第27話:転がるリンゴと、優雅な引きこもり 〜偶然とは、閉じた扉の前に落ちる小さな音である〜
初夏の空は、ひどく気まぐれだった。
朝には青く澄み渡っていた王都グランドルの空が、昼前には急に灰色の雲をかぶり、何の前触れもなく大粒の雨を落とした。白い石造りの街並みは一瞬で濡れ、屋根瓦を叩く雨音が、ざああ、と街全体を包み込んだ。
けれど、その雨も長くは続かなかった。
雲は風に押されるように東へ流れ、今は薄い陽光が王都の上に戻っている。
雨上がりの石畳は、まだ濡れていた。
通りに敷き詰められた灰色の石は、昼の光を受けて鈍く光り、ところどころに浅い水たまりを残している。そこへ屋根の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと小さな輪を広げた。
雨に洗われた街の匂いは、いつもより濃かった。
湿ったレンガの匂い。
濡れた木の看板から立ち上る古い香り。
軒先に吊るされた薬草が水を含み、青く苦い匂いを放っている。
その隙間に、パン屋から漂う焼き立ての小麦の甘い匂いが混じった。
風が吹く。
細い路地に入り込んだ風は、濡れた石壁に沿ってひんやりと流れ、軒先の薬草をかさりと鳴らした。雨粒を抱いた葉が揺れ、陽を受けた水滴が小さな光を散らす。
そんな裏通りを、瞬は一人で歩いていた。
鼻歌まじりだった。
「ふんふんふーん……」
明らかに、ただの散歩ではない。
本人はあくまで自然体を装っている。だが、その歩く方向は、昨日リナに教えられた魔女の隠れ家のある西側の古い商店街へ、まっすぐ向かっていた。
三人で行って駄目だった。
なら、一人で行けばどうか。
瞬の思考は、いつも通り単純だった。けれど今回は、少しだけ慎重でもあった。
昨日、メイは言った。
あの人は怖がっている気がする、と。
瞬はその言葉を、ちゃんと覚えていた。
力で押せば、たぶん扉は開く。結界も壊せるかもしれない。だが、それでは意味がない。怯えて閉じこもっている相手の家の壁をぶち抜いて、「こんにちは」と笑うほど、瞬も終わってはいなかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「まあ、今日は偶然散歩してるだけだしな」
瞬は誰に言うでもなく呟いた。
濡れた石畳を踏む靴音が、こつ、こつ、と路地に響く。彼の足取りは軽い。雨上がりの空気は涼しく、湿った風が頬を撫でていく。
その時、通りの向こうから、小さな足音が聞こえた。
こつ。
こつ。
少し不安定な音だった。
瞬は足を止める。
細い坂道の上から、一人の女性が歩いてきていた。
両腕に大きな紙袋を抱えている。
紙袋は、少し濡れていた。雨上がりの空気を吸って、底の方が柔らかくなっている。中には野菜や瓶詰め、細長いパンらしきものが詰め込まれていて、その隙間から、赤いものがいくつも覗いていた。
リンゴだった。
鮮やかな赤。
雨に洗われた街の灰色の中で、それだけがやけにくっきりと目立っていた。濡れた薄皮が光を受け、まるで小さな夕焼けを抱えているように艶めいている。
女性の足取りは、危なかった。
紙袋が重いのだろう。細い腕が少し震えている。彼女は視界の大半を荷物に塞がれたまま、濡れた石段を慎重に下りていた。
瞬は思わず眉を上げた。
「あれ、危ないな」
その瞬間。
女性の靴先が、石畳の段差に引っかかった。
「あ……」
小さな声が漏れた。
時間が、伸びた。
紙袋が傾く。
濡れて弱くなっていた底が、びり、と破れた。
真っ赤なリンゴが、雨上がりの光の中へ飛び出す。
一個。
二個。
三個。
さらに、ころころと坂道へ落ちていく。
丸い果実は濡れた石畳の上で勢いを増し、坂を下って転がり出した。赤い点がいくつも跳ねる。水たまりを割り、小さな飛沫を上げ、路地の光を一瞬ずつ弾いた。
同時に、女性の体も前へ倒れる。
荷物を抱えたままでは、手をつくこともできない。濡れた石畳が目の前に迫る。彼女の長い金髪が、ふわりと宙へ広がった。
瞬は動いていた。
本人としては、少し急いだだけだった。
けれど、路地の風が裂けた。
水たまりの表面が、細かく波立つ。軒先の薬草が一斉に揺れ、壁際にいた小さな黒猫が、何かを察して飛び上がった。
瞬はまず、坂道を転がるリンゴを拾った。
一個目。
足元で跳ねたものを、靴先で軽く浮かせて手に取る。
二個目。
水たまりに落ちる直前、指先でつまむ。
三個目。
壁にぶつかりそうになったものを、肘でそっと受け止める。
四個目、五個目、六個目。
彼の手は、まるで最初からリンゴがどこへ転がるか知っていたように動いた。赤い果実が次々と腕の中へ集まっていく。ついでに落ちかけた瓶詰めを膝で受け、細長いパンを肩で止め、破れかけた紙袋を足の甲で持ち上げた。
もはや人助けというより、曲芸だった。
最後に、転びかけた女性の背へ手を回す。
「おっと、危ない」
声は軽かった。
けれど支える手は、驚くほど優しかった。
女性の体は、石畳に触れる寸前で止まった。
風だけが遅れて通り抜ける。
濡れた路地に、一瞬だけ静けさが落ちた。
ぽたり。
屋根から落ちた雫が、水たまりを叩く。
瞬の腕の中には、真っ赤なリンゴが山ほど抱えられていた。肩にはパン。膝には瓶。足元には、なぜか破れた紙袋が器用に乗っている。
女性は、瞬の腕に支えられたまま、しばらく固まっていた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
瞬は息を飲んだ。
美しい人だった。
年齢は、メイよりずっと上に見える。けれど、その美しさは派手ではない。華やかに人目を奪うというより、古い書物の間に挟まれた押し花のように、静かで、薄く、どこか壊れやすい。
色素の薄い金髪が、雨上がりの光を受けて淡く輝いている。頬は白く、唇はほんのりと赤い。青い瞳は澄んでいたが、その奥には、長い間光の少ない部屋にいた者だけが持つ、静かな翳りがあった。
まるで、時間から少し取り残された人のようだった。
女性は瞬を見た。
驚きに見開かれていた目が、次第に細くなる。
そして。
花が咲くように、柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
声は、想像していたよりも穏やかだった。
けれど、どこか奥の方に疲れがある。
「ふふ。やっぱり英雄さんは、リンゴを拾うのも魔法みたいなのね」
瞬は目を丸くした。
「俺を知ってるの?」
女性は、瞬の腕に山積みになったリンゴを一つ取った。
指先は白く細い。けれど、リンゴを持つ仕草だけは、不思議と慣れているように見えた。
「あなたが思っている以上に、世界はあなたを見ているのよ。佐藤瞬さん」
その名前を聞いた瞬の表情が、少しだけ変わった。
警戒ではない。
興味だった。
女性はその変化を見て、もう一度小さく笑った。
「それとも、今は“歩く災害”と呼んだ方がいいかしら?」
「その呼び名、どこまで広がってるの!?」
瞬の声が裏返った。
静かな路地に、その声だけが妙に明るく響いた。
女性は可笑しそうに目を細めた。
その笑みは上品だった。
だが、ほんの少しだけ意地悪だった。
瞬は、腕いっぱいのリンゴを抱えたまま、首を傾げる。
「もしかして、あなたが……」
女性は、彼の言葉を最後まで聞かず、破れた紙袋の残骸を見下ろした。
赤いリンゴが一つ、まだ石畳の上に残っている。
それは坂の途中で止まっていた。
雨水に濡れ、淡い光を受けて、静かに赤く光っている。
女性の目が、そのリンゴに一瞬だけ吸い寄せられた。
笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
その変化は、ほとんど誰にも気づかれないほど小さかった。
しかし瞬は見ていた。
彼女がその赤を見た瞬間、胸の奥にある何かへ触れられたように、ほんの一呼吸だけ言葉を失ったことを。
風が吹いた。
濡れた石畳の匂いが、二人の間を通り抜ける。
女性はすぐに表情を戻し、優雅に身を起こした。
「助けてもらったお礼をしなくてはね」
「お礼?」
「ええ。うちでお茶でもどうかしら」
瞬の目が輝いた。
女性は、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「探していたのでしょう? 魔女の隠れ家を」
その瞬間、瞬の腕の中のリンゴが、一個だけぽこんと跳ねた。
もちろん、瞬が驚いて腕に力を入れすぎたせいである。
「あ」
リンゴは空中へ浮いた。
そして、瞬はそれを何事もなかったように再びキャッチした。
女性はそれを見て、くすりと笑った。
「本当に、退屈しない人ね」
雨上がりの細い坂道で、真っ赤なリンゴが腕いっぱいに抱えられている。
閉ざされた魔女の扉は、まだ開いたわけではない。
けれど、扉の外で偶然転がった小さな果実が、静かにその鍵穴へ触れようとしていた。
*
魔女の隠れ家は、昨日三人で訪ねた時よりも、少しだけ違って見えた。
いや、建物そのものは同じだった。
路地裏の奥にひっそりと建つ、蔦に覆われた古い洋館。
灰色の石壁には雨粒が残り、絡みついた蔦の葉先から、ぽたり、ぽたりと透明な雫が落ちている。窓は厚いカーテンで閉ざされ、外から中の様子は見えない。小さな看板には、雨に濡れた文字で『魔女の隠れ家』と書かれている。
けれど、昨日は壁のように感じた場所が、今日は扉に見えた。
エリーゼが先に歩く。
その腕には、瞬が丁寧に詰め直した紙袋が抱えられていた。破れてしまった底は、瞬が通りがかりの店からもらった紐で、やけに器用に縛ってある。中ではリンゴがいくつも身を寄せ合い、歩くたびに、こつ、こつ、と小さく触れ合う音を立てた。
エリーゼは、その音にほんの少しだけ目を伏せた。
瞬はそれに気づいたが、何も聞かなかった。
聞きたいことはある。
なぜリンゴなのか。
なぜ、それを見た時だけ、表情が薄く揺れたのか。
なぜ、人を避ける魔女が、自分を家へ招こうとしているのか。
だが、今ここで踏み込むのは違う気がした。
メイが言っていた。
あの人は怖がっている気がする、と。
瞬はその言葉を、まだ覚えていた。
「どうしたの?」
エリーゼが振り返った。
雨上がりの薄い光が、彼女の金髪に淡く絡んでいる。髪の一房が頬に張りつき、白い肌に細い影を落としていた。
「いや、昨日はここで追い返されたなって思って」
「追い返したつもりはないわ」
「そうなの?」
「来ないようにしただけよ」
「それを追い返したって言うんじゃないかな」
瞬が真顔で言うと、エリーゼは少しだけ目を細めた。
「言葉の選び方って大事ね」
「今の俺、怒られてる?」
「ええ。かなり柔らかく」
「柔らかいならいいか」
「よくないわ」
その返しが、あまりにも自然だった。
瞬は、少しだけ驚いた。
昨日まで誰とも会えないと言われていた魔女。
強い結界で人を拒んでいた引きこもり。
そんな相手が、今はごく普通に、皮肉を交えて会話している。
ただし、その普通さは、薄い氷の上に置かれた花瓶のようだった。
少し乱暴に触れれば、割れてしまう。
エリーゼは扉の前に立ち、取っ手へ手をかざした。
瞬は、目を瞬かせる。
空気が変わった。
昨日、三人を路地の入口まで弾き飛ばした見えない膜が、静かに揺れる。水面に指を沈めた時のように、扉の前の景色がわずかに歪んだ。蔦の葉が風もないのに震え、石畳の水たまりに細かな波が広がる。
エリーゼの唇が、かすかに動いた。
聞き取れないほど短い言葉。
次の瞬間、結界がほどけた。
音はなかった。
ただ、周囲の空気から、張り詰めていた細い糸が一本抜けたような感覚があった。
エリーゼは扉を開けた。
きい、と古い蝶番が鳴る。
中から、薬草の香りが流れ出てきた。
乾いた葉。
甘く煮詰めた果実。
瓶詰めの薬液。
古い紙とインク。
それらが静かに混ざり合った匂いだった。
「どうぞ。足元に気をつけて」
「お邪魔します」
瞬は素直に頭を下げて、中へ入った。
室内は、想像していたよりずっと広かった。
外から見た時は、小さな店のように見えた。けれど中へ入ると、奥行きがある。天井は高く、壁際には天井まで届く本棚が並んでいた。棚には分厚い本、巻かれた羊皮紙、ラベルの貼られた小瓶、乾燥させた薬草の束がぎっしり詰め込まれている。
床には、ところどころに木箱が積まれていた。
箱の中には根菜や薬草、空き瓶、金属製の道具が入っている。研究器具らしいガラス管は、窓際の机の上で淡い光を反射していた。
雑然としている。
しかし、不思議と汚くはなかった。
物が多すぎるだけで、どれも使い込まれ、置かれるべき理由があるように見える。古い椅子の背には薄いショールが掛けられ、丸いテーブルの上には読みかけの本が伏せてあった。暖炉には小さな火が入っており、赤い光が部屋の奥を柔らかく照らしている。
外の雨上がりの冷たさとは違う、閉ざされた部屋の温もりがあった。
けれど、その温もりは人を招くためのものではない。
長い間、一人で自分を保つために灯されてきた火のようだった。
「……すごいな」
瞬は思わず呟いた。
「何が?」
「この部屋。物は多いけど、全部ちゃんと生きてる感じがする」
エリーゼは意外そうに瞬を見た。
「もっと、『散らかってる』とか『魔女っぽい』とか言うかと思ったわ」
「魔女っぽいとは思った」
「言うのね」
「でも、かっこいい魔女っぽい」
「……褒めているのかしら」
「かなり」
エリーゼは少しだけ困った顔をした。
褒められることに慣れていない人の顔だった。
彼女は紙袋をテーブルに置き、リンゴを一つ一つ取り出した。赤い果実が、暗い室内に色を灯していく。灰色の本、茶色い木箱、琥珀色の薬瓶。その中に置かれたリンゴの赤は、あまりにも鮮やかだった。
一つだけ、エリーゼの手が止まる。
小さな傷のついたリンゴだった。
坂道で転がった時に、石畳にぶつかったのだろう。艶のある皮に、浅い擦り傷が入っている。
エリーゼはそれを指先でなぞった。
「……傷がついたわね」
「ごめん。全部拾ったつもりだったけど」
「あなたのせいじゃないわ」
彼女は静かに言った。
「転がったものに、傷がつくのは当然だもの」
瞬は黙った。
その声の奥にあるものが、軽く扱っていいものではないと分かったからだ。
暖炉の薪が、ぱち、と小さく鳴った。
その音が、妙に大きく聞こえた。
エリーゼはすぐに表情を戻し、リンゴを籠へ移した。
「座って。紅茶を淹れるわ」
「いいの?」
「誘ったのは私よ」
「じゃあ遠慮なく」
瞬は椅子へ座った。
その瞬間。
ぎしり。
椅子が嫌な音を立てた。
瞬が固まる。
エリーゼも固まる。
暖炉の火が、ぱち、と鳴る。
「……今、何か言った?」
エリーゼが静かに聞いた。
「椅子が」
「その椅子、百年以上前のものなの」
「立った方がいい?」
「いえ、もう少し静かに座って」
「椅子に静かに座るって、どうやるんだ?」
「あなたの場合、まず存在感を三割ほど減らすところからね」
「無理難題きた」
瞬は背筋を伸ばし、できるだけ体重を消すように座った。
できていなかった。
椅子はもう一度、ぎし、と鳴った。
エリーゼはこめかみを押さえた。
「規格外の英雄って、家具にも優しくないのね」
「家具には悪いと思ってる」
「人にも少しは思いなさい」
「思ってる。たぶん」
「たぶん」
エリーゼは呆れたように言いながらも、ほんの少しだけ笑っていた。
彼女は棚から茶葉の缶を取り出した。動きは静かで、無駄がない。湯を沸かす音が部屋に広がる。陶器のポットへ茶葉が落ち、熱い湯が注がれる。ふわりと香りが立った。
花のような香りだった。
だが甘すぎない。
雨に濡れた庭で、夜明け前に咲く白い花のような、澄んだ香り。
瞬は思わず深く息を吸った。
「うわ、いい匂い」
「安物ではないもの」
「高いやつ?」
「私の気分が少しだけ良い時に淹れるお茶よ」
「つまり、今ちょっと機嫌いい?」
エリーゼはカップへ紅茶を注ぎながら、目だけで瞬を見た。
「調子に乗らないことね」
「はい」
瞬は素直に返事をした。
エリーゼはカップを差し出す。
琥珀色の液体が、白い陶器の中で静かに揺れていた。窓の隙間から入る薄い光が表面に触れ、小さな金の線を描く。
瞬は一口飲んだ。
熱い。
けれど、舌に触れた瞬間、花の香りがふわりとほどけた。喉を通ると、胸の奥が少し温かくなる。派手な味ではない。だが、冷えていた場所に、ゆっくり灯りがともるような味だった。
「……うまい」
瞬は素直に言った。
「あなた、意外と味は分かるのね」
「意外って何だよ」
「もっと、肉と水と大量の炭水化物で生きている人だと思っていたわ」
「ほぼ合ってるけど、紅茶もうまい」
「そこは否定して」
エリーゼは自分のカップを持ち、向かいの椅子に腰を下ろした。
そこで、会話が途切れた。
部屋の中に沈黙が落ちる。
それは気まずい沈黙だった。
外の路地からは、雨水が石畳を流れる音がかすかに聞こえる。
暖炉の火が、時折小さく爆ぜる。
棚の奥で、ガラス瓶の中の液体が、ほんのわずかに揺れる。
エリーゼはカップの縁を指でなぞっていた。
瞬は、無理に話を急がなかった。
いつもの彼なら、ここで勢いよく「仲間になってくれ!」と言っていただろう。
だが、今日は違った。
彼女が扉を開けたのは、リンゴを拾ったからかもしれない。
あるいは、偶然の気まぐれかもしれない。
どちらにせよ、この沈黙を乱暴に破れば、また扉は閉まる。
だから、瞬は紅茶を飲んだ。
二口目。
三口目。
カップを置く音だけが、ことり、と静かに響いた。
やがて、エリーゼが先に口を開いた。
「昨日、来たでしょう」
「うん」
「三人で」
「うん」
「どうしてまた来たの?」
「会いたかったから」
瞬は即答した。
エリーゼの指が止まる。
「……ずいぶん簡単に言うのね」
「難しく言った方がいい?」
「いえ。簡単すぎて、逆に困るわ」
「じゃあ困ってて」
「あなた、本当に失礼ね」
エリーゼはそう言いながら、少しだけ息を吐いた。
怒ってはいなかった。
むしろ、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。
「私に会って、何をしたかったの?」
エリーゼの声は静かだった。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
その音が、部屋の奥まで細く伸びていく。壁一面の本棚、薬草の束、琥珀色の液体を閉じ込めた小瓶たち。そのすべてが、二人の会話を聞いているように、じっと沈黙していた。
瞬は、カップを置いた。
白い陶器が木のテーブルに触れ、ことり、と乾いた音を立てる。
「仲間になってほしい」
言葉は、まっすぐだった。
飾りも、遠回しな言い方もなかった。
エリーゼの指が止まる。
彼女は、しばらく瞬を見ていた。青い瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。驚きではない。怒りでもない。もっと深い場所に沈んでいた古い痛みが、うっかり水面へ浮かび上がってしまったような揺れだった。
やがて、エリーゼは薄く笑った。
その笑みは、先ほどまでの上品な余裕とは違っていた。
綺麗なのに、ひどく冷たい。
「ごめんなさい」
短い返事だった。
瞬は黙って待った。
エリーゼは、カップの中の紅茶を見下ろす。琥珀色の液体の表面に、暖炉の赤い光が小さく揺れていた。
「私はもう、誰かと群れるのはやめたの」
その声は、静かだった。
けれど、静かすぎた。
強い拒絶は、怒鳴り声になるとは限らない。
本当に深いところで決めてしまった人の声は、むしろひどく穏やかになる。
「誰かと一緒に歩くと、期待してしまう。信じてしまう。失いたくないものが増える。……そういうのは、もう十分」
窓の外で、雨上がりの雫が落ちた。
ぽたり。
その音が、沈黙の底へ沈んでいく。
瞬は、何も言わなかった。
いつもの彼なら、ここで「まあまあ」と笑いながら押したかもしれない。けれど今、目の前にいるエリーゼは、ただの気難しい魔女ではなかった。
閉じている。
そう感じた。
扉を閉めているのではない。
扉の向こうに、さらに壁を作り、その奥に小さく座り込んでいる。
それでも、エリーゼは完全に外を捨てたわけではない。
こんな紅茶を淹れる人が。
メイの痛みに合うような薬を作る人が。
転がったリンゴを、あんなふうに見つめる人が。
本当に何もかも拒んでいるはずがない。
「そっか」
瞬は、あっさり頷いた。
エリーゼが、わずかに眉を動かす。
「……ずいぶん簡単に引くのね」
「仲間が嫌なら、仲間じゃなくていい」
「え?」
「契約にしよう」
エリーゼの目が細くなった。
「契約?」
「そう」
瞬は、いつもの調子を少しだけ取り戻して、身を乗り出した。
その瞬間。
ぎしり。
椅子が不穏な音を立てた。
エリーゼの視線が、瞬から椅子へ移る。
「……その椅子、百年以上前のものなの」
「ごめん、すぐ静かにする」
「あなた、座っているだけで家具に試練を与えるのね」
「家具には申し訳ないと思ってる」
「人にも少しは思いなさい」
「思ってる。だから契約の話をしてる」
瞬は真顔で言った。
エリーゼは、呆れたように息を吐く。けれど、完全に話を切る様子はなかった。
「聞くだけ聞いてあげるわ」
「俺の魔力、気になるんだろ?」
その一言で、エリーゼの目の奥が変わった。
ほんの一瞬。
研究者の目だった。
静かで、鋭く、獲物を見つけた猫のように光る目。
「……気になるわね」
「やっぱり」
「あなたの魔力は異常よ。量も、質も、流れ方も、普通じゃない。さっきリンゴを拾った時も、動きに無駄がないのに、周囲の空気が一瞬だけ歪んだ。身体能力だけじゃ説明がつかない」
「なんか専門的っぽい」
「あなた、自分の体のことなのに他人事ね」
「だって、よく分かってないし」
「そこが一番怖いのよ」
エリーゼは、カップを置いた。
その音は、先ほどよりも少しだけ生きていた。
「あなたを調べれば、面白いことが分かるかもしれない。魔力の流れ、回復速度、肉体への負荷、外部からの干渉への反応……」
言葉を重ねるほど、エリーゼの声に熱が戻っていく。
閉ざされた部屋の中で、長い間眠っていた火種に、ほんの少しだけ風が触れたようだった。
瞬は、にやりと笑った。
「じゃあ、俺が実験台になる」
エリーゼの表情が止まった。
「……今、何て?」
「俺を調べていい。魔力でも何でも。危なくない範囲なら、好きに研究していい」
「あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」
「たぶん」
「たぶんで実験台になろうとしないで」
「でも、その代わり」
瞬は指を一本立てた。
「たまにクエストを手伝ってくれ」
部屋に、沈黙が落ちた。
暖炉の火が、赤く揺れる。
薬草の束が、天井近くでわずかに揺れた。
外の路地を風が通り、雨に濡れた蔦の葉をかすかに鳴らす。
エリーゼは瞬を見つめていた。
「……それは、仲間になるのと何が違うの?」
「全然違うだろ」
「どこが?」
「仲間じゃなくて、仕事の契約だ」
瞬は堂々と言った。
「俺は実験台を提供する。エリーゼは、その対価として、たまにクエストを手伝う。お互いに得がある。気持ちとか信頼とか、いきなり重いものを持たなくていい」
エリーゼの瞳が、わずかに揺れた。
信頼。
その言葉に、彼女は小さく反応した。
瞬は、それに気づいても踏み込まなかった。
「もちろん、嫌なら断っていい。無理に連れ出す気はない」
「……本当に?」
「本当に」
「あなた、昨日は三人で押しかけてきたじゃない」
「あれは、ちょっと圧が強かったなって反省した」
「ちょっと?」
「かなり」
「分かっているならいいわ」
エリーゼは、目を伏せた。
長い睫毛が、白い頬に細い影を落とす。彼女の指先は、テーブルの上のリンゴに触れていた。坂道で転がった時についた小さな傷を、ゆっくりとなぞっている。
「私は、誰かと並んで歩くつもりはないわ」
「うん」
「誰かの背中を預かるつもりもない」
「うん」
「あなたたちの仲間になったわけではない」
「うん」
「ただの契約。研究対象と、対価としての協力。それだけ」
瞬は頷いた。
「それでいい」
エリーゼは、しばらく黙っていた。
それだけ、と言いながら、その言葉を自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
やがて彼女は立ち上がり、本棚の横にある小さな机へ向かった。引き出しを開け、薄い羊皮紙を一枚取り出す。羽ペンの先をインクに浸し、流れるような筆致で文字を書き始めた。
ペン先が紙を撫でる音が、静かな部屋に響く。
さらさら。
さらさら。
その音は、雨上がりの路地を流れる細い水のようだった。
「契約内容」
エリーゼは読み上げる。
「一つ。佐藤瞬は、本人の安全が確保される範囲で、エリーゼの魔力研究に協力する」
「安全が確保される範囲って大事だな」
「当たり前よ。貴重な研究対象を壊してどうするの」
「人としてじゃなくて、研究対象として心配されてる?」
「両方よ。たぶん」
「たぶん返しされた」
エリーゼは無視して続けた。
「二つ。エリーゼは、その対価として、佐藤瞬が必要と判断した一部の依頼に、臨時協力者として同行する」
「一部ってところ、逃げ道作ったな」
「当然よ。毎回連れ出されるなんて冗談じゃないわ」
「三つ目は?」
「三つ。これは仲間入りではない」
エリーゼの声が、少しだけ強くなった。
「私は、あなたたちの仲間ではない。契約相手よ」
瞬は笑った。
「分かった」
「本当に分かっているの?」
「分かってる。仲間じゃなくて契約相手」
「なら、その顔は何?」
「いや、最初の一歩としては十分だなって」
「そういうところが油断ならないのよ」
エリーゼは羽ペンを置き、羊皮紙を瞬へ差し出した。
「署名して」
「血判とかいる?」
「いらないわ。家具を壊されるだけで十分面倒なのに、床に血まで落とされたら困るもの」
「俺、どんな扱いなんだ」
「歩く危険物」
「その呼び名、定着させるのやめよう?」
瞬は苦笑しながら署名した。
文字は少し歪んでいた。こちらの世界の文字にまだ慣れていないのだ。エリーゼはその文字を見て、ほんの少し眉を上げたが、何も言わなかった。
契約書の上に、二つの名前が並ぶ。
佐藤瞬。
エリーゼ。
それは、仲間の証ではなかった。
温かい握手でも、信頼の誓いでもない。
ただ、条件と対価を並べた紙切れ。
けれどエリーゼにとっては、そのくらいの距離だからこそ、受け取れるものだった。
誰かの優しさは怖い。
誰かの期待は重い。
誰かの隣に立つことは、また失う未来を想像させる。
でも、契約なら。
紙の上に書かれた約束なら。
踏み出す理由にできる。
エリーゼは契約書を半分に折り、引き出しの中へしまった。
「これで成立よ」
「やった」
瞬は拳を握った。
「これでポーション飲み放題――」
「ではないわ」
エリーゼの声が鋭く飛んだ。
「そこは違うの!?」
「当然でしょう。薬には材料費と手間がかかるの。飲み放題にしたら、あなた一人でうちの在庫を滅ぼしそうだもの」
「俺、そんなに飲まないって」
「信用できないわ」
「信頼関係ゼロ!」
「契約相手だから」
エリーゼは涼しい顔で紅茶を飲んだ。
瞬は肩を落としたが、すぐに立ち直った。
「まあいいか。とにかく、たまに手伝ってくれるんだろ?」
「契約の範囲内ならね」
「じゃあ、今度メイとゼイクにも紹介する」
エリーゼの指が、カップの縁で止まった。
その表情に、ほんの少しだけ硬さが戻る。
「……いきなり大勢は嫌よ」
「大勢って言っても二人だぞ」
「あなたを含めれば三人。十分大勢よ」
「なるほど。引きこもり基準だ」
「殴るわよ」
「ごめん」
瞬は素直に謝った。
エリーゼはため息をつき、窓の外を見た。
雨上がりの光が、カーテンの隙間から細く入り込んでいる。その光の中を、埃がゆっくりと舞っていた。長い間閉じられていた部屋の空気が、ほんの少しだけ動いたように見えた。
「まずは、あなた一人で来なさい」
「分かった」
「研究の時だけよ」
「分かった」
「クエストに同行するかどうかは、その時ごとに私が決める」
「分かった」
「……本当に分かっているのかしら」
「分かってるって」
瞬は笑った。
その笑顔は、エリーゼには少し眩しかった。
昔、似たような光を見たことがある気がした。
泥だらけで、騒がしくて、強引で、勝手に人の領域へ踏み込んでくる誰か。
その記憶が胸の奥をかすめた瞬間、エリーゼは無意識にリンゴへ視線を落とした。
真っ赤な果実が、籠の中で静かに光っている。
彼女は、その赤を見ないように目を逸らした。
「今日は、もう帰って」
「え、もう?」
「契約は成立したでしょう。私は疲れたわ」
「そっか。じゃあ帰る」
瞬はあっさり立ち上がった。
椅子が、ぎしりと鳴る。
エリーゼの眉が跳ねた。
「……次から、あなた用の椅子を用意するわ」
「頑丈なやつでお願いします」
「岩でも置いておこうかしら」
「椅子じゃない」
「あなたには十分よ」
瞬は笑った。
エリーゼも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは、誰かと交わすにはあまりに小さな笑みだった。
けれど、長く閉じられていた部屋にとっては、それでも十分すぎる変化だった。
瞬は扉へ向かう。
エリーゼは見送るために立ち上がらなかった。ただ、テーブルのそばに座ったまま、彼の背中を見ていた。
扉が開く。
雨上がりの冷たい風が、部屋の中へ流れ込んだ。薬草の香りが揺れ、暖炉の火が小さく傾く。
「また来る」
瞬は振り返って言った。
「研究対象としてね」
エリーゼは念を押す。
「契約相手としてだろ?」
「ええ。契約相手として」
瞬は満足そうに頷いた。
「じゃあ、またな。エリーゼ」
彼女は返事をしなかった。
ただ、目を伏せる。
扉が閉まる。
かちゃり、と小さな音がして、部屋はまた静かになった。
けれど、完全に元通りではなかった。
テーブルの上には、二つのカップが残っている。
一つはエリーゼのもの。
もう一つは、瞬が使ったもの。
そこに残った紅茶の香りが、まだほんの少しだけ空気に溶けていた。
エリーゼは、契約書をしまった引き出しへ視線を向けた。
仲間ではない。
そう自分に言い聞かせる。
これはただの契約。
研究と対価。
それ以上ではない。
けれど、籠の中のリンゴが、かすかな光を受けて赤く揺れた。
エリーゼはそれを見て、長い間忘れていた胸の痛みを、ほんの少しだけ思い出した。
外では、瞬の足音が路地を遠ざかっていく。
こつ。
こつ。
こつ。
その音はやがて、雨上がりの街のざわめきに溶けて消えた。
閉じた扉の向こうに、また一人の足音が残った。
それはまだ、仲間の足音ではない。
けれど、完全な他人の足音でもなくなっていた。




