第24話:冬の吹雪と、窒息する魂 〜呼吸とは、誰かの声で思い出す生きる音である〜
季節は、確かに春へ向かっていた。
王都グランドルの北側へ抜ける通りには、雨上がりの澄んだ風が流れている。石畳の隙間に残った水は朝の光を細く返し、道端の草は濡れた葉を重たげに揺らしていた。風が通るたび、葉先に溜まった雫が小さく震え、ぽたり、と土の上へ落ちる。
その音を聞くたび、ゼイク・バンフォードの胸の奥では、別の水音が蘇った。
濁った川。
崩れる土。
雨に掻き消される叫び声。
指先から逃げていった赤いリボン。
あの夏の日から、五年が過ぎていた。
王立騎士団第一部隊長。
白銀の騎士。
規律の化身。
鉄仮面。
人々は、ゼイクをそう呼んだ。
賞賛のつもりなのだろう。畏敬のつもりなのだろう。けれど、ゼイクにとってその呼び名は、鎧の内側へ一本ずつ打ち込まれる冷たい釘だった。
笑うな。
迷うな。
乱れるな。
人であることを、自分に許すな。
第四演習場の隅で、ゼイクは木剣を構えていた。
広い演習場では、若い兵士たちが木剣を打ち合い、槍を構え、指導官の号令に合わせて足を運んでいる。湿った土を踏む靴音。鎧の擦れる硬い音。革手袋が武器の柄を握り直す音。すべてが朝の空気の中で混じり合っていた。
けれど、ゼイクの周囲だけは異様に静かだった。
誰も近づかない。
近づけない。
彼の白銀の全身鎧には、泥ひとつ付いていなかった。雨上がりの演習場に立っているというのに、肩当てにも胸当てにも、水滴すら残っていない。足を置く位置。踏み込みの角度。剣を止める高さ。呼吸の長さ。そのすべてを正しく整えれば、汚れは避けられる。
避けなければならない。
汚れは乱れだ。
乱れは迷いだ。
迷いは、死を呼ぶ。
「……せいッ!」
木剣が空を裂いた。
ひゅん、と鋭い音が鳴る。
刃ではない。だが、その軌道には刃よりも冷たいものが宿っていた。木剣は地面すれすれで止まり、微動だにしない。土の上に伸びた影さえ、そこで息を止めたように見えた。
ゼイクは構え直す。
肩の高さ。
肘の角度。
足先の向き。
呼吸。
すべて同じ。
「……せいッ!」
二度目の一振り。
同じ音。
同じ軌道。
同じ停止。
兵士たちの何人かが、遠巻きに見ているのはわかっていた。
尊敬。
恐怖。
好奇。
そして、少しの嘲り。
休憩時間に、彼らが自分の歩き方を真似して、直角に曲がって笑っていることも知っていた。背中で囁かれる「鉄仮面」という言葉も、聞こえていた。
それでも構わなかった。
近づかれるよりいい。
親しげに名を呼ばれるよりいい。
誰かの笑顔に胸を動かされ、誰かの声で足を止めてしまうより、孤独の方がずっと安全だった。
「……せいッ!」
三度目の一振り。
その時、演習場の入口から、場違いな足音が近づいてきた。
兵士ではない。
騎士でもない。
足幅が不規則で、靴底の音に緊張感がない。踏み込むたび、濡れた土が軽く鳴る。まるで、地面が自分を受け止めることを当然だと思っている歩き方だった。
もうひとつ。
その後ろに、小さな足音があった。
慎重で、迷いがあり、湿った地面を確かめるような音。ときおり布が擦れる。誰かの袖を、指先で掴んでいるのだろう。
ゼイクは振り向かなかった。
木剣を構える。
呼吸を整える。
聞くな。
乱れるな。
だが、次の声は、整えた沈黙を真正面から割った。
「よう! こんにちは!」
明るすぎる声だった。
ゼイクの木剣が、地面から数ミリの位置で止まる。
演習場の端に溜まっていた枯れ葉が、風に押されてかさりと転がった。湿った土と革と鉄の匂いが鼻を打つ。ゼイクは、首だけをゆっくり動かした。
そこに、二人がいた。
一人は黒髪の男。
背筋は甘い。重心は右に寄っている。肩の力は抜けすぎている。服装も装備も、騎士の基準から見れば乱れている。
だが、その男には妙な圧があった。
鍛え上げられた戦士の静けさではない。
上位者の威圧でもない。
もっと質の悪いもの。
何をするかわからない。
手順を壊し、空気を壊し、常識を踏み越え、それでも最後には平然と笑っていそうな気配。
ゼイクの胸の奥で、古い傷が疼いた。
――なんとかなるよ。
雨音の向こうから、リリアの声がよみがえりかける。
ゼイクは、それを押し潰した。
違う。
この男はリリアではない。
重ねるな。
男の隣には、白いアイガードをつけた少女がいた。
小柄で、肩が細い。彼女は黒髪の男の袖を、指先だけで掴んでいた。演習場の金属音に身を強張らせながら、それでも逃げずに立っている。
白いアイガードの縁が、朝の光を受けて淡く光っていた。
その下に何があるのか、ゼイクは噂として知っていた。
紫の瞳。
災いの目。
人々が勝手に恐れ、勝手に傷つけてきたもの。
ゼイクは少女を一瞥した。
判断は保留。
少なくとも、彼女からは軽薄さは感じない。むしろ、過剰なほど自分を抑えている。隠すためのものを身につけ、恐れながらここに立っている。
鎧に似ている。
そう思いかけて、ゼイクは即座にその考えを切った。
「……貴様らか」
声は冷たく出た。
「ギルドから連絡のあった、無礼極まりない英雄というのは」
黒髪の男――瞬が目を丸くした。
「無礼!? 第一声からなかなか尖ってるな!」
ゼイクは答えなかった。
懐から真っ白な布を取り出し、鎧の肩をさっと拭う。
何もついていない。
だが、拭かずにはいられなかった。
その声が、まるで埃のように鎧へ触れた気がしたのだ。
瞬が真顔になる。
「今、俺の挨拶、拭かれた?」
「雑音は鎧に悪い」
「挨拶にそんな物理効果あるの?」
軽い。
あまりにも軽い。
ゼイクは奥歯を噛んだ。
その軽さが不快だった。
それなのに、完全に無視できない自分も不快だった。
リリアも、よくこうして、こちらが整えた言葉の線を踏み越えてきた。
――真面目すぎるよ、ゼイク。
胸の奥で、赤いリボンが揺れる。
ゼイクはそれを振り払うように、瞬を見た。
「帰れ」
「早っ」
「私は、貴様のような規律を持たぬ者とは組まない」
瞬は腰に手を当てた。
「まだ何も話してないだろ。俺の中にも規律くらいあるぞ」
「ほう」
ゼイクは目を細めた。
「では聞こう。貴様の規律とは何だ」
瞬は、なぜか胸を張った。
「腹が減ったら飯を食う」
演習場の空気が止まった。
近くで訓練していた兵士の一人が、木剣を取り落とした。
からん。
乾いた音が、やけに大きく響く。
ゼイクは目を閉じた。
「帰れ」
「なんでだよ! 生命活動の基本だろ!」
「基本すぎて規律ではない」
「じゃあ、困ってる子がいたら助ける」
ゼイクの瞼が開いた。
胸の奥に、冷たい針が刺さった。
困っている子がいたら助ける。
それは、正しい。
あまりにも正しい。
そして、あの日リリアが走り出した理由だった。
逃げ遅れた子供。
雨に濡れた草。
泥へ沈む足。
迫る濁流。
ゼイクの手の届かなかった赤いリボン。
正しいことが、必ずしも全員を救うわけではない。
その事実を、ゼイクは誰よりも知っていた。
瞬は、何も知らない顔で続けた。
「あと、飯は温かいうちに食べる」
「後半が余計だ」
「大事だぞ」
「戦場で湯気を気にするな」
「冷めたスープは悲しいだろ」
ゼイクは言葉を返そうとして、一瞬だけ詰まった。
詰まった自分が許せなかった。
こんな男に、言葉の隙間を作られるなど。
「貴様」
ゼイクは瞬を上から下まで見た。
「立ち方が悪い。重心が右に寄りすぎている。姿勢に緊張感がない。装備の紐が二ミリほど解けている。髪も跳ねている。全体的に、美しくない」
瞬は自分の髪を触った。
「髪は寝癖じゃなくて個性だ」
「寝癖だ」
「断言された」
「何より、そのヘラヘラした顔だ。戦場に笑顔は不要。必要なのは冷静な判断、正確な手順、乱れなき規律。それだけだ」
言いながら、ゼイクは自分の声を聞いていた。
これは説教ではない。
警告でもない。
自分自身へ向けた命令だった。
笑うな。
笑えば迷う。
迷えば失う。
失えば、二度と戻らない。
瞬は肩をすくめた。
「笑顔も結構大事だと思うけどな」
「不要だ」
「メイがちょっと笑うと、世界がだいぶ救われるぞ」
少女の肩が、びくりと震えた。
「しゅ、シュンさん、今それは……」
「事実だから」
「事実でも、言い方が……」
ゼイクは、メイを見た。
白いアイガードの下で、彼女はうつむいている。頬にわずかな赤みが差し、困ったように瞬の袖を握り直していた。
その仕草は、戦士のものではない。
怯えた子供に近い。
けれど、彼女はここに立っている。
誰かの影に隠れているようで、それでも自分の足で立っている。
ゼイクは目を逸らした。
見てはいけない。
彼女の傷を見れば、自分の鎧の内側まで見られる気がした。
「去れ」
ゼイクは踵を返した。
直角に。
一歩。
また直角に。
正方形をなぞるように、元の位置へ戻る。
背中で、瞬の声が聞こえた。
「……歩き方まで定規かよ」
返さない。
返せば乱れる。
ゼイクは木剣を握り直した。
その時だった。
「……あの人、怖がってる」
少女の声がした。
細い声だった。
だが、その一言は鎧の隙間から入り込んだ。
ゼイクの指が、木剣の柄を強く握る。
怖がっている。
誰が。
私が。
違う。
私は恐れてなどいない。
私は、失敗を防いでいるだけだ。
私は、守るために必要なことをしているだけだ。
メイの声は続いた。
「たぶん……失敗するのが、怖いんだと思います」
演習場の音が遠のいた。
兵士たちの掛け声も、木剣の音も、風に転がる枯れ葉の音も、すべて水の底から聞こえるように鈍くなる。
失敗するのが怖い。
そんな単純な言葉で、五年間閉じ込めてきたものに触れられた。
鎧の内側で、呼吸が浅くなる。
背中に冷たい汗が滲んだ。
ゼイクは、ゆっくり振り返った。
メイは、白いアイガードに指を添えていた。
「私も、ずっと隠してました」
彼女の声は震えている。
「見られたら終わると思って。少しでも間違えたら、また嫌われると思って。だから、布の下に閉じこもっていました」
ゼイクは、何も言えなかった。
心臓が一度だけ、強く鳴る。
どくん。
ひどく人間らしい音だった。
「……同じにするな」
声は低くなった。
メイの肩が震える。
瞬の表情が、少しだけ変わった。
「私は、貴様らとは違う」
ゼイクは木剣を握りしめた。
白銀の手甲が、かすかに鳴る。
「私は怯えてなどいない。失敗を恐れているのでもない。ただ、失敗を防ぐために必要なことをしているだけだ。手順を守り、規律を守り、乱れを排除する。それが命を守る唯一の方法だ」
言葉は正しい。
そうでなければならなかった。
もし、それだけが命を守る方法ではないのなら。
もし、誰かを助けたいという衝動や、笑い声や、温かい食事を大切にする気持ちまでもが、ただの間違いではないのなら。
あの日の自分を、どう裁けばいいのかわからなくなる。
「……すみません」
メイが、小さく言った。
「決めつけるつもりは、ありませんでした」
彼女は頭を下げた。
その仕草は、ひどく慣れていた。
謝ることに。
身を小さくすることに。
自分の言葉が相手を傷つけたのではないかと、先に怯えることに。
ゼイクの胸の奥で、何かが軋んだ。
その痛みを、彼は怒りに変えた。
「ならば黙っていろ」
メイの指が、瞬の袖をきゅっと握った。
その瞬間、空気が変わった。
瞬が、一歩前へ出た。
たった一歩。
だが、湿った土が靴底の下で、ぐ、と低く鳴った。演習場の兵士たちが一斉にこちらを見る。風が止まったわけではないのに、誰もが次の音を待つように息を潜めた。
「おい」
瞬の声は、さっきまでと違っていた。
軽くない。
笑っていない。
「メイにそんな言い方すんな」
ゼイクは瞬を見た。
黒髪の男の目には怒りがあった。
だがそれは、自分の誇りを傷つけられた怒りではない。
メイが縮こまったことへの怒り。
彼女がまた謝ろうとしたことへの怒り。
ゼイクには、それがわかってしまった。
だから、不快だった。
「私は事実を述べたまでだ」
「事実でも言い方ってもんがあるだろ」
「戦場で言い方に気を配る余裕はない」
「ここは戦場じゃない」
「訓練場だ。戦場に備える場所だ」
「なら、なおさら仲間を泣かせるなよ」
ゼイクは言い返そうとして、言葉を失った。
メイは泣いていない。
だが、泣きそうな顔をしていた。
ゼイクは、その顔から目を逸らした。
見てはいけない。
見れば、自分の中の傷まで開く。
「……茶番だ」
ゼイクは吐き捨てた。
「涙も、同情も、慰めも、すべて任務には不要だ」
瞬の眉がわずかに動いた。
「お前、ほんとにそれでいいのかよ」
「何がだ」
「ずっとそんな鎧の中にいて、苦しくないのかって聞いてる」
その言葉は、剣ではなかった。
だが、鎧の隙間を通った。
ゼイクの呼吸が、一瞬だけ止まる。
苦しい。
その言葉を、五年間、誰にも言わなかった。
言えなかった。
言ってはいけないと思っていた。
なのに、この男は初対面で、それを土足で踏み越えてきた。
怒りが湧いた。
それ以上に、恐怖が湧いた。
この男は危険だ。
規律を壊す。
沈黙を壊す。
鎧の内側へ、手を伸ばしてくる。
ゼイクは木剣を構え直した。
「貴様に、何がわかる」
「わからない」
瞬は即答した。
その早さに、ゼイクはわずかに目を細める。
「でも、苦しそうなのはわかる」
演習場に、深い沈黙が落ちた。
遠くで、雨上がりの草が風に揺れている。さわさわと擦れる葉の音が、妙に鮮明に聞こえた。
ゼイクは、低く言った。
「帰れ」
「嫌だ」
「命令だ」
「俺、騎士団員じゃないし」
「ならば実力で追い出す」
「いいぞ」
瞬は、あっさり頷いた。
躊躇がない。
剣もない。
構えもない。
それなのに、白銀の鎧をまとった第一部隊長の前で、一歩も引かない。
無謀。
いや、違う。
この男にとっては、それが普通なのだ。
自分を守るためには慎重にならないくせに、誰かを守るためなら迷わず前へ出る。
その危うさが、ゼイクには理解できなかった。
理解できないものは、怖い。
「シュンさん」
メイの声がした。
瞬の袖を掴む指に力がこもる。
「だめです。暴れたら、また床とか地面とか壁とか、何かが壊れます」
「俺、そんな毎回壊してる?」
「毎回ではないです」
「だろ?」
「かなりの頻度です」
「否定が弱い」
周囲の兵士たちの間に、かすかなざわめきが走った。
張り詰めた空気が、奇妙に歪む。
ゼイクの中で、怒りと困惑が同時に膨らんだ。
なぜ、この場でそんな会話ができる。
なぜ、怒りながらも、メイの声ひとつで止まれる。
自分は、止まれなかったのに。
ゼイクは木剣を下ろした。
許したわけではない。
これ以上この男と向き合えば、自分の内側が乱れると感じたからだ。
「……話にならん」
「それはこっちの台詞だよ」
「貴様とは同行しない」
ゼイクは、はっきり告げた。
「力があるかどうかの問題ではない。品格と手順の問題だ。貴様には、その両方が欠けている」
瞬が反論しかける。
その前に、メイが一歩前へ出た。
「お願いします」
小さな声。
しかし、先ほどよりも強かった。
「北の森の依頼、ゼイクさんの協力が必要なんです」
北の森。
ゼイクの胸が、冷たく沈んだ。
ギルドからの連絡は受けている。
暴走した土石系ゴーレム。
湿った森。
泥の外殻。
足場の悪い地形。
王都近郊で放置できない危険。
その情報は、すでに頭の中で何度も組み立てていた。
だが、森という言葉だけで、別の記憶が呼吸を塞ぐ。
濁流。
雨。
赤いリボン。
届かなかった手。
ゼイクは、呼吸を整えた。
すう。
はあ。
すう。
はあ。
整えろ。
乱れるな。
今度こそ。
「協力など不要だ」
ゼイクは言った。
「その程度の討伐、私一人で十分だ」
メイは怯えながらも、引かなかった。
「でも……一人で行くより、三人で行った方が、見えるものが増えると思います」
ゼイクは、メイを見た。
白いアイガードの少女。
恐怖で肩を震わせながら、それでも言葉を差し出してくる少女。
彼女の言葉は甘い。
危うい。
だが、不思議と軽薄ではなかった。
瞬が横から言う。
「俺、力仕事なら役に立つぞ。あと、腹が減った時の判断も早い」
「後半は不要だ」
「でも大事だぞ」
「黙れ」
ゼイクは低く言い、懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出した。
そこには、北の森の地形と、土石ゴーレムの予想移動経路がびっしりと書き込まれている。文字の間隔も、線の角度も、すべて整っていた。
整っていなければならなかった。
ゼイクは、それを瞬の前に突きつける。
「いいだろう」
瞬が首を傾げた。
「何が?」
「貴様らが、私の隣に立つ資格があるか試してやる」
メイが小さく息を呑む。
ゼイクは言葉を続けた。
「北の森に、暴走した土石系ゴーレムが出現している。ギルド経由で討伐依頼が回ってきた。本来ならば、私は単独で十分だと判断していた」
「単独で十分なら、俺たちいらなくない?」
「本来ならな」
ゼイクの視線が、ほんの一瞬だけメイへ向く。
「だが、その娘の言葉が少し気に入らん」
「気に入らないから試すのか?」
「そうだ。間違っていることを証明するためだ」
瞬はメイを見た。
メイは、困ったように眉を下げる。
「……怒らせてしまいましたか」
「いや、たぶん刺さったんだと思う」
「刺さった?」
「心の関節に」
「心に関節があるんですか」
「たぶんある。ゼイクは全部直角に曲がりそうだし」
「聞こえているぞ」
ゼイクは、低く言った。
瞬はすぐに肩をすくめる。
そのやり取りに、メイの口元がほんの少しだけ緩んだ。
小さな笑みだった。
だが、ゼイクは見てしまった。
その笑みは、リリアとは違う。
声も、髪も、立ち方も、何もかも違う。
それなのに、その小さな笑みは、ゼイクが五年間遠ざけてきたものを、かすかに揺らした。
誰かが誰かの隣で、少しだけ安心する瞬間。
それは、ゼイクが失ったものだった。
「条件は一つ」
ゼイクは羊皮紙を掲げた。
「私の作戦に従うこと。一歩の遅れも、一手の無駄も許さない。私の指示通りに動けるなら、同行を認める」
瞬は羊皮紙を受け取り、三秒で顔をしかめた。
「字が多い」
「情報量が多いと言え」
「読む前に心が負けそう」
「軟弱な心だ」
瞬は、それでも笑った。
「面白そうじゃん」
「遊びではない」
「わかってる。でも、やってみよう」
瞬はメイを見る。
「どうする? メイが嫌なら断る」
その問いに、ゼイクはわずかに目を細めた。
この男は、決めつけない。
力で前へ引っ張るようでいて、最後の一歩を少女に選ばせる。
ゼイクには、それが眩しく、そして危うく見えた。
メイは白いアイガードに触れた。
「……会うだけのつもりでしたけど」
「うん」
「少しだけ……見てみたいです」
「ゼイクを?」
「はい。あの鎧の中が、どんな人なのか」
ゼイクの胸の奥で、何かが硬く鳴った。
鎧の中。
誰にも見せるつもりのない場所。
泥水の音が消えない場所。
赤いリボンを、まだ探し続けている場所。
「私の内側など詮索するな。不愉快だ」
ゼイクは吐き捨てるように言った。
瞬は、なぜか明るく手を上げる。
「じゃあ外側からいくか。まずそのピカピカの鎧、すごいな。俺の顔が映る」
「近づくな。指紋がつく」
「サイン書いたら映えるぞ」
「貴様、私の甲冑に落書きする気か」
「落書きじゃない。英雄サインだ。将来プレミアつく」
「今すぐ貴様の額に『無礼』と書いてやろうか」
「それはそれで異世界っぽいな」
メイが、ほんの少し笑った。
ゼイクは、その笑みから目を逸らした。
見てはいけない。
そう思った。
だが、もう見てしまった。
冬のように閉じていた鎧の内側へ、ほんのわずかに、春の空気が入り込んだ気がした。
ゼイクは踵を返した。
直角に。
いつものように。
「準備しろ」
白銀の鎧が、冷たい音を立てる。
「北の森へ向かう。時間厳守だ」
風が演習場を吹き抜けた。
雨上がりの土の匂いが、ゼイクの胸を締めつける。
森には、泥が待っている。
過去と同じ色をした泥が。
ゼイクは拳を握った。
今度こそ乱れない。
今度こそ守る。
そう自分に言い聞かせながら。
しかし、その決意の奥で、まだ形にならない問いが、かすかに息をし始めていた。
もし、完璧でなくても。
誰かとなら、守れるのだとしたら。
北の森へ向かう道で、ゼイクは先頭を歩いた。
王都の喧騒は背後へ遠ざかっていく。石畳はやがて土の道へ変わり、馬車の轍に溜まった雨水が、薄い空を映していた。風が草原を渡るたび、道端の草が低く波打ち、葉先の雫が光を弾いて落ちる。
ぽたり。
小さな水音。
それだけで、ゼイクの肩はわずかに固くなった。
聞くな。
ただの水滴だ。
雨ではない。
濁流ではない。
リリアの声でもない。
ゼイクは歩幅を一定に保った。右足。左足。呼吸。視線。周囲確認。泥の位置。草の倒れ方。風向き。森から漂う湿気。すべてを情報として処理すれば、記憶は入り込まない。
背後から、瞬の声がした。
「泥にすら礼儀正しく勝ってるな」
「聞こえている」
「褒めてる」
「貴様の褒め言葉は、なぜ毎回、人を微妙に不快にする」
「才能かな」
「不要な才能だ」
瞬は気楽に笑っている。
ゼイクは前を向いたまま、眉間にしわを寄せた。
この男は、緊張というものを知らないのか。
いや、違う。
先ほどメイを庇った時の目は、確かに鋭かった。怒りもあった。覚悟もあった。軽薄なだけの男ではない。
だからこそ、扱いに困る。
緩んでいるのに、芯がある。
雑なのに、譲らない場所がある。
ゼイクが最も嫌う種類の不規則さだった。
後ろを歩くメイは、瞬の袖をまだ掴んでいた。
指先だけ。
だが、行き先から逃げてはいない。
ゼイクは振り返らずに、その足音を聞いていた。メイの歩幅は小さい。足元の泥を避ける時、ほんの少し遅れる。怖さが靴音に出ている。
それでも、止まらない。
そのことが、ゼイクの胸に妙な引っかかりを残した。
やがて、森の入口が見えた。
北の森は、雨を吸って深く沈んでいた。太い幹の根元には濡れた苔が貼りつき、低い草は土の湿り気を含んで暗い緑に沈んでいる。枝葉の隙間から差し込む光は細く、地面にまだら模様を落としていた。
森へ一歩入った瞬間、空気が変わる。
湿った土の匂い。
濡れた葉の匂い。
遠くで水が滴る音。
ぴちょん。
ぴちょん。
ゼイクの喉が、ほんのわずかに詰まった。
膝の裏に、あの日の泥の感触が蘇る。
雨を吸った斜面。
滑る足。
伸ばした指。
届かなかった赤いリボン。
ゼイクは、剣の柄に触れた。
冷たい金属の感触が、今ここへ意識を戻す。
任務だ。
過去ではない。
現在の敵を見ろ。
「戻るか?」
瞬が背後で言った。
ゼイクは思わず振り返りかけた。
その問いは、自分に向けられたものではなかった。メイへ向けられたものだ。
メイは少し時間を置いて答えた。
「……大丈夫じゃないです」
正直な言葉だった。
ゼイクは眉をひそめる。
任務中に弱さを口にするな。
そう言おうとした。
しかし、メイは続けた。
「でも……進みます」
その一言で、ゼイクの舌が止まった。
大丈夫ではない。
だが進む。
それは、ゼイクが自分に許さなかった言い方だった。
自分はいつも、「問題ない」と言ってきた。
問題があっても。
息が苦しくても。
泥の匂いで胸が潰れそうでも。
問題ない、と言って立ってきた。
けれどメイは、大丈夫ではないと認めた上で歩こうとしている。
弱いのか。
それとも。
「任務中に感情の確認を挟むな。隊列が乱れる」
ゼイクは硬い声で言った。
それは、自分を守るための言葉でもあった。
瞬が言い返すより先に、メイが小さく言った。
「……乱れても、確認した方がいいこともあると思います」
ゼイクの足が止まりかけた。
葉から落ちた雫が、近くの石を叩く。
ぴちょん。
小さな音が、森の奥へ吸い込まれていく。
メイ自身も、自分の言葉に驚いたように口を閉じていた。瞬は目を丸くし、それから嬉しそうに笑う。
「今の、すごくよかった」
ゼイクは前を向いた。
「甘い。だが、記録しておく価値はある」
「今、ちょっと認めた?」
「記録すると言っただけだ」
「ゼイク語では認めたって意味だな」
「違う」
即座に否定した。
だが、否定しながらも、ゼイクは自分の胸の内側に生じた小さな揺れを消せなかった。
その時だった。
森の奥で、低い地鳴りが響いた。
ずずん。
地面が揺れる。
葉に残っていた水滴が一斉に震え、細かな雨のように落ちた。足元の水たまりに波紋が広がる。鳥の声が途切れ、森が息を止める。
ゼイクの手が剣の柄を握った。
「来る」
短く告げた直後、前方の木々が大きく揺れた。
幹と幹の間から、土と石でできた巨体が現れる。
土石ゴーレム。
人の背丈の三倍はある。雨を吸った泥が外殻のように固まり、岩の塊が関節となって重なっている。肩からは木の根が垂れ、胸の奥では赤黒い光が鈍く脈打っていた。
ゼイクは瞬時に情報を組み立てた。
胸部に疑似核。
脚部は泥と岩の複合構造。
重量は大きいが、可動は遅い。
正面から受ける。脚を崩す。姿勢を落とす。核を破壊する。
手順はできた。
「作戦通りに動く。私が前衛で注意を引く。瞬、貴様は右側面へ回り、関節部を――」
「殴れば倒れる?」
「最後まで聞け!」
森にゼイクの声が響いた。
瞬は、なぜか素直に頷いた。
「聞く。今度はちゃんと聞く」
ゼイクは一瞬だけ、言葉を止めた。
意外だった。
この男は、力任せに飛び出すと思っていた。
だが、今の目は真剣だった。
荒い。
雑だ。
しかし、聞こうとしている。
ゼイクは短く息を吸い、続けた。
「胸部の赤い核が弱点だ。だが正面から狙えば泥の外殻に阻まれる。足を崩し、姿勢を落とす。その後、核を狙う」
「了解」
「メイ、貴様は後方に下がれ」
メイは頷きかけた。
その時、ゴーレムの胸の光が強く脈打った。
赤黒い光が、湿った森の中で不気味に膨らむ。
しかし、メイの声がそれを止めた。
「……待って」
ゼイクは振り返る。
「何だ」
メイは白いアイガードの縁を押さえ、巨体を見上げていた。指先が震えている。顔色も悪い。けれど、その視線は胸ではなく、もっと上へ向いていた。
「胸じゃ……ないかもしれません」
ゼイクの眉が動く。
「根拠は」
「動く時、胸より先に……首の後ろの小さい石が光ります」
首の後ろ。
ゼイクは視線を走らせた。
木々の影に隠れ、泥と根に紛れた小さな石片。
確かに、巨体が一歩動くたび、胸の核よりわずかに早く、そこが淡く光っている。
胸部の光は大きい。
目立つ。
だからこそ、誘導の可能性がある。
ゼイクの作戦は、胸部核の破壊を前提としていた。
このまま進めれば、最短で終わる。
だが、もしメイの観察が正しいなら。
自分の作戦は初手から外れている。
ゼイクの指に力が入った。
作戦変更。
その四文字が、重く胸に落ちる。
手順を崩すことは、足場を失うことに似ていた。
あの日、泥に沈んだ足の感触が蘇る。
だが、ゴーレムは待たない。
巨大な腕が持ち上がる。
時間はない。
ゼイクは、低く言った。
「……作戦変更」
瞬が目を丸くする。
「おお」
「感動するな。状況に応じた修正だ」
「それを柔軟って言うんだぞ」
「黙れ。右へ回れ。私が脚を止める。貴様は首の後ろを狙え」
「了解」
瞬が地面を蹴った。
だが、その動きは想像よりも抑えられていた。地面を爆ぜさせるのではなく、風を縫うように回る。森を壊さない。メイを巻き込まない。必要な分だけ力を使っている。
ゼイクは正面へ踏み込んだ。
白銀の鎧が木漏れ日を弾く。
ゴーレムの腕が落ちる。
巨大な泥と岩の塊が、頭上から迫った。
ゼイクは逃げなかった。
剣を振る。
斬るのではない。
受け流す。
刃を岩の側面へ滑らせ、力の向きをずらす。重い腕がわずかに逸れ、地面を叩いた。
どごん。
濡れた土が爆ぜる。
黒い泥が跳ねた。
その一部が、ゼイクの胸当てに散った。
冷たい泥が、白銀の鎧に貼りつく。
ゼイクの呼吸が止まった。
ほんの一瞬。
本当に、わずかな時間。
けれど彼の中では、その一瞬が夏の雨へ変わった。
泥水。
リリアの肩から流れた赤。
沈むリボン。
ゼイクの指が、剣の柄を握り潰すほど強く締まる。
拭え。
汚れを落とせ。
乱れを消せ。
そう叫ぶ自分がいた。
だが、背後でメイの声がした。
「シュンさん、右から来ます!」
「了解!」
瞬が動く。
ゴーレムが向きを変える。
今、拭けば遅れる。
遅れれば、また失う。
ゼイクは泥を見た。
黒いしみ。
鎧を汚すもの。
だが、それは命ではない。
リリアではない。
ただの泥だ。
「……今は後だ」
ゼイクは低く言った。
布には触れなかった。
そのまま、もう一度踏み込む。
剣が脚部の泥と岩の継ぎ目を打つ。斬撃では崩れきらない。ならば角度を変える。足場を奪う。重心をずらす。
ゴーレムの膝にあたる岩が軋んだ。
「瞬!」
「見えた!」
瞬の声が、背後から降ってくる。
彼はゴーレムの背後へ回り込んでいた。木々の間を抜ける動きは荒いが、決定的なところで無駄がない。
メイが叫ぶ。
「強くしすぎないで!」
「了解!」
ゼイクは思わず目を見開いた。
その指示が通じるのか。
いや、この男に力加減を期待してよいのか。
瞬は拳を握った。
ゼイクの心臓が嫌な音を立てる。
だが、瞬は殴らなかった。
拳を止めた。
寸前で。
そして、指先だけで、首の後ろの小さな石片を弾いた。
ぱきん。
乾いた音。
あまりにも小さな音だった。
だが、森全体がその音を聞いたように静まり返った。
ゴーレムの胸の赤い光が、ふっと消える。
巨体が傾く。
泥と岩の関節が崩れ、体を支えていた力が抜けていった。ずずず、と重い音を立てながら、ゴーレムは膝をつき、やがてその場に崩れ落ちた。
土が沈む。
石が転がる。
胸の濁った石が、何の光もないまま地面へ落ちる。
静寂が戻った。
葉から落ちる水滴の音。
遠くの鳥の声。
風に揺れる草の音。
ゼイクは、剣を構えたまま動かなかった。
終わった。
作戦は成功した。
いや、違う。
最初の作戦は外れていた。
メイの観察で修正し、瞬の力加減で成立した。
自分一人では、胸部を狙っていた。
おそらく、外殻に阻まれ、余計な時間を使った。
その間に、何かが起きていたかもしれない。
ゼイクはメイを見た。
白いアイガードの少女は、まだ震えていた。だが、逃げてはいなかった。
「貴様の観察は正しかった」
ゼイクは言った。
メイの肩が跳ねる。
褒められたと理解するまで、少し時間がかかったようだった。
「……いえ、たまたまです」
「たまたまで戦場の要点は見抜けない」
ゼイクは硬い声で続けた。
「私は、胸部の光に惑わされた。貴様は違った。認める」
認める。
その言葉を口にした瞬間、ゼイク自身の胸にも奇妙な重みが落ちた。
他人を認めることは、自分の誤りを認めることでもある。
五年前の彼なら、そんなことは簡単だったかもしれない。
けれど今のゼイクには、それがひどく難しかった。
瞬が嬉しそうにメイを見た。
「すごいな、メイ」
「……そんな」
「すごい。俺とゼイクだけだったら、胸を殴って、たぶん大変なことになってた」
「貴様と一緒にするな」
ゼイクは即座に言った。
「私は胸部を斬ったあと、第二案へ移行する予定だった」
「第二案って?」
「泥を浴びても続行する」
「それ、案というか根性だな」
ゼイクは黙った。
否定できなかったからだ。
メイが、思わず小さく笑った。
その笑い声は、森の静けさの中で、本当に小さく響いた。
ゼイクは、反射的にその笑みを見た。
白いアイガード。
怯えの残る肩。
震えた指。
それでも、笑っている。
その笑みはリリアとは違う。
まったく違う。
けれど、ゼイクの中に閉じ込めていた空気を、ほんの少し動かした。
瞬はゴーレムの背後から顔を出した。
「どうだ、今の力加減」
ゼイクは泥のついた鎧のまま、厳しい顔で言った。
「及第点だ」
「やった。褒められた」
「及第点は褒め言葉ではない」
「ゼイク語では最大級の称賛だろ」
「違う」
瞬は満足そうだった。
ゼイクは、自分の胸当てを見下ろした。
泥がついている。
肩にも、胸にも、膝にも。
白銀は、もう白銀だけではなかった。
懐の布が、重く感じる。
拭え。
整えろ。
乱れを消せ。
そう命じる自分がいる。
だが、ゼイクは動かなかった。
メイが見ていた。
怯えながらも、逃げずに。
自分の言葉を届け、自分の観察を信じ、戦いを変えた少女が。
ゼイクは、懐に伸びかけた手を止めた。
「……任務中だ」
それだけ言った。
瞬は何も言わなかった。
珍しく、茶化さなかった。
メイも何も言わなかった。
その沈黙は、奇妙だった。
責めるものでも、笑うものでも、踏み込むものでもない。
ただ、そこにある沈黙。
ゼイクは、その沈黙に慣れていなかった。
冷たい沈黙なら知っている。
罰のような沈黙。
孤独のような沈黙。
だが、今の沈黙は違った。
泥がついても、誰も騒がない。
汚れても、世界は崩れない。
誰も死んでいない。
その事実が、ゼイクの胸にゆっくりと染み込んでくる。
「帰還後、報告書を作成する」
ゼイクは、いつもの言葉へ戻ろうとした。
「核の位置、作戦変更の理由、同行者の行動評価、周辺地形の状態を――」
「その前に飯だな」
瞬が言った。
ゼイクは振り返る。
「順序が逆だ」
「でも腹減っただろ」
「任務後の報告が先だ」
「メイ、温かいもの食べたいよな?」
メイは少し迷い、それから小さく頷いた。
「……温かいものは、少し食べたいです」
ゼイクは二人を見た。
黒髪の無礼な英雄。
白いアイガードの少女。
どちらも、ゼイクの手順書には存在しない種類の人間だった。
「私は任務報告を優先する」
「じゃあ報告してから飯だな」
「私は同行するとは言っていない」
「十分だけならどうだ?」
「なぜ十分という具体的な数字が出た」
「ゼイク、数字好きそうだから」
「雑な推測をするな」
瞬は真剣な顔で言った。
「十分あればスープは飲める」
「任務後の食事計画を、戦術会議のように扱うな」
「大事だぞ」
メイが、少しだけ笑った。
その笑いを聞いて、ゼイクは言葉を飲み込んだ。
そして、深く息を吐く。
「……任務報告後、十分だけなら同行してやる」
瞬の顔が明るくなる。
「それ、飯来るやつだ!」
「十分だ」
「食うの速そうだな」
「食事も規律だ」
「それはちょっとわかる」
メイの表情が、少しだけ和らいだ。
ゼイクは目を逸らした。
胸の奥が、まだ苦しい。
けれど、その苦しさは、いつもの窒息とは少し違っていた。
硬く閉じていた鎧の内側に、細い風が入ったような痛み。
冷たいのに、どこか息ができる痛み。
ゼイクは剣を鞘に収め、崩れたゴーレムへ近づいた。
核は沈黙している。
外殻も崩壊。
活動再開の兆候なし。
そう確認しようとした。
その時だった。
ぐぶり。
泥が鳴った。
ゼイクの足が止まる。
瞬も眉をひそめた。
「……今、鳴ったよな?」
崩れたはずの土石ゴーレムの残骸が、ゆっくりと動いた。
泥が、地面の上を這う。
岩の隙間から、黒い液体のようなものが滲み出し、砕けた石片を飲み込みながら、一か所へ集まり始める。
湿った森の匂いが変わった。
腐った水のような臭い。
あの日の濁流に似た、鼻の奥を刺す重い臭い。
ゼイクの視界が、一瞬だけ揺れた。
雨。
泥。
リリア。
赤いリボン。
彼の喉が、音もなく塞がる。
黒い泥が、ゆっくりと浮き上がった。
戦いは、まだ終わっていなかった。




