「お前がずっと後悔してるのは知ってる。完璧じゃなかった自分を責めてきたのも分かる。でもな、リリアが本当にそんな顔をして、お前を責め続けると思うのか?」


 ゼイクの目が揺れた。


「俺は……」


「お前が北の森で泥だらけになって、それでも立ち上がった時、俺たちはちゃんと見てただろ」


 瞬は、ゼイクの胸当てを拳で軽く叩いた。


 金属の鈍い音が、霧の中に響く。


「完璧じゃなくても、お前は立てる。今のお前を見て笑ってくれる奴がいるなら、そっちを信じろ」


 ゼイクの呼吸が、ひとつ深くなった。


 霧の少女の声が、また聞こえた。


「あなたのせいよ」


 だが、今度は少し遠かった。


 ゼイクは目を閉じた。


 泥流の音が、ざああ、と耳を塞ぐ。


 それでも、彼は剣の柄から手を離した。


 震える指を、ゆっくりと開く。


「……リリアは」


 ゼイクの声は低く、掠れていた。


「そんな顔で、俺を見なかった」


 霧が揺らぐ。


 泥流の中の少女の輪郭が、薄くなる。


「俺が作った声だったのかもしれない。俺が……俺を許さないために、ずっと聞き続けていた声だったのかもしれない」


 ゼイクは膝を伸ばした。


 まだ顔色は悪い。


 だが、その背筋は少しずつ戻っていく。


「瞬」


「おう」


「……助かった」


「まだ助かった顔じゃないけどな。あとで飯食って回復しろ」


 ゼイクはほんのわずかに眉を寄せた。


「この状況で飯の話か」


「生きて戻る前提の話だ。悪くないだろ」


 ゼイクは答えなかった。


 だが、その目には、霧に沈む前とは違う光が戻っていた。


 瞬はすぐにメイの元へ向かった。


 メイはまだ、耳を塞いで震えていた。


 霧の村人たちが、彼女を囲んでいる。黒い口がいくつも開き、同じ言葉を繰り返す。


「化け物」


「近づくな」


「お前のせいだ」


 瞬は膝をついた。


 手荒なことはしなかった。


 彼は、メイの視線の高さに合わせ、そっと彼女の肩に手を置いた。


「メイ」


 穏やかな声だった。


 霧の中で、驚くほどはっきり響いた。


「俺だ。瞬だ」


 メイの肩が跳ねる。


 彼女は恐る恐る顔を上げた。


 白いアイガードの奥で、瞳が揺れている。まだ幻の声を聞いている。まだ石が飛んでくると思っている。


 瞬は、彼女の前に体を入れた。


 村人たちの影とメイの間に立つ。


「石なんか飛んできてない」


 低く、はっきり言った。


「ここにいるのは、俺と、やっと立ち直りかけた石頭と、ちょっと怖がりな契約魔女だけだ。誰もメイを追い出さない。誰もメイを責めてない」


 メイの唇が震えた。


「でも……声が……」


「怖い夢を見てただけだ」


 瞬は、彼女の震える手を包んだ。


 冷たい手だった。


 霧の冷気だけではない。長い間、誰にも触れられないと思っていた人の冷たさだった。


 瞬はその手を、両手で包む。


「大丈夫。俺がついてる。俺はメイの味方だ。それは夢じゃなくて、現実だろ?」


 メイは、瞬を見つめた。


 霧の村人ではなく。


 黒い口でも、飛んでくる石でもなく。


 そこにいる、瞬を見た。


 彼の手の温度。


 服についた土の匂い。


 間近にある呼吸。


 霧が作った幻よりも、ずっと確かなもの。


「……しゅん……さん……」


「そう。瞬さんだ」


 瞬は少しだけ笑った。


「帰ったら、何か温かいもん食おう。メイが好きなやつ」


 日常の約束だった。


 大きな誓いではない。


 世界を救う言葉でもない。


 ただ、次の食事の話。


 でも、それがメイには届いた。


 未来がほんの少し先にあると言われた気がした。


 霧の石畳が、揺れる。


 村人たちの影が、少しずつ薄くなっていく。


 メイの目から、一粒涙が落ちた。


 恐怖の涙ではなかった。


 張り詰めていた糸が、ようやく緩んだ時の涙だった。


「……はい」


 彼女は、瞬の手を握り返した。


「帰りたいです……一緒に……」


「帰るよ。絶対に」


 その瞬間、メイを囲んでいた黒い口が崩れた。


 霧の村は、音もなくほどけていく。


 白い世界の中に、メイの細い呼吸が戻った。


 瞬は立ち上がる。


 ゼイクも、メイも、まだ完全ではない。


 顔色は悪く、足元もおぼつかない。けれど、もう霧の底には沈んでいない。


 だが、最後の一人が残っていた。


「いや……」


 エリーゼの声がした。


 かすれていた。


 瞬が振り返る。


 エリーゼは地面にへたり込んでいた。群青色のローブは霧に濡れ、金色の髪は頬に張りついている。彼女の青い瞳は、炎の幻を見たまま動かない。


 その視線の先で、霧が集まっていた。


 白い霧が、赤黒く脈打ち始める。


 谷底の地面が盛り上がった。


 ずずず、と湿った音が響く。


 土が割れる。苔が裂ける。凍った泥の下から、巨大な茎のようなものがせり上がる。


 花だった。


 だが、美しい花ではない。


 谷の底に長く積もった悪夢が、植物の形を借りて這い上がってきたようなものだった。


 花弁は人の背丈をはるかに超え、肉のように厚く、濡れた赤紫の色をしていた。表面には細い筋が走り、どくん、どくん、と内側から脈を打っている。中心部には、苦しむ人の顔のような凹凸がいくつも浮かんでは沈み、開いた穴から甘く腐った匂いが漏れていた。


 霧の発生源。


 巨大な悪夢の花。


「ミラージュ・ラフレシア……」


 エリーゼが、かすれた声で呟いた。


 その名前を呼ぶだけで、彼女の体が震えた。


 花弁の奥から、何かが這い出してくる。


 泥でできた人形だった。


 剣を持った男。


 杖を握った女。


 軽い身のこなしを思わせる細身の影。


 そして、赤い髪の青年の形をしたもの。


 顔は歪んでいる。


 目も口も、霧と泥で崩れている。


 それでもエリーゼには、誰なのか分かってしまう。


「来ないで……」


 エリーゼは後ずさろうとした。


 だが、足が動かない。


 赤い髪の泥人形が、ゆっくりと剣を上げた。


 その口が裂ける。


「足手まとい」


 エリーゼの顔が、崩れた。


「やめて……」


 別の泥人形が笑う。


「連れてくるんじゃなかった」


「あなたの魔法、役に立たないわ」


「消えろ」


 声が重なる。


 それは、過去の真実ではない。


 霧が彼女の中に残る傷をなぞり、最も痛む形へ作り替えたものだった。


 だが、エリーゼには耐えられなかった。


 彼女の指が、左手の薬指を探る。


 そこには何もない。


 あるはずの指輪は、もうない。


 青いガラスの、小さな指輪。


 ずっと一緒だと笑って渡された、安物の約束。


 それが消えた指を、エリーゼは何度も何度も触った。


「違う……私……ちゃんと……」


 声にならない。


 涙も出ない。


 ただ冷たい汗だけが、頬を伝って落ちる。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が、大きく開いた。


 甘く腐った匂いが、一気に濃くなる。


 泥人形たちが、一歩ずつエリーゼへ近づいてくる。


 瞬は拳を握った。


 ゼイクが隣へ並ぶ。


 メイも震えながら立ち上がった。


 霧の谷は、まだ終わっていない。


 むしろ本当の戦いは、ここから始まるのだと、四人全員が理解した。


 瞬は、エリーゼの前へ出た。


 泥人形たちと、彼女の間に立つ。


 そして、低く言った。


「そこまでだ」


 花の中心が、ぬるりと動いた。


 苦悶の顔のような凹凸が、瞬を見る。


 次の瞬間、無数の霧の触手が、白い谷を切り裂いて伸びてきた。


 瞬は、目を逸らさなかった。


 守るべきものの形を、今度こそ間違えないために。


  *


 白い谷を、黒い触手が裂いた。


 それは植物の蔓にも、霧にも、濡れた獣の舌にも見えた。実体があるようで、ない。硬くも柔らかくもあり、目で追おうとすると輪郭が滲む。触手が空気を切るたび、甘く腐った花の匂いが濃くなった。


 瞬は、エリーゼの前に立ったまま、右手を振った。


 軽く。


 ほんの軽く、払っただけだった。


 だが、その一振りで、正面から迫っていた触手の束がまとめて吹き飛んだ。白い霧が爆ぜ、谷底の湿った土が円形にえぐれる。苔の張りついた岩肌が震え、細かな水滴が雨のように降った。


 しかし、手応えはなかった。


 切った、という感覚ではない。

 殴った、という感覚でもない。


 霧を叩いた。


 それだけだった。


 吹き飛んだはずの触手は、すぐに谷の奥でほどけ、また集まり、同じ形になって伸びてくる。


「……くそ」


 瞬は低く吐いた。


 力ならある。


 壊すことならできる。


 けれど、この魔物は壊されることを前提に形を作っているようだった。霧の腕を何本飛ばしても、本体に届かない。白い谷そのものが、巨大な悪夢の体になっている。


 ゼイクが、瞬の横へ並んだ。


 まだ顔色は悪い。額には汗が滲み、呼吸も完全には整っていない。それでも剣を構える姿は戻っていた。白銀の鎧は霧に濡れ、光を鈍く沈ませている。だが、その背筋は折れていない。


「瞬。正面の触手は私が受ける」


「無理するなよ」


「無理はする。だが、倒れはしない」


 ゼイクは短く言った。


 次の瞬間、左から伸びてきた触手を剣で受け流す。刃は霧を切った。だが、切られた触手はただ白く崩れ、すぐ背後から別の触手が生える。


 ゼイクは舌打ち一つせず、足を半歩ずらした。


 霧の中で、鎧が濡れた音を立てる。


「厄介だな。斬った感触がない」


「だろ。俺も殴ってる感じがしない」


「ならば、根を探すしかない」


 その声には、先ほどまで幻に沈んでいた弱さはなかった。


 けれど、完全に無傷なわけでもない。


 彼の目の奥には、まだ泥流の色が残っている。心の深いところを引っかかれた傷は、すぐには消えない。それでもゼイクは立っていた。


 メイも立ち上がった。


 白いアイガードの下で、彼女は唇を結んでいる。小さな肩はまだ震えていた。けれど、その手には紫の光が集まり始めていた。


「私も……できます」


 声は細かった。


 だが、逃げる声ではなかった。


 瞬が振り返る。


「メイ、無理しなくていい」


「無理じゃ、ないです」


 メイは首を振った。


「怖いです。でも……みんながいるから」


 彼女は両手を前へ出した。


 白い霧の中で、紫の光が静かに広がる。瞬の力のような荒々しさはない。ゼイクの剣のような鋭さでもない。もっと柔らかく、けれど奥に深い力を秘めた光だった。


 迫ってきた触手の一本が、その光に触れる。


 じゅ、と音を立てて、触手の表面が薄く削れた。


 メイは目を見開いた。


「効いてる……?」


 エリーゼの声が、後ろから聞こえた。


「霧の密度が一瞬だけ下がっているわ。メイ、同じ場所を狙って。瞬、そこを抜けば、本体の花弁に届くかもしれない」


 その声はまだ震えていた。


 けれど、エリーゼは見ていた。


 恐怖の中でも、戦場全体を見ていた。


 さすがだ、と瞬は思った。


 だが、その直後だった。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。


 赤紫の肉厚な花びらが、湿った音を立てて広がる。中心部の暗い穴が、ゆっくりと膨らみ、そこから黒い霧が噴き出した。花の奥に浮かぶ苦しげな顔のような凹凸が、一斉に口を開く。


 声がした。


 いくつもの声が、重なった。


「エリーゼ」


 彼女の体が、凍りついた。


 泥人形たちが、霧の中から前へ出る。


 赤い髪の青年。


 大柄な戦士。


 細身の女。


 もう一人、影のように身軽な男。


 顔は泥で崩れている。

 目も、口も、正確な形ではない。


 だが、エリーゼには見えていた。


 かつて一緒に歩いた者たちの姿として。


「来ないで……」


 エリーゼは後ずさった。


 足元の苔が、ぐちゃりと潰れる。ローブの裾が霧に濡れ、重く引きずられた。


 赤い髪の泥人形が剣を構える。


 その動きは、ぎこちなかった。

 本物の人間の滑らかさはない。関節も、呼吸も、重心も、どこかずれている。


 それでも、エリーゼの目には、本物のレオンに見えてしまう。


 炎の向こうで、背を向けた青年。

 最後に聞いた、冷たい罵声。

 伸ばしても届かなかった手。


 青いガラスの指輪が嵌まっていたはずの指が、ひどく冷たくなる。


「エリーゼ」


 赤い髪の泥人形が言った。


「お前は、いらない」


 その言葉が落ちた瞬間、エリーゼの表情から力が抜けた。


 瞬は叫ぶ。


「違う! そいつは霧が作った偽物だ!」


 エリーゼは反応しない。


 聞こえているのに、届いていない。


 泥人形たちは前へ進む。


 ゼイクが剣で一体を止めた。刃が泥の肩を裂く。だが、泥人形は崩れない。傷口から白い霧が溢れ、すぐに塞がる。ゼイクは眉をひそめた。


「これも霧か」


 別の泥人形が、メイへ向かう。


 メイは紫の光を放った。泥人形の胸が薄く削れる。だが、完全には消えない。むしろ、その体から霧が広がり、周囲の視界をさらに白く濁した。


 瞬が前へ出る。


 拳を握る。


 だが、赤い髪の泥人形がエリーゼへ剣を向けた瞬間、彼女が叫んだ。


「やめて!」


 その声は、瞬の動きを止めた。


 エリーゼは両手を広げていた。


 泥人形を守るように。


 いや、過去の誰かを守るように。


「撃たないで……傷つけないで……」


 瞬は歯を食いしばった。


「エリーゼ、あれは本物じゃない!」


「分かってる!」


 彼女の声が、霧の中で裂けた。


「分かってるわよ……!」


 目には涙が浮かんでいた。


「でも、撃てないのよ……!」


 その声には、どうしようもない痛みがあった。


 憎んできた。


 恨んできた。


 捨てられたと思ってきた。


 それでも、心のどこかでは、まだ彼らを傷つけたくなかった。


 裏切られたと信じているのに。

 置いていかれたと信じているのに。

 それでも、かつて共に笑った背中を、自分の手で焼き払うことができない。


 その迷いを、魔物は待っていた。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が震える。


 どくん。


 谷底全体が脈打ったような音がした。


 エリーゼの苦しみに呼応するように、花はさらに巨大化した。肉厚の花弁が一枚、また一枚と開き、周囲の霧が渦を巻いて吸い込まれていく。甘く腐った匂いがさらに濃くなり、舌の奥に苦みが残った。


 エリーゼの迷い。

 憎しみ。

 悲しみ。

 真実を知らないまま積み重ねてきた痛み。


 それらを餌にして、花は膨れ上がっていく。


 ゼイクが低く言った。


「まずい。魔物の力が増している」


「エリーゼの感情を食ってるのか」


 瞬の声は硬かった。


「おそらくな」


 ゼイクは剣を構え直す。


「だが、彼女を責めても意味はない」


「分かってる」


 瞬は、エリーゼの背中を見た。


 霧に濡れた細い背中。


 真っ直ぐ立とうとしているのに、今にも折れそうな背中。


 契約相手だと言い張っていた人。

 仲間ではないと何度も線を引いていた人。


 その線の内側に、今、誰にも触れられたくない傷がさらされている。


 瞬は、怒鳴りたくなった。


 撃て、と。

 偽物だ、と。

 過去なんか見なくていい、と。


 けれど、それでは届かない。


 力で押すだけなら、結界を破るのと同じだ。扉を壊すのと同じだ。エリーゼが守ってきたものを、また乱暴に踏みにじるだけだ。


 瞬は、息を吸った。


 湿った霧が肺に入る。

 甘い花の匂いが胸を刺す。


 彼は、エリーゼの横に立った。


 泥人形たちに背を向けず、けれどエリーゼの視界を塞ぎすぎない位置に。


「エリーゼ」


 声は低かった。


 強くはない。


 けれど、霧の中ではっきり響いた。


「撃てないなら、撃たなくていい」


 エリーゼの目が、わずかに動いた。


「……え?」


「今のお前に撃てないなら、撃つな」


 瞬は、泥人形たちを見据えたまま言った。


「その代わり、見ろ」


「何を……」


「本当にそいつらが、お前を捨てた顔をしてるのか。お前の知ってるやつらは、そんなふうに笑うやつらだったのか。霧が見せてる声だけじゃなくて、お前が覚えてるものを見ろ」


 エリーゼの唇が震えた。


 泥人形が声を重ねる。


「いらない」


「邪魔だ」


「役立たず」


 エリーゼは耳を塞ぎかけた。


 だが、瞬の声が続く。


「その声だけが全部なら、なんで今、そんなに苦しいんだよ」


 エリーゼの手が止まる。


「本当に憎いだけなら、撃てるはずだろ」


 瞬は振り返らなかった。


「撃てないってことは、お前の中に、まだ別の何かが残ってるんじゃないのか」


 沈黙。


 霧の音だけが、白く流れる。


 エリーゼは泥人形たちを見た。


 赤い髪の青年。

 大柄な戦士。

 細身の女。

 軽い身のこなしの男。


 彼らの顔は泥で崩れている。


 しかし、霧が歪めきれなかったものがあった。


 立ち方。


 背中の角度。


 剣を握る癖。


 昔、何度も見た姿。


 馬鹿みたいに笑って、くだらないことで喧嘩して、危険な場所でも誰かがふざけて空気を軽くしていた日々。


 雨の日、レオンが濡れた髪を乱暴に拭きながらリンゴを差し出したこと。

 ボルグが盗んだわけではないと言い張りながら、結局全員分の食料を買っていたこと。

 セラが怒りながらも、怪我をした手を誰より丁寧に治してくれたこと。


 記憶の奥から、ほんの少しだけ、別の色が滲み出した。


 炎の赤だけではない。


 暖炉の橙。


 夕暮れの金色。


 リンゴの赤。


 エリーゼの呼吸が、震える。


「……分からない」


 彼女は呟いた。


「もう、分からないの……どれが本当だったのか……あの人たちが、私を捨てたのか……それとも……」


 その先は言葉にならなかった。


 けれど、霧が揺れた。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が、苛立つように震える。

 泥人形たちの声が、さらに大きくなった。


「思い出すな」


「見なくていい」


「お前は捨てられた」


 その言葉が、逆に答えだった。


 魔物は、彼女が別の記憶へ触れることを恐れている。


 瞬は、そこでようやく拳を握り直した。


「ゼイク!」


「分かっている」


 ゼイクは即座に動いた。


 彼は泥人形の足元を狙い、剣を横に払った。完全に斬るのではない。姿勢を崩すだけ。泥人形が膝をつくように傾く。


「メイ!」


「はい!」


 メイの紫の光が、その崩れた部分に重なる。


 泥の中の霧が薄くなる。


 瞬はそこへ踏み込んだ。


 拳ではなく、掌底。


 力を一点に込め、泥人形の胸を押し抜く。


 どん。


 鈍い音がした。


 泥人形は砕けなかった。


 しかし、その中に詰まっていた白い霧だけが大きく弾けた。形を保てなくなった泥の体が、ぐずりと崩れる。


 花がうなった。


 谷底の霧が震える。


「効いてる」


 ゼイクが言った。


「本体ではなく、幻を維持する霧を崩せばいいのか」


「エリーゼ!」


 瞬は叫んだ。


「弱点はどこだ!」


 エリーゼは、はっと顔を上げた。


 まだ涙は残っている。

 まだ手は震えている。


 けれど、彼女の目に研究者としての光が戻り始めていた。


 彼女は花を見た。


 花弁。

 茎。

 霧の流れ。

 泥人形を維持する細い白い線。

 そして、花の中心にある暗い穴。


「中心部じゃない……」


 エリーゼはかすれた声で言った。


「花の奥に、霧を吐き出している核がある。でも直接攻撃しても、霧に散らされるわ。先に周囲の幻影を崩して、霧の流れを乱す必要がある」


「どうすればいい」


「私が……」


 エリーゼは言いかけて、泥人形たちを見た。


 赤い髪の青年が、まだ立っている。


 泥の顔で、彼女を見ている。


 声がした。


「エリーゼ」


 それは罵声ではなかった。


 一瞬だけ、ひどく懐かしい声に聞こえた。


 彼女の体が揺れた。


 瞬が隣から言う。


「無理に撃つな」


「でも……」


「お前ができることをやれ。後ろから見るのが得意なんだろ」


 エリーゼの目が、瞬を見る。


 契約の時、自分で言った言葉がよみがえる。


 前には出ない。

 後ろで見る。


 それは逃げるための言葉でもあった。


 だが今は、違う使い方ができる。


 全体を見る。

 仲間ではないと言い張った相手たちを、後ろから守る。


 エリーゼは震える手で杖を握り直した。


 唇を噛む。

 血の味がした。


「……右の泥人形から」


 声はまだ小さかった。


 だが、確かに指示だった。


「ゼイク、右足を止めて。メイ、その胸元の霧だけを薄くして。瞬、砕かないで。中の霧だけを押し出して」


「了解」


 三人が同時に動いた。


 それは、まだぎこちない連携だった。


 長く組んできた仲間のようにはいかない。


 けれど、エリーゼの声に従い、ゼイクが足を止め、メイが霧を薄め、瞬が力を絞って押し抜く。


 一体目が崩れる。


 二体目が揺らぐ。


 ミラージュ・ラフレシアの花弁が震え、霧の流れが乱れ始めた。


 エリーゼは息を吸った。


 恐怖は消えていない。


 胸の奥には、まだ炎がある。

 レオンの声が、まだ遠くで響いている。

 青いガラスの指輪が消えた指は、今も痛む。


 それでも、彼女は前を見た。


 霧に作られた偽物ではなく、今この場で動いている三人を。


「次、左!」


 声が強くなる。


「瞬、力を入れすぎないで! メイ、少し下! ゼイク、下がって、そこは霧が濃い!」


 三人が動く。


 谷の白が、少しずつ揺らぎ始める。


 魔物は怒ったように、触手をさらに増やした。谷底の霧が渦を巻き、空気が重く沈む。巨大な花の中心が開き、黒い核のようなものが、ほんの一瞬だけ見えた。


 瞬の目が、それを捉える。


「見えた」


 低く言う。


 エリーゼも頷いた。


「今のが核よ。でも、まだ霧が厚い。もう少し削らないと届かない」


 その時。


 赤い髪の泥人形だけが、他の幻影と違う動きをした。


 崩れかけた足で、エリーゼへ向かって歩いてくる。


 剣を下ろしたまま。


 敵意のないような姿で。


 エリーゼの呼吸が止まった。


 泥人形の口が、歪んだ。


「エリーゼ」


 その声は、罵倒ではなかった。


 あまりにも優しく聞こえた。


 だからこそ、彼女の心を深く切った。


 エリーゼは動けなくなる。


 瞬が叫ぶ。


「エリーゼ!」


 彼女の視界に、炎が戻る。


 レオンの背中。

 伸ばした手。

 消えていく光。

 届かなかった声。


 泥人形が、ゆっくりと手を伸ばす。


 その手の指先に、淡い青い光が灯った。


 青いガラスの指輪に似た光だった。


 エリーゼの瞳が、大きく見開かれる。


「……レオン?」


 その瞬間、ミラージュ・ラフレシアの花弁が大きく開いた。


 狙っていた。


 エリーゼの心が最も揺れる一瞬を。


 黒い核が、花の中心で脈打つ。


 同時に、無数の触手が四方から瞬たちへ殺到した。


 ゼイクが剣を構える。


 メイが光を広げる。


 瞬が地面を蹴る。


 だが、エリーゼだけが、青い光を見つめたまま動けなかった。


 霧の谷に、花の甘く腐った匂いが満ちる。


 白い世界の奥で、過去の扉が、ほんの少しだけ開きかけていた。

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