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詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~異世界キャンピングカーでダンジョンも王国もひっくり返す~  作者: Gaku


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第25話:泥の中で聞いた、生きろという声 〜傷とは、隠すものではなく歩いた跡である〜

黒い泥が、森の地面から浮き上がった。


 それは、生き物の形をしていなかった。


 獣でも、人でも、魔物でもない。ただ、雨に濡れた土と、腐った水と、砕けた石の影をこね合わせたようなものが、重さを忘れたように宙へ浮かんでいる。表面には小さな泡がぶつぶつと浮かび、膨らんでは潰れ、潰れてはまた内側から湧き上がった。


 ぐぶり。


 泡が弾ける音がした。


 その音は、とても小さかった。


 けれどゼイクには、雷鳴より大きく聞こえた。


 雨。


 泥。


 濁流。


 赤いリボン。


 喉が、内側から握り潰される。


 白銀の鎧の下で、背中に冷たい汗が滲んだ。汗は首筋から肩甲骨の間へ流れ、鎧の内側で逃げ場を失う。体は熱いのに、指先だけが氷のように冷えていた。


 違う。


 ここはあの日ではない。


 北の森だ。


 雨は降っていない。


 リリアはいない。


 自分は今、任務中だ。


 ゼイクは、そう言い聞かせた。


 だが、黒い泥の臭いが鼻を刺すたび、記憶は鎧の隙間から入り込んでくる。


 濁った水が膝を打つ感触。


 泥に足を取られる重さ。


 子供を抱いた腕の震え。


 そして、泥の向こうで叫んだリリアの声。


 ――ゼイク、逃げて!


「……ありえない」


 ゼイクの声は、自分でもわかるほど低く震えていた。


「土石系ゴーレムの残骸が自立再構成する例はある。だが、浮遊はしない。重力を操る術式も、核も確認できない。泥だけが浮いているなど……理屈に合わない」


 瞬が横から言った。


「理屈に合わないなら、とりあえず避けた方がいい」


 その声は、軽いようでいて、真剣だった。


 ゼイクは反射的に言い返そうとした。


 だが、黒い泥が動いた方が早かった。


 泥の表面がぐにゃりと歪む。


 次の瞬間、腕のようなものが伸びた。


 速い。


 重そうに見えた泥が、鞭のように空気を裂いた。


「下がれ!」


 ゼイクは盾を構えた。


 黒い腕が盾を叩く。


 鈍い衝撃が、手首から肩まで抜けた。盾は砕けなかった。だが、泥は盾の表面にべたりと貼りつき、生き物のように鎧へ這い上がろうとする。


「剥がれない……!」


 ゼイクは剣で泥を払った。


 刃が黒い塊を裂く。


 しかし、裂かれた泥はすぐにつながった。


 規則がない。


 切断面がない。


 急所がない。


 手順が組めない。


 ゼイクの息が乱れた。


 胸の奥で、五年前の雨がまた強くなる。


 規則のないもの。


 予測できないもの。


 手順を踏み潰してくるもの。


 それが、リリアを奪った。


「ゼイク!」


 瞬の声が飛ぶ。


 黒い泥は、今度は三本に分かれた。


 一本はゼイクへ。


 一本は瞬へ。


 そして、一本はメイへ。


 メイの小さな肩が強張る。


 白いアイガードの下で、彼女の顔色が一気に青くなった。


 瞬が地面を蹴る。


「メイ!」


 だが、泥の腕は途中で形を変えた。


 まっすぐ伸びていたはずの先端が、煙のように曲がり、瞬の足元へ絡みつこうとする。


「うわっ、気持ち悪っ!」


 瞬は跳んだ。


 木の枝が、ばきりと鳴る。


 普通なら折れて落ちるところを、瞬はさらにその枝を蹴って上へ跳んだ。


 ゼイクは目を見開いた。


「貴様、どこへ――」


「ちょっと武器取ってくる!」


「今からか!?」


 森の上から、瞬の声だけが降ってきた。


 メイもゼイクも、そして黒い泥でさえ、一瞬だけ動きを止めたように見えた。


 次の瞬間。


 ばきばきばきばきっ!


 森の奥で、木の折れる音が響いた。


 一本ではない。


 何本も。


 ゼイクの頬が引きつる。


「……まさか」


 空から影が落ちた。


 瞬だった。


 両腕に、信じられないほど太い丸太を抱えている。苔の張りついた樹皮。折れた断面から覗く白い木肌。まだ枝葉が残っており、水滴が太陽の光を受けてぱらぱらと散っていた。


「計算とかいいから!」


 瞬が叫んだ。


「来たもんを迎撃すりゃいいんだよ!」


 その声が、ゼイクの胸の奥へ突き刺さった。


 別の声と重なる。


 夏の訓練場。


 春の木漏れ日。


 赤いリボンを揺らして笑う少女。


 ――なんとかなるよ!


 やめろ。


 重ねるな。


 ゼイクは奥歯を噛んだ。


 だが、瞬は丸太を振り下ろした。


 どごおおおおんっ!


 森が揺れた。


 黒い泥の塊が横へ潰れる。


 濡れた土が跳ね、葉の上の雫が一斉に散った。だが、泥は砕けなかった。丸太はその表面に深く沈み込み、黒い液体が樹皮を這い上がっていく。


「うわ、これ吸ってくるぞ!」


 瞬が叫ぶ。


「だから先に構造を確認しろと言った!」


「今それ言う!?」


「今だから言う!」


 瞬は丸太から手を離し、空中で体をひねって着地した。


 靴底が濡れた土を滑る。


 だが、倒れない。


 彼はメイの近くへ戻ると、すぐに彼女の前へ立った。


「大丈夫か?」


「私は……大丈夫です」


 メイは震えながら頷いた。


 ゼイクには、その声が嘘だとわかった。


 大丈夫ではない。


 足はすくんでいる。


 指先も震えている。


 それでも彼女は、逃げていない。


 白いアイガードを押さえながら、黒い泥を見ている。


 その姿に、ゼイクの胸が鈍く痛んだ。


 なぜだ。


 なぜ、そこに立てる。


 怖いなら下がればいい。


 隠れればいい。


 誰かの背中だけを見ていればいい。


 それなのに、彼女は震えたまま、前を見ている。


「ゼイクさん」


 メイの声がした。


 ゼイクは反応しなかった。


 いや、反応できなかった。


 黒い泥が、丸太を飲み込んでさらに膨らんでいく。まるで恐怖そのものが質量を得たようだった。


 ゼイクは剣を構え直す。


「斬撃無効。打撃吸収。質量増加。ならば火か凍結か――いや、術式反応が不明。手順を再構築する必要がある。まず距離を取り、観察を――」


「ゼイクさん!」


 今度は、メイの声が少し大きくなった。


 ゼイクは振り返った。


 メイは白いアイガードを押さえたまま、まっすぐゼイクを見ていた。


 怖がっている。


 それは明らかだった。


 それでも、彼女の声は逃げていなかった。


「鎧を守るために、中身が傷だらけになったら……それじゃ、意味がないんじゃないですか?」


 ゼイクの呼吸が止まった。


 黒い泥の泡が弾ける音だけが、森に響く。


 ぱちん。


 ぱちん。


 まるで、胸の奥に残った古い針が一本ずつ折れるような音だった。


「完璧に考えてから動こうとしたら、間に合わない時もあります。怖いままでも、汚れたままでも……生きるために動かないといけない時が、あると思います」


 生きるために。


 その言葉が、ゼイクの中で遠い声を呼び起こした。


 ――逃げて。


 リリアの最後の声。


 ずっと、ゼイクはそれを敗北の言葉だと思っていた。


 自分が届かなかった証。


 自分が守れなかった証。


 だが、メイの声と重なった瞬間、その意味が少しだけ違って聞こえた。


 逃げて。


 それは、見捨てろではなかった。


 剣を守れでも、規律を守れでもない。


 生きろ。


 そう言っていたのではないか。


「……貴様に、何がわかる」


 ゼイクの声は低かった。


 怒りを装った。


 だが、その奥には痛みがあった。


 メイは、小さく首を振った。


「わかりません。でも……私も、ずっと隠れていました。見られたら終わりだと思って、布の中で息をしていました。でも、隠すことだけを守っていたら……私は、どこにも行けませんでした」


 ゼイクは黙った。


 瞬も何も言わなかった。


 黒い泥だけが、ゆっくりと腕を持ち上げる。


 その腕は、また三人へ向かって伸びようとしていた。


 ゼイクは一歩前へ出た。


 泥が跳ねる。


 白銀の鎧に、黒いしみが増える。


 拭わなかった。


「……瞬」


「おう」


「丸太はもう使うな」


「了解」


「メイ」


「は、はい」


「視える範囲で、あの泥が動く前兆を教えろ」


 メイが息を呑んだ。


 それは命令だった。


 だが、拒絶ではなかった。


 役割だった。


「……はい!」


 ゼイクは剣を構えた。


 泥の匂いは消えない。


 リリアの記憶も消えない。


 胸の奥はまだ痛む。


 それでも、今ここで立っているのは過去の雨の中ではない。


 瞬がいる。


 メイがいる。


 敵がいる。


 守るべき現在がある。


「私は汚れる」


 ゼイクは低く言った。


「貴様らも巻き込まれるな」


 瞬が、にっと笑った。


「いいじゃん。泥まみれの騎士、ちょっとかっこいいぞ」


「黙れ。台無しだ」


 ゼイクは地面を蹴った。


 黒い泥の腕が振り下ろされる。


「右です!」


 メイの声が飛ぶ。


 ゼイクは即座に右へ踏み込んだ。


 斬らない。


 受け流す。


 盾へ絡ませ、わざと引きつける。


 黒い泥が盾にまとわりつき、鎧へ這い上がろうとする。


 気持ち悪い。


 吐き気がする。


 あの日の泥水が、また腕を伝ってくるようだった。


 だが、退かなかった。


「瞬!」


「任せろ!」


 瞬は倒木を蹴り上げた。


 ただし、今度は叩き潰すためではない。


 泥の腕へぶつけ、吸収される前に離す。


「左、来ます!」


 メイの声。


 ゼイクが動く。


 瞬が動く。


 二人の動きは噛み合っていない。


 ゼイクは硬すぎる。


 瞬は雑すぎる。


 だが、メイの声が、その間に細い線を引いていた。


「上!」


 ゼイクが身を沈める。


「足元!」


 瞬がメイを抱えるようにして一歩下がる。


「中心、泡が集まっています!」


 黒い泥の中央に、濃い泡が渦を巻いていた。


 そこだけが、他より暗い。


 ゼイクは見た。


 確かに、泥が動くたび、そこから波が広がっている。


「おそらく核だ!」


 瞬が叫ぶ。


「よし、吹き飛ばす!」


「待て! 吹き飛ばせば森ごと――」


「じゃあ、軽く!」


「貴様の軽くは信用ならん!」


 メイが叫んだ。


「シュンさん、指先だけ!」


「了解!」


 瞬が飛んだ。


 黒い泥の腕が殺到する。


 ゼイクは、その間へ入った。


 盾で受ける。


 泥が白銀の鎧を黒く染める。


 肩に、胸に、腕に、足に。


 鎧はもう、完璧ではなかった。


 けれど、ゼイクは立っていた。


「行け!」


 瞬の指先が、黒い泡の中心へ届いた。


 ぱちん。


 小さな音がした。


 次の瞬間、泥の内部で何かが割れた。


 ぐしゃり、と湿った音がして、浮いていた泥の塊が一気に重さを取り戻す。黒い泥が地面へ落下し、四方へ飛び散った。


 瞬は着地しようとして、足を滑らせた。


「おわっ」


 そのまま、泥の中へ顔から突っ込んだ。


 べちゃっ。


 森に、どうしようもなく間抜けな音が響いた。


 張り詰めた空気が、一瞬で切れる。


 メイは目を見開いた。


 ゼイクも固まった。


 泥まみれになった瞬が、顔だけを上げる。鼻先から黒い泥が落ち、彼は親指を立てた。


「……勝った」


 ゼイクは、低く言った。


「どの口で言っている」


「この泥まみれの口で」


 瞬の答えに、ゼイクはしばらく黙った。


 怒るべきだった。


 叱責すべきだった。


 任務中の不注意を指摘すべきだった。


 だが、兜の奥で、ほんの小さく息が漏れた。


 笑ったわけではない。


 そう思いたかった。


 ただ、呼吸が少し乱れただけだ。


 けれどメイが、それを見ていた。


 白いアイガードの少女は、泥の中から顔を上げる瞬と、泥だらけの鎧で立つゼイクを見比べて、ほんの少しだけ笑った。


 その笑みは、森の湿った空気の中で、朝の光のように薄く揺れた。


 ゼイクは、剣を下ろした。


 泥は、地面に重く沈んでいる。


 だが、彼の胸の中では、まだ別の泥が渦を巻いていた。


 終わったはずなのに。


 勝ったはずなのに。


 臭いが、消えない。


 黒い泥の腐ったような臭いが、鼻の奥から記憶を引きずり出す。


 雨。


 濁流。


 赤いリボン。


「リリアッ!!」


 その名は、ゼイクの口から無意識にこぼれた。


 瞬の表情が変わる。


 メイも息を呑む。


 ゼイクの膝が、森の地面に落ちた。


 がしゃん。


 鎧が濡れた土を打つ音がした。


 誰もすぐには動かなかった。


 森の奥で、水滴が落ちる。


 ぴちょん。


 ぴちょん。


 その音のひとつひとつが、過去の雨に変わっていく。


 ゼイクは泥だらけの手を見た。


 リリアを掴めなかった手。


 子供を受け止めた手。


 剣を握り続けた手。


 その手が、今も震えていた。


 近づこうとした瞬を、メイがそっと止める気配がした。


 そして、少し離れた場所から、彼女の声が届いた。


「ゼイクさん」


 ゼイクは答えなかった。


「……誰かを、思い出したんですか」


 答えられるはずがなかった。


 喉の奥には、泥が詰まっているようだった。


 だが、その沈黙を責める声はなかった。


 メイは、静かに言った。


「私も……思い出すものがあります」


 風が、濡れた葉を揺らした。


「泥の匂いとか、石の音とか、人の声とか……何でもないはずのものが、急に昔の場所に引き戻してきます」


 ゼイクは、ゆっくり顔を上げた。


 兜の奥の青い瞳が、メイを見る。


 そこにあったのは怒りではない。


 もう隠しきれない、むき出しの痛みだった。


「貴様は……」


 声が掠れる。


「どうやって、そこから戻る」


 メイはすぐに答えなかった。


 白いアイガードに、細い光が触れている。


 彼女はまだ、自分自身も戻りきっていないのだろう。


 それでも、逃げずに言った。


「……戻れていません」


 正直な言葉だった。


「でも、戻れなくても……今ここにいるって、誰かが言ってくれると、少しだけ息ができます」


 ゼイクの瞳が揺れた。


 メイは続けた。


「ゼイクさんは、今ここにいます」


 風が通る。


 濡れた葉が擦れ、ざわざわと鳴った。


「泥の中じゃありません。森にいます。私と、シュンさんと、一緒にいます」


 その言葉は、ゼイクの胸の奥へ、ゆっくり沈んだ。


 泥の底ではない。


 過去ではない。


 ここは北の森。


 自分は膝をついている。


 しかし、まだ生きている。


 瞬もいる。


 メイもいる。


 誰も、濁流に飲まれていない。


 ゼイクは、長く息を吐いた。


「私は……守るために、完璧でなければならなかった」


 声は低かった。


「次に同じことが起きても、二度と迷わぬように。二度と遅れぬように。二度と失わぬように。手順を作り、規律を守り、鎧を磨き、乱れを消した」


 彼は、泥のついた鎧を見下ろす。


「だが……また乱れた」


 メイは首を振った。


「でも、今回は誰も飲み込まれていません」


 その言葉に、ゼイクの息が止まった。


「泥は怖かったです。でも、ゼイクさんが前に立ってくれました。シュンさんが無茶をして、泥まみれになりました。私も……少しだけ、声を出せました」


 メイは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「完璧じゃなかったけど、誰も失っていません」


 ゼイクは、何も言えなかった。


 森の沈黙が、三人の周りに落ちる。


 それは重い沈黙だった。


 けれど、罰のような沈黙ではなかった。


 誰かを責めるためではなく、失ったものの名前をそっと地面へ置くための沈黙だった。


 やがて、瞬が泥だらけの顔で口を開いた。


「ゼイク」


 ゼイクは視線だけを向ける。


 瞬は、真剣な顔で言った。


「飯にしよう」


 沈黙。


 森が静まり返った。


 メイは目を瞬かせた。


 ゼイクは、兜の奥で完全に固まった。


「……今、その流れで食事の話をするのか」


「する。人間、重い話の後は温かいものを食った方がいい」


「貴様は本当に……」


 ゼイクは言葉を探した。


 怒鳴ろうとした。


 だが、出てきたのは、呆れに近い息だった。


「本当に、規律の外側から来る男だな」


「よく言われる」


「誰にだ」


「だいたい全員に」


 メイが、小さく笑った。


 瞬も笑った。


 ゼイクだけが笑わなかった。


 だが、彼はゆっくりと立ち上がった。


 泥が鎧から落ちる。


 べちゃり、と重い音がした。


 ゼイクはその音を聞き、顔をしかめた。


 布を取り出しかける。


 しかし、途中で手を止めた。


「……野営する」


 瞬が首を傾げた。


「帰らないのか?」


「この森は異常だ。土石系ゴーレムの残骸から、未確認の泥状存在が発生した。通常の魔物発生ではない。報告だけで帰還するには危険が残る」


 ゼイクは森の奥を見た。


「夜間の観察を行う。明朝、周辺を再確認してから戻る」


「つまり、キャンプだな」


「野営だ」


「同じじゃない?」


「響きが違う」


「そこ大事か?」


「大事だ」


 瞬はメイを見る。


「メイ、大丈夫か? 森、怖いなら王都に戻るぞ」


 メイは森の奥を見た。


 怖い。


 その表情だけでわかった。


 だが、彼女はゆっくり頷いた。


「……ここに、います」


 瞬は静かに笑った。


「わかった」


 ゼイクはその横顔を見ていた。


 怖いまま残る少女。


 規律の外から飯の話をする男。


 そして、泥を拭えないまま立っている自分。


 何も整っていない。


 何ひとつ、予定通りではない。


 だが、誰も死んでいない。


 ゼイクは、森の中で野営地を選び始めた。


 風を避けられる場所。


 地面が比較的乾いている場所。


 周囲を見渡せる場所。


 雨水が流れ込まない場所。


 手順は、まだ彼の中にあった。


 ただ、その手順は、誰かを遠ざける壁ではなく、今は三人が同じ夜を越えるための形になりかけていた。


 焚き火が起こされる頃、森には夕暮れが降り始めていた。


 火の赤い光が、瞬の泥だらけの顔と、メイの白いアイガードと、ゼイクの汚れた白銀鎧を照らす。


 火の粉が、夜へ向かう空に舞い上がる。


 濡れた葉が風に揺れ、遠くで水の流れる音がした。


 ゼイクは、泥のついた鎧のまま座った。


 懐の白い布には触れなかった。


 その代わり、焚き火の光を見つめながら、小さく息を吸う。


 煙の匂い。


 湿った土の匂い。


 炙られた干し肉の匂い。


 その中に、ほんのわずかに、温かいものが混じっていた。


 ゼイクはまだ、それを何と呼べばいいのかわからなかった。


 ただ、五年ぶりに。


 夜が、完全な敵ではないような気がした。


夜は、思ったより長かった。


 焚き火の赤い光は、濡れた森の闇を完全には押し返せなかった。火の届かない場所には、黒い幹が何本も立ち、枝と枝の隙間から覗く空は、深い藍色に沈んでいる。時折、葉に残った雫が落ちた。


 ぽたり。


 その音がするたび、ゼイクの指は剣の柄へ伸びた。


 眠る気にはなれなかった。


 火の前で、瞬は泥だらけの外套を羽織り、妙に堂々と座っている。メイは外套にくるまり、白いアイガードに指を添えたまま、浅い眠りへ落ちていた。寝息は細く、時々、何かに怯えるように肩が震える。


 ゼイクは、そんな二人を見張りながら、泥のついた鎧を拭かなかった。


 懐の白い布はある。


 何度も手が伸びかけた。


 けれど、そのたびにメイの言葉が戻ってくる。


 ――完璧じゃなかったけど、誰も失っていません。


 ゼイクは焚き火を見つめた。


 火の粉が、小さく空へ舞う。赤い点は夜の中へ昇り、すぐに消えた。


 リリアの赤いリボンも、あの日、泥水の中へそうして消えた。


 消えたと思っていた。


 だが、本当に消えたのだろうか。


 彼女が最後に残した声は、ゼイクの中にまだある。


 逃げて。


 生きろ。


 その意味を、今まで一度も正しく聞こうとしていなかったのかもしれない。


 森の奥で、低い音がした。


 ずず……。


 地面の下を、何かがゆっくり移動するような音。


 瞬が目を開けた。


 ゼイクも剣へ手をかける。


 だが、音はそれ以上近づかなかった。


 ただ、闇の奥に何かが潜んでいる。


 そんな気配だけを残して、森はまた静かになった。


     *


 翌朝、森には薄い光が差していた。


 夜の冷気はまだ地面に残り、落ち葉には細かな露がついている。靴底が湿った葉を踏むたび、ぐしゅり、と小さな音がした。木々の枝から差す朝日は、霧のような白さを含み、森の奥をぼんやりと照らしている。


 ゼイクは昨夜の泥の跡を確認していた。


 土石ゴーレムの残骸。


 黒い泥の残り香。


 地面に刻まれた戦闘の痕跡。


 異常は、まだ完全には消えていない。


「活動痕跡は北東へ伸びている」


 ゼイクは膝をついたまま言った。


「魔力の乱れは薄い。だが、通常の土石系魔物の残留とは明らかに異なる」


 瞬は少し離れた場所で、赤い木の実を見ていた。


「なあ、これ食えると思う?」


 ゼイクは無言で立ち上がった。


 そして、瞬の手から木の実を叩き落とした。


 ぱしん。


「拾い食いをするな」


「木の実相手に速すぎるだろ」


「毒だった場合、行軍速度が落ちる」


「心配してくれてる?」


「行軍速度を心配している」


 メイが、ほんの少し笑った。


 ゼイクはそれを見ないふりをした。


 その時だった。


 風が止まった。


 さっきまで葉を揺らしていた空気が、急に重く沈む。鳥の声が途切れ、虫の小さな音さえ消える。森全体が、息を止めたようだった。


 メイが足を止めた。


「……何か、います」


 ゼイクと瞬は、同時に動きを止めた。


 ゼイクは剣の柄に手をかける。


 瞬はメイの前へ半歩出る。


 視線の先、倒木の根元に、黒いものがあった。


 最初は影に見えた。


 けれど、違った。


 それは黒い液体だった。


 泥よりも黒く、水よりも重く、油のように鈍く光っている。地面に薄く広がりながら、内側からゆっくりと脈打っていた。草に触れると、草は音もなく黒く変色し、輪郭を失って液体の中へ吸い込まれる。


 ゼイクの背筋に、冷たいものが走った。


「距離を取れ」


 低く告げる。


 瞬がメイを下げる。


 ゼイクは慎重に踏み込んだ。


 確認しなければならない。


 触れるものを飲み込むのか。


 斬撃は通るのか。


 核はあるのか。


 剣を抜く。


 朝の光が、銀の刃を白く光らせた。


 ゼイクは黒い液体の端を斬った。


 裂けたように見えた。


 しかし次の瞬間、切れ目は何もなかったように閉じた。


 それだけではない。


 剣の先に、黒い液体がまとわりついていた。


 じゅ、と嫌な音がする。


 銀の刃がわずかに曇った。


「……っ」


 ゼイクは即座に引いた。


 だが、黒い液体は剣を伝って這い上がる。


「離せ!」


 瞬が叫んだ。


 ゼイクは動けなかった。


 剣。


 騎士の証。


 リリアを失った日から、二度と迷わないために握りしめてきたもの。


 その剣を、黒い液体が侵していく。


「……まだ、使える」


「使えるとかじゃない! 飲まれるぞ!」


 瞬が動こうとした瞬間、黒い液体から細い触手が伸びた。


 瞬はメイを抱えるようにして横へ跳ぶ。


 触手は落ち葉を無音で吸い込み、さらに太くなった。


「触れたものを……食べてる……?」


 メイの声が震える。


「最悪だな」


 瞬が顔をしかめる。


「殴れない、斬れない、しかも食って大きくなる。俺の苦手分野だ」


 ゼイクは剣を振った。


 離れない。


 何度振っても、黒い液体は刃へ張りつき、少しずつ柄へ近づいてくる。


「離れろ……!」


 声が乱れた。


 ゼイク自身にもわかった。


 剣を手放せない。


 手順を手放せない。


 騎士である形を手放せない。


 昨日、泥を拭わずにはいられた。


 だが、剣は違う。


 この剣まで失えば、自分は何者になる。


「ゼイク!」


 瞬が叫んだ。


「剣を捨てろ!」


 ゼイクの顔が強張る。


「騎士が、剣を捨てるなど――」


「今それ言ってる場合か!」


 黒い液体が、剣の半ばまで這い上がった。


 もう少しで籠手に届く。


「ゼイクさん!」


 メイの声がした。


 ゼイクの目が、彼女へ向く。


 白いアイガードの少女。


 怖がりながら、それでも逃げずにこちらを見ている。


「剣が、ゼイクさんを守っているんじゃありません!」


 森の中に、その声が響いた。


「ゼイクさんが、生きているから……剣を持てるんです!」


 ゼイクの呼吸が止まった。


「剣を守って、ゼイクさんが飲まれたら……意味がないです!」


 その言葉が、胸を貫いた。


 騎士が剣を捨てる。


 それは、鎧を脱ぐより怖かった。


 自分が自分でなくなる。


 リリアを失ってから積み上げたものが、崩れる。


 けれど。


 ――ゼイク、逃げて!


 リリアは、剣を守れとは言わなかった。


 規律を守れとも言わなかった。


 生きろ。


 そう言ったのだ。


 ゼイクの唇が震えた。


 そして、彼は剣を手放した。


 黒く侵された剣が地面へ落ちる。


 黒い液体は獲物を得たように群がり、銀の刃を音もなく飲み込んでいった。


 瞬がゼイクの腕を掴み、後ろへ引く。


「よし!」


「……私の剣が」


 ゼイクの声は空っぽだった。


 瞬は珍しく茶化さなかった。


「生きてる」


 短く言った。


「剣は飲まれた。でも、お前は生きてる」


 ゼイクは、自分の空いた右手を見た。


 そこには何もない。


 いつもあった重みがない。


 だが、不思議だった。


 空いた場所へ、冷たい風と一緒に、別のものが入ってくる。


 自由。


 そんな言葉が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。


 黒い液体は、剣を飲み込んで大きくなっている。


 だが、重くもなっていた。


 地面へ沈み、動きが鈍い。


 ゼイクは周囲を見た。


 雨で削れた浅い溝。


 低くなった地面。


 その先の川。


 触れたものを飲み込むなら、触れさせるものを選べばいい。


 飲み込ませて重くし、流す。


「瞬」


「おう」


「地面を浅く割れ。あの溝から川へ流す道を作る」


「地面を割る?」


「深くではない。浅く、長く。やりすぎれば森が崩れる」


「加減むずっ」


「できると言ったな」


 瞬は笑った。


「言った。やる」


 彼の指が、濡れた土に触れる。


 とん。


 小さな音。


 地面の下で、細い亀裂が走った。雨水を含んだ土が崩れ、浅い溝が川の方へ伸びていく。


「……やればできるではないか」


「もっと褒めていいぞ」


「調子に乗るな」


 ゼイクは背の白いマントに手をかけた。


 純白の騎士の証。


 汚れを恐れ、丁寧に扱ってきたもの。


 その端に、昨夜の泥がついている。


 ゼイクは、一瞬だけ止まった。


 だが、今度は迷わなかった。


 マントを外し、黒い液体の先へ投げる。


 白い布が朝の光の中で広がった。


 一瞬、翼のように見えた。


 それが地面に落ちる。


 黒い液体が反応した。


「来ます! 全部、マントの方へ!」


 メイの声。


 黒い液体は白を汚すように殺到し、マントを飲み込んだ。


 ゼイクの胸が痛んだ。


 だが、目を逸らさなかった。


「瞬!」


「おう!」


 亀裂がさらに広がる。


 雨水が集まる。


 黒い液体は重くなり、地面へ沈み始めた。


「左、泡が大きいです!」


 メイの声に合わせ、ゼイクは盾を地面へ突き立てた。


 触れさせない。


 触れそうで触れない距離で土を削る。


 泥が跳ね、鎧を汚す。


 もう拭わない。


 やがて黒い液体が、溝へ滑り込んだ。


 だが、木の根に触手を絡ませて止まる。


「止まります!」


 メイが叫ぶ。


 ゼイクは盾を見た。


 騎士の盾。


 守るための道具。


 だが、守るとは、抱え込むことではない。


 ゼイクは盾を投げた。


 黒い触手の前へ。


 液体は盾へ絡みつく。


 その一瞬、本体の力が抜けた。


「今だ!」


 瞬が地面を叩いた。


 どん。


 森が揺れる。


 だが、崩れたのは黒い液体の足元だけだった。


 重くなった黒い塊は、飲み込んだ剣とマントと盾を抱えたまま、雨水の流れに乗って滑り落ちていく。


 どぷん。


 川へ落ちた。


 水が黒く染まる。


 しかし流れは速かった。


 黒い塊は形を保とうとしたが、川の力に引き裂かれ、薄く伸び、ちぎれ、濁りの中へ消えていった。


 水の音だけが残った。


 ざああ、と川が流れている。


 ゼイクは立っていた。


 剣はない。


 盾もない。


 マントもない。


 白銀の鎧は泥だらけだった。


 騎士としての形だけを見れば、ひどい姿だった。


 だが、誰も死んでいなかった。


「ゼイクさん」


 メイが静かに言った。


「剣がなくても、ゼイクさんは騎士でした」


 ゼイクの瞳が揺れた。


 言葉が、胸の一番深い場所へ落ちる。


 リリア。


 私は、まだここにいる。


 剣を失っても。


 泥に汚れても。


 誰かを守るために、まだ立っている。


「……帰還する」


 ゼイクは言った。


 声はまだ硬い。


 けれど、少しだけ軽かった。


 瞬が片手を上げる。


「剣と盾とマント、なくなったけど大丈夫か?」


 ゼイクは沈黙した。


「大丈夫ではない」


「正直だ」


「だが、私が生きている」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 だが、取り消さなかった。


 瞬が笑う。


「いいじゃん」


 ゼイクは瞬を見た。


「貴様は……不快なほど、雑だ」


「褒めてる?」


「褒めていない。だが、雑でなければ間に合わないこともあると、今日だけは認めてやる」


「最大級の褒め言葉きた!」


「だから褒めていない!」


 メイが笑った。


 今度は、はっきりと声になった笑いだった。


 ゼイクはその声を聞いた。


 そして、なぜか胸が痛んだ。


 痛いのに、息ができた。


     *


 王都へ戻る道には、雨上がりの光があふれていた。


 草は風に揺れ、水たまりには青空が映っている。遠くの城壁が、白く朝日に照らされていた。


 瞬は泥だらけだった。


 ゼイクも泥だらけだった。


 メイだけが、少し後ろを歩きながら、二人を見ている。


 その時、瞬がどこからか布の切れ端を取り出した。


 ゼイクの白いマントの、かろうじて川辺の枝に引っかかっていた端切れだった。


 瞬はそれを眺めた。


 そして、自分の泥だらけの顔を、ごしごし拭いた。


「……」


 ゼイクの動きが止まる。


 メイも固まる。


 瞬は満足げに言った。


「お、意外と拭ける」


 次の瞬間、ゼイクの声が森へ響いた。


「貴様あああああああああああああああっ!」


 ゼイクは走った。


 剣はない。


 盾もない。


 マントもない。


 だが、怒りだけで十分だった。


「それは私のマントだ!」


「もう端切れだろ!」


「端切れでも私のものだ!」


「泥ついてたし!」


「貴様の顔の泥よりは清潔だった!」


 瞬は笑いながら逃げた。


 ゼイクは追った。


 その姿は、完璧な騎士とは程遠かった。


 だが、走っているうちに、ゼイクの胸の奥で何かが揺れた。


 息が上がる。


 鎧が鳴る。


 泥が跳ねる。


 そして、瞬が石に足を引っかけた。


「あ」


 べしゃ。


 瞬が泥に突っ込む。


 ゼイクは止まりきれず、足を滑らせた。


 がしゃん。


 白銀の鎧も、見事に泥の上へ倒れた。


 沈黙。


 草が風に揺れる。


 メイが目を見開いている。


 瞬が泥の中から顔を上げた。


 ゼイクも、泥だらけの兜を上げる。


 二人は見つめ合った。


 そして。


 ゼイクの口から、息が漏れた。


「……ふ」


 止まらなかった。


 肩が震える。


「ふ……は」


 自分でも信じられなかった。


 泥の上に倒れ、剣も盾もなく、報告時刻も遅れ、鎧も汚れ、何ひとつ完璧ではない。


 それなのに。


 誰も死んでいない。


 自分は生きている。


 瞬も、メイも、生きている。


「はは……」


 笑い声が出た。


 十年ぶりだった。


 瞬が目を丸くする。


「ゼイク、笑った?」


 ゼイクは止めようとした。


 だが、止まらなかった。


 泥まみれのまま、空を見上げる。


 青い空。


 流れる雲。


 風。


 リリアが好きだった空。


「……十年ぶりだ」


 小さく呟いた。


 そして、空へ向かって言った。


「リリア」


 風が吹いた。


 道端の草が波のように揺れる。


「私は、まだ少し、不格好に生きているらしい」


 その声は、誰にも届かなくてもよかった。


 けれど、風の向こうで、誰かが笑ったような気がした。


 仕方ないな、と。


 昔のように。


 瞬が立ち上がり、泥を払いながら言った。


「じゃあ、帰ったら飯だな」


 ゼイクは泥だらけのまま睨む。


「その前に報告だ」


「まだ言うか」


「当然だ。任務報告は必要だ」


 メイが、少しだけ微笑んだ。


「でも、その後は……温かいものを食べませんか」


 ゼイクは彼女を見る。


 白いアイガードの少女。


 怖がりながらも、何度も声を届けた少女。


 剣を手放させ、泥の中から引き戻した少女。


 ゼイクは、短く息を吐いた。


「……必要行為だな」


 瞬がにやりと笑う。


「出た。ゼイク式の優しさ」


「黙れ」


 三人は王都へ歩き出した。


 瞬は泥だらけ。


 ゼイクも泥だらけ。


 メイは白いアイガードをつけたまま、その少し後ろを歩いている。


 まだ、すべてが救われたわけではない。


 リリアは戻らない。


 泥の記憶も消えない。


 メイの恐怖も、瞬の無自覚な危うさも、ゼイクの傷も、すぐには消えない。


 それでも、北の森で一つだけ変わった。


 完璧でなくても、守れる。


 汚れても、歩ける。


 怖いままでも、声は届く。


 ゼイクは、もう完璧なままではいられなかった。


 だが不思議なことに。


 その背中は、昨日より少しだけ強く見えた。

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