第25話:泥の中で聞いた、生きろという声 〜傷とは、隠すものではなく歩いた跡である〜
黒い泥が、森の地面から浮き上がった。
それは、生き物の形をしていなかった。
獣でも、人でも、魔物でもない。ただ、雨に濡れた土と、腐った水と、砕けた石の影をこね合わせたようなものが、重さを忘れたように宙へ浮かんでいる。表面には小さな泡がぶつぶつと浮かび、膨らんでは潰れ、潰れてはまた内側から湧き上がった。
ぐぶり。
泡が弾ける音がした。
その音は、とても小さかった。
けれどゼイクには、雷鳴より大きく聞こえた。
雨。
泥。
濁流。
赤いリボン。
喉が、内側から握り潰される。
白銀の鎧の下で、背中に冷たい汗が滲んだ。汗は首筋から肩甲骨の間へ流れ、鎧の内側で逃げ場を失う。体は熱いのに、指先だけが氷のように冷えていた。
違う。
ここはあの日ではない。
北の森だ。
雨は降っていない。
リリアはいない。
自分は今、任務中だ。
ゼイクは、そう言い聞かせた。
だが、黒い泥の臭いが鼻を刺すたび、記憶は鎧の隙間から入り込んでくる。
濁った水が膝を打つ感触。
泥に足を取られる重さ。
子供を抱いた腕の震え。
そして、泥の向こうで叫んだリリアの声。
――ゼイク、逃げて!
「……ありえない」
ゼイクの声は、自分でもわかるほど低く震えていた。
「土石系ゴーレムの残骸が自立再構成する例はある。だが、浮遊はしない。重力を操る術式も、核も確認できない。泥だけが浮いているなど……理屈に合わない」
瞬が横から言った。
「理屈に合わないなら、とりあえず避けた方がいい」
その声は、軽いようでいて、真剣だった。
ゼイクは反射的に言い返そうとした。
だが、黒い泥が動いた方が早かった。
泥の表面がぐにゃりと歪む。
次の瞬間、腕のようなものが伸びた。
速い。
重そうに見えた泥が、鞭のように空気を裂いた。
「下がれ!」
ゼイクは盾を構えた。
黒い腕が盾を叩く。
鈍い衝撃が、手首から肩まで抜けた。盾は砕けなかった。だが、泥は盾の表面にべたりと貼りつき、生き物のように鎧へ這い上がろうとする。
「剥がれない……!」
ゼイクは剣で泥を払った。
刃が黒い塊を裂く。
しかし、裂かれた泥はすぐにつながった。
規則がない。
切断面がない。
急所がない。
手順が組めない。
ゼイクの息が乱れた。
胸の奥で、五年前の雨がまた強くなる。
規則のないもの。
予測できないもの。
手順を踏み潰してくるもの。
それが、リリアを奪った。
「ゼイク!」
瞬の声が飛ぶ。
黒い泥は、今度は三本に分かれた。
一本はゼイクへ。
一本は瞬へ。
そして、一本はメイへ。
メイの小さな肩が強張る。
白いアイガードの下で、彼女の顔色が一気に青くなった。
瞬が地面を蹴る。
「メイ!」
だが、泥の腕は途中で形を変えた。
まっすぐ伸びていたはずの先端が、煙のように曲がり、瞬の足元へ絡みつこうとする。
「うわっ、気持ち悪っ!」
瞬は跳んだ。
木の枝が、ばきりと鳴る。
普通なら折れて落ちるところを、瞬はさらにその枝を蹴って上へ跳んだ。
ゼイクは目を見開いた。
「貴様、どこへ――」
「ちょっと武器取ってくる!」
「今からか!?」
森の上から、瞬の声だけが降ってきた。
メイもゼイクも、そして黒い泥でさえ、一瞬だけ動きを止めたように見えた。
次の瞬間。
ばきばきばきばきっ!
森の奥で、木の折れる音が響いた。
一本ではない。
何本も。
ゼイクの頬が引きつる。
「……まさか」
空から影が落ちた。
瞬だった。
両腕に、信じられないほど太い丸太を抱えている。苔の張りついた樹皮。折れた断面から覗く白い木肌。まだ枝葉が残っており、水滴が太陽の光を受けてぱらぱらと散っていた。
「計算とかいいから!」
瞬が叫んだ。
「来たもんを迎撃すりゃいいんだよ!」
その声が、ゼイクの胸の奥へ突き刺さった。
別の声と重なる。
夏の訓練場。
春の木漏れ日。
赤いリボンを揺らして笑う少女。
――なんとかなるよ!
やめろ。
重ねるな。
ゼイクは奥歯を噛んだ。
だが、瞬は丸太を振り下ろした。
どごおおおおんっ!
森が揺れた。
黒い泥の塊が横へ潰れる。
濡れた土が跳ね、葉の上の雫が一斉に散った。だが、泥は砕けなかった。丸太はその表面に深く沈み込み、黒い液体が樹皮を這い上がっていく。
「うわ、これ吸ってくるぞ!」
瞬が叫ぶ。
「だから先に構造を確認しろと言った!」
「今それ言う!?」
「今だから言う!」
瞬は丸太から手を離し、空中で体をひねって着地した。
靴底が濡れた土を滑る。
だが、倒れない。
彼はメイの近くへ戻ると、すぐに彼女の前へ立った。
「大丈夫か?」
「私は……大丈夫です」
メイは震えながら頷いた。
ゼイクには、その声が嘘だとわかった。
大丈夫ではない。
足はすくんでいる。
指先も震えている。
それでも彼女は、逃げていない。
白いアイガードを押さえながら、黒い泥を見ている。
その姿に、ゼイクの胸が鈍く痛んだ。
なぜだ。
なぜ、そこに立てる。
怖いなら下がればいい。
隠れればいい。
誰かの背中だけを見ていればいい。
それなのに、彼女は震えたまま、前を見ている。
「ゼイクさん」
メイの声がした。
ゼイクは反応しなかった。
いや、反応できなかった。
黒い泥が、丸太を飲み込んでさらに膨らんでいく。まるで恐怖そのものが質量を得たようだった。
ゼイクは剣を構え直す。
「斬撃無効。打撃吸収。質量増加。ならば火か凍結か――いや、術式反応が不明。手順を再構築する必要がある。まず距離を取り、観察を――」
「ゼイクさん!」
今度は、メイの声が少し大きくなった。
ゼイクは振り返った。
メイは白いアイガードを押さえたまま、まっすぐゼイクを見ていた。
怖がっている。
それは明らかだった。
それでも、彼女の声は逃げていなかった。
「鎧を守るために、中身が傷だらけになったら……それじゃ、意味がないんじゃないですか?」
ゼイクの呼吸が止まった。
黒い泥の泡が弾ける音だけが、森に響く。
ぱちん。
ぱちん。
まるで、胸の奥に残った古い針が一本ずつ折れるような音だった。
「完璧に考えてから動こうとしたら、間に合わない時もあります。怖いままでも、汚れたままでも……生きるために動かないといけない時が、あると思います」
生きるために。
その言葉が、ゼイクの中で遠い声を呼び起こした。
――逃げて。
リリアの最後の声。
ずっと、ゼイクはそれを敗北の言葉だと思っていた。
自分が届かなかった証。
自分が守れなかった証。
だが、メイの声と重なった瞬間、その意味が少しだけ違って聞こえた。
逃げて。
それは、見捨てろではなかった。
剣を守れでも、規律を守れでもない。
生きろ。
そう言っていたのではないか。
「……貴様に、何がわかる」
ゼイクの声は低かった。
怒りを装った。
だが、その奥には痛みがあった。
メイは、小さく首を振った。
「わかりません。でも……私も、ずっと隠れていました。見られたら終わりだと思って、布の中で息をしていました。でも、隠すことだけを守っていたら……私は、どこにも行けませんでした」
ゼイクは黙った。
瞬も何も言わなかった。
黒い泥だけが、ゆっくりと腕を持ち上げる。
その腕は、また三人へ向かって伸びようとしていた。
ゼイクは一歩前へ出た。
泥が跳ねる。
白銀の鎧に、黒いしみが増える。
拭わなかった。
「……瞬」
「おう」
「丸太はもう使うな」
「了解」
「メイ」
「は、はい」
「視える範囲で、あの泥が動く前兆を教えろ」
メイが息を呑んだ。
それは命令だった。
だが、拒絶ではなかった。
役割だった。
「……はい!」
ゼイクは剣を構えた。
泥の匂いは消えない。
リリアの記憶も消えない。
胸の奥はまだ痛む。
それでも、今ここで立っているのは過去の雨の中ではない。
瞬がいる。
メイがいる。
敵がいる。
守るべき現在がある。
「私は汚れる」
ゼイクは低く言った。
「貴様らも巻き込まれるな」
瞬が、にっと笑った。
「いいじゃん。泥まみれの騎士、ちょっとかっこいいぞ」
「黙れ。台無しだ」
ゼイクは地面を蹴った。
黒い泥の腕が振り下ろされる。
「右です!」
メイの声が飛ぶ。
ゼイクは即座に右へ踏み込んだ。
斬らない。
受け流す。
盾へ絡ませ、わざと引きつける。
黒い泥が盾にまとわりつき、鎧へ這い上がろうとする。
気持ち悪い。
吐き気がする。
あの日の泥水が、また腕を伝ってくるようだった。
だが、退かなかった。
「瞬!」
「任せろ!」
瞬は倒木を蹴り上げた。
ただし、今度は叩き潰すためではない。
泥の腕へぶつけ、吸収される前に離す。
「左、来ます!」
メイの声。
ゼイクが動く。
瞬が動く。
二人の動きは噛み合っていない。
ゼイクは硬すぎる。
瞬は雑すぎる。
だが、メイの声が、その間に細い線を引いていた。
「上!」
ゼイクが身を沈める。
「足元!」
瞬がメイを抱えるようにして一歩下がる。
「中心、泡が集まっています!」
黒い泥の中央に、濃い泡が渦を巻いていた。
そこだけが、他より暗い。
ゼイクは見た。
確かに、泥が動くたび、そこから波が広がっている。
「おそらく核だ!」
瞬が叫ぶ。
「よし、吹き飛ばす!」
「待て! 吹き飛ばせば森ごと――」
「じゃあ、軽く!」
「貴様の軽くは信用ならん!」
メイが叫んだ。
「シュンさん、指先だけ!」
「了解!」
瞬が飛んだ。
黒い泥の腕が殺到する。
ゼイクは、その間へ入った。
盾で受ける。
泥が白銀の鎧を黒く染める。
肩に、胸に、腕に、足に。
鎧はもう、完璧ではなかった。
けれど、ゼイクは立っていた。
「行け!」
瞬の指先が、黒い泡の中心へ届いた。
ぱちん。
小さな音がした。
次の瞬間、泥の内部で何かが割れた。
ぐしゃり、と湿った音がして、浮いていた泥の塊が一気に重さを取り戻す。黒い泥が地面へ落下し、四方へ飛び散った。
瞬は着地しようとして、足を滑らせた。
「おわっ」
そのまま、泥の中へ顔から突っ込んだ。
べちゃっ。
森に、どうしようもなく間抜けな音が響いた。
張り詰めた空気が、一瞬で切れる。
メイは目を見開いた。
ゼイクも固まった。
泥まみれになった瞬が、顔だけを上げる。鼻先から黒い泥が落ち、彼は親指を立てた。
「……勝った」
ゼイクは、低く言った。
「どの口で言っている」
「この泥まみれの口で」
瞬の答えに、ゼイクはしばらく黙った。
怒るべきだった。
叱責すべきだった。
任務中の不注意を指摘すべきだった。
だが、兜の奥で、ほんの小さく息が漏れた。
笑ったわけではない。
そう思いたかった。
ただ、呼吸が少し乱れただけだ。
けれどメイが、それを見ていた。
白いアイガードの少女は、泥の中から顔を上げる瞬と、泥だらけの鎧で立つゼイクを見比べて、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは、森の湿った空気の中で、朝の光のように薄く揺れた。
ゼイクは、剣を下ろした。
泥は、地面に重く沈んでいる。
だが、彼の胸の中では、まだ別の泥が渦を巻いていた。
終わったはずなのに。
勝ったはずなのに。
臭いが、消えない。
黒い泥の腐ったような臭いが、鼻の奥から記憶を引きずり出す。
雨。
濁流。
赤いリボン。
「リリアッ!!」
その名は、ゼイクの口から無意識にこぼれた。
瞬の表情が変わる。
メイも息を呑む。
ゼイクの膝が、森の地面に落ちた。
がしゃん。
鎧が濡れた土を打つ音がした。
誰もすぐには動かなかった。
森の奥で、水滴が落ちる。
ぴちょん。
ぴちょん。
その音のひとつひとつが、過去の雨に変わっていく。
ゼイクは泥だらけの手を見た。
リリアを掴めなかった手。
子供を受け止めた手。
剣を握り続けた手。
その手が、今も震えていた。
近づこうとした瞬を、メイがそっと止める気配がした。
そして、少し離れた場所から、彼女の声が届いた。
「ゼイクさん」
ゼイクは答えなかった。
「……誰かを、思い出したんですか」
答えられるはずがなかった。
喉の奥には、泥が詰まっているようだった。
だが、その沈黙を責める声はなかった。
メイは、静かに言った。
「私も……思い出すものがあります」
風が、濡れた葉を揺らした。
「泥の匂いとか、石の音とか、人の声とか……何でもないはずのものが、急に昔の場所に引き戻してきます」
ゼイクは、ゆっくり顔を上げた。
兜の奥の青い瞳が、メイを見る。
そこにあったのは怒りではない。
もう隠しきれない、むき出しの痛みだった。
「貴様は……」
声が掠れる。
「どうやって、そこから戻る」
メイはすぐに答えなかった。
白いアイガードに、細い光が触れている。
彼女はまだ、自分自身も戻りきっていないのだろう。
それでも、逃げずに言った。
「……戻れていません」
正直な言葉だった。
「でも、戻れなくても……今ここにいるって、誰かが言ってくれると、少しだけ息ができます」
ゼイクの瞳が揺れた。
メイは続けた。
「ゼイクさんは、今ここにいます」
風が通る。
濡れた葉が擦れ、ざわざわと鳴った。
「泥の中じゃありません。森にいます。私と、シュンさんと、一緒にいます」
その言葉は、ゼイクの胸の奥へ、ゆっくり沈んだ。
泥の底ではない。
過去ではない。
ここは北の森。
自分は膝をついている。
しかし、まだ生きている。
瞬もいる。
メイもいる。
誰も、濁流に飲まれていない。
ゼイクは、長く息を吐いた。
「私は……守るために、完璧でなければならなかった」
声は低かった。
「次に同じことが起きても、二度と迷わぬように。二度と遅れぬように。二度と失わぬように。手順を作り、規律を守り、鎧を磨き、乱れを消した」
彼は、泥のついた鎧を見下ろす。
「だが……また乱れた」
メイは首を振った。
「でも、今回は誰も飲み込まれていません」
その言葉に、ゼイクの息が止まった。
「泥は怖かったです。でも、ゼイクさんが前に立ってくれました。シュンさんが無茶をして、泥まみれになりました。私も……少しだけ、声を出せました」
メイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「完璧じゃなかったけど、誰も失っていません」
ゼイクは、何も言えなかった。
森の沈黙が、三人の周りに落ちる。
それは重い沈黙だった。
けれど、罰のような沈黙ではなかった。
誰かを責めるためではなく、失ったものの名前をそっと地面へ置くための沈黙だった。
やがて、瞬が泥だらけの顔で口を開いた。
「ゼイク」
ゼイクは視線だけを向ける。
瞬は、真剣な顔で言った。
「飯にしよう」
沈黙。
森が静まり返った。
メイは目を瞬かせた。
ゼイクは、兜の奥で完全に固まった。
「……今、その流れで食事の話をするのか」
「する。人間、重い話の後は温かいものを食った方がいい」
「貴様は本当に……」
ゼイクは言葉を探した。
怒鳴ろうとした。
だが、出てきたのは、呆れに近い息だった。
「本当に、規律の外側から来る男だな」
「よく言われる」
「誰にだ」
「だいたい全員に」
メイが、小さく笑った。
瞬も笑った。
ゼイクだけが笑わなかった。
だが、彼はゆっくりと立ち上がった。
泥が鎧から落ちる。
べちゃり、と重い音がした。
ゼイクはその音を聞き、顔をしかめた。
布を取り出しかける。
しかし、途中で手を止めた。
「……野営する」
瞬が首を傾げた。
「帰らないのか?」
「この森は異常だ。土石系ゴーレムの残骸から、未確認の泥状存在が発生した。通常の魔物発生ではない。報告だけで帰還するには危険が残る」
ゼイクは森の奥を見た。
「夜間の観察を行う。明朝、周辺を再確認してから戻る」
「つまり、キャンプだな」
「野営だ」
「同じじゃない?」
「響きが違う」
「そこ大事か?」
「大事だ」
瞬はメイを見る。
「メイ、大丈夫か? 森、怖いなら王都に戻るぞ」
メイは森の奥を見た。
怖い。
その表情だけでわかった。
だが、彼女はゆっくり頷いた。
「……ここに、います」
瞬は静かに笑った。
「わかった」
ゼイクはその横顔を見ていた。
怖いまま残る少女。
規律の外から飯の話をする男。
そして、泥を拭えないまま立っている自分。
何も整っていない。
何ひとつ、予定通りではない。
だが、誰も死んでいない。
ゼイクは、森の中で野営地を選び始めた。
風を避けられる場所。
地面が比較的乾いている場所。
周囲を見渡せる場所。
雨水が流れ込まない場所。
手順は、まだ彼の中にあった。
ただ、その手順は、誰かを遠ざける壁ではなく、今は三人が同じ夜を越えるための形になりかけていた。
焚き火が起こされる頃、森には夕暮れが降り始めていた。
火の赤い光が、瞬の泥だらけの顔と、メイの白いアイガードと、ゼイクの汚れた白銀鎧を照らす。
火の粉が、夜へ向かう空に舞い上がる。
濡れた葉が風に揺れ、遠くで水の流れる音がした。
ゼイクは、泥のついた鎧のまま座った。
懐の白い布には触れなかった。
その代わり、焚き火の光を見つめながら、小さく息を吸う。
煙の匂い。
湿った土の匂い。
炙られた干し肉の匂い。
その中に、ほんのわずかに、温かいものが混じっていた。
ゼイクはまだ、それを何と呼べばいいのかわからなかった。
ただ、五年ぶりに。
夜が、完全な敵ではないような気がした。
夜は、思ったより長かった。
焚き火の赤い光は、濡れた森の闇を完全には押し返せなかった。火の届かない場所には、黒い幹が何本も立ち、枝と枝の隙間から覗く空は、深い藍色に沈んでいる。時折、葉に残った雫が落ちた。
ぽたり。
その音がするたび、ゼイクの指は剣の柄へ伸びた。
眠る気にはなれなかった。
火の前で、瞬は泥だらけの外套を羽織り、妙に堂々と座っている。メイは外套にくるまり、白いアイガードに指を添えたまま、浅い眠りへ落ちていた。寝息は細く、時々、何かに怯えるように肩が震える。
ゼイクは、そんな二人を見張りながら、泥のついた鎧を拭かなかった。
懐の白い布はある。
何度も手が伸びかけた。
けれど、そのたびにメイの言葉が戻ってくる。
――完璧じゃなかったけど、誰も失っていません。
ゼイクは焚き火を見つめた。
火の粉が、小さく空へ舞う。赤い点は夜の中へ昇り、すぐに消えた。
リリアの赤いリボンも、あの日、泥水の中へそうして消えた。
消えたと思っていた。
だが、本当に消えたのだろうか。
彼女が最後に残した声は、ゼイクの中にまだある。
逃げて。
生きろ。
その意味を、今まで一度も正しく聞こうとしていなかったのかもしれない。
森の奥で、低い音がした。
ずず……。
地面の下を、何かがゆっくり移動するような音。
瞬が目を開けた。
ゼイクも剣へ手をかける。
だが、音はそれ以上近づかなかった。
ただ、闇の奥に何かが潜んでいる。
そんな気配だけを残して、森はまた静かになった。
*
翌朝、森には薄い光が差していた。
夜の冷気はまだ地面に残り、落ち葉には細かな露がついている。靴底が湿った葉を踏むたび、ぐしゅり、と小さな音がした。木々の枝から差す朝日は、霧のような白さを含み、森の奥をぼんやりと照らしている。
ゼイクは昨夜の泥の跡を確認していた。
土石ゴーレムの残骸。
黒い泥の残り香。
地面に刻まれた戦闘の痕跡。
異常は、まだ完全には消えていない。
「活動痕跡は北東へ伸びている」
ゼイクは膝をついたまま言った。
「魔力の乱れは薄い。だが、通常の土石系魔物の残留とは明らかに異なる」
瞬は少し離れた場所で、赤い木の実を見ていた。
「なあ、これ食えると思う?」
ゼイクは無言で立ち上がった。
そして、瞬の手から木の実を叩き落とした。
ぱしん。
「拾い食いをするな」
「木の実相手に速すぎるだろ」
「毒だった場合、行軍速度が落ちる」
「心配してくれてる?」
「行軍速度を心配している」
メイが、ほんの少し笑った。
ゼイクはそれを見ないふりをした。
その時だった。
風が止まった。
さっきまで葉を揺らしていた空気が、急に重く沈む。鳥の声が途切れ、虫の小さな音さえ消える。森全体が、息を止めたようだった。
メイが足を止めた。
「……何か、います」
ゼイクと瞬は、同時に動きを止めた。
ゼイクは剣の柄に手をかける。
瞬はメイの前へ半歩出る。
視線の先、倒木の根元に、黒いものがあった。
最初は影に見えた。
けれど、違った。
それは黒い液体だった。
泥よりも黒く、水よりも重く、油のように鈍く光っている。地面に薄く広がりながら、内側からゆっくりと脈打っていた。草に触れると、草は音もなく黒く変色し、輪郭を失って液体の中へ吸い込まれる。
ゼイクの背筋に、冷たいものが走った。
「距離を取れ」
低く告げる。
瞬がメイを下げる。
ゼイクは慎重に踏み込んだ。
確認しなければならない。
触れるものを飲み込むのか。
斬撃は通るのか。
核はあるのか。
剣を抜く。
朝の光が、銀の刃を白く光らせた。
ゼイクは黒い液体の端を斬った。
裂けたように見えた。
しかし次の瞬間、切れ目は何もなかったように閉じた。
それだけではない。
剣の先に、黒い液体がまとわりついていた。
じゅ、と嫌な音がする。
銀の刃がわずかに曇った。
「……っ」
ゼイクは即座に引いた。
だが、黒い液体は剣を伝って這い上がる。
「離せ!」
瞬が叫んだ。
ゼイクは動けなかった。
剣。
騎士の証。
リリアを失った日から、二度と迷わないために握りしめてきたもの。
その剣を、黒い液体が侵していく。
「……まだ、使える」
「使えるとかじゃない! 飲まれるぞ!」
瞬が動こうとした瞬間、黒い液体から細い触手が伸びた。
瞬はメイを抱えるようにして横へ跳ぶ。
触手は落ち葉を無音で吸い込み、さらに太くなった。
「触れたものを……食べてる……?」
メイの声が震える。
「最悪だな」
瞬が顔をしかめる。
「殴れない、斬れない、しかも食って大きくなる。俺の苦手分野だ」
ゼイクは剣を振った。
離れない。
何度振っても、黒い液体は刃へ張りつき、少しずつ柄へ近づいてくる。
「離れろ……!」
声が乱れた。
ゼイク自身にもわかった。
剣を手放せない。
手順を手放せない。
騎士である形を手放せない。
昨日、泥を拭わずにはいられた。
だが、剣は違う。
この剣まで失えば、自分は何者になる。
「ゼイク!」
瞬が叫んだ。
「剣を捨てろ!」
ゼイクの顔が強張る。
「騎士が、剣を捨てるなど――」
「今それ言ってる場合か!」
黒い液体が、剣の半ばまで這い上がった。
もう少しで籠手に届く。
「ゼイクさん!」
メイの声がした。
ゼイクの目が、彼女へ向く。
白いアイガードの少女。
怖がりながら、それでも逃げずにこちらを見ている。
「剣が、ゼイクさんを守っているんじゃありません!」
森の中に、その声が響いた。
「ゼイクさんが、生きているから……剣を持てるんです!」
ゼイクの呼吸が止まった。
「剣を守って、ゼイクさんが飲まれたら……意味がないです!」
その言葉が、胸を貫いた。
騎士が剣を捨てる。
それは、鎧を脱ぐより怖かった。
自分が自分でなくなる。
リリアを失ってから積み上げたものが、崩れる。
けれど。
――ゼイク、逃げて!
リリアは、剣を守れとは言わなかった。
規律を守れとも言わなかった。
生きろ。
そう言ったのだ。
ゼイクの唇が震えた。
そして、彼は剣を手放した。
黒く侵された剣が地面へ落ちる。
黒い液体は獲物を得たように群がり、銀の刃を音もなく飲み込んでいった。
瞬がゼイクの腕を掴み、後ろへ引く。
「よし!」
「……私の剣が」
ゼイクの声は空っぽだった。
瞬は珍しく茶化さなかった。
「生きてる」
短く言った。
「剣は飲まれた。でも、お前は生きてる」
ゼイクは、自分の空いた右手を見た。
そこには何もない。
いつもあった重みがない。
だが、不思議だった。
空いた場所へ、冷たい風と一緒に、別のものが入ってくる。
自由。
そんな言葉が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
黒い液体は、剣を飲み込んで大きくなっている。
だが、重くもなっていた。
地面へ沈み、動きが鈍い。
ゼイクは周囲を見た。
雨で削れた浅い溝。
低くなった地面。
その先の川。
触れたものを飲み込むなら、触れさせるものを選べばいい。
飲み込ませて重くし、流す。
「瞬」
「おう」
「地面を浅く割れ。あの溝から川へ流す道を作る」
「地面を割る?」
「深くではない。浅く、長く。やりすぎれば森が崩れる」
「加減むずっ」
「できると言ったな」
瞬は笑った。
「言った。やる」
彼の指が、濡れた土に触れる。
とん。
小さな音。
地面の下で、細い亀裂が走った。雨水を含んだ土が崩れ、浅い溝が川の方へ伸びていく。
「……やればできるではないか」
「もっと褒めていいぞ」
「調子に乗るな」
ゼイクは背の白いマントに手をかけた。
純白の騎士の証。
汚れを恐れ、丁寧に扱ってきたもの。
その端に、昨夜の泥がついている。
ゼイクは、一瞬だけ止まった。
だが、今度は迷わなかった。
マントを外し、黒い液体の先へ投げる。
白い布が朝の光の中で広がった。
一瞬、翼のように見えた。
それが地面に落ちる。
黒い液体が反応した。
「来ます! 全部、マントの方へ!」
メイの声。
黒い液体は白を汚すように殺到し、マントを飲み込んだ。
ゼイクの胸が痛んだ。
だが、目を逸らさなかった。
「瞬!」
「おう!」
亀裂がさらに広がる。
雨水が集まる。
黒い液体は重くなり、地面へ沈み始めた。
「左、泡が大きいです!」
メイの声に合わせ、ゼイクは盾を地面へ突き立てた。
触れさせない。
触れそうで触れない距離で土を削る。
泥が跳ね、鎧を汚す。
もう拭わない。
やがて黒い液体が、溝へ滑り込んだ。
だが、木の根に触手を絡ませて止まる。
「止まります!」
メイが叫ぶ。
ゼイクは盾を見た。
騎士の盾。
守るための道具。
だが、守るとは、抱え込むことではない。
ゼイクは盾を投げた。
黒い触手の前へ。
液体は盾へ絡みつく。
その一瞬、本体の力が抜けた。
「今だ!」
瞬が地面を叩いた。
どん。
森が揺れる。
だが、崩れたのは黒い液体の足元だけだった。
重くなった黒い塊は、飲み込んだ剣とマントと盾を抱えたまま、雨水の流れに乗って滑り落ちていく。
どぷん。
川へ落ちた。
水が黒く染まる。
しかし流れは速かった。
黒い塊は形を保とうとしたが、川の力に引き裂かれ、薄く伸び、ちぎれ、濁りの中へ消えていった。
水の音だけが残った。
ざああ、と川が流れている。
ゼイクは立っていた。
剣はない。
盾もない。
マントもない。
白銀の鎧は泥だらけだった。
騎士としての形だけを見れば、ひどい姿だった。
だが、誰も死んでいなかった。
「ゼイクさん」
メイが静かに言った。
「剣がなくても、ゼイクさんは騎士でした」
ゼイクの瞳が揺れた。
言葉が、胸の一番深い場所へ落ちる。
リリア。
私は、まだここにいる。
剣を失っても。
泥に汚れても。
誰かを守るために、まだ立っている。
「……帰還する」
ゼイクは言った。
声はまだ硬い。
けれど、少しだけ軽かった。
瞬が片手を上げる。
「剣と盾とマント、なくなったけど大丈夫か?」
ゼイクは沈黙した。
「大丈夫ではない」
「正直だ」
「だが、私が生きている」
言ってから、自分で少し驚いた。
だが、取り消さなかった。
瞬が笑う。
「いいじゃん」
ゼイクは瞬を見た。
「貴様は……不快なほど、雑だ」
「褒めてる?」
「褒めていない。だが、雑でなければ間に合わないこともあると、今日だけは認めてやる」
「最大級の褒め言葉きた!」
「だから褒めていない!」
メイが笑った。
今度は、はっきりと声になった笑いだった。
ゼイクはその声を聞いた。
そして、なぜか胸が痛んだ。
痛いのに、息ができた。
*
王都へ戻る道には、雨上がりの光があふれていた。
草は風に揺れ、水たまりには青空が映っている。遠くの城壁が、白く朝日に照らされていた。
瞬は泥だらけだった。
ゼイクも泥だらけだった。
メイだけが、少し後ろを歩きながら、二人を見ている。
その時、瞬がどこからか布の切れ端を取り出した。
ゼイクの白いマントの、かろうじて川辺の枝に引っかかっていた端切れだった。
瞬はそれを眺めた。
そして、自分の泥だらけの顔を、ごしごし拭いた。
「……」
ゼイクの動きが止まる。
メイも固まる。
瞬は満足げに言った。
「お、意外と拭ける」
次の瞬間、ゼイクの声が森へ響いた。
「貴様あああああああああああああああっ!」
ゼイクは走った。
剣はない。
盾もない。
マントもない。
だが、怒りだけで十分だった。
「それは私のマントだ!」
「もう端切れだろ!」
「端切れでも私のものだ!」
「泥ついてたし!」
「貴様の顔の泥よりは清潔だった!」
瞬は笑いながら逃げた。
ゼイクは追った。
その姿は、完璧な騎士とは程遠かった。
だが、走っているうちに、ゼイクの胸の奥で何かが揺れた。
息が上がる。
鎧が鳴る。
泥が跳ねる。
そして、瞬が石に足を引っかけた。
「あ」
べしゃ。
瞬が泥に突っ込む。
ゼイクは止まりきれず、足を滑らせた。
がしゃん。
白銀の鎧も、見事に泥の上へ倒れた。
沈黙。
草が風に揺れる。
メイが目を見開いている。
瞬が泥の中から顔を上げた。
ゼイクも、泥だらけの兜を上げる。
二人は見つめ合った。
そして。
ゼイクの口から、息が漏れた。
「……ふ」
止まらなかった。
肩が震える。
「ふ……は」
自分でも信じられなかった。
泥の上に倒れ、剣も盾もなく、報告時刻も遅れ、鎧も汚れ、何ひとつ完璧ではない。
それなのに。
誰も死んでいない。
自分は生きている。
瞬も、メイも、生きている。
「はは……」
笑い声が出た。
十年ぶりだった。
瞬が目を丸くする。
「ゼイク、笑った?」
ゼイクは止めようとした。
だが、止まらなかった。
泥まみれのまま、空を見上げる。
青い空。
流れる雲。
風。
リリアが好きだった空。
「……十年ぶりだ」
小さく呟いた。
そして、空へ向かって言った。
「リリア」
風が吹いた。
道端の草が波のように揺れる。
「私は、まだ少し、不格好に生きているらしい」
その声は、誰にも届かなくてもよかった。
けれど、風の向こうで、誰かが笑ったような気がした。
仕方ないな、と。
昔のように。
瞬が立ち上がり、泥を払いながら言った。
「じゃあ、帰ったら飯だな」
ゼイクは泥だらけのまま睨む。
「その前に報告だ」
「まだ言うか」
「当然だ。任務報告は必要だ」
メイが、少しだけ微笑んだ。
「でも、その後は……温かいものを食べませんか」
ゼイクは彼女を見る。
白いアイガードの少女。
怖がりながらも、何度も声を届けた少女。
剣を手放させ、泥の中から引き戻した少女。
ゼイクは、短く息を吐いた。
「……必要行為だな」
瞬がにやりと笑う。
「出た。ゼイク式の優しさ」
「黙れ」
三人は王都へ歩き出した。
瞬は泥だらけ。
ゼイクも泥だらけ。
メイは白いアイガードをつけたまま、その少し後ろを歩いている。
まだ、すべてが救われたわけではない。
リリアは戻らない。
泥の記憶も消えない。
メイの恐怖も、瞬の無自覚な危うさも、ゼイクの傷も、すぐには消えない。
それでも、北の森で一つだけ変わった。
完璧でなくても、守れる。
汚れても、歩ける。
怖いままでも、声は届く。
ゼイクは、もう完璧なままではいられなかった。
だが不思議なことに。
その背中は、昨日より少しだけ強く見えた。




