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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第28話:霧の谷と、暴かれる古傷 〜見ているものは、心が曇れば形を変えるものである〜

王都から離れるほど、道は少しずつ人の気配を失っていった。


 朝のグランドルは、初夏の光に包まれていた。白い城壁は陽を受けて眩しく、通りにはパン屋の香ばしい匂いと、果物屋の甘い香りが流れていた。馬車の車輪が石畳を踏む音、露店の呼び込み、子供たちの笑い声。そのすべてが、今日も王都は平和だと告げていた。


 だが、西門を抜け、街道を外れ、丘陵地帯の奥へ進むにつれて、その明るさは一枚ずつ剥がれていった。


 草原の風は、最初こそ涼しかった。


 背の低い草が、陽の光を浴びながら波のように揺れている。草の葉先には朝露が残り、風が通るたび、細かな光がぱらぱらと散った。遠くでは名も知らない鳥が鳴き、乾いた土を踏む靴音が、こつ、ざり、と軽く響く。


 けれど、さらに奥へ進むと、空の青さは少しずつ白く濁り始めた。


 谷が近い。


 幻霧の谷。


 王都から遠く離れた、乳白色の霧が一年中晴れないという場所だった。帰還者が少なく、魔獣よりも道に迷うことの方が危険だと言われる谷。依頼内容は、谷に咲く薬草の採取と、最近霧の濃度が増している原因の調査。


 そして今回、それを指定したのはエリーゼだった。


「研究に必要な薬草があるのよ」


 彼女は、街道脇の木陰でそう言った。


 群青色のローブの裾が、風に揺れている。金色の髪は日差しを受けて淡く輝き、その姿だけなら、物語に出てくる優雅な魔女そのものだった。


 ただし、その目は冷静すぎるほど冷静だった。


「契約の範囲内で、あなたたちのクエストに同行する。それなら、私の用事も済ませられる場所がいいでしょう?」


「合理的だな」


 ゼイクが頷いた。


「さすが契約相手。距離感がすごく仕事」


 瞬が感心したように言うと、エリーゼは涼しい顔で返した。


「当然よ。私はあなたたちの仲間ではないもの」


「そこ、毎回念押しする?」


「必要でしょう。あなた、放っておくと三回目の会話くらいで勝手に仲間扱いしそうだから」


「……否定できない」


「否定しなさいよ」


 エリーゼはため息をついた。


 その横で、メイが小さく笑った。


 白いアイガードの奥で、彼女の表情は少しだけ和らいでいる。エリーゼが自分たちと一定の距離を取りたがっていることは、メイにも分かっていた。けれど、その距離の取り方は、突き放すためだけのものではないように感じられた。


 近づきたい。


 でも怖い。


 だから、契約という形で線を引く。


 その気持ちは、メイにも少し分かる気がした。


「それで、エリーゼ」


 瞬が振り返る。


「戦闘になったら、どんな感じで動く?」


「後ろ」


「即答だな」


「私は前に出ないわ」


 エリーゼは、はっきり言った。


 その声には迷いがなかった。


「索敵、支援、防御、回復。必要なら指示も出す。でも、前には出ない」


「戦えないわけじゃないだろ?」


「戦えるわ」


 エリーゼは目を細めた。


「でも、私は後ろで見ている。……もう、失いたくないから」


 その言葉だけ、少し温度が違った。


 風が草を撫でる音が、ふいに大きく聞こえた。さわ、さわ、と葉が擦れ合い、遠くの森で鳥が一羽、短く鳴く。


 瞬は何かを言いかけた。


 だが、言わなかった。


 ゼイクも沈黙した。


 メイは胸の前で手を握り、エリーゼの横顔を見つめていた。


 その沈黙は、深くはなかった。


 けれど、笑いを差し込むには少しだけ早すぎる静けさだった。


 やがて瞬が、わざと軽い声で言った。


「じゃあ、後ろから頼む。俺、細かいこと考えるの苦手だから」


「知っているわ」


「即答やめない?」


「研究対象の特徴は把握しておくものよ」


「俺、人間から研究対象に降格してない?」


「安心して。契約書上は人間扱いよ」


「契約書が最後の砦!」


 瞬が大げさに肩を落とす。


 ゼイクが低く呟いた。


「むしろ契約書に感謝するべきだな」


「石頭までひどい」


 そのやり取りに、メイがまた少し笑った。


 笑いは、草原の風に溶けた。


 ここまでは、まだ明るかった。


     *


 幻霧の谷の入口は、まるで世界がそこで呼吸をやめたような場所だった。


 丘陵地帯の切れ目に、深く沈む谷が口を開けている。谷底は、乳白色の霧で満たされていた。霧は水のように重く、ただ漂うだけではなく、ゆっくりと底の方で流れている。陽の光はそこへ届かない。谷の上ではまだ昼の明るさがあるのに、谷の奥は白く、冷たく、時間ごと薄められたように見えた。


 湿った苔の匂いがした。


 岩肌にびっしりと張りついた苔が水を含み、青く重い匂いを放っている。その奥に、どこか甘ったるい花の香りが混じっていた。熟れすぎた果実のような、綺麗なのに少しだけ腐敗を思わせる匂いだった。


 足元の土は柔らかい。


 靴底が沈むたび、ぐちゅ、と湿った音がした。谷の入口に生えた細い草は、霧を浴びてしっとりと濡れている。風が吹いても、草は軽く揺れない。水を含んだ葉が、重そうに身を寄せ合うだけだった。


 瞬が谷を覗き込む。


「うわ、すごいな。天然の白い鍋みたいだ」


「感想が台無しね」


 エリーゼが即座に言う。


「じゃあ、幻想的」


「最初からそれを言いなさい」


「幻想的な白い鍋」


「足すな」


 メイが小さく肩を震わせた。


 ゼイクは谷を見下ろし、表情を引き締める。


「視界が悪い。足場も不安定だ。隊列を決めよう」


「私が後方」


 エリーゼが言った。


「その前にメイ。中央に瞬。先頭はゼイク」


「俺が中央?」


「あなたを先頭にすると、罠に気づく前に谷そのものを踏み抜きそうだもの」


「俺への評価、地形破壊前提なの?」


「事実に基づいた安全管理よ」


 ゼイクが、少しだけ頷いた。


「理にかなっている」


「お前まで納得するなよ」


「貴様の足元には常に警戒が必要だ」


 瞬は不満そうに唇を尖らせたが、反論はしなかった。


 エリーゼは腰のポーチから小瓶を取り出した。中には薄い青色の液体が入っている。彼女が栓を抜くと、冷たい草の香りが広がった。


「霧に含まれる成分を少し中和するわ。完全には防げないけれど、吸い込みすぎるよりはましよ」


 彼女は指先に液体を一滴取り、空中へ弾いた。


 青い粒がふわりと弾け、四人の周囲に薄い膜のような光が広がる。光はすぐに消えたが、鼻の奥に詰まっていた甘ったるい匂いが少し薄くなった。


「すごい……」


 メイが呟く。


 エリーゼは視線だけを向けた。


「簡単な処置よ」


「でも、すごいです」


 メイは素直に言った。


 エリーゼは一瞬だけ、答えに詰まったように見えた。


「……そう」


 短い返事だった。


 けれど、完全に冷たくはなかった。


 四人は谷へ足を踏み入れた。


 一歩目から、音が変わった。


 谷の外では乾いた土を踏む音がしていたのに、ここでは靴音が霧に吸い込まれていく。こつ、という硬さも、ざり、という砂の音もない。足裏の感触だけが残り、音はすぐ白い空気の中で消えていった。


 視界は狭い。


 数歩先のゼイクの背中でさえ、白く滲む。鎧の銀色は霧の中でぼやけ、輪郭がゆらゆらと揺れている。メイの白いアイガードも、霧に溶けそうなほど淡く見えた。


 エリーゼの声が、後ろから飛んだ。


「ゼイク、右に三歩」


 ゼイクは即座に従った。


 次の瞬間、彼が立っていた場所を、見えない何かが通り抜けた。


 風だった。


 いや、風に似た刃だった。


 霧が細く裂け、近くの苔むした岩肌に、すっと浅い線が入る。もしゼイクがそこに立っていれば、鎧の隙間を狙われていただろう。


 ゼイクの目が鋭くなる。


「……見えていたのか」


「霧の流れが不自然だったわ」


 エリーゼは淡々と答えた。


「次、左上。メイ、屈んで」


「は、はい!」


 メイが身を低くした直後、白い霧の中から黒い影が滑るように飛び出した。獣の形をしているが、体は霧でできている。爪だけが黒く濃く、メイの頭があった高さを横切った。


 瞬が手を伸ばす。


「こいつ!」


「強く叩きすぎないで。霧が散って視界がさらに悪くなる」


「注文が細かい!」


「研究対象なら制御を覚えなさい」


「今それ言う!?」


 瞬は拳ではなく、指先で霧の獣の額を軽く弾いた。


 ぱちん。


 軽い音。


 次の瞬間、霧の獣は悲鳴もなく白い煙へ戻り、周囲へ薄く散った。


 ただし、余波で近くの低木が根元からきれいに倒れた。


「……軽くやった」


 瞬が小さく言った。


 エリーゼは冷たい目で見た。


「あなたの軽いは、世界に優しくないのね」


「反省します」


「反省は記録しておくわ。成果が出るかは別として」


 ゼイクが、霧の奥を見据えたまま呟く。


「しかし、見事な指揮だ。霧の動き、気配、地形の変化。そのすべてを瞬時に読んでいる」


 エリーゼは少しだけ目を伏せた。


「後ろにいるなら、そのくらいはしないと」


「美しい指揮だ」


 ゼイクが静かに言った。


 エリーゼは、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。


 褒められると思っていなかったのだろう。


「……どうも」


 短い返事。


 だが、その声にはわずかに戸惑いがあった。


 瞬はにやにやした。


「お、石頭が褒めた」


「事実を述べただけだ」


「エリーゼ、今の録音しといた方がいいぞ。こいつが素直に褒めるの、珍しいから」


「録音?」


「えーと、声を保存する魔法みたいな……」


「あるわよ」


「あるの!?」


 瞬が驚きすぎて声を上げた。


 その声が霧の中で変に反響した。


 しゅん。


 しゅん。


 しゅん。


 自分の名前が、谷の奥へ吸い込まれていくように何度も聞こえた。


「うわ、気持ち悪っ」


「声量を落としなさい」


 エリーゼが冷静に言う。


 メイが小さく笑う。


 霧の谷の中で、ほんのわずかに空気が緩んだ。


 けれど、その緩みは長く続かなかった。


     *


 谷の奥へ進むほど、霧は濃くなっていった。


 最初は乳白色だった霧が、少しずつ色を失っていく。


 白ではない。


 灰色でもない。


 目の前にあるものから、音や温度や距離を奪っていくような、妙な色だった。


 湿った苔の匂いは濃くなり、甘ったるい花の香りも鼻の奥へまとわりつく。息を吸うたび、胸の中に柔らかい泥を入れられているような重さがあった。


 足音が消える。


 自分の靴が土を踏んでいるはずなのに、音が返ってこない。風もない。葉擦れもない。水音もない。


 世界から、少しずつ音が抜かれていく。


 ゼイクが立ち止まった。


「……おかしい」


 その声は低かった。


 瞬も足を止める。


「何が?」


「先ほどから、方角の感覚が曖昧だ。地形だけではない。自分の体の向きまで、ずらされているような感覚がある」


 エリーゼの顔から、先ほどまでの皮肉が消えた。


「霧が深部の性質に変わったわ」


「性質?」


「ただ視界を遮るだけじゃない。見るもの、聞くもの、感じるものを、内側から歪める」


 メイの指が、白いアイガードの端を押さえた。


「内側から……?」


 エリーゼは頷いた。


「この霧は、外の景色だけを隠すんじゃない。心の中に残っているものを、景色の形にして見せることがある」


 沈黙が落ちた。


 その沈黙は、さっきまでの笑いを完全に遠ざけた。


 瞬は真顔になる。


「それって、嫌な記憶を見せてくるってことか?」


「ええ」


 エリーゼの声は静かだった。


「しかも、正確とは限らない。恐怖や後悔が混ざれば、記憶は簡単に形を変える。自分が一番恐れている声に、変わって聞こえることもある」


 ゼイクの表情が、硬くなった。


 メイの肩が、目に見えて小さく震えた。


 エリーゼ自身もまた、ほんの少しだけ顔色を失っていた。


 霧が流れる。


 足元を這い、膝に絡み、腰のあたりまでゆっくりと上がってくる。


 その動きは、生き物のようだった。


 瞬は周囲を見回した。


「じゃあ、全員、離れるな」


 声は、いつもの軽さを失っていた。


「見えたものが本物かどうか分からないなら、今ここにいる相手の声だけ信じろ」


 誰も笑わなかった。


 風もない。


 音もない。


 霧の奥で、何かが揺れた。


 最初に変化したのは、ゼイクの方だった。


 彼の背後で、霧が暗く沈む。


 白いはずの霧が、泥を含んだ水のように濁り、渦を巻き始めた。湿った土の匂いが強くなる。冷たい水が流れる音が、どこからともなく聞こえてきた。


 ざああ。


 ざああ。


 それは谷の水音ではなかった。


 もっと深い、重い音。


 大量の泥が流れ落ちてくる音。


 ゼイクの顔から血の気が引いた。


「……違う」


 彼の声が、かすれた。


 霧の奥に、細い少女の影が浮かんだ。


 輪郭はぼやけている。顔もはっきりとは見えない。けれど、ゼイクはそれを見ただけで動けなくなった。


 泥流に飲まれかける少女。


 伸ばされた手。


 濡れた髪。


 そして、声。


「あなたのせいよ」


 ゼイクの膝が、わずかに揺れた。


 メイが息を呑む。


 瞬が一歩踏み出そうとする。


 だが、エリーゼが低く言った。


「待って。むやみに触れないで。霧に引き込まれる」


 ゼイクは、剣の柄を握ったまま立ち尽くしていた。


 鎧の隙間を、冷たい汗が伝っている。額にも汗が浮かび、頬を一筋流れ落ちた。その汗は、谷の湿気よりも冷たく見えた。


「違う……」


 ゼイクは呟いた。


「俺は……助けようと……」


 霧の少女は、もう一度言った。


「あなたのせいよ」


 その声は、静かだった。


 だからこそ、深く刺さった。


 ゼイクの呼吸が乱れる。


 彼の背筋は、いつもまっすぐだった。どんな時でも姿勢を崩さない男だった。その彼の肩が、今、少しずつ下がっていく。


 瞬は拳を握った。


 メイは唇を噛んだ。


 エリーゼは、霧を睨んでいた。


 その横顔は青ざめていたが、まだ崩れてはいなかった。


 しかし霧は、ゼイクだけで終わらなかった。


 次に、メイの足元で、石が転がる音がした。


 からん。


 ありえない音だった。


 この谷に、乾いた石畳などない。


 それなのに、メイの耳にははっきり聞こえた。


 石が地面を跳ねる音。


 誰かが息を吸う音。


 そして、罵声。


「化け物」


 メイの体が、びくりと震えた。


 霧の中に、村人たちの影が浮かび上がる。


 顔は見えない。


 けれど、口だけが黒く開いていた。


「お前がいると不幸になる」


「近づくな」


「出ていけ」


 石が飛んだ。


 実際には霧だった。


 だが、メイは反射的に肩をすくめた。両腕で頭をかばい、白いアイガードを押さえる。指先が震えている。


「いや……」


 声は小さかった。


「見ないで……」


 瞬は動こうとした。


 今度こそ、我慢できなかった。


「メイ!」


 だが、その瞬間、エリーゼの呼吸が止まった。


 瞬は振り返る。


 エリーゼの前にも、霧が集まっていた。


 白い霧が、赤く染まり始めている。


 炎の色だった。


 揺れる赤。


 燃える橙。


 黒い煙。


 霧の奥に、数人の男女の背中が浮かぶ。


 誰かが笑っているように見えた。


 誰かが振り返らずに走っていくように見えた。


 エリーゼの顔から、完全に色が消えた。


 指先が震える。


 唇がわずかに開く。


「……いや」


 その声は、今までのエリーゼからは想像できないほど弱かった。


 霧の中から声がした。


「ごめんね、エリーゼ。君が囮になってくれ」


「足手まといなんだよ」


 エリーゼの膝が震えた。


 彼女は後ろへ下がろうとした。だが、足が動かない。


 喉が詰まる。


 息ができない。


 額に汗が浮かぶ。冷たい汗だった。こめかみから頬へ流れ、顎の先で小さく震えた。


「嫌……」


 エリーゼは、霧の中の背中へ手を伸ばしかけた。


「置いていかないで……」


 声が崩れる。


「私は、役に立つから……捨てないで……」


 瞬は、初めて見た。


 優雅で、皮肉屋で、人を寄せつけない魔女が、子供のように震える姿を。


 笑いなど、どこにもなかった。


 霧は静かに、彼らの古傷を暴き続けていた。


   *


 霧は、もうただの霧ではなかった。


 白いものが、足元から這い上がってくる。

 膝に絡み、腰にまとわりつき、指先へ冷たい湿り気を残していく。


 谷の底には風がない。


 それなのに、霧だけが動いていた。まるで目に見えない誰かが、四人の周囲をゆっくり歩き回っているようだった。湿った苔の匂いが濃くなり、甘ったるい花の香りが鼻の奥に張りつく。息を吸うたび、胸の中へ冷たい綿を詰め込まれていくような重さがあった。


 ゼイクの前では、泥の流れが渦を巻いていた。


 実際に泥水があるわけではない。

 そこにあるのは霧だ。


 それでも、音は本物だった。


 ざああ。

 ざあああ。


 山肌を削り、岩を巻き込み、木々をへし折りながら流れ落ちる重たい音。湿った土の匂い。水に濡れた髪が頬に張りつく感触まで、ゼイクにはありありと蘇っていた。


 霧の中に、少女の影が立っている。


 リリア。


 輪郭はぼやけている。顔もはっきりとは見えない。

 けれど、ゼイクには分かった。


 伸ばされた細い手。

 水に濡れた服。

 助けを求めるように見えた、その姿。


 だが、聞こえてきた声は、記憶とは違っていた。


「あなたのせいよ」


 ゼイクの呼吸が止まった。


 鎧の内側を、冷たい汗が伝う。背中に張りついたシャツが、急に氷のように冷えた。喉の奥が詰まり、声が出ない。


「違う……」


 かすれた声が漏れる。


「俺は、助けようと……」


「あなたが遅かったから」


 霧の少女が言う。


「あなたが完璧じゃなかったから」


 ゼイクの手が震えた。


 剣の柄を握る指に、力が入りすぎる。革手袋が小さくきしみ、関節が白くなる。


 彼はずっと、その言葉を恐れていた。


 誰かに責められることではない。

 自分自身が、心の底で何度も言い続けてきた言葉だった。


 もっと速ければ。

 もっと強ければ。

 もっと完璧であれば。


 救えたのではないか。


 その問いは、長い間ゼイクの背中に張りついていた。完璧であろうとするたび、白銀の鎧を磨くたび、姿勢を正すたび、その問いもまた磨かれて、消えるどころか鋭くなっていった。


「……すまない」


 ゼイクの膝が、わずかに沈んだ。


 泥などないはずの地面が、彼の足元だけ沈んでいくように見えた。


「俺は……」


 声が途切れる。


 霧の中のリリアは、手を伸ばしたまま動かない。


 その手は助けを求めているようにも、責めるために伸ばされているようにも見えた。


 瞬は一歩踏み出そうとした。


 だが、その横でメイが小さく呻いた。


「いや……」


 瞬の視線が動く。


 メイの周囲には、石畳が広がっていた。


 幻だった。


 幻霧の谷の湿った土は消え、代わりに、濡れてもいない乾いた石畳が霧の中から浮かび上がっている。夕暮れの広場。赤い焚き火。人々の影。かつてメイを囲んだ村人たちの輪。


 顔は見えない。


 霧でぼやけている。


 それなのに、口だけが黒く開いていた。


「化け物」


「お前がいると不幸になる」


「出ていけ」


 石が飛んだ。


 それは霧でできた石だった。


 だが、メイの体は覚えていた。


 肩に当たった鈍い痛み。

 額が割れた衝撃。

 血が左目の横を伝った時の熱。

 そして、さっきまで優しかった人たちの顔が、一瞬で恐怖と嫌悪に変わる音。


「やめて……」


 メイは耳を塞いだ。


 白いアイガードを押さえる指が震えている。膝が折れ、湿った地面へ崩れ落ちた。ローブの裾が霧に濡れ、冷たく重くなっていく。


「見ないで……」


 声は細く、今にも消えそうだった。


「私は、何も……」


 言い終える前に、また声が降ってくる。


「災いの目だ」


「近づくな」


「お前さえいなければ」


 メイの肩が大きく震えた。


 瞬は歯を食いしばった。


 今すぐ、その霧を全部吹き飛ばしたかった。

 メイを泣かせる声を、何もかも壊してしまいたかった。


 けれど、エリーゼの言葉が頭に残っている。


 むやみに触れれば、霧に引き込まれる。


 そして何より、これは外から来た敵ではない。

 メイの中に残り続けてきた傷が、霧に形を与えられているだけだった。


 殴れば消えるものではない。


 瞬は初めて、力でどうにもならないものを前にして、足を止めた。


「メイ……」


 声をかける。


 だが、その声は霧に吸われた。


 メイには届かない。


 その時、背後で、陶器が割れるような小さな音がした。


 振り返ると、エリーゼの手から小瓶が落ちていた。


 青い液体が湿った土に広がり、霧の中で淡く光っている。

 だが、エリーゼはそれを見る余裕すらなかった。


 彼女の前には、炎があった。


 白い霧が、赤く染まっている。


 谷底の冷たい空気の中で、そこだけが燃えていた。

 赤。

 橙。

 黒い煙。


 轟々と燃える音はしない。けれど、炎に包まれた景色は、あまりにも鮮やかだった。焦げた木の匂い。熱せられた鉄の臭い。煙を吸い込んだ時の喉の痛み。


 エリーゼの唇が震えた。


「……やめて」


 霧の奥に、数人の背中が見えた。


 大柄な男。

 細身の女。

 杖を握った誰か。

 そして、赤い髪の青年。


 顔は見えない。


 振り返ってくれない。


 ただ、炎の向こうで、エリーゼから離れていく。


 その背中たちを見た瞬間、エリーゼの表情が崩れた。


「待って……」


 彼女は、一歩踏み出そうとした。


 だが、足が動かない。膝が震え、指先が冷たくなっていく。額に汗が浮かんでいた。谷の空気は冷たいのに、その汗は次々と滲み、こめかみから頬へ流れ落ちる。


 霧の中から声がした。


「ごめんね、エリーゼ」


 優しい声だった。


 だからこそ、残酷だった。


「君が囮になってくれ」


 エリーゼの目が大きく開く。


 別の声が重なる。


「足手まといなんだよ」


「天才なら、一人でも逃げられるだろ」


「俺たちは先に行く」


 声が、霧の奥で歪んでいく。


 本当にそんな言葉だったのか。

 それとも、長い年月の中で、後悔と恐怖が言葉を捻じ曲げたのか。


 今のエリーゼには、分からない。


 分からないまま、その言葉だけが心に刺さり続けていた。


「違う……」


 エリーゼは首を振った。


 金色の髪が乱れ、頬に張りつく。


「私、まだやれる……私は、役に立つから……」


 声が震える。


 いつもの皮肉も、冷静さも、優雅さも、どこにもなかった。


 そこにいたのは、置いていかれまいと必死に手を伸ばす、一人の少女だった。


「捨てないで……」


 その声は、細く、痛ましかった。


「お願い……置いていかないで……レオン……」


 名前が、こぼれた。


 瞬は息を止めた。


 レオン。


 エリーゼは、自分が口にした名前に気づいていないようだった。


 霧の中の赤い髪の青年は、背を向けたまま立っている。炎の奥で、輪郭だけが揺れている。彼の手には、何か小さなものが光っていた。輪のようにも、欠けたガラスの飾りのようにも見えた。


 エリーゼの指が、自分の手元を探る。


 そこには何もない。


 あるはずのないものを探すように、彼女の指は空を掴んだ。


「私……ちゃんと、強くなるから……だから……」


 声が、涙に濡れていく。


「私を、一人にしないで……」


 霧が、さらに濃くなる。


 炎の赤が、エリーゼの瞳に映り込む。

 その赤は、雨上がりの日に彼女が抱えていたリンゴの赤と、どこか似ていた。


 甘くて、鮮やかで、そして痛い赤。


 瞬は、ようやく理解し始めていた。


 エリーゼがリンゴを見た時、なぜ一瞬だけ表情を失ったのか。

 なぜ誰かと歩くことを拒んだのか。

 なぜ「契約」という形でしか、外に出られなかったのか。


 彼女の時間は、あの炎の中で止まっている。


 仲間に見捨てられた。


 自分は役に立たなかった。


 弱かったから、捨てられた。


 そう信じて、ずっと閉じこもっていた。


 だが、霧が見せているものが真実とは限らない。


 エリーゼ自身がそう言った。


 恐怖や後悔が混ざれば、記憶は簡単に形を変える、と。


 それなのに今、彼女自身がその霧に飲み込まれている。


「エリーゼ!」


 瞬は叫んだ。


 声は霧を裂くように響いた。


 だが、エリーゼは反応しない。


 彼女の視線は、炎の向こうの背中に釘づけになっていた。


 ゼイクも動けない。

 メイも耳を塞いだまま、うずくまっている。


 三人とも、それぞれの傷の中へ沈んでいた。


 霧は、彼らの足元で形を変え始めた。


 白い糸のようなものが、地面から伸びる。

 それは草の根にも、蔦にも、濡れた髪にも見えた。細く、冷たく、粘り気を持ったものが、ゼイクの足首へ絡みつく。メイの手首に触れ、エリーゼのローブの裾を掴む。


 引きずり込もうとしている。


 心の底へ。

 後悔の底へ。

 二度と戻れない場所へ。


 瞬は拳を握った。


 湿った空気が、指の間で鳴る。

 霧が震えた。


 だが、彼はまだ殴らなかった。


 下手に力を振るえば、三人ごと壊してしまうかもしれない。霧だけを吹き飛ばせる自信はない。これまでなら「何とかなる」で済ませた。けれど今、目の前にいるのは、壊してはいけないものばかりだった。


 仲間ではないと言い張る契約相手。

 完璧であろうとして、ずっと自分を責め続けてきた騎士。

 誰よりも傷ついてきた、守りたい少女。


 瞬の胸の奥で、何かが熱くなる。


 怒りではない。


 焦りでもない。


 もっと静かで、もっと強いものだった。


「……ふざけんなよ」


 低い声が漏れた。


 霧が、わずかに揺れる。


 瞬は一歩踏み出した。


 霧の根が、彼の足にも絡みつこうとする。

 だが、触れた瞬間、じゅ、と音を立てて霧が弾けた。


 幻は、瞬の足を掴めなかった。


 彼の中には、霧が形にできるほど積もった過去の後悔がないのか。

 それとも、見せられたところで本人が理解できないだけなのか。


 理由は分からない。


 ただ、瞬だけが立っていた。


 白い霧の中で、ただ一人、今この場所に立っていた。


「ゼイク!」


 瞬は叫んだ。


 ゼイクの肩が、かすかに揺れる。


「メイ!」


 メイの指が、ほんの少しだけ動く。


「エリーゼ!」


 エリーゼの瞳に映る炎が、一瞬だけ揺れた。


 瞬は息を吸った。


 霧は、なおも三人を沈めようとしている。

 幻の声は止まらない。


「あなたのせいよ」


「化け物」


「足手まとい」


「囮になってくれ」


 それぞれの声が重なり、谷の底へ広がっていく。


 瞬は、その全部を正面から聞いた。


 そして、静かに言った。


「それ、本当に本人が言ったのかよ」


 霧が止まった。


 ほんの一瞬だけ。


 ゼイクの前の泥流が、揺れた。

 メイを囲む村人たちの影が、輪郭を崩した。

 エリーゼの前の炎が、赤い布のように波打った。


 瞬は、さらに一歩進む。


「お前らが一番怖がってる声を、霧が勝手に真似してるだけじゃないのか」


 その言葉に、誰も答えない。


 だが、エリーゼの唇が、小さく震えた。


「……違う」


 彼女は呟く。


「だって、あの人たちは……私を……」


 声が途切れる。


 炎の向こうで、赤い髪の青年が少しだけ振り返ったように見えた。


 顔は見えない。


 けれど、その口元が何かを言おうとしている。


 霧が、慌てたように濃くなった。


 青年の輪郭を隠す。

 炎を大きく見せる。

 声を歪ませる。


「足手まといだ」


「置いていく」


「邪魔だ」


 エリーゼの顔が、また苦しみに歪む。


 瞬は歯を食いしばった。


 まだ届かない。


 けれど、今、一瞬だけ揺れた。


 この幻は、完全ではない。


 エリーゼの中に、まだ疑問が残っている。

 恐怖に押し潰されながらも、どこかで本当の声を探している。


 瞬はその細い隙間を見逃さなかった。


「エリーゼ!」


 彼はもう一度叫んだ。


「お前、さっき言っただろ! 恐怖や後悔が混ざると、記憶は形を変えるって!」


 エリーゼの目が、わずかに瞬の方を向いた。


 涙で濡れた青い瞳。


 その奥に、ほんの少しだけ光が戻る。


「だったら今見えてるそれを、全部本物だって決めるな!」


 霧が唸った。


 谷底の空気が、重く沈む。


 足元の根が太くなり、三人をさらに強く縛ろうとする。白い霧の中に、黒い花の影が浮かび上がった。巨大な花弁。うねる触手。甘ったるい匂いの源。


 霧の奥に、何かがいる。


 四人に幻を見せ、この谷へ引きずり込もうとしているもの。


 瞬は、それを見た。


 まだ輪郭は薄い。


 だが、いる。


 次の瞬間、谷の奥から、低い音が響いた。


 ずずず……。


 地面の下で、何か巨大な根が動くような音だった。


 霧が渦を巻く。


 ゼイクは泥流の幻に膝をつき、メイは石を避けるように小さく丸まり、エリーゼは炎の中の背中に手を伸ばしたまま震えている。


 瞬だけが、その中央に立っていた。


 霧の奥で、甘い花の匂いがさらに濃くなる。


 白い世界の向こうから、何かが笑ったような気がした。


 次の瞬間、エリーゼの足元が沈んだ。


「エリーゼ!」


 瞬が叫ぶ。


 エリーゼの体が、霧の中へ引きずられる。


 彼女の手が宙を掴んだ。


 その指先は、まだ炎の向こうの誰かへ伸ばされている。


「レオン……」


 かすれた声。


 それが、霧の谷に消えかける。


 瞬は地面を蹴った。


 湿った土が爆ぜる。

 白い霧が、衝撃で一瞬だけ割れる。


 彼の手が、エリーゼへ伸びた。


 だが、その指先が届く直前、霧の奥から黒い触手が何本も伸び、二人の間を遮った。


 ぬるりとした影。


 甘い花の匂い。


 冷たい湿気。


 瞬の目が、鋭くなる。


「……なるほど」


 彼は低く呟いた。


「やっと本体のお出ましか」


 霧の奥で、巨大な花の影がゆっくりと開いた。


 笑いはなかった。


 救いもまだなかった。


 ただ、古傷を餌にする何かが、白い谷の底で静かに目を覚ました。

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