第20話:曲がらない剣は折れる、しなる枝は折れない 〜「汚点」とは、「生きた証を刻むペイント」である〜
北の森に、朝の光が差し込んでいた。
夜のあいだ木々の間に沈んでいた冷気は、まだ完全には消えていない。地面には濡れた落ち葉が幾重にも重なり、踏むたび、ぐしゅり、と湿った音を立てた。枝先には夜露が残り、陽が射すたびに小さな光の粒となって震えている。
鳥の声は少なかった。
森そのものが、昨夜の出来事をまだ覚えているようだった。泥の怪物が這い、浮かび、飲み込み、暴れた場所には、黒い染みがまだ残っている。土は湿っているだけではなく、どこか焦げた鉄のような、鼻の奥に残る臭いを放っていた。
ゼイクは、その染みの前に膝をついていた。
白銀の鎧は、昨夜の泥をおおまかに落としてある。だが、完全ではなかった。肩の継ぎ目には黒い汚れが入り込み、膝当ての端には乾いた泥が薄く残っている。
以前のゼイクなら、そこで歩みを止め、呼吸を乱し、布を取り出して何度でも磨いていただろう。
だが、今の彼は違った。
気づいていないわけではない。
むしろ、気づいているからこそ、指が何度か懐へ伸びかけていた。
それでも彼は、布を出さなかった。
「……活動痕跡は、昨夜の地点から北東へ伸びている」
ゼイクの声はいつも通り硬かった。
けれど、どこか少しだけ、角が丸くなっていた。
「地面の魔力の乱れも薄くなっている。少なくとも、この周辺に昨日と同規模の個体は確認できない」
瞬は、その横で木の実を見ていた。
赤い。
丸い。
いかにも食べられそうな光沢をしている。
「なあ、これ食えると思う?」
ゼイクの肩がぴくりと動いた。
「貴様は今、私の報告を聞いていたのか」
「聞いてた聞いてた。北東がどうとか、薄くなってるとか」
「ならば、なぜ木の実を食おうとする」
「朝飯が足りなかった」
「昨夜、干し肉を私の分まで食っただろう」
「ゼイクが食事も規律だとか言いながら、干し肉を一センチ幅に切ってたからだろ。見てるこっちが腹減ったんだよ」
「食材は均等に分けるべきだ」
「その均等の結果、俺の胃袋が不平等を訴えてる」
ゼイクは深く息を吐いた。
その息に、以前のような完全な拒絶はなかった。
呆れ。
苛立ち。
そして、ほんの少しだけ、慣れ。
メイは二人のやり取りを少し後ろで聞いていた。
白いアイガードが左目を覆っている。森の朝の光を受けて、その白い革がやわらかく光っていた。彼女の指は、いつものように瞬の袖の端に触れている。
強く握ってはいない。
けれど、まだ離してはいない。
怖さは残っている。
森も、泥も、騎士も、人の声も。
何も消えていない。
それでも、昨日と違うものが一つだけあった。
今は、一人ではない。
瞬が木の実をかじろうとした瞬間、ゼイクがそれを叩き落とした。
ぱしん。
赤い実が落ち葉の上に転がる。
「拾い食いをするな」
「今の速度、すごかったな。木の実相手に本気出すなよ」
「毒だった場合、貴様が腹痛を起こす。そうなると行軍速度がさらに落ちる」
「心配してくれてるのか?」
「行軍速度を心配している」
「照れるなって」
「照れていない!」
ゼイクの声が森に響いた。
木々の上で鳥が一羽、驚いたように飛び立つ。
メイは、ほんの少しだけ笑った。
以前なら、笑い声はすぐに喉の奥へ押し込んでいただろう。けれど今は、唇の端がほんの少し緩むままにしていた。
瞬はそれに気づいた。
けれど、何も言わなかった。
見つけた宝物を騒ぎ立てるようなことはしない。
彼は、この小さな笑みがどれほど壊れやすいものか、少しずつわかり始めていた。
「……では、帰還する」
ゼイクは立ち上がり、懐中時計を確認した。
「予定時刻より五十二分遅れている。原因は、瞬の拾い食い未遂と、昨夜の焚き火管理の杜撰さと、朝の移動開始前にメイへ水を渡す時間を取ったことだ」
メイの肩が小さく揺れた。
「す、すみません……」
ゼイクは、すぐに言った。
「謝罪は不要だ。水分補給は必要行為だ」
言い方は硬い。
けれど、責めてはいなかった。
メイは少しだけ目を瞬かせた。
瞬は、にやりと笑った。
「今の、普通に優しいじゃん」
「必要行為だと言った」
「ゼイク語で優しいって意味だな」
「違う」
「メイ、今のは覚えておくといい。ゼイクは優しさを全部“必要行為”って箱に詰めるタイプだ」
「箱……」
メイは困ったようにゼイクを見る。
ゼイクは兜の奥で眉間にしわを寄せた。
「勝手に分類するな」
だが、その声は以前ほど冷たくなかった。
三人は森の道を進み始めた。
ゼイクが先頭。
瞬がその少し後ろ。
メイは瞬の横に近い位置。
まだ完全に並んでいるわけではない。
でも、初めて出会った時のように遠くはなかった。
足元には濡れた落ち葉が敷き詰められている。枝の間から落ちる光が、三人の影を長く伸ばした。風が通るたび、葉が擦れ、ざわざわと低い音を立てる。
その音は、昨日より少しだけ穏やかに聞こえた。
王都へ戻る道が見えてきた頃だった。
風が止まった。
さっきまで葉を揺らしていた空気が、急に重く沈む。
鳥の声が途切れた。
虫の音も消えた。
森が、息を止めたようだった。
メイは足を止めた。
白いアイガードの下で、隠した左目が熱を持つような感覚がした。胸の奥がざわつく。昨日の泥の怪物とは違う。
もっと冷たい。
もっと静かで、もっと嫌なもの。
「……何か、います」
メイの声は細かった。
けれど、瞬とゼイクはすぐに止まった。
ゼイクが剣の柄に手をかける。
瞬はメイの前へ半歩出た。
「どこだ?」
メイは視線を森の奥へ向けた。
道の先。
倒れた木の根元。
湿った草むらの向こう。
そこに、黒いものがあった。
最初は、ただの影に見えた。
雨で濡れた土が、少し深く沈んでいるだけのようにも見えた。
けれど、それは動いた。
びちゃ。
湿った音が、静まり返った森に落ちた。
瞬の表情が変わる。
ゼイクが低く言った。
「……昨夜の個体とは違う」
それは、泥ではなかった。
泥よりも黒い。
水よりも重い。
油のように光り、影のように形を持たず、地面の上にべったりと広がっていた。
黒い液体。
いや、液体と呼ぶには、あまりにも不気味だった。
表面には波がない。風もないのに、内側からゆっくりと脈打っている。縁の部分が草に触れると、その草は音もなく黒く変色し、溶けるように崩れ、液体の中へ吸い込まれていった。
メイの背筋に冷たいものが走った。
「……草が」
瞬も見た。
黒い液体は、草を飲んだ。
次に、小さな石へ触れた。
石も沈んだ。
音はなかった。
砕ける音も、溶ける音も、燃える音もない。
ただ、そこにあったものが、何もなかったことにされるように消えた。
ゼイクが剣を抜いた。
「距離を取れ」
その声は低く、鋭かった。
瞬はメイを後ろへ下げた。
「メイ、俺の後ろに」
「はい……」
メイは袖を掴んだまま、半歩下がる。
だが、目は黒い液体から離せなかった。
それは怖い。
けれど、見なければいけないと思った。
自分が見つけたから。
自分の声が、昨日は届いたから。
ゼイクは黒い液体を観察した。
「移動速度は遅い。だが接触した物質を取り込む。粘性は高いが、内部に固形核は確認できない。斬撃は……」
彼は剣を構えた。
瞬が言った。
「試すのか?」
「試さねば判断できん」
「危なくないか?」
「だから私がやる」
その言葉に、メイの胸が小さく揺れた。
私がやる。
それは自己犠牲ではなかった。
でも、前に立つ者の言葉だった。
ゼイクは慎重に踏み込んだ。
足場を確認する。
泥を避ける。
距離を測る。
剣の間合いに入る。
そして、鋭く斬り払った。
銀の刃が、朝の光を受けて一瞬だけ白く光る。
黒い液体の表面を、剣が裂いた。
裂いた。
ように見えた。
だが次の瞬間、切れ目は何もなかったように閉じた。
それだけではない。
剣の先に、黒い液体がまとわりついていた。
じゅ、と嫌な音がした。
ゼイクの剣の先端が、わずかに曇る。
「……っ」
ゼイクは即座に引いた。
だが、黒い液体は剣を伝って這い上がろうとしていた。
瞬が叫ぶ。
「離せ!」
ゼイクは一瞬、動きを止めた。
剣。
騎士の証。
彼が握り続けてきたもの。
リリアを失った日から、二度と迷わないために握りしめてきたもの。
その剣を、黒い液体が侵していく。
ゼイクの指に力が入る。
「……まだ、使える」
「使えるとかじゃない! 飲まれるぞ!」
瞬が動こうとした。
しかし、黒い液体が反応した。
地面から細い触手のようなものが立ち上がり、瞬の足元へ伸びる。
「うわ、こっちも来た!」
瞬はメイを抱えるようにして横へ跳んだ。
地面に触れた触手は、落ち葉を無音で吸い込み、さらに太くなる。
メイの喉が引きつった。
「触れたものを……食べてる……?」
「最悪だな」
瞬が顔をしかめる。
「殴れない、斬れない、燃やせるかもわからない。しかも食って大きくなる。こういうの、俺の苦手分野だ」
ゼイクは剣を振った。
黒い液体を払おうとする。
だが、剣についたそれは離れない。
まるで、剣そのものを餌として認識しているようだった。
ゼイクの呼吸が乱れた。
「離れろ……!」
彼はさらに強く振る。
それでも取れない。
刃の銀が黒く侵されていく。
メイは、その姿を見て、胸が痛くなった。
敵が怖いのではない。
もちろん敵も怖い。
だが、それ以上に、ゼイクがまた過去の中へ落ちていくのが見えた。
剣を手放せない。
手順を手放せない。
完璧な騎士であるための形を、手放せない。
昨日、泥を拭わずにいられた。
でも、剣は違う。
そこには、ゼイクのもっと深い場所が結びついている。
「ゼイク!」
瞬が叫んだ。
「剣を捨てろ!」
ゼイクの顔が、兜の奥で強張った。
「騎士が、剣を捨てるなど――」
「今それ言ってる場合か!」
黒い液体が、剣の半ばまで這い上がった。
ゼイクの籠手に届こうとしている。
メイの胸が冷たくなる。
このままでは、腕まで飲まれる。
「ゼイクさん!」
メイも叫んだ。
ゼイクの目が一瞬だけメイへ向く。
白いアイガードの少女。
怖がりながら、それでも逃げずに見ている少女。
メイの声が震える。
「剣が、ゼイクさんを守っているんじゃありません!」
ゼイクの呼吸が止まった。
メイは続けた。
「ゼイクさんが、生きているから……剣を持てるんです!」
森の中に、その声が響いた。
風はまだ止まっている。
葉も揺れない。
黒い液体だけが、じわじわと上がってくる。
「剣を守って、ゼイクさんが飲まれたら……意味がないです!」
ゼイクの指が震えた。
騎士が剣を捨てる。
それは彼にとって、鎧を脱ぐよりも怖いことだった。
自分が自分でなくなる。
騎士でなくなる。
完璧でなくなる。
けれど。
――ゼイク、逃げて!
泥の中へ消えたリリアの声が、胸の奥でよみがえった。
彼女は、剣を守れとは言わなかった。
規律を守れとも言わなかった。
逃げて、と言った。
生きろ、と言った。
ゼイクの唇が、わずかに震えた。
そして。
彼は剣を手放した。
黒く侵された剣が、地面へ落ちる。
その瞬間、液体は獲物を得たように剣へ群がった。銀の刃が黒い中へ沈み、音もなく飲み込まれていく。
ゼイクは後ろへ跳んだ。
瞬がすぐにその腕を掴み、さらに引き寄せる。
「よし!」
「……私の剣が」
ゼイクの声は低かった。
空っぽだった。
剣を失った右手が、何かを探すように震えている。
瞬は、その震える手を見た。
そして、珍しく何も茶化さなかった。
「生きてる」
彼は短く言った。
ゼイクの肩が揺れる。
「剣は飲まれた。でも、お前は生きてる」
メイも頷いた。
「はい」
黒い液体は、剣を飲み込み終えると、さらに大きくなっていた。
ぞわり、と表面が膨らむ。
まるで次の獲物を探しているように、三人の方へ向き直った。
瞬は、メイを後ろに庇いながら言った。
「さて。斬れない。殴れない。剣は食われた。火も多分ダメっぽい。どうする、ゼイク」
ゼイクは、空の右手を見た。
剣はない。
いつもそこにあった重みがない。
その喪失感は、胸の中に風穴を開けるようだった。
けれど、不思議なことに。
その空いた場所へ、冷たい風だけではなく、別のものも入ってきた。
自由。
ほんの一瞬だけ、そんなものがあった。
手が空いている。
剣を握っていない。
ならば。
別のものを握れる。
ゼイクは、黒い液体を見た。
その脈動。
草や石を取り込む様子。
剣を飲み込んで膨らんだ体。
そして、足元の地面。
「……触れたものを飲み込む」
彼は呟いた。
「ならば、触れさせなければいい。いや、違う。触れさせるものを選べばいい」
瞬が目を細めた。
「お、何か思いついた顔だ」
ゼイクは視線を周囲へ走らせた。
木々。
濡れた蔦。
倒木。
地面の斜面。
水たまり。
そして、昨夜の雨で緩んだ土。
「瞬」
「おう」
「貴様、力加減はできるか」
「できる。最近ちょっと自信ついてきた」
「不安しかないが、今は貴様を使う」
「使うって言い方」
ゼイクは、空の右手を握りしめた。
「メイ」
「はい」
「奴の動く前兆を見ろ。膨らむ部分、沈む部分、どこへ伸びようとしているか」
メイは白いアイガードを押さえ、黒い液体を見た。
怖い。
その黒さは、人の悪意とは違う。
ただ、消す。
ただ、飲み込む。
そこに理由も感情もない。
だからこそ怖かった。
けれど、メイは目を逸らさなかった。
「……はい。見ます」
ゼイクは小さく頷いた。
「剣はない。だが、手順は作れる」
瞬が笑った。
「いいじゃん。剣なし騎士」
「黙れ。まだ騎士だ」
「そうだな」
瞬は、今度は茶化さず言った。
「剣なくても、ゼイクはゼイクだ」
ゼイクは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
そして、視線を前へ戻す。
黒い液体が、森の道を塞ぐように大きく広がっていた。
朝の光が、その表面に鈍く反射している。
風が戻る。
木々の葉がざわりと揺れた。
ゼイクは、剣のない右手を前へ出した。
「作戦を変更する」
その声には、迷いがあった。
けれど、止まってはいなかった。
「斬らない。殴らない。飲ませて、流す」
黒い液体が、再び動き出した。
黒い液体が、森の道を這った。
音はほとんどなかった。
ただ、触れた草が黒く沈み、落ち葉が輪郭を失い、小石が音もなく飲み込まれていく。森の地面に開いた影が、ゆっくりと広がっているようだった。
メイは息を詰めた。
白いアイガードの下で、隠された左目が熱を持つような感覚がある。右目だけで、その黒い液体の表面を見つめる。怖い。目を逸らしたい。けれど、逸らせば次にどこへ伸びるのかわからなくなる。
だから、見た。
黒い液体は、ただ広がっているわけではなかった。
表面に小さな泡が生まれる。
泡が集まる。
その集まった方へ、次の触手が伸びる。
昨日の泥の怪物と似ている。
けれど、もっと静かで、もっと悪質だった。
「右前です!」
メイが叫んだ。
その直後、黒い液体の一部が鞭のように伸びた。
瞬はメイを庇いながら横へ跳ぶ。
触手は地面を舐め、濡れた土を黒く染めた。
「うわ、ほんとに嫌なやつだな!」
瞬が顔をしかめる。
「触ったら終わり系、俺と相性悪すぎる!」
「叫ぶな。呼吸を乱すな」
ゼイクが低く言った。
だが、その声も完全には落ち着いていなかった。
剣のない右手。
空の掌。
その違和感が、まだ彼の全身を軋ませている。
だが、彼はもう止まっていなかった。
ゼイクは森の地形を見た。
右手側には、雨で削られた浅い溝があった。昨夜の雨水が流れた跡だ。落ち葉に隠れているが、その先は少し低くなっている。さらに奥には、川へ続く崖がある。
黒い液体は、触れたものを飲み込む。
飲み込めば大きくなる。
大きくなれば重くなる。
ならば、重くしたうえで、地面ごと流す。
剣で斬るのではない。
力で潰すのでもない。
相手の性質を使って、場所で倒す。
ゼイクは息を吸った。
「瞬。あの溝に沿って、地面を浅く割れ」
瞬が目を丸くした。
「地面を割る?」
「深くではない。浅く、長く。水路を作る。やりすぎれば森が崩れる」
「加減むずっ」
「できると言ったな」
「言った!」
瞬は一瞬だけ笑った。
「じゃあ、やる」
彼は地面に片膝をついた。
拳を握る。
いつものように叩き潰すためではない。
地面の下にある水の流れを、そっと起こすために。
メイは息を呑んだ。
瞬の指が、濡れた土に触れる。
どん、ではなかった。
とん。
本当に、小さな音だった。
けれど、地面の下で何かが走った。
ぴしり、と細い亀裂が伸びる。雨水を含んだ土が少しずつ崩れ、浅い溝が、黒い液体の進路から川の方へ続いていった。
ゼイクの目がわずかに見開かれる。
「……やればできるではないか」
「もっと褒めていいぞ」
「調子に乗るな」
それでも、ゼイクの声には驚きが混じっていた。
瞬は、笑いながらも黒い液体から目を離さなかった。
「次は?」
「餌だ」
「餌?」
ゼイクは周囲を見回した。
落ち葉、枝、倒木。
そして、自分の背に掛かっていた白いマント。
純白の騎士の証。
雨にも泥にも触れないよう、いつも丁寧に扱ってきたもの。
その端に、昨日の泥がわずかについている。
ゼイクの手が、一瞬止まった。
だが、今度は迷わなかった。
彼はマントを外した。
白い布が朝の光に揺れる。
瞬が思わず声を漏らした。
「おお……それ使うのか」
「布は広がる。黒い液体が飲み込みやすい。目印にもなる」
ゼイクの声は硬かった。
けれど、その硬さの奥に、何かを手放す覚悟があった。
メイは、その白いマントを見た。
美しい布だった。
汚れを恐れていたゼイクの象徴のようなもの。
それを、彼は自分の手で黒い液体へ投げようとしている。
メイの胸が熱くなった。
「ゼイクさん……」
ゼイクは振り返らない。
「メイ。動きの前兆を見ろ。私が投げた後、奴がどこへ伸びるかを教えろ」
「……はい!」
ゼイクはマントを丸め、溝の少し先へ投げた。
白い布が空中で広がる。
朝の光を受けて、一瞬だけ翼のように見えた。
それが地面へ落ちる。
黒い液体が反応した。
表面全体に泡が走る。
「来ます! 全部、マントの方へ!」
黒い液体が、白いマントへ向かって一気に伸びた。
それまでの緩慢な動きが嘘のようだった。
まるで白という色そのものを汚したいかのように、黒い影が地面を滑る。マントに触れた瞬間、じゅ、と嫌な音がした。
白が黒に染まる。
布が飲まれていく。
ゼイクの頬が、かすかに引きつった。
だが、目を逸らさなかった。
「瞬!」
「おう!」
瞬が、もう一度地面へ指を置いた。
今度は、黒い液体の背後。
逃げ道を狭めるように。
とん。
亀裂が走る。
溝が広がる。
雨水が集まり始めた。
黒い液体はマントを飲み込み、さらに膨らんだ。質量が増えたせいか、動きが鈍る。地面へ深く沈み、濡れた土ごとずるずると滑り始める。
ゼイクが叫ぶ。
「今だ! 左へ寄せろ!」
瞬は近くの倒木を蹴った。
ただし、蹴り飛ばすのではない。
地面を転がす。
倒木は黒い液体の手前を横切り、液体はそれに反応して飲み込もうとする。
「左、泡が大きいです!」
メイの声が飛ぶ。
ゼイクは迷わず動いた。
剣はない。
代わりに、彼は盾を地面へ突き立てた。
黒い液体には触れない。
触れそうで触れない位置。
盾の縁で土を削り、溝の向きを微調整する。
泥が跳ね、鎧にかかる。
彼は拭わない。
「流れろ……!」
黒い液体は、飲み込んだ倒木とマントの重みでさらに沈み込んだ。
瞬が地面を軽く叩く。
ゼイクが溝を削る。
メイが泡の集まる場所を叫ぶ。
三人の動きは、まだ完璧ではなかった。
瞬は時々強すぎる。
ゼイクは時々細かすぎる。
メイの声はまだ震えている。
それでも、噛み合っていた。
完璧ではない。
だからこそ、折れなかった。
黒い液体の下の土が、ついに崩れた。
ずるり。
大きな黒い塊が、溝へ滑り込む。
雨水と泥と一緒に流れ始める。
黒い液体は抵抗するように触手を伸ばした。
木の根に絡む。
石に絡む。
地面に爪を立てるように広がる。
「止まります!」
メイが叫んだ。
瞬が前へ出ようとする。
だが、ゼイクが先に動いた。
彼は盾を捨てた。
「ゼイク!」
瞬の声が響く。
盾は黒い液体の触手のすぐ前へ落ちた。
触手が反応する。
獲物を得たように盾へ絡みつく。
その一瞬。
黒い液体の本体から、木の根を掴んでいた力が抜けた。
「今だ!」
ゼイクが叫ぶ。
瞬は地面を叩いた。
今度は、少しだけ強く。
どん。
森の地面が鳴った。
木々が揺れ、鳥が一斉に飛び立つ。
だが、崩れたのは黒い液体の足元だけだった。
土砂が流れる。
黒い液体が、飲み込んだ剣とマントと盾を抱えたまま、一気に下へ滑った。
その先には、雨水で増えた川があった。
川は、白い泡を立てて流れている。
黒い液体は最後に大きく脈打った。
まるで何かを叫ぶように、表面の泡が一斉に膨らむ。
だが、声はなかった。
次の瞬間。
どぷん。
重い音を立てて、黒い液体は川へ落ちた。
水が黒く染まる。
しかし、川の流れは速かった。
黒い塊は形を保とうとしたが、飲み込んだ木と土と盾の重みで沈み、激しい流れに引き裂かれていく。
黒い膜が薄く伸びる。
ちぎれる。
水に揉まれ、石にぶつかり、少しずつ小さくなっていく。
やがて、それは川の濁りの中へ消えた。
森に、静けさが戻った。
水の音だけが残っていた。
ざああ、と、川が流れている。
風が、止まっていた葉を揺らし始めた。
メイは、その場に膝をつきそうになった。
瞬がすぐに気づく。
「大丈夫か?」
メイは小さく頷いた。
「……大丈夫、じゃないです」
そして、少しだけ息を吐いた。
「でも……終わりました」
瞬は笑った。
「うん。終わった」
ゼイクは、川を見ていた。
右手は空。
腰に剣はない。
背にマントもない。
盾もない。
白銀の鎧は泥だらけで、膝には土がつき、肩には黒いしみが残っている。
騎士としての形だけを見れば、ひどい姿だった。
だが、ゼイクは立っていた。
生きていた。
瞬とメイの前に。
そして、誰も失っていなかった。
メイは、静かに言った。
「ゼイクさん」
ゼイクが振り返る。
メイは、少し迷ってから続けた。
「剣がなくても、ゼイクさんは騎士でした」
ゼイクの瞳が揺れた。
その言葉は、彼の胸の一番深いところへ届いた。
剣を失えば騎士ではない。
鎧が汚れれば騎士ではない。
規律を乱せば守れない。
そう思ってきた。
そう思わなければ、リリアを失った自分を許せなかった。
だが今、剣はない。
マントもない。
盾もない。
完璧な姿は崩れた。
それでも、守れた。
瞬も、メイも、自分も。
ゼイクは、ゆっくりと息を吐いた。
「……私は」
言葉が途切れる。
彼は一度、川を見た。
その流れの向こうに、泥に沈んだリリアの記憶があった。
だが、その記憶は今、少しだけ違って見えた。
あの日、彼女はゼイクに何を残したかったのか。
完璧であれ、ではない。
剣を握れ、でもない。
泥を恐れるな。
生きろ。
そして、誰かを守れ。
そのためなら、汚れてもいい。
乱れてもいい。
笑われてもいい。
ゼイクは目を閉じた。
「リリア」
その名を、小さく呼んだ。
風が吹いた。
濡れた葉が擦れ、川の上を渡っていく。
まるで誰かが笑ったように、木漏れ日が水面で揺れた。
瞬は、珍しく黙っていた。
メイも何も言わなかった。
その沈黙は、悲しいだけではなかった。
別れを置くための、静かな時間だった。
やがて、ゼイクは目を開けた。
「帰還する」
声はまだ硬かった。
でも、どこか軽かった。
「任務は完了。敵性存在は川へ流した。詳細報告は帰還後に作成する」
瞬が片手を上げた。
「はい、質問」
「何だ」
「剣と盾とマント、なくなったけど大丈夫か?」
ゼイクは一瞬、沈黙した。
それから、低く言った。
「大丈夫ではない」
「正直だ」
「だが、私が生きている」
その言葉に、メイは小さく目を見開いた。
ゼイク自身も、自分で言って少し驚いたようだった。
しかし、取り消さなかった。
「装備は失った。だが、私は生きている。ならば、また整えればいい」
瞬が笑う。
「いいじゃん」
ゼイクは、そこで瞬を見た。
泥だらけの男。
規律の外から来て、すべてを乱し、それでもなぜか人を前へ進ませる男。
「貴様は」
「ん?」
「……不快なほど、雑だ」
「褒めてる?」
「褒めていない」
ゼイクは続けた。
「だが、雑でなければ間に合わないこともあると、今日だけは認めてやる」
瞬の顔がぱっと明るくなった。
「最大級の褒め言葉きた!」
「だから褒めていない!」
メイは思わず笑った。
今度は、はっきりと。
小さく、短く。
でも確かに、声になった笑いだった。
瞬はそれを見て、胸の奥が温かくなった。
ゼイクも、その笑い声に一瞬だけ視線を向けた。
白いアイガードの少女が、森の中で笑っている。
昨日まで、恐怖で瞬の袖を掴んでいた少女が。
まだ怖いまま。
まだ傷を抱えたまま。
それでも、笑っている。
ゼイクは、少しだけ目を細めた。
「……帰るぞ」
彼は踵を返した。
しかし、いつものような完璧な直角ではなかった。
ほんの少しだけ、角が丸かった。
瞬はそれを見逃さなかった。
「お、歩き方が人間っぽくなった」
「貴様は本当に余計なことしか言わんな」
「成長したって意味だ」
「その言葉を貴様から受け取ると、なぜか屈辱に聞こえる」
三人は森を出た。
王都へ戻る道には、雨上がりの光が溢れていた。草は風に揺れ、道端の水たまりには青空が映っている。遠くに城壁が見えた。白い壁は朝日に照らされ、昨日より少しだけ近く感じられた。
メイは瞬の袖を掴んでいた。
けれど、その指先の力は、以前よりさらに弱くなっていた。
必要なら離せる。
そう思えるくらいには。
瞬はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
ゼイクは前を歩いている。
剣も盾もマントもない。
泥だらけの白銀鎧だけ。
それでも、背中は以前より少し広く見えた。
完璧だからではない。
不完全でも歩いているからだった。
王都の門が近づく頃、瞬はふと足を止めた。
「なあ、ゼイク」
「何だ」
「その鎧、まだ泥ついてるな」
「見ればわかる」
「ちょっとこっち向いて」
「なぜだ」
ゼイクが警戒しながら振り返った瞬間。
瞬は、どこからか拾っていた白い布の切れ端を取り出した。
いや、白かった布だった。
正確には、さっき黒い液体に飲まれず、川辺の枝に引っかかっていたゼイクの純白マントの端切れだった。
瞬はそれを見つめる。
そして、あろうことか。
自分の泥だらけの顔を、ごしごし拭いた。
「……」
ゼイクの動きが止まった。
メイも固まった。
瞬は満足げに言った。
「お、意外と拭ける」
次の瞬間。
森よりも、黒い液体よりも、ゴーレムよりも恐ろしい声が響いた。
「貴様あああああああああああああああっ!」
ゼイクが走った。
剣はない。
盾もない。
マントもない。
だが、怒りだけで十分だった。
瞬は笑いながら逃げ出した。
「いや、せっかく残ってたから有効活用を!」
「それは私のマントだ!」
「もう端切れだろ!」
「端切れでも私のものだ!」
「泥ついてたし!」
「貴様の顔の泥よりは清潔だった!」
二人は王都へ向かう道を走っていった。
瞬は逃げる。
ゼイクは追う。
白銀の鎧を泥まみれにした騎士が、子供のように本気で怒って走っている。
その姿は、完璧な騎士とは程遠かった。
だが、メイにはなぜか、今までで一番人間らしく見えた。
彼女は道の途中で立ち止まり、二人を見ていた。
風が吹く。
白いアイガードの縁を、朝の光が撫でる。
胸の奥が、少しだけ軽かった。
やがて、前を走っていた瞬が石に足を引っかけた。
「あ」
短い声。
そのまま、彼は見事に前のめりに転んだ。
べしゃ。
また泥に突っ込んだ。
ゼイクはその目前で止まろうとしたが、止まりきれず、足を滑らせた。
がしゃん。
白銀鎧の騎士も、見事に泥の上へ倒れた。
沈黙。
道端の草が、風に揺れる。
メイは目を見開いた。
瞬が泥の中から顔を上げる。
ゼイクも、泥だらけの兜を上げる。
二人はしばらく見つめ合った。
そして。
ゼイクが、笑った。
最初は、息が漏れただけだった。
「……ふ」
それから、肩が小さく震える。
「ふ……は」
自分でも驚いているような顔だった。
まるで、長い間錆びついていた扉が、ぎい、と音を立てて少しだけ開いたような笑い。
「はは……」
瞬が目を丸くした。
「ゼイク、笑った?」
ゼイクは笑いを止めようとした。
だが、止まらなかった。
泥まみれのまま、彼は空を見上げた。
青い空。
雲。
風。
リリアが好きだった空。
「……十年ぶりだ」
小さく、ゼイクは言った。
瞬の表情が変わる。
メイも、静かに息を呑んだ。
ゼイクは、自分の泥だらけの手を見た。
剣はない。
盾もない。
マントもない。
鎧は汚れている。
予定は遅れた。
報告書もまだ書いていない。
完璧ではない。
何一つ、完璧ではない。
それなのに、誰も死んでいない。
自分も生きている。
そして、笑っている。
「……リリア」
彼は、空へ向かって小さく呟いた。
「私は、まだ少し、不格好に生きているらしい」
風が吹いた。
道端の草が波のように揺れる。
木漏れ日が、泥の上で淡く光った。
まるで遠くで誰かが、仕方ないなと笑ったようだった。
瞬は立ち上がり、泥を払いながら言った。
「じゃあ、帰ったら飯だな」
ゼイクは泥だらけのまま、瞬を睨んだ。
「その前に報告だ」
「まだ言うか」
「当然だ。任務報告は必要だ」
メイが、少しだけ微笑んで言った。
「でも、その後は……温かいものを食べませんか」
ゼイクは、メイを見た。
白いアイガードの少女。
怖がりながらも声を出し、自分の剣を手放させ、自分を泥の中から引き戻した少女。
彼は、短く息を吐いた。
「……必要行為だな」
瞬がにやりと笑う。
「出た。ゼイク式の優しさ」
「黙れ」
「じゃあ決まりだ。報告して、飯」
「順序は守れ」
「はいはい」
三人は、王都へ歩き出した。
瞬は泥だらけ。
ゼイクも泥だらけ。
メイは白いアイガードをつけたまま、その少し後ろを歩いている。
けれど、もうただ追いかけているだけではなかった。
同じ道を、自分の足で歩いていた。
王都の城壁が近づく。
その向こうには、まだ噂も視線もある。
メイの不安も、ゼイクの過去も、瞬の無自覚な規格外さも、消えたわけではない。
けれど、北の森で一つのことが変わった。
完璧でなくても、守れる。
汚れても、歩ける。
怖いままでも、声は届く。
それを、三人は知った。
風が草を揺らした。
濡れた葉が光を返し、遠くで鳥が鳴いた。
その音は、ゼイクの中に長く閉じ込められていた時間が、少しだけ動き出した合図のようだった。
白銀の騎士は、もう完璧なままではいられなかった。
けれど、不思議なことに。
その背中は、昨日よりずっと強く見えた。




