表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/41

第27話:転がるリンゴと、優雅な引きこもり 〜偶然とは、閉じた扉の前に落ちる小さな音である〜

初夏の空は、ひどく気まぐれだった。


 朝には青く澄み渡っていた王都グランドルの空が、昼前には急に灰色の雲をかぶり、何の前触れもなく大粒の雨を落とした。白い石造りの街並みは一瞬で濡れ、屋根瓦を叩く雨音が、ざああ、と街全体を包み込んだ。


 けれど、その雨も長くは続かなかった。


 雲は風に押されるように東へ流れ、今は薄い陽光が王都の上に戻っている。


 雨上がりの石畳は、まだ濡れていた。


 通りに敷き詰められた灰色の石は、昼の光を受けて鈍く光り、ところどころに浅い水たまりを残している。そこへ屋根の端から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと小さな輪を広げた。


 雨に洗われた街の匂いは、いつもより濃かった。


 湿ったレンガの匂い。

 濡れた木の看板から立ち上る古い香り。

 軒先に吊るされた薬草が水を含み、青く苦い匂いを放っている。

 その隙間に、パン屋から漂う焼き立ての小麦の甘い匂いが混じった。


 風が吹く。


 細い路地に入り込んだ風は、濡れた石壁に沿ってひんやりと流れ、軒先の薬草をかさりと鳴らした。雨粒を抱いた葉が揺れ、陽を受けた水滴が小さな光を散らす。


 そんな裏通りを、瞬は一人で歩いていた。


 鼻歌まじりだった。


「ふんふんふーん……」


 明らかに、ただの散歩ではない。


 本人はあくまで自然体を装っている。だが、その歩く方向は、昨日リナに教えられた魔女の隠れ家のある西側の古い商店街へ、まっすぐ向かっていた。


 三人で行って駄目だった。


 なら、一人で行けばどうか。


 瞬の思考は、いつも通り単純だった。けれど今回は、少しだけ慎重でもあった。


 昨日、メイは言った。


 あの人は怖がっている気がする、と。


 瞬はその言葉を、ちゃんと覚えていた。


 力で押せば、たぶん扉は開く。結界も壊せるかもしれない。だが、それでは意味がない。怯えて閉じこもっている相手の家の壁をぶち抜いて、「こんにちは」と笑うほど、瞬も終わってはいなかった。


 少なくとも、本人はそう思っていた。


「まあ、今日は偶然散歩してるだけだしな」


 瞬は誰に言うでもなく呟いた。


 濡れた石畳を踏む靴音が、こつ、こつ、と路地に響く。彼の足取りは軽い。雨上がりの空気は涼しく、湿った風が頬を撫でていく。


 その時、通りの向こうから、小さな足音が聞こえた。


 こつ。


 こつ。


 少し不安定な音だった。


 瞬は足を止める。


 細い坂道の上から、一人の女性が歩いてきていた。


 両腕に大きな紙袋を抱えている。


 紙袋は、少し濡れていた。雨上がりの空気を吸って、底の方が柔らかくなっている。中には野菜や瓶詰め、細長いパンらしきものが詰め込まれていて、その隙間から、赤いものがいくつも覗いていた。


 リンゴだった。


 鮮やかな赤。


 雨に洗われた街の灰色の中で、それだけがやけにくっきりと目立っていた。濡れた薄皮が光を受け、まるで小さな夕焼けを抱えているように艶めいている。


 女性の足取りは、危なかった。


 紙袋が重いのだろう。細い腕が少し震えている。彼女は視界の大半を荷物に塞がれたまま、濡れた石段を慎重に下りていた。


 瞬は思わず眉を上げた。


「あれ、危ないな」


 その瞬間。


 女性の靴先が、石畳の段差に引っかかった。


「あ……」


 小さな声が漏れた。


 時間が、伸びた。


 紙袋が傾く。


 濡れて弱くなっていた底が、びり、と破れた。


 真っ赤なリンゴが、雨上がりの光の中へ飛び出す。


 一個。


 二個。


 三個。


 さらに、ころころと坂道へ落ちていく。


 丸い果実は濡れた石畳の上で勢いを増し、坂を下って転がり出した。赤い点がいくつも跳ねる。水たまりを割り、小さな飛沫を上げ、路地の光を一瞬ずつ弾いた。


 同時に、女性の体も前へ倒れる。


 荷物を抱えたままでは、手をつくこともできない。濡れた石畳が目の前に迫る。彼女の長い金髪が、ふわりと宙へ広がった。


 瞬は動いていた。


 本人としては、少し急いだだけだった。


 けれど、路地の風が裂けた。


 水たまりの表面が、細かく波立つ。軒先の薬草が一斉に揺れ、壁際にいた小さな黒猫が、何かを察して飛び上がった。


 瞬はまず、坂道を転がるリンゴを拾った。


 一個目。


 足元で跳ねたものを、靴先で軽く浮かせて手に取る。


 二個目。


 水たまりに落ちる直前、指先でつまむ。


 三個目。


 壁にぶつかりそうになったものを、肘でそっと受け止める。


 四個目、五個目、六個目。


 彼の手は、まるで最初からリンゴがどこへ転がるか知っていたように動いた。赤い果実が次々と腕の中へ集まっていく。ついでに落ちかけた瓶詰めを膝で受け、細長いパンを肩で止め、破れかけた紙袋を足の甲で持ち上げた。


 もはや人助けというより、曲芸だった。


 最後に、転びかけた女性の背へ手を回す。


「おっと、危ない」


 声は軽かった。


 けれど支える手は、驚くほど優しかった。


 女性の体は、石畳に触れる寸前で止まった。


 風だけが遅れて通り抜ける。


 濡れた路地に、一瞬だけ静けさが落ちた。


 ぽたり。


 屋根から落ちた雫が、水たまりを叩く。


 瞬の腕の中には、真っ赤なリンゴが山ほど抱えられていた。肩にはパン。膝には瓶。足元には、なぜか破れた紙袋が器用に乗っている。


 女性は、瞬の腕に支えられたまま、しばらく固まっていた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


 瞬は息を飲んだ。


 美しい人だった。


 年齢は、メイよりずっと上に見える。けれど、その美しさは派手ではない。華やかに人目を奪うというより、古い書物の間に挟まれた押し花のように、静かで、薄く、どこか壊れやすい。


 色素の薄い金髪が、雨上がりの光を受けて淡く輝いている。頬は白く、唇はほんのりと赤い。青い瞳は澄んでいたが、その奥には、長い間光の少ない部屋にいた者だけが持つ、静かな翳りがあった。


 まるで、時間から少し取り残された人のようだった。


 女性は瞬を見た。


 驚きに見開かれていた目が、次第に細くなる。


 そして。


 花が咲くように、柔らかく微笑んだ。


「……ありがとう」


 声は、想像していたよりも穏やかだった。


 けれど、どこか奥の方に疲れがある。


「ふふ。やっぱり英雄さんは、リンゴを拾うのも魔法みたいなのね」


 瞬は目を丸くした。


「俺を知ってるの?」


 女性は、瞬の腕に山積みになったリンゴを一つ取った。


 指先は白く細い。けれど、リンゴを持つ仕草だけは、不思議と慣れているように見えた。


「あなたが思っている以上に、世界はあなたを見ているのよ。佐藤瞬さん」


 その名前を聞いた瞬の表情が、少しだけ変わった。


 警戒ではない。


 興味だった。


 女性はその変化を見て、もう一度小さく笑った。


「それとも、今は“歩く災害”と呼んだ方がいいかしら?」


「その呼び名、どこまで広がってるの!?」


 瞬の声が裏返った。


 静かな路地に、その声だけが妙に明るく響いた。


 女性は可笑しそうに目を細めた。


 その笑みは上品だった。


 だが、ほんの少しだけ意地悪だった。


 瞬は、腕いっぱいのリンゴを抱えたまま、首を傾げる。


「もしかして、あなたが……」


 女性は、彼の言葉を最後まで聞かず、破れた紙袋の残骸を見下ろした。


 赤いリンゴが一つ、まだ石畳の上に残っている。


 それは坂の途中で止まっていた。


 雨水に濡れ、淡い光を受けて、静かに赤く光っている。


 女性の目が、そのリンゴに一瞬だけ吸い寄せられた。


 笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


 その変化は、ほとんど誰にも気づかれないほど小さかった。


 しかし瞬は見ていた。


 彼女がその赤を見た瞬間、胸の奥にある何かへ触れられたように、ほんの一呼吸だけ言葉を失ったことを。


 風が吹いた。


 濡れた石畳の匂いが、二人の間を通り抜ける。


 女性はすぐに表情を戻し、優雅に身を起こした。


「助けてもらったお礼をしなくてはね」


「お礼?」


「ええ。うちでお茶でもどうかしら」


 瞬の目が輝いた。


 女性は、少しだけ悪戯っぽく笑う。


「探していたのでしょう? 魔女の隠れ家を」


 その瞬間、瞬の腕の中のリンゴが、一個だけぽこんと跳ねた。


 もちろん、瞬が驚いて腕に力を入れすぎたせいである。


「あ」


 リンゴは空中へ浮いた。


 そして、瞬はそれを何事もなかったように再びキャッチした。


 女性はそれを見て、くすりと笑った。


「本当に、退屈しない人ね」


 雨上がりの細い坂道で、真っ赤なリンゴが腕いっぱいに抱えられている。


 閉ざされた魔女の扉は、まだ開いたわけではない。


 けれど、扉の外で偶然転がった小さな果実が、静かにその鍵穴へ触れようとしていた。


 *


 魔女の隠れ家は、昨日三人で訪ねた時よりも、少しだけ違って見えた。


 いや、建物そのものは同じだった。


 路地裏の奥にひっそりと建つ、蔦に覆われた古い洋館。

 灰色の石壁には雨粒が残り、絡みついた蔦の葉先から、ぽたり、ぽたりと透明な雫が落ちている。窓は厚いカーテンで閉ざされ、外から中の様子は見えない。小さな看板には、雨に濡れた文字で『魔女の隠れ家』と書かれている。


 けれど、昨日は壁のように感じた場所が、今日は扉に見えた。


 エリーゼが先に歩く。


 その腕には、瞬が丁寧に詰め直した紙袋が抱えられていた。破れてしまった底は、瞬が通りがかりの店からもらった紐で、やけに器用に縛ってある。中ではリンゴがいくつも身を寄せ合い、歩くたびに、こつ、こつ、と小さく触れ合う音を立てた。


 エリーゼは、その音にほんの少しだけ目を伏せた。


 瞬はそれに気づいたが、何も聞かなかった。


 聞きたいことはある。


 なぜリンゴなのか。

 なぜ、それを見た時だけ、表情が薄く揺れたのか。

 なぜ、人を避ける魔女が、自分を家へ招こうとしているのか。


 だが、今ここで踏み込むのは違う気がした。


 メイが言っていた。

 あの人は怖がっている気がする、と。


 瞬はその言葉を、まだ覚えていた。


「どうしたの?」


 エリーゼが振り返った。


 雨上がりの薄い光が、彼女の金髪に淡く絡んでいる。髪の一房が頬に張りつき、白い肌に細い影を落としていた。


「いや、昨日はここで追い返されたなって思って」


「追い返したつもりはないわ」


「そうなの?」


「来ないようにしただけよ」


「それを追い返したって言うんじゃないかな」


 瞬が真顔で言うと、エリーゼは少しだけ目を細めた。


「言葉の選び方って大事ね」


「今の俺、怒られてる?」


「ええ。かなり柔らかく」


「柔らかいならいいか」


「よくないわ」


 その返しが、あまりにも自然だった。


 瞬は、少しだけ驚いた。


 昨日まで誰とも会えないと言われていた魔女。

 強い結界で人を拒んでいた引きこもり。

 そんな相手が、今はごく普通に、皮肉を交えて会話している。


 ただし、その普通さは、薄い氷の上に置かれた花瓶のようだった。


 少し乱暴に触れれば、割れてしまう。


 エリーゼは扉の前に立ち、取っ手へ手をかざした。


 瞬は、目を瞬かせる。


 空気が変わった。


 昨日、三人を路地の入口まで弾き飛ばした見えない膜が、静かに揺れる。水面に指を沈めた時のように、扉の前の景色がわずかに歪んだ。蔦の葉が風もないのに震え、石畳の水たまりに細かな波が広がる。


 エリーゼの唇が、かすかに動いた。


 聞き取れないほど短い言葉。


 次の瞬間、結界がほどけた。


 音はなかった。


 ただ、周囲の空気から、張り詰めていた細い糸が一本抜けたような感覚があった。


 エリーゼは扉を開けた。


 きい、と古い蝶番が鳴る。


 中から、薬草の香りが流れ出てきた。


 乾いた葉。

 甘く煮詰めた果実。

 瓶詰めの薬液。

 古い紙とインク。

 それらが静かに混ざり合った匂いだった。


「どうぞ。足元に気をつけて」


「お邪魔します」


 瞬は素直に頭を下げて、中へ入った。


 室内は、想像していたよりずっと広かった。


 外から見た時は、小さな店のように見えた。けれど中へ入ると、奥行きがある。天井は高く、壁際には天井まで届く本棚が並んでいた。棚には分厚い本、巻かれた羊皮紙、ラベルの貼られた小瓶、乾燥させた薬草の束がぎっしり詰め込まれている。


 床には、ところどころに木箱が積まれていた。

 箱の中には根菜や薬草、空き瓶、金属製の道具が入っている。研究器具らしいガラス管は、窓際の机の上で淡い光を反射していた。


 雑然としている。


 しかし、不思議と汚くはなかった。


 物が多すぎるだけで、どれも使い込まれ、置かれるべき理由があるように見える。古い椅子の背には薄いショールが掛けられ、丸いテーブルの上には読みかけの本が伏せてあった。暖炉には小さな火が入っており、赤い光が部屋の奥を柔らかく照らしている。


 外の雨上がりの冷たさとは違う、閉ざされた部屋の温もりがあった。


 けれど、その温もりは人を招くためのものではない。


 長い間、一人で自分を保つために灯されてきた火のようだった。


「……すごいな」


 瞬は思わず呟いた。


「何が?」


「この部屋。物は多いけど、全部ちゃんと生きてる感じがする」


 エリーゼは意外そうに瞬を見た。


「もっと、『散らかってる』とか『魔女っぽい』とか言うかと思ったわ」


「魔女っぽいとは思った」


「言うのね」


「でも、かっこいい魔女っぽい」


「……褒めているのかしら」


「かなり」


 エリーゼは少しだけ困った顔をした。


 褒められることに慣れていない人の顔だった。


 彼女は紙袋をテーブルに置き、リンゴを一つ一つ取り出した。赤い果実が、暗い室内に色を灯していく。灰色の本、茶色い木箱、琥珀色の薬瓶。その中に置かれたリンゴの赤は、あまりにも鮮やかだった。


 一つだけ、エリーゼの手が止まる。


 小さな傷のついたリンゴだった。


 坂道で転がった時に、石畳にぶつかったのだろう。艶のある皮に、浅い擦り傷が入っている。


 エリーゼはそれを指先でなぞった。


「……傷がついたわね」


「ごめん。全部拾ったつもりだったけど」


「あなたのせいじゃないわ」


 彼女は静かに言った。


「転がったものに、傷がつくのは当然だもの」


 瞬は黙った。


 その声の奥にあるものが、軽く扱っていいものではないと分かったからだ。


 暖炉の薪が、ぱち、と小さく鳴った。


 その音が、妙に大きく聞こえた。


 エリーゼはすぐに表情を戻し、リンゴを籠へ移した。


「座って。紅茶を淹れるわ」


「いいの?」


「誘ったのは私よ」


「じゃあ遠慮なく」


 瞬は椅子へ座った。


 その瞬間。


 ぎしり。


 椅子が嫌な音を立てた。


 瞬が固まる。


 エリーゼも固まる。


 暖炉の火が、ぱち、と鳴る。


「……今、何か言った?」


 エリーゼが静かに聞いた。


「椅子が」


「その椅子、百年以上前のものなの」


「立った方がいい?」


「いえ、もう少し静かに座って」


「椅子に静かに座るって、どうやるんだ?」


「あなたの場合、まず存在感を三割ほど減らすところからね」


「無理難題きた」


 瞬は背筋を伸ばし、できるだけ体重を消すように座った。


 できていなかった。


 椅子はもう一度、ぎし、と鳴った。


 エリーゼはこめかみを押さえた。


「規格外の英雄って、家具にも優しくないのね」


「家具には悪いと思ってる」


「人にも少しは思いなさい」


「思ってる。たぶん」


「たぶん」


 エリーゼは呆れたように言いながらも、ほんの少しだけ笑っていた。


 彼女は棚から茶葉の缶を取り出した。動きは静かで、無駄がない。湯を沸かす音が部屋に広がる。陶器のポットへ茶葉が落ち、熱い湯が注がれる。ふわりと香りが立った。


 花のような香りだった。


 だが甘すぎない。

 雨に濡れた庭で、夜明け前に咲く白い花のような、澄んだ香り。


 瞬は思わず深く息を吸った。


「うわ、いい匂い」


「安物ではないもの」


「高いやつ?」


「私の気分が少しだけ良い時に淹れるお茶よ」


「つまり、今ちょっと機嫌いい?」


 エリーゼはカップへ紅茶を注ぎながら、目だけで瞬を見た。


「調子に乗らないことね」


「はい」


 瞬は素直に返事をした。


 エリーゼはカップを差し出す。


 琥珀色の液体が、白い陶器の中で静かに揺れていた。窓の隙間から入る薄い光が表面に触れ、小さな金の線を描く。


 瞬は一口飲んだ。


 熱い。


 けれど、舌に触れた瞬間、花の香りがふわりとほどけた。喉を通ると、胸の奥が少し温かくなる。派手な味ではない。だが、冷えていた場所に、ゆっくり灯りがともるような味だった。


「……うまい」


 瞬は素直に言った。


「あなた、意外と味は分かるのね」


「意外って何だよ」


「もっと、肉と水と大量の炭水化物で生きている人だと思っていたわ」


「ほぼ合ってるけど、紅茶もうまい」


「そこは否定して」


 エリーゼは自分のカップを持ち、向かいの椅子に腰を下ろした。


 そこで、会話が途切れた。


 部屋の中に沈黙が落ちる。


 それは気まずい沈黙だった。


 外の路地からは、雨水が石畳を流れる音がかすかに聞こえる。

 暖炉の火が、時折小さく爆ぜる。

 棚の奥で、ガラス瓶の中の液体が、ほんのわずかに揺れる。


 エリーゼはカップの縁を指でなぞっていた。


 瞬は、無理に話を急がなかった。


 いつもの彼なら、ここで勢いよく「仲間になってくれ!」と言っていただろう。

 だが、今日は違った。


 彼女が扉を開けたのは、リンゴを拾ったからかもしれない。

 あるいは、偶然の気まぐれかもしれない。

 どちらにせよ、この沈黙を乱暴に破れば、また扉は閉まる。


 だから、瞬は紅茶を飲んだ。


 二口目。


 三口目。


 カップを置く音だけが、ことり、と静かに響いた。


 やがて、エリーゼが先に口を開いた。


「昨日、来たでしょう」


「うん」


「三人で」


「うん」


「どうしてまた来たの?」


「会いたかったから」


 瞬は即答した。


 エリーゼの指が止まる。


「……ずいぶん簡単に言うのね」


「難しく言った方がいい?」


「いえ。簡単すぎて、逆に困るわ」


「じゃあ困ってて」


「あなた、本当に失礼ね」


 エリーゼはそう言いながら、少しだけ息を吐いた。


 怒ってはいなかった。


 むしろ、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。


「私に会って、何をしたかったの?」


 エリーゼの声は静かだった。


 暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。

 その音が、部屋の奥まで細く伸びていく。壁一面の本棚、薬草の束、琥珀色の液体を閉じ込めた小瓶たち。そのすべてが、二人の会話を聞いているように、じっと沈黙していた。


 瞬は、カップを置いた。


 白い陶器が木のテーブルに触れ、ことり、と乾いた音を立てる。


「仲間になってほしい」


 言葉は、まっすぐだった。


 飾りも、遠回しな言い方もなかった。


 エリーゼの指が止まる。


 彼女は、しばらく瞬を見ていた。青い瞳の奥で、何かがかすかに揺れた。驚きではない。怒りでもない。もっと深い場所に沈んでいた古い痛みが、うっかり水面へ浮かび上がってしまったような揺れだった。


 やがて、エリーゼは薄く笑った。


 その笑みは、先ほどまでの上品な余裕とは違っていた。


 綺麗なのに、ひどく冷たい。


「ごめんなさい」


 短い返事だった。


 瞬は黙って待った。


 エリーゼは、カップの中の紅茶を見下ろす。琥珀色の液体の表面に、暖炉の赤い光が小さく揺れていた。


「私はもう、誰かと群れるのはやめたの」


 その声は、静かだった。


 けれど、静かすぎた。


 強い拒絶は、怒鳴り声になるとは限らない。

 本当に深いところで決めてしまった人の声は、むしろひどく穏やかになる。


「誰かと一緒に歩くと、期待してしまう。信じてしまう。失いたくないものが増える。……そういうのは、もう十分」


 窓の外で、雨上がりの雫が落ちた。


 ぽたり。


 その音が、沈黙の底へ沈んでいく。


 瞬は、何も言わなかった。


 いつもの彼なら、ここで「まあまあ」と笑いながら押したかもしれない。けれど今、目の前にいるエリーゼは、ただの気難しい魔女ではなかった。


 閉じている。


 そう感じた。


 扉を閉めているのではない。

 扉の向こうに、さらに壁を作り、その奥に小さく座り込んでいる。


 それでも、エリーゼは完全に外を捨てたわけではない。


 こんな紅茶を淹れる人が。

 メイの痛みに合うような薬を作る人が。

 転がったリンゴを、あんなふうに見つめる人が。


 本当に何もかも拒んでいるはずがない。


「そっか」


 瞬は、あっさり頷いた。


 エリーゼが、わずかに眉を動かす。


「……ずいぶん簡単に引くのね」


「仲間が嫌なら、仲間じゃなくていい」


「え?」


「契約にしよう」


 エリーゼの目が細くなった。


「契約?」


「そう」


 瞬は、いつもの調子を少しだけ取り戻して、身を乗り出した。


 その瞬間。


 ぎしり。


 椅子が不穏な音を立てた。


 エリーゼの視線が、瞬から椅子へ移る。


「……その椅子、百年以上前のものなの」


「ごめん、すぐ静かにする」


「あなた、座っているだけで家具に試練を与えるのね」


「家具には申し訳ないと思ってる」


「人にも少しは思いなさい」


「思ってる。だから契約の話をしてる」


 瞬は真顔で言った。


 エリーゼは、呆れたように息を吐く。けれど、完全に話を切る様子はなかった。


「聞くだけ聞いてあげるわ」


「俺の魔力、気になるんだろ?」


 その一言で、エリーゼの目の奥が変わった。


 ほんの一瞬。


 研究者の目だった。


 静かで、鋭く、獲物を見つけた猫のように光る目。


「……気になるわね」


「やっぱり」


「あなたの魔力は異常よ。量も、質も、流れ方も、普通じゃない。さっきリンゴを拾った時も、動きに無駄がないのに、周囲の空気が一瞬だけ歪んだ。身体能力だけじゃ説明がつかない」


「なんか専門的っぽい」


「あなた、自分の体のことなのに他人事ね」


「だって、よく分かってないし」


「そこが一番怖いのよ」


 エリーゼは、カップを置いた。


 その音は、先ほどよりも少しだけ生きていた。


「あなたを調べれば、面白いことが分かるかもしれない。魔力の流れ、回復速度、肉体への負荷、外部からの干渉への反応……」


 言葉を重ねるほど、エリーゼの声に熱が戻っていく。


 閉ざされた部屋の中で、長い間眠っていた火種に、ほんの少しだけ風が触れたようだった。


 瞬は、にやりと笑った。


「じゃあ、俺が実験台になる」


 エリーゼの表情が止まった。


「……今、何て?」


「俺を調べていい。魔力でも何でも。危なくない範囲なら、好きに研究していい」


「あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」


「たぶん」


「たぶんで実験台になろうとしないで」


「でも、その代わり」


 瞬は指を一本立てた。


「たまにクエストを手伝ってくれ」


 部屋に、沈黙が落ちた。


 暖炉の火が、赤く揺れる。

 薬草の束が、天井近くでわずかに揺れた。

 外の路地を風が通り、雨に濡れた蔦の葉をかすかに鳴らす。


 エリーゼは瞬を見つめていた。


「……それは、仲間になるのと何が違うの?」


「全然違うだろ」


「どこが?」


「仲間じゃなくて、仕事の契約だ」


 瞬は堂々と言った。


「俺は実験台を提供する。エリーゼは、その対価として、たまにクエストを手伝う。お互いに得がある。気持ちとか信頼とか、いきなり重いものを持たなくていい」


 エリーゼの瞳が、わずかに揺れた。


 信頼。


 その言葉に、彼女は小さく反応した。


 瞬は、それに気づいても踏み込まなかった。


「もちろん、嫌なら断っていい。無理に連れ出す気はない」


「……本当に?」


「本当に」


「あなた、昨日は三人で押しかけてきたじゃない」


「あれは、ちょっと圧が強かったなって反省した」


「ちょっと?」


「かなり」


「分かっているならいいわ」


 エリーゼは、目を伏せた。


 長い睫毛が、白い頬に細い影を落とす。彼女の指先は、テーブルの上のリンゴに触れていた。坂道で転がった時についた小さな傷を、ゆっくりとなぞっている。


「私は、誰かと並んで歩くつもりはないわ」


「うん」


「誰かの背中を預かるつもりもない」


「うん」


「あなたたちの仲間になったわけではない」


「うん」


「ただの契約。研究対象と、対価としての協力。それだけ」


 瞬は頷いた。


「それでいい」


 エリーゼは、しばらく黙っていた。


 それだけ、と言いながら、その言葉を自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


 やがて彼女は立ち上がり、本棚の横にある小さな机へ向かった。引き出しを開け、薄い羊皮紙を一枚取り出す。羽ペンの先をインクに浸し、流れるような筆致で文字を書き始めた。


 ペン先が紙を撫でる音が、静かな部屋に響く。


 さらさら。


 さらさら。


 その音は、雨上がりの路地を流れる細い水のようだった。


「契約内容」


 エリーゼは読み上げる。


「一つ。佐藤瞬は、本人の安全が確保される範囲で、エリーゼの魔力研究に協力する」


「安全が確保される範囲って大事だな」


「当たり前よ。貴重な研究対象を壊してどうするの」


「人としてじゃなくて、研究対象として心配されてる?」


「両方よ。たぶん」


「たぶん返しされた」


 エリーゼは無視して続けた。


「二つ。エリーゼは、その対価として、佐藤瞬が必要と判断した一部の依頼に、臨時協力者として同行する」


「一部ってところ、逃げ道作ったな」


「当然よ。毎回連れ出されるなんて冗談じゃないわ」


「三つ目は?」


「三つ。これは仲間入りではない」


 エリーゼの声が、少しだけ強くなった。


「私は、あなたたちの仲間ではない。契約相手よ」


 瞬は笑った。


「分かった」


「本当に分かっているの?」


「分かってる。仲間じゃなくて契約相手」


「なら、その顔は何?」


「いや、最初の一歩としては十分だなって」


「そういうところが油断ならないのよ」


 エリーゼは羽ペンを置き、羊皮紙を瞬へ差し出した。


「署名して」


「血判とかいる?」


「いらないわ。家具を壊されるだけで十分面倒なのに、床に血まで落とされたら困るもの」


「俺、どんな扱いなんだ」


「歩く危険物」


「その呼び名、定着させるのやめよう?」


 瞬は苦笑しながら署名した。


 文字は少し歪んでいた。こちらの世界の文字にまだ慣れていないのだ。エリーゼはその文字を見て、ほんの少し眉を上げたが、何も言わなかった。


 契約書の上に、二つの名前が並ぶ。


 佐藤瞬。


 エリーゼ。


 それは、仲間の証ではなかった。


 温かい握手でも、信頼の誓いでもない。


 ただ、条件と対価を並べた紙切れ。


 けれどエリーゼにとっては、そのくらいの距離だからこそ、受け取れるものだった。


 誰かの優しさは怖い。

 誰かの期待は重い。

 誰かの隣に立つことは、また失う未来を想像させる。


 でも、契約なら。


 紙の上に書かれた約束なら。


 踏み出す理由にできる。


 エリーゼは契約書を半分に折り、引き出しの中へしまった。


「これで成立よ」


「やった」


 瞬は拳を握った。


「これでポーション飲み放題――」


「ではないわ」


 エリーゼの声が鋭く飛んだ。


「そこは違うの!?」


「当然でしょう。薬には材料費と手間がかかるの。飲み放題にしたら、あなた一人でうちの在庫を滅ぼしそうだもの」


「俺、そんなに飲まないって」


「信用できないわ」


「信頼関係ゼロ!」


「契約相手だから」


 エリーゼは涼しい顔で紅茶を飲んだ。


 瞬は肩を落としたが、すぐに立ち直った。


「まあいいか。とにかく、たまに手伝ってくれるんだろ?」


「契約の範囲内ならね」


「じゃあ、今度メイとゼイクにも紹介する」


 エリーゼの指が、カップの縁で止まった。


 その表情に、ほんの少しだけ硬さが戻る。


「……いきなり大勢は嫌よ」


「大勢って言っても二人だぞ」


「あなたを含めれば三人。十分大勢よ」


「なるほど。引きこもり基準だ」


「殴るわよ」


「ごめん」


 瞬は素直に謝った。


 エリーゼはため息をつき、窓の外を見た。


 雨上がりの光が、カーテンの隙間から細く入り込んでいる。その光の中を、埃がゆっくりと舞っていた。長い間閉じられていた部屋の空気が、ほんの少しだけ動いたように見えた。


「まずは、あなた一人で来なさい」


「分かった」


「研究の時だけよ」


「分かった」


「クエストに同行するかどうかは、その時ごとに私が決める」


「分かった」


「……本当に分かっているのかしら」


「分かってるって」


 瞬は笑った。


 その笑顔は、エリーゼには少し眩しかった。


 昔、似たような光を見たことがある気がした。

 泥だらけで、騒がしくて、強引で、勝手に人の領域へ踏み込んでくる誰か。


 その記憶が胸の奥をかすめた瞬間、エリーゼは無意識にリンゴへ視線を落とした。


 真っ赤な果実が、籠の中で静かに光っている。


 彼女は、その赤を見ないように目を逸らした。


「今日は、もう帰って」


「え、もう?」


「契約は成立したでしょう。私は疲れたわ」


「そっか。じゃあ帰る」


 瞬はあっさり立ち上がった。


 椅子が、ぎしりと鳴る。


 エリーゼの眉が跳ねた。


「……次から、あなた用の椅子を用意するわ」


「頑丈なやつでお願いします」


「岩でも置いておこうかしら」


「椅子じゃない」


「あなたには十分よ」


 瞬は笑った。


 エリーゼも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 それは、誰かと交わすにはあまりに小さな笑みだった。


 けれど、長く閉じられていた部屋にとっては、それでも十分すぎる変化だった。


 瞬は扉へ向かう。


 エリーゼは見送るために立ち上がらなかった。ただ、テーブルのそばに座ったまま、彼の背中を見ていた。


 扉が開く。


 雨上がりの冷たい風が、部屋の中へ流れ込んだ。薬草の香りが揺れ、暖炉の火が小さく傾く。


「また来る」


 瞬は振り返って言った。


「研究対象としてね」


 エリーゼは念を押す。


「契約相手としてだろ?」


「ええ。契約相手として」


 瞬は満足そうに頷いた。


「じゃあ、またな。エリーゼ」


 彼女は返事をしなかった。


 ただ、目を伏せる。


 扉が閉まる。


 かちゃり、と小さな音がして、部屋はまた静かになった。


 けれど、完全に元通りではなかった。


 テーブルの上には、二つのカップが残っている。


 一つはエリーゼのもの。

 もう一つは、瞬が使ったもの。


 そこに残った紅茶の香りが、まだほんの少しだけ空気に溶けていた。


 エリーゼは、契約書をしまった引き出しへ視線を向けた。


 仲間ではない。


 そう自分に言い聞かせる。


 これはただの契約。

 研究と対価。

 それ以上ではない。


 けれど、籠の中のリンゴが、かすかな光を受けて赤く揺れた。


 エリーゼはそれを見て、長い間忘れていた胸の痛みを、ほんの少しだけ思い出した。


 外では、瞬の足音が路地を遠ざかっていく。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 その音はやがて、雨上がりの街のざわめきに溶けて消えた。


 閉じた扉の向こうに、また一人の足音が残った。


 それはまだ、仲間の足音ではない。


 けれど、完全な他人の足音でもなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ