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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第26話:琥珀色の瓶と、英雄の不純な動機 〜満足とは、次の欲しがりへの休憩所である〜

季節は、誰にも告げずに衣を替えていた。


 ついこの間まで、王都グランドルの大通りには、春の名残が淡く残っていた。やわらかな花びらが石畳の端に吹き寄せられ、風が通るたびに、薄桃色の小さな影がころころと転がっていた。


 けれど今、街はもう違う色をまとっている。


 街路樹の若葉は、瑞々しい黄緑から、太陽の光をたっぷり吸い込んだ深い緑へ変わっていた。枝は空へ向かって伸び、葉は重なり合い、風が吹くたびに、さわさわと厚みのある音を立てる。その音は、春の軽い囁きではない。どこか遠くの海が、まだ見えない波を運んでくるような、少し湿った響きだった。


 空は高かった。


 青は濃く、白い雲はゆっくりと流れている。けれど空気には、ほんのわずかに重さが混じり始めていた。日差しを受けたレンガの匂い、湿った土の匂い、果物屋の軒先から漂う熟れた果実の甘い香り。それらが風に混ざり、吸い込むたび、胸の奥に初夏の気配が沈んでいく。


 大通りに面したカフェテラスでは、木漏れ日が丸いテーブルの上で揺れていた。


 葉の隙間から落ちる光は、石畳にも、椅子の脚にも、グラスの中の氷にも、細かな模様を描いている。氷が溶け、からん、と澄んだ音を立てた。その音だけが、暑さをほんの少し忘れさせてくれる。


 そんな午後の席で。


 一人の男が、世界の真理にたどり着いた哲学者のような顔をして、腕を組んでいた。


 瞬である。


「……足りない」


 声は、重かった。


 あまりにも深刻だったため、隣に座っていたメイが、びくりと肩を震わせた。彼女は新しい白いアイガードの端を指で押さえながら、おろおろと瞬の顔を覗き込む。


「しゅ、瞬? 何が足りないの? お砂糖? それともミルク?」


「違うんだ、メイ」


 瞬はゆっくり首を振った。


 その横顔だけ見れば、国の未来を憂う英雄そのものだった。通りを歩く女性たちが、ちらりと彼を見て、少し頬を染める。


 ただし、彼の悩みは国の未来ではなかった。


「俺が言っているのは、もっと根本的な話だ。今の俺たちには、決定的に足りないものがある」


 向かいに座っていたゼイクが、静かにカップを置いた。


 今日のゼイクも、見事に整っていた。白銀の鎧は初夏の光を受けて淡く輝き、肩の線も、姿勢も、まるで測ったように正しい。だが、以前と違うところが一つある。


 首元に、小さな布切れが結ばれていた。


 泥の染みが、ほんのわずかに残った布。


 北の森で、完璧を求めすぎた彼が、泥の中でようやく何かを手放した日の名残だった。昔のゼイクなら、そんな染みのあるものを身につけるなど考えもしなかっただろう。けれど今は、それを隠そうとはしていない。


 彼にとって、それは汚れではなかった。


 忘れないための印だった。


「食欲なら、すでに十分すぎるほど満たされている」


 ゼイクは淡々と言った。


「先ほど貴様は、普通の成人男性三人分はあるパスタを平らげた。今この場で足りないと訴えるなら、まず胃袋の作りから疑うべきだ」


「石頭、お前にはロマンというものがないのか」


「ロマンで胃は膨れない。貴様の場合、膨れすぎているがな」


「違うって。腹の話じゃない」


 瞬はテーブルに身を乗り出した。


 氷の入ったグラスが、わずかに揺れる。表面の水滴が木のテーブルに落ち、小さな丸い染みを作った。


「最近の俺たち、働きすぎなんだよ」


「……働きすぎ?」


 メイが小さく首を傾げる。


「そう。ドラゴンを追い払ったり、暴走したゴーレムを止めたり、北の森で泥と戦ったり。俺、このままだと過労で倒れて、悲劇の英雄として語り継がれるかもしれない」


「貴様が倒れる前に、周囲の建物が倒れる」


 ゼイクの返答は冷たい。


「それに、北の森で主に泥と戦っていたのは私だ」


「だからこそだよ」


 瞬は、びしっと指を立てた。


「俺たちには必要なんだ。怪我を治してくれる人。疲れた時に支えてくれる人。つまり――回復役だ!」


 ばん、とテーブルを叩いた。


 その衝撃で、アイスティーの氷が跳ねた。ひとつがグラスの縁を越え、見事な弧を描いてゼイクの眉間に当たる。


 こつん。


 沈黙。


 葉擦れの音が、やけに大きく聞こえた。


 ゼイクの眉間に、透明な水滴が一筋流れた。


「……瞬」


「ごめん」


「謝る速度だけは成長したな」


「だろ?」


「褒めていない」


 メイが、口元を押さえて小さく笑った。


 その笑みはまだ控えめだったが、以前のようにいつも怯えだけで閉じているものではなかった。瞬の隣にいる時、メイの肩は少しだけ柔らかくなる。


 けれど、「新しい仲間」という言葉に、彼女の胸の奥は小さくざわめいていた。


 新しい人。


 知らない視線。


 自分の白いアイガードを見て、何を思うかわからない相手。


 村で笑ってくれた人たち。宿場町で食事をくれた男。正しさを語った騎士。家族だと言った者たち。そのどれもが、最後には違う顔になった。


 人は変わる。


 受け入れられたと思った瞬間ほど、次に拒まれた時の傷は深い。


 メイの指先が、膝の上で小さく縮こまった。


 その動きに、瞬は気づいた。


 彼は何も大げさなことを言わず、テーブルの下でそっとメイの手を握った。熱すぎず、強すぎず、けれど確かにそこにいると伝える握り方だった。


「大丈夫だ」


 瞬は短く言った。


 メイが顔を上げる。


「もし新しく入る奴が、メイのことを悪く言ったら、その時点で仲間じゃない。即クビだ。ついでに、空の彼方まで蹴り飛ばす」


「そ、それは……やりすぎじゃ……」


「やりすぎくらいでちょうどいい。俺が守りたいのは、まずメイだからな」


 その言葉は、英雄としては問題だらけだった。


 世界を守る者として、あまりにも個人的で、あまりにも偏っていて、あまりにも瞬らしい。


 けれど、メイにとっては、その偏りこそが安心だった。


 世界のため、みんなのため、正しいことのため。


 そんな言葉は、時に人を簡単に切り捨てる。


 でも、瞬は違う。


 彼は迷わず、自分の方へ手を伸ばしてくれる。


「……うん」


 メイは小さく頷いた。


「瞬がいるなら、平気」


 そう言って、安心を確かめるように、こつんと瞬の肩へ額を預けた。


 瞬の表情は、外から見れば穏やかだった。


 だが、その内側では完全に嵐だった。


(か、可愛い……! 何それ、今の仕草! 小動物か!? いや天使か!? 俺、今すぐこのテラスごと記念日にしたいんだけど!?)


 本人は必死に平静を装っている。

 しかし、口元がわずかに緩み、目が明らかに浮かれていた。


 ゼイクはそれを冷めた目で見つめ、冷めたコーヒーを啜った。


「……バカップルめ」


 その時だった。


 テーブルの上に置かれていた小さな瓶が、木漏れ日を受けてきらりと光った。


 琥珀色の小瓶。


 メイが腰のポーチから取り出し、手入れのために置いていたポーションだった。


 瞬の目が、その光に吸い寄せられる。


 瓶の中には、蜂蜜を水に溶かしたような濃い金色の液体が入っていた。ただの薬には見えない。中では細かな光の粒が、ゆっくりと渦を描くように舞っている。陽の光が瓶を通るたび、テーブルの上に淡い金色の波紋が広がった。


 それは、量だけをそろえた店売りの薬とは違っていた。


 誰かが素材を選び、火加減を見て、何度も香りを確かめ、少しでも飲む人の痛みが引くようにと願いながら作ったような、静かな丁寧さがあった。


「ねえ、メイ」


 瞬は瓶を指差した。


「それ、どこで買ったの? 普通のポーションとは輝きが違うな」


 メイは小瓶をそっと手に取った。


 まるで大切なものを包むように、両手で覆う。


「これですか? これは……リナさんに教えてもらった、『魔女の隠れ家』というお店のものです」


「魔女の隠れ家?」


 瞬の目が輝いた。


「怪我をした時、これを飲むと、痛みがすぅっと引くんです。それに、体だけじゃなくて、胸の奥も少し温かくなるような気がして……私、このポーション、好きなんです」


「へえ……」


 瞬は小瓶を受け取り、太陽にかざした。


 金色の粒が瓶の中で揺れる。


 その光を見ていると、不思議と騒がしい通りの音が少し遠のいた。馬車の軋みも、屋台の呼び声も、誰かの笑い声も、薄い膜の向こうに沈んでいく。


 瞬は真顔になった。


「すごいな。これを作った奴、ただ者じゃないぞ」


「でも、お店のご主人は、すごく変わった方らしいです」


 メイは少し声を落とした。


「人が苦手で、店には強い結界が張ってあって、誰も姿を見たことがないとか……。貴族の依頼でも、気分が乗らないと断ってしまうって、リナさんが言ってました」


「人嫌いの魔女、か」


 ゼイクが静かに言う。


「腕は確かだが、人前には出ない。扱いづらい人物である可能性が高いな」


 普通なら、そこで終わる話だった。


 面倒そうだ。

 関わらない方がいい。

 姿も見せない相手など、仲間にできるわけがない。


 けれど、瞬は違った。


 彼の口元が、ゆっくりと三日月の形に歪む。


 それは、獲物を見つけた獣の笑みであり、新しい玩具を見つけた子供の笑みでもあった。


「最高じゃん」


「……何がだ」


 ゼイクが嫌な予感を隠さずに聞いた。


「人嫌いで、誰にも会わない魔女が、こんなに優しい薬を作るんだぞ?」


 瞬は小瓶を軽く振った。


 中の光が、ふわりと舞う。


「本当に誰とも関わりたくない奴が、こんな薬を作るか? きっとその人は、世界との関わり方が不器用なだけだ」


 メイは、瓶の光を見つめた。


 胸の奥が、少し痛んだ。


 誰にも会いたくない。

 でも、誰にも気づかれたくないわけじゃない。


 そんな矛盾した気持ちを、メイは知っていた。


 瞬は立ち上がった。


 椅子の脚が石畳をこすり、かすかな音を立てる。


「決めた」


「何をだ」


「この店主をスカウトする」


 ゼイクが目を閉じた。


「やはりそう来たか」


「俺たちの新しい仲間は、この見えない魔女だ!」


「まだ会ってもいない相手を、なぜ仲間扱いできる」


「会えばいい」


「誰も会えないと言ったばかりだ」


「会えないなら、会える方法を考えればいい」


 瞬は当然のように言った。


 メイは不安そうに立ち上がる。


「で、でも……無理に会おうとしたら、迷惑かもしれません」


 瞬は、少しだけ表情を柔らかくした。


「うん。だから、まずは話を聞く。リナちゃんに」


 初夏の風が、テラスを通り抜けた。


 葉が擦れ、木漏れ日が揺れ、琥珀色の小瓶の中の光が、もう一度だけきらりと輝いた。


 その小さな輝きに導かれるように、三人は冒険者ギルドへ向かって歩き出した。


 まだ誰も知らない。


 この琥珀色の瓶が、閉ざされた一人の魔女の扉へ続く、最初の小さな鍵になることを。


 *


 冒険者ギルドの扉を開けた瞬間、外の初夏の風は、あっという間に酒と肉と汗の匂いに飲み込まれた。


 中は、相変わらず騒がしかった。


 広い木造の床には、朝から出入りした冒険者たちの靴跡が残っている。乾いた泥が粉になって散り、踏まれるたびに、ざり、と小さな音を立てた。壁一面には依頼書が貼られ、紙の端が風でわずかに揺れている。奥の酒場からは、焼いた肉の脂が弾ける音と、誰かが大声で笑う声が響いていた。


 天井近くの窓から射し込む光は、ギルドの空気に浮いた埃を金色に照らしている。埃は、人が歩くたびに舞い上がり、光の筋の中でゆっくり漂っていた。


 瞬たちが入ると、近くにいた冒険者たちが自然に道を開けた。


 規格外の英雄、瞬。


 紫の瞳の魔女、メイ。


 そして、石頭の騎士団長、ゼイク。


 この三人が並んで歩くだけで、ギルド内の空気は少しだけ緊張する。誰もはっきり口には出さないが、彼らが来る時は、だいたい何かが起きる。あるいは、もう何かが起きた後だ。


「いらっしゃいませぇぇぇ! シュンさぁぁぁん! 今日も無駄に輝いてますねぇぇ!」


 カウンターの奥から、受付嬢リナの明るすぎる声が飛んできた。


 声は明るい。

 笑顔も完璧だった。


 だが、その目はまったく笑っていない。


 手元では、書類に押すスタンプが、ばん、ばん、と乾いた音を立てていた。その音が妙に強く、聞く者の背筋を少しだけ伸ばさせる。


「やあ、リナちゃん。君の笑顔は、今日も王都の蒸し暑さを吹き飛ばす清涼剤だね」


「まあお上手ぅ! でも外の気温は一度も下がってませんけどねぇぇ!」


「そこは気持ちの問題だから」


「では私の気持ちも汲んで、今日はできるだけ普通の相談にしてくださいねぇぇ!」


 リナは笑顔のまま言った。


 瞬は胸を張る。


「安心してくれ。今日は普通だ」


 リナのスタンプを押す手が止まった。


 メイも少し不安そうに瞬を見上げた。


 ゼイクは、すでに諦めたような顔をしている。


「……瞬さんが自分で普通って言う時、だいたい普通じゃないんですよねぇ」


「失礼だな。今日は店を聞きに来ただけだ」


「店?」


 リナの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「はいはい、お買い物ですね。食料品ですか? 武器屋ですか? それともメイさん用の可愛い服ですか?」


「全部大事だけど、今回は違う」


 瞬はメイの手元を示した。


 メイは少し戸惑いながら、ポーチから琥珀色の小瓶を取り出した。小さな瓶がカウンターの上に置かれる。


 ことり。


 音は小さかった。


 けれど、瓶の中で揺れる金色の液体は、ギルドの騒がしさの中でも不思議な存在感を放っていた。微かな光の粒が瓶の底から浮かび、陽を受けてきらきらと瞬く。受付台の木目の上に、淡い金色の波紋が広がった。


 リナの目が、すっと細くなる。


「……ああ。それですか」


 声の調子が、少しだけ変わった。


 先ほどまでの大げさな営業声ではない。

 受付嬢として、いくつもの事情を知っている者の声だった。


「このポーションを作った店のことを知りたい」


 ゼイクが言った。


「瞬が、その作り手を仲間に勧誘すると言い出した」


「言い方が固いな、石頭。俺はただ、天才的な回復役をスカウトしたいだけだ」


「同じことだ」


「あと、ポーション飲み放題になったら最高だなって」


「やはり不純ではないか」


 ゼイクの声が低くなった。


 リナは笑顔のまま固まっていた。


 周囲の冒険者たちが、聞き耳を立てている。誰かが小声で「魔女の隠れ家か?」と呟いた。別の誰かが「やめとけ」と短く返す。その声が、ギルドのざわめきに紛れて薄く広がった。


 メイは小瓶を見つめた。


 リナに教えてもらって買ったこのポーションは、何度も彼女を助けてくれた。怪我をした時、痛みが静かに引いていく。怯えで胸が詰まりそうな時、ほんの少しだけ呼吸が戻る。


 この瓶には、知らない誰かの優しさが入っている。


 メイは、そう感じていた。


 リナは、そっと息を吐いた。


「……魔女の隠れ家、ですね」


「名前がもう強い」


 瞬の目が輝く。


「店主の名前は?」


「エリーゼさんです」


 リナは短く答えた。


 その名を口にした時、彼女の表情にほんのわずかな疲れが浮かんだ。嫌っている顔ではない。むしろ、扱いに困っている相手を思い出したような顔だった。


「王都ではかなり有名な方ですよ。薬作りの腕は間違いなく一流です。治癒薬も、解毒薬も、疲労回復薬も、品質だけ見ればギルドでも上位です」


「ほらな!」


 瞬が指を鳴らした。


「絶対すごい人じゃん!」


「すごい人ではあります」


 リナはそこで一度、言葉を切った。


「ただし、とんでもなく気難しいです」


「どれくらい?」


「会おうとしても、まず会えません」


「なるほど」


「依頼を出しても、気に入らなければ受けません」


「職人気質だな」


「貴族からの依頼でも、嫌なら普通に断ります」


「強い」


「ギルド職員が正式な用件で訪ねても、結界で門前払いされることがあります」


「……結界で門前払い?」


 瞬の声に、少しだけ楽しそうな響きが混じった。


 リナはその変化を見逃さなかった。


「面白がらないでください」


「面白がってない。ちょっとワクワクしただけだ」


「それを面白がっていると言うんですぅ!」


 スタンプが、ばんっ、と強く押された。


 近くにいた冒険者が肩を震わせる。


 ゼイクは静かに腕を組んだ。


「なぜそこまで人を拒む?」


「そこは……」


 リナは視線を少し落とした。


 ギルドの喧騒が、わずかに遠のいたように感じられた。木の床を踏む靴音。酒杯の鳴る音。依頼書を剥がす紙の音。それらはまだ聞こえているのに、リナの周囲だけ、空気が一段低く沈んだようだった。


「私からは、詳しく言えません」


 彼女はそう言った。


「ただ、エリーゼさんは昔からああだったわけではないそうです。以前は、もっと人と関わっていたと聞いています。でも、ある出来事の後から、ほとんど人前に出なくなった。今は薬を作っても、基本的には代理で納品されるだけです」


「ある出来事?」


 瞬が聞く。


 リナは首を振った。


「噂ならいくらでもあります。でも、噂を本人の真実みたいに話すのは嫌です」


 その言い方に、メイは小さく反応した。


 噂。


 決めつけ。


 誰かが勝手に作った言葉。


 それだけで、人は簡単に傷つけられる。


 メイは知っている。


 知らない人の口から広がる言葉が、どれほど冷たい石になるかを。


「……リナさんは、優しいんですね」


 メイが小さく言った。


 リナは少し驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように笑った。


「優しいわけじゃありませんよぉ。ただ、受付嬢ですから。事実と噂は分けないと、書類も人間関係も燃えます」


「燃えるんだ」


「燃えます。特に瞬さんが関わると、よく燃えます」


「俺、まだ今日何も燃やしてないけど?」


「まだ、ですねぇ」


 リナの笑顔が鋭くなった。


 瞬は視線を逸らした。


 ゼイクが低くため息をつく。


「その魔女の店は、どこにある?」


「王都の西側です。表通りから外れた、古い商店が並ぶ区画にあります。薬草屋、古道具屋、占い屋なんかが多い場所ですね。大通りみたいに明るくはありません。昼でも少し薄暗くて、慣れない方は迷います」


 リナはカウンターの下から簡単な地図を取り出し、指で場所を示した。


 羊皮紙の端は何度も折られ、少し柔らかくなっている。インクで描かれた路地は細く、複雑で、まるで迷路のようだった。


「この角を曲がって、古い井戸の横を抜けて、石段を下りた先です。入口は、目立ちません。看板も小さいです。魔女の隠れ家という名前ですが、派手な店ではありません」


「隠れ家だからな」


「そうです。隠れているんです。だから、見つけても騒がないでください」


 リナは瞬を真正面から見た。


「特に、瞬さん」


「俺だけ名指し!?」


「はい。瞬さんだけ名指しです」


「信頼がない」


「ありますよ。騒ぎを起こすという方向に」


「それは信頼じゃなくて警戒だろ」


「よく分かっているじゃないですかぁ」


 リナは営業スマイルを貼り直した。


 周囲の冒険者たちは、明らかに笑いをこらえていた。


 メイは地図を見つめていた。


 胸の奥に、不思議な感覚がある。


 その場所へ行けば、ポーションを作った人がいる。

 人を避けている人。

 でも、人を助ける薬を作り続けている人。


 会ってみたい。


 そう思う自分がいた。


 同時に、怖くもあった。


 もし会えたとして、その人は自分をどう見るのだろう。白いアイガードをつけた自分を。紫の瞳を持つ自分を。


 その不安を見抜いたように、瞬が軽く笑った。


「大丈夫。無理やり会うわけじゃない。まずは行ってみるだけだ」


「……うん」


「それに、もし本当に会えなかったら、その時はその時だ」


 瞬は簡単に言った。


 だが、その目はもう次の何かを考えている目だった。


 ゼイクはそれを見て、嫌な予感を深めた。


「瞬。先に言っておくが、結界を壊すな」


「壊さない」


「扉も壊すな」


「壊さない」


「壁も壊すな」


「壊さないって」


「屋根もだ」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「歩く災害」


「ひどい」


 リナが小さく頷いた。


「否定は難しいですねぇ」


「リナちゃんまで!」


 ギルドに笑いが広がった。


 それは明るい笑いだった。


 メイはその輪の端で、少しだけ口元を緩めた。


 不安は消えない。


 でも、瞬とゼイクがいる。

 リナも、噂を真実のように扱わなかった。


 それだけで、少しだけ足を前へ出せる気がした。


     *


 王都の西側へ向かう道は、大通りとはまるで違っていた。


 人の流れが少しずつ細くなる。


 赤い屋根の店が並ぶ明るい商業区を抜けると、建物の高さがまばらになった。壁の色も白や明るいレンガから、灰色がかった古い石へ変わっていく。窓は小さく、軒先には乾燥させた薬草や、用途の分からない小瓶が吊るされていた。


 風が吹くたび、薬草の束がかさかさと鳴る。


 その音は、街路樹の葉擦れとは違っていた。もっと乾いていて、もっと細い。長く眠っていた記憶が、棚の奥で擦れるような音だった。


 足元の石畳も、少し湿っている。


 表通りより日が差し込みにくいのだろう。路地の隅には薄い苔が生え、靴底が触れるたび、こつ、という硬い音の奥に、わずかな湿り気が混じった。


 メイは小瓶を胸の前に抱えて歩いていた。


 白いアイガードの奥で、視線が左右に揺れる。暗い路地。細い道。知らない店の並び。窓の内側から、誰かに見られているような気配。


 昔なら、それだけで逃げ出していたかもしれない。


 けれど、今は瞬の背中が前にある。ゼイクが後ろを歩いている。


 挟まれているというより、守られている。


 その違いが、メイには分かった。


「リナちゃんの地図だと、ここを右だな」


 瞬は地図を覗き込みながら歩いていた。


「待て」


 ゼイクが止める。


「そこは左だ」


「え? でも地図だとこっちが上で……」


「それは地図を逆さに持っているからだ」


「……なるほど」


「なぜ堂々と迷える」


 ゼイクは地図を取り上げた。


 瞬は肩をすくめる。


「まあ、迷うのも冒険の醍醐味だろ」


「目的地に着いてから言え」


 細い道を曲がると、急に人通りが途切れた。


 そこは、街の喧騒から切り離されたような場所だった。


 遠くにはまだ市場の声が聞こえる。馬車の車輪の音も、鍛冶屋の金槌の音も、かすかに届く。だが、それらは厚い布越しに聞いているように遠かった。


 路地の奥に、古い建物があった。


 周囲の店よりも一段低い位置に沈むように建っている。石造りの壁には細い蔦が絡み、窓は小さく、内側から厚い布で閉ざされていた。入口は木製で、黒ずんだ取っ手がついている。


 看板は小さかった。


 古びた板に、手書きの文字でこう書かれている。


『魔女の隠れ家』


 その文字の下には、琥珀色の小瓶の絵が描かれていた。


 派手さはない。


 むしろ、見逃してほしいと言っているような看板だった。


 瞬は目を輝かせた。


「ここか」


「いかにも入りづらいな」


 ゼイクが周囲を見た。


「人の気配はあるが、店の気配は薄い」


「どういう意味?」


「客を呼ぶつもりがないということだ」


 たしかに、店先には商品が並んでいなかった。


 普通の薬屋なら、乾燥薬草や安価な軟膏、簡単な傷薬くらいは見える場所に置く。だが、この店には何もない。窓も閉ざされ、扉も静まり返っている。


 まるで、外の世界とのつながりを、一本ずつ丁寧に切ってしまった場所のようだった。


 メイは胸元の小瓶を見つめた。


 この閉ざされた場所から、こんなに優しい薬が生まれている。


 それが、少し不思議だった。


 瞬は扉の前に立った。


「よし。まずは礼儀正しく」


「頼むぞ」


 ゼイクの声は重い。


 瞬は扉を軽く叩いた。


 こん、こん。


 乾いた音が、路地に小さく響いた。


 沈黙。


 風が吹き、軒先の薬草がかさ、と揺れた。


 返事はない。


 瞬はもう一度叩いた。


「こんにちはー! 冒険者ギルドの紹介で来ましたー!」


 沈黙。


 遠くで、鳥が一声鳴いた。


 ゼイクが腕を組む。


「留守か?」


「いや」


 メイは小さく首を振った。


「中に……少しだけ、気配があります」


 その声は緊張していた。


 人の気配。

 それは確かにある。


 けれど、近づいてくる気配ではない。

 こちらを見て、息を潜めて、扉の奥でじっとしているような気配。


 瞬は扉に向かって明るく言った。


「俺は瞬! このポーションに感動して来ました! できれば、作った人に会って話がしたいです!」


 何も返ってこない。


 扉の奥は静まり返っている。


 ただ、どこかで小さな瓶が触れ合うような音がした。


 ちりん。


 それだけだった。


 メイの指が、小瓶を握る。


「聞こえては……いると思う」


「だな」


 瞬は頷いた。


「じゃあ、もうちょっと粘って――」


 その瞬間。


 足元の石畳に、淡い光の線が走った。


「瞬!」


 ゼイクが叫ぶより早く、三人の周囲の空気がぐにゃりと歪んだ。


 風が逆巻く。


 軒先の薬草が一斉に跳ね上がり、メイの髪がふわりと浮いた。足元の小石が、ころころと不自然な方向へ転がる。扉の前の景色が、薄い水面の向こう側のように揺れた。


「お?」


 瞬が声を上げた時には、すでに遅かった。


 視界が一瞬、白く弾ける。


 次の瞬間。


 三人は、路地の入口に立っていた。


「……」


「……」


「……戻された?」


 瞬が振り返る。


 少し先に、先ほどの古い店が見える。


 距離は、十数歩分戻されていた。


 ゼイクは地図を握ったまま、深いため息をついた。


「結界による拒絶だな」


「門前払いって、物理的に戻されるのか」


「リナが言っていただろう」


「面白いな!」


「面白がるな!」


 ゼイクの声が路地に響いた。


 メイは胸を押さえたまま、店を見つめていた。


 怖いとは違った。


 拒絶された。


 それは確かだ。


 けれど、石を投げられたわけではない。怒鳴られたわけでもない。扉の向こうにいる誰かは、ただ人を入れたくないのだ。


 その拒絶は、とても静かで、とても固かった。


 そして、どこか寂しかった。


「もう一回行くぞ」


 瞬が言った。


「待て」


 ゼイクが肩を掴む。


「今のは明確な拒絶だ。無理に踏み込めば、それこそ迷惑になる」


「でも、会えないと話ができないだろ」


「相手が話したくないのだ」


 ゼイクの声は冷静だった。


 瞬は口を閉じた。


 珍しく、すぐには言い返さなかった。


 風が路地を抜ける。


 乾いた薬草が、かさかさと鳴った。建物の影が石畳に長く落ち、初夏の午後の光は、そこだけ少し冷たく見えた。


 メイが、小さく言った。


「今日は……帰った方がいいと思う」


 瞬が振り返る。


 メイは店の扉を見つめていた。


「中にいる人、たぶん……すごく怖がってる。怒っているというより、誰にも近づかれたくない感じがする」


「メイ……」


「私も、そういう時があったから」


 その言葉に、瞬は何も言えなくなった。


 メイの声は静かだった。


 けれど、その奥には、彼女が歩いてきた道の冷たさがあった。


 人を拒むには、理由がある。


 扉を閉めるには、閉めなければ耐えられない何かがある。


 瞬はもう一度、魔女の隠れ家の扉を見た。


 木製の古い扉。


 閉ざされた窓。


 小さな看板。


 そこにあるのは、敵意ではなく、長く積もった孤独のように見えた。


「……そっか」


 瞬は頭を掻いた。


「じゃあ、今日は帰る」


 ゼイクが少し驚いたように瞬を見た。


「珍しく聞き分けがいいな」


「俺だって、何でも力押しするわけじゃない」


「その言葉を記録しておきたい」


「やめろ。後で不利になる」


 瞬は軽く笑った。


 けれど、その目はまだ店から離れていない。


 会えなかった。


 扉は開かなかった。


 三人で来たことで、むしろ相手を警戒させたのかもしれない。


 そう考えると、強引に粘る気にはなれなかった。


 メイは小瓶を胸に抱く。


「でも……このポーションのお礼は、いつか言いたい」


「うん」


 瞬は頷いた。


「それは俺も同じだ」


 彼は一歩、店の方へ向き直った。


 届くかどうか分からない距離だった。

 それでも、声を張り上げるわけではなく、ただ普通の声で言った。


「今日は帰ります。でも、ポーションありがとう。メイが助かってる」


 返事はない。


 扉も開かない。


 窓も動かない。


 けれど、店の奥で、本当にかすかな音がした。


 ことん。


 小瓶が、木の棚の上で揺れたような音。


 それが返事だったのか、ただの偶然だったのかは分からない。


 瞬はそれ以上何も言わず、踵を返した。


 ゼイクも歩き出す。


 メイは最後にもう一度だけ、魔女の隠れ家を振り返った。


 閉ざされた扉の前に、薄い光が落ちている。


 その光の端で、埃がゆっくりと舞っていた。


 誰にも触れられない場所。

 誰かに触れてほしい気持ちを、まだ完全には捨てきれない場所。


 そんなふうに、メイには見えた。


     *


 帰り道、三人はしばらく無言だった。


 表通りへ戻るにつれて、人の声が増えていく。市場の呼び声、馬車の音、子供たちの笑い声。遠くで噴水の水音がして、風に乗った冷たい水の匂いが、路地の乾いた薬草の香りを少しずつ消していった。


 瞬は歩きながら、何かを考えていた。


 いつものように軽口を飛ばさない。


 それが逆に不気味だったのか、ゼイクが横目で見た。


「何を企んでいる」


「企んでない」


「なら、その顔は何だ」


「考えてる顔」


「貴様が考えている時は、だいたい周囲が迷惑する」


「信頼がないなぁ」


「実績がありすぎるのだ」


 瞬は苦笑した。


 そして、ふとメイを見る。


「メイ」


「なに?」


「今日、嫌な気持ちになった?」


 メイは少し考えた。


 白いアイガードの奥で、瞳が揺れる。


「少しだけ、胸が苦しかった。でも……嫌ではなかった」


「そっか」


「あの人、たぶん……私と同じじゃないけど、少しだけ似てる気がした」


 瞬は黙って聞いた。


「誰にも近づかれたくない。でも、完全に誰とも関わりたくないなら、あんな薬は作らないと思う。だから……会えなかったけど、悪い人じゃないと思う」


「うん」


 瞬は短く頷いた。


「俺もそう思う」


 ゼイクは静かに息を吐いた。


「だとしても、次にどうするつもりだ。三人で訪ねても拒絶された。ギルドの紹介でも駄目だった。正面から行けば、また同じ結果になる」


「そうだな」


 瞬は素直に認めた。


「三人で行くのは、ちょっと圧が強かったのかもしれない」


「今さら気づいたか」


「俺たち、見た目だけなら結構な問題児集団だからな」


「見た目だけではない」


「そこは否定してくれよ」


 瞬は軽く笑った。


 しかし、その目の奥には、まだ諦めていない光が残っていた。


 ゼイクはそれを見て、嫌な予感をはっきり覚えた。


「瞬」


「なんだよ」


「くれぐれも、妙なことはするな」


「しないって」


「一人で突撃するな」


 瞬は一瞬だけ黙った。


 ゼイクの目が鋭くなる。


「おい」


「いや、突撃はしない。突撃は」


「その言い方がすでに怪しい」


「まあまあ。今日はもう帰るって言っただろ」


 瞬は両手を上げた。


 メイは二人のやり取りを見て、少しだけ笑った。


 その笑みを見て、瞬も笑う。


 けれど、彼の頭の中では、すでに別の考えが小さく動き始めていた。


 三人で行って駄目なら。


 もっと静かに。


 もっと偶然みたいに。


 相手が扉を閉めなくて済む形で。


 もう一度、会いに行く方法を探せばいい。


 夕方の光が、王都の屋根を赤く染め始めていた。


 大通りの旗が風に鳴り、石畳には三人の影が長く伸びる。


 その影の一つだけが、ほんの少し先を向いていた。


 琥珀色の小瓶は、メイの手の中で静かに揺れている。


 今日、扉は開かなかった。


 魔女は姿を見せなかった。


 けれど、閉ざされた扉の向こうに、誰かがいることだけは分かった。


 そして瞬という男は、一度気になった扉を、そう簡単には忘れない。


 王都に夕暮れの風が吹いた。


 街路樹の葉がざわりと揺れ、光と影が石畳の上でゆっくり混ざり合っていく。


 その日、三人はエリーゼに会えなかった。


 だが、会えなかったことこそが、次の日の小さな偶然を呼び込むことになる。


 それをまだ、誰も知らなかった。

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